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本編
永遠のひととき
しおりを挟むユリウスと再会し、そして別れてから、自分の命と責任という名の罪の重さを測りかねていた。
息子に会ってそして離れてしまえば最後、私の心は空っぽになり、僅かに残っていた生きる気力さえも何もなくなってしまうと、私はそう思っていた。
――しかしその予想は大きく外れた。
空っぽの凍った心に温もりが注がれていくような、幸せな日々を過ごしていた。
ユリウスの王としての未来を予見して、愛する息子が死ぬことは無いと安堵したからだろうか。
母として心から息子の行先を祈ることができたからだろうか。
そして、イフラス、アビド、バシーラ、マリク、テラサ、ナジュムが、和気あいあいと過ごせるように笑ってくれたからだろうか。
東の街までの砂漠を歩く日々は、女王としての責任を脱がしていくかのような日々だった。
この僅か数日間が、神が与える最後の穏やかな幸せだとでもいうように、それは永遠にも感じる穏やかな一瞬だった――。
恐らく私を気遣っていたのだろうが、ナジュムは道中まるで少年のような笑顔を浮かべ、時に感情をあらわにしながら私と接した。
私もそれが嬉しくて、ナジュムと2人で並んで歩いている時は心にかけていた負担を捨てて話すことができた。
ある日、ユリウスの話をしていた時、
「ソロ王が羨ましいです」
ふとナジュムがどこか拗ねたように言った。
可愛いところもあるんだなと少し微笑みながら私は言う。
「あんな奴羨ましがる必要ない」
私をものにする為に、懲りること無く数々の宝石などを贈り、ソロの従者がわざと私の前でソロが如何に偉大かを語らせ、エレムの民をも巻き込み……等数えたらキリがない程回りくどいことをされた。
思い出すだけでも疲れがどっと押し寄せてくる。
そして私はソロのように宝石や着飾ることにまるで興味が無い。
シェバ国で採れる金や鉄、鋼などで作られたものの方がよっぽど誇らしい。
ソロと性格も何もかもが違う私は、彼とは友人でいた方が気が楽だった。
「……羨ましいですよ。それはもう」
ナジュムは微笑んでいたが、その瞳には若干の寂しさが垣間見えていた。
その瞳に思わず本心を告げたくなったが、なんとか堪え、ひとつため息を落とす。
「……まぁ、ソロの国を正そうと誠実に取り組む姿勢はやはり偉大な王だとも思った。私にとってソロは"友人"であり"戦友"だから、大切な人であることに変わりはない。でも、別に何かある訳では無いからーー」
そう言いかけて口を閉じた。
――何かある訳では無い――
ソロとの子を宿した身で"何もない"とは信じてもらえないだろうか。
でも、その理由にナジュムが絡んでいた事を彼は知る由もない。
愛する人と共にいられないくらいなら、一人を選ぶと、そう呟いた王女の想いは本物だった。
その彼の名前と、一人の女性の心の在り処を知ってるのはこの世界で……腹立たしくもソロだけだ。
「……セイル様がそう言うのならそうなのでしょう」
思いの外、悲しそうなナジュムの反応に焦って私は思わず
「ソロと結婚しなかったのは、私が次期女王だからという理由もあったけれど……」
そこまで言いかけて、ふと言葉を詰まらせる。
その先を言ってしまえば、この二人はどうなるのだろうか――とささやかな希望が胸を過ぎった。
一度は応えられないと告げたその偽りを今更変えたところで、ナジュムはそれを受け入れてくれるだろうか。
ナジュムは言葉を詰まらせた私の顔を不思議そうに覗き込んだ。
「あったけれど?」
「……他にも、理由があったというだけ」
気まずそうに言葉を濁す私に、ナジュムはそよ風が吹くようにふふっと軽く笑うと「そうなんですね」と言って、深く追求しないでいてくれた。
「ほら、ナジュムこそ、婚約の申し込みとかはなかったの?」
赤く染る頬を誤魔化すかのように早口でナジュムに突っかかった。
