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「この二年で精霊が歪んでしまったのですね」
「ずっと俺にまとわりついていたくせに、寂しくて歪むなんて我が儘な精霊だよな。そのうちに、サファイアも歪み始めていることに気付いたんだ」
「精霊はおにいさまとサファイア、両方に宿っていたのですよね? おにいさま自身の体調はお変わりないのでしょうか?」
「何もない。――ただ、身体が不快なだけだ」
私は安堵の息を吐く。しかし、自分の中に精霊が宿るというのはどんな感覚なのか。
万物に宿ると教わったが、その万物に人間が含まれるとは思いもしなかった。
「……だから、おにいさまがこの地に派遣されたのですね。婚儀も控えているのにおかしいと思っていました」
「この機会を逃したら、この地に精霊を返せなくなる気がしたんだ。精霊は水から生まれるからか、水に触れさせると歪みが緩やかになった。それに気付いてからは、サファイアを入れた瓶に水を張っていた。でも……それも限界だった」
「水も影響を受け、歪んでしまったのですね」
黙して話を聞いていたアーファ様は、控えめな動きで私の袖を引いた。
「歪むとは具体的にはどういう状況なのですか? 以前ペレーネは何らかの悪影響があるとしか教えてくださいませんでした」
「的確に表現できる言葉が見つからないのですが、人で例えると人格を失うようなものです。ただ精霊は未知の存在ですから、周囲に及ぼす影響を予測することはできません。『悪影響を及ぼす何かに変質してしまう』こともあります」
「では、その水やレセプタクルとしていたサファイアも、何らかの悪影響を及ぼす存在に変質してしまったということですか?」
「そのとおりです。――おにいさま、アーファ様の乗る馬車の通り道に、歪んだ水を捨てたのですか?」
本題を訊ねたくて真っ直ぐにおにいさまを見据えると、普段は飄々としている彼には珍しく、美しい顔に動揺をみせた。
「そんなことはしていない。あれは偶然だ。激しい雨に興奮した精霊が突然俺の元から飛び出していった。その先に、アーファ殿がいたんだろう」
たまたまそこにアーファ様がいたから歪んだ精霊が入り込んだとでも言うのだろうか。
疑うわけではないが、きっと私は怪訝な顔をしていたのだろう。おにいさまは少し渋い表情で言った。
「この土地の精霊はサファイアを気に入っているんだろう? 山の中にせっせと作っていたくらいだからな」
「あ……ペンダント?」
そう呟くと、おにいさまは頷いた。
「たまたまそこに大きなサファイアを持つアーファ様がいたから、惹かれた精霊が入り込もうとしたのですね」
きっと宝物を増やそうとしたのだろうが、なんて迷惑な行動だろう。
「おまえが火に投げ込んだから、驚いて俺のところに戻ってきたんだろうな」
おにいさまは私がペンダントを暖炉に焚べたと伝えたとき非常に驚いていた。歪んでいたとはいえ、精霊を燃やそうとしたことに驚愕したのだろう。
アーファ様は、ふと思い出したかのように口を開いた。
「ペレーネ。貴女は隠していたようですが、あの雨の中、外に何かを取りに行ったと聞いています。一体何を……」
「坑道内に湧いていた水を汲みに行きました。精霊の宿る水はとても清らかだとされています。きっと歪みを晴らせると考えました」
ふいに、足裏に温もりを感じた。私が視線を下げると、おにいさまも同じように大地を一瞥してから、周囲に広がる景色を見回した。
「加護が戻ったな」
おにいさまの言葉を受けて、アーファ様はきょろきょろと視線を彷徨わせて私を見る。
「大地に精霊の加護が広がり始めています。峠に精霊の子もいるので、この先は実りの多い時期がやってくると思います」
「そうですか……」
