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忍び寄る影

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  己の信念を色で例えるなら、それは赤。 

  そう主張するかのようなネクタイを、黒のストライプスーツが覆う。

 大切なのはバランス。目立ち過ぎず、されど、埋もれてはいけない。

 どんなことでも初日の印象は重要で、相手を巻き込み、全て自分の思うがままに事を成すには、そんなバランス感覚が必要不可欠だ。

 耳に掛かったゆるやかなパーマヘアーを鏡でしっかりチェックして、わずかに乱れた眉毛をハサミで整える。自分の意志の強さと、鋭さを主張する輪郭の完成だ。

 大学の頃から学生ビジネスで起業を始め、卒業と同時に有名IT企業で働き、三年で独立。その後は渡米して、ニューヨークで最先端の社会情勢と関わってきた。

 引く手数多。

 これは、自分のために生まれた言葉だと自負している。事実、今までとまったく異なる「教育」という業界に足を踏み入れることができたのも,自分の類い稀ない才能のおかげだ。

 数々のビジネスを展開して、成功を納めてきた自分だからこそわかったことがある。

 日本の教育は終わっている。

 これだけ社会情勢がめまぐるしく変わっている現代で、今だに時代遅れのような教育を行っているとはどういうことだ? これでは隣国の中国や韓国だけでなく、先進国や発展途上国からも、将来取り残されるのは必須だろう。

 教育とは、「結果」がすべて。

 世間一般的に言われている、「学生らしい」と呼ばれる活動に意味などない。

社会に出れば否が応でも結果を求められるこの世界で、なぜ学校教育はそのことを教えない? それとも、そんな当たり前の事実を教えられるようなまともな教師がいないのか?

 どちらにしても、終わっている。

 だから私は考えたのだ。そんなことを嘆いたところで何も変わらない。ならば、私自身が革命を起こす者になろうではないかと。

私自らの手によって、この軟弱な日本の教育を変えてやろうではないかと。

 そうすれば少しはまともな生徒が育ち、やがてこの日本という国にとって有益な人材が育つはず。いや、自分のおかげで世界でも通用するような人間が育つはずだ。

 私こそが、真の教育者。

 この日本という国を助けるために選ばれた存在。故に、次にこの国を背負っていく者達に、本当の教育というものを教えなければいけい。

 そう、まずは初芝女子高等学校という場所から革命を起こそうではないか。



 燃えるように熱いアスファルト。いつもの坂道。交差点で顔なじみのお花屋さんのおばさんに挨拶してから一直線。見慣れた校舎の姿が見えてくる。うん、ギリギリ間に合いそうだ。

 三度目となる二学期初日。飯田羽澄は全力疾走で学校までの道のりを走っていた。

  これからはちゃんと早起きが出来ますように、と願いを込めて買った新しい目覚まし時計は、まさかの初日から不戦勝。「早く起きなさい!」のお母さんの声で飛び起きてから、今のところフルスピードだ。

「あー、昨日の私、バカ!」

  昨夜は寝る前に拓真から電話がかかってきたのが嬉しくて、つい就寝時間をいつもより大幅にオーバーしてしまったのだ。

  向こうは、「もうそろそろ寝たほうがいいんじゃない?」とせっかく気を使ってくれてたのに。挙句、浮かれた気分のまま布団に入ったせいで、目覚まし時計のセットを忘れる始末。これじゃあいつまで経っても先が思いやられる。

  校門が見えてくると、警備員のおじちゃんが門を閉じる準備をしている姿が目に入った。

「おはようございます!」と挨拶して駆け込めば、「飯田ちゃん、今日もぎりぎりだね」と笑って返事が返ってくる。まさしく、常習犯の名にふさわしい。

  昇降口までたどり着くと、自分と同じように慌ただしい生徒たちが大急ぎで上履きに履き替えている。

仲間がいた安心感と負けてられない闘争心に挟まれながら、約一ヶ月ちょっとぶりに自分の上履きとご対面。よろける身体を支えて靴を履き替えると、迷わずもう一度ロケットスタートを切る。