「あー、いや、あの。一応……ありました」
今度はナジュムが焦り始めるその珍しい様子に、「気になる」と小声で呟いた。
「母が勧めてきた方で、とても良い方だったんですけど、結局……断りました」
その先は絶対に言わない! とでも言うようにやや強ばった表情で真っ直ぐに前を見据える姿。
乾いた風が彼の前髪を揺らす。
さっきナジュムも深く追求しないでいてくれたから、と私もその先を聞くことはやめようと微笑んだ。
恐らく、婚約を断った理由はお互い何となく分かっているだろう。
幼い頃からずっと心の内だけを明かしてきた仲だ。
しかしその理由を追求するのに躊躇ってしまうのは私だけではなく、ナジュムもそうであることに少し寂しくも感じた。
「そう、だったのか。一度でいいからナジュムのお母様に会ってみたかったな。……どんな方だったの?」
「それはそれは面白くて優しい母でしたよ」
ナジュムは自身の母のエピソードを幸せそうに微笑みながら語った。
「セイル様、それでね」
彼が母を亡くした時に傍にいてやれなかった自分を、この立場を恨んでしまったけれど、この笑顔を隣で見ていると何もかもが許される気がした。
この先もずっと生きることが許されていたら、隣で彼の喜怒哀楽の全てを見てみたかったと、そんな叶わない希望が胸に小さく宿る。
一番見たいのは彼の笑顔だけれど、でも傍にいてくれるのならきっと――
そこで私は考えるのをやめた。
叶わない事を数えても虚しいだけだと、気付いたからだ。
たった数日間のことだった。
手紙では伝わらなかったナジュムの温度や細かな表情、仕草を感じることが、私の傷ついて凍りきった心を溶かしていった。
このまま何処かへ逃げても誰も追わないのではないかと、そんな風にも思っていた。
政治や語学の話ではない、他愛のない日常の話をナジュムと目を合わせ、笑い合いながら話す時間。
身分や名前を知ってもなお、魂だけで会話をするような安心感と懐かしさに、胸が震えて涙に変わりそうなくらい、私にはかけがえのない日々として魂に刻まれた。
逃亡中だというのに、後ろで穏やかに談笑してるアビドやイフラス達や、そして私とナジュム。
今の自分の想いがどれほど罪深いものかさえ知らずに、ただ単純に幸せを感じてしまったこと。
それは後に大きな代償になり、心に影を落としていくことさえ、この時はまだ何も知らなかった。
「会えなかった分、こうやってお話出来ることが私はとても幸せです」
ナジュムは目を細めて幸せそうに満面の笑みを私に向ける。
この何も混ざることのない純粋な笑顔が、今の私の全てを表しているような気がした。
やっと私は、彼との出会いを心から幸せだと思った。
「私も、同じだよ」
まるで冗談を笑うかのように、私は明るい声を上げた。
今の私とナジュムでは叶わないことも沢山ある。
私にとって彼は叶わない願いなのだと分かっていても、それでも彼の笑顔を見たひとときはとても幸せだった。
私が笑っているからではない、彼が笑っているから、幸せだと思えた。
「例え何があっても、これから私がセイル様から離れることはないです。ずっとお傍に置いてください」
ナジュムの大きくも繊細で綺麗な手が、あの日のように私の手を引く。
とある日の昼下がり。笑い合う時間。
乾いた荒野の中、色彩も何も無い景色がこんなにも彩られて輝いて見える。
まるでナジュムがかけた魔法のようだと思った。
この状況が永遠に続くことなどあり得ない。
いつか消えてしまうものだと分かっている。
それでも泣きそうになるほど私は、この瞬間に永遠を願っていた。
……もしかしたら、私が望んでしまったから。
ナジュムと共に生きることが出来れば毎日がどれほど煌めいて豊かになるだろうかと。そう女王になってからも願ってしまったから。
だから、このような出来事が起こったのではないか――。
日々心の距離が近づいていくにつれ、私とナジュムの幸せの隣にはいつも犠牲が存在することに気付いていながらも、そういった怖れは心の奥底にしまい込んだ。
