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第九話 炎の中で
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花熊城は、兵庫津から湊川を渡り、有馬道沿いを進んで、走水村のすぐ北にある。
町場まで水濠で囲い込んだ惣構えで、坂本の穴生衆に命じて築かせたという石積みも、見上げるほどの威容を誇っている。
「こら確かに、ちょっとやそっとじゃ落ちそうもない城やな」
荘左衛門は、やはり手庇を拵えながら独りごちた。
が、もはや城へ近づくことさえできそうになかった。直違、竪木瓜の旗印を掲げた織田の軍勢が、濠の周りをびっしりと取り囲んでいたからである。
「やっぱし、とんでもない動きの速さや。信長一人のアタマが閃いた時には、もう手足みたいに軍勢が動いとう」
兵庫衆は城の北側へ回り込んで諏訪山へ登り、そこから戦況を見下ろしている他なかった。
薄雲の空が茜色に染まり、足元の底冷えが応え始める時分だった。
「北風の、津が燃えとうぞ」
賭場の仲間の喚き声で、ウトウトしていた荘左衛門は草枕から飛び起きた。
「なにッ、なんやと」
すぐさま崖際まで走り、南の方角を眺めやった。
花熊城を攻めあぐねていた織田勢が数百あまり、海の方へ隊を分けて攻め寄せている。陸屋根の密集した町場が、燃え広がる炎に炙られて黒焦げになり、廻船の帆桁は火柱の林と化していた。
「いかんぞ、こらあ」
荘左衛門は、疲れで痺れている腿を無理矢理に動かし、山腹の道を転がり落ちるように駆け下りていった。
「言わんことやない、六右衛門の野郎。結局、棰井がしくじったんやろうが。信長のやつは、今までのどんな大将とも違う。肝ッ玉のデキがまるで違うんじゃ。はした金や舌先三寸が通じると思ったら、とんでもない大間違いなんや」
口の中でブツブツつぶやきながら、荘左衛門は海まで続くだらだら坂を走り抜けていった。
兵庫津は、噎せ返る煙のにおいと、火の粉がパチパチと飛び散る騒音、てんで冬らしくもない蒸し暑さに包み込まれていた。
街筋には、手足のちぎれた女童や小坊主、黒焦げになって目玉のこぼれ出した骸が、犬っころのようにあちこちへ転がっていた。
「ひどい、こいつはひどい」
息せき切って、脂汗にまみれながら、算所村、西光寺の門前をたちまち通り過ぎていった。
木場と宮前の角口に差しかかったところで、顔は煤だらけ、鬢の片側をチリチリに焦がした六右衛門と、宗家の家族が揃ってさまよい歩いているのに出くわした。
「おいッ、六の字よ」
「ああ、資村か」
見れば、涙と洟垂れで泥濘のようにグシャグシャとなった、一丁前の男の面である。
「お前は生きとったのか」
「そっちこそザマあないが、今はそれどころやない。於福はどこにいる」
「於福。於福さんとは、……逃げる途中ではぐれてしまった」
「まだ屋敷か」
「わからん。ああ、しかし行くな、資村。どこに敵の足軽がおるのかもしれんのやぞ」
止め立てされればこそ、荘左衛門は鍛冶屋町の辻を大急ぎに急いで回っていった。
杮屋根の長刀反りが炎をまつわらせていたが、まだ棟が燃え落ちるほどではなかった。体のナマりきった六右衛門なら尻込みもしようが、おのれであれば怯むところはない。
叩き割られて落ちた門の貫木をまたぎ、すり切れた草鞋のまま、沓脱ぎから濡縁へ上がった。明かり障子がズタズタに切り裂かれ、蹴破られて鴨居から外れている。
「おうい、於福。どこでスクみきっとうんや。お前の亭主が連れて帰りにきたったぞ」
咳き込みながら、既に煙の回っている奥座敷へ踏み込んだ。付書院の柱が燃え始め、追い回しの畳に火が移ろうとしている。
