ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

赦し Ⅱ

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 レイラの住まうアパートからほど近い場所に建つミハイル・ガーリンの邸宅。
 皆寝静まった真夜中、ミハイルは娘が眠る小さなベッドの前で立ちつくしていた。

「バンカ……」
 声ともいえない掠れ声で、優しくそっと呟く。

 来月1歳を迎えるミハイルとイネッサの娘。
 どことなく自分と似ている顔に胸が苦しくなる。
 今自分がしている行いは本当に正しい事なのか、神に恥じない心を持っているのか、時々分からなくなる事も増えていった。
 そういう時は決まってバンカの寝顔を見て自分を落ち着けていた。

「ミハイル……」
 ふと自分を呼ぶ声に肩を震わせる。
「あ、あぁ、イネッサか」
「帰っていたんですね」
 イネッサの声はどこか素っ気なく、怒っているようにも感じた。

「今日も仕事終わりあの娘の所にいたのですか?」
「……いいや、今日は教会にいた」
「そう、ですか」

「もうすぐ、マースレニツァですね」
「そうだな」
「その期間は食事が変わるので覚えておいてください」
「分かった」
「あの、何かお悩みでも?」
「特に何も無いよ」
「そうですか。では、私はもう休むので」
「ああ、お休み」

 イネッサはミハイルを部屋に残し、後ろ手で扉を閉め、虚しさに震える呼吸を整えた。

 彼はきっと教会になど行っていない。絶対にあの娘の所へ行っていたに違いない。
 彼は妻である私に嘘をついた。
 ーー何故かそう直感した。

 ミハイルはバンカの部屋を訪ねることはあっても、イネッサの部屋を訪ねることはない。
 それは出会った当初からそうだった。
 不自由な思いをした事はないし、気遣いも優しさもあるが、そのほとんどが義務的な行いに見えた。

 彼の中で自分の優先順位が高くない事は分かっていたが、それは誰に対してもそうだと思っていた。

 信仰を重んじ、確固たる自分の思想があり、それに基づいて行動するミハイルは、傍から見れば慈悲深く見えるかもしれないが、そばに居る者はどこか物足りなく感じることもあるだろう。
 誰に対しても優しさを忘れないが、誰に対しても心を開くことは無いーー。
 ミハイルが心を許すのは神だけ。
 そうでは、無かったのだろうか。

 イネッサは頭を抱えながら寝室まで向かう。
 ミハイルが神の道から逸れないようにしなければーー。
 悪魔の誘惑があるのなら、そこから救い出すのは妻の役目だ、と。
 そう思いたいイネッサがいるのに、それは間違いだと思わせるミハイルの表情たちが頭から離れなかった。





 その日ミハイルはレイラのアパートの建物前までは行った。
 しかし、どうしても足が進まなかった。
 レイラの表情や仕草、振り返った時の笑顔が脳裏に浮かび離れてくれず、そのもどかしさに居心地の悪さを感じていた。
 ずっと顔を見たくて堪らないのに、そんな自分を恐ろしく感じたのだ。
 はやる胸を抑えながら急いで階段を上るはずのいつもの足は、重い鉛が付けられたかのように動かない。

 その日、ミハイルはレイラを傷つけると分かっていて、そのままアパートに背を向けた。
 そして、教会へと駆けた。

 陽の光も消え、星の光さえ届かない教会の中はミハイルの頭を冷やした。
 初心を思い出せと自分に言い聞かせる。
 自分の生活の全てはこのまま進んでいくのだと。
 誰が何を言おうと、自分が何を思おうと、神が定めた道から逸れてはいけないと。
 娘だーー娘と同じ。
 バンカと重なった。もしバンカがこのような境遇に置かれていたらと思うといても経ってもいられなかった。
 それはきっと慈悲心だ。
 そうだーー深い慈悲心をレイラに抱いたのだ。

