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39話

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 ……

 …………

 ………………



 しくしくと泣きじゃくる声が聞こえていた。杏の泣き声だとすぐにわかった。

 俺は大丈夫だ。そう言ってやりたいが、身体のどこにも力が入らない。無論、目も開けることはできなかった。

 どうやら頭の半分ほどが潰れているようだ。だが俺はまだ、死んでいるわけでもないらしい。


「妹さんが救急車呼んでくれたから。もうすぐ来るから。お願い、死なないで」


 杏が俺の手を握っている。

 その横でトリエステの声が聞こえてきた。


「委員長さん、兄はもう駄目かもしれません」

「そんなこと言わないでよ!」


 杏が語気を強めて返していた。

 そういうことか、と思った。


「ごめんなさい、古路里くん」杏の握る手が強くなる。「私が急がせたばっかりに」


 杏が俺の胸に顔を埋めるのがわかった。熱い涙が、シャツを通して沁み込んで来る。

 杏のせいではないと言ってやりたい。

 でもだめだ。

 身体が奈落の底へ落ちていく。


「う……ぅ……」

「何も言わないで、古路里くん。もうすぐ、もうすぐだから……」


 必死に意識を繋ぎとめていると、トリエステのぞっとするほど冷たい声が聞こえてきた。


「それは兄に生きていて欲しいという意味ですか?」


 凄まじい威圧感が声に込められていた。


「当たり前でしょ」杏が怒るように返した。

「彼の命が助かるなら何でも捧げると?」

「…………どういうこと?」

「救急車は来ませんよ。なぜなら呼ばなかったから」

「え、どうして……」杏の声は震えていた。

「今から言うことをよく聞くんじゃ」トリエステの口調が変わった。「委員長、お前に許された選択肢は二つある……」


 頭上でトリエステと杏が話をしていた。

 なるほど。すべてはトリエステの仕組んだことだったのだ。

 俺たちを起こさなかったのも、自転車がないことも、トラックの運転手がよそ見をして赤信号を突っ込んで来たことも。由奈氏とのデートの話をして感情を揺さぶったのもそうかもしれない。


 すべてが杏の血を手に入れるための罠。我々に血も魂さえをも捧げさせる装置だったのだ。

 トリエステはガラパゴスイッチという、からくり装置の番組が好きだったことを思い出す。

 やってくれたな。


「ん……」


 突然、唇に柔らかい感触が押し付けられた。その柔らかさも一瞬だけで、すぐに杏の前歯がカチンとぶつかってきた。

 経験乏しい俺でもわかる、微笑ましいほどに不器用なやり方だ。


 彼女の舌を通して血が流れ込んできた。

 杏は俺のために舌を深く切ったのだ。

 温かくさらさらとした舌触り。生命力の塊がどんと喉奥に直接流し込まれたようだった。

 俺の舌は更なる血を求め、自然と彼女の舌に絡みついた。


「あぁ……」


 杏は悶えるような声を漏らした。彼女の太ももが、俺の腕を強く挟み込む。


 全身が脈打ち、細胞が目覚めていくのがわかった。

 頭の中を埋め尽くしていた霧がゆっくりと晴れていくような感覚だ。


「もうそろそろいいじゃろ」


 トリエステに言われると、杏は水中から顔を出すように、はっと息を吸い込みながら顔を離した。

 一方の俺は申し訳なさと恥ずかしさで目を開けられずにいた。もう少しだけこの快感に酔いしれていたいという思いもあった。

 それも決して肉体的な快感だけではない。杏と魂の深いところで繋がりあったという、精神の充足を感じていた。

 言い換えるなら、それは底なしの愛おしさ。


「だめじゃ。手遅れだったかもしれんのお」


 トリエステはからかうようにそんなことを言ったが、杏は真に受けたらしく、さらに激しく泣きじゃくった。

 

「お願い死なないで……」

「そうじゃ、主水。頑張れ。委員長はどうしてもお前に生きていて欲しいと言っておるぞ」


 杏は熱い涙を流しながら俺の頬に顔を押し付けている。彼女はまるで憎しみでも込めたような声で感情の言葉を溢れさせた。


「このまま死んだら許さないよ。絶対に許さないから。ねぇ、お願い。あなたといると私が私じゃなくなるの。もう私の人生楽しくないのかなって諦めてたのに……それでもいいやって思ってたのに。弟のために生きれてそれでいいと思ってたのに……もう諦められなくなったじゃない……どうしてくれるのよ……だから、たから……お願い……」


 どうしろというのだ。

 俺は目覚め時を完全に見失っていた。

 するとトリエステがニヤついた声で、


「言わせたのぉ、主水」と笑った。「安心せい、委員長。奴はとっくに意識を取り戻しておるぞ」


 俺は咄嗟に身体を起こして、声を荒げた。


「俺を共犯みたいに言うなよ!」


 杏の赤らめた顔が目の前にあった。「あっ」と口をぽかんと開け、目を丸く見開いている。

 杏の驚き顔がみるみる崩れていく。怒っ出るのか悲しんでるのか喜んでるのかわからない表情で涙を流しながら、俺の身体をどんどんと拳で殴りつけた。


「なんで? なんでよ!」

「えっ⁉」俺は取り乱した。「な、なにが⁉」

「昨日の夜よ。なんで勝手にキスしたの⁉ はじめてだったのに! 心の準備なんてできてなかったのに!」

「それ今言うの⁉ 俺だってはじめてだし!」

「だったらなおさらじゃない!」


 狼狽しつつ、杏の連撃を手でさばいていると、


「ほう」とトリエステが目を三角にして顔を覗き込んできた。「主水のくせに中々勇気あるの」

「ち、血迷っただけだよ!」

「血迷ったですって⁉」杏がわんわん泣きわめいた。「あんたの血迷いで私の初めてがどこかに行っちゃったっての?」

「あぁ、えぇと、なんというか」


 俺が慌てふためいていると、さすがのトリエステでも助け舟を出してくれた。


「そういえば、主水に委員長。こんなとこで痴話喧嘩していていいのか?」


 杏がはっとした顔を作った。

 俺はすっくと立ち上がり、半壊した自転車を起こしあげる。杏の血のおかげで身体は完全に回復していた。

 さあ、と杏に目配せした時だった。


「そうそう、言い忘れておった」


 トリエステは背中を向けて、のらりくらりと坂道を下り始めていた。


「今日は祝日じゃということ、二人とも忘れておらんか?」


 俺と杏は同時に「えっ」ともらした。

 完全に凍りついていた。

 杏と目を見合わせ、それから携帯電話を開いた。

 スケジュールアプリを開く。

 トリエステの言うことは嘘ではなかった。今日は祝日。日付のところは確かに色付けされていた。


「それじゃあ……」

「学校はやすみ?」


 俺は遠くに見える校門を見つめた。

 そりゃ閉められているわけだ。

 杏と俺は脚の力を失い、へなへなと道路にへたり込んだ。


「主水はともかく。委員長ともあろう人が、らしくないの」


 トリエステはそう言い残し、姿を消したのだった。

 いつまでもトリエステの忍ぶような笑い声が聞こえて来る気がした。
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