立つ風に誘われて

真川紅美

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1、出会ったのは

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 そして、あらかたの自分のことを終わらせて、朝食を二人分受け取って部屋に戻ると、まだ、クロエは眠っていた。
「……」
 庶民ではここまで手入れが行き届かないだろう柔らかなはちみつ色の髪をそっと梳いて机に朝食を置いて、クロエを抱き上げてベッドに寝かせて布団をかけて休ませる。
 そして、一人で食事を済ませて、手持無沙汰に聖書のページをめくり、ちらちらとクロエの顔を見ていた。
 雪白の肌にはちみつ色の緩いうねりのある髪、今は閉ざされているが、垂れ目がちな目は榛色で、澄んだ光がその色に更に複雑な色彩を添える。
 すっきりと整った顔立ちも、その立ち振る舞いも、とてもではないが、軍人の父を持っている、それも将官の父を持っているとは思えない。少々、鋭すぎる指摘や、物騒な発言でようやく、ああと納得できるが、相当美人な母上なのだろうと、自分がいたころそろっていた将軍位についたおっさん方をレオンは思い出す。どれも似つかわない。
「相当デレデレな顔してたんだろうなあ……」
 いつもは顔面凶器と謳われていた各将軍方も嫁と娘には甘くて息子には厳しく接している。というのはよく言われていることだった。
「ん……?」
 かすれた声を上げて身じろぐクロエに慌てて聖書のページに視線を落とし、目に入った文章がやけに印象に残った。もう少し詳しく読みたい衝動を押さえて本を閉じて、改めてクロエを覗き込む。
「れおんさ……?」
「ああ、おはよう。よく眠っていたからそちらに寝かせたんだ」
「あ、すみませ……」
「いい。朝食がここにある。食べるといい」
「……でも……」
 と、ぱっと体を起こしてレオンに向かいあったクロエが言い募ろうとしたが、ぐう、と腹の虫が鳴る音にさえぎられた。
「っ」
「ははは。召しあがれ」
「すみません……」
 と、黒パンとぬるくなったスープを食べ始めたクロエを見ながら、レオンはそっとため息をついた。
「……それは?」
「ん?」
 食べながら指さされたのは聖書だった。青い背表紙の見事な造りのそれは、年季が入って角に丸みを帯びて、ところどころ染みのような汚れがついている。
「日課ですか?」
「いや。暇だったから読んでみた。普段はあまり開かない。ああ、でも、戦争にいた時は、見てたか」
「父も青い背表紙の聖書を持ち歩いていて、懐かしいなって思ったんです。軍の支給品でしょうか?」
「どうだろうかな。世代が持っているだけかもしれない。俺個人の聖書は持っていないし、支給された覚えもない。……これは俺の父の遺品でね。とある砦の防衛の時に亡くなったんだが、その時に持っていたものなんだ」
「……お父様も軍人なんですか?」
「ああ。まあ、それなりに有名人の父だな。ここ、傷がついているだろう」
 ぱたんと閉じて表表紙を見せる。そこには刺し傷のような傷跡が残っている。
「暗殺者に狙われて心臓を一突きされそうになったんだが、これで九死に一生を得たって言っていたらしい。俺も物心がつく前に死んだから、兄から聞いた話なんだが」
「……。そうですか」
「ああ。そうだ」
 何か聞きたそうな顔をしていたが、それでも、母に関することは聞かないでもらいたいという言葉を思い出したのか、クロエは何も言わずにうなずいた。
「いろいろ気になるだろうが。……聞きたければ司祭様に聞けばいい。別に俺は隠しはしない」
「……もう、わかりました」
「そうか」
 それなりに有名人、そして、過去に暗殺者に心臓を狙われて助かった、そして、物心つく前に死んだ。という情報で、すぐに誰かとわかってしまうクロエの様子に、やはり聡明な娘だな。と思いながらレオンは父の遺品でもある聖書を見る。
 ところどころ血のような染みがついているのは、本当に最期まで身に付けていた代物だかららしい。この聖書と剣と銃。帰ってきたのはこれだけで、それだけ遺体の損壊がひどく、その場で埋葬されたという。
「そんな生まれの男が戦争に怖気づいて、情けない。というか?」
 ある程度階級が上がってから自分の所属していた隊の将軍に呼び出され、明かされた父の最期を思い出しながら、自嘲気味にそう尋ねるとクロエはその言葉の意味を考えるように首を傾げて食事のトレーを机の上に置いた。
「いいえ」
 ベッドの上に膝立ちになって、ベッドの隣に椅子を置いて座っている状態のレオンに腕を伸ばしてそっと抱き付いてきた。
「クロエさん」
「クロエ、で構わないよ」
 そのまま胸に頭を抱きこまれてうなじのあたりの髪をくしゃりと握るように柔らかく撫ぜられる。
「誰だって死ぬのは怖いもの。後悔なんてするもの。それが生まれと何が関係があるの?」
 心底不思議そうな声音と、今までの経験を癒すようなその手つきに、レオンは、自分で振っておいて、後悔した。
「世の中の人は、関係あると考えるらしい」
 肩をすくめてクロエの腕を振り払おうとしたが、それを拒むようにぎゅっと抱きしめられた。コルセットも巻いていない直の柔さに思わず体がぎくりとなる。
「クロエさん。これは……っ」
「いいの」
 一言で一蹴されてしまえばそれ以上拒むことはできなかった。下手に振り払って怪我をさせてもいけない。それがいいわけであることに気付かず、レオンはただ、自分から腕を伸ばそうとはせずに体をこわばらせていた。
「いいのよ」
 やわらかくささやかれて髪を撫でられる。背中を優しくさすられて、ぬくもりを分け与えられる。
「怖くていいの。後悔してもいいの。でもね。それを一人で耐えなければならないだなんて、誰も言っていないのよ」
 自分を抱きこもうと精一杯腕を回して優しくさする小さな存在に、レオンは息を飲んだ。まともな母を知らないはずなのに、その柔らかさと甘い匂いに心の奥底がくすぐられる。
「教えて。レオンさん」
 貴方の抱えている罪も後悔も。
 小さくささやかれて、幼子にやるようにとんとん、と背中を優しくたたかれて、こわばった体から少し力が抜ける。母にされたことはないが、母代わりの乳母や、長兄にあやしてもらったころの、幼い記憶がよみがえる。戦争から帰ってきてから思い出せなかった昔の柔らかい記憶も、何もかもが、一気に頭の中に押し寄せてきて抱きしめるぬくもりを感じながら身動きが取れなくなった。
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