日々朝から猛ダッシュしてきたおかげか、途中で二人くらいの生徒を抜かして階段へと向かう。一階……二階……、やっと辿り着いた三階では、すでに今日一番の酸素不足。溜まった乳酸が太ももをいじめてくる。

「やっと……やっと着いた……」

  まるで戦場からの生還者のような足取りで教室のドアを開けると、いつものメンバーの顔が飛び込んできた。

「遅い!」

  おはようの代わりに明里の激が飛んできた。「ごめん!」と返事をして辺りを見渡せばクラスメイトがほとんどいない。

「あれ?  みんなまだ来てないの?」

 ぽかんとした顔で羽澄が言うと、明里が大きくため息をついて肩を落とす。その隣では結衣と翔子が苦笑いをしている。

「体育館。始業式でしょ」

  滑舌良く始業式と発音する明里の言葉に、「そっか!」と羽澄はぽんと手を叩いた。

「そんなリアクションはいいから早く鞄置いて準備して!  和泉先生に怒られるよ」

  今全力で走って来たところなのに……。呆然とした表情で羽澄が突っ立ていると、明里と翔子に両腕を引っ張られる。

「わかったわかったから!  鞄だけ置くからちょっと待って」

  羽澄は無理やり両手をほどくと急いで机の上に鞄を置いた。三年生になった時は「余裕を持った行動」を豊富にしたはずだけど、未だに実現できたことはない。

「羽澄!」と教室のドアを開けながら叫ぶ明里に向かって再び猛ダッシュ。もうこんなぎりぎりの生活は嫌だ!

  廊下に出ると結衣と翔子も焦っているようで、階段の方から「早く早く」と手招きしている。

先ほどの息切れも完治しないまま一歩を踏み出そうとするも足が重い。私はいいから先に行ってて、と言おうとしたら「何してんのよ!」と明里に腕を掴まれて引っ張られる。

「ちょ、明里、自分で走れるから……」
「あんたは信用できない!」

  ぴしっと閉められた襖みたいな拒絶の言葉に羽澄は頬を膨らませ、明里と一緒に階段を降りていく。その少し先では自分たちの様子を気にしながら、結衣と翔子が体育館へと向かっていた。

  体育館は校舎左側の一階部分から廊下で繋がっており、入口手前の通路はセーラー服を着た生徒たちでごった返していた。

「なんだ、まだ全然間に合うじゃん」なんて言葉を呟いたら、「私が頑張ったからでしょ」と明里にこつんと頭を叩かれた。「もう」と羽澄がわざと痛そうに頭をさすりながら辺りを見渡した時、一人足りないことに気付いた。

「そういえば沙織はどしたの?」

 今更? というような呆れた表情を浮かべて明里が羽澄の顔を見た。

「沙織は生徒議会があるから先に行ってるよ」

 そうだった、と今度は自分で軽く頭を叩く。それを見て、「まったくあんたは……」と明里がため息まじりに肩を落とした。

 初芝女子高校ではこの時期になると、生徒主導で行う生徒議会なるものがある。

これは、生徒たちが学校方針について一つテーマを決めて、それについて改善や新しいことに取り組むというものだ。

 生徒議会は主に生徒会が中心で行っていて、沙織もそれに所属している。そして生徒議会が始まる二学期では始業式に生徒会長の挨拶もあり、その会長が沙織なのだ。

「沙織も大変だなー」

 ふわぁと欠伸をしながら羽澄が言うと、「あんたが言うとまったく実感伝わんないよ」とすかさず隣から明里の突っ込みが入った。

「今年は何がテーマになるのかな」

 少し楽しみなのか、結衣が嬉しそうな口調で言った。

「まあどんなテーマになったとしても、去年ほどは盛り上がらないでしょ」
「おそらく、そうでしょうね」

 明里の言葉に翔子も同意する。あれは奇跡でしたからね、と付け加えた翔子は眼鏡をくいっと上げた。そしてレンズ越しに、意味深長な視線を羽澄に送る。

「いやー、あれにはまいったよ」

 昨年の生徒議会で、初芝女子高校始まって以来の奇跡を起こした張本人は、照れ隠しするように頭を掻いた。そして口を開いて喋りだそうとした時、突然前方から声が聞こえてきた。

