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最終話
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実家を出た頃には、陽は落ちていた。
夜空を彩る月や星は見えず、闇を深めた雲が広がっている。
ラルは同じように空を見上げて言った。
「雨が降りそうだね」
「うん、早く帰らなきゃ」
手を差し出すと、彼は大きな手で私の手を握ってくれる。
表情を綻ばせるラルの姿に胸が痛んだ。
傷つけてしまったかもしれない。
胃の腑が締め付けられているみたいで辛い。
鼻を通る匂いが変化し始め、風も出てきた。
急いで家に戻り、扉を閉めて閂をかける。
普段は閉めない雨戸を下ろしていくと、普段よりも室内の闇が濃くなった。
ランプに火を灯し、温かい飲み物を用意してから、私とラルはテーブルを挟んで腰掛けた。
話をしながら食事の準備をするのは横着かもしれないけれど、あまり遅くなるのも嫌だ。
テーブルの上に夕飯に使う食材を並べ、居心地の悪さを誤魔化すように野菜の皮を剥いていく。
手元を見つめながら、私は口を開いた。
「最初の頃に戻さない?」
「は?」
どう伝えたらいいのか迷い、私は暫し視線を彷徨わせるが、意を決してラルを見やる。
「私と貴方の関係を、何もなかった頃に戻そう」
「どうして、そんな事……」
「ニ年前はともかく、今は私のこと好きじゃないでしょう?」
ラルは言葉を詰まらせて、私を凝視している。
「二年も旅をしてきて色々あったと思う。ラルの勇者としての毎日を支えていたのが、私のいる村に帰ることだったなら、それはもう果たされているわ。私に固執しなくていいんだよ? 貴方の好きにしてくれて構わない」
驚きに見開かれたラルの青い瞳が私を捉え続け、ついと逸れた。
「俺のこと……そんなふうに思ってたんだね」
「目標や理由がないと、勇者として邁進するのは難しかったと思う。でも、もう……それに囚われなくてもいいんじゃないかな」
囚われている、と言葉にして少しだけ後悔した。
ラルの旅をそんなふうに表現してはいけなかった。
「酷いことを言ってごめんなさい……でも、勇者としての貴方を知っている人と、この先の未来を歩いて行った方がいいのかもしれないって思ったの」
「前も言っていたけど、それは誰を想像してる?」
「えっと……旅の仲間とか?」
ラルの瞳が鋭くなった気がして、目を合わせていられず、私は手元に視線を戻した。
野菜の皮をしょりしょり剥いていく小さな音だけが響く。
「…………確かに、そういう雰囲気に一度もならなかったわけじゃないよ」
「ああ、ですよね」
ぽつりと告げられて、ついむっとしてしまったが、顔に出さないよう頬に力を入れる。
「でも、何もしてないよ?」
「……そうなんだ……」
どうやら努力虚しく顔に出ていたらしい。ラルは笑いを噛み殺し、深く息を吐く。
「ティアナは二年前の俺が好きで、今の俺は嫌い?」
「え!?」
思わず手を動かすのを止めて、顔を持ち上げた。
ラルの鮮やかな青い瞳には、あきらかな怯えが見てとれた。
「ラル…………」
愕然とした。
想像もしていなかった。
言葉にすることで、拒絶されるかもしれない恐れを抱いていたのは、私だけではなく彼も同じだった?
