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そして戦いへ......
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ついに運命の日がやってきた。
気温三十二度、空は快晴。天候としては申し分ない。
羽澄は大きなサングラスに麦わら帽子を身につけ、待ち合わせ場所のマックまで向かった。
やれることはやってきた。
今日の為に何度も打ち合わせを重ねてきたし、シュミレーションも行ってきた。この作戦がうまくいくかどうかで、沙織の運命が決まる。
いつもとは違う緊張感に心を突つかれながら、夏空の下を歩く。しゃわしゃわとうるさく鳴いている蝉の声が、今日だけは応援歌のように聞こえてくる。
よほど気合いが入っていたのか、気がつけば待ち合わせ時間の二十分前にマックの入り口についていた。
ここは自分が一番乗りだろうと思ってお店の二階に上がると、奥の客席に怪しいサングラスをかけた結衣の姿と、その目の前には翔子の姿もあった。どうやらリーダーは三番乗りのようだ。
「おはよう」
せめて気持ちだでもと、声色を落としてボス風な挨拶で二人の前に現れると、ノリが良い翔子と結衣が敬礼をしてくれた。
「ボス、おはようございます」
滑舌良く挨拶を返してくれた翔子の手元には、磨き途中の一眼レフが置かれている。さすが翔子。すでに気合いバッチリだ。
「明里はまだ来てないんだね」
羽澄は店内をぐるっと見渡す。まだ二十分前なのでもちろん遅刻ではないが、いつも自分がぎりぎりに来て明里に小言を言われる分、今日は何だか勝った気分だ。
「明里ちゃん、どんな姿で来るんだろうね」
おっとりとした口調で、前回と同じくスタイリッシュなサングラスを掛けている結衣を見て、羽澄は一瞬目を逸らす。ダメだ。久しぶりに見るとやっぱり面白い。
羽澄は口元を押さえながら黙って席に座ると、出来るだけ結衣の方を見ないようにした。幸いにも変装用のサングラスが、その事実をうまく隠してくれている。
「いよいよ今日ですべて決まりますね」
秘密兵器を丁寧に磨きながら翔子が言った。その言葉に羽澄と結衣が、ごくりと喉を動かしてゆっくりと頷いた。
「どうしよう……何だかすごく緊張してきちゃう……」
結衣が両手でほっぺを抑えながら、不安げに呟く。
それを見て羽澄が「大丈夫だ。俺たちがいる」と、わざとらしく男っぽい口調で言うと結衣の肩をぽんと叩いた。何だか本当に秘密組織のリーダーになった気分だ。
自分の逞しさが伝わったのか、結衣が「そうだよね」と言って白い歯を見せる。いつもなら可愛さ満点のその笑顔も、サングラスのせいで奇妙な違和感を生み出しているが……。
羽澄は込み上げてくる笑いをごまかすために大きく咳払いすると、「ちょっと飲み物買いに行ってくる」と言って、そそくさと立ち上がった。もう少しすれば、結衣の姿も見なれるはずだ。
階段を降りてレジまで向かうと、日曜日の昼間は家族連れで賑わっていた。オレンジジュースのSサイズ一つ買うために、割りに合わない待ち時間を乗り切って、羽澄はやっとの思いで翔子たちの所へと戻った。
「あれ? 明里、まだ来てないの?」
席に戻ると、先ほどと同じ顔ぶれに羽澄は首を傾げた。
「うん……明里ちゃん、珍しく遅いね」
結衣がテーブルに置かれたスマホをタッチして時間を確かめる。ちらっと見えたその画面には、待ち合わせ時間二分前の表示がされている。
いつも明里はだいたい十分前には来ているので、これは本当に珍しいことだった。
「明里め……気合いが足りんな」
羽澄は無い髭を触るように顎に手を当てると、これはリーダーとしてバシッと言ってやろうとにやにやと考えていた。するとちょうどそのタイミングで、頭上から「お待たせ」と明里の声が聞こえた。
「明里、ぎりぎりじゃ……」
ここぞとばかりに小言を言ってやろう顔を上げだ瞬間、羽澄の瞬きが止まった。同じように隣では、結衣と翔子も固まっている。
「ちょっと準備に手間取っちゃって、ギリギリになっちゃった……」
明里は照れ隠しのように指先で前髪を撫でるも、それはいつもの見慣れた髪では無かった。
普段の黒ではなく茶色味がかったその髪の毛は、毛先にいくほどゆるやかなパーマがかかっていて、先端は大きく開いた胸元にかかっている。
純白のトップスは明里の肌の色とピッタリと合っていて、首元と手首に輝く金色のアクセサリーが眩しい。
そして男性陣の視線を誘惑する黒のミニスカートは、「それ、見えるんじゃない?」とこっちが心配するほど短く、レースの刺繍が大人の色気を漂わせている。
あまりの大胆さに同性の自分でさえ、一瞬どこに目を向ければいいのかわからない。この姿でシャレたサングラスまでかけているので、ぱっと見ればまったくの別人だ。
「あ、明里……さん、ですよね?」
咄嗟に口に出た言葉は何故か敬語だった。その様子を見て明里がぷっと吹き出す。
「当たり前じゃん。どう、変装ばっちりでしょ?」
そう言って顎にピースをくっつける明里は、どっからどう見てもモデルか女優だ。まあ、モデルなのは本当だけど。
「明里ちゃんすっごく綺麗だよ! 一瞬誰かわからなかった」
結衣が目を輝かせながら言った。どうやら結衣の中でチワワへの愛情と並ぶくらい、明里の変身っぷりは凄いようだ。
「完璧ですね……うん、完璧です」
翔子が磨き途中のカメラを手に取り、高速連写を行なっている。その姿はもうアイドルの追っかけか、ちょっとエロい雑誌を作っていそうな写真家のようだった。
「ちょっと翔子、撮りすぎだって……」
明里が恥ずかしそうに、翔子が磨いていたレンズに手で蓋をする。羽澄はその様子を、ぽかんと口を開けたまま眺めていた。
ふと辺りを見渡してみると、店内にいる男性陣の視線が自分たちのテーブルに注がれていることに気付く。
もちろん、目的は明里を見るためだろう。色気を漂わす友人は、早くもマックに来ている男どもを虜にしていた。
「明里ちゃん、髪まで染めちゃって大丈夫なの?」
結衣が少し不安げに明里に聞いた。伝統と規律を重んじる自分たちの高校では、当たり前だが髪を染めるなんて御法度だ。
「大丈夫、今日の夜には黒色に戻すし。まあ髪は傷んじゃうけどね……」
そう言って名残惜しそうに茶髪を指先に絡める明里の姿は、絵になるほど美しく、ついつい見惚れてしまう。同じ年代、同じクラスにたどり着いた自分とのこの違いは何なのか?
