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送られる事のなかった手紙
しおりを挟むレイラの母マリーアはレイラの死後、彼女の娘リーザの面倒を見る為に首都の家にしばらく滞在していた。
そして、飲食店の準備で忙しいレイラの夫マキシムに変わってレイラの遺品を整理した。
まだ残された家族の傷が癒されぬとある日、マリーアはレイラの自室の机の引き出しからとある一通の手紙を見つける。
封筒の裏にはリーザが10歳を迎えた年の冬の日付がレイラの筆跡で書いてあった。
そして嫌な予感と共に恐る恐る表を見ると、そこには ミハイル・ガーリンという名があった。
マリーアは不快な気持ちを押し込めるように思わず強く目を閉じた。
マリーアが想像するレイラとミハイルの最後の記憶。
それは、レイラがマキシムと結婚する直前のこと。どうしても劇場街に行きたいと泣いて縋ってきたレイラを前に、マリーアは怒り狂ってレイラを地下の食料庫に閉じ込めた事があった。
レイラは結局マリーアの目を盗み食料庫から抜け出し、劇場街に行ってしまう。
そしてレイラが戻ってきた時、彼女の頬には涙の跡があり、それを見たマリーアは怒りを抑えられなかった。
マリーアは、感情が昂るままに彼女が着ていたドレスを引き裂き、頬を強く叩いてしまった。
その時レイラは抵抗せずに静かに泣いていた事を、マリーアは急に思い出した。
ーー田舎からでてきた娘にアパートを与え、ドレスや装飾品をこれでもかと贈り、読み書きを教え、そして娘を愛人にしようとした挙句、身分を選び別れたその男。
そんな男をひと目見たいからと劇場街まで行きたいと泣きじゃくる娘に良い気はしなかったのだ。
今まで家族の為に働き、誠実で本当に優しく明るく、母に楯突くことの無い良い子だった。
そんな娘が家族の信用を失ってまでもひと目会いたいと願った男。
恐らく別れてから死ぬまでその男と会うことは叶わなかっただろう。
その男に宛てた、届かなかった手紙がマリーアの手元にあった。
レイラとマキシムが結婚してから、レイラはあの男の名を出すことはなく、まるで過去など無かったかのように生きてきたように見えた。
可愛いリーザも生まれ、マキシムとも仲良くやっていくレイラの姿に、もうあの男の事はすっかり忘れたのだろうと、母であるマリーアは安心していた。
胸に染み込んでくる罪悪感と共にマリーアはその封を開けた。
ミハイル
元気にしていますか?
いきなりごめんなさい。もう私の事などきっと忘れているかもしれませんね。
あなたの噂を時々耳に挟みます。
ずるいわ。あなたは私の事を忘れて生きていける術があるのに、私はあなたを嫌でも忘れられないのよ。
この手紙はきっとあなたに届くことは無いけれど、だからこそありのままの気持ちをここに残したいと思う。
あの時の二人の選択は正しかった。
結婚して、娘が生まれて、尚更そう強く思う日々を過ごしていたわ。
田舎に帰ると言ったけれど、実はずっと首都にいたの。
首都と言っても外れの街だけれどね。
あなたはもう忘れているかもしれないけど、あの夜の日は色々嘘をついてしまったわ。ごめんなさい。
相変わらず首都は慌ただしいけれど、あなたはあの頃のようにまだ危険なことをしているのでしょうか。
たまに心配になるわ。騒がしい街の音を聞く度に傷だらけであのアパートにあなたが訪れた日を思い出すの。
こんな事言ったら、まだ未練があるみたいに思うでしょう?