「ティアナ、答えて。今の俺は嫌い?」
「好きよ。毎日、更にラルを好きになっている実感があるわ」
「へえ…………」
ラルは暫し瞬きを忘れていたが、慌てた様子で口元を隠し視線を逸らした。
目元が赤い。
「照れてる?」
揶揄うように言うと、彼は眉を上げて横目で睨んでくる。
可愛い反応に頬が緩む。
「……二年前と変わらぬ姿で待ち続けてくれることを望んでいたくせに、一番変わったのは俺だってことは分かってるんだ」
「二年も異なる環境にいたのだから、仕方ないわよ」
否定が出来なくて当たり障りのない返答をしてしまった。
それが伝わったのか、ラルは小さく笑う。
「それを言うなら、ティアナも同じだろ? 君だって村を出ていたんだから」
「わ、私は……あまり変わっていない気がするわ。そうね、村にいた頃よりも、がさつになったくらいかしら」
「は?」
ラルはきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに吹き出し笑い始める。
「えっ? な、何で笑うの!?」
余程おかしいのか、ラルは顔を背けてしまった。
ぶるぶる震えながら笑いを堪える姿はレアだ。
「ティアナが、がさつなのは昔からだよ。雑な性格だし狡いところもあるよね」
「そ、そんなふうに思ってたの!?」
予想外の台詞に、私は動揺を隠せない。
ラルは私の反応が追い打ちになったのか、一頻り笑い続けている。
「わ、笑いすぎよ!」
恥ずかしいやら、腹立たしいやら。
笑い過ぎて涙が出てきたようだ。ラルは目元を拭いながら、私を楽しげに見やる。
「一つだけ、訂正させて欲しいんだ」
「うん……」
「俺はティアナのことが今も好きだよ」
「え!?」
咄嗟に反応できず顔が取り繕えない。そんな私を見ながら、ラルは笑みを深めた。
「どうして、そんな顔になるかな」
「だ、だって」
「俺はティアナのそういうところが好きなんだ。楽しくて、目が離せない。それに、危なっかしいから守ってあげたくなる」
「でも……」
「俺に抱かれるの嫌だった? いつから使ってたのかな、あれ」
「あ……あれは」
突然気まずい話に突入して、私は誤魔化すように言葉尻をぼそぼそとさせた。
あれと言われ思い浮かぶ、股に塗り込んでいた潤滑油。
「二週間くらい前……かな」
「そんなに?」
「だって! あんなに激しく性処理みたいに抱かれたら興奮も何もしないわ!」
「そ、それは……その」
ラルを睨みつけると、彼は目を泳がせ言葉を探す。
「ティアナは……俺を好きではないのかもって思ってた。それなのに君に触れたくなってしまう自分が嫌で、その……早く終わらせようと」
「それなら私に触るのを我慢して欲しい」
「無理だよ……好きな人と生活しているのに」
「気絶するくらい激しくするのはやめて。私、その、終わってからも、ラルと話したりしたいのよ」
頬に熱が溜まるのを感じる。恥ずかしくて堪らないけれど、ラルも同じくらい赤面しているから、なんだか彼から目が逸らせない。
「む、夢中になりすぎて……我を忘れちゃうんだ…………ご、ごめん」
ラルは顔を勢いよく背けた。耳が赤い。
「避妊のことも不安にさせてごめん! 色々気が急いたのは言い訳にならないよね!」
顔を反らしたまま謝るのはどうかと思う。けれど、これ以上目を合わせていられないという気持ちは理解できる。
「私、ラルとの子供が欲しくないわけじゃないのよ? でもまだ、二人でいたいの」
そう答えると、彼は背けていた顔をこちらに向けた。
ラルは嬉しそうに目尻を下げて柔らかく笑う。
不意打ちの笑顔に胸が高鳴った。
どきまぎする鼓動を落ち着かせようと、深呼吸をしながら胸を抑えると、不意に天井から雨音が鳴り始めた。
ラルは私から視線を外し、耳をそばだて沈黙してしまう。
まるで獣が気配を探る姿のようだ。
音に紛れ、何かに襲われるような経験でもしたのかもしれない。
「…………っ!」
どうして気付かなかったのだろう。
ラルは彼自身も気が付いていない、見えない傷を負ったままなんだ。
何かを振り払うような、独りよがりの行為。
彼は無意識の内に、痛みを情交で誤魔化していたのかもしれない。
私が浮ついた気持ちで村を出て、自分の気持ちだけを優先して過ごしていた間、彼は縋るものを信じることでしか立っていられなかった。
