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番外編
これでも試験勉強
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卒業してから半年も経ってないのに、三年間通ってた高校からはすっかり近寄りがたい雰囲気を感じた。
校門近くのガードレールに腰をかけて建物を眺めていると、チャイムが流れ、ぽつぽつと制服姿の生徒が出てきた。
見慣れない俺の姿にチラリと目を開いて見てくる者もいる。大抵は黙って通り過ぎるが、一人戸惑いがちに声をかけてくる者がいた。
「あー………進藤先輩、ですか?」
俺を知ってるらしい。
頷くと、改めて一礼してくる。
「剣道部二年で、牧野さんと同じクラスです。牧野さん待ちですか?」
頷くと「呼んできましょうか」と聞かれるが、首を振る。約束はしてるし急かすつもりはない。急がせて転んだら大変だ。
「―――――先輩っ」
帰る生徒の間を縫って結香が走ってきた。
「そんなに慌てると、転ぶぞ」
声をかけると、ぷうっと頬を膨らませる。怒ってるつもりなのだろう。ただ可愛いだけだが。
「転びませんっ。知佳ちゃんも先輩も、私が運動神経ないの笑うなんてひどいっ」
「実際足縺れてたからね、今」
結香の後ろから呆れた声が聞こえ、眼鏡の子が顔をのぞかせる。目礼で俺に挨拶するのに、俺は軽く頷いて応えた。
「縺れただけだもん、転んでないもんっ」
結香が振り返って抗議する。危うかったことは変わりないと思うのだが、結香にとってその違いは大きいらしい。
親友とじゃれあう結香は俺の前とは違う様子で可愛い。
親友にいなされた結香は軽く頬を膨らませながら、俺の前に立ったままでいた男子生徒に目をとめて、目をぱちくりと見開いた。
「あれ?えっと………」
「あんた………同じクラスなのにまだ名前覚えてなかったの」
ため息をついて首を振る親友を前に、結香は申し訳なさそうに項垂れる。
男子生徒は気にした様子もなく、平気平気と手を振った。
「牧野さんとあんま仲良くすると先輩たちにどやされるから、俺としては今くらいのカンジが助かるかなぁ」
「仲良くするのが困るなら、サクッと帰りなさいよ」
「君はもうちょっと歩み寄ってもいいんじゃないかな………クラスメイトだし」
シッシッと追い払う振りをする眼鏡の子を、男子生徒は恨めしそうに見る。
「知佳ちゃん、その仕草はよくないんじゃないかな。クラスメイトなんだし」
おずおずと言う結香を、親友はキッと見据えた。
「名前覚えてない子がナニ言うのっ。あんたはとっとと帰って進藤先輩と仲良く勉強しなさい」
言いながら結香を俺の方へ押し出す。
受け取りながら見ると、口を微かに動かしている。
―――早く行ってください。よろしく―――
よく解らないが、さっさと離れた方が良さそうだ。
じゃ、と片手を上げると結香の手を握り歩き出す。
「ふぇ?ち、知佳ちゃん!また明日ね!」
結香の慌てた声に振り返れば、手を振りながら俺たちを見送る眼鏡の子はどこか安堵の表情を浮かべていた。
駅近くの商店街を結香の手を引いて歩く。この商店街はいつも人が多い。後ろの結香を庇いながら急ぎ足で歩いていると、「進藤か?」と声がかかった。
数ヵ月前まで同級生だったヤツだ。確か今は俺とは別の大学に行ってるはずだ。
「久しぶりだな。元気か?」
あぁ、と頷きながら脇へ寄る。立ち止まったことで後ろの結香が胸に手をあてて息を整えている。
「あれ、後ろの子、俺らの後輩?彼女?」
俺の後ろにいる結香を目敏く見つけて、目を丸くした。
「よ。俺は相原。進藤の元同級生だよ」
「二年のま、牧野結香です。は、初めまして」
俺の前に出てなんとか挨拶した結香は、少し震えている。
相原は俺よりは背が低いし話しやすいヤツだと思うが、それでも怖いらしい。肩に手を置くとピクッと身体を震わせて見上げてくる。大丈夫だと笑ってみせると、強張っていた目が少し和らいだ。
「うはー…お前が実は彼女持ちで、それが高校の後輩で、めちゃ溺愛とか………いきなりなスキャンダルだわ」
相原が目を点にして俺を見ている。
「そうか?高校ではもう知られてることだが」
「いや。俺らは知らないから、十分みんな驚くぞ。今度同窓会の計画があるんだが、話題はお前中心になるなぁ」
「もう同窓会の計画か?」
数ヶ月前に卒業したばかりなのに早いんじゃないか?