未練なんてないわ。私はあなたと別れた事を後悔はしない。
でもね、たまに考えるの。
この日になると、もし……違う未来があったら、と。
ミハイル。あなたは最後、泣いていたから。あまりにも、まるで子供のように泣いているから、私も辛くて。
そして劇場街での、あの日も泣いていたから。
そんな場面もこの歳になってまで鮮明に思い出すの。
でも、泣いてまで、あんな苦しい姿を見せてまでも、私を遠ざけてまでも、守りたいものがあったのでしょう。
その中に私が少しでも含まれていた事が、実は少しだけ嬉しかった。
あなたにはどれだけの感謝を伝えても足りないくらい良くしてもらった。
最初から最後まで。何から何まで、私にとって完璧な人だった。あなたほど誠実な紳士はいなかった。
この手紙は未練の手紙ではなく、愛を伝える手紙でもなく、ただ。
ただミハイル、あなたに感謝を伝えたかった。
私の人生においての最大の幸福はきっと、ミハイルあなたに出会えたことでしょう。
今の私を紡ぐ糸を辿っていけば、ほとんどがあなたに行き着いたの。
好きも嫌いも、興味のあるなしも、あなたとの日々で作られていった。
あなたが日常から消え去り、家族を持っても、無意識下で選ぶ私の選択はきっとほとんどがあなた由来よ。
そしてそれは私の娘にも受け継がれているわ。
あなたに会いたくて泣きじゃくった日なんて数え切れないほどあって、それでも幸せの為に押し殺した想いや、そんな日々を何故か急に思い出してる。
でも思い出しても悲しくも辛くも何ともなくて。懐かしくて愛おしくて仕方ないの。
死ぬのかしらね、私。(冗談よ)
あなたは私に色々なことを教えてくれたわ。
歌劇があんなにも人を魅了するだなんて知らなかった。
学ぶことがあんなにも楽しいだなんて知らなかった。
本を読むことも、音楽を聴くことも、ドレスの着方も、ダンスの仕方も、あなたのエスコートで劇場の階段を下りる感覚だって全てが新鮮で煌めいていた。
そして初めて好きになった相手があなたで、好きという気持ちがこんなに苦しいとも知らなかった。
好きという気持ちと幸せが必ずしも隣合う訳では無いと。
あなたに守るべきものが、守り通す名前があったから、私はこうやって今があったから。
例えその守るべきものと名前に傷つけられたとしても、それはきっと仕方のない事だと。そんな感覚でさえ知らなかった。
あなたが文字を教えてくれなければ、きっとこの手紙さえ書けなかったわ。
あなたはこれまでどう過ごしていたの?
涙を拭って、幸せでいてくれたら嬉しいけれど、相変わらず忙しそうね。
老体に鞭打ってどうするのよ。早死でもしたら可愛い娘さんも素敵な奥さまも泣いてしまうわ。
どうか末永く健康でいてね。
仮にね、もうすぐ死ぬのだとしたら、ひと目だけ、あなたをこの瞳に映したかった。
私を助けてくれて、探してくれて、抱きしめてくれて、私なんかの為に泣いてくれて、本当にありがとうと、そう伝えたかった。
それだけが、私の後悔ね。
全てを愛していた、という言葉はあなたにとって足枷になってしまうかしら。
私にとっては、あなたと過ごした日々はかけがえのない誇りよ。
人である以上、苦しみや人生の試練は避けられないけれど、私はあなたと過ごした日々も別れも試練や苦しみだなんて思いたくないの。
凄く、幸せだったのよ。
いつか、何のしがらみもない空の上で再会したら、あの日々のように語り合って、そしてまた色々な事を教えて。
きっと約束よ。少しの時間でいいから。
レイラ
手紙には所々ふやけて乾いた跡があり、それがレイラの涙だと分かるまでにそれほど時間はかからなかった。
一体どのような思いでこの手紙を綴ったのか。娘は最期まで夢を見ていたのだろうか。
マリーアからみたあの男と、レイラから見たあの男の像がまるで違う事が、何故かマリーアの胸に罪悪感を生んだ。
マリーアは、母の手によってあの男からレイラを救ったと、ずっとそう信じて疑っていなかった。
まだ生きていた頃の娘の文字を見ればそんな事は出来なかったが、宛名を見た時破り捨て去ろうかとも思うほどに、マリーアはあの男に対して嫌悪感を持っていた。
しかし、マリーアがどう思おうと、事実がどうであろうと、レイラが彼を愛していた事は確かなのだろう。
日付が正しければ、この手紙はレイラが亡くなる半年前に綴られた。
きっと身体も辛い中必死に綴ったであろう文字と、便箋に染み込んだ涙の跡と、そして家族にその存在を隠し通し、かつあの男に手紙を送らないという選択をした事も、今更全てがマリーアには健気なものに見えた。
溢れ出る後悔と罪悪感ーー。
いくら自分を正当化する言葉を並べ立てようとしても、それは消えてくれなかった。
マリーアは傍にあった適当な紙とペンを取り、レイラが亡くなった事とその命日と、レイラの墓の住所だけを記した。
そして彼の事業先の住所を封筒に書き、その老いた足で郵便局に出しに行った。
これで許されるとは思っていない。
レイラは何と言うだろうか。
きっと明るく純粋な彼女なら「ママ気にしないで。愛するリーザともマキシムとも出会えたのだから。そんな過去の事を悔やまないで」
そんなことを言う気がしたが、それはマリーアの都合のいい妄想に過ぎないだろうか。
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