羽澄は嫉妬にも近い憧れを強烈に感じていた。今目の前にいる人物なら、宮城さんの隣を歩いていても、ばっちりお似合いだろう。
そんなことを考えながら窓の方を見ると、うっすらと写る自分の姿に、思わずため息が出る。
「それでは全員揃ったので、作戦の最終確認を始めますか」
もう十分写真は撮れたのか、満足そうな表情を浮かべる翔子が言った。
「そうだね、あんまり時間もないことだし」
そう言って明里が椅子を引いてテーブルに近づく。大胆な胸元が急に目の前に現れて、羽澄は思わず目を逸らす。
「ゆ、結衣、そう言えば餌の方は準備できた?」
心の動揺をチワワの話しにすり替えて、羽澄は結衣の方を見た。どうやら明里の衝撃的な登場に、結衣のサングラス姿にはもう免疫ができたようだ。
「うん! 一番喜んでくれそうな物を持ってきたよ」
結衣は太ももに乗せていたケーキ屋さんのような箱をテーブルの上に置いた。甘い物が大好物の羽澄は、反射的に顔を近づける。
「え? これに入ってるの?」
予想していたものよりも、はるかに可愛くてオシャレな箱の登場に、羽澄は目を丸くした。
「そうだよ。私の家のチワワたちもこれが大好物なの!」
語尾を上げて嬉しそうに結衣が箱を開けると、中には本当にプチケーキかと思ってしまうような、色とりどりの餌が入っていた。
「ええ! これぜーったい犬の餌じゃないでしょ!」
目の前の衝撃が足にまで伝わり、羽澄は勢いよく立ち上がった。
明らかに普段自分が食べているお菓子よりも、クオリティが高い。あまりに美味しそうな見た目に、自然と喉の奥が鳴る。
手前にあるモンブランみたいな餌に触ろうとした時、ぱしっと明里に手を叩かれた。
「あんたの餌じゃないから」
「いて! わかってるよ、そんなの……」
口を尖らせて明里を睨むも、慣れないその姿にまだ動揺してしまう。
「最近の犬の餌って、こんなに可愛いんだ」
自分には注意しておきながら、明里は何食わぬ顔でプチケーキもどきを指先で突つく。
「なかなか写真映えしそうなデザインですね」
そう言って翔子は再びカメラを構えると、さきほどまでモデル撮影に見せていた腕前を、今度はお菓子撮影で披露する。
こんな美味しそうな餌を、結衣が飼っているチワワは毎日食べているのか……。
チワワに対して妙な嫉妬心を感じながら、羽澄は黙って餌を睨み続けていた。明里の変装といいチワワの餌といい、今日は何かと心に引っかかることが多い。
「この餌なら喜んでくれるかな」と微笑む動物愛好家に、羽澄の心のもやもやは「まあ、喜ぶんじゃない」と少し冷めた口調となって外に出た。
この作戦が無事に終わった時は……、絶対に宮城さんと美味しいケーキを食べに行ってやる!
違う闘志を燃やす羽澄を見て、翔子は「さすがボス。やる気満々ですね!」と感心していた。
スキャンダルを掴む為の武器もすべて揃い、作戦の最終確認もスムーズに終わったので、いよいよ決戦の地へと向かう時がやってきた。
「いい、みんな? 今日で何としてでも沙織を助けるんだから!」
羽澄のかけ声に合わせて、四人の右手がテーブルの真上に重なり、小さな円陣を描く。
「初芝オーシャンズ…………ファイト!」
羽澄は高らかに上げた右手でメンバーの絆を確認をすると、「よし!」と言って立ち上がった。
各自武器を持って勇ましく出口へと向かう姿は、まるでハリウッド映画のワンシーンのようだ。マックの店内でさえも、自分たちの秘密基地に思えてくる。
お店から出ると、そのままポルシェにでも乗り込むような勢いで道路へと向かい、横断歩道を渡ってホテルを目指す。
目の前にそびえ立つ敵の巨大なアジトは、今日も灼熱の光を全身で反射させていて、自分たちを威嚇しているようだ。
「ついにきたね……」
敵の本拠地を前に、羽澄はぎゅっと拳を握った。隣にいる参謀長の翔子も、緊張した面持ちで「いよいよですね」とごくんと唾を飲み込む。
「絶対に成功させるわよ」とセクシー担当の明里の言葉に、「チワワのことは任せて!」と動物愛好家の結衣が返事をした。
「みんな、作戦名は『HOGG』でいくから」
「……何それ?」
リーダーの暗号のような発言に、明里が眉をひそめる。
「だーかーら、HOGGで『初芝オーシャンズ・ゴーゴー』ってこと!」
胸を張って言い切る羽澄の姿に、明里は思わず目を細めた。この子の英語のテストは大丈夫なんだろうか……。
「ボス、それでは始めますか」
翔子の言葉に羽澄が大きく頷く。ついに沙織を助けるための初ミッションが始まった。
慎重に計画を進める為、今回は四人ばらばらでホテルに入ることになり、まずは羽澄が潜入することになった。
メンバーの応援を背中に受けて、羽澄は三度目となるドアマンのいる扉へと向かった。
いつも穏やかなドアマンでさえも、今日だけはあの微笑みの中に、何か企みがあるんじゃないかと疑ってしまう。出来るだけ平常心を保ちながら、ホテルの入り口へと歩いていく。
別にプールに潜るわけではないけれど、飛び出しそうな心臓を抑える為に、羽澄は大きく息を吸って呼吸を止めた。
そして潜水するかのように、静かにゆっくりと扉まで近づく。どうやらドアマンは、まだこちらに気付いてないようだ。
肺に貯めた酸素の量が黄色信号に変わった時、ドアマンが自分の存在に気付いて微笑む。息を止めて苦しいせいか、その微笑みに余計に不信感を感じてしまう。
怪しまれないように、羽澄もきゅっと口角を上げた。ヤバい……、今ので酸素が赤信号だ。
大きく息を吐き出したいのを我慢して、少し早歩きに切り替えてゴールを目指す。
あと二十歩、十九歩、十八歩……。
羽澄は感覚頼りの勝手なカウントダウンを始めて、漏れてしまいそうな空気を必死になって止めていた。
十歩、九歩、八歩……。
残り五歩を切ったあたりから、鼻からひゅーひゅーと息が抜けてきた。ここまで来たら、最後まで我慢だ。羽澄は不自然なくらいの大股歩きに変えて、残りの歩数を縮める作戦に出た。
ドアマンの微笑みが苦笑に変わったのを視界の端っこで確認して、やっとの思いで自動ドアをくぐった。
「ぷはー!」
深海から上がってきたクジラのように大きく呼吸すると、思わず変な声も出た。
あ! っと思った時はもう手遅れで、目の前を歩いていたアメリカ人の女性と目が合う。ふくよかで優しそうなその貴婦人は、笑顔で「ハーイ」と挨拶をしてきた。 もしかして、さっきの言葉を挨拶と思われたのか?