アーファ様はほっと胸を撫で下ろしているが、その表情は複雑だ。
「おにいさま。さきほど精霊はついてきてしまったと仰っていましたが、それは精霊の加護が失われた頃――、つまり二年前の出来事でしょうか?」
「そのとおりだ」
「二年前、この地を訪れていたのですね」
そう訊ねると、おにいさまは首肯を返すが、アーファ様は目を剥いた。
「ジリアス公爵令息が訪れた記憶はありません……」
「伯爵家に連絡をせず、内々に来たんだ」
身分を明かすと領主へ挨拶することが必然になってしまう。色々なしがらみが面倒だったのかもしれない。
「二年前ですと私が不埒者に襲われそうになった頃でしょうか。もしかして、私がアーファ様の存在を意識していたから、おにいさまはこの地へ?」
わざわざこんな田舎にお忍びでくる理由が見当たらない。思いついた理由を口にすると、おにいさまは苦笑する。
「おまえは、俺に過保護にされている自覚があるんだな」
「ええ、もちろんです」
かさかさと葉擦れの音がして、足元を通り過ぎた風が枯れ葉を撒き散らしていく。
おにいさまは周囲の枯れ木を眺めながら言った。
「ここの精霊は昔から俺のことを気に入っていたんだ。不注意だったと言えばそれまでだが、そのことを忘れていた」
「昔から?」
「幼い頃、精霊と触れ合うために各地を旅行していた時期がある。その一つがこのヒュドル伯爵領だ。この場所で精霊と遊んだ記憶がある」
アーファ様は息を吞んだ。そんな記憶、彼にはないのだろう。
「……ペレーネも共にいたぞ?」
「え!?」
思わず素っ頓狂な声を発してしまった。
「当たり前だろう。俺とおまえで回っていたんだ。第一王子は警備のことがあるから、別で日程を組んで回っていたようだが」
まさかこの屋敷に第一王子も来ていたのだろうか。さすがに身分を隠していたと思うが、アーファ様もそのことに思い至ったのか絶句している。
「ちょうど真っ赤な林檎の実る時期で見事な果樹園だった。ペレーネは元気に遊び回るから、彼はついていくのが精一杯のようだった」
彼と指差されたアーファ様は微妙な表情を浮かべてしまった。
「昔、おまえが恋をした相手は、彼だよ」
予期せぬ言葉に目を丸くすると、おにいさまは自分の髪をつまんで言った。
「幼い頃のアーファ殿は金髪碧眼だったはずだ」
「そうなのですか……?」
アーファ様は言葉を失ったまま、その名残のない色の瞳に私たちを映して困惑している。
「髪や目の色が成長と共に変化することは、たまにあることだ」
「し、知りませんでした」
「この地を訪れたのは、そのことを確認したかったんだ。幼い頃の記憶は俺も曖昧で確証がなかった。きっと、この地の景色を見れば思い出す気がした」
「では、本当に……」
私は周囲の景色をもう一度ぐるりと見回した。
もう見慣れてきた山稜の続く広い空。まばゆい太陽は大地を照らし、池や川は陽光を反射させている。
「おにいさまを気に入っていた精霊が、おにいさまの再訪を喜びついてきてしまったということでしょうか?」
「精霊が目の前に現れた時、本当はすぐにレセプタクルを手にしてヒュドル邸へ向かうべきだった。でも、精霊の手を取ったらどうなるのだろうと……考えてしまったんだ」
「そんな……」
おにいさまは美しい顔で淡く微笑んでいる。それなのに泣き出しそうにも見えて、私は戸惑った。
「ずっと初恋相手の面影を追い求め、その過程で俺を慕うようになったのに、おまえは再びアーファ殿に惹かれていた。それがなんとなく腹立たしかったんだ……」
「腹が立つ? 私は何か不快にさせてしまったのですか?」
「ああ、違う、違うんだ、ペレーネ。そうじゃない」
夢の中に出てきたおにいさまの顔を思い出して、胸が苦しい。
「俺の身勝手な感情なんだ。だから――」
「まさか、そんな理由で精霊を連れて行ってしまったのですか!」
