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中編
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「あぁ……見つけてしまったのですね」
不意に背後から聞こえた声に鞠花の肩が跳ね上がる。
手から落ちた本が床の上で広がり、黒く塗ったページで止まり、メモも飛び出している。どうしてこうも見られたくなかった物が晒されてしまうのか。
「驚かせてしまいましたね」
探し物に夢中で部屋に入ってきたことにすら気付かなかった。
声の主は見ずともわかる。鞠花がこの世界で言葉を交わせる人間はたった一人だけなのだから。
しかし、常に優しく語りかけてくれたその声がいつになく冷ややかに聞こえるからこそ、鞠花は怖くて振り向くことができなかった。
後ろめたいことなどないはずだった。ずっと元の世界に戻る方法を探し求めていて、彼も応援してくれていたからこそ、喜んでもらえるはずだったのに、どうしてこんなにも恐ろしいのか。
気のせいだと思いたかったが、囲うように目の前の本棚につかれた両腕がまるで檻のようだった。
「レイ……」
絞り出すように紡いだ名は渇いた喉に張り付くようだ。
「あなたが教えてくれた話、私には難しい言葉でしたが、とても興味深かった。ヨミの国の食べ物でしたっけ?」
「よもつへぐい……」
始めにこの世界の食べ物を見た時、鞠花の脳裏に浮かんだ言葉だった。食べても戻れるのかと尋ねる鞠花を不思議がるレイに古事記のことを話したのだ。他の神話や物語にも類似した話があることを。
「食べ物だけでこの世界に縛り付けられるなら先祖達は何の苦労もしなかったでしょうね」
彼は一体何の話をしているのか。耳元で言葉が紡がれる度、まるで冷気が肌に触れるようだ。
「多くの先祖は聖女と子を成していますが、幸せに結ばれた者は少ないと言います。王族とでは聖女の特徴が子に現れることがないので、それもまた都合が良いのでしょう。この色に固執する原因になってしまったとも言えますが」
淡々とレイは言葉を紡ぎ続ける。そんな話は鞠花にとって初めて聞くことだ。目の前に並ぶ書物のどこにも書かれていなかった。
「王族って……」
ぎぎぎ、と音がしそうなほど錆び付いているように重い動きで鞠花は振り返る。
視線を合わせてくるレイの目は吸い込まれてしまいそうな程に青い。それをずっと海のようで綺麗だと思っていたのに、今はその深さが恐ろしい。
「言っていませんでしたね。私がこの国の王子で、あの儀式は王位継承者を定める儀式だ、と」
言われなかったし、聞きもしなかったことだ。この世界に初めて来た日はとにかく混乱していた。儀式が終わってしまった今となっては聞き辛いことだ。後は元の世界に帰るだけの自分が知るべき事ではないだろうと鞠花は考えていた。
「異世界から聖女を召喚し、儀式を成功させて初めて認められるんです」
思い返してもその時の鞠花は周囲が見えていなかった。ヴェールをかけられていたからと言うよりは、緊張のあまりにだ。鞠花はただレイの言葉を合図に祈りを捧げれば良かっただけだ。彼が何らかのやりとりをしていた相手はもしかしたら王様だったのかもしれない。
もっと冷静に状況を把握できていれば良かったのか。もっと聞いていれば状況は変わったのか。
「かくして私の祖父も聖女を無理矢理手込めにしたそうです」
ひっ、と鞠花の喉から音が漏れる。あのメモを見てしまった以上、その言葉以上の意味がわかる。その聖女は帰る権利を奪われてしまったのだ。
「祖父だけではなく多くの先祖がそうしてきたことで、そんな血が自分の中に流れているのを私は汚らわしく思っていましたが、貴方を見た時に初めて祖父の気持ちを理解してしまった」
高潔そうだと鞠花が抱いた第一印象は間違いではなかったのかもしれないが、今の彼の瞳は獣のようにぎらつく光を宿しているように見えた。
「皆が皆、そうだったわけではありません。父は聖女を愛することもなく、他の男を愛した彼女が泣き叫ぶのを無視して新月の晩に泉に突き落としたそうです。一度帰ってしまえば二度と戻ってくることはできませんからね」
無理矢理手に入れたり冷たく突き放すような残酷さも血筋なのか。
だが、はっきりしたことはある。彼は鞠花が帰る条件どころか帰り方も知っていた。メモの存在すら知っていたように感じられる。
「尤も、彼女が愛した男には婚約者がいて、彼は彼女のことなど愛してはいなかった。自分が特別な存在だからと言って何でも思い通りになると思い込む傲慢な女が聖女だったとは滑稽ですよね」
