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本編
星降る夜の告白
しおりを挟む翌朝、ナジュムが血相を変えて皆を起こしにきた。
数十人ほどのエプト軍が東の街に入ってきたと、そう震える声で皆に告げた。
「セイル様……どうしよう!」とパニックを起こすイフラスとテラサを、「冷静になりなさい。大丈夫だから」と落ち着かせようとしたものの、私も内心穏やかではなかった。
前日の小隊は1人残らず斬ったはずだから、こんなに早く数十人もの軍を東の街に派遣するなど予想していなかったのだ。
シェバの女王がここに居ると確信を得て東の街に来たのだとしたら、ヤーコプを拷問して、吐かせて、処理した――という最悪の想像をしてしまう。
私は気丈に告げた。
「明日の早朝にここを出る。とりあえず東の先の人が居る街に行こう」
「今逃げてはダメなんでしょうか?」とテラサは聞いてきた。
「ああ。エプトが東の街に入ってきた途端逃げては追われている身と公言しているようなものだ。怖いだろうが、なんとか我慢して欲しい」
「承知いたしました。大丈夫です!」
隠しきれない恐怖を押し込み、精一杯の笑顔を向けるテラサに酷く心は痛んだ。
――最後の女王としての務めは、この命を持って全てを終わらせることなのだろうか。
昨晩見た夢がじわりじわりと毒や呪いのように心を犯していく。
早く。一刻も早く終わらせなければ――と私は焦っていた。
そして、皆が寝静まった神殿での最後の晩が訪れた。
女王としての務めなのか、生きる事への諦めか、はたまた死への覚悟か、その罪悪感を紛らわすように、寂れた神殿の外階段に腰掛け、ため息をついた。
街の景色は酷く殺風景で、誰も居ない廃街なのにも関わらず、見上げれば美しい満月の月暈や星たちが憎たらしいほどに、燦然と輝いている。
私は知っていたはずだ。人並みの幸せなど望んでよい立場ではなかったと。
私には私の幸せの形があって、それ以外を求めることは"身の程知らず"というものなのだろう。
皆に反対されながらも私が連れてきたエプト人のユージンは国を裏切り、そしてそのユージンをこの手で殺し、ユリウスとは異国へ離れ離れに。
そしてタリク達を殺され、私のせいで罪のない民達が殺され、私が愛した街並みも壊され、アビドもこの手にかけ、何の罪もない者たちに辛い思いをさせてきた。
今生きている者達の約束された輝かしい未来は、私の判断によって壊れていくのを間近で見てきた。
それでも変わらず星が瞬くことが、理由のない涙を誘った。
「なんて……美しい夜空なの」
手を伸ばしても決して掴めない光だからこそ、美しいのかもしれない。
涼しく柔い風が、まるで私を慰めているかのように頬を撫でた。
ふと、王宮を出る前に燃やした16年間の手紙たちのことを思い出す。
いつだったか、星を見ながらお互いの人生語り合いたいだなんて、今の私からは想像もつかない言葉をしたためていた。
あの時は幼かった。
そう、幼かったのだ。
幼い頃、寓話の妄想と同じような類で一度は考えたナジュムとの未来。
彼の身分的に私の傍に置けたとしても結局は愛人止まりになるだろう。
そうなれば、私が彼を大切に思うほど、彼への風当たりが強くなるのは目に見えていた。
自由に生きてほしかった。
それは私のエゴだという事を知ってもなお、当時は私は私のやり方でナジュムを守りたかった。
でも私は、彼の孤独にも触れたかった。彼にとって特別な存在でありたかった。
だからあれほどまでに悩んだのだろうな。
ただの少女であれば、愛情を注いでくれる両親とも、愛する息子とも会えなかった。
たが、ただの少女であれば自分が望む人に望む言葉を掛け、好きな時に笑い、自由に行きたい場所へ好きな人と行く事が出来たのかもしれない。
そうありたかった。と願うことを、今は許してくれないだろうか――。
強く心地よい風が石階段に腰掛ける私を通り抜け、さーっと神殿内へと吹き抜けた。
「神は……今更、許してくれるのですか」
苦い笑いとやるせない想いが全身から込み上げてくる。
仕方ない。私は死ぬ。
そう覚悟を決めた。
今まで私のせいでどれだけの人が死んだ。
当然の報いであり、そしてそれが私の最後の願いだ。
締め付けられる想いと共に、また一人満天の星空を見上げる。
もうそろそろ、皆に対して気丈に振る舞うのにも限界が来そうだった。
孤独、不安、悲しみ、憎しみ、悔しさ、苦しさ、そのどれもに当てはまる日々。
しかし、その中の感情では言い表せない程の大きな思いを背負いながらここひと月歩き続けてきた。