勇者としての天賦を与えられていたとしても、何の苦労もなく、全てを操れたりはしなかっただろう。
師匠だって、魔法を極めるのにとても苦労したと言っていた。
彼女の背中に酷い傷跡が残っていることを、私は知っている。
私は自分の二年間を後悔していないけれど、それでもラルに対して酷いことをしてしまったと思う。
不安だったなら、好きだったなら、話をすべきだった。
「はあ…………」
私は抑えきれず息を吐き、握り締めたままの包丁を置いた。
手を洗いに立ち、そしてラルを振り返る。
彼は不思議そうに私を見やり、それでも意識は外に向いているようだ。
「ラル」
私は名を呼んで彼に歩み寄る。そしてラルの頭をぎゅっと胸元に抱き締めた。
「……っ⁉ ど、どうした?」
突然のことにラルは狼狽える。
「言い忘れてたから」
「何を?」
「ラル、おかえりなさい。無事に帰ってきてくれて嬉しい。たくさん頑張ってくれてありがとう」
彼が息を飲んだのが伝わる。
ラルは腕の中で身じろぎ、胸の間に顔を埋める。
「今、言うなんて狡いよ……」
ラルの髪を撫でつけるように触れると、またもや彼の耳が真っ赤なことに気付く。
「ふふ、照れてる?」
また揶揄うように告げると、彼は「うう……」と恥ずかしそうに呻く。
「気が向いたらでいいから、旅のことを話して聞かせてくれないかな? 私も話すわ。太腿を火傷した時の話とか」
「それは今すぐに知りたい!」
ラルは食いつくように顔を上げた。その反応が面白くて、思わず吹き出してしまう。
「じゃあ、私も知りたい」
「そんなに面白い話はないよ?」
「別に構わないわ。ラルが思ったこと感じたこと、沢山知りたい」
「うん……」
また彼は私の胸元に額を埋めた。そして深くため息をつく。
「話したくなかったら、しなくていいからね」
「うん…………」
ラルはゆっくりと私の腕から離れた。恍惚とした表情を浮かべ、私の手を引く。
「ティアナ、ここ座って。というか、跨って?」
そう言いながら、ラルは自らの太腿をぽんぽんと軽く叩く。
「え!? そ、それは」
「ほら、早く早く」
ラルは腰掛けたままなのに、私の手を引く力が強い。
「うう……私、重いわよ?」
「平気だよ」
私の重さについては否定しないのか。
恥ずかしさをこらえながら、ラルの太腿の上に跨り、腰を下ろす。
彼は支えるように私の腰を抑えた。
「うん、顔が近くなった」
ラルはそう告げるなり、瞳を伏せて、はむような口づけをした。
唇を離しても顔の距離は近く、額がこつんと当たる。
「俺も、ティアナと再会してから、更に君を好きになってる」
「私に魅力はないわよ? 何も出来ないし」
「そう思っているのは君だけだ。ティアナだったから、君の元に戻りたいと思えたんだから」
「過大評価だわ……」
現実が見えていないのかしらと、私は眉を寄せる。
ラルは苦笑しながら、私の頬に唇を寄せた。
「ニ年前、知らないうちに逃げられてたんだ。今回ばかりは事が済んだら、絶対に文句言ってやろうって思ってた」
「うん?」
「昔からティアナは飄々としていて、俺を揶揄って楽しんでただろ? だから揶揄われた可能性もあるって思ったんだ」
「ええと、もっとこう、恋愛的な感情を抱いてくれてると思ってたのに……」
「それは当然あるけど、あんな甘い夜を俺に味合わせたくせに、切り替え早すぎるだろ! って苛立ったんだ。色々な意味でティアナに縋り続けてきて、もう君のことしか考えられないよ」
私は額を押さえて暫し考える。何やら思っていた感じと違う。
「ねぇ、ティアナ。一緒に旅に出ない?」
「え?」
突然の提案に驚いた顔を向けると、ラルは嬉しそうな笑みを見せる。
「新婚旅行のつもりで、期限を決めてさ。俺、ティアナに見せたいと思った場所が幾つかあるんだ。きっと喜ぶと思う。それに……聞いて欲しい話もたくさんあるんだ」
ラルの不安げに揺れた瞳に、懇願の色を見てしまった。
心の動きに気づいていないふりをして、私は笑う。
「うん! 行きたい!」
「決まりだね」
二人で目を合わせて笑い、引きつけられるように、私達は抱き締め合った。
ちゅ、と軽い口づけが頭や頬や首筋に落ちる。そのお返しとばかりに、私もラルの頬を両手で挟んで、何度も唇を寄せる。
楽しい遊びでもしているかのような、軽い口づけを繰り返し、視線が合うと自然と笑みが溢れた。