嘲笑を浮かべるレイが鞠花には別人のようにさえ見えるのに目を逸らすこともできない。縫いつけられたように動けないのだ。あるいは、獣と合ってしまった目を逸らすことこそが危険なのかもしれない。
「早く帰れるといいですね、って言ってくれたのに……」
不安を吐露できるのも、それによって優しい言葉をかけてくれるのも彼だけだった。その言葉が偽りだとは疑いもしなかった。
「ええ、初めから帰す気なんてありませんでした」
悪びれることなくレイは笑うが、鞠花の胃には小石が溜まっていくようだった。尤も、ギリギリと痛むのが胃なのか胸なのかはわからない。あまりに息苦しい。
どうして、こちらの世界で暮らそうと言ってくれなかったのか。
どうして、手のひらの上で転がすようなまねをしたのか。
問いたいことはいくらでもあるのに、言葉は喉の奥で詰まってしまう。言葉にすると同時に溢れてしまいそうな涙を押し込めるためなのかもしれない。
「自分が選ばれた特別な存在であるという意識は人を変えてしまう。父の聖女が傲慢になったように。だから、私は見定めたかった。貴方の本性を」
瞳の奥まで覗き込まれるような気味の悪さに腰が引けても本棚にぶつかるだけだ。
鞠花が答えにたどり着くまでに歯噛みした日々も、抱いた淡い期待も全て無駄だった。彼の本性を見抜くことができなかった。
「この世界に来た貴方はまるで生まれたての雛鳥のようでした。とても不安げで、それでも必死に役目を理解しようとして、素直に私を慕う様がいじらしくて、私以外の言葉を理解できないように、他の人間に縋れないように飛び方を教えなかった」
初めて会ったあの瞬間から刷り込みは始まっていた。雛鳥のようにこの世界で初めて見たレイは鞠花にとって唯一の庇護者であり、恋心を抱くのも必然だったのかもしれない。
騙されていた怒りも見抜かれていた羞恥も得体の知れない恐怖に飲み込まれていく。飛び方を教えないどころか、彼がしたことは鞠花の羽をもいだに等しい。
「やっと私のものにできる」
うっとりと吐き出された丁寧な言葉とは裏腹にまるで噛みつくような口づけを避けることはできなかった。
その恐ろしいほどに整った顔が近づいてくるのを感じながら蛇に睨まれた蛙のように動けなかったのだ。
自分の唇に触れる柔らかに濡れた感触がレイの唇だと理解することさえ遅れた。こんな風に初めて唇を奪われるとは考えもしなかった。
不意に背後から聞こえた声に鞠花の肩が跳ね上がる。
手から落ちた本が床の上で広がり、黒く塗ったページで止まり、メモも飛び出している。どうしてこうも見られたくなかった物が晒されてしまうのか。
「驚かせてしまいましたね」
探し物に夢中で部屋に入ってきたことにすら気付かなかった。
声の主は見ずともわかる。鞠花がこの世界で言葉を交わせる人間はたった一人だけなのだから。
しかし、常に優しく語りかけてくれたその声がいつになく冷ややかに聞こえるからこそ、鞠花は怖くて振り向くことができなかった。
後ろめたいことなどないはずだった。ずっと元の世界に戻る方法を探し求めていて、彼も応援してくれていたからこそ、喜んでもらえるはずだったのに、どうしてこんなにも恐ろしいのか。
気のせいだと思いたかったが、囲うように目の前の本棚につかれた両腕がまるで檻のようだった。
「レイ……」
絞り出すように紡いだ名は渇いた喉に張り付くようだ。
「あなたが教えてくれた話、私には難しい言葉でしたが、とても興味深かった。ヨミの国の食べ物でしたっけ?」
「よもつへぐい……」
始めにこの世界の食べ物を見た時、鞠花の脳裏に浮かんだ言葉だった。食べても戻れるのかと尋ねる鞠花を不思議がるレイに古事記のことを話したのだ。他の神話や物語にも類似した話があることを。
「食べ物だけでこの世界に縛り付けられるなら先祖達は何の苦労もしなかったでしょうね」
彼は一体何の話をしているのか。耳元で言葉が紡がれる度、まるで冷気が肌に触れるようだ。
「多くの先祖は聖女と子を成していますが、幸せに結ばれた者は少ないと言います。王族とでは聖女の特徴が子に現れることがないので、それもまた都合が良いのでしょう。この色に固執する原因になってしまったとも言えますが」
淡々とレイは言葉を紡ぎ続ける。そんな話は鞠花にとって初めて聞くことだ。目の前に並ぶ書物のどこにも書かれていなかった。
「王族って……」
ぎぎぎ、と音がしそうなほど錆び付いているように重い動きで鞠花は振り返る。
視線を合わせてくるレイの目は吸い込まれてしまいそうな程に青い。それをずっと海のようで綺麗だと思っていたのに、今はその深さが恐ろしい。
