19 / 28
ピーテルに消えた雨 Ⅰ
赦し Ⅱ
しおりを挟むレイラの住まうアパートからほど近い場所に建つミハイル・ガーリンの邸宅。
皆寝静まった真夜中、ミハイルは娘が眠る小さなベッドの前で立ちつくしていた。
「バンカ……」
声ともいえない掠れ声で、優しくそっと呟く。
来月1歳を迎えるミハイルとイネッサの娘。
どことなく自分と似ている顔に胸が苦しくなる。
今自分がしている行いは本当に正しい事なのか、神に恥じない心を持っているのか、時々分からなくなる事も増えていった。
そういう時は決まってバンカの寝顔を見て自分を落ち着けていた。
「ミハイル……」
ふと自分を呼ぶ声に肩を震わせる。
「あ、あぁ、イネッサか」
「帰っていたんですね」
イネッサの声はどこか素っ気なく、怒っているようにも感じた。
「今日も仕事終わりあの娘の所にいたのですか?」
「……いいや、今日は教会にいた」
「そう、ですか」
「もうすぐ、マースレニツァですね」
「そうだな」
「その期間は食事が変わるので覚えておいてください」
「分かった」
「あの、何かお悩みでも?」
「特に何も無いよ」
「そうですか。では、私はもう休むので」
「ああ、お休み」
イネッサはミハイルを部屋に残し、後ろ手で扉を閉め、虚しさに震える呼吸を整えた。
彼はきっと教会になど行っていない。絶対にあの娘の所へ行っていたに違いない。
彼は妻である私に嘘をついた。
ーー何故かそう直感した。
ミハイルはバンカの部屋を訪ねることはあっても、イネッサの部屋を訪ねることはない。
それは出会った当初からそうだった。
不自由な思いをした事はないし、気遣いも優しさもあるが、そのほとんどが義務的な行いに見えた。
彼の中で自分の優先順位が高くない事は分かっていたが、それは誰に対してもそうだと思っていた。
信仰を重んじ、確固たる自分の思想があり、それに基づいて行動するミハイルは、傍から見れば慈悲深く見えるかもしれないが、そばに居る者はどこか物足りなく感じることもあるだろう。
誰に対しても優しさを忘れないが、誰に対しても心を開くことは無いーー。
ミハイルが心を許すのは神だけ。
そうでは、無かったのだろうか。
イネッサは頭を抱えながら寝室まで向かう。
ミハイルが神の道から逸れないようにしなければーー。
悪魔の誘惑があるのなら、そこから救い出すのは妻の役目だ、と。
そう思いたいイネッサがいるのに、それは間違いだと思わせるミハイルの表情たちが頭から離れなかった。
その日ミハイルはレイラのアパートの建物前までは行った。
しかし、どうしても足が進まなかった。
レイラの表情や仕草、振り返った時の笑顔が脳裏に浮かび離れてくれず、そのもどかしさに居心地の悪さを感じていた。
ずっと顔を見たくて堪らないのに、そんな自分を恐ろしく感じたのだ。
はやる胸を抑えながら急いで階段を上るはずのいつもの足は、重い鉛が付けられたかのように動かない。
その日、ミハイルはレイラを傷つけると分かっていて、そのままアパートに背を向けた。
そして、教会へと駆けた。
陽の光も消え、星の光さえ届かない教会の中はミハイルの頭を冷やした。
初心を思い出せと自分に言い聞かせる。
自分の生活の全てはこのまま進んでいくのだと。
誰が何を言おうと、自分が何を思おうと、神が定めた道から逸れてはいけないと。
娘だーー娘と同じ。
バンカと重なった。もしバンカがこのような境遇に置かれていたらと思うといても経ってもいられなかった。
それはきっと慈悲心だ。
そうだーー深い慈悲心をレイラに抱いたのだ。
そう自らを納得させたあとミハイルは邸宅に戻り、娘の顔を見るのだった。
予定していた日よりもミハイルは2日遅れでレイラのアパートを訪ねた。
「本当にごめん」と謝れば「そんな! 気にしないでください」とレイラは慌てて微笑む。
