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6話

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「あぁ、ちくしょう……いてぇ……」


 オレンジ色に光る街灯の明かりを見つめていた。


 結局、俺の身体をはね飛ばした車は一目散に逃げていったのだった。

 この道路、元々車の通りが少ないらしい。

 時間帯も遅く、しばらくは他の車も来ないから逃げ切れると判断したのだろうか。

 目撃者はなくとも、車体は傷ついているはずだというのに。


 文句を言っても仕方ない。

 急に飛び出したのは俺の方だもんな。


「ほんとにいてぇ。しゃれになんねえよ」


 全身の骨がばらばらになったみたいだ。

 後頭部がぬるぬるしている気もする。

 血の海に浸かっているのは比喩じゃない。多分頭から流れ出した血が刻一刻と広がっているのだろう。

 不思議と痛みを感じないのは嫌な気分だ。

 あるとすれば寒気だ。恐ろしい寒さだけが徐々に腹の底から湧き上がってくる。

 これってつまり、死ぬってことだろ。


「い、いやだ……」


 そういや女の子はどうした。

 俺は顔をずずずと横に向けた。

 女の子はこっちを向いて倒れていた。

 外傷はなさそうだが、ぴくりとも動かない。

 目を見開いたまま俺を見つめて、息もしていないみたいだ。

 やっちまった。俺のせいで。


 まずい。人の心配してる場合じゃない、意識が遠のいていくのがわかる。

 俺は虚ろな目で、範囲を広げていく血の海を見つめていた。


 街灯の光が滲んでいく。幻想的な光景だ。

 夢でも見ているのだろうか。

 はじめはそう思っていた。


 血が少女の指先まで届いた時、その指先がぴくりと震えた気がした。

 アンバーの色をしていたはずの少女の目が、徐々に赤みを帯び始める。そして、完全に開いていた瞳孔がしゅんと小さくなった。

 血の海がさざなみ始める。少女の指に吸い込まれるように、血は波打ち、形を変えていた。

 乾いた布巾が水を吸い上げるようだ。


「はっ」と、明らかに少女は息を吹き返した。

 ぎゅんと肺が膨らんだのがわかった。


 少女はさらに血を求めるように、腕を伸ばし、確かにその掌全体で俺の血を吸い上げていた。

 血の海が面積を狭めていく。アスファルトの小さな溝に入り込んだ血さえも、蛇が這うように干上がっていく。 


 なんて光景だ。なにが起きてる?

 少女はあらかた血を吸い尽くしまった。

 そして少女は手で口元を拭った。紅い口紅で、まるでメイクを失敗したように、唇から頬に向かって鮮やかに広がった。


「まったく。クソまずい血じゃのお」


 少女はゆらゆらと起き上がりながら、ぶつぶつと呟いた。


 何のことかと最初は理解できなかったが。

 間違いない。

 それは文句、不平、不満、クレームだ。


「不節制がたたったのぉ。血糖が多すぎだ。甘ったるくて粘ついている。いつまでも口に残る三級品じゃ」

「…………」

「そのくせ栄養には乏しい。血球成分も壊滅的だ。まさに保存料や添加物に毒された現代人の典型じゃの。……なんだその目は?」

「……」

「普段なら取るに足らぬ駄血と言いたいところだが……」


 少女は俺の元まで歩み寄ると、脚を折り、俺の前で屈み込んだ。

 脚を開き、ブラウスの中が丸見え。


「礼を言うぞ。助かった」


 ふわりと夜風が吹き、少女の髪がゆれた。


 勘違いしないで欲しい。

 糖尿病ぎみなのは俺が一番知っている。

 家の寄生虫である俺がまともな生活なんてできるはずがないことも。

 だから文句を言い返すなんてとんでもない。

 むしろ俺は死ぬ前にこの光景を見られて幸せなんだ。


 違う! スカートの中の光景じゃない!