「は……ハーイ!」
羽澄は教室で手を挙げるような感じで、ぎこちなく返事をすると、くるっと向きを変えて急いでカフェへと向かった。
作戦スタート直後から内容が濃くて、空気が薄い時間を経験したせいか頭が痛い。カフェの入り口に着いた時には、羽澄はすでに疲れ始めていた。
「今からが本番でしょ、わたし!」
軽く自分の頬を叩くと、再び心のスイッチをオンにする。顔を上げると、目の前にはお菓子がきらめくショーケース。
カラフルなプチケーキを見ていると、間接的に結衣の餌の一件を思い出して、チワワに対してふつふつと闘志が込み上げてくる。
ダメだダメだ……自分は一体誰と戦いにきたのか。
羽澄はショーケースを見たい気持ちをぐっとこらえて、カフェの入り口へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」の声でレジの方を見ると、三回目にして初めて見る女性店員の姿があった。
「お一人様でよろしいですか?」とリズムよく転がる彼女の言葉に、羽澄は慌てて店内を見渡す。
今回ばかりは、かなり慎重に席を選ばないといけない。エロ教頭が見える位置で、テラスへの道が近くにあって、それとえっと……。
早く席を見つけなければという焦りと、店員が自分の返事を待っているプレッシャーに、羽澄の頭の中は真っ白になっていた。「あの……」と再び女性店員の声が聞こえて、羽澄は咄嗟に口を開いた。
「お、大人一名でお願いします!」
言い切った直後に、選んだ言葉の違和感に気付いた。大人一名って……何言ってんだろ、私。
恥ずかしさで、サングラスで隠れている両目が泳ぐ。店員の顔を直視することができず黙っていると、笑いの含んだ声で予想外の返事が返ってきた。
「もしかして……、あなたが羽澄ちゃん?」
「え?」
見ず知らずの女性に突然名前を当てられた羽澄は、驚いて少し後ずさりした。まさか……すでに顔が割れている?
もしやピンクマダムの手先では? と、羽澄は女性店員を凝視した。返事もできず戸惑っていると、目の前の女性は口元に手を当てて笑い始める。
「ごめんごめん、突然ビックリしたよね。私の名前は橋本千里。翔子といつも仲良くしてくれてありがとね」
「……え?」
短い自己紹介を聞いて、羽澄の頭の中で「?」が飛び交った。橋本千里? 翔子?
やっと一つの結論にたどり着きそうになった時、女性店員の方が先に口を開いた。
「翔子の姉です。よろしくね、羽澄ちゃん」
「……え……ええー!」
驚くほどの声量が出てしまい、羽澄は慌てて両手で口を塞いだ。
入り口近くのテーブルにいる老夫婦が怪訝そうな顔で見てきたが、翔子のお姉さんは愉快そうに笑っている。その姿を見れば見るほど、翔子との血のつながりが見出せない。
背が低い翔子とは対照的にすらっと伸びた身長に、はっきとした目鼻立ち。艶のある黒髪はポニーテールで綺麗に整えられている。
どことなく雰囲気が、和泉先生に似ているような気がした。愛嬌のあるその笑顔に、このお店の看板娘に違いないと、羽澄は直感的に思った。
「あ、あの私……翔子さんと同じクラスの飯田羽澄と、申します」
嫁入り前のぎこちない挨拶みたいに自己紹介すると、「こちらこそ、よろしくお願いします」と、翔子のお姉さんは改めて丁寧に頭を下げてくれた。
その姿勢があまりにも綺麗で、羽澄は少しの間見とれてしまった。
「お友達さんを助けるんだってね」
翔子のお姉さんは、そう言って小さくウィンクした。飛んできた見えない好意に、少し恥ずかしくなる。そういえば、作戦決行日はお姉さんも協力してくれるって、翔子が言ってたな……。
「じゃあ席まで案内するね」と白い歯を見せて、千里はゆっくりと店内を歩き出す。それに合わせて羽澄も右足を上げると、ふかふかの絨毯の上を進み始めた。
ほんのりとコーヒー豆の匂いが漂う入り口を抜けると、開放的な空間が顔を出す。
休日でありながらマックのような混雑さはなく、相変わらず落ち着きのある優雅な時間が流れていた。
カップがソーサーに当たる音。英語の会話。そして、貴婦人たちの上品な笑い声。普段あまり聞くことのない音をすり抜けながら、羽澄は目的のテーブルまで歩いた。
「こちらへどうぞ」と翔子のお姉さんは綺麗な指先で、自分専用のテーブルを示してくれる。
「はい……」と、まるで王子様にエスコートを受けるヒロインのような気分で、羽澄はその席へと座った。
翔子が事前に作戦をお姉さんに伝えてくれていたのか、そこは確かにテラスへと続く通路の隣で、いつもエロ教頭たちが密会をしているテーブルが見える場所だった。
翔子のお姉さんは慣れた手つきでおしぼりと水が入ったグラスを置くと、「ちょっと待っててね」と言ってレジのほうへと歩いて行った。その美しい後ろ姿を、羽澄は見とれるように眺めていた。
「いいな……あんなお姉ちゃん」
自分の姉の姿を思い浮かべて、急に虚しさが顔を出す。翔子のお姉さんの優しさと、気品の十分の一でもうちの姉が持っていれば、今頃私だってもう少し上品な女の子になっていたのかもしれない。
「翔子のお姉ちゃんの爪の垢でも注文しようかな……」
