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第二章

侵食される日常 1

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 あれは夢だった。
 何度もそう思うとして、無駄だということは紗菜もわかっていた。何もかもが現実だった。晃からは調子を尋ねるメッセージが届いて無視することもできなかった。
 体の痛みは薄れても、心は違う。自分が汚れて、誰にも言えない秘密を抱えてしまったように紗菜は感じていた。見知らぬ後輩の一言から世界がまるっきり変わってしまったようだった。
 これからどうするべきかを考えたところで紗菜にできることは何もない。紗菜にとって嫌なことはされても晃は優しい。暴力は振るわれないのだから我慢するしかないのだろう。

 そんな状態で学校に行くのは気が重かったが、月曜日は来てしまった。学年が違うのだからそうそう会うこともないだろう。
 そう思って紗菜は昼休みを迎えて少しほっとしていたはずだった。仲の良い友人と昼食をとるのは学校生活の中でも楽しみの一つだったが――


「無視なんてひどいじゃないですか、メッセージ送ったのに」

 いつも通り友人と弁当を食べようとして聞こえてきた声に紗菜はギクリとして固まった。
 ギギギ、と音がしそうな調子で振り向けば晃が微笑んでいる。慌ててスマートフォンを確認すれば確かに彼からのメッセージが届いていた。
 どう言い訳するか、慌てた紗菜は大事なことを失念していた。

「誰?」
「紗菜?」

 友人の藤井ふじい千佳ちか新木あらき睦実むつみが怪訝な顔をして紗菜を見ている。ますますパニックになった紗菜はどう切り抜ければ良いのかまるで思いつかなかったが、先に口を開いたのは晃だった。

「お友達ですか? 紗菜先輩とお付き合いさせていただくことになりました一年の菅野晃と申します」

 上級生の教室に来ているにもかかわらず堂々として笑みを絶やさない晃は驚くほど礼儀正しく見えた。だから、紗菜も騙されてしまったのだ。

「わぁ! 紗菜ちゃんの彼氏! イケメンさんだねぇ」
「あんた、何でもイケメンって言えばいいと思ってるでしょ? 顔に騙されちゃダメよ」

 おっとりした千佳は好意的に晃を見ているようだが、常に冷静で慎重な睦実は警戒心を持っているようだった。

「俺なんか全然普通ですよ。手が届くイケメンって言われますけど、それってイケメンじゃないですよね」
「わかってるならいいわ。お座りになったら?」
「えっ、ご一緒してもいいんですか?」
「立たれてても邪魔だし、そこの席、今日は空いてるから」

 睦実が彼を追い返してくれることを紗菜は少なからず期待していたが、どうやら彼は持ち前の外面の良さで彼女の一次審査を易々と通過してしまったようである。
 今日に限ってなぜ空席があるのか、机を動かす晃を見ながら紗菜は内心では絵画のように叫びたいくらいの絶望感を覚えていた。


「いきなり来て女子会にお邪魔しちゃってすみません」

 押しかけてきて本当に悪いと思っているのか。紗菜の隣に席を移動した晃はニコニコとしている。改めて紗菜は彼が人たらしであることを思い知らされた気がした。

「いいよいいよ、イケメン歓迎」
「ははっ、ありがとうございます」

 千佳がいつも以上に楽しそうだからこそ、紗菜は彼女をも騙しているような罪悪感に苛まれた。大切な友人達を彼の毒牙にかけるわけにはいかないが、現状ではできることなどなかった。紗菜は自分の身さえ守ることができなかったのだ。

「ちなみに簡単に手が届かない本物のイケメン様があっちにいるんだけど」

 睦実が指さす方を紗菜もつられて見てみるが、何やら騒がしい。
 クラスでも人気者の男子櫻井さくらいが中心となっているグループである。どうやら彼が飲み物を盛大に零したらしい。周りはティッシュペーパーを出したりと大慌てであるが、当の本人は放心しているように動かない。それは珍しい光景に見えた。

「確かに凄いイケメンですけど、残念なことになってません?」
「好きな子に近付くだけで逃げられてお喋りもまともにできない内に自分より顔面レベルの低い彼氏登場が死因じゃない?」
「うわっ、お気の毒」

 睦実の解説が紗菜には理解できなかったが、晃はわかったようだ。そもそも初対面の先輩と平然と話せること自体が人見知りの激しい紗菜には理解不能だった。

「お話できるように地道に餌付けしようとしてたところだったのにね」
「餌付け?」
「紗菜に直接渡そうとすると逃げるから、三人で食べてって週に一回くらいお菓子くれてたの」
「そ、そういうことだったの……?」

 クラスメートがそんなことをしているとは全く知らなかった紗菜だったが、自分の名前が出たことでようやく繋がった気がした。晃の登場で彼は失恋したことになるのだろうが、そもそも好意を寄せられていたことも知らなかった。
 紗菜としては彼がクラス委員だから気を使われているのかもしれないと思っていた。クラスに馴染めていない自覚はあった。睦実と千佳以外とはあまり話せない。男子ならば余計だ。
 菓子を貰っていたのも、彼がスイーツ男子であり、睦実と親しいからお裾分けしてくれているくらいに思っていたのだ。

「話しかける度にあんたが挙動不審になるから、あちらさんも色々考えたみたいよ? 協力してほしいとも言われてたんだけど、もう賄賂も終了かしら」
「怖いんだもん……」
「イケメンの何が怖いのよ、同じ人類でしょ?」
「だ、だって、何考えてるかわからないんだもん……!」

 ただでさえクラスメートとは言っても男子と会話するのは苦手だというのに、あまりに整った顔は冷たく見えて余計に緊張してしまう。そんな苦手意識は簡単には消えてくれないのだ。
 ろくに話せずに逃げてしまうせいで無視したなどと言われ、余計に萎縮して今に至っている。

「あー、今のでトドメ、刺しちゃいましたね。チーンって感じですよ。かわいそうに」

 妙に周囲から注目されているようで紗菜は落ち着かない気持ちだったが、晃がクスクスと笑い出す。既にクラスメートのように馴染んでいるのだから不思議なものである。
 後ろでは『さくらーい! 戻ってこーい!』などと声が聞こえるが、今の紗菜には他人を心配する余裕もなく自分のせいだという意識もなかった。

「好きな子に近付くことしか考えてなかったのに、まさかお綺麗な自分の顔面に阻まれることがあるとは思わなかったでしょうね」
「ガチのイケメンさんでも得ばっかりじゃないんですね。勉強になりました」

 他人には厳しいところもある睦実だが、晃とは妙に馬が合っているようである。これもまた晃の社交能力の高さがなせる技なのだろうか。
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