「あ!  飯田先輩、おはようございます!」

  挨拶の主を見てみると、羽澄がまったく面識のない生徒が目の前で手を振っている。上履きの色が違うところを見ると、どうやら二年生のようだ。

そして「え、飯田先輩?」という言葉を合図に、次々と前方にいる二年生たちが振り返ってくる。目の前から送られてくるたくさんの羨望の眼差しに、羽澄は慌てて首を横に向けて視線を逸らした。

「一躍有名人じゃん、羽澄」

  にやにやとした顔の明里が、肘で羽澄の腕を突いた。

「いやー、別にそんなの望んでないんですけど……」

 羽澄はため息まじりに困ったように呟く。

「でも、ほとんどの生徒が羽澄ちゃんのこと知ってると思うよ」

  結衣が嬉しそうに両手を握りしめながら言った。それに続くかのように翔子が、「さすがうちのボスですね」と謎の褒め言葉を言ってきた。

「いやいや、知らない子から挨拶されても困るだけだから。できることなら誰かに変わってほしいよ……」

  羽澄は両手で顔を隠すように覆うと、指先だけを広げて前を見た。

視界には自分たちと同じセーラー服を着た女の子たちの群れが、民族大移動のように体育館へと向かっている。そしてこれだけの人数の女子が集まれば、当たり前だがいたるところで会話に花が咲いていた。

「ねえねえ、宮高のあの男子とはどうなったの?」
「えー、この前の彼氏と別れちゃったんだ……」

  学年や性格が違う女子たちが集まったとしても、みんな喋りたい話題と言えば同じだ。そしてこれこそが、昨年羽澄が成し遂げた偉業の成果だった。

「まさかこんなにも堂々と恋愛の話しが言える日がくるなんてねー」

  明里がしみじみとした口調で言った。それに合わせて結衣がうんうんと頷いている。

 いつもと変わらない風景の中で、変わり過ぎてしまった生徒たちの会話。伝統を重んじる我が校で起こった奇跡の改革。羽澄は未だに自分がその渦中にいたことに実感はなかった。

「しっかしまさかあんたが初芝女子校の一三〇年の歴史を変えるなんてね」

  明里がお化けでも見たかのような目で羽澄のことを見る。

「やっぱり、『愛』の力って凄いんだね!」

  結衣も去年のことを思い出したのか、突然頭にお花畑が咲いたようなセリフを言い出した。愛という、よく耳にする慣れない言葉に羽澄は耳を赤くする。

「ちょっと結衣、恥ずかしいからそんなこと言わないでよ……」

「いいじゃん、事実なんだし」と平然と突っ込みを入れてくる明里に、「まあ、そうだけど……」と羽澄が口ごもる。そう、間違いではない。すべては自分と拓真との関係を守るために行ったことだ。

 羽澄は「もう」とぶつぶつと言いながら明里から視線を逸らすと、再び目の前を向いた。

体育館へと向かうセーラー服の群衆は、去年見た光景とまったく同じ。そんなこと考えながら、羽澄はあの日々の出来事を思い出していた。

 一年前、沙織をエロ教頭の魔の手から救い出した後日、今度はあろうことか自分が同じ窮地に立たされることになった。

拓真と付き合うことができて浮かれていた私は、人気のない公園でかなり恥ずかしい姿をエロ教頭に目撃されてしまったのだ。

 それまで教頭に対して優位に立っていた自分のポジションは音もなく崩れ始め、再び初芝オーシャンズのメンバーが集結して、「リーダーを救え!」というセカンドミッションが始まった。

 この時も策士である翔子の名案によって、初芝女子校の恒例行事である生徒議会を乗っ取ろうというかなり大胆な作戦が発足された。

その作戦とは、議会のテーマを「校則」という的に絞り、我が校に通う女子生徒たちを百三十年間苦しめた魔の制度、「恋愛禁止」の法律を撤廃させることだった。

 ファーストミッションとは桁違いの作戦に、初めて聞いた時は自分も含めて明里や結衣たちも「さすがに無理だろう」とためらいの声をあげた。

しかし、すでにその時には翔子の頭の中に道筋が見えていたらしく、エロ教頭と戦った自分たちは、次に「校則」という見えない巨大な敵と戦うことになったのだ。

 そしてこの作戦には、初芝オーシャンズが助けた大親友の沙織も参戦することになった。成績優秀で生徒会にも所属する沙織がいれば影響力が大きいという、翔子の算段だったようだ。