――今はもう、それらを抱えながら歩き続けていく自信がない。
もうずっとずっと前から泣き叫びたいほど怖かったのかもしれない。
泣き叫びながら「許さない!」と叫ぶことができていたら。
その怒りの矛先を自分ではなく誰かに向けられていたら、きっと私は楽になれたのだろう。
でも幼い頃から私にはそれが出来なかった。
王にそぐわない慈悲心と責任感。
――それが、私の敗因だろうか。
重い溜息をつきながらも、自らの生に対して吹っ切れたような気持ちにもなった。
……吹っ切れていないのは、私以外の生だ。
「セイル様……!?」
――ああ、今一番見つかって欲しくない者に見つかってしまった、と人知れず嘲笑を浮かべる。
「お外に居ては危険ですから」
私を見つけたナジュムは酷く焦った様子で、夜風に当たり冷たくなった私の手を取って立ち上がらせようとするが、私はその温かい手を、出来る限り優しく振り払った。
「私は、ここに居たい」
迫り狂う恐れに打ちひしがれている声色を、隠すことはもうしなかった。
これまでのどんな仕打ちにも、気を強く持とうと気丈に振舞ってきた。
だが最初から今まで、いや、きっと最後まで……この青年ただ1人の前ではその強さは通用しないのだろう。
ナジュムは、その様子に悲しそうに少し眉間を寄せ、そして優しく微笑むと私の右隣にそっと腰を掛けた。
「なら、この場を離れるまで私がお守りします」
「……それなら、安心だな」
「はい。安心してください」
偶然か2人同時にこの美しすぎる星空を見上げていた。
ただ優しい風だけが包み込む暗い世界。
月暈が淡く光り、夜空を煌めく星たちが記憶には刻まれていない懐かしさを想起させた。
「綺麗ですね。セイル様……昔、星が好きだと言ってましたよね」
「ああ。覚えてくれていたのか」
「もちろんです。――今もお好きなんですか?」
「ああ、昔よりもずっと……。何なら、今の方が好きかもしれない」
「……僕も、好きですよ。きっとセイル様の影響です」
僅かに微笑みを浮かべながらこの夜空を見上げるナジュムの横顔は、これまで見てきた彼のどの表情よりも美しく、愛おしく思えた。
いや、きっと明日見るナジュムの表情もこれまで見てきたどの表情よりも美しく見えて、その次の日のナジュムの表情もまたどの表情よりも美しく見える。
きっと、そういうものなのだろう。
それは名前の付けようがなく、ありふれた感情ではないことだけは確かだった。
――この想いが何を指し、そしてどんな結末を迎えるのか、この時点で私はもう既に知っていた。
白々しいほどに知らないふりをしている自分がいたく滑稽に思えてくる。
私はこの時、ひと時の安心感と共に夜風に当たりながら、何を話す訳でもなく2人して星を見ている透明な時間の心地良さに縋らないようにするので精一杯だった。
ナジュムは今何を思ってこの星たちをその瞳に映しているのだろうか。
その想いに私が少しでも居てくれたのなら、永遠の別れも寂しくはないだろう。
「……セイル様」
ナジュムは淡く光る月暈を見上げながら、小さく呟いた。
その横顔は少し微笑んでるようにも、少し泣きそうな顔にも見える。
「なに?」
想像していたよりもずっと優しい声が漏れていて、彼の言葉を待ち望んでいる自分がいた。
「……逃げませんか?」
「…………は?」
予想外の言葉に驚きを隠せなかった。
その"逃げる"という意味が何を指しているのか一瞬で理解出来てしまう自分を恨めしくも思った。
「え……も、もう逃げているでしょう?」
冗談を言うなと、わざと乾いた笑いを浮かべながらも、嬉しさと悲しさと戸惑いでごちゃ混ぜになっている思考を悟られないよう俯いてしまう。
しかしナジュムはそんな私の想いまでも切り裂いていった。
「違う、そうではなくて」
「………っ」
「私はただ、ただのナジュムとして申し上げているのです」
そのあまりにも真剣で誠実な言い草に、私の瞳は自然と隣にいるナジュムへと移ってしまう。
ナジュムの身体は私に向いていた。
そして潤った瞳同士が合わさる。
もう、やめてほしかった。
このままずっと、彼と、この場所に居られたら、このまま時が止まってしまえばどんなに幸せだろうか。
決して叶う事のない身勝手な願いだとしても――。
せめぎ合う感情たちが、生傷だらけの胸を掻き回していく。
ユージンを斬って城から出た日、彼が私にナジュムという名前を告げた瞬間の場面が脳裏に蘇る。
あれ程までに喜びと絶望を同時に感じたことは無かったが、これも中々辛かった。
胸を切り裂かれるような気の迷いに整理が付けられずに、困ったように笑みを浮かべて顔を伏せた。
