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ピーテルに消えた雨 Ⅰ
ピーテルで Ⅰ
しおりを挟むレイラとの初めての観劇から二週間が経とうとしていた。
ミハイルは相変わらず父から引き継ぐ仕事が忙しく、慌ただしい日々を過ごしていたが、週に一度はレイラの元を訪ねて勉強の進み具合を見ていた。
レイラは勤勉で、いつも明るくミハイルを出迎える。
その笑顔は一週間の疲れをも吹き飛ばしてくれるようで、この状況にはなんの問題もないはずだった。
しかしミハイルにはひとつ、レイラに後ろめたい思いがあったのだ。
陽も落ち、ピーテルが賑わう雑踏が開けられた窓から聞こえる。
ミハイルは、そんな雑踏など全く気にせず懸命に自習をこなす小さな背中に恐る恐る声を掛ける。
「レイラ」
「はい。なんですか」
「……キリル・シュビンって、覚えてる?」
「あー、この前観劇で会った方ですか? 誰だっけな……」
「そう。そいつが……」と言いかけて、ミハイルは口を閉じてしまう。そして、唇を舐めながら「その人がね」とぎこちなく微笑んだ。
「ん? その方がどうしたんですか……?」とレイラが振り向いても、ミハイルは暖炉を眺めたまま口を開こうとしない。
「レイラのこと、教えても、いい? 仲良く、なりたがっていて」
その言葉に目を見開き、一瞬固まるレイラ。
その雰囲気に、完璧なまでに他愛ない会話を演出出来ている可能性はないことを悟った。苦虫を噛み潰したような表情になっていない事だけミハイルは祈った。
「んー。キリルさんでしょう……」とレイラは顔をしかめ首を傾げ、しばらくしてやっとキリルを思い出したように「あぁ! はい。ぜひ」と目を細めた。
「まぁ手紙が届くと思う。きっと良い字の練習になるよ。少し能天気だけど、悪いやつではないから」
「はい」
レイラの満面の笑みにミハイルは思わず頭を抱えそうになったが、かろうじてその手を止める。
そしてひと仕事を終えたようにひとつため息をついた。
レイラは何を思っているのか、すぐに勉強にとりかかる。
紙越しに机と触れる鉛筆の音を背に、疲れていたミハイルはそのまま眠りに落ちていく。
「ミハイル? ね、これ……なんだけど……」
そう言いかけ時、レイラは静かな寝息に気付き、ふと手を止めた。
そして音を立てないようゆっくりと立ち上がると、傍にあった青いブランケットを手に取り、立ち尽くしたままその寝顔を見つめた。
本来ならば、出会い会話をすることさえ許されない人の無防備な姿は、レイラを複雑な気持ちにさせる。
しいて言うのならば
「愛おしい」
この言葉が一番この気持ちに近いのだろうか。
しかしそれは純粋や崇高なものではない。一生隠し通していかなければならない、秘密めいた、高揚感さえ抱く不思議な感情であった。
レイラはそれを、誰だって自分の立場でミハイルのような人と出会ったらこう思ってしまうに違いない、と自分を無理やり納得させ、人知れず唇を噛んだ。
レイラは知っている。
彼はこのアパートに泊まることは決してない。
それはきっと必ず帰らなければならない自分の家があるからだろう。
それが何を意味するのか。答えを出すことをせず、レイラは手に持つブランケットを震える手で広げ、そっとミハイルに掛けた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その翌日、キリルは意気揚々とミハイルの職場を訪ねる。
「ミハイルさん! どうでした?」
「もっと静かに入れないの?」
「ちょっとイライラしないでくださいよ」
後ろ手で執務室の扉を閉め、ミハイルの前で無邪気に笑うキリルに、この二人のシビアな関係性をミハイルはすっかり忘れてしまった。
「一応伝えておいたよ」
「お!」
「名前伝えたら、一応覚えていたようだった」
「おー!」
「手紙のやり取りくらいならいいんじゃない?」
「やったー!」
「これ住所。変なことしたら即警察だから」
レイラの住所が書かれた紙切れ片手に舞い上がるキリル。それを横目に先ほど父から託された事業計画書を捲るが、正直文字など頭に入らなかった。
普段卒なくこなせるはずの業務が滞るほど、ミハイルはこの出会いに嫌悪感を抱かずにはいられなかったのだ。
行き場のない苛立ちがもどかしく、キリルとの本来の関係性に戻すために「で、あれは……?」と冷静を取り繕って吐き出す。
「あっ、それはですね」
舞い上がっていたキリルは一転神妙なな表情を取り繕い、ミハイルに顔を近づけ小声でひと言。
「3日後に決まります」
「そう……時計台の前に僕はいるよ」
「俺は今回は遠慮しておきます。父が嗅ぎ回ってるので」
「うん、それでいいよ。いつもありがとう」
「ミハイルさんもよくやりますよね。こんなの博打みたいなものでしょうに」
「こればっかりはまぁ、昔の自分を助けてるみたいなものだよ」
「ふーん」
事業計画書を真剣に読んでいる振りをしながら早口で返すミハイルをキリルは気にもせず、ソファーにふんぞり返り、住所を何度も読み返している。
それもそうだ。それはそれは美しいブロンドのご令嬢とお近付きになれるチャンスなのだ。彼の頭は今、夢の花畑で覆い尽くされている。
目を閉じれば、あの純白のドレスをまとった令嬢が目を細めて笑う場面が思い起こされるようだ。
自然と緩んでいく頬に、キリルの妄想は止まらない。
「ここから近いじゃないですかー。ミハイルさんの家より近い。でも家に行くのは紳士的じゃないからなー。少しずつ心の壁を取り払ってーー」
その様子を妙に腹立たしく思ったミハイルは「用は済んだ?」と書類から顔を上げる。
「え?」
そして妙に納得出来ないキリルを半ば追い出すような形で執務室から出した。
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