 真面目な沙織を初芝オーシャンズへの勧誘のために部室へと案内した時は、かなりの抵抗があった。が、彼女はそこでみんなに助けられたことを知って号泣。心良くメンバーに加入してくれたのだった。

 新メンバーも加わった初芝オーシャンズは、本格的に校則改正へと動き出した。

 まずは議会のテーマをこちらで操作するために、全校生徒を対象としたアンケートを実施した。

そこには「ボランティア活動」「学食メニューの変更」の項目に続いて、「厳しすぎる校則について」という生徒たちの興味をそそる選択肢を載せて、票数を獲得することに成功する。

それを沙織が生徒会に提出して、議会のテーマは作戦通りに「校則」に決定し、計画は第二段階へと移った。

 ここからは自分たちも、「生徒会沙織の支援者」として表舞台に立って活動することになった。

 校則と一口に言っても、伝統を重んじる我が校には様々な校則がある。その中から「恋愛禁止」という悪魔の法律をピックアップして、皆の前で処刑する必要があったのだ。

 そこで再び校内活動を実行して、今度は「恋愛禁止の法律撤廃」という署名活動を行った。

これは青春真っ盛りの女子たちから多大な支持をもらうことができて、当初目標だった数を大きく上回り、全校生徒の九割以上の署名を集めることができたのだった! 

 この事実にさすがの先生たちも真っ向から否定はできず、生徒中心で行うはずの生徒議会は、先生たちを巻き込む学校会議へと発展する前代未聞の事態となった。

 先生の中には、前々から恋愛禁止について疑問に思っている人もいたらしく、数週間にも及ぶ議論の末、ついにあと一歩のところまで歩を進めることができた。

しかし、最後の砦である校長先生の許可を、あのエロ教頭が裏から操り止めていたのだ。もちろん教頭の目的は、自分の弱みを握る生徒たちを拘束しておくために。

 この状況を打破しようと、初芝オーシャンズのリーダーとして、そして全校生徒の願いを実現させるために、羽澄は集めた署名の紙束を片手に校長室へと直談判に向かった。

  意外にも、気の優しそうなおじいちゃんの校長先生は「わしゃ別に構わんよ」とすぐに許可をくれたのだが、それを聞いて慌ててやってきたエロ教頭が妨害してきたのだ。

 あの手この手で校長の考えを変えようとするエロ教頭に、これではらちがあかないと思った羽澄は、最終手段として翔子から託された秘密兵器を見せつけた。

それは翔子が高画質な一眼レフで撮った、あのカツラ事件の写真。

 まさか教頭も写真に撮られていたとは想像もしていなかったようで、見る見るうちに顔が青ざめていき、言葉を失っていた。

 総勢七百五十人の署名数よりもたった一枚の写真の方が影響力が強かったようで、ついに初芝女子高校は、百三十年にも及ぶ悪魔の法律から解放されることに成功したのだった。

 この歴史的快挙に、生徒議会はライブ会場並の盛り上がりを見せた。

そして、活動中心にいた羽澄は生徒たちの救世主として一躍時の人となり、全校生徒がその名前を知ることになったのだった。
 

 羽澄は体育館に向かいながら、去年経験した激動の生徒議会のことを振り返っていた。すると隣から不意に明里の声が聞こえてきた。

「さすがうちのナポレオン」
「やめてよその犬みたいな呼び方……」

 ちらちらと周りの生徒が自分の方を見てくる光景に、明里がけらけらとお腹を抱えて笑っている。

 去年成し遂げた偉業によって有名になってしまった自分は、明里からたまにナポレオンと呼ばれている。理由を聞いた時は、「英雄と言えばナポレオンでしょ」と馬鹿げた言葉が返ってきたので、思わず飽きれてしまった。

