ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

与えた少女

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 忙しく店内を駆け回っているレイラは、客に注文を聞き配膳する事だけで精一杯だった。が、ミハイルは彼女が邪な男たちに噂されているのを見ては、気が気じゃなかった。

 まだ幼い少女がどうしてこんな環境に身を置かなければならないのだろう。
 ーー自分は大丈夫だとそんな妙な自信だけを携え、ミハイルはこっそり店長に彼女を早上がりさせるように話をつけた。
 また話そうと言えば、警戒されてしまうと思ったのだ。
 レイラの心情としてはそんなことは無く、寧ろミハイルと話せる喜びの方が大きかったのだが、あの日からミハイルはレイラに拒絶される恐怖に怯えていた。




「ミハイル! 仕事が早く終わったので」
 レイラはミハイルの期待通り、仕事を早く終わらせ、彼の席まで駆けてきた。
 その笑顔が嬉しくて、ミハイルは思わず俯きにやけてしまう。
「良かった」

 そんなミハイルに気付くことなくレイラは思い切ってとある質問をミハイルに投げかけた。
 それは単なる好奇心からーー。

「あの、聞きたいことがあるんですけど……」

 レイラからの質問が嬉しくてミハイルは甘やかすような視線を彼女に向ける。

「なんでも聞いて」
「お仕事は、どう言ったことを?」
 レイラは膝に手を置き、教えを乞う子供のように真っ直ぐにミハイルを見つめた。

「あぁ貿易事業……になるのかな。今はまだ父の下で働いているから、大したことはしてないけど」
「貿易ってことは、海外から仕入れてものを売るって事ですよね?」
「うん、そんな感じ」

「それじゃあ、海外にも行ったことはあるんですか?」
「まぁ両手で数えられるくらいの国なら行ったことはあるよ」
「え! すごい!」
「主にヨーロッパの国だけどね。ーーレイラはどこか行ってみたい国はあるの?」

「え、私ですか? えっとーーあの、北欧? の国々とかオーストリアとか?」
 ミハイルが思っているよりもずっと凄い人だと言う事を知って引け目を感じたレイラは、少し背伸びをするためにまだ覚えたてのその国名を答えた。
 そしてレイラが口にした意外な国名にミハイルは目を見開く。

「オーストリア? レイラの口からその国が出てくるとは思わなかった」

「あの、最近、良くしてくれるお客さんから音楽の街って聞いた事があって」
「音楽、好きなの?」

 その単純な会話の延長線上での問いかけは、レイラの心に僅かな光を灯した。
 待ってましたとばかりに、口角を上げ、レイラは語る。

「ピーテルに来てから好きです。田舎で暮らしてる時は音楽なんてあまり馴染みが無かったけど、ここには有名な音楽家の方もたまにいらっしゃってピアノを披露してくれるんです」
 レイラは居酒屋に置いてあるアップライトピアノに視線を向けた。
 どこか叶わないものを見ているようにも感じる切ない視線に、ミハイルの胸は締め付けられる。

「ね、不思議だと思いませんか? 音の数は同じなのに並び方が違うだけで、楽しくなったり悲しくなったり、元気になったり、逆にうるさいー! ってなったり」
 そう言ってレイラは笑った。そしてミハイルはその笑顔に安堵するのだった。

「確かに。言われて見れば不思議だね」
「楽器はとても高価なものだから買えはしないけど、でも聴いてるだけで一人の寂しさが少し和らぐ気がするんです」

「それは凄くわかるな。ーーピアノ以外の楽器には触れたことあるの?」

「うーんと、この間までこの店に置いてあったのが、チェンバロ? で。とある音楽家の方がピアノを寄付してくれてピアノになったんですけど、チェンバロの音も好きです。何か重厚なのに可愛らしいというか……」
「チェンバロかーーオルガンとかも好きそうだね」

 オルガンと言う単語に、レイラはふとミハイルが敬虔な正教徒だと言うことを思い出す。
「オルガンって教会にも置いてあるんですよね?」

「うん。誰でも聞けるから今度行って……」
 ーー行ってみよう、と声をかけようとして、ミハイルは声を詰まらせる。
 しかしレイラは「行って」で言葉をとぎらせたのだと思い、「はいぜひ」と笑った。
 そのもどかしい会話が情けなくて、ミハイルは苦々しく笑う。

 そしてレイラは音楽から思い付いたように、とあるひとつの質問をミハイルに投げかける。
「ーーあの、観劇、って」
「あ、うん」
 レイラから観劇に関して聞かれると思わなくて、ミハイルは若干身体を強ばらせた。

「オーケストラがあって、歌もあるんですよね?」
「あ、ああ、そうだよ。バレエも観れたりする」
「……きっと、凄く感動するのでしょうね」
 レイラは瞳を伏せながらも微笑んだ。
 まだ葛藤していた。未練が生まれつつあった。
 この手を逃すのは惜しい事なのだと、そう神に言われているような展開が、レイラの心を揺さぶっていた。

 そして、その揺さぶりをミハイルは見逃せなかった。
 観劇。それがレイラと自分を繋げるものになるのならーーと、ミハイルは勇気をだして少し身を乗り出してみた。
「うん。初めて劇場に足を運んだ時の感動は今でも忘れない」
 机の上に置かれたレイラの手がどうか膝の上に仕舞われない事を願いながら。