 理屈はよくわからないが、少女が助かり俺に笑ってくれてるという光景のことだ。

 俺も最後の最後には誰かに感謝される生き方ができたというわけだ。


「し、神秘的な扉だ。くぱぁと口を開いている。これが異世界への扉なんだな」

「定命の者よ、何をのたまっている」

「異世界……転生だよ。そろそろ向こう側に行けそうな気がしてたんだ」

「残念だが……」

「……やっぱり。俺は死ぬのか」

「救急車を呼んでも間に合わないだろう。だが迎えが来るまで数分もかからん。安心せい」


 前言撤回。俺は少女のブラウスの下に広がる光景を目に焼き付けようとした。

 だが少女は太ももをパタリと閉じてしまった。異世界へ通じる道は閉じられたのだ。

 しかし彼女は続けて、


「二つ選択肢をやる」と言った。「残り数分の恐怖にも耐えられぬというのなら、一瞬で首を落としてやる。これが一つ目」


 少女は立ち上がると、道路に建てられていた標識のポールを素手でねじり折り、ポールごと持って戻ってきた。

 どうやら標識のプレート部分で、首を斬り落としてくれるらしい。


 俺は慌てて、「もう一つは?」と唇だけ動かして訊いた。

 すると、もはや女の子と呼んで良いのかわからないその生き物はにやりと笑った。


「私のようになりたいか」


 それが二つ目の選択肢だった。


「色々と困ることも出てくるだろうが、控えめに言って、素晴らしいぞ」


 困ることって何だ。


「一つ一つ挙げても良いのじゃが。その間に死ぬことになるかもしれんな」


 首を小さく振る。

 少女は「では選べ」と命令口調で言った。


 マジかよ。正気か。

 いや、正気じゃないのは今に始まったことじゃないか。

 死にたくない。でも死なない方を選ぶってのは、要するに人間じゃなくなるってことだよな。

 目頭が熱くなる。

 涙が溢れ出すのがわかった。


「ごめんよ、父さん、母さん……」


「なんじゃ? 聞こえぬぞ?」


 俺は最後の力で声を振り絞った。


「ど…………」


「ど……?」少女は片眉を上げた。


「ど……童貞を捨てたいです」


 しばらくの沈黙の後、少女はふふふと笑った。


「二つに一つか。面白い」


 少女は口を開くと、薔薇色の舌を艶めかしく唇に沿って這わせた。

 小さな牙がきらりと光った。


 首筋をかぷっと噛まれた。

 その時、今まで感じたこともない快感が全身を駆け巡った。味の素を脳みそにふりかけたみたいな。とにかくふぇぇぇって感じだ。

 噛まれたところから、何か得体の知れない熱いものが流れ込んでくる。


「うぐっ……なんだ、これ……」


 またたく間に全身が熱くなる。

 本当に燃えるようだ。

 実際に身体から煙のような湯気が立ち昇っている。

 

 そして、折れた背骨や肋骨がばきばきと音を立てているのが感覚としてわかった。砕けた後頭部も、なんだかもぞもぞとくすぐったい。

 まさか再生してるとかじゃないよな。


「そのまさかじゃ」


 少女は俺の首から顔を上げると、口をごしごしと拭った。


「これぐらいでいいじゃろ。どうだ? 思ったほど悪い気分ではなかろう?」


 とんでもない。最高にハイというか、変で妙な感じだ。正直、もっと噛まれていたいという不思議な欲望が絶え間なく湧き上がってくるのがわかる。

 無意識に彼女の唇へと手を伸ばしたくなったが、指先が僅かに動くのみだった。

 まだ身体の自由はきかないらしい。


「そこで休んでおるがええ」

 

 少女がそう言い放った瞬間、彼女の腕が高速で動いた。俺の顔の上を小さな手が刹那的に横切ったのを俺の目は捉えていた。

 

 まさか不可能だ。

 俺は目の前で今起きた出来事を疑った。

 二重の意味でだ。


 この少女は、俺に向かって高速で飛んでくる小さな物体を素手で掴んだのだ。

 音速レベル、そんな物はこの世にそうある物でもない。

 間違いない。それは弾丸だ。

 ほぼ同時に、パァンと銃声らしき音が響く。

 世界で起こる出来事がスローモーションになったかのようだった。


「うそ……だろ……?」


 確かに少女は弾丸を指先で摘むように空中で止めた。

 そしてその瞬間をしっかりと俺の目が捉えていたという信じ難い事実。


 少女は暗闇の奥を睨みつけていた。

 心なしかその髪は栗毛色から赤銅色に変わり、ふわふわと逆巻いている。

 ぴりぴりとした威圧感が彼女の全身から放たれている気さえした。


 二人のニセ警官が俺たちの足取りを掴んだのだった。遠くから凄まじい速度で近づいて来るのが見える。あまりの速さにバイクか何かに乗っているのかと思いきや、


「えっ、まじかよ。走ってる⁉」

 

 ようやく声が出るようになっていた。

 それ以前に、おかしいことが一つある。遠くにいる二人の姿が鮮明に見えていることだ。

 夜目が利くどころの話ではない。

 世界が真昼並の明るさに見えていた。


「安心せい。奴らは強化人間。地を這いつくばる人間であることに変わりはない。私やお前とは比較にならんということじゃ」

「そ、それより、銃! 撃たないはずじゃなかったのかよ⁉」

「そう。さっきまではな」

「さっき、まで……?」

「頭を使え、ばかもの。もしお前が血を流せば、私が助かる。つまり向こうが不利になるということじゃ」

「状況が一転したということか……」

「そう、わしらの勝ちじゃ」

 

 二人組の男は対向車線を走る車と並走して接近しながら、銃を連発した。

 少女はもう一度、目の前の蚊を払うように両手をさばいた。


 彼女の握り拳がもくもくと小さな煙を漏らしている。その手が開かれると、ひしゃげた銃弾が道路に落ちてカランカランと音を立てた。


 対向車の運転手は、この信じがたい光景に目を丸く見開きながら、後方へと通り過ぎて行った。


 二人の男は、既に俺たちの前に立ち止まっていた。

 組手でもするかのように構えの姿勢を取っている。

 弾切れなのか、既に銃は持っていなかった。


「憐れじゃのお」

「えっ?」

「奴らが恐怖を必死に抑え込んでいるのがわかるか」


 少女は俺を横目で見つめ、薄く笑った。

 女はそう言うが、男たちは無表情だった。


「恐怖……奴らが?」

「絶対に変えられぬ世の摂理がある」少女は両手を広げた。「奴らは野兎、我らは獅子じゃ。定命の者がどう足掻こうが、我らが屠る側であることに変わりはない。この絶対的な力関係は覆せぬということ」


 少女はふくらはぎと大腿部をぎりぎりとしならせた後、宙に跳躍した。

 満月にそのシルエットが浮かび上がる。


 男たちには為す術はなかった。

 彼らの頭上で、少女が腕を薙ぎ払う動作をした瞬間、二人組の上半身は消し飛んでいた。


「覚えておくがよい。月夜の下では血は黒く見えるということをな」


 そう言いながら少女はぺたぺたと足裏をアスファルトで踏み鳴らしながら、また俺の元へと戻ってきた。

 横たわる俺に手を差し伸べると、ぞっとするような美しい微笑を浮かべた。


「わしはトリエステ。ようこそ、Blood《血盟の》Brotherhood《兄弟》の世界へ」
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