床飾りの長押に、引き裂かれた唐錦の打掛が、襟元を五寸釘で打ちつけられていた。
「於福」
急な胸騒ぎに襲われ、荘左衛門は上ずった声を発した。
「おいッ、返事をしろ、於福」
「にゃア」
代わりに聞こえてきたのは、猫の鳴き声だった。
ふと見れば、斜めに傾いた飾り棚の上で、青鈍毛の仔猫が一匹、お手玉のように丸くなっている。
いつかの夜に、こちらのあとをテンテンと追いかけてきた、あいつではないのか。
「お前も、逃げられんくなったんか」
荘左衛門は、横倒しになって炎をまつわらせている金屏風をまたぎ、そちらの方へ手を伸ばした。「ほら、早くこっちへ来いや。怖くない、怖くないぞ」
「にゃーン」
仔猫はふいにそこから飛び降りると、畳に前足をついて部屋の外へするりと抜け出していった。
「おい待て、火の出てる方へ行ったら危ないやろが」
慌てて追いかけてゆくと、いかにも必死の猫さん、小さな手足を懸命に動かしながら、こっちよと導くようにサキサキ走っていく。
裏庭を横切り、奥の納屋のところまで行った。藁屋根へ火が回り、今にも燃え上がりそうに黒煙がくすぶっている。
ところが仔猫は、半開きになった遣戸の隙間から、ぴょんとその中へ飛び込んでいった。
「ああッ、おい。そんなとこへ入ってもうたら、かえっていかんわ」
荘左衛門もやはりあとへ続く。黒ずんだ夕映えの底に、樽やら甕やら榑板やらが雑然と並べられ、いくつかは乱暴に蹴り倒されている。欠けた割れ目から黒い染みが床土へ広がり、酢のきついにおいが鼻を衝いた。 猫の姿はどこにもない。鳴き声すら聞こえてこなかった。
垂木から壁伝いに火が燃え移り始め、かえって明るくなってきた。
「おおい、猫っ子よう。さっさとこっちへ出てきてくれや」
その時、薄暗がりの底でかすかにうごめくものがあった。驚いて目を剥くと、見覚えのある桑染めの小袖に包まれた、我が女房の腿と尻ではないか。
「ああっ、お前」
荘左衛門は思わず声を張り上げた。
「於福か。そこにおるんか」
相手はううん、とうめくばかりで、まともな声にならない。が、苦しげに身をよじる姿を、よもや見間違えるはずもなかった。
「じっとしてろ、今すぐそっちへ行くからな」
しかし、ずらり並んだ容れ物の類いがどうにも邪魔だ。いちいちどかせるのに難儀しているうちに、屋根裏の火が一気に燃え広がった。ぱあっと目の前が照らし出されたかと思うと、曲がった丸太梁がたちまち燃え落ちてきた。
「於福ッ」
荘左衛門はとっさに飛びかかり、膝頭で木樽を蹴倒しながら、女房の体の上へ覆いかぶさっていた。
こちらの頭めがけて、丸太が燃えながら落ちかかってきた。身を縮めてどうにか避けようとしたが、かえって背骨にぶつかり、痛みで声が出た。目玉の裏から涙が滲んできて、奥歯を食いしばった。
背中に乗った梁が燃えている。毛と皮がたやすく焼けていくのがわかった。
「あんた、あんた」
「於福、生きとったな」
ずいぶん無理をして、暗がりの底へ笑いかけてみせた。目の前にある於福の頬は煤にまみれ、髪もほつれている。
「あんた、あたしはもうええよ。そこをどいて、さっさと逃げとくれよう」
「そうはいくかい。かわいい女房を守るんが、亭主の役目ってもんやろうが」
「今さら何を言っとんねん、このロクデナシ。こんな時になるまで、帰っても来おへんで。男だけの間で、しょうもない話ばっかしこしょこしょ喋り合って。終わってみれば結局、町も家もぼろぼろになっただけやんか」
「ああ、ほんまにそうや。そんなことも長い間わからんで、すまんかったな」
涙と鼻水が溢れ出し、於福の汚れた頬へしたたり落ちていった。
「おうい、資村! そこか、納屋の中にいるのか」