「ねぇ、ティアナ」
「うん」
ラルは私の耳をはんで、囁いた。
「俺はティアナのことが好きです。俺と結婚してください」
「ひょっ!?」
「ひょ?」
不意打ち過ぎて変な声が出てしまった。
顔の筋肉が弛緩していくのが分かる。
どうしよう。
絶対に、今、変な顔をしているはずだ。
「よ、よろこんで」
そう返事するので精一杯だった。
私は、わなわなする顔を背けるが、それを見てラルは声を立てて笑い始めてしまう。
じとりと睨みつけると、ますますラルは笑いを深めてしまった。
「笑わないで!」
「だって、顔が! 鼻の穴が大きくなってるよ!」
「きいい!」
「そんなに俺のこと好きなんだ!?」
面白そうに笑う彼が愛しい。
たくさんの笑顔を見たい。
貴方への想いを振り払おうと、馬鹿みたいにあがいてみたけれど無理だった。
これから先も、ラルの心の傷が血を流していることに気付く瞬間があると思う。
私の手に抱えられる量は、少ないかもしれないけれど、痛みを分けて欲しい。
少しでも癒やされて欲しいと、本心から思ってる。
「そうよ! 私はラルが好き! 大好き! 絶対に逃がさないから!」
やけくそ気味に叫ぶと、彼は泣きだしそうな表情で笑った。
降り続けていた雨はとっくに止んでいて、私の愛の告白は薄壁の外へ響いていた。
夜空を彩る月や星は見えず、闇を深めた雲が広がっている。
ラルは同じように空を見上げて言った。
「雨が降りそうだね」
「うん、早く帰らなきゃ」
手を差し出すと、彼は大きな手で私の手を握ってくれる。
表情を綻ばせるラルの姿に胸が痛んだ。
傷つけてしまったかもしれない。
胃の腑が締め付けられているみたいで辛い。
鼻を通る匂いが変化し始め、風も出てきた。
急いで家に戻り、扉を閉めて閂をかける。
普段は閉めない雨戸を下ろしていくと、普段よりも室内の闇が濃くなった。
ランプに火を灯し、温かい飲み物を用意してから、私とラルはテーブルを挟んで腰掛けた。
話をしながら食事の準備をするのは横着かもしれないけれど、あまり遅くなるのも嫌だ。
テーブルの上に夕飯に使う食材を並べ、居心地の悪さを誤魔化すように野菜の皮を剥いていく。
手元を見つめながら、私は口を開いた。
「最初の頃に戻さない?」
「は?」
どう伝えたらいいのか迷い、私は暫し視線を彷徨わせるが、意を決してラルを見やる。
「私と貴方の関係を、何もなかった頃に戻そう」
「どうして、そんな事……」
「ニ年前はともかく、今は私のこと好きじゃないでしょう?」
ラルは言葉を詰まらせて、私を凝視している。
「二年も旅をしてきて色々あったと思う。ラルの勇者としての毎日を支えていたのが、私のいる村に帰ることだったなら、それはもう果たされているわ。私に固執しなくていいんだよ? 貴方の好きにしてくれて構わない」
驚きに見開かれたラルの青い瞳が私を捉え続け、ついと逸れた。
「俺のこと……そんなふうに思ってたんだね」
「目標や理由がないと、勇者として邁進するのは難しかったと思う。でも、もう……それに囚われなくてもいいんじゃないかな」
囚われている、と言葉にして少しだけ後悔した。
ラルの旅をそんなふうに表現してはいけなかった。
「酷いことを言ってごめんなさい……でも、勇者としての貴方を知っている人と、この先の未来を歩いて行った方がいいのかもしれないって思ったの」
「前も言っていたけど、それは誰を想像してる?」
「えっと……旅の仲間とか?」
ラルの瞳が鋭くなった気がして、目を合わせていられず、私は手元に視線を戻した。
野菜の皮をしょりしょり剥いていく小さな音だけが響く。
「…………確かに、そういう雰囲気に一度もならなかったわけじゃないよ」
「ああ、ですよね」
ぽつりと告げられて、ついむっとしてしまったが、顔に出さないよう頬に力を入れる。
「でも、何もしてないよ?」
「……そうなんだ……」
どうやら努力虚しく顔に出ていたらしい。ラルは笑いを噛み殺し、深く息を吐く。
「ティアナは二年前の俺が好きで、今の俺は嫌い?」
「え!?」
思わず手を動かすのを止めて、顔を持ち上げた。
ラルの鮮やかな青い瞳には、あきらかな怯えが見てとれた。
「ラル…………」
愕然とした。
想像もしていなかった。
言葉にすることで、拒絶されるかもしれない恐れを抱いていたのは、私だけではなく彼も同じだった?