「言っていませんでしたね。私がこの国の王子で、あの儀式は王位継承者を定める儀式だ、と」
言われなかったし、聞きもしなかったことだ。この世界に初めて来た日はとにかく混乱していた。儀式が終わってしまった今となっては聞き辛いことだ。後は元の世界に帰るだけの自分が知るべき事ではないだろうと鞠花は考えていた。
「異世界から聖女を召喚し、儀式を成功させて初めて認められるんです」
思い返してもその時の鞠花は周囲が見えていなかった。ヴェールをかけられていたからと言うよりは、緊張のあまりにだ。鞠花はただレイの言葉を合図に祈りを捧げれば良かっただけだ。彼が何らかのやりとりをしていた相手はもしかしたら王様だったのかもしれない。
もっと冷静に状況を把握できていれば良かったのか。もっと聞いていれば状況は変わったのか。
「かくして私の祖父も聖女を無理矢理手込めにしたそうです」
ひっ、と鞠花の喉から音が漏れる。あのメモを見てしまった以上、その言葉以上の意味がわかる。その聖女は帰る権利を奪われてしまったのだ。
「祖父だけではなく多くの先祖がそうしてきたことで、そんな血が自分の中に流れているのを私は汚らわしく思っていましたが、貴方を見た時に初めて祖父の気持ちを理解してしまった」
高潔そうだと鞠花が抱いた第一印象は間違いではなかったのかもしれないが、今の彼の瞳は獣のようにぎらつく光を宿しているように見えた。
「皆が皆、そうだったわけではありません。父は聖女を愛することもなく、他の男を愛した彼女が泣き叫ぶのを無視して新月の晩に泉に突き落としたそうです。一度帰ってしまえば二度と戻ってくることはできませんからね」
無理矢理手に入れたり冷たく突き放すような残酷さも血筋なのか。
だが、はっきりしたことはある。彼は鞠花が帰る条件どころか帰り方も知っていた。メモの存在すら知っていたように感じられる。
「尤も、彼女が愛した男には婚約者がいて、彼は彼女のことなど愛してはいなかった。自分が特別な存在だからと言って何でも思い通りになると思い込む傲慢な女が聖女だったとは滑稽ですよね」
嘲笑を浮かべるレイが鞠花には別人のようにさえ見えるのに目を逸らすこともできない。縫いつけられたように動けないのだ。あるいは、獣と合ってしまった目を逸らすことこそが危険なのかもしれない。
「早く帰れるといいですね、って言ってくれたのに……」
不安を吐露できるのも、それによって優しい言葉をかけてくれるのも彼だけだった。その言葉が偽りだとは疑いもしなかった。
「ええ、初めから帰す気なんてありませんでした」
悪びれることなくレイは笑うが、鞠花の胃には小石が溜まっていくようだった。尤も、ギリギリと痛むのが胃なのか胸なのかはわからない。あまりに息苦しい。
どうして、こちらの世界で暮らそうと言ってくれなかったのか。
どうして、手のひらの上で転がすようなまねをしたのか。
問いたいことはいくらでもあるのに、言葉は喉の奥で詰まってしまう。言葉にすると同時に溢れてしまいそうな涙を押し込めるためなのかもしれない。
「自分が選ばれた特別な存在であるという意識は人を変えてしまう。父の聖女が傲慢になったように。だから、私は見定めたかった。貴方の本性を」
瞳の奥まで覗き込まれるような気味の悪さに腰が引けても本棚にぶつかるだけだ。
鞠花が答えにたどり着くまでに歯噛みした日々も、抱いた淡い期待も全て無駄だった。彼の本性を見抜くことができなかった。
「この世界に来た貴方はまるで生まれたての雛鳥のようでした。とても不安げで、それでも必死に役目を理解しようとして、素直に私を慕う様がいじらしくて、私以外の言葉を理解できないように、他の人間に縋れないように飛び方を教えなかった」
初めて会ったあの瞬間から刷り込みは始まっていた。雛鳥のようにこの世界で初めて見たレイは鞠花にとって唯一の庇護者であり、恋心を抱くのも必然だったのかもしれない。
騙されていた怒りも見抜かれていた羞恥も得体の知れない恐怖に飲み込まれていく。飛び方を教えないどころか、彼がしたことは鞠花の羽をもいだに等しい。
「やっと私のものにできる」
うっとりと吐き出された丁寧な言葉とは裏腹にまるで噛みつくような口づけを避けることはできなかった。
その恐ろしいほどに整った顔が近づいてくるのを感じながら蛇に睨まれた蛙のように動けなかったのだ。
自分の唇に触れる柔らかに濡れた感触がレイの唇だと理解することさえ遅れた。こんな風に初めて唇を奪われるとは考えもしなかった。
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