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急いで服を整えた後、私はおにいさまが待つ応接室へ向かう。
「ペレーネ。慌てると転ぶぞ?」
彼と向かい合わせに置かれた長椅子に腰掛けて、私はわざとらしく頬を膨らませた。
「おにいさまは、私をいくつだと思っているのかしら」
侍女が紅茶を置いて退室すると、従兄は体勢を崩して長い脚を組む。
「おにいさまが視察に来るのでしたら、事前にお知らせくださればよかったのに」
「おまえを驚かせようと思ったんだ」
「私以外の者が大変驚いております」
「それは申し訳ないことをした」
絶対に思ってもいないような言葉を口にして、おにいさまは笑みを深める。
「どうだ、新婚生活は?」
「まだ始まったばかりですから、よく分かりません」
「ふうん」
おにいさまの青い瞳が真っ直ぐに私を見つめていて、なんだか落ち着かない。
「伯爵がおまえのお転婆ぶりを知ったら驚くだろうな」
「また私を子供扱いするのですね」
「俺にとっては、ずっとそんなものだ」
実家の兄も私をこんなふうに甘やかしてくる。
彼らとは二歳しか差がないのに、そんなに子供っぽいのだろうかと心配になってしまう。
「想像していたよりも楽しそうではないな」
「そうでしょうか?」
「望んだ婚姻を叶えたのだから、もっと喜々としているかと思っていた」
おにいさまはずっと笑みを浮かべていたが、その微笑はいつの間にか消えていた。
「何かが理想と違ったのか?」
いつだってこの人は、私の言語化できない気持ちを見透かしてしまう。
だから実の兄以上に頼ってしまう側面が大きい。
「もしかしたら、そうなのかもしれません……」
「まあ、同じ屋根の下で暮らすというのは、そういうものかもしれないな」
「恋をしていると思っていたのに、一晩で嫌いになるなんて、そんなこと有り得ますか?」
「嫌いになったのか?」
「あ!」
するりと言葉にしてしまい、すぐさま両手で口を隠す。
おにいさまを前にすると、つい素直に話してしまう。しかし、話していいこととそうでないことは、きちんと区別するべきだった。
「わ、忘れてください!」
「安心しろ。誰にも話したりはしない」
両親や兄に伝わることを恐れたと思ったのか、従兄は眉を下げて宥めるように告げる。
「俺も半年後には婚儀だ。どんな生活になるのか想像つかない点では俺も同じかもしれないな」
「半年しかないのですね……」
二年前、従兄の婚約が決まった。隣国の第二王女が彼を気に入り、王家を通じて婚約の打診があり、それを受諾した形だ。
おにいさまは、陽光に輝く金色の髪と空のように澄んだ青い瞳を持ち、その美しい顔立ちと博識さ、そして誰に対しても優しく紳士的な振る舞いから、貴族令嬢たちの間で高い評判を得ている。
そんな彼は、たまたま訪れていた姫君まで虜にしてしまったのだ。
「おにいさまが隣国で暮らすだなんて……、寂しくなります」
「すでに結婚し、王都から離れて暮らすおまえに言われてもなぁ」
「国境を越えるのは遠すぎます!」
私自身の婚儀を数日後に控えた頃、こんなふうに従兄と気軽に話せる時間が無くなるのだと思うと寂しく感じた。
あのとき感じた胸の痛みが、ふいによみがえってくる。
「おにいさま。こちらに滞在中はたくさんお話をしてくださいね」
「子供のようだな」
「どう受けとられても、かまいません!」
ふんと鼻を鳴らして顔を横に向けると、おにいさまは楽しそうに笑う。
「で、どうして伯爵を嫌いだと思ったんだ?」
「その話、まだ続けるのですね」
「あたりまえだ」
「突然嫌になってしまって……ああ、でも、そうだわ。……早く誰かと口づけを済ませなきゃ……」
そわそわと膝の上に組んだ指を動かしていると、従兄は眉を寄せた。
「ペレーネ。何を言っている?」
おにいさまの叱るような声音に、びくりと肩が跳ねる。
「こちらに来なさい」
彼は自分の隣を軽く叩いた。ためらいつつ隣に腰掛けると、おにいさまは私の顔を覗き込む。
「誰かと口づけを済ませるとはどういう意味だ?」
「お、おにいさま、耳がいいですね」