 そう自らを納得させたあとミハイルは邸宅に戻り、娘の顔を見るのだった。
 









 予定していた日よりもミハイルは2日遅れでレイラのアパートを訪ねた。
 「本当にごめん」と謝れば「そんな! 気にしないでください」とレイラは慌てて微笑む。

 その日はナターシャ夫人のレッスンもあったから、レイラはいつもよりも着飾っていた。
 ナターシャ夫人と会った日は決まって機嫌がいいはずのレイラ。
 しかし、その表情は暗く、笑顔もぎこちない事にミハイルはふと、何か良くない事があったのではと心配になった。

「どうしたの?」
 ミハイルは黒いコートに付いた雪を払い、ソファーにかけながらそうレイラに声をかけた。
 するとレイラは、ミハイルに背を向けたまま「来れなくなった、みたいで。家族が」と言う。

「え? この間……言ってた?」
「はい、何か忙しいみたいで。マースレニツァ、行けなくなっちゃいました」

 レイラはどんな顔を彼に向ければいいのか分からなかった。
 酷く落ち込んでいることは確かだが、それをミハイルに悟られたくはなかった。
 僅かに俯き眉を寄せたあと、意を決して振り向き、笑顔で顔を上げた。
「ーーあのでも」

 しかし、レイラはそのあとの言葉に詰まってしまった。
 ミハイルと真っ直ぐに視線が絡み合ったまま、解けてくれなかったからだ。
 ミハイルは驚いているようにも、どこか安堵しているようにも見える。

「ミハイル?」
「あ、あぁ、ごめん」
 手が止まっていたミハイルはレイラと向き合った。
 そして、僅かな震えを隠すように自らの手を後ろに回し、いつものように余裕げに笑みを浮かべる。

「4日後だったら……空いてるから一緒に外散策する?」
「えっ……いいん、ですか?」
「もちろん。ただ、俺は正教会だからその期間は肉が食べられなくて、卵とか牛乳とかチーズばっかり食べていると思うけど……レイラは好きな物沢山食べていいから」
「チーズも卵も牛乳も大好きです。一緒に食べましょう」
「……ありがとう」
「こちらこそ……ありがとうございます」
「うん、俺もあまり回った事ないけど、ピーテルのマースレニツァ案内するよ」

 爽やかに言いきれた自分に安堵したミハイルはレイラに背を向け、平然とした顔でリビングに佇むレイラの勉強机の上に教材を並べ始めた。
 その表情と反して、彼の心は暖かな陽の光が差したように浮き足立っている。
 そして、シャツの袖口を捲りあげながら、満足気に笑って振り向いた。
「よし、レイラ。じゃあ始めよーーう」
 しかしその瞳に映った光景に戸惑い、焦り、そしてすぐにレイラに駆け寄った。

「レイラごめん、泣いてる? ごめ本当にーー」
「いえ、違うんです」

 酷く焦るミハイルの声を遮るように、レイラは涙ながらに笑った。
 目の前の彼がぼやけて滲んで見えなくなる感覚が凄く苦しいのに、でもどうしようもないくらい嬉しくもあった。

 レイラの笑顔に背中をさするミハイルの手は不意に止まる。
 そしてレイラは無意識にミハイルから一歩距離をとり、手の甲で涙を拭った。

「行けないと、思ってたから。私なんて……行けないって、ずっと……思ってたから。一人で、また見てるものだと……」
 そしてまた溢れる涙と嗚咽に、それを目の前で見ていたミハイルは呆然と立ち尽くしてしまった。

 その涙にどれだけの不安と孤独がつまっていたのだろうか。
 その涙に共感できる自分がいるのに。
 ーーあぁ、あの日、どうして行けなかったのだろう。

「レ、レイラ……」
「嬉しくて」

 ーーあまりにも綺麗で。
 嬉しそうに泣く目の前の彼女が、あまりにも美しくて、抱き締めてやりたくて、ミハイルは立ち尽くしていた。




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