ずっと黙していたアーファ様が声を荒らげた。鋭い眼差しには涙の膜が張っている。
「精霊の加護がなくなったせいで、大地は衰え不作が続き、多くの水源が涸れてしまった! 金策が追いつかず、父は支援先を探しまわる中で事故に遭い亡くなった! その相手先も詐欺だった! 本来なら起こるはずがなかったことばかりなのに!」
アーファ様の悲鳴のような声が胸をつく。
おにいさまは苦しそうに下唇を噛み、青い瞳を真っ直ぐに持ち上げた。
「アーファ殿。許してくれだなんて言う資格はない。申し訳なかった」
おにいさまは深く頭を下げる。
その声音から渋々謝罪しているのではなく、本心から悔いている様子が感じ取れた。きっとアーファ様にもそれが伝わったのだろう。彼の顔がますます痛みを堪えるように歪む。
「公爵閣下には知らぬ間に精霊が戻ってきたと伝えます。ルイ殿はこちらでの職務を終えたら、すぐに王都へお戻りください」
「アーファ殿……」
「申し訳ありませんが、もうお引き取りください」
アーファ様はおにいさまからの視線を避けるように顔を横に向けた。
震える握りこぶしから、色々な感情を理性で押し込んでいる様子が伝わってくる。
おにいさまはもう一度深く頭を下げ、元来た道を戻っていった。
「あの、アーファ様」
名を呼んでも彼は私を見ようとはしない。
結局、私はおにいさまの語っていた理由がよく分からなかった。
いつも誰かを頼り、道を指し示してもらうばかりだったから、いざという時に理解が及ばないのだ。
「アーファ様。おにいさまのこと……、大変申し訳ありません」
深く頭を垂れると、アーファ様が息を吞んだ気配がした。
「どうして貴女が謝るのですか!?」
怒鳴られる理由が分からず顔を上げると、眉をつり上げたアーファ様が、今まで見たことのない顔で怒りを露わにしていた。
「ルイ殿のしたことは貴女に関係ないでしょう! それなのに、どうして……」
「そ、それは」
親戚だから。家族だから。
思いつく限りの答えを口にしたいのに、アーファ様の剣幕に気圧されて声が出てこない。
「僕は貴女がルイ殿を恋い慕っていることに気付いていました」
「え……」
呆然とする私に対して、アーファ様は苦笑いを見せる。
「貴女がそのことに気付いていない上に、どうして僕を好きだと錯覚して、結婚までしたのか不思議でした」
「ア、アーファ様、何か勘違いをしています。おにいさまは……従兄ですよ?」
「勘違いではありません。貴女は初夜で好きでもない男に雑に抱かれたから、あんなにも僕に嫌悪感を抱いたのでしょう。……おふたりで僕を弄んで楽しいですか?」
狼狽える私からアーファ様は顔を背ける。
「しばらく一人にしてください」
「で、でも」
どうして放っておけないと素直に言えないのだろう。言わなくてもいいことは、すぐ口に出来るくせに。
動こうとしない私の態度に、彼は苛立ちをみせた。
「もう、いいです」
アーファ様は私の隣を通り過ぎて、屋敷へ続く小道を早足で歩み始める。
「ま、待ってください!」
足は彼を追いかけ、口は何度も彼の名を呼ぶ。
去っていく背中に何度呼びかけても、彼は歩みを止めてくれない。
(ああ……当然だわ。私だって立ち止まろうとしなかったもの)
何度もアーファ様の呼びかける声を振り払ってきた。あの時の彼の気持ちを考えると心が痛くなる。
「アーファ様……!」
彼の歩みを止めようと強引に手を伸ばしたが、足先が石畳の隙間に引っかかった。
転ぶことは免れたものの、体勢を整える間に、アーファ様の後ろ姿はますます遠ざかっていく。
走れば彼に追いつける。
けれど、私の足は地面に縫い付けられたように動かなくなってしまった。
散々彼を無視したのに、どうして私は彼を呼び止められると思ったのだろう。
一気に身体から力が抜けて、ただ呆然と誰もいない小道の先を見つめた。