「ペレーネ。おまえは王弟が父親である自覚はあるよな? まさか、出自を汚すような軽々しい真似をしようとは考えていないはずだ」
「も、もちろんですわ!」
おにいさまは、うんうんと頷いて眼差しを鋭くした。
「で? どういう意味だ?」
「……詳しく話すことは出来ませんが、初めての口づけはアーファ様以外の方と済ませたいと……考えております」
そう伝えると彼は瞠目してしまう。
「お、おにいさま。私は父の名を汚すような真似はいたしません! 王都に戻り、女性向けのそういうお店を探そうとは思いましたが、思いとどまっております!」
「あたりまえだ! そもそも、おまえたちは口づけもしていないのか?」
「口づけ以上のことはしましたよ?」
「そんな話は知りたくないから言わなくていい」
「ご、ごめんなさい……」
心底嫌そうな顔をされてしまった。おにいさまの顔が怖い。
「ペレーネ。とにかく早まった真似はするんじゃない。いくら好きでなくなったとしても、貴族の婚姻は浮ついた気持ちのままではいられないんだ」
「承知しています。まあ――、その点ではアーファ様も同じ気持ちでしょう」
「そりゃあ伯爵は婚姻を迫られた側だ。浮ついた気持ちなどないだろう」
すべての事情を知っている従兄の言葉が無遠慮に私の胸を突き刺す。
「――そうか、嫌いになったのか……」
おにいさまは私の顎に触れて、引っかき傷にそっと触れた。じんとした小さな痛みを感じる。
「おにいさま、ちゃんと薬は塗りましたよ?」
「そうじゃない。俺が初めての相手になってやろうか?」
「えっ!?」
「俺なら後腐れもない上に妙な噂が立つ心配もない」
おにいさまの美しい顔が近寄ってきて、かあっと頬が熱くなる。
「あ、あの!?」
顎に触れた指に力をこめられて、顔が背けられない。
長い睫毛に縁取られた青い瞳が至近距離に近づいてくる。
思わずぎゅっと瞼を閉じた次の瞬間、控えめな音で扉がノックされた。
「っ!」
驚いて目を開けると、鼻先が触れる距離にいた従兄の顔が扉を見やった。
「…………残念」
おにいさまは小さく呟いて、私の額に唇を落とす。
泡を食う私の顔を見ながら彼は満足そうに笑い、そして身を離した。
「どうぞ」
おにいさまが扉に向かって声をかけると、書類の束を手にしたアーファ様が入室したが、彼は隣同士に座る私たちを見て渋い顔をする。
「あっ! し、失礼いたしました!」
私は慌てて立ち上がり机を挟んだ向かい側へ戻る。従兄がクスクスと笑う声がして、更に顔が火照る。
「伯爵。どうぞ」
おにいさまに促されて、アーファ様は軽く会釈をして私の隣に腰掛けた。
(さすが、おにいさまだわ……)
手渡された書類に目を通す姿は、さきほどまでのふざけた態度は見られない。
おにいさまはまったく動じておらず、私だけが心の中で大騒ぎしている。
(私が馬鹿なことを言ったから、あんな揶揄い方をしたんだわ……)
女性に人気の高い従兄は、なんの免疫もない女を籠絡する術を心得ていそうだ。
「本日、お泊まりいただく部屋の支度が調いましたが、このあとはどうされますか?」
アーファ様はおにいさまが書類を読み終わった頃を見計らって声をかけた。
「ああ、それは助かる。実は昨夜泊まった宿がうるさくて、あまり眠れなかったんだ。晩餐まで仮眠をとっても構わないか?」
「それは構いませんが、起こしに伺ったほうがよろしいですか?」
「そうだな――、晩餐の時刻が近づいたら、念のため声をかけてくれるか?」
立ち上がるおにいさまに続いて、アーファ様は椅子から腰を持ち上げる。
「承知いたしました。では、部屋に案内させます」
アーファ様は廊下に控えていた侍女に声をかけた。
そんな動きをぼんやりと眺めていると、おにいさまは私を振り返る。
「ペレーネ。あれで我慢しておけ」
「お、おにいさま!」
従兄は飄々とした笑みを浮かべて、部屋を出て行った。
アーファ様と二人残された室内に静寂が広がる。
「ジリアス公爵令息は見事な金髪碧眼の美丈夫ですね。貴女の好みにぴったりだ。…………彼の隣に座り、顔を赤くして、いったい何をしていたのですか?」
「っ!?」
そんな、あからさまに赤面していたとは思わなかった。
おにいさまの美しい顔が近づいた瞬間を思い出して、またしても頬が熱を帯び始める。
