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裏切りの片鱗
しおりを挟む翌朝。
湿気でうねる長い黒髪をユージンは優しい手つきで梳かしてくれる。
あの心配性が、昨晩何があったのか聞こうとしないのは、私の微妙な心の揺れ動きを感じているからだろうか。
ユージンは人の心を読むことにとても長けていた。
奴隷でありながら、教養や読み書きを難なく習得し、語学力に関してはもはや私の実力を上回るほどの優秀さを兼ね揃えていた。
剣も私ほどではないにせよ、それで生きていくのには充分な程の腕前はある。
エプト人として生きていた頃がいくら教育環境に恵まれていたとしても、私自ら教育を施していたとしても、ここまでの細やかな気遣いや、才能を果たしてエプトが放っておくだろうかと疑ったこともあった。
たまたま出会った奴隷の髪が美しく、たまたま語学力に優れ、たまたま側近になり得るほどの才能を持っていたーー。
疑わなかった訳では無いが、彼の中に眠る小さな孤独を感じていながら彼を捨てる事が、私には出来なかった。
長くを共に過ごした今ではもうユージンに対する疑いは一切消えて、私は彼に全幅の信頼を寄せている。
だがたまに思う。
「お前は、本当に奴隷としてエプトからやってきたのか」
髪を梳かすユージンの手が止まり、彼の低い声が鼓膜を震わせた。
「ソロ王から何か言われたのですか」
「は? お前の事に関して?」
「あ、いえ、何でもございません」
首を傾げて振り向くと、ユージンは少し慌てたように俯く。
「私はエプトで虐げられて、シェバに売られた者です。そこをたまたまセイル様が拾ってくれたのですから」
急にひ弱になるユージンに私は声を出して笑った。
そしてユージンから視線を戻し前を向いた。
「私はきっと世界で一番幸運な王女だな。……こんな優秀な奴隷がどこに転がっているというのだ」
「そういう所ですよセイル様。幸運なのはあなたではなく、私です。あなたの周りにいる人はあなたのおかげで皆幸運なのです」
「褒めてるのだとしたら、久々にユージンに褒められた気がするな」
「セイル様とは違って口下手なもので」
「よく言うよ」
私がとぼけるのと同時にユージンは髪を梳かし終わり、着替えの準備の為にとイフラスを呼びに立ち上がる。
「では……」と微笑むユージンを目にした時、私はふと無意識のうちに彼を呼び止めていた。
「ユージン」と。
「はい。なんでしょう」
私もまた立ち上がると、ユージンは私から一歩離れて僅かに頭を下げる。
その身に付いた彼の仕草が、何だか嬉しくも寂しくも感じた。
私にとってユージンは友のような、兄のような存在だった。
シェバ人ではないからこそ、シェバの王女の価値を根本的には知らない。
だから、話していてとても気楽だった。
皆はシェバの王女を心配する中、ユージンはどのような時も、いつも主人であるセイルを心配した。
微妙なニュアンスの違いだが、ただそれだけで心が楽になる日もある。
ーーユージンはきっと私の事を友だとは思ってくれないだろう。
しかし私は、彼を友人だとそう思っている。
この先も共に歩んでくれる同志だと。
ソロとの話を伝えるわけにはいかなかったが、もし近い未来に私に子供が出来るのだとしたら、信頼する友として頼みたいことがひとつあった。
「私に子が生まれたら、その子の教育を任せてもいいか」
ふざけても笑ってもいない、真剣な声色がユージンを動揺させた。
「子……ですか? な、なぜ」
「ああ、娘でも息子でも、お前に任せたい。お前は優秀だし、色んな国を知っているから。それに調子に乗って選ぶってる奴に任せるより、陰の世界も見てきた者の方が、きっと様々な事を教えられるだろう。弱き者には寄り添い、強き者には立ち向かう、立派な後継者に育ててやって欲しい」
私が微笑むと、ユージンは拳を強く握りしめながらさらに俯く。
「それは……もちろん光栄なことですが、少々気が早いのでは」
「分からないぞ。私だって突然他国の末王子なんかと結婚するかもしれない」
「それは……」
「何をそんなに驚いてる。別に当たり前のことだ。私が当たり前でない事をしているだけで」
「しかしーー子が生まれたばかりの国は、こう、何かと、は波乱が巻き起こると……いう、エプトでは言い伝えがありますから」