庭を横切った先から、六右衛門のこちらを呼ぶ声が、かすかに聞こえてきた。
そこで荘左衛門は、あまりの熱と痛みのせいで気を失った。
町場まで水濠で囲い込んだ惣構えで、坂本の穴生衆に命じて築かせたという石積みも、見上げるほどの威容を誇っている。
「こら確かに、ちょっとやそっとじゃ落ちそうもない城やな」
荘左衛門は、やはり手庇を拵えながら独りごちた。
が、もはや城へ近づくことさえできそうになかった。直違、竪木瓜の旗印を掲げた織田の軍勢が、濠の周りをびっしりと取り囲んでいたからである。
「やっぱし、とんでもない動きの速さや。信長一人のアタマが閃いた時には、もう手足みたいに軍勢が動いとう」
兵庫衆は城の北側へ回り込んで諏訪山へ登り、そこから戦況を見下ろしている他なかった。
薄雲の空が茜色に染まり、足元の底冷えが応え始める時分だった。
「北風の、津が燃えとうぞ」
賭場の仲間の喚き声で、ウトウトしていた荘左衛門は草枕から飛び起きた。
「なにッ、なんやと」
すぐさま崖際まで走り、南の方角を眺めやった。
花熊城を攻めあぐねていた織田勢が数百あまり、海の方へ隊を分けて攻め寄せている。陸屋根の密集した町場が、燃え広がる炎に炙られて黒焦げになり、廻船の帆桁は火柱の林と化していた。
「いかんぞ、こらあ」
荘左衛門は、疲れで痺れている腿を無理矢理に動かし、山腹の道を転がり落ちるように駆け下りていった。
「言わんことやない、六右衛門の野郎。結局、棰井がしくじったんやろうが。信長のやつは、今までのどんな大将とも違う。肝ッ玉のデキがまるで違うんじゃ。はした金や舌先三寸が通じると思ったら、とんでもない大間違いなんや」
口の中でブツブツつぶやきながら、荘左衛門は海まで続くだらだら坂を走り抜けていった。
兵庫津は、噎せ返る煙のにおいと、火の粉がパチパチと飛び散る騒音、てんで冬らしくもない蒸し暑さに包み込まれていた。
街筋には、手足のちぎれた女童や小坊主、黒焦げになって目玉のこぼれ出した骸が、犬っころのようにあちこちへ転がっていた。
「ひどい、こいつはひどい」
息せき切って、脂汗にまみれながら、算所村、西光寺の門前をたちまち通り過ぎていった。
木場と宮前の角口に差しかかったところで、顔は煤だらけ、鬢の片側をチリチリに焦がした六右衛門と、宗家の家族が揃ってさまよい歩いているのに出くわした。
「おいッ、六の字よ」
「ああ、資村か」
見れば、涙と洟垂れで泥濘のようにグシャグシャとなった、一丁前の男の面である。
「お前は生きとったのか」
「そっちこそザマあないが、今はそれどころやない。於福はどこにいる」
「於福。於福さんとは、……逃げる途中ではぐれてしまった」
「まだ屋敷か」
「わからん。ああ、しかし行くな、資村。どこに敵の足軽がおるのかもしれんのやぞ」
止め立てされればこそ、荘左衛門は鍛冶屋町の辻を大急ぎに急いで回っていった。
杮屋根の長刀反りが炎をまつわらせていたが、まだ棟が燃え落ちるほどではなかった。体のナマりきった六右衛門なら尻込みもしようが、おのれであれば怯むところはない。
叩き割られて落ちた門の貫木をまたぎ、すり切れた草鞋のまま、沓脱ぎから濡縁へ上がった。明かり障子がズタズタに切り裂かれ、蹴破られて鴨居から外れている。
「おうい、於福。どこでスクみきっとうんや。お前の亭主が連れて帰りにきたったぞ」
咳き込みながら、既に煙の回っている奥座敷へ踏み込んだ。付書院の柱が燃え始め、追い回しの畳に火が移ろうとしている。
床飾りの長押に、引き裂かれた唐錦の打掛が、襟元を五寸釘で打ちつけられていた。
「於福」
急な胸騒ぎに襲われ、荘左衛門は上ずった声を発した。
「おいッ、返事をしろ、於福」
「にゃア」