「く、口づけを」
「はい?」
「初めての口づけを……」
「彼と口づけをしたのですか!?」
「し、していません!」
「まさか口づけをしてくれるよう頼んだのですか?」
「ええと……、そのようなところでしょうか」
少々間違っているが根本的には間違っていない。少なくとも、あの瞬間は従兄を受け入れようとしていた。
「信じられない! 何度も言いますが、貴女は結婚した身ですよ!?」
「だから、口づけはしていません!」
「しようとしたのでしょう! あんなに顔を赤くして!」
「文句があるのなら離縁してください!」
「……っ」
アーファ様はぐっと押し黙る。
「不貞だと咎めるくせに私がいると利益が大きいから、そうやって離縁は拒むのでしょう?」
「形だけの夫婦というのは、夫以外の男を持つという項目が含まれるのですか?」
「おにいさまは従兄です。従兄妹同士の恋愛や結婚は法で禁じられているので、そんな対象ではありません。だいたい口づけに関しては、アーファ様もしていたではありませんか」
「っ!?」
「貴方が婚約者の方と口づけているところを見たことがあります」
いつも彼を目で追っていた。そんな時に、仲睦まじい二人が口づけている場面を目撃したのだ。
「結婚前と結婚後では意味合いが異なりますので、むちゃくちゃなことを言っている自覚はあります。でも貴方も初めてではないのですから、私のことは放っておいてください」
「そ、そうだとしても、不貞だけは放っておけません」
「家名が貶められるかもしれない行為ですものね。お気持ちは分かります」
身分差のある婚姻だった挙げ句、即行で妻に不貞を働かれるなんて、いいゴシップのネタだろう。
「……僕は貴女といい夫婦関係を築きたいと思っています」
「無理です。私は貴方のことが嫌いです」
「だから、どうして嫌いなのかを教えてください!」
「貴方は機械的な性交を嫌がりますが、初夜でさえ機械的だったのに、いまさら性交を楽しみたいなんて都合がよすぎませんか!?」
「そういう意味で無理だと伝えたわけではありません! 貴女を強引に犯しているみたいで気分が悪くて……」
「私はあの夜からずっと気分が悪いです! そりゃあ相思相愛の方と引き離され、好きでもない女を慮るような気にはならなかったでしょう」
「あ、あの夜……?」
「それほど私が嫌だったのなら、これから先も人形を抱いているつもりですればいいのよ!」
どうしてだろう。胸を掻き毟りたくなるような感情が喉を塞いで苦しい。
怒りが堪えられなくて、涙がぼろぼろと頬を伝っていく。
「これ以上とやかく言うのでしたら、精霊に関しては何も協力いたしません!」
唖然とするアーファ様に脅すような言葉を投げつけて、私はその場を立ち去った。
◇
ヒュドル邸の使用人たちは、突然の来訪客に戸惑いながらも、精一杯力を尽くしてくれた。
晩餐はとても豪華で美味しくて、おにいさまは嬉しそうに料理を口に運んでいた。
その後、アーファ様たちは応接室で酒を楽しんでいたが、私はなんとなく気分が晴れず、湯浴みを済ませてからすぐに寝台に横たわった。
瞼を閉じて逡巡を繰り返すが、何度も頭をよぎるのは昼間の出来事だ。
「また、言い過ぎてしまったわ……」
私がアーファ様を知ったのは、ある夜会だった。
酒に酔った貴族の令息に迫られ、危うく手籠めにされそうになったところを救われた。婚約者の女性は兄たちを呼びに走ってくれ、穏やかで優しい雰囲気をまとった二人だった。
――ああ、お似合いだな。
そんなふうに強く思ったのを覚えている。
駆けつけた兄や、おにいさまは酷く憤慨して、今まで以上に私に対して過保護になった。
そういった経緯もあり婚約打診の多い時期だったが、両親や兄たちが相手の素行を調べ尽くして精査を続けていた。
アーファ様たちはあまり社交界には顔を出さなかったが、たまに見かける時は、いつも目で追っていた。
身分差があるせいで、あちらからは声をかけられない。私から挨拶をすればいいのに、どうしても近づけなかった。
どうしてこんなにも気になるのだろう。
理由が知りたくて、私はおにいさまに相談をした。
◆
『ペレーネ。それは彼に恋をしているんだ』
――これが恋ですか?