羽澄はメニューを見ながらそんなことを呟いた。ふと顔を上げて前を見ると、エロ教頭たちのテーブルに何かが乗っていることに気付く。
「なるほど……そういうことか」
羽澄の視線の先には、「予約席」と書かれた小さなプレートがあった。どうやってエロ教頭たちを、いつもの席に座らすのか疑問に思っていたけれど、こういうことだったのか。
「さすが翔子、抜け目がないな」
頼もしい右腕の存在にうんうんと一人頷いていると、「お待たせしました」と再び優しい声が聞こえてきた。見ると、にっこりと笑う翔子のお姉さんが、オレンジジュースを乗せたトレイを持っていた。
「羽澄ちゃんは、オレンジジュースで良かったかな?」
出来過ぎたサービスに、羽澄は思わず目を丸くする。しかも翔子のお姉さんは、「これは私からのプレゼントです」と言って、そのオレンジジュースをテーブルの上に置いた。
「え! い、いいです! 大丈夫です。ちゃんと払います!」
手当たり次第に言葉を飛ばして、羽澄は自分の誠意を見せる。その様子を見た千里は、唇に手を当ててくすっと笑った。
「いいのよ、いつも翔子がお世話になってるんだし。気にしないで」
そう言って翔子のお姉さんは、「作戦頑張ってね!」と付け加えると、くるっと向きを変えて再びレジの方へと歩き出した。
羽澄は視線をテーブルに戻すと、気遣いと優しさが詰まったジュースを見る。
「……帰る時には絶対に爪の垢をもらっておこう」
それをお姉ちゃんに飲ませてやると心に決めて、羽澄はストローに口を付ける。からんと氷の音を立てたオレンジジュースは、飲むと心にじんわりと温かさが広がった。
喉の乾きと心の潤いを満たすと、羽澄はバッグの中から翔子から託された武器を取り出した。
テーブルの上に置かれたテグスは、出番を待ち構えているかのように静かに丸まっている。その先端を持って羽澄は辺りを見渡す。
「どこかに…………、あ!」
ちょうどテラスへの通路を挟んだ真横に、がっしりとしたレンガ造のプランターが置かれていた。しかも、テグスを巻くのにはぴったりの小さな脚が付いている。
「まさか……ここまで計算されてた、とか?」
神がかった偶然なのか、計算された必然なのかわからないが、羽澄はぱっと顔を上げてレジの方を見る。
そこには無邪気な笑顔で、外国人の夫婦と話しをしている翔子のお姉さんの姿が見えた。
「さすがにそれは考え過ぎか……」
羽澄は再びプランターの脚をじっと見ると、きょろきょろと周囲を確認する。幸いにも自分の周りには他のお客がおらず、さっとテグスを巻けばバレなさそうだ。
「よし……」
スパイ映画さながらの動きでテグスを握ると、プランターの足下にしゃがみこんだ。不安とプレッシャーを感じながら、急いでテグスを巻き始める。
緊張のせいか、早くも手のひらに汗が滲みだす。途中何度か自分の指まで巻き込みそうになりながらも、羽澄は何とかトラップを仕掛けた。念のために何度かつんつんと引っ張ってみる。うん、問題なさそうだ。
そのまま何食わぬ顔で席に戻ると、左手に握ったテグスを目で追ってみる。
作戦の要を背負った透明な糸は、その身を隠すように、ふかふかの絨毯の中にうまく溶け込んでいた。
これなら目を凝らさなければ、バレることはない。後はタイミングを見計らって、運命の糸を引くだけだ。
重要な一仕事を終えて、羽澄はぐっとオレンジジュースを飲む。すると視界の奥の方で、ホテルに入ってきた翔子の姿が見えた。
一眼レフの入った黒いリュックを背負った翔子は、そのまま真っ直ぐと、カフェへと向かってくる。入り口には翔子のお姉さんが立っていて、初めて目撃する姉妹の対面の瞬間だ。
「なんか、新鮮だな……」
やっぱり翔子のお姉さんは思った通りの素敵な人で、実の妹とも楽しそうに話している。長風呂でがみがみと小言を言ってくるうちの姉とはえらい違いだ。
羨望の混ざった眼差しで見ていると、こっちに気づいた翔子が小さく敬礼をした。
教室なら自分も堂々と敬礼で返すのだが、さすがにここでは恥ずかしい。羽澄はかしこまった様子で小さく頷くと、それを見みていた千里がくすっと笑った。
翔子はそのままお姉さんに案内されると、自分がいる席からは反対側のテーブルの席へと着いた。エロ教頭のテーブルと自分たちの居場所を線で結ぶと、ちょうど三角形になるだろうと、頭の中で想像してみた。
気合い十分の翔子は席に座るなり、リュックからカメラを取り出すと、何やら入念なチェックを始めた。
堂々とカメラを持って、レンズ越しにターゲットのテーブルを覗く翔子の姿を見ると、こそこそとテグスを巻いていた自分がやけに恥ずかしくなる。
ぶーとスマホが震えて画面を見ると、翔子から「こちらは準備OK」とメッセージが入っていた。「こっちもトラップOK!」と返事をして顔を上げると、翔子と目が合い、お互い同時に頷く。
これで後はターゲットを待つだけだ。スマホの画面を見ると、デジタル数字が十四時四五分を示していた。
作戦開始まで残り十五分……。
羽澄はぎゅっと眉間に皺を寄せると、息を潜めてホテルの入り口の方を見た。心の中では、大切な親友の姿が浮かぶ。
待ってて沙織……必ず、助けるから!