「ティアナ、答えて。今の俺は嫌い?」
「好きよ。毎日、更にラルを好きになっている実感があるわ」
「へえ…………」
ラルは暫し瞬きを忘れていたが、慌てた様子で口元を隠し視線を逸らした。
目元が赤い。
「照れてる?」
揶揄うように言うと、彼は眉を上げて横目で睨んでくる。
可愛い反応に頬が緩む。
「……二年前と変わらぬ姿で待ち続けてくれることを望んでいたくせに、一番変わったのは俺だってことは分かってるんだ」
「二年も異なる環境にいたのだから、仕方ないわよ」
否定が出来なくて当たり障りのない返答をしてしまった。
それが伝わったのか、ラルは小さく笑う。
「それを言うなら、ティアナも同じだろ? 君だって村を出ていたんだから」
「わ、私は……あまり変わっていない気がするわ。そうね、村にいた頃よりも、がさつになったくらいかしら」
「は?」
ラルはきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに吹き出し笑い始める。
「えっ? な、何で笑うの!?」
余程おかしいのか、ラルは顔を背けてしまった。
ぶるぶる震えながら笑いを堪える姿はレアだ。
「ティアナが、がさつなのは昔からだよ。雑な性格だし狡いところもあるよね」
「そ、そんなふうに思ってたの!?」
予想外の台詞に、私は動揺を隠せない。
ラルは私の反応が追い打ちになったのか、一頻り笑い続けている。
「わ、笑いすぎよ!」
恥ずかしいやら、腹立たしいやら。
笑い過ぎて涙が出てきたようだ。ラルは目元を拭いながら、私を楽しげに見やる。
「一つだけ、訂正させて欲しいんだ」
「うん……」
「俺はティアナのことが今も好きだよ」
「え!?」
咄嗟に反応できず顔が取り繕えない。そんな私を見ながら、ラルは笑みを深めた。
「どうして、そんな顔になるかな」
「だ、だって」
「俺はティアナのそういうところが好きなんだ。楽しくて、目が離せない。それに、危なっかしいから守ってあげたくなる」
「でも……」
「俺に抱かれるの嫌だった? いつから使ってたのかな、あれ」
「あ……あれは」
突然気まずい話に突入して、私は誤魔化すように言葉尻をぼそぼそとさせた。
あれと言われ思い浮かぶ、股に塗り込んでいた潤滑油。
「二週間くらい前……かな」
「そんなに?」
「だって! あんなに激しく性処理みたいに抱かれたら興奮も何もしないわ!」
「そ、それは……その」
ラルを睨みつけると、彼は目を泳がせ言葉を探す。
「ティアナは……俺を好きではないのかもって思ってた。それなのに君に触れたくなってしまう自分が嫌で、その……早く終わらせようと」
「それなら私に触るのを我慢して欲しい」
「無理だよ……好きな人と生活しているのに」
「気絶するくらい激しくするのはやめて。私、その、終わってからも、ラルと話したりしたいのよ」
頬に熱が溜まるのを感じる。恥ずかしくて堪らないけれど、ラルも同じくらい赤面しているから、なんだか彼から目が逸らせない。
「む、夢中になりすぎて……我を忘れちゃうんだ…………ご、ごめん」
ラルは顔を勢いよく背けた。耳が赤い。
「避妊のことも不安にさせてごめん! 色々気が急いたのは言い訳にならないよね!」
顔を反らしたまま謝るのはどうかと思う。けれど、これ以上目を合わせていられないという気持ちは理解できる。
「私、ラルとの子供が欲しくないわけじゃないのよ? でもまだ、二人でいたいの」
そう答えると、彼は背けていた顔をこちらに向けた。
ラルは嬉しそうに目尻を下げて柔らかく笑う。
不意打ちの笑顔に胸が高鳴った。