『人混みに紛れていても目が向いてしまうくらいに、彼が気になるのだろう?』
――でも、容姿も好みではありませんし、何より俗に聞く胸が高鳴るような感覚もありません。
『おまえは芝居や小説の読み過ぎだな。恋とは自然に落ちるものだ。普通は意味もなく異性を目で追ったりしない』
――なるほど。私は彼に恋をしているのですね。婚約者のいる方に恋慕するなんて、褒められたものではありません。胸に秘めたまま終わらせますわ……。
『どうせ、貴族の婚姻なんて政略的なものばかりだ。彼らだってそうさ。公爵閣下にさりげなく彼が好きだと伝えてみるといい。おまえの兄には俺から伝えよう』
家族とはいえ他人に恋心を知られるというのは恥ずかしいものだ。躊躇する私に、おにいさまは柔和な笑顔で言った。
『同じ政略結婚なら、相手はおまえのほうがいいとなるさ』
◆
初夜で私自身には何の価値もないと突きつけられている心地になるのなら、こんな婚姻を望むのではなかった。
「ペレーネ。慌てると転ぶぞ?」
彼と向かい合わせに置かれた長椅子に腰掛けて、私はわざとらしく頬を膨らませた。
「おにいさまは、私をいくつだと思っているのかしら」
侍女が紅茶を置いて退室すると、従兄は体勢を崩して長い脚を組む。
「おにいさまが視察に来るのでしたら、事前にお知らせくださればよかったのに」
「おまえを驚かせようと思ったんだ」
「私以外の者が大変驚いております」
「それは申し訳ないことをした」
絶対に思ってもいないような言葉を口にして、おにいさまは笑みを深める。
「どうだ、新婚生活は?」
「まだ始まったばかりですから、よく分かりません」
「ふうん」
おにいさまの青い瞳が真っ直ぐに私を見つめていて、なんだか落ち着かない。
「伯爵がおまえのお転婆ぶりを知ったら驚くだろうな」
「また私を子供扱いするのですね」
「俺にとっては、ずっとそんなものだ」
実家の兄も私をこんなふうに甘やかしてくる。
彼らとは二歳しか差がないのに、そんなに子供っぽいのだろうかと心配になってしまう。
「想像していたよりも楽しそうではないな」
「そうでしょうか?」
「望んだ婚姻を叶えたのだから、もっと喜々としているかと思っていた」
おにいさまはずっと笑みを浮かべていたが、その微笑はいつの間にか消えていた。
「何かが理想と違ったのか?」
いつだってこの人は、私の言語化できない気持ちを見透かしてしまう。
だから実の兄以上に頼ってしまう側面が大きい。
「もしかしたら、そうなのかもしれません……」
「まあ、同じ屋根の下で暮らすというのは、そういうものかもしれないな」
「恋をしていると思っていたのに、一晩で嫌いになるなんて、そんなこと有り得ますか?」
「嫌いになったのか?」
「あ!」
するりと言葉にしてしまい、すぐさま両手で口を隠す。
おにいさまを前にすると、つい素直に話してしまう。しかし、話していいこととそうでないことは、きちんと区別するべきだった。
「わ、忘れてください!」
「安心しろ。誰にも話したりはしない」
両親や兄に伝わることを恐れたと思ったのか、従兄は眉を下げて宥めるように告げる。
「俺も半年後には婚儀だ。どんな生活になるのか想像つかない点では俺も同じかもしれないな」
「半年しかないのですね……」
二年前、従兄の婚約が決まった。隣国の第二王女が彼を気に入り、王家を通じて婚約の打診があり、それを受諾した形だ。
おにいさまは、陽光に輝く金色の髪と空のように澄んだ青い瞳を持ち、その美しい顔立ちと博識さ、そして誰に対しても優しく紳士的な振る舞いから、貴族令嬢たちの間で高い評判を得ている。
そんな彼は、たまたま訪れていた姫君まで虜にしてしまったのだ。
