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前編
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ずっと追い求めていた手がかりは指先を掠めた瞬間に遠のいた――
理が異なる世界に宝田鞠花が聖女として召喚されて早数週間、はっきり言ってしまえば退屈な日々が続いている。必要最低限の生活は保障されているが、娯楽はほとんどない。
毎日、本棚に収められた書物を読むのは元の世界に帰る方法を探すためであって、決して楽しいものではない。出歩こうとすれば迷惑をかけるばかりで、ほとんど部屋に軟禁されているような状態だ。
既に聖女としての役目は果たしてしまったのだ。儀式のために所作を厳しく覚えさせられて、見知らぬ世界の平和のために祈りを捧げ、それで終わりだった。
この世界では昔から繰り返されてきたことで、歴代の聖女の中にはこの国に残った者もいると言う。しかしながら、自分が象徴として存在し続けることが誰にも望まれていないのは、この世界の言葉がわからない鞠花にもすぐに理解できた。歓迎されていないのは明らかなのだ。
邪魔ならば早く帰してほしいものだが、戻る方法は自分で探せというのだから尚更ひどい。勝手に呼んでおいて利用して、事が済めば不要品扱いである。無事に祈りを捧げてからが真の異世界サバイバルなのかもしれない。
この世界で鞠花の味方と呼べるのはただ一人、召喚主であり儀式を執り行った青年レイだけだ。彼とだけは言葉を交わせる。
儀式が終わった今でも彼だけが鞠花に優しいが、仕事が忙しいらしく、日中はほとんど会うこともできない。神官か何かなのか、彼がどんな役職についているのかは鞠花にはわからないが、国にとって重要な人物であることは間違いない。
鞠花がこの世界で初めて見た人間である彼は白銀の髪に青い目のとても美しい男だ。白い礼装を着用した彼はまるで本物の王子様のようだった。何度も確認した手順を一瞬にして忘れてしまいそうになるほどの美しさは鞠花の視線だけでなく心さえも奪い去った。
それでも帰りたいと望んだのは鞠花自身だ。元の世界に帰りたいと思うほどの情はない。できることならば、この世界で暮らしたいとは思うのだ。
言葉がわかったなら、歓迎されていたなら、迷わずこの世界で生きると決意しただろう。たとえ、淡い恋が決して叶わないものだとしても。
だが、この世界にも居場所がなく、コミュニケーションにおいては不自由しかない。
彼に甘えてはいけないと自分に言い聞かせながら、それでも帰る方法を見つけられないのは帰りたくないと願ってるからなのかもしれない。
歴代の聖女が使っていたという部屋の本棚には多くの書物と共に日記が並んでいる。民族性が合うのか、日本人が多かったようだが、皆が皆、そうだったわけではない。歴史書などは全ての聖女が読めるようになっているらしいが、それぞれの母国語で書かれた日記を全て解読できるような能力を授かったわけでもない。せめて英語で書いてあれば良いのだが、筆記体を読むのは至難の業だった。
最初に日本語で書かれた日記を見つけた時、鞠花は歓喜したものだが、書いてあることと言えば同じような日々のことだ。他人の日記を見ることに罪悪感がないわけでもないが、皆わかっていて当たり障りのないことしか記録していないのだろう。鞠花にしても同じ事だ。後世の聖女のためになることを書けるわけでもなく、とりとめの無いことを書く日々だ。
もう何度も読んだ日記をパラパラとめくり、鞠花はふと違和感を覚える。半ばほどで不意に終わった日記は書いた人間が異世界に帰ったのか、または別の場所に移ったからなのだと思っていた。だが、白紙になるページの前に破られた形跡があることに気付く。白紙のページを見ればうっすらと文字の跡が見える。
ドラマなどではよくある展開に期待しながら鞠花は鉛筆を手に取る。異世界とは言っても、過去の聖女達の知恵がもたらしたらしい発明品も存在し、鞠花はそういった面では違和感も不自由もなく暮らしていた。
