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第二の名前は......

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  心に灯った希望はすぐに打ち砕かれた。

理由は至極単純で、自分に与えられた名前がわかったからだ。

それは突然やってきた。叩いてもビクともしなさそうな檻の中の扉を開けて突然やってきた。

最初、この圧倒的地獄から助けてくれる救世主がやってきたのかと思ったが、何のことはない。ただの係員だった。

黄土色の帽子に、黄土色の上着。そして白の短パンと、まるでサファリパークにでも現れそうな人間が、ただのテーマパークに現れた。しかも檻の中に、だ。

  そいつは意気揚々とこちらに近づいてくるではないか。明らかに人命を助けるような顔をしていない。

むしろ「さっき着いたところなの」と、大好きな彼氏に会うために三十分以上前から待ち合わせ場所にいた乙女のよう表情をしている。

そんな表情をしているだけであって、先に断っておくが、こいつはオヤジだ。言うなれば、乙女のときめきを持ち合わせた推定年齢四〇は軽く超えているオヤジが来たのだ。しかも意気揚々に。

  扉が開いた時はこれでてっきり助かったと思ったが、まったく新しいタイプの地獄が始まっただけだった。

 突然檻に入れられて、突然毛むくじゃらにさせられて、突然変なおっさんが現れる。

 この拷問は一体何なのだ?

 そんなイリュージョンはいらないから、誰か俺にソリューションを教えてくれ。この地獄から脱出する方法を教えてくれ。

 そんな自分の心境などまったくお構いなしに、スキップでもしそうなテンションで、オヤジが向こうの方から近づいてくる。

二足歩行はまだできない。直立だってまだままならない。が、それでも命の危機が迫っていることを、俺の本能が必死に教えてくれている。

 誰か助けて下さい。あの変なおじさんをどうにかして下さい。

 声を大にして叫びたくても出てくるのは「うぇええへへへ!」という言葉だけ。これじゃあどっちが変態なのかわからない。

 とりあえず四足歩行で必死に逃げようとするも、おっさんの足取りが意外と早い。

まるで、ずっとファンだったアイドルに偶然街中で出会って、サインほしさに駆け寄るようなスピードだ。しかし、なめてもらっては困る。こっちは四足歩行だ。

 二本の足で歩けるからってそれがどうした。俺だって前はできてた。今はちょっとできないだけ。

 ハイスピード、猛スピードで檻の中を走り回るも、向こうも負けじと追いかけてくる。そして何を勘違いしているのか、柵の向こうからはわき上がる歓声。ここは新種の闘技場か? 

 あいつに捕まったらヤバい。ほんとうにヤバい。さっきから俺の頭の中で、世界大戦クラスの警報が鳴っている。

何の理由があって、あいつは俺を追いかけてくるのか? しかも手には大量の笹の葉が握られている。

まったく予想できないプレイが始まろうとする恐怖心から、俺はただただ走った。周囲三十メートルにも満たない檻の中を、まるでサバンナに見立てるように、全力で走った。

 しかし向こうはサファリパーククラスの従業員。サバンナの適応度は向こうの方がはるかに高い。そして二足歩行もできれば知恵もある。

氷山の一角のような岩の向こうで待ち伏せされた俺は、いつの間にか小路地に追いやられてしまった。おいちょっと待て。この檻のどこに、こんな小路地があったんだ?

 そんなクエスチョンを考えている暇もなく、目の前にはサファリーパーク姿の変なオヤジ。後方は脱獄不可能な厳重な鉄柵。かっこ良く言うなら、ジ・エンド。わかり易く言えば、はい終わり。

 今まで俺も四十九年生きてきて、色んな変人は見てきたが、中でもこいつは相当にヤバい。こんなけむくじゃらになった自分に対して、ずっときゅんきゅんしているのだ。

別に俺に人の心を読み取る才能が備わったわけではない。そういう意味ではなく、このオヤジは声を大にして、恥ずかしげもなく、言葉にしてさっきからそう叫んでいるのだ。

 少女漫画読み過ぎ症候群。

 俺は瞬時にそう理解した。くだらない日常に絶望した挙句、その代償を少女漫画に求め、ついには何に対してもきゅんきゅんする力を手に入れてしまった男。

そんなストーリーが一瞬で頭の中に出来上がった。そんな発想力があるなら、ここからの脱出方法を考えてくれ、俺の頭。

  走馬灯のような発想が頭の中を駆け巡っている間も、相手はずっと「きゅんきゅん、きゅんきゅん」と叫んできている。

自分も四十の道は越えているが、あいつのように越えてはいけない線はまだ越えてはいない。

その少し芽生えた自尊心が、毛むくじゃらになってしまった劣等感をわずかに吹き飛ばしてくれた。が、自分が圧倒的に不利な状況には変わりない。地の利があるのは、どう考えても向こうの方だ。