「おにいさまが隣国で暮らすだなんて……、寂しくなります」
「すでに結婚し、王都から離れて暮らすおまえに言われてもなぁ」
「国境を越えるのは遠すぎます!」
私自身の婚儀を数日後に控えた頃、こんなふうに従兄と気軽に話せる時間が無くなるのだと思うと寂しく感じた。
あのとき感じた胸の痛みが、ふいによみがえってくる。
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「子供のようだな」
「どう受けとられても、かまいません!」
ふんと鼻を鳴らして顔を横に向けると、おにいさまは楽しそうに笑う。
「で、どうして伯爵を嫌いだと思ったんだ?」
「その話、まだ続けるのですね」
「あたりまえだ」
「突然嫌になってしまって……ああ、でも、そうだわ。……早く誰かと口づけを済ませなきゃ……」
そわそわと膝の上に組んだ指を動かしていると、従兄は眉を寄せた。
「ペレーネ。何を言っている?」
おにいさまの叱るような声音に、びくりと肩が跳ねる。
「こちらに来なさい」
彼は自分の隣を軽く叩いた。ためらいつつ隣に腰掛けると、おにいさまは私の顔を覗き込む。
「誰かと口づけを済ませるとはどういう意味だ?」
「お、おにいさま、耳がいいですね」
「ペレーネ。おまえは王弟が父親である自覚はあるよな? まさか、出自を汚すような軽々しい真似をしようとは考えていないはずだ」
「も、もちろんですわ!」
おにいさまは、うんうんと頷いて眼差しを鋭くした。
「で? どういう意味だ?」
「……詳しく話すことは出来ませんが、初めての口づけはアーファ様以外の方と済ませたいと……考えております」
そう伝えると彼は瞠目してしまう。
「お、おにいさま。私は父の名を汚すような真似はいたしません! 王都に戻り、女性向けのそういうお店を探そうとは思いましたが、思いとどまっております!」
「あたりまえだ! そもそも、おまえたちは口づけもしていないのか?」
「口づけ以上のことはしましたよ?」
「そんな話は知りたくないから言わなくていい」
「ご、ごめんなさい……」
心底嫌そうな顔をされてしまった。おにいさまの顔が怖い。
「ペレーネ。とにかく早まった真似はするんじゃない。いくら好きでなくなったとしても、貴族の婚姻は浮ついた気持ちのままではいられないんだ」
「承知しています。まあ――、その点ではアーファ様も同じ気持ちでしょう」
「そりゃあ伯爵は婚姻を迫られた側だ。浮ついた気持ちなどないだろう」
すべての事情を知っている従兄の言葉が無遠慮に私の胸を突き刺す。
「――そうか、嫌いになったのか……」
おにいさまは私の顎に触れて、引っかき傷にそっと触れた。じんとした小さな痛みを感じる。
「おにいさま、ちゃんと薬は塗りましたよ?」
「そうじゃない。俺が初めての相手になってやろうか?」
「えっ!?」
「俺なら後腐れもない上に妙な噂が立つ心配もない」
おにいさまの美しい顔が近寄ってきて、かあっと頬が熱くなる。
「あ、あの!?」
顎に触れた指に力をこめられて、顔が背けられない。
長い睫毛に縁取られた青い瞳が至近距離に近づいてくる。
思わずぎゅっと瞼を閉じた次の瞬間、控えめな音で扉がノックされた。
「っ!」
驚いて目を開けると、鼻先が触れる距離にいた従兄の顔が扉を見やった。
「…………残念」
おにいさまは小さく呟いて、私の額に唇を落とす。
泡を食う私の顔を見ながら彼は満足そうに笑い、そして身を離した。
「どうぞ」
おにいさまが扉に向かって声をかけると、書類の束を手にしたアーファ様が入室したが、彼は隣同士に座る私たちを見て渋い顔をする。
「あっ! し、失礼いたしました!」