宝探しをしている気分で、鞠花は紙を鉛筆で優しく擦っていく。
いよいよ、この時が来てしまったのだ。息苦しい場所から解放される嬉しさと恋してしまった人から離れなければならない寂しさが同時に襲いかかってくる。
しかし、その文字を見た瞬間、鞠花の手から鉛筆が滑り落ちて転がっていく。
『にげて しんげつ いずみ とびこめ』
乱れた文字が不安を煽る。その字の主はよほど急いで書いたのか。
泉とは鞠花が出てきた場所だ。城の地下にある不思議な泉で神聖視されている。新月の日に飛び込めば帰れるということなのだろうが、逃げろというのは穏やかではない。
何か恐ろしいことでもあるようで、鞠花はこれをレイに見られてはいけないような気がした。
日記を本棚に戻し、鞠花はベッドに座り、溜息を吐く。元の世界に帰る憂鬱よりも、心残りよりも、言いようのない恐怖が鞠花の中で渦巻いていた。
この世界にも月とされるものは存在し、それが見えなくなる新月にあたる晩も確かに存在する。その日まで、もっと調べてその意味を考えなければならないが、皮肉なことに今晩である。もっと早くに見つけられれば良かったのだろうが、次の新月を待つべきなのかもしれない。その間、レイには悟られないようにしなければならない。
走り書きをどこまで信じればいいのかはわからないが、見てしまっては慎重にならざるを得ない。
いつ、レイが来ても良いように、普段通り調べ物をしているフリをしようと鞠花は立ち上がる。言葉を失うようなあの麗人の前で上手い言い訳を考えられるとも思えない。改めて他の聖女の日記にも何か仕掛けがないか調べる必要があるだろう。
そうして再び本棚に向かおうとしたところで鞠花は先ほど落としてしまった鉛筆の存在を思い出す。整然とした部屋の中に転がっていれば不自然に見られてしまうだろう。きょろきょろと周囲を見回しても鉛筆は見当たらない。家具の下に転がっていってしまったのか。床に膝をつき、まずはベッドの下を覗き込めば鉛筆はすぐに見つかった。随分と奥まで転がってしまったようだったが、なぜか鞠花の目は別の場所に引きつけられていた。何か白い物が見えた気がして、そちらを見れば小さく折り畳まれた紙が隙間に挟まれていた。
それを手に取り、何が書いてあるのか開いて鞠花は息を飲む。
『体の一部を欠損してはならない。純潔を失ってはならない。子を成してはならない』
先程のものに比べれれば丁寧に書かれているそれは、この世界から帰る条件なのか。失ってもいけない、得てもいけないということなのか。
この世界に来たその日、鞠花はあることが不安になってレイに尋ねたのを思い出す。この世界の食べ物を口にしても良いのか、と聞いたのだ。
不思議そうにするレイにそう思う理由を自分が知る神話と共に鞠花は話した。レイはそれを興味深そうに聞いて、問題ないと言ってくれたが、そのメモに書かれたことなど注意してはくれなかった。
考え方を変えれば体から何かを失ってしまえば、この世界の人間と交わってしまえば帰らずにこの世界にいられるということだ。けれども、神聖な存在として扱われた人間がそうなった時、周りはどういう反応をするかはわからないものだ。ここから出れば戻ることはない。元の世界に戻って記憶がどうなるかなどわからない。だから、記録はない。
帰り方さえわかれば覚悟を決めるしかないと自分を追い詰めていく。
もし、記憶を失ってしまうのなら、それもまた幸せなことなのかもしれない。決して届かない人を想い続けなくて済む。
次の新月までなら気持ちを整理する時間はあるのだ。メモを日記の間に挟む。
彼はこの本棚には触れない。日記は見ても読むことはできない。歴史書なども聖女のためであって彼には用のない本ばかりだ。
帰る方法がわかったから帰ると一言告げれば良いだけの話ではないのか。そうすれば、彼は喜んでくれるのか。それとも、嘘でも寂しくなるなどと優しい言葉をくれるのか。
なぜ、逃げろなどと書いたのか。
なぜ、失っても得てもいけないなどと書いたのか。
レイに探りを入れられるとも思えない。他に聞ける相手もいない。泉に逃げ込むにしても簡単なことではない。