その日はナターシャ夫人のレッスンもあったから、レイラはいつもよりも着飾っていた。
ナターシャ夫人と会った日は決まって機嫌がいいはずのレイラ。
しかし、その表情は暗く、笑顔もぎこちない事にミハイルはふと、何か良くない事があったのではと心配になった。
「どうしたの?」
ミハイルは黒いコートに付いた雪を払い、ソファーにかけながらそうレイラに声をかけた。
するとレイラは、ミハイルに背を向けたまま「来れなくなった、みたいで。家族が」と言う。
「え? この間……言ってた?」
「はい、何か忙しいみたいで。マースレニツァ、行けなくなっちゃいました」
レイラはどんな顔を彼に向ければいいのか分からなかった。
酷く落ち込んでいることは確かだが、それをミハイルに悟られたくはなかった。
僅かに俯き眉を寄せたあと、意を決して振り向き、笑顔で顔を上げた。
「ーーあのでも」
しかし、レイラはそのあとの言葉に詰まってしまった。
ミハイルと真っ直ぐに視線が絡み合ったまま、解けてくれなかったからだ。
ミハイルは驚いているようにも、どこか安堵しているようにも見える。
「ミハイル?」
「あ、あぁ、ごめん」
手が止まっていたミハイルはレイラと向き合った。
そして、僅かな震えを隠すように自らの手を後ろに回し、いつものように余裕げに笑みを浮かべる。
「4日後だったら……空いてるから一緒に外散策する?」
「えっ……いいん、ですか?」
「もちろん。ただ、俺は正教会だからその期間は肉が食べられなくて、卵とか牛乳とかチーズばっかり食べていると思うけど……レイラは好きな物沢山食べていいから」
「チーズも卵も牛乳も大好きです。一緒に食べましょう」
「……ありがとう」
「こちらこそ……ありがとうございます」
「うん、俺もあまり回った事ないけど、ピーテルのマースレニツァ案内するよ」
爽やかに言いきれた自分に安堵したミハイルはレイラに背を向け、平然とした顔でリビングに佇むレイラの勉強机の上に教材を並べ始めた。
その表情と反して、彼の心は暖かな陽の光が差したように浮き足立っている。
そして、シャツの袖口を捲りあげながら、満足気に笑って振り向いた。
「よし、レイラ。じゃあ始めよーーう」
しかしその瞳に映った光景に戸惑い、焦り、そしてすぐにレイラに駆け寄った。
「レイラごめん、泣いてる? ごめ本当にーー」
「いえ、違うんです」
酷く焦るミハイルの声を遮るように、レイラは涙ながらに笑った。
目の前の彼がぼやけて滲んで見えなくなる感覚が凄く苦しいのに、でもどうしようもないくらい嬉しくもあった。
レイラの笑顔に背中をさするミハイルの手は不意に止まる。
そしてレイラは無意識にミハイルから一歩距離をとり、手の甲で涙を拭った。
「行けないと、思ってたから。私なんて……行けないって、ずっと……思ってたから。一人で、また見てるものだと……」
そしてまた溢れる涙と嗚咽に、それを目の前で見ていたミハイルは呆然と立ち尽くしてしまった。
その涙にどれだけの不安と孤独がつまっていたのだろうか。
その涙に共感できる自分がいるのに。
ーーあぁ、あの日、どうして行けなかったのだろう。
「レ、レイラ……」
「嬉しくて」
ーーあまりにも綺麗で。
嬉しそうに泣く目の前の彼女が、あまりにも美しくて、抱き締めてやりたくて、ミハイルは立ち尽くしていた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
忘れさせ屋~あなたが忘れたい事は何ですか~
鳳天狼しま
ライト文芸
あなたは忘れたいことはありますか?
それはだれから言われた言葉ですか
それとも自分で言ってしまったなにかですか
その悩み、忘れる方法があるとしたら……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる