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第二章

侵食される日常 2

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「って言うか、鈍すぎますよ。紗菜先輩」
「紗菜ちゃん、私だってわかってたよ?」
「ぅにゃっ!?」

 千佳にまで呆れられているようで油断した紗菜は横から伸びてきた手に気付かなかった。
 むに、と晃の手が紗菜の頬をつまんできたのだ。

「何ですか、『ぅにゃっ!?』って可愛すぎるんですけど」
「や、やめて……」

 この状況でよくもケラケラと笑えるものだ。心臓に毛が生えているのかもしれないが、紗菜はそんな彼に強く言うこともできない自分が情けなくも思えた。

「先輩のほっぺ、柔らかくて、凄く伸びますね。頬袋ですか?」
「うわー、見せつけてくれるわね」
「すごーい! お餅みたい! 私も後で触りたい!」

 むにむにと楽しげに引っ張ってくる晃に対して、睦実は止めるわけでもなくニヤニヤしている。千佳もマイペースに喜んでいるのだから、改めて自分の味方がいないのだと紗菜は気付いた。本当に短い時間で晃は紗菜の友人さえ懐柔してしまったのだ。

「って言うか、お弁当美味しそうですね。先輩の手作りですか?」

 一頻り頬を伸ばして遊ばれて、ようやく解放されたかと思えば晃が紗菜の弁当を覗き込んでくる。どうやら彼は購買で買ってきた弁当のようだ。

「そう、だけど……」
「その卵焼き、美味しそうですね。俺のおかずと交換しませんか? 唐揚げでどうです?」

 紗菜としてはは『おかず』と聞くだけで嫌なことを思い出してしまうのだが、トラウマを植え付けた本人は悪いなどとは微塵も思っていないだろう。意識もしていないに違いない。

「交換はいい……あげるから」

 断っても面倒であったし、食欲もなくなったところだ。卵焼き一切れくらい大したことはないと紗菜は思っていたが、晃は違ったようだ。自らの弁当の唐揚げを掲げて見せてくる。

「先輩、もうちょっと食べた方がいいですよ。はい、あーんしてください」
「いら、んむっ!」

 いらない、はっきりと言うつもりだった言葉は最後まで紡ぐことはできなかった。開いた唇に唐揚げを押し込まれ、こうなれば食べるしかないのは明らかだった。唐揚げに罪はない。

「じゃあ、いただいていきますね。先輩からの『あーん』はまた今度ってことで」

 ひょいっと卵焼きが箸で摘み上げられ、晃の口に運ばれていくのを紗菜は唐揚げを咀嚼しながらぼんやりと見ていることしかできなかった。彼は意外にも箸の持ち方が綺麗だった。
もぐもぐと口を動かす様はどこか幸せそうにも見える。

「美味しい……! 凄く好きな味です。今度俺の分も作ってほしいです」

 卵焼き一つで大げさだが、これもきっと演技なのだろう。紗菜は冷めた気持ちで見ていたが、ふと睦実も千佳もニマニマと笑みを浮かべて自分を見ていることに気付いた。

「ラブラブだねぇ。彼氏できたなら言ってくれれば良かったのに」
「恥ずかしかったんですよね?」
「あー、紗菜ちゃん、恥ずかしがり屋さんだもんねぇ」

 口を開こうとしても出るのは『ぁ……』や『ぅ……』などの意味のない音ばかりで、ボロが出ないか紗菜が不安になっている内に千佳は納得してしまったようだ。
 疑われないのは異性の前で挙動不審になった前科が多々あるせいなのかもしれない。

「って言うか、なれそめは?」

 普段、三人で話していても恋愛の話をすることはまずあり得ない。特に睦実はそういうことに興味がなさそうであった。だからこそ、紗菜は彼女の追及が珍しくも感じ、冷や冷やしていた。まるで刑事のようにも見える。その眼差しに自白してしまいそうなほどだが、晃はまるで動じない。

「俺、最近転校してきたんですけど、紗菜先輩に一目惚れしちゃって、それで金曜日にアタックしてOKもらったんです」

 彼は平然と嘘に嘘を重ねる。用意していたのだろうか、あまりにスラスラと出てくるからこそ紗菜はただ閉口した。彼は将来詐欺師にでもなるのではないか。

「素敵!」
「あんたは断れなかったわけね?」

 千佳はキラキラと目を輝かせるが、呆れているような睦実に紗菜はギクリとした。うまく取り繕わなければ困るのは自分なのだ。

「多少押しが強いくらいの方がいいんじゃない? なかなか育ちが良さそうだし」
「あっ、バレちゃいました? やっぱり滲み出ちゃうんですかね? 札束で汗拭いた方がいいです?」
「あはは、菅野君、おもしろーい!」

 先日は観察する余裕もなかったが、晃は食べ方が綺麗で姿勢も良い。睦実も千佳も好印象を抱いているようである。特に千佳の方は彼女の妙なツボにハマってしまったようだ。だからこそ、紗菜の心には暗い影が落ちる。盗撮をした上に脅してレイプするような男だと知る由もなく、言えるはずもないからこそ余計だ。

「うちの紗菜をよろしくお願いね」

 まるで睦実は母親のような口振りだが、紗菜にとっては姉のように頼りがいのある友人でもある。紗菜が挙動不審になるとフォローするのは彼女の役目になっていた。

「いえいえ、俺の方こそお世話になります」

 しかし、始まりを思わせる言葉に胃が痛くなるような気がしていた。彼が何か含みを持たせていると感じるのは考えすぎだろうか。

「紗菜ちゃん泣かせたらダメだからね!」
「もちろん、大事にしますよ」

 微笑みながら晃は呼吸するように嘘を吐く。
 もう泣かされたと知ったら彼女は怒って守ってくれるだろうか。否、きっと誰を止められない。諦めが紗菜の中で大きくなっていた。


 そうして千佳に質問責めにされても晃は終始穏やかに答え、時間は和やかに過ぎたが、紗菜にとってはあまりに気まずい昼休みだった。昼食の味も、どこに入ったのかも紗菜にはわからなかった。

「帰りも迎えに来ますから、先に帰らないでくださいね」

 最後にそう言い残して晃は去っていく。来なくて良いなどと言える雰囲気ではない。紗菜は放課後が憂鬱で仕方なかった。本当に当たり前だった日常が彼によって侵食されてしまったようだった。
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