「セイル様――! この国から逃げるのです。女王では無くただのセイルとして、僕と……名を捨てて生きましょう!」
身を乗り出し、自身の想いを伝えようと、必死さと愛しさが込められた瞳には、美しく瞬く月や星々を差し置いて私だけが映し出されている。
その事実がこんなにも嬉しくて悲しいなんて。
私はそっと首を横に振った。
「僕と、一緒に、逃げませんか」
彼を見てしまえば、決まっていた答えを覆したくなる事を分かった上で、私はそれでも彼を見つめた。
今にも泣きそうにこちらを見つめる哀愁漂うナジュムの表情は、まるで私の心を映し出しているかのようだった。
砂に埋もれる静まり返った廃街。
寂れた神殿。
そしてその行先を照らす月や数え切れない程の星たち。
永遠にも感じた一瞬の2人だけの世界。
もちろん、嬉しいに決まっている。
こんな悲惨な状況でも、空を見上げればこんなに美しい星が存在していて。
そして、こんなに美しい人が、言葉が、選択肢があった。
逃げたい。この状況から逃げてしまいたい。
そう思っていた自分が居たのも確かで。
この先の果てない絶望の渦の中、ナジュムの言葉は、たった一つの希望の光に思えた出来事だった。
逃げてもいいんだ。私は彼の手をとってもいいんだ。光を求めてもいいんだ、と。
答えを待つ彼の潤んだ瞳を見つめていると、幼い頃から日々、ナジュムへの手紙を、愛しい眼差しで認めていた場面が一通、一通、胸に蘇ってくる。
これは、執着なのだろうか、情なのだろうか。そして、愛なのだろうか。
ただひたすらに考えに考え抜いて、結局分からなかったことだ。
絶えない孤独の中、その温もりは余計私に孤独を味合わせたのに、それでもその温もりを手放さなかった私の選択は一体何を意味したのだろう。
彼を知った事を、本当の意味で後悔した日は1日たりとも無かった。
世界は移りゆく。
シェバの民から慕われていた女王はあっという間に、エプトに首を差し出される事を愛する民に望まれた。
いずれ何もかもが変わってしまう。私の栄華は終わったのだ。
変わらないものなどない。永遠などない。
そして、変わったとしても、永遠ではない事を知っていても、それでもいいと思えた、ただのその心に名前を付けるのならば――私にとってそれはナジュムという、罪だった。
昨晩ナジュムに吐き出してしまったように、女王でなければという思いがあったのは事実だ。
けれど民が耐えず苦しんでいる時に、誰の仇ひとつも取れない弱い女王が愛を求めて逃げ出すなど、ただのセイルが許しても、女王の誇りと民が許さないだろう。
許してほしいと乞うつもりもない。
今まで通り死ぬその時まで孤独でいることが、せめてもの償いになるのだと私は思っている。
心引き裂かれるほど想い焦がれた者を前にしても、女王としての責任は捨てられなかった。
それでも、私はこの豊かな国を愛していた。
女王ではなく、ただのセイルだったのならば、私はきっとその手を寸分の迷いもなく取っていただろう。
だからこそ、辛くて仕方なかった。
「それは……出来ない」
決して後戻りできない言葉だと分かっているからこそ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「…………」
ナジュムの事だから、きっと私の返答は予想していただろう。
なのに、何故そんなに優しく、悲しく微笑むのだろうか。
こんな時にまで、笑わないでほしかった。
――大丈夫。あなたに悲しい思いなどさせない。そう言って、その手を取って全てを捨てて、ナジュムと逃げたいと、そう言い直してしまいたくなった。
歪んでいく表情を堪えながら、私は告げる。
「……私は、生まれた時からこの国と民の未来を照らす者として、育てられてきたの。例え、死んで終わる運命だとしても、この国と女王である誇りを捨てることは、もう出来ない。私はさいごまでこの国の女王だから……逃げることは、出来ない……」
目に涙を浮かべながらも、それが頬に流れることは女王の誇りが許さなかった。
堪えて、堪えて――。私は今までも、これからもきっと堪えていくのだ。
でも、彼を守るためだと思ったらそれも耐えられると、そう思えた。
この女王という肩書きが、私から彼を守っているのだとしたら、それでよいのだと。
「………はい」
彼にとって辛い答えを出したにも関わらず、それでもナジュムは泣きそうな顔で優しく微笑む。
私が死と誇りを選ぶということを意味していて、ナジュムもきっとその気持ちを理解しているだろう。
それなのに、ナジュムの瞳には隠しきれない哀しい翳りが宿っている。
私は最後まで悲しい顔しかさせられないのか――。