恐らくお互いが、それに気が付いていた。
幸せな会話が続くだけで、それ以上はお互い何も望まなかった。
いや、ナジュムの気持ちは分からないが、少なくとも私の場合は口にしなかったというのが正しいかもしれない。
愛だと頑なに認めなかったのは、私は生きるべきではないと覚悟を決めたと、そう誰にも悟られないようにしたかったから。
愛だと認めれば、最期まで共に居て欲しいという欲が出る。
例えどんな状況に置かれたとしてもナジュムを守りたいのが私の最後の希望であり、意思であった。
彼の笑顔が私の瞳に刻まれれば刻まれるほど、切なくもその意思は揺るがないものになっていく。
触れたいとどれだけ願おうと、きっとそれは一瞬で終わる夢で、お互いの心を温めるはずの幸せが、その心を破壊する凶器となってはいけない。
私はそれに納得している。
死ぬのは怖くない。なんてことない。それはシェバを守る者の運命だ。
しかし、彼が死んでしまうことはとても怖かった。
「セイル様。足、疲れていませんか?」
他愛もない会話をしている最中、ふとナジュムは私の前で突然立ち止まると、すっとしゃがんで私に背中を向けた。
その様子にアビド達も立ちどまり、皆不思議そうに私たちを見つめる。
「……どうした?」
「お疲れでしょうから」
その声色は至っていつもの上機嫌のナジュムで、何を考え何を思っているのか私にはさっぱり分からなかった。
まさか、ナジュムの背中に乗れというのか。皆がいる前で。皆の女王として――。
突然のナジュムの大胆な行動に尻込みをしてしまう。
「いや、でも……」
私は眉をひそめ半歩ほど後退りする。
確かに足が疲れているのは事実だけれど、皆もナジュムも疲れているだろうに……と戸惑っていると
「もう……! ほら、男の子に恥ずかしい思いさせないの!」
イフラスがそれはそれは強く私の背中を押し、私はその怪力によろけてしまう。
でも……と躊躇いつつ、私はその後周りに言われるがままナジュムに背負われた。
「……重くない? 本当に大丈夫?」
ナジュムの首元に腕を回し、彼の耳元で不安げに囁いた。
「全然大丈夫です! ……正直に言うと、あの時の方が重かったです」
「……それは、ごめんなさい」
確かにあの時は体格も変わらない2歳も年下の少年に背負われ、そして走らせてしまった。
純粋に申し訳ないという気持ちから謝ると、ナジュムは大口を開いて笑った。
「僕が好きでやった事だからいいんですよ。気にしないでください」
彼が笑うと温かな背中が揺れて、呼吸と鼓動の音が直に聞こえてくる。
ナジュムはあの時の事、あの時の景色をまだ覚えているだろうか。
私は鮮明に覚えている。
風を感じながら、まだ名も知らない少年の背中の温もりと、優しさと、勇敢さと、少しの無礼さが、私が今何者であるかを忘れさせてくれた。
それがどれだけ私のときめきとなったか。そして、救いとなったか――。
ここに賑わう人は居ないし、豊かな景色が広がっているわけでもないし、この状況には僅かな希望も残されていない。
しかし、あの時のことはすぐに思い出せた。
ナジュムの逞しい背中から伝わる温もりと彩られた言葉は、ユリウスと離れて生きる気力を無くした私の身体に、溢れるほどの光を注いでくれた。
ナジュムの首元に回す腕に力を込めて小さく呟いた。
この言葉が最期の言葉になっても後悔しないと言えるほどに、これまでの感謝を吐き出す。
「ありがとう」
きっと、その10分の1も彼に伝わっていないのだろう。
「いえ――」
心なしかナジュムの耳や首元がほのかに赤く染まっている気がして、何だかとても嬉しかった。
そう。嬉しかった。もうこれ以上の幸せはないと思った。
ユリウスと別れて数日後の夕暮れ。
そしてエプト軍と遭遇する前日の、最後の穏やかな幸せだった。
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