気温三十二度、空は快晴。天候としては申し分ない。
羽澄は大きなサングラスに麦わら帽子を身につけ、待ち合わせ場所のマックまで向かった。
やれることはやってきた。
今日の為に何度も打ち合わせを重ねてきたし、シュミレーションも行ってきた。この作戦がうまくいくかどうかで、沙織の運命が決まる。
いつもとは違う緊張感に心を突つかれながら、夏空の下を歩く。しゃわしゃわとうるさく鳴いている蝉の声が、今日だけは応援歌のように聞こえてくる。
よほど気合いが入っていたのか、気がつけば待ち合わせ時間の二十分前にマックの入り口についていた。
ここは自分が一番乗りだろうと思ってお店の二階に上がると、奥の客席に怪しいサングラスをかけた結衣の姿と、その目の前には翔子の姿もあった。どうやらリーダーは三番乗りのようだ。
「おはよう」
せめて気持ちだでもと、声色を落としてボス風な挨拶で二人の前に現れると、ノリが良い翔子と結衣が敬礼をしてくれた。
「ボス、おはようございます」
滑舌良く挨拶を返してくれた翔子の手元には、磨き途中の一眼レフが置かれている。さすが翔子。すでに気合いバッチリだ。
「明里はまだ来てないんだね」
羽澄は店内をぐるっと見渡す。まだ二十分前なのでもちろん遅刻ではないが、いつも自分がぎりぎりに来て明里に小言を言われる分、今日は何だか勝った気分だ。
「明里ちゃん、どんな姿で来るんだろうね」
おっとりとした口調で、前回と同じくスタイリッシュなサングラスを掛けている結衣を見て、羽澄は一瞬目を逸らす。ダメだ。久しぶりに見るとやっぱり面白い。
羽澄は口元を押さえながら黙って席に座ると、出来るだけ結衣の方を見ないようにした。幸いにも変装用のサングラスが、その事実をうまく隠してくれている。
「いよいよ今日ですべて決まりますね」
秘密兵器を丁寧に磨きながら翔子が言った。その言葉に羽澄と結衣が、ごくりと喉を動かしてゆっくりと頷いた。
「どうしよう……何だかすごく緊張してきちゃう……」
結衣が両手でほっぺを抑えながら、不安げに呟く。
それを見て羽澄が「大丈夫だ。俺たちがいる」と、わざとらしく男っぽい口調で言うと結衣の肩をぽんと叩いた。何だか本当に秘密組織のリーダーになった気分だ。
自分の逞しさが伝わったのか、結衣が「そうだよね」と言って白い歯を見せる。いつもなら可愛さ満点のその笑顔も、サングラスのせいで奇妙な違和感を生み出しているが……。
羽澄は込み上げてくる笑いをごまかすために大きく咳払いすると、「ちょっと飲み物買いに行ってくる」と言って、そそくさと立ち上がった。もう少しすれば、結衣の姿も見なれるはずだ。
階段を降りてレジまで向かうと、日曜日の昼間は家族連れで賑わっていた。オレンジジュースのSサイズ一つ買うために、割りに合わない待ち時間を乗り切って、羽澄はやっとの思いで翔子たちの所へと戻った。
「あれ? 明里、まだ来てないの?」
席に戻ると、先ほどと同じ顔ぶれに羽澄は首を傾げた。
「うん……明里ちゃん、珍しく遅いね」
結衣がテーブルに置かれたスマホをタッチして時間を確かめる。ちらっと見えたその画面には、待ち合わせ時間二分前の表示がされている。
いつも明里はだいたい十分前には来ているので、これは本当に珍しいことだった。
「明里め……気合いが足りんな」
羽澄は無い髭を触るように顎に手を当てると、これはリーダーとしてバシッと言ってやろうとにやにやと考えていた。するとちょうどそのタイミングで、頭上から「お待たせ」と明里の声が聞こえた。
「明里、ぎりぎりじゃ……」
ここぞとばかりに小言を言ってやろう顔を上げだ瞬間、羽澄の瞬きが止まった。同じように隣では、結衣と翔子も固まっている。
「ちょっと準備に手間取っちゃって、ギリギリになっちゃった……」
明里は照れ隠しのように指先で前髪を撫でるも、それはいつもの見慣れた髪では無かった。
普段の黒ではなく茶色味がかったその髪の毛は、毛先にいくほどゆるやかなパーマがかかっていて、先端は大きく開いた胸元にかかっている。
純白のトップスは明里の肌の色とピッタリと合っていて、首元と手首に輝く金色のアクセサリーが眩しい。
そして男性陣の視線を誘惑する黒のミニスカートは、「それ、見えるんじゃない?」とこっちが心配するほど短く、レースの刺繍が大人の色気を漂わせている。
あまりの大胆さに同性の自分でさえ、一瞬どこに目を向ければいいのかわからない。この姿でシャレたサングラスまでかけているので、ぱっと見ればまったくの別人だ。
「あ、明里……さん、ですよね?」
咄嗟に口に出た言葉は何故か敬語だった。その様子を見て明里がぷっと吹き出す。
「当たり前じゃん。どう、変装ばっちりでしょ?」
そう言って顎にピースをくっつける明里は、どっからどう見てもモデルか女優だ。まあ、モデルなのは本当だけど。
「明里ちゃんすっごく綺麗だよ! 一瞬誰かわからなかった」
結衣が目を輝かせながら言った。どうやら結衣の中でチワワへの愛情と並ぶくらい、明里の変身っぷりは凄いようだ。
「完璧ですね……うん、完璧です」
翔子が磨き途中のカメラを手に取り、高速連写を行なっている。その姿はもうアイドルの追っかけか、ちょっとエロい雑誌を作っていそうな写真家のようだった。
「ちょっと翔子、撮りすぎだって……」
明里が恥ずかしそうに、翔子が磨いていたレンズに手で蓋をする。羽澄はその様子を、ぽかんと口を開けたまま眺めていた。
ふと辺りを見渡してみると、店内にいる男性陣の視線が自分たちのテーブルに注がれていることに気付く。
もちろん、目的は明里を見るためだろう。色気を漂わす友人は、早くもマックに来ている男どもを虜にしていた。
「明里ちゃん、髪まで染めちゃって大丈夫なの?」
結衣が少し不安げに明里に聞いた。伝統と規律を重んじる自分たちの高校では、当たり前だが髪を染めるなんて御法度だ。
「大丈夫、今日の夜には黒色に戻すし。まあ髪は傷んじゃうけどね……」
そう言って名残惜しそうに茶髪を指先に絡める明里の姿は、絵になるほど美しく、ついつい見惚れてしまう。同じ年代、同じクラスにたどり着いた自分とのこの違いは何なのか?
