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32話

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 如月杏には、料理ができるまで自宅で休むよう伝えた。その間、彼女の弟を俺たちの家であずかることにした。

 どういう風の吹き回しなのか、トリエステが少年の宿題を見ることになった。


「父さんは昔からいない。母さんは朝まで仕事だよ。水を売ってるんだって。おねえちゃん、どういう意味かわかる?」

「さあ、天然水の販売かしら」


 杏の弟と、かまととぶるトリエステの会話が台所まで聞こえてきた。

 台所と言っても部屋と繋がっているので、大した設備ではない。

 

「でも一番大変なのはお姉ちゃんだよ。いつも遅くまで仕事して、勉強もして。朝は早く起きてお弁当作ってくれるし。ちゃんと寝てるとこあんまり見たことないんだ」

「偉いのね。どうしてそんなに頑張るの?」

「ぼくが良い学校に行けるように母さんと二人でお金貯めてるんだって。お姉ちゃんの方がユウシューだからお姉ちゃんが行ったほうがいいのにってぼくは思うんだ」

「それなら学級委員も勉強も手を抜けばいいのにって、あのお兄さんは思ってるみたいよ」

「ぼくもそう思う。だってもっとお姉ちゃんと遊びたいよ。でもそれじゃあ、シメシがつかないんだって。母さんみたいな人になっちゃだめだって意味らしいけど、シメシってなに?」

「さあ、きのこの仲間かしら」


 そこでしらを切る理由は分からないが、俺は黙々と作った料理を食卓に運んだ。


「さあ、食べてくれ」


 そう告げると、よほど腹を空かせていたのか、杏の弟は勢い良く料理をかきこみ始めた。


「お姉ちゃんの料理の方が美味しいや」

「そうか……悪いな。これが俺の全力なんだ」

「おにいちゃんもお姉ちゃんの料理食べたい?」

「べ、別に」

「じゃあ、そう伝えとく」

「あ、いや。食べたい。食べてみて今後の参考にしよう」


 食事を終えると、少年は机に突っ伏したまま眠ってしまった。仕方ないので俺たちの布団に寝かすことにした。家には朝帰したところで問題はないだろう。

 片付けた皿を流しで洗っていると、トリエステが後ろから近づいてきた。


「杏の食事はまだ持ってかんのか?」

「そうだな」俺はスポンジに洗剤を足した。「もう少し寝かしてやってもいいかなと思ってな」


 まさかそんなことでトリエステが話しかけて来たとも思えない。

 案の定、意味深な言葉を吐いてきた。


「もう少しで獲物が手に入りそうじゃの」


 背後にいても、彼女のにやつき顔が想像できた。しかし俺がその時何を感じたかと言うと気恥ずかしさだった。

 自分の顔が赤くなるのがわかる。それを隠すように俺は不機嫌な口調でありきたりな返事を返す。


「獲物とか言うなよ」

「それならまた夜狩りに出るか? 渇きもそろそろ苦しいんじゃろ」

「それはトリエステもだろ」

「はぁ、もう我慢の限界じゃ。はよ勝負を決めんとあの少年をいただくぞい」

「やめろよな。勝負とか、その、獲物とかってのも。だって相手は学級委員長だぞ。俺が、その……」

「なんじゃ?」トリエステが唇を俺の耳元に近づけた。「しゃっきりせい」

「だから、その……決めていいのかって話だよ。だから!」


 俺は声を張り上げ、それから声をこもらせた。


「か、彼女の人生もしっかり背負えるのかって話だよ、俺が……」


 顔の熱さが尋常ではない。

 俺はそのまま水で顔を洗った。それから渇きを誤魔化すように、ゴクゴクと直に水を飲む。

 蛇口をひねって水を止めた。振り返るとトリエステが呆けた顔で俺を見つめていた。


「主水、お前まさか……」

「……な、なんだよ」


 俺が眉をひそめると、トリエステはきょろきょろと部屋を見回しはじめた。そしてすぐに視線をぴたりと止めた。

 この間俺がTATSUYAで借りたレンタルDVDの存在に気づいてしまったらしい。袋からDVDのタイトル面が顔を覗かせていた。


「あぁ、まったくなんてこった」


 やってしまったとばかりに、トリエステは額を手で抑えた。


「お前『トワイライト』を見たんじゃな。あれほど見てはならぬと言ったのに」

「そんなこと一度も注意してないだろ。俺たちの種族について学ぼうとしたんだよ!」

「良いか、主水。『私だけを好きでいてくれる一途で純情な吸血鬼』なんてのは物語の中だけなんじゃよ。あれはすべて乙女の甘ったるい妄想じゃ」

「『妖しくて美しい』も付け足せよ。それと『危険な香りがする』もな」

「こりゃもう取り返しがつかんな」


 トリエステは呆れたように天井を仰ぎ見た。


「吸血鬼の生き様を学ぶなら『フロムダスクティルドーン』か『彼岸島』からにしろと言ったのに」

「なんだよ、別に良いだろ。少しぐらいかっこいい理想を持ったって。俺の根は純情なんだよ」

「純情すぎじゃ。それも病的にな。病的な純情じゃぁ」


 口角に泡をためて反論する俺に、トリエステは同情でもするような慈悲深い目線を送ってきた。彼女は深いため息を吐きながら俺の肩に手を置いた。


「我らの鉄則じゃぞ。『愛は手広く』。さあ、この言葉を繰り返すんじゃ」


 いきなり顔に水をかけられたような気分だった。


「な、なんだよ。愛とか取って付けたように言って。そんなのよくわかんないし、俺には俺のやり方があるんだよ」

「一人の血だけでは生きられない。お前もよくわかってるはずじゃ。杏を我らの同類にしたくはないじゃろ?」

「それは……」俺は口ごもった。

「もしもの話じゃ。我らが狩られようとした時、身を呈してもお前を守ろうとする者は今どれだけおる?」

「なんだよ、大げさだな」

「我らを救うのは信頼、そして忠誠によって結ばれた絆じゃ。主従関係と言ってもいい。次は自分の血を、と進んで身も心もお前に捧げようとする関係を作り上げなくちゃならん。それも多ければ多いほど良い。わかるか?」

「信頼と忠誠、それがほんとに愛に繋がるのか……?」

「お前のために命を投げ捨てても良いというほどの固い結びつきじゃぞ」


 俺は頭の中で思い浮かべていた。杏との理想的な関係ではない。最悪の事態をだ。

 たとえもし彼女が血を捧げてくれたとして。その後、俺が他の女の血を求めたとしたら、彼女はどんな反応をして、どんな気持ちになるのか。想像が難しいわけではなかった。


「とにかく如月杏は俺に興味なんて持ってないよ。たしかに吸血鬼の色香的なもんが彼女の本能を多少は惑わしてるのかもしれない。だが、それは別に男として彼女を魅了してるわけじゃない」

「これはこれは随分と自信を失ってしまったようじゃの」

「わかってないな。俺にはそんなもの元々ないんだよ。気の利いた会話どころか、まともに言葉も出てこない。笑わせて相手の心を開くなんて夢のまた夢さ」

「ほっほっほ。どこぞの恋愛マニュアルを読んだのか知らぬが、深く考える必要なぞないぞ。強引に押し倒せ、そして唇のひとつでも合わせれば終わりじゃ。その既成事実こそが女を変えるのじゃ」

「はぁ、何百年も生きた者の知恵がその程度じゃあ、良いアドバイスを期待するだけ無駄ってもんだな」

「ひひひ、これが数千年の知恵じゃよ」


 トリエステは俺の胸を人差し指でつんつんと突くと、テレビ画面へと吸い込まれていった。
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