「あーあ、始業式も去年の生徒議会みたいに盛り上がったら面白いんだけどな」

 さっきの冗談は無かったかのように、明里が話題をさらりと変えてきた。

 本来、全校集会にしろ生徒議会にしろ、体育館に集まって聞くような話しで盛り上がることなんて滅多にない。

去年はテーマに話題性があったことと、驚異的な短期間で目的が達成された衝撃によってみんな盛り上がっていたのだ。

八百名以上の女子生徒たちが歓声を上げる光景は圧巻で、中には感極まって泣く生徒までいたぐらいだ。

「でも今年は新しく赴任してきた先生が注目されてるって、さっきクラスのみんなが話してたよ」

 結衣がスカートの裾を触りながら言った。

「ああ、なんか男前らしいね」

 明里が少し興味ありそうな口調で答える。男前、という言葉を聞いて羽澄の頭の中には拓真の顔が浮かんだ。

「ま、彼氏持ちのあんたには関係ない話しだろうけどね」

  明里の言葉にギクリと耳の奥で効果音が響く。その音が表情にも出ていたのか、「ほらほら彼氏のことばっかり考えない」と明里がまた茶化してきた。

「うるさいなー」と羽澄は少し赤く染まった頬を隠すように顔の前で手を振り、歩みを早めて体育館へと向かった。

 館内に入ると前から順に一年、二年とクラス毎に整列していて、その流れに便乗するように三年である自分たちも列を作っているところだった。

広い体育館がセーラー服姿で埋め尽くされる光景を見て、改めて羽澄は自分が通う学校がマンモス校だと実感した。

「あ!  羽澄じゃん。久しぶり!」と、今度は見慣れた顔の友達から挨拶されて、羽澄は嬉しそうに手を振った。声をかけられるなら、知らない人よりも友達の方がはるかに良い。

「三年!  早く整列しろ」

  体育館の端の方から、滑舌の良い和泉先生の声が聞こえてきて、反射的に羽澄の背筋がピンと伸びる。何の縁があるのか、三年生になっても担任は和泉先生になった。

  和泉先生とは初芝女子校の美人教師として有名だ。

  すらっとしたスタイルに、「どうやって手入れしているんですか?」と聞きたくなるような艶のある黒い髪。

すっと通った鼻筋に、二重の大きな猫目には、いつも生徒たちのことを見守ってくれている温かさが詰まっている。が、何度も言うが怒るとほんとに怖い。

 見た目、中身と共に生徒たちからの人気は高く、しかもこの生徒たちというのは何も初芝女子校の事だけではない。

噂によると近郊の男子校の生徒が、和泉先生を見たいが為に覗きにやってくるという話しもあるぐらいだ。その話しを初めて聞いた時は、「男子ってほんとバカだな」と羽澄は呆れ返っていた。

ちなみに女子校でありながら和泉先生に人気があるのは、そのさばさばとした性格も一役買っている。

「ほら二組! 早く並べ」

 和泉先生の号砲が自分たちのクラスに飛んできたので、羽澄は慌てて前から二番目のいつものポジションを目指した。

その途中、和泉先生と目が合いそうになり、咄嗟に視線を逸らした。このタイミングで目が合えば絶対に睨まれるから。

「羽澄、久しぶり」

 一番先頭に並んでいた麻耶が小声で言ってきたので、羽澄も「久しぶり!」と笑顔で返事した。

つもる話しはあるけれどもちろんここではできないので、羽澄は続けざまに出そうになった言葉たちを喉の奥へと飲み込んだ。

 舞台の方を見ると生活指導の高杉先生が、怒った感情を表現しているような尖った眼鏡をくいくいと上げながら見下ろしている。

「みなさん、早くお並び下さい」

 厳しい目つきを光らせながら、マイクを通してヒステリックな声が館内に響いた。

 生活指導の重鎮、高杉富美子は初芝女子校でかなりのベテラン教師だ。歳はおそらく四〇代後半。

スタイルの良さとは種類の違う細身の身体で、逆三角形に近い鋭い眼鏡がトレードマーク。ヒステリック教師と言えば誰もがぴんと想像するような風貌で、遅刻魔でよく生活指導室にお世話になっている羽澄にとっては、まさに天敵のような存在なのだ。