さいごの願いを、私は彼に告げようとした。
「でも、ありがとう。ナジュム。逃げるのはあなた一人で逃げ――っ」
一瞬何が起こったのか理解が追いつかなかった。
フワッと温かい風が耳元を揺らし、熱い吐息が鼓膜を揺らす。
――私は彼に強く抱きしめられていた。
その懐かしくも感じる温もりは、いつか出会った日のように、星明かりの下、いつの間にか凍ってしまった私の心を溶かしていく。
ずっと触れたくても遠すぎて触れられなかった。
愛しているのに伝わらない想いと、知られてはいけない想いと。
ずっと胸に抱きたかった大切なものを、全ての敵から守るように、その手は強く、優しく、勇敢であった。
「今は……ただのナジュムとして聞いて」
ナジュムは泣いていた。
それがただ悲しいだけで流れてくる涙ではないことは、彼の吐息から痛いほど伝わってきた。
「セイルの選択を尊重する。でも、僕はずっと傍にいると決めた。最後まで一緒に居たい。……1人で逃げてなんて、最後まで孤独や強さの仮面を被る事を選ぼうとしないで。あなたを失って生き続ける事なんて僕にはできない。セイルが本当の意味で僕を拒否しない限り、僕は……絶対にここから居なくならないから――」
私を抱きしめるその手に力が入り、その強さに私の心は更に揺らぐ。
――やめて欲しいと、それでも逃げなさいと、それでも聞かなければ、嫌いだ、私には重いと、そう嘘でも付けばいいのに。
そう言えばいいのに、私の肩を濡らす彼の涙が、もう孤独でありたくない、彼の傍に居たいという運命の為に押し殺した想いを溢れさせた。
ナジュムは今、どんな思いで泣いているのか。
私を想う涙なのならば、私は彼にこのような涙を流させる自分がとても許せなくなってしまう。
「ね、ナジュムお願い。私にとって正しい選択をさせて……お願いだから」
静かにそう言うとナジュムは抱き締める腕をいっそう強めて、
「もうセイルを一人にさせたくないんだ。その心の内を女王という責任で隠すのなら、せめて僕だけは……セイルの涙を拭いたい」
そして、この言葉が鼓膜を震わせる。
「死ぬその時まで一緒です」
「……そ、それはだめ! これは王命、あなたは生きるの」
もっと強く言い聞かさなければ――。
彼の目を見て話したいと、腕を引き剥がそうともがくが、ナジュムはその腕を解かずににこう言った。
「この場では、僕は目の前の1人の女性を愛すただのナジュムだから。僕にとってあなたは王ではなく、命を懸けてでも守りたい、大切な人なんだ」
「………っ」
「僕が、もっと強ければ……良かったんだ。ごめんね」
まるで自分自身を責め立てているかのような涙を流しながら、必死に言葉を紡ぐその言葉達は私の胸を突き刺し、震わせ、温もりの中視界が歪んでいく。
「ちが、う。違うの。ナジュムは――」
「でも、どうか、信じてほしい」
「そんなこと、わた、しは……分かってる」
私はあなたを守りたいだけなのに。
どうして、分かってくれないの。
「離して……」
今絞り出せる精一杯の拒否の言葉を聞いたナジュムは僅かに肩が震えた後、素直にその腕を離してくれた。
そして、潤んだ熱い瞳同士が重なり合う。
彼の頬に伝う涙とその跡は、自らの立場と運命を憎むには十分すぎる理由になってしまった。
「…………お願い、だから」
――生きてほしい――
そう思いをぶつけるようにナジュムの胸を弱々しく拳で叩く。
「セイル……」
「なに……!」
「愛しているよ」
ナジュムは複雑な心を抱えるように眉を寄せながらも、その拳を優しく掌で包み込み、そしてもう片方の掌で私の頬を包み込んで微笑んだ。
「…………っ」
涙でしか答えられない私に、ナジュムはもう一度言う。
「心から、愛してるんだ」
彼は私の気も知らずに、ただただ優しく全てが満たされているかのように笑った。
思い焦がれ続けた、ただ一人の青年の優しい瞳が近付いてくる。
思い切り振り払えば彼の熱から逃げることも出来ただろう。
それでも私は目を閉じる事を選んだ。
涙で濡れた唇が重なり合い、熱い吐息が混ざり合う。
長年溜め込んできたナジュムを求める気持ちに蓋が出来なくなり、彼の服の僅かを強く握り締める。
するとナジュムの頬に涙が一筋伝うのが分かり、一瞬彼と目が合うが、息つく間もなくまた吐息は混ざり合う。
――その日、ナジュムを手放す決心を固めながらも、この時ばかりは彼と出会えた幸せに酔うことを自分に許した。
月と星の光に照らされたナジュムとの最初で最後の口づけは、甘い涙の味がした。
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