憂鬱な気持ちで再び溜息を吐き、日記を閉じて戻そうとした時だった。
理が異なる世界に宝田鞠花が聖女として召喚されて早数週間、はっきり言ってしまえば退屈な日々が続いている。必要最低限の生活は保障されているが、娯楽はほとんどない。
毎日、本棚に収められた書物を読むのは元の世界に帰る方法を探すためであって、決して楽しいものではない。出歩こうとすれば迷惑をかけるばかりで、ほとんど部屋に軟禁されているような状態だ。
既に聖女としての役目は果たしてしまったのだ。儀式のために所作を厳しく覚えさせられて、見知らぬ世界の平和のために祈りを捧げ、それで終わりだった。
この世界では昔から繰り返されてきたことで、歴代の聖女の中にはこの国に残った者もいると言う。しかしながら、自分が象徴として存在し続けることが誰にも望まれていないのは、この世界の言葉がわからない鞠花にもすぐに理解できた。歓迎されていないのは明らかなのだ。
邪魔ならば早く帰してほしいものだが、戻る方法は自分で探せというのだから尚更ひどい。勝手に呼んでおいて利用して、事が済めば不要品扱いである。無事に祈りを捧げてからが真の異世界サバイバルなのかもしれない。
この世界で鞠花の味方と呼べるのはただ一人、召喚主であり儀式を執り行った青年レイだけだ。彼とだけは言葉を交わせる。
儀式が終わった今でも彼だけが鞠花に優しいが、仕事が忙しいらしく、日中はほとんど会うこともできない。神官か何かなのか、彼がどんな役職についているのかは鞠花にはわからないが、国にとって重要な人物であることは間違いない。
鞠花がこの世界で初めて見た人間である彼は白銀の髪に青い目のとても美しい男だ。白い礼装を着用した彼はまるで本物の王子様のようだった。何度も確認した手順を一瞬にして忘れてしまいそうになるほどの美しさは鞠花の視線だけでなく心さえも奪い去った。
それでも帰りたいと望んだのは鞠花自身だ。元の世界に帰りたいと思うほどの情はない。できることならば、この世界で暮らしたいとは思うのだ。
言葉がわかったなら、歓迎されていたなら、迷わずこの世界で生きると決意しただろう。たとえ、淡い恋が決して叶わないものだとしても。
だが、この世界にも居場所がなく、コミュニケーションにおいては不自由しかない。
彼に甘えてはいけないと自分に言い聞かせながら、それでも帰る方法を見つけられないのは帰りたくないと願ってるからなのかもしれない。
歴代の聖女が使っていたという部屋の本棚には多くの書物と共に日記が並んでいる。民族性が合うのか、日本人が多かったようだが、皆が皆、そうだったわけではない。歴史書などは全ての聖女が読めるようになっているらしいが、それぞれの母国語で書かれた日記を全て解読できるような能力を授かったわけでもない。せめて英語で書いてあれば良いのだが、筆記体を読むのは至難の業だった。
最初に日本語で書かれた日記を見つけた時、鞠花は歓喜したものだが、書いてあることと言えば同じような日々のことだ。他人の日記を見ることに罪悪感がないわけでもないが、皆わかっていて当たり障りのないことしか記録していないのだろう。鞠花にしても同じ事だ。後世の聖女のためになることを書けるわけでもなく、とりとめの無いことを書く日々だ。
もう何度も読んだ日記をパラパラとめくり、鞠花はふと違和感を覚える。半ばほどで不意に終わった日記は書いた人間が異世界に帰ったのか、または別の場所に移ったからなのだと思っていた。だが、白紙になるページの前に破られた形跡があることに気付く。白紙のページを見ればうっすらと文字の跡が見える。
ドラマなどではよくある展開に期待しながら鞠花は鉛筆を手に取る。異世界とは言っても、過去の聖女達の知恵がもたらしたらしい発明品も存在し、鞠花はそういった面では違和感も不自由もなく暮らしていた。
宝探しをしている気分で、鞠花は紙を鉛筆で優しく擦っていく。
いよいよ、この時が来てしまったのだ。息苦しい場所から解放される嬉しさと恋してしまった人から離れなければならない寂しさが同時に襲いかかってくる。