 舞台からは高杉先生、横からは和泉先生。自分たちは完全に包囲されている。

 そんなどうでも良い言葉が頭に浮かぶほど、すでに羽澄の心は退屈していた。

が、周りの生徒たちは違うようで、あちこちから「もしかしてあの先生?」「きゃーカッコいい!」などと黄色い声が上がっている。もちろんその声援の矛先にいるのは、噂の新任先生だ。

 ジャージ姿の先生もいる中、赤いネクタイにぱりっとしたストライプ柄のスーツ姿は、壇上からは一番遠い自分たちの場所からも目立っていた。

耳が出るくらいのショートヘアはくねくねとうねっていて、そのヘアスタイルから勝手に頭の中では「若い頃にサーフィンしてただろ」というレッテルを貼っていた。でも、「してましたよ」と言われても納得ができるような顔立ちはしている。

「これまたチャラそうな先生がきたなー」
 
 拓真とは正反対だ、という思いがついついそんな言葉になって口から飛び出した。

呟き程度のつもりだったが意外と声が大きかったらしく、前に並んでいる麻耶が振り返って「そう? 私は結構好みかも」なんて聞いてもいない情報を教えてくれる。

「わかったから前向いてよ」

 和泉先生の標的にはなりたくないので、羽澄は慌てて麻耶の両肩を掴むと無理やり前を向かす。一体あの先生のどこが男前なのか、羽澄には理解できなかった。

「静かに! 今から始業式を始めますわよ」

 再びヒステリックな声がマイクを通して聞こえたかと思うと、やっと体育館に静けさが漂い始めた。

そして高杉先生はその甲高い声でわざとらしく咳払いをすると、これまたわざとらしく「これから校長先生のありがたいお言葉を頂きます」と抑揚をつけて言った。

 それを聞いた羽澄は、お言葉はいいから休みがほしい、と心の中で呟く。

「それでは、一礼!」

 マイクがハウリングするのではと心配するほど、キーの高い声で高杉先生が号令を出した。

それに合わせて八百人以上いる生徒たちが、各々のペースで頭を下げる。羽澄もそんな生徒たちに合わせて、とりあえず頭を下げた。なぜか我が校では、始業式や全校集会の時は、まずこの一礼から始まるのだ。

「えーみなさん、お久しぶりです」

 さっきのハウリングトーンからは打って変わり、今度は一気に眠気を誘うようなおじいちゃん声がスピーカーを通して伝わってきた。

髪だけでなく特徴的な長い眉毛と髭はどれも、白。初めてその風貌を見る人は、「どこかの長老ですか?」と聞くかもしれない。

小柄で華奢な身体は、年齢のためか少し前に曲がっている。どう考えても定年をはるかに過ぎていそうなのだが、この学校の内部事情は羽澄にはよくわからなかった。

 校長、と言えば学校のナンバーワンではあるが、我が校には個性豊かな先生が多いため、どうしても校長先生の影は薄い。しかし若い頃はかなりぶいぶい言わせていたようで、そんな話しを翔子から聞いたことがある。

「夏休みはいかがお過ごしだったでしょうかな?」

 まるで孫に語りかけるような口調で校長先生は話しを始めた。

 いつもの決まり文句から始まり、季節の話し、高校生らしい生活についての話し、二学期の話しなど……。

お経のような変わり映えしない話しを聞きながら、羽澄は睡魔というモンスターと戦っていた。

 ごほんと校長が咳払いすれば、こくんと羽澄の首が落ちる。

 このままではマズいと思いながらも、今度はかくんと膝が落ちそうになって、羽澄は慌てて姿勢を正した。

ちょうどそのタイミングで校長先生の話しが終わり、周りではまったく心の込もっていない拍手の音が鳴り響いている。羽澄は自分の眠気を覚ます意味も込めて、同じように両手を叩いた。

 よぼよぼとした足取りで校長先生がスタンドマイクから離れると、今度は再び高杉先生が前に出てきた。

「続いては、今学期から新任される先生のご紹介です。三年生の英語を担当していた細川先生が産休に入られたので、今期からは大澤先生が担当されます。それでは大澤先生、自己紹介をお願いします」