羽澄は嫉妬にも近い憧れを強烈に感じていた。今目の前にいる人物なら、宮城さんの隣を歩いていても、ばっちりお似合いだろう。
そんなことを考えながら窓の方を見ると、うっすらと写る自分の姿に、思わずため息が出る。
「それでは全員揃ったので、作戦の最終確認を始めますか」
もう十分写真は撮れたのか、満足そうな表情を浮かべる翔子が言った。
「そうだね、あんまり時間もないことだし」
そう言って明里が椅子を引いてテーブルに近づく。大胆な胸元が急に目の前に現れて、羽澄は思わず目を逸らす。
「ゆ、結衣、そう言えば餌の方は準備できた?」
心の動揺をチワワの話しにすり替えて、羽澄は結衣の方を見た。どうやら明里の衝撃的な登場に、結衣のサングラス姿にはもう免疫ができたようだ。
「うん! 一番喜んでくれそうな物を持ってきたよ」
結衣は太ももに乗せていたケーキ屋さんのような箱をテーブルの上に置いた。甘い物が大好物の羽澄は、反射的に顔を近づける。
「え? これに入ってるの?」
予想していたものよりも、はるかに可愛くてオシャレな箱の登場に、羽澄は目を丸くした。
「そうだよ。私の家のチワワたちもこれが大好物なの!」
語尾を上げて嬉しそうに結衣が箱を開けると、中には本当にプチケーキかと思ってしまうような、色とりどりの餌が入っていた。
「ええ! これぜーったい犬の餌じゃないでしょ!」
目の前の衝撃が足にまで伝わり、羽澄は勢いよく立ち上がった。
明らかに普段自分が食べているお菓子よりも、クオリティが高い。あまりに美味しそうな見た目に、自然と喉の奥が鳴る。
手前にあるモンブランみたいな餌に触ろうとした時、ぱしっと明里に手を叩かれた。
「あんたの餌じゃないから」
「いて! わかってるよ、そんなの……」
口を尖らせて明里を睨むも、慣れないその姿にまだ動揺してしまう。
「最近の犬の餌って、こんなに可愛いんだ」
自分には注意しておきながら、明里は何食わぬ顔でプチケーキもどきを指先で突つく。
「なかなか写真映えしそうなデザインですね」
そう言って翔子は再びカメラを構えると、さきほどまでモデル撮影に見せていた腕前を、今度はお菓子撮影で披露する。
こんな美味しそうな餌を、結衣が飼っているチワワは毎日食べているのか……。
チワワに対して妙な嫉妬心を感じながら、羽澄は黙って餌を睨み続けていた。明里の変装といいチワワの餌といい、今日は何かと心に引っかかることが多い。
「この餌なら喜んでくれるかな」と微笑む動物愛好家に、羽澄の心のもやもやは「まあ、喜ぶんじゃない」と少し冷めた口調となって外に出た。
この作戦が無事に終わった時は……、絶対に宮城さんと美味しいケーキを食べに行ってやる!
違う闘志を燃やす羽澄を見て、翔子は「さすがボス。やる気満々ですね!」と感心していた。
スキャンダルを掴む為の武器もすべて揃い、作戦の最終確認もスムーズに終わったので、いよいよ決戦の地へと向かう時がやってきた。
「いい、みんな? 今日で何としてでも沙織を助けるんだから!」
羽澄のかけ声に合わせて、四人の右手がテーブルの真上に重なり、小さな円陣を描く。
「初芝オーシャンズ…………ファイト!」
羽澄は高らかに上げた右手でメンバーの絆を確認をすると、「よし!」と言って立ち上がった。
各自武器を持って勇ましく出口へと向かう姿は、まるでハリウッド映画のワンシーンのようだ。マックの店内でさえも、自分たちの秘密基地に思えてくる。
お店から出ると、そのままポルシェにでも乗り込むような勢いで道路へと向かい、横断歩道を渡ってホテルを目指す。
目の前にそびえ立つ敵の巨大なアジトは、今日も灼熱の光を全身で反射させていて、自分たちを威嚇しているようだ。
「ついにきたね……」
敵の本拠地を前に、羽澄はぎゅっと拳を握った。隣にいる参謀長の翔子も、緊張した面持ちで「いよいよですね」とごくんと唾を飲み込む。
「絶対に成功させるわよ」とセクシー担当の明里の言葉に、「チワワのことは任せて!」と動物愛好家の結衣が返事をした。
「みんな、作戦名は『HOGG』でいくから」
「……何それ?」
リーダーの暗号のような発言に、明里が眉をひそめる。
「だーかーら、HOGGで『初芝オーシャンズ・ゴーゴー』ってこと!」
胸を張って言い切る羽澄の姿に、明里は思わず目を細めた。この子の英語のテストは大丈夫なんだろうか……。
「ボス、それでは始めますか」
翔子の言葉に羽澄が大きく頷く。ついに沙織を助けるための初ミッションが始まった。
慎重に計画を進める為、今回は四人ばらばらでホテルに入ることになり、まずは羽澄が潜入することになった。
メンバーの応援を背中に受けて、羽澄は三度目となるドアマンのいる扉へと向かった。
いつも穏やかなドアマンでさえも、今日だけはあの微笑みの中に、何か企みがあるんじゃないかと疑ってしまう。出来るだけ平常心を保ちながら、ホテルの入り口へと歩いていく。
別にプールに潜るわけではないけれど、飛び出しそうな心臓を抑える為に、羽澄は大きく息を吸って呼吸を止めた。
そして潜水するかのように、静かにゆっくりと扉まで近づく。どうやらドアマンは、まだこちらに気付いてないようだ。
肺に貯めた酸素の量が黄色信号に変わった時、ドアマンが自分の存在に気付いて微笑む。息を止めて苦しいせいか、その微笑みに余計に不信感を感じてしまう。
怪しまれないように、羽澄もきゅっと口角を上げた。ヤバい……、今ので酸素が赤信号だ。
大きく息を吐き出したいのを我慢して、少し早歩きに切り替えてゴールを目指す。
あと二十歩、十九歩、十八歩……。
羽澄は感覚頼りの勝手なカウントダウンを始めて、漏れてしまいそうな空気を必死になって止めていた。
十歩、九歩、八歩……。
残り五歩を切ったあたりから、鼻からひゅーひゅーと息が抜けてきた。ここまで来たら、最後まで我慢だ。羽澄は不自然なくらいの大股歩きに変えて、残りの歩数を縮める作戦に出た。
ドアマンの微笑みが苦笑に変わったのを視界の端っこで確認して、やっとの思いで自動ドアをくぐった。
「ぷはー!」
深海から上がってきたクジラのように大きく呼吸すると、思わず変な声も出た。
あ! っと思った時はもう手遅れで、目の前を歩いていたアメリカ人の女性と目が合う。ふくよかで優しそうなその貴婦人は、笑顔で「ハーイ」と挨拶をしてきた。 もしかして、さっきの言葉を挨拶と思われたのか?