「……どんな演目が流行っているんですか?」
 その願いが届いたのか、レイラもまた身を乗り出して、どこかぎこちなく笑う。
「それはねーー」
 僅かな希望がミハイルの胸にともり始めた。






 レイラは、無知で不躾な質問にも真摯に答えてくれるミハイルに対して徐々に心を開いていった。
 それはどこか諦めにも似た信用と、こんな田舎から出てきた小娘と対等に話してくれたミハイルへの感謝の気持ち。
 だから、レイラは自分の為ではなく、ミハイルの為に、ミハイルを信じてもいいと思い始めていた。

 そして、そのレイラの柔い雰囲気からミハイルもその気持ちを感じ取り、深く息を吸ったのち震える唇を動かした。
「レイラ。あの提案だけど……」
「その事について、聞きたいことがいくつかあって」
「何でも聞いて」

 レイラは自分の心も守るために、残る不安は全てミハイルにぶつけようと思った。
 それで引かれたらそれまでだと覚悟を決め、言葉を選びながらも、不安を表情に出す。
「私は、言い付けられたもの以外に何をすればいいのでしょうか?」
「何をするのも自由だよ」

「子どもの頃から働いてきたから、分からないんです。具体的にどういうことが自由なのか」
「ーー難しいな。外に出たいと思った時に外に出て。お小遣いの範囲で欲しいものを買って、行きたい場所があればそこに行く。あ、でも、あまりにも遠い場所に行く時は事前に教えて。女性ひとりは危ないから」
「…………例えば、観劇は一人で行っては駄目なのですか?」
「基本的にはエスコートする人が居た方がいいかな。……気になる演目があれば一緒に行こう」

 ミハイルのような階級の人にとっては当たり前の質問でも、彼は面倒な顔何一つ見せずに、誠実に向き合って答えてくれる。
 レイラは胸の底に湧いてくる罪悪感に気付いて、少し視線を下ろした。

「歳はいくつなんですか?」
「26歳だよ」

 予想通りの年齢にレイラは、ぎゅっと強く閉じていた口をゆっくりと開ける。
「……例えば、ミハイルがアパートを用意したとして、あなたは、訪ねてくるの?」
 掠れる声と、どう思われるのかが怖くて、レイラの瞳は僅かに潤んだ。

 その瞳の訳に気づいたミハイルは、あまりにも優しすぎる目をレイラに向けた。
 邪な気持ちで見られていないかを確認しているのだろうとミハイルは思い、なるべくゆっくりと、はっきりと、誤解のないように言葉を選んでいく。

「勉強の進み具合を確認したり、あとは観劇に付き合ってもらう時以外は訪ねたりしない。仕事終わりや合間に見るから、もしかしたら夜遅くなる事もあるかもしれないけど、怖かったら窓やドアを開けたままでもいい。ーー冬は少し寒いけど、我慢しよう」
 そう言ってミハイルは優しく笑った。

 その言葉に嘘はないと信じたレイラの心は傾き、呼吸が浅くなる。
 ピーテルで、思いもよらない優しさに触れ、心が痺れるように、確かに嬉しかった。

「ミハイルは一番最初に農村地帯の現状について、そういう人たちを助けたいと言っていましたね」
「ああ」
「その話を……もっと詳しく聞いてもいいですか?」
 レイラはこの最後の問いかけの前にはもう心は決まっていた。

「もちろん」
 ミハイルは笑顔で話し出し、その真っ直ぐな言葉たちはレイラの背中を押した。




 正直完全に信じきれた訳では無い。
 だが、ここまでレイラと真摯に向き合ってくれた人はピーテルで初めてだった。
 決して馬鹿にすること無く、下に見ることもなく、10歳も下の小娘と対等に話してくれた。
 熱心な正教徒であり、農村地帯の現状を憂う心優しき富豪。
 果たして本当にこんな人が居るのだろうかーーにわかに信じ難いが、それを証明する言葉と行動をレイラは間近で見てしまった。

 滅多に出会えない人からの、滅多に出会えない提案。
 永遠やずっとーーは存在しない関係だと理解した上で、とりあえずレイラはミハイルに飛び込んでみることに決めた。
 これは自分で決めたことだから、何かあっても誰も恨まない。
 それにレイラは、内心観劇や読み書きを学ぶことに対してとても興味があった。

「ミハイル」
 それは不意に発した言葉。
「なにレイラ」
 次はどんな質問なのだろうかーーと、ミハイルは内心身構えながらも微笑んだ。

「あなたのその、提案? 有難く受けようと思います」
「ーーーー」
 あっけらかんとしていて、あまりにも簡単に言いのけたレイラの言葉を理解するのには少しの時間がかかった。
 ミハイルは一瞬言葉を失い、その後すぐ大きな手で顔を覆う。
 あまりにも嬉しくて、その笑顔が隠しきれなかったのだ。

「ミハイル?」
「あ、ごめん。ありがとうレイラ」
「あの、感謝を言うのは私の方だと思います」
「そうかな」
「でも私何からすればいいのかーー」

「大丈夫。僕が全部話を付けるよ」

 はしゃぐミハイルにレイラは首を傾げた。
 悲しんだり喜んだり忙しい人なのねーーと。
 でも、そんな人間らしい彼の一面がレイラのミハイルに対する警戒心を更に解いていくのだった。

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