「ずっと俺にまとわりついていたくせに、寂しくて歪むなんて我が儘な精霊だよな。そのうちに、サファイアも歪み始めていることに気付いたんだ」
「精霊はおにいさまとサファイア、両方に宿っていたのですよね? おにいさま自身の体調はお変わりないのでしょうか?」
「何もない。――ただ、身体が不快なだけだ」
私は安堵の息を吐く。しかし、自分の中に精霊が宿るというのはどんな感覚なのか。
万物に宿ると教わったが、その万物に人間が含まれるとは思いもしなかった。
「……だから、おにいさまがこの地に派遣されたのですね。婚儀も控えているのにおかしいと思っていました」
「この機会を逃したら、この地に精霊を返せなくなる気がしたんだ。精霊は水から生まれるからか、水に触れさせると歪みが緩やかになった。それに気付いてからは、サファイアを入れた瓶に水を張っていた。でも……それも限界だった」
「水も影響を受け、歪んでしまったのですね」
黙して話を聞いていたアーファ様は、控えめな動きで私の袖を引いた。
「歪むとは具体的にはどういう状況なのですか? 以前ペレーネは何らかの悪影響があるとしか教えてくださいませんでした」
「的確に表現できる言葉が見つからないのですが、人で例えると人格を失うようなものです。ただ精霊は未知の存在ですから、周囲に及ぼす影響を予測することはできません。『悪影響を及ぼす何かに変質してしまう』こともあります」
「では、その水やレセプタクルとしていたサファイアも、何らかの悪影響を及ぼす存在に変質してしまったということですか?」
「そのとおりです。――おにいさま、アーファ様の乗る馬車の通り道に、歪んだ水を捨てたのですか?」
本題を訊ねたくて真っ直ぐにおにいさまを見据えると、普段は飄々としている彼には珍しく、美しい顔に動揺をみせた。
「そんなことはしていない。あれは偶然だ。激しい雨に興奮した精霊が突然俺の元から飛び出していった。その先に、アーファ殿がいたんだろう」
たまたまそこにアーファ様がいたから歪んだ精霊が入り込んだとでも言うのだろうか。
疑うわけではないが、きっと私は怪訝な顔をしていたのだろう。おにいさまは少し渋い表情で言った。
「この土地の精霊はサファイアを気に入っているんだろう? 山の中にせっせと作っていたくらいだからな」
「あ……ペンダント?」
そう呟くと、おにいさまは頷いた。
「たまたまそこに大きなサファイアを持つアーファ様がいたから、惹かれた精霊が入り込もうとしたのですね」
きっと宝物を増やそうとしたのだろうが、なんて迷惑な行動だろう。
「おまえが火に投げ込んだから、驚いて俺のところに戻ってきたんだろうな」
おにいさまは私がペンダントを暖炉に焚べたと伝えたとき非常に驚いていた。歪んでいたとはいえ、精霊を燃やそうとしたことに驚愕したのだろう。
アーファ様は、ふと思い出したかのように口を開いた。
「ペレーネ。貴女は隠していたようですが、あの雨の中、外に何かを取りに行ったと聞いています。一体何を……」
「坑道内に湧いていた水を汲みに行きました。精霊の宿る水はとても清らかだとされています。きっと歪みを晴らせると考えました」
ふいに、足裏に温もりを感じた。私が視線を下げると、おにいさまも同じように大地を一瞥してから、周囲に広がる景色を見回した。
「加護が戻ったな」
おにいさまの言葉を受けて、アーファ様はきょろきょろと視線を彷徨わせて私を見る。
「大地に精霊の加護が広がり始めています。峠に精霊の子もいるので、この先は実りの多い時期がやってくると思います」
「そうですか……」
アーファ様はほっと胸を撫で下ろしているが、その表情は複雑だ。
「おにいさま。さきほど精霊はついてきてしまったと仰っていましたが、それは精霊の加護が失われた頃――、つまり二年前の出来事でしょうか?」