「は……ハーイ!」
羽澄は教室で手を挙げるような感じで、ぎこちなく返事をすると、くるっと向きを変えて急いでカフェへと向かった。
作戦スタート直後から内容が濃くて、空気が薄い時間を経験したせいか頭が痛い。カフェの入り口に着いた時には、羽澄はすでに疲れ始めていた。
「今からが本番でしょ、わたし!」
軽く自分の頬を叩くと、再び心のスイッチをオンにする。顔を上げると、目の前にはお菓子がきらめくショーケース。
カラフルなプチケーキを見ていると、間接的に結衣の餌の一件を思い出して、チワワに対してふつふつと闘志が込み上げてくる。
ダメだダメだ……自分は一体誰と戦いにきたのか。
羽澄はショーケースを見たい気持ちをぐっとこらえて、カフェの入り口へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」の声でレジの方を見ると、三回目にして初めて見る女性店員の姿があった。
「お一人様でよろしいですか?」とリズムよく転がる彼女の言葉に、羽澄は慌てて店内を見渡す。
今回ばかりは、かなり慎重に席を選ばないといけない。エロ教頭が見える位置で、テラスへの道が近くにあって、それとえっと……。
早く席を見つけなければという焦りと、店員が自分の返事を待っているプレッシャーに、羽澄の頭の中は真っ白になっていた。「あの……」と再び女性店員の声が聞こえて、羽澄は咄嗟に口を開いた。
「お、大人一名でお願いします!」
言い切った直後に、選んだ言葉の違和感に気付いた。大人一名って……何言ってんだろ、私。
恥ずかしさで、サングラスで隠れている両目が泳ぐ。店員の顔を直視することができず黙っていると、笑いの含んだ声で予想外の返事が返ってきた。
「もしかして……、あなたが羽澄ちゃん?」
「え?」
見ず知らずの女性に突然名前を当てられた羽澄は、驚いて少し後ずさりした。まさか……すでに顔が割れている?
もしやピンクマダムの手先では? と、羽澄は女性店員を凝視した。返事もできず戸惑っていると、目の前の女性は口元に手を当てて笑い始める。
「ごめんごめん、突然ビックリしたよね。私の名前は橋本千里。翔子といつも仲良くしてくれてありがとね」
「……え?」
短い自己紹介を聞いて、羽澄の頭の中で「?」が飛び交った。橋本千里? 翔子?
やっと一つの結論にたどり着きそうになった時、女性店員の方が先に口を開いた。
「翔子の姉です。よろしくね、羽澄ちゃん」
「……え……ええー!」
驚くほどの声量が出てしまい、羽澄は慌てて両手で口を塞いだ。
入り口近くのテーブルにいる老夫婦が怪訝そうな顔で見てきたが、翔子のお姉さんは愉快そうに笑っている。その姿を見れば見るほど、翔子との血のつながりが見出せない。
背が低い翔子とは対照的にすらっと伸びた身長に、はっきとした目鼻立ち。艶のある黒髪はポニーテールで綺麗に整えられている。
どことなく雰囲気が、和泉先生に似ているような気がした。愛嬌のあるその笑顔に、このお店の看板娘に違いないと、羽澄は直感的に思った。
「あ、あの私……翔子さんと同じクラスの飯田羽澄と、申します」
嫁入り前のぎこちない挨拶みたいに自己紹介すると、「こちらこそ、よろしくお願いします」と、翔子のお姉さんは改めて丁寧に頭を下げてくれた。
その姿勢があまりにも綺麗で、羽澄は少しの間見とれてしまった。
「お友達さんを助けるんだってね」
翔子のお姉さんは、そう言って小さくウィンクした。飛んできた見えない好意に、少し恥ずかしくなる。そういえば、作戦決行日はお姉さんも協力してくれるって、翔子が言ってたな……。
「じゃあ席まで案内するね」と白い歯を見せて、千里はゆっくりと店内を歩き出す。それに合わせて羽澄も右足を上げると、ふかふかの絨毯の上を進み始めた。
ほんのりとコーヒー豆の匂いが漂う入り口を抜けると、開放的な空間が顔を出す。
休日でありながらマックのような混雑さはなく、相変わらず落ち着きのある優雅な時間が流れていた。
カップがソーサーに当たる音。英語の会話。そして、貴婦人たちの上品な笑い声。普段あまり聞くことのない音をすり抜けながら、羽澄は目的のテーブルまで歩いた。
「こちらへどうぞ」と翔子のお姉さんは綺麗な指先で、自分専用のテーブルを示してくれる。
「はい……」と、まるで王子様にエスコートを受けるヒロインのような気分で、羽澄はその席へと座った。
翔子が事前に作戦をお姉さんに伝えてくれていたのか、そこは確かにテラスへと続く通路の隣で、いつもエロ教頭たちが密会をしているテーブルが見える場所だった。
翔子のお姉さんは慣れた手つきでおしぼりと水が入ったグラスを置くと、「ちょっと待っててね」と言ってレジのほうへと歩いて行った。その美しい後ろ姿を、羽澄は見とれるように眺めていた。
「いいな……あんなお姉ちゃん」
自分の姉の姿を思い浮かべて、急に虚しさが顔を出す。翔子のお姉さんの優しさと、気品の十分の一でもうちの姉が持っていれば、今頃私だってもう少し上品な女の子になっていたのかもしれない。
「翔子のお姉ちゃんの爪の垢でも注文しようかな……」
羽澄はメニューを見ながらそんなことを呟いた。ふと顔を上げて前を見ると、エロ教頭たちのテーブルに何かが乗っていることに気付く。