どきまぎする鼓動を落ち着かせようと、深呼吸をしながら胸を抑えると、不意に天井から雨音が鳴り始めた。
ラルは私から視線を外し、耳をそばだて沈黙してしまう。
まるで獣が気配を探る姿のようだ。
音に紛れ、何かに襲われるような経験でもしたのかもしれない。
「…………っ!」
どうして気付かなかったのだろう。
ラルは彼自身も気が付いていない、見えない傷を負ったままなんだ。
何かを振り払うような、独りよがりの行為。
彼は無意識の内に、痛みを情交で誤魔化していたのかもしれない。
私が浮ついた気持ちで村を出て、自分の気持ちだけを優先して過ごしていた間、彼は縋るものを信じることでしか立っていられなかった。
勇者としての天賦を与えられていたとしても、何の苦労もなく、全てを操れたりはしなかっただろう。
師匠だって、魔法を極めるのにとても苦労したと言っていた。
彼女の背中に酷い傷跡が残っていることを、私は知っている。
私は自分の二年間を後悔していないけれど、それでもラルに対して酷いことをしてしまったと思う。
不安だったなら、好きだったなら、話をすべきだった。
「はあ…………」
私は抑えきれず息を吐き、握り締めたままの包丁を置いた。
手を洗いに立ち、そしてラルを振り返る。
彼は不思議そうに私を見やり、それでも意識は外に向いているようだ。
「ラル」
私は名を呼んで彼に歩み寄る。そしてラルの頭をぎゅっと胸元に抱き締めた。
「……っ⁉ ど、どうした?」
突然のことにラルは狼狽える。
「言い忘れてたから」
「何を?」
「ラル、おかえりなさい。無事に帰ってきてくれて嬉しい。たくさん頑張ってくれてありがとう」
彼が息を飲んだのが伝わる。
ラルは腕の中で身じろぎ、胸の間に顔を埋める。
「今、言うなんて狡いよ……」
ラルの髪を撫でつけるように触れると、またもや彼の耳が真っ赤なことに気付く。
「ふふ、照れてる?」
また揶揄うように告げると、彼は「うう……」と恥ずかしそうに呻く。
「気が向いたらでいいから、旅のことを話して聞かせてくれないかな? 私も話すわ。太腿を火傷した時の話とか」
「それは今すぐに知りたい!」
ラルは食いつくように顔を上げた。その反応が面白くて、思わず吹き出してしまう。
「じゃあ、私も知りたい」
「そんなに面白い話はないよ?」
「別に構わないわ。ラルが思ったこと感じたこと、沢山知りたい」
「うん……」
また彼は私の胸元に額を埋めた。そして深くため息をつく。
「話したくなかったら、しなくていいからね」
「うん…………」
ラルはゆっくりと私の腕から離れた。恍惚とした表情を浮かべ、私の手を引く。
「ティアナ、ここ座って。というか、跨って?」
そう言いながら、ラルは自らの太腿をぽんぽんと軽く叩く。
「え!? そ、それは」
「ほら、早く早く」
ラルは腰掛けたままなのに、私の手を引く力が強い。
「うう……私、重いわよ?」
「平気だよ」
私の重さについては否定しないのか。
恥ずかしさをこらえながら、ラルの太腿の上に跨り、腰を下ろす。
彼は支えるように私の腰を抑えた。
「うん、顔が近くなった」
ラルはそう告げるなり、瞳を伏せて、はむような口づけをした。
唇を離しても顔の距離は近く、額がこつんと当たる。
「俺も、ティアナと再会してから、更に君を好きになってる」
「私に魅力はないわよ? 何も出来ないし」
「そう思っているのは君だけだ。ティアナだったから、君の元に戻りたいと思えたんだから」
「過大評価だわ……」
現実が見えていないのかしらと、私は眉を寄せる。
ラルは苦笑しながら、私の頬に唇を寄せた。