しかし、その文字を見た瞬間、鞠花の手から鉛筆が滑り落ちて転がっていく。
『にげて しんげつ いずみ とびこめ』
乱れた文字が不安を煽る。その字の主はよほど急いで書いたのか。
泉とは鞠花が出てきた場所だ。城の地下にある不思議な泉で神聖視されている。新月の日に飛び込めば帰れるということなのだろうが、逃げろというのは穏やかではない。
何か恐ろしいことでもあるようで、鞠花はこれをレイに見られてはいけないような気がした。
日記を本棚に戻し、鞠花はベッドに座り、溜息を吐く。元の世界に帰る憂鬱よりも、心残りよりも、言いようのない恐怖が鞠花の中で渦巻いていた。
この世界にも月とされるものは存在し、それが見えなくなる新月にあたる晩も確かに存在する。その日まで、もっと調べてその意味を考えなければならないが、皮肉なことに今晩である。もっと早くに見つけられれば良かったのだろうが、次の新月を待つべきなのかもしれない。その間、レイには悟られないようにしなければならない。
走り書きをどこまで信じればいいのかはわからないが、見てしまっては慎重にならざるを得ない。
いつ、レイが来ても良いように、普段通り調べ物をしているフリをしようと鞠花は立ち上がる。言葉を失うようなあの麗人の前で上手い言い訳を考えられるとも思えない。改めて他の聖女の日記にも何か仕掛けがないか調べる必要があるだろう。
そうして再び本棚に向かおうとしたところで鞠花は先ほど落としてしまった鉛筆の存在を思い出す。整然とした部屋の中に転がっていれば不自然に見られてしまうだろう。きょろきょろと周囲を見回しても鉛筆は見当たらない。家具の下に転がっていってしまったのか。床に膝をつき、まずはベッドの下を覗き込めば鉛筆はすぐに見つかった。随分と奥まで転がってしまったようだったが、なぜか鞠花の目は別の場所に引きつけられていた。何か白い物が見えた気がして、そちらを見れば小さく折り畳まれた紙が隙間に挟まれていた。
それを手に取り、何が書いてあるのか開いて鞠花は息を飲む。
『体の一部を欠損してはならない。純潔を失ってはならない。子を成してはならない』
先程のものに比べれれば丁寧に書かれているそれは、この世界から帰る条件なのか。失ってもいけない、得てもいけないということなのか。
この世界に来たその日、鞠花はあることが不安になってレイに尋ねたのを思い出す。この世界の食べ物を口にしても良いのか、と聞いたのだ。
不思議そうにするレイにそう思う理由を自分が知る神話と共に鞠花は話した。レイはそれを興味深そうに聞いて、問題ないと言ってくれたが、そのメモに書かれたことなど注意してはくれなかった。
考え方を変えれば体から何かを失ってしまえば、この世界の人間と交わってしまえば帰らずにこの世界にいられるということだ。けれども、神聖な存在として扱われた人間がそうなった時、周りはどういう反応をするかはわからないものだ。ここから出れば戻ることはない。元の世界に戻って記憶がどうなるかなどわからない。だから、記録はない。
帰り方さえわかれば覚悟を決めるしかないと自分を追い詰めていく。
もし、記憶を失ってしまうのなら、それもまた幸せなことなのかもしれない。決して届かない人を想い続けなくて済む。
次の新月までなら気持ちを整理する時間はあるのだ。メモを日記の間に挟む。
彼はこの本棚には触れない。日記は見ても読むことはできない。歴史書なども聖女のためであって彼には用のない本ばかりだ。
帰る方法がわかったから帰ると一言告げれば良いだけの話ではないのか。そうすれば、彼は喜んでくれるのか。それとも、嘘でも寂しくなるなどと優しい言葉をくれるのか。
なぜ、逃げろなどと書いたのか。
なぜ、失っても得てもいけないなどと書いたのか。
レイに探りを入れられるとも思えない。他に聞ける相手もいない。泉に逃げ込むにしても簡単なことではない。
憂鬱な気持ちで再び溜息を吐き、日記を閉じて戻そうとした時だった。
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