 先ほどまでつまらなさそうに静まり返っていた館内に、むくむくと熱気が帯び始めた。  

 大澤先生と呼ばれるその人物は、堂々とした足取りでマイクのもとまで歩みよる。身長は高い。百八十センチ以上はあるだろう。まったく好みの顔ではないが、スーツ姿は映えると羽澄は思った。

「今学期より本校に着任することになりました、大澤誠一と申します。担当教科は三年生の英語ですが、学年問わずみなさんのお力になりたいと思っているので、よろしくお願いします」

 そう言って大澤先生は静かにマイクを置いた。わずか二十秒足らずの自己紹介には割に合わないぐらいの盛大な拍手が送られている。

どこからともなく聞こえる「キャー!」というセリフに、ここはアイドルの舞台挨拶かと羽澄は呆れ返っていた。

 熱し過ぎた会場を冷ますかのように、再び校長先生がマイクが握る。

「えー大澤先生はこれまで色んな経験をされてきて、多数の企業ともコネクションをお持ちの方です。そして今回そんな経験と大澤先生のご好意から、なんと我が校の全教室に最新型のウォーターサーバーが設置されることになりました」

 おお! っと、館内に驚きと感嘆の声が上がった。
今日の校長先生の話しでは一番の盛り上がりを見せている。って、別に校長先生のありがたい話しではないのだけれど……。

「ウォーターサーバーか……。出来れば全室クーラー設置とかの方が良かったな」

  羽澄はそう呟くと、暇つぶしがてらスカートの裾をいじる。

そんな自分とは対照的に、前も、後ろも、横からも、「大澤先生、素敵!」と黄色い声が飛び交っている。どうやら周りにいる同級生たちにテンションを吸い取られているようで、周囲が盛り上がれば盛り上がるほど、冷静になっていく自分がいた。

(あ、でもウォーターサーバーが教室にあれば、インスタントラーメンが食べられるかも)

  ふとそんな事が頭に浮かび、羽澄の新任教師に対する評価はわずかに上昇した。

「大澤先生は海外でも生活されていた経験があります。堪能な英語のスキルをお持ちなので、これを機に受験生の三年生は特に勉強に力を入れるようにお願いします」

 受験勉強とはまるで異なる目的を持った生徒たちからは、「はーい!」と元気の良い返事が聞こえた。普段、校長先生の話しで返事をすることなんて無いのに、こういう時は状況が違うようだ。

「私も職員室に行って英語の勉強教えてもらおうかな」なんて麻耶が振り向き様に小声で言ってきたので、「この前英語は捨てたって言ってたじゃん」と一応釘を刺しておいた。

まあ自分の場合、先生が誰であろうと英語も数学も捨てているけど……。

 二学期の始まりを告げる始業式は、瞬間的な盛り上がりを見せた後に、いつも通り静まり返った雰囲気の中で終わった。

が、ぞろぞろと生徒たちが各自の教室に向かう廊下では、やはり話題はあの新任先生の話しで盛り上がっていた。

「いやー、まさかあんなに男前なんて思わなかった!」

 さっきから興奮しっぱなしの明里が、隣を歩きながら言ってきた。

「そう? 私はべつに男前とは思わなかったけど」
「ほら出た。彼氏一筋発言! まああんたには確かに男前の彼氏がいるから、何も思わないのかもね」

 何かあればすぐに彼氏彼氏と茶化されるのは嫌だが、拓真のことを男前と言われるのは、やはり彼女としては嬉しくもあり、むずがゆくもある。

「何やら、かなりやり手の先生のようですね」

 さっきから小型手帳を見ている翔子が不意に発言した。

ちらっと見ると、その小さな手帳にはびっしりと細かく文字が刻まれている。おそらく翔子のことだ。あの小さな手帳には、触れてはいけないスキャンダルがたくさん詰まっているのだろう。