私は慌てて立ち上がり机を挟んだ向かい側へ戻る。従兄がクスクスと笑う声がして、更に顔が火照る。
「伯爵。どうぞ」
おにいさまに促されて、アーファ様は軽く会釈をして私の隣に腰掛けた。
(さすが、おにいさまだわ……)
手渡された書類に目を通す姿は、さきほどまでのふざけた態度は見られない。
おにいさまはまったく動じておらず、私だけが心の中で大騒ぎしている。
(私が馬鹿なことを言ったから、あんな揶揄い方をしたんだわ……)
女性に人気の高い従兄は、なんの免疫もない女を籠絡する術を心得ていそうだ。
「本日、お泊まりいただく部屋の支度が調いましたが、このあとはどうされますか?」
アーファ様はおにいさまが書類を読み終わった頃を見計らって声をかけた。
「ああ、それは助かる。実は昨夜泊まった宿がうるさくて、あまり眠れなかったんだ。晩餐まで仮眠をとっても構わないか?」
「それは構いませんが、起こしに伺ったほうがよろしいですか?」
「そうだな――、晩餐の時刻が近づいたら、念のため声をかけてくれるか?」
立ち上がるおにいさまに続いて、アーファ様は椅子から腰を持ち上げる。
「承知いたしました。では、部屋に案内させます」
アーファ様は廊下に控えていた侍女に声をかけた。
そんな動きをぼんやりと眺めていると、おにいさまは私を振り返る。
「ペレーネ。あれで我慢しておけ」
「お、おにいさま!」
従兄は飄々とした笑みを浮かべて、部屋を出て行った。
アーファ様と二人残された室内に静寂が広がる。
「ジリアス公爵令息は見事な金髪碧眼の美丈夫ですね。貴女の好みにぴったりだ。…………彼の隣に座り、顔を赤くして、いったい何をしていたのですか?」
「っ!?」
そんな、あからさまに赤面していたとは思わなかった。
おにいさまの美しい顔が近づいた瞬間を思い出して、またしても頬が熱を帯び始める。
「く、口づけを」
「はい?」
「初めての口づけを……」
「彼と口づけをしたのですか!?」
「し、していません!」
「まさか口づけをしてくれるよう頼んだのですか?」
「ええと……、そのようなところでしょうか」
少々間違っているが根本的には間違っていない。少なくとも、あの瞬間は従兄を受け入れようとしていた。
「信じられない! 何度も言いますが、貴女は結婚した身ですよ!?」
「だから、口づけはしていません!」
「しようとしたのでしょう! あんなに顔を赤くして!」
「文句があるのなら離縁してください!」
「……っ」
アーファ様はぐっと押し黙る。
「不貞だと咎めるくせに私がいると利益が大きいから、そうやって離縁は拒むのでしょう?」
「形だけの夫婦というのは、夫以外の男を持つという項目が含まれるのですか?」
「おにいさまは従兄です。従兄妹同士の恋愛や結婚は法で禁じられているので、そんな対象ではありません。だいたい口づけに関しては、アーファ様もしていたではありませんか」
「っ!?」
「貴方が婚約者の方と口づけているところを見たことがあります」
いつも彼を目で追っていた。そんな時に、仲睦まじい二人が口づけている場面を目撃したのだ。
「結婚前と結婚後では意味合いが異なりますので、むちゃくちゃなことを言っている自覚はあります。でも貴方も初めてではないのですから、私のことは放っておいてください」
「そ、そうだとしても、不貞だけは放っておけません」
「家名が貶められるかもしれない行為ですものね。お気持ちは分かります」
身分差のある婚姻だった挙げ句、即行で妻に不貞を働かれるなんて、いいゴシップのネタだろう。
「……僕は貴女といい夫婦関係を築きたいと思っています」
「無理です。私は貴方のことが嫌いです」