「そのとおりだ」
「二年前、この地を訪れていたのですね」
そう訊ねると、おにいさまは首肯を返すが、アーファ様は目を剥いた。
「ジリアス公爵令息が訪れた記憶はありません……」
「伯爵家に連絡をせず、内々に来たんだ」
身分を明かすと領主へ挨拶することが必然になってしまう。色々なしがらみが面倒だったのかもしれない。
「二年前ですと私が不埒者に襲われそうになった頃でしょうか。もしかして、私がアーファ様の存在を意識していたから、おにいさまはこの地へ?」
わざわざこんな田舎にお忍びでくる理由が見当たらない。思いついた理由を口にすると、おにいさまは苦笑する。
「おまえは、俺に過保護にされている自覚があるんだな」
「ええ、もちろんです」
かさかさと葉擦れの音がして、足元を通り過ぎた風が枯れ葉を撒き散らしていく。
おにいさまは周囲の枯れ木を眺めながら言った。
「ここの精霊は昔から俺のことを気に入っていたんだ。不注意だったと言えばそれまでだが、そのことを忘れていた」
「昔から?」
「幼い頃、精霊と触れ合うために各地を旅行していた時期がある。その一つがこのヒュドル伯爵領だ。この場所で精霊と遊んだ記憶がある」
アーファ様は息を吞んだ。そんな記憶、彼にはないのだろう。
「……ペレーネも共にいたぞ?」
「え!?」
思わず素っ頓狂な声を発してしまった。
「当たり前だろう。俺とおまえで回っていたんだ。第一王子は警備のことがあるから、別で日程を組んで回っていたようだが」
まさかこの屋敷に第一王子も来ていたのだろうか。さすがに身分を隠していたと思うが、アーファ様もそのことに思い至ったのか絶句している。
「ちょうど真っ赤な林檎の実る時期で見事な果樹園だった。ペレーネは元気に遊び回るから、彼はついていくのが精一杯のようだった」
彼と指差されたアーファ様は微妙な表情を浮かべてしまった。
「昔、おまえが恋をした相手は、彼だよ」
予期せぬ言葉に目を丸くすると、おにいさまは自分の髪をつまんで言った。
「幼い頃のアーファ殿は金髪碧眼だったはずだ」
「そうなのですか……?」
アーファ様は言葉を失ったまま、その名残のない色の瞳に私たちを映して困惑している。
「髪や目の色が成長と共に変化することは、たまにあることだ」
「し、知りませんでした」
「この地を訪れたのは、そのことを確認したかったんだ。幼い頃の記憶は俺も曖昧で確証がなかった。きっと、この地の景色を見れば思い出す気がした」
「では、本当に……」
私は周囲の景色をもう一度ぐるりと見回した。
もう見慣れてきた山稜の続く広い空。まばゆい太陽は大地を照らし、池や川は陽光を反射させている。
「おにいさまを気に入っていた精霊が、おにいさまの再訪を喜びついてきてしまったということでしょうか?」
「精霊が目の前に現れた時、本当はすぐにレセプタクルを手にしてヒュドル邸へ向かうべきだった。でも、精霊の手を取ったらどうなるのだろうと……考えてしまったんだ」
「そんな……」
おにいさまは美しい顔で淡く微笑んでいる。それなのに泣き出しそうにも見えて、私は戸惑った。
「ずっと初恋相手の面影を追い求め、その過程で俺を慕うようになったのに、おまえは再びアーファ殿に惹かれていた。それがなんとなく腹立たしかったんだ……」
「腹が立つ? 私は何か不快にさせてしまったのですか?」
「ああ、違う、違うんだ、ペレーネ。そうじゃない」
夢の中に出てきたおにいさまの顔を思い出して、胸が苦しい。
「俺の身勝手な感情なんだ。だから――」
「まさか、そんな理由で精霊を連れて行ってしまったのですか!」
ずっと黙していたアーファ様が声を荒らげた。鋭い眼差しには涙の膜が張っている。