  サファリパークオヤジがじりじりとこちらに詰め寄ってくる。

  じりじり、じりじり。

  檻の向こうから聞こえてくる蝉の鳴き声が、頼んでもいないのにこの状況に効果音を付け足してくる。大きさ十センチにも満たない夏しか生きられない生き物が、こんなにも不愉快な存在だと思ったのはこの時が始めてだ。

  笹を振り回しながら迫ってくる得体の知れない恐怖から逃げようにも、がしゃん!  と音が鳴って振り向いたらそこは鉄格子。

その格子の向こうでは、老若男女の様々な顔が嬉しそうにこちらを見ている。お前ら一体何が楽しい?  というより、いつから日本人はこんな残酷な民族になったのだ。

協調性、和の精神、ヤマトナデシコ。全部嘘だ。大嘘だ!

  うおー!  っと泣き叫ぼうとするも、やっぱり出てくる「うぇえへへへ」。もういい。どうにでもなれ。

  謎のサファリパークおやじに抵抗する気持ちも薄れ、だらりと腕を下ろした瞬間、背後の檻の方から少女の声が聞こえた。

「きゅんきゅん、こっち向いて」

 ワッツ?

 今、もしかして、俺呼ばれたのか?

 試しに恐る恐る後ろを振り向くと、きゃーという黄色い声と一緒に「きゅんきゅんこっち向いてー!」とたくさんのリクエスト。

俺だってそれなりの人生を生きてきたし、トイレットペーパーの営業をする上で色んな山場も試行錯誤して乗り越えてきた。だから、ある程度のことは経験と論理によって答えを導き出す自信はある。

今の状況、あのサファリパークおやじの言葉、そして、背後にいるたくさんのギャラリーたちからの言葉。

  シャーロックホームズも驚くようなスピードで、俺はある仮説を導き出した。

  おそらく、これは俺の名前なのだ。

  このきゅんきゅん、きゅんきゅんという謎の単語の連呼は、決して人々が胸の高鳴りを感じているわけではなく、俺の名前を読んでいるのだ。四十九年生きてきた人生の知恵を全て注いで、俺はそう考える。

俺は自分の推理が正しいかどうか、試してみることにした。目の前のオヤジは、何かに取り憑かれたかのように同じ言葉を繰り返してくる。

「きゅんきゅん」
「うぇえへへ」
「きゅんきゅん」
「うぇえへへ」

  四十をとうに過ぎた二人のオヤジの会話がこの内容だと言うのは、もはや日本の行く末も真っ暗だろう。だがしかし、すでに俺のこれからの行く末の方が真っ暗だ。

  この謎の言葉のやり取りに合わせて檻の向こうからは、「凄い! 返事してる」「あったまイイなー」なんて言葉も飛び交う始末だ。

  どうやら自分の推理に間違いはない。この檻の世界で、俺に与えられた新しい名前は、「きゅんきゅん」、なのだ。

  突然見たことも聞いたこともない場所に閉じ込められて、全身毛むくじゃらにされて、それでいて与えられた新しい名前は、きゅんきゅん。

一体神は、俺に何を成し遂げてほしいのだろう?  歴史上の偉人たちに与えられた全ての試練を合わせたとしても、俺に与えられた試練の方が遥かにハイレベル。この前代未聞の新天地に、俺は今、挑もうとしている。

そんな試練を、更に意識付けさせるが如く、目の前のサファリパークおやじは「きゅんきゅん」と叫んでくる。それに合わせて、背後の檻の向こうからもライブ会場並みのきゅんきゅんコール。

  よく考えて欲しい。真面目に考えて欲しい。

  こんな状況できゅんきゅんできるか!
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