「げ、翔子もう大澤先生の情報を掴んだの?」

 明里が眉毛を寄せて翔子に向かって言った。その言葉に翔子は、「ある程度は」と不敵な笑みを浮かべる。

「まあ情報と言っても特に目立ったものはないですが……、何やら前職はIT企業の社長をしていたようですね」
「うそ! 先生やってたわけじゃないの?」

 明里が目を丸くして驚いた。

「はい。それと非常勤で大学の講師もしていたようです。かなり異色な先生であることは間違いないですね」
「なんか才能溢れるって感じで素敵じゃん!」
「そう?  先生してなかったってことは、教えるの下手くそかもよ」

  反射的にことごとく揚げ足をとってしまうようで、羽澄は明里の言葉に小言で返した。隣では結衣が、「あの先生って何かの動物に似てるんだよねー」とまったく異なる視点で夢中になっているようだ。

 周りを見渡せば、明里と同じように興奮した口調で大澤先生について話すセーラー服の少女たち。そんな様子を見ながら、羽澄はため息をついて肩を落とした。

  これは当分この話題で持ち切りになるだろう。

  どんな先生が来たとしても興味はないけど、願わくば、前の先生よりかは簡単なテストを作ってほしい。
  
  盛り上がるクラスメイトたちの中で、羽澄は別のことに期待していた。
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花の色は無味無臭 ある日、町の中心にある花屋さんに変わった花が並べられていた。 「皆さん、今日は新しい花を取り扱いました!これがその花です。」 店主が示したのは、見たこともないような奇妙な色の花だった。その花はまるで透明なようで、見る角度によっては頼りなく浮かんでいるようにも見える。その花の株の横には大きな看板が掲げられていた。 「新感覚の花!無味無臭!」 「これが、新感覚の花、”ミナミムシュクシュ”です!」 「なんだその名前?よくわからないな。」 お客さんはそう言いつつも立ち止まる。 「まぁまぁ、名前なんてどうでもいいじゃないですか。大事なのはその見た目と香りです。」 「でも、無味無臭って…」 「まさにその通り!この花は見た目も香りも何もない、まさに無味無臭なんです!」 「なるほど…でもそれってどうやって育てるの?」 「それは…えっと…普通の花を育てるのとはちょっと違うかもしれないですね。」 「それじゃあ、水や肥料を与える必要がないんですか?」 「そうなんです!全く与える必要がないんです!」 「なるほど…でも、それって家で飾ってもしょうがないじゃないですか。」 「そ、そうなんですね…でも、それがこの花の特徴なんです!」 「特徴って…まさか価格が高いんじゃないでしょうね?」 「その通り!この花は他の花とは違い、特別価格で販売されています!」 「特別価格…それっていくらくらいですか?」 「それは…一万円です!」 「一万円!?まさか冗談でしょう?」 「冗談じゃないんです!この花は他の花とは違って、特別なんです!」 「うーん…でも無味無臭の花に一万円って…」 「理解できないかもしれませんが、これは新感覚の花なんです!」 「まあ、花屋さんも一つぐらい変わった花を取り扱うのもいいかもしれませんね。」 「そうですね!ぜひ、皆さんにこの新感覚の花、”ミナミムシュクシュ”をお試しいただきたいんです!」 「うーん…ちょっと考えてから決めますね。」 その日から、街の人々は不思議な花、”ミナミムシュクシュ”に興味津々だった。果たして、その花は本当に無味無臭なのか?そして、人々は一万円という高価な価格を払ってその花を買うのか? それは今後のお楽しみだ…

そこらで勘弁してくださいっ ~お片づけと観葉植物で運気を上げたい、葉名と准の婚約生活~

菱沼あゆ
キャラ文芸
「この俺が結婚してやると言ってるんだ。  必ず、幸運をもたらせよ」  入社したての桐島葉名は、幸運をもたらすというペペロミア・ジェイドという観葉植物を上手く育てていた罪で(?)、悪王子という異名を持つ社長、東雲准に目をつけられる。  グループ内の派閥争いで勝ち抜きたい准は、俺に必要なのは、あとは運だけだ、と言う。  いやいやいや、王子様っ。  どうか私を選ばないでください~っ。  観葉植物とお片づけで、運気を上げようとする葉名と准の婚約生活。

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