「ニ年前、知らないうちに逃げられてたんだ。今回ばかりは事が済んだら、絶対に文句言ってやろうって思ってた」
「うん?」
「昔からティアナは飄々としていて、俺を揶揄って楽しんでただろ? だから揶揄われた可能性もあるって思ったんだ」
「ええと、もっとこう、恋愛的な感情を抱いてくれてると思ってたのに……」
「それは当然あるけど、あんな甘い夜を俺に味合わせたくせに、切り替え早すぎるだろ! って苛立ったんだ。色々な意味でティアナに縋り続けてきて、もう君のことしか考えられないよ」
私は額を押さえて暫し考える。何やら思っていた感じと違う。
「ねぇ、ティアナ。一緒に旅に出ない?」
「え?」
突然の提案に驚いた顔を向けると、ラルは嬉しそうな笑みを見せる。
「新婚旅行のつもりで、期限を決めてさ。俺、ティアナに見せたいと思った場所が幾つかあるんだ。きっと喜ぶと思う。それに……聞いて欲しい話もたくさんあるんだ」
ラルの不安げに揺れた瞳に、懇願の色を見てしまった。
心の動きに気づいていないふりをして、私は笑う。
「うん! 行きたい!」
「決まりだね」
二人で目を合わせて笑い、引きつけられるように、私達は抱き締め合った。
ちゅ、と軽い口づけが頭や頬や首筋に落ちる。そのお返しとばかりに、私もラルの頬を両手で挟んで、何度も唇を寄せる。
楽しい遊びでもしているかのような、軽い口づけを繰り返し、視線が合うと自然と笑みが溢れた。
「ねぇ、ティアナ」
「うん」
ラルは私の耳をはんで、囁いた。
「俺はティアナのことが好きです。俺と結婚してください」
「ひょっ!?」
「ひょ?」
不意打ち過ぎて変な声が出てしまった。
顔の筋肉が弛緩していくのが分かる。
どうしよう。
絶対に、今、変な顔をしているはずだ。
「よ、よろこんで」
そう返事するので精一杯だった。
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じとりと睨みつけると、ますますラルは笑いを深めてしまった。
「笑わないで!」
「だって、顔が! 鼻の穴が大きくなってるよ!」
「きいい!」
「そんなに俺のこと好きなんだ!?」
面白そうに笑う彼が愛しい。
たくさんの笑顔を見たい。
貴方への想いを振り払おうと、馬鹿みたいにあがいてみたけれど無理だった。
これから先も、ラルの心の傷が血を流していることに気付く瞬間があると思う。
私の手に抱えられる量は、少ないかもしれないけれど、痛みを分けて欲しい。
少しでも癒やされて欲しいと、本心から思ってる。
「そうよ! 私はラルが好き! 大好き! 絶対に逃がさないから!」
やけくそ気味に叫ぶと、彼は泣きだしそうな表情で笑った。
降り続けていた雨はとっくに止んでいて、私の愛の告白は薄壁の外へ響いていた。
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幼馴染のブライアンが好きなのに、当のブライアンは「ミンディみたいなじゃじゃ馬がお茶会に出ても恥をかくだけだ」なんて揶揄うばかり。
「私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね! 王太子殿下に見染められても知らないんだから!」
ミンディはブライアンに告げ、お茶会に向かう……
〜登場人物〜
ミンディ・ハーミング
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『小説家になろう』にも投稿しています
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