「波乱? そんなのがあるのか。初めて聞いた」
「はい。何かが生まれた時は何かを失う、とーー」
ユージンはどこか落ち着かない様子で、上目遣いと共に私の様子を伺った。
何かを伝えたいのか、それなのにこれ以上口を開こうとしないユージンに私は首を傾げる。
しかし問いただすのも違うだろうと思い、彼の言葉をじっと待っていると、ようやくユージンは震える唇を動かした。
「セイル様、なので、その際は必ず私に教えてくださいね」
いつの間にか辺りには張り詰めた空気が漂い、ユージンはわざとらしいくらいの意味深な焦りを私に見せた。
彼はもしや私とソロの話を盗み聞きしていたのでは……と疑いつつも、でもあの小声で話した内容が、厚い扉の向こう側まで届くとは到底思えない。
私はこの時のユージンの不自然さを、いつもの心配性の類だと思い込んだ。
「……ん、まぁ善処しよう」
軽く微笑み、ユージンの肩をひとつ撫でる。
するとユージンは、まるで崖から突き落とされる直前の子犬のような瞳を私に向けた。
それが、言いたい事が伝わらない絶望だと私には気付く事が出来なかった。
「疲れてそうだから、ゆっくり休め」
「セイル様ー! おはようございますー! いやぁ相変わらずエレムのご飯は美味しいですね~って、あら、まだユージン殿もいらしたんですか?」
空気を読まないイフラスが、空気を読んだかのようなタイミングで颯爽と登場する。
「あれ、お取り込み中でしたか?」
「いえ、ちょうどお話が終わるところでした。セイル様、それでは失礼いたします」
「ああ」
ユージンは私の返事を待つことなく、早歩きで部屋を出ていく。
二人してその先を視線で追ったあと、目を見合わせる。
「なんかありました?」
「いや、変わったことは何も」
「うーん」
「休みも多くあげているつもりだが、まぁ慣れない環境だと疲れも溜まるだろうな」
「イフラスとしては、休み多く貰いすぎるのもどうかと思いますけどね~、大好きなお方には毎日でも仕えたいですもの」
「そういうものなのか」
「はいはい、手を上げてください」
まだ眠気が取れずボーッと突っ立っていれば、イフラスにされるがまま服を着せられる。
「今日もこれでいいですかね」
イフラスがいつもと同じシンプルな装飾品を手に取り、私に渡してきた時、
「あ」
私はふと固まった。
「ん? お気に召しませんか?」
「いやそういう訳じゃないんだが、もう少し煌びやかなものにしよう」
「あら珍しい! お待ちください。今持ってきますね」
普段過度な装飾を嫌う私の言葉に驚きながらも、どこか嬉しそうに軽い足取りで部屋を出ていくイフラス。
私はそれを見送るとベッドに腰掛け、ため息をついた。
政治とは常に思惑と思惑の擦り合わせだ。
良心というものは微々たる存在でしかなく、損得を踏まえて決断しなければならないし、国が得をする為ならば、簡単に裏切ることも出来てしまう。
他国の王族から見れば、ソロは血なまぐさい奴だ。
兄を殺し、王位継承を狙う他の者も慈悲を見せる事無く簡単に処刑した。
仮に私とソロの子が生まれたとして、ソロがその子を殺さないとは限らない。
未婚で子を産むなんて、しかも相手がエレムの国王……。沢山の損害や危険が付きまとうことは重々承知だった。
私のただひとつの我儘の為に、その損害を被ることも厭わないというのだろうか。
だから、私はらしくも無い華美な装飾品をまとって、ソロに会いに行こうとしているのだろうか。
希望だのなんだの美しい言葉を排除し、冷静に考えれば考えるほど、迷いはなくなり、その決意は色濃くなっていく。
燃え上がっているわけではない。
そんな時期はもうとうの昔に過ぎ去った。
この想いは私にとってもう当たり前のもので、私が私でいる為に欠けてはならないものだった。
全く恐ろしい王女だ。
たった一人を想うがあまり、国の未来までも変えてしまう決断をたった一晩で下してしまうのだから。
だから思った。
「セイル様~! イフラスが厳選したものだけ持ってきました!」
装飾品を抱えながら、満面の笑みで寝室に入ってくるイフラス。
「久々に着飾りたいだなんて、イフラス張り切っちゃいますわ!」
私の命を賭けてでも、この者達は守りたいと。
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