「なるほど……そういうことか」
羽澄の視線の先には、「予約席」と書かれた小さなプレートがあった。どうやってエロ教頭たちを、いつもの席に座らすのか疑問に思っていたけれど、こういうことだったのか。
「さすが翔子、抜け目がないな」
頼もしい右腕の存在にうんうんと一人頷いていると、「お待たせしました」と再び優しい声が聞こえてきた。見ると、にっこりと笑う翔子のお姉さんが、オレンジジュースを乗せたトレイを持っていた。
「羽澄ちゃんは、オレンジジュースで良かったかな?」
出来過ぎたサービスに、羽澄は思わず目を丸くする。しかも翔子のお姉さんは、「これは私からのプレゼントです」と言って、そのオレンジジュースをテーブルの上に置いた。
「え! い、いいです! 大丈夫です。ちゃんと払います!」
手当たり次第に言葉を飛ばして、羽澄は自分の誠意を見せる。その様子を見た千里は、唇に手を当ててくすっと笑った。
「いいのよ、いつも翔子がお世話になってるんだし。気にしないで」
そう言って翔子のお姉さんは、「作戦頑張ってね!」と付け加えると、くるっと向きを変えて再びレジの方へと歩き出した。
羽澄は視線をテーブルに戻すと、気遣いと優しさが詰まったジュースを見る。
「……帰る時には絶対に爪の垢をもらっておこう」
それをお姉ちゃんに飲ませてやると心に決めて、羽澄はストローに口を付ける。からんと氷の音を立てたオレンジジュースは、飲むと心にじんわりと温かさが広がった。
喉の乾きと心の潤いを満たすと、羽澄はバッグの中から翔子から託された武器を取り出した。
テーブルの上に置かれたテグスは、出番を待ち構えているかのように静かに丸まっている。その先端を持って羽澄は辺りを見渡す。
「どこかに…………、あ!」
ちょうどテラスへの通路を挟んだ真横に、がっしりとしたレンガ造のプランターが置かれていた。しかも、テグスを巻くのにはぴったりの小さな脚が付いている。
「まさか……ここまで計算されてた、とか?」
神がかった偶然なのか、計算された必然なのかわからないが、羽澄はぱっと顔を上げてレジの方を見る。
そこには無邪気な笑顔で、外国人の夫婦と話しをしている翔子のお姉さんの姿が見えた。
「さすがにそれは考え過ぎか……」
羽澄は再びプランターの脚をじっと見ると、きょろきょろと周囲を確認する。幸いにも自分の周りには他のお客がおらず、さっとテグスを巻けばバレなさそうだ。
「よし……」
スパイ映画さながらの動きでテグスを握ると、プランターの足下にしゃがみこんだ。不安とプレッシャーを感じながら、急いでテグスを巻き始める。
緊張のせいか、早くも手のひらに汗が滲みだす。途中何度か自分の指まで巻き込みそうになりながらも、羽澄は何とかトラップを仕掛けた。念のために何度かつんつんと引っ張ってみる。うん、問題なさそうだ。
そのまま何食わぬ顔で席に戻ると、左手に握ったテグスを目で追ってみる。
作戦の要を背負った透明な糸は、その身を隠すように、ふかふかの絨毯の中にうまく溶け込んでいた。
これなら目を凝らさなければ、バレることはない。後はタイミングを見計らって、運命の糸を引くだけだ。
重要な一仕事を終えて、羽澄はぐっとオレンジジュースを飲む。すると視界の奥の方で、ホテルに入ってきた翔子の姿が見えた。
一眼レフの入った黒いリュックを背負った翔子は、そのまま真っ直ぐと、カフェへと向かってくる。入り口には翔子のお姉さんが立っていて、初めて目撃する姉妹の対面の瞬間だ。
「なんか、新鮮だな……」
やっぱり翔子のお姉さんは思った通りの素敵な人で、実の妹とも楽しそうに話している。長風呂でがみがみと小言を言ってくるうちの姉とはえらい違いだ。
羨望の混ざった眼差しで見ていると、こっちに気づいた翔子が小さく敬礼をした。
教室なら自分も堂々と敬礼で返すのだが、さすがにここでは恥ずかしい。羽澄はかしこまった様子で小さく頷くと、それを見みていた千里がくすっと笑った。
翔子はそのままお姉さんに案内されると、自分がいる席からは反対側のテーブルの席へと着いた。エロ教頭のテーブルと自分たちの居場所を線で結ぶと、ちょうど三角形になるだろうと、頭の中で想像してみた。
気合い十分の翔子は席に座るなり、リュックからカメラを取り出すと、何やら入念なチェックを始めた。
堂々とカメラを持って、レンズ越しにターゲットのテーブルを覗く翔子の姿を見ると、こそこそとテグスを巻いていた自分がやけに恥ずかしくなる。
ぶーとスマホが震えて画面を見ると、翔子から「こちらは準備OK」とメッセージが入っていた。「こっちもトラップOK!」と返事をして顔を上げると、翔子と目が合い、お互い同時に頷く。
これで後はターゲットを待つだけだ。スマホの画面を見ると、デジタル数字が十四時四五分を示していた。
作戦開始まで残り十五分……。
羽澄はぎゅっと眉間に皺を寄せると、息を潜めてホテルの入り口の方を見た。心の中では、大切な親友の姿が浮かぶ。
待ってて沙織……必ず、助けるから!
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