「精霊の加護がなくなったせいで、大地は衰え不作が続き、多くの水源が涸れてしまった! 金策が追いつかず、父は支援先を探しまわる中で事故に遭い亡くなった! その相手先も詐欺だった! 本来なら起こるはずがなかったことばかりなのに!」
アーファ様の悲鳴のような声が胸をつく。
おにいさまは苦しそうに下唇を噛み、青い瞳を真っ直ぐに持ち上げた。
「アーファ殿。許してくれだなんて言う資格はない。申し訳なかった」
おにいさまは深く頭を下げる。
その声音から渋々謝罪しているのではなく、本心から悔いている様子が感じ取れた。きっとアーファ様にもそれが伝わったのだろう。彼の顔がますます痛みを堪えるように歪む。
「公爵閣下には知らぬ間に精霊が戻ってきたと伝えます。ルイ殿はこちらでの職務を終えたら、すぐに王都へお戻りください」
「アーファ殿……」
「申し訳ありませんが、もうお引き取りください」
アーファ様はおにいさまからの視線を避けるように顔を横に向けた。
震える握りこぶしから、色々な感情を理性で押し込んでいる様子が伝わってくる。
おにいさまはもう一度深く頭を下げ、元来た道を戻っていった。
「あの、アーファ様」
名を呼んでも彼は私を見ようとはしない。
結局、私はおにいさまの語っていた理由がよく分からなかった。
いつも誰かを頼り、道を指し示してもらうばかりだったから、いざという時に理解が及ばないのだ。
「アーファ様。おにいさまのこと……、大変申し訳ありません」
深く頭を垂れると、アーファ様が息を吞んだ気配がした。
「どうして貴女が謝るのですか!?」
怒鳴られる理由が分からず顔を上げると、眉をつり上げたアーファ様が、今まで見たことのない顔で怒りを露わにしていた。
「ルイ殿のしたことは貴女に関係ないでしょう! それなのに、どうして……」
「そ、それは」
親戚だから。家族だから。
思いつく限りの答えを口にしたいのに、アーファ様の剣幕に気圧されて声が出てこない。
「僕は貴女がルイ殿を恋い慕っていることに気付いていました」
「え……」
呆然とする私に対して、アーファ様は苦笑いを見せる。
「貴女がそのことに気付いていない上に、どうして僕を好きだと錯覚して、結婚までしたのか不思議でした」
「ア、アーファ様、何か勘違いをしています。おにいさまは……従兄ですよ?」
「勘違いではありません。貴女は初夜で好きでもない男に雑に抱かれたから、あんなにも僕に嫌悪感を抱いたのでしょう。……おふたりで僕を弄んで楽しいですか?」
狼狽える私からアーファ様は顔を背ける。
「しばらく一人にしてください」
「で、でも」
どうして放っておけないと素直に言えないのだろう。言わなくてもいいことは、すぐ口に出来るくせに。
動こうとしない私の態度に、彼は苛立ちをみせた。
「もう、いいです」
アーファ様は私の隣を通り過ぎて、屋敷へ続く小道を早足で歩み始める。
「ま、待ってください!」
足は彼を追いかけ、口は何度も彼の名を呼ぶ。
去っていく背中に何度呼びかけても、彼は歩みを止めてくれない。
(ああ……当然だわ。私だって立ち止まろうとしなかったもの)
何度もアーファ様の呼びかける声を振り払ってきた。あの時の彼の気持ちを考えると心が痛くなる。
「アーファ様……!」
彼の歩みを止めようと強引に手を伸ばしたが、足先が石畳の隙間に引っかかった。
転ぶことは免れたものの、体勢を整える間に、アーファ様の後ろ姿はますます遠ざかっていく。
走れば彼に追いつける。
けれど、私の足は地面に縫い付けられたように動かなくなってしまった。
散々彼を無視したのに、どうして私は彼を呼び止められると思ったのだろう。
一気に身体から力が抜けて、ただ呆然と誰もいない小道の先を見つめた。
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