代わりに聞こえてきたのは、猫の鳴き声だった。
ふと見れば、斜めに傾いた飾り棚の上で、青鈍毛の仔猫が一匹、お手玉のように丸くなっている。
いつかの夜に、こちらのあとをテンテンと追いかけてきた、あいつではないのか。
「お前も、逃げられんくなったんか」
荘左衛門は、横倒しになって炎をまつわらせている金屏風をまたぎ、そちらの方へ手を伸ばした。「ほら、早くこっちへ来いや。怖くない、怖くないぞ」
「にゃーン」
仔猫はふいにそこから飛び降りると、畳に前足をついて部屋の外へするりと抜け出していった。
「おい待て、火の出てる方へ行ったら危ないやろが」
慌てて追いかけてゆくと、いかにも必死の猫さん、小さな手足を懸命に動かしながら、こっちよと導くようにサキサキ走っていく。
裏庭を横切り、奥の納屋のところまで行った。藁屋根へ火が回り、今にも燃え上がりそうに黒煙がくすぶっている。
ところが仔猫は、半開きになった遣戸の隙間から、ぴょんとその中へ飛び込んでいった。
「ああッ、おい。そんなとこへ入ってもうたら、かえっていかんわ」
荘左衛門もやはりあとへ続く。黒ずんだ夕映えの底に、樽やら甕やら榑板やらが雑然と並べられ、いくつかは乱暴に蹴り倒されている。欠けた割れ目から黒い染みが床土へ広がり、酢のきついにおいが鼻を衝いた。 猫の姿はどこにもない。鳴き声すら聞こえてこなかった。
垂木から壁伝いに火が燃え移り始め、かえって明るくなってきた。
「おおい、猫っ子よう。さっさとこっちへ出てきてくれや」
その時、薄暗がりの底でかすかにうごめくものがあった。驚いて目を剥くと、見覚えのある桑染めの小袖に包まれた、我が女房の腿と尻ではないか。
「ああっ、お前」
荘左衛門は思わず声を張り上げた。
「於福か。そこにおるんか」
相手はううん、とうめくばかりで、まともな声にならない。が、苦しげに身をよじる姿を、よもや見間違えるはずもなかった。
「じっとしてろ、今すぐそっちへ行くからな」
しかし、ずらり並んだ容れ物の類いがどうにも邪魔だ。いちいちどかせるのに難儀しているうちに、屋根裏の火が一気に燃え広がった。ぱあっと目の前が照らし出されたかと思うと、曲がった丸太梁がたちまち燃え落ちてきた。
「於福ッ」
荘左衛門はとっさに飛びかかり、膝頭で木樽を蹴倒しながら、女房の体の上へ覆いかぶさっていた。
こちらの頭めがけて、丸太が燃えながら落ちかかってきた。身を縮めてどうにか避けようとしたが、かえって背骨にぶつかり、痛みで声が出た。目玉の裏から涙が滲んできて、奥歯を食いしばった。
背中に乗った梁が燃えている。毛と皮がたやすく焼けていくのがわかった。
「あんた、あんた」
「於福、生きとったな」
ずいぶん無理をして、暗がりの底へ笑いかけてみせた。目の前にある於福の頬は煤にまみれ、髪もほつれている。
「あんた、あたしはもうええよ。そこをどいて、さっさと逃げとくれよう」
「そうはいくかい。かわいい女房を守るんが、亭主の役目ってもんやろうが」
「今さら何を言っとんねん、このロクデナシ。こんな時になるまで、帰っても来おへんで。男だけの間で、しょうもない話ばっかしこしょこしょ喋り合って。終わってみれば結局、町も家もぼろぼろになっただけやんか」
「ああ、ほんまにそうや。そんなことも長い間わからんで、すまんかったな」
涙と鼻水が溢れ出し、於福の汚れた頬へしたたり落ちていった。
「おうい、資村! そこか、納屋の中にいるのか」
庭を横切った先から、六右衛門のこちらを呼ぶ声が、かすかに聞こえてきた。
そこで荘左衛門は、あまりの熱と痛みのせいで気を失った。
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