「だから、どうして嫌いなのかを教えてください!」
「貴方は機械的な性交を嫌がりますが、初夜でさえ機械的だったのに、いまさら性交を楽しみたいなんて都合がよすぎませんか!?」
「そういう意味で無理だと伝えたわけではありません! 貴女を強引に犯しているみたいで気分が悪くて……」
「私はあの夜からずっと気分が悪いです! そりゃあ相思相愛の方と引き離され、好きでもない女を慮るような気にはならなかったでしょう」
「あ、あの夜……?」
「それほど私が嫌だったのなら、これから先も人形を抱いているつもりですればいいのよ!」
どうしてだろう。胸を掻き毟りたくなるような感情が喉を塞いで苦しい。
怒りが堪えられなくて、涙がぼろぼろと頬を伝っていく。
「これ以上とやかく言うのでしたら、精霊に関しては何も協力いたしません!」
唖然とするアーファ様に脅すような言葉を投げつけて、私はその場を立ち去った。
◇
ヒュドル邸の使用人たちは、突然の来訪客に戸惑いながらも、精一杯力を尽くしてくれた。
晩餐はとても豪華で美味しくて、おにいさまは嬉しそうに料理を口に運んでいた。
その後、アーファ様たちは応接室で酒を楽しんでいたが、私はなんとなく気分が晴れず、湯浴みを済ませてからすぐに寝台に横たわった。
瞼を閉じて逡巡を繰り返すが、何度も頭をよぎるのは昼間の出来事だ。
「また、言い過ぎてしまったわ……」
私がアーファ様を知ったのは、ある夜会だった。
酒に酔った貴族の令息に迫られ、危うく手籠めにされそうになったところを救われた。婚約者の女性は兄たちを呼びに走ってくれ、穏やかで優しい雰囲気をまとった二人だった。
――ああ、お似合いだな。
そんなふうに強く思ったのを覚えている。
駆けつけた兄や、おにいさまは酷く憤慨して、今まで以上に私に対して過保護になった。
そういった経緯もあり婚約打診の多い時期だったが、両親や兄たちが相手の素行を調べ尽くして精査を続けていた。
アーファ様たちはあまり社交界には顔を出さなかったが、たまに見かける時は、いつも目で追っていた。
身分差があるせいで、あちらからは声をかけられない。私から挨拶をすればいいのに、どうしても近づけなかった。
どうしてこんなにも気になるのだろう。
理由が知りたくて、私はおにいさまに相談をした。
◆
『ペレーネ。それは彼に恋をしているんだ』
――これが恋ですか?
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――でも、容姿も好みではありませんし、何より俗に聞く胸が高鳴るような感覚もありません。
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――なるほど。私は彼に恋をしているのですね。婚約者のいる方に恋慕するなんて、褒められたものではありません。胸に秘めたまま終わらせますわ……。
『どうせ、貴族の婚姻なんて政略的なものばかりだ。彼らだってそうさ。公爵閣下にさりげなく彼が好きだと伝えてみるといい。おまえの兄には俺から伝えよう』
家族とはいえ他人に恋心を知られるというのは恥ずかしいものだ。躊躇する私に、おにいさまは柔和な笑顔で言った。
『同じ政略結婚なら、相手はおまえのほうがいいとなるさ』
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初夜で私自身には何の価値もないと突きつけられている心地になるのなら、こんな婚姻を望むのではなかった。
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