相原はふふっと笑った。
「俺らみたいな地元組はともかく県外に行ったヤツに連絡すること考えたら、今くらいから準備しないとな」
「前期試験の対策もあるのに大変だな」
「前期試験………お前、相変わらず真面目だな。もう準備してるのか」
黙った俺の腕を相原が軽く叩いた。
早目に試験対策をしている俺を笑うつもりではないらしい。こいつはヒトの努力を馬鹿にするヤツではなかった。
「ま、そのうち連絡するからさ。彼女も連れてくるか?」
相原の視線を受けて、結香がピクッと固まる。
俺はゆっくり首を横に振った。
知らない、しかも年上の人間だらけの集まりに連れていけば疲れさせるだけだし、わざわざ晒し者にするつもりもない。
余計なのに気に入られても困るし。
「俺は賑やかな集まり苦手だしな」
相原は眉を寄せる。
「お前はちょっとでも顔出してくれないか?みんなお前と話したがってるし」
眉を寄せて首を傾げる。
クラスの和を乱したつもりはないが、積極的に交流した記憶もない。同級生が俺個人を覚えてるとは思えんのだが。
俺の印象なんて「そういえば、やたらデカいけど喋らない男子生徒がいたな」くらいだろう。
渋面の俺を見て「なぁ頼む」と相原は両手を合わせて拝んでくる。
こいつは同じ世話焼きでも光司と違って対応が丁寧だから、逆に断りにくいんだよな。
「……………俺一人で、数分でもいいなら」
ぼそりと言うと、相原はやったぁ!とガッツポーズをした。
「助かったぁ!サンキュー!詳しいこと決まったら連絡するから!」
じゃ、と手を挙げて相原と別れ、結香の手を引いて歩き出す。
商店街を抜けて少し歩いてから一軒の店の前で立ち止まる。
「ここですか?」
問う結香に頷くと、「ふわぁ」と声を上げて建物を見上げた。
両隣を大きな新しいビルに挟まれたその店は、壁一面を蔦が覆い、一見入り口前が植え込みやら何やらで塞がっているように見える。
カフェである。一応看板があったはずだが、植え込みで隠れていては意味がないと思う。
学校帰りに寄れる距離でゆっくり試験勉強ができる所、と考えて思い付いたのがここなのだがこの外観、やはり女の子は怖がるだろうか?
ちらり、と結香の様子を見る。
結香は―――きらきらと目を輝かせて店を仰視していた。
「―――――結香?」
声をかけると、一度瞬きをして俺を見上げてきた。
「先輩!すごいです!こんな素敵なお店ご存知なんですね!わ、私、入っていいんですか?」
入ってくれた方が店も俺も助かる。
物凄く興奮してる結香が可愛いので、とりあえず頭を撫でた。
緑を踏まないように店内に入るとカウンターから「いらっしゃい」と穏やかに声をかけられた。
「どうも。連れてきたんですが―――いいですか?」
「うん、いいよ。奥の席どうぞ」
背後に気配を感じないので振り返ると、結香は律儀にマスターにお辞儀をしていた。小走りに俺に近寄ってきたので、二人で奥の席に座る。
初めて来た興奮からか目を輝かせて店内を見渡している。
「お店の外と中で印象違うんですね。スケッチブック持って来ればよかった」
「今日は試験勉強だろ?」
目を覗きこむと、そうですけど、と少し頬を膨らませる。
「気に入ってもらえたなら良かった。夕弦くんとまたゆっくり来るといいよ」
氷水が並々と入った水差しとコップ二つを乗せたトレイを隣の席に置いて、マスターがにっこりと笑った。何か入り用の時は声かけて、と言いながらさっとカウンターに戻っていく。
「勉強の前に何か飲む?」
聞くと結香は大丈夫と首を横に振るが、少し困った様子を見せる。
「何か注文しないと、ですよね」
「後で注文すれば大丈夫だ。マスターに断ってあるから」
俺の言葉にホッとしたように結香が笑ったので、先に勉強しようと俺たちはテーブルの上に道具を広げた。
試験勉強といっても俺が受講している科目は暗記よりレポートやノート作りがメインだ。予め指示されたテーマについてノートにまとめ、試験中にそれを用紙に写す。
結香はそれを聞いて、「それ、本当に試験ですか?」と目を丸く見開いていた。
俺もそう思う。集団で堂々とカンニングしてるみたいでシュールだと思う。
ぼやいていても仕方ない。俺はノートを改めて要点を書き出していく。
ある程度終わったところで向かいの様子を見る。
結香は、うぅぅ、と唸りながらノートと教科書を睨み付けていた。
「―――大丈夫か?」
声をかけると、眉間に皺を刻んだ顔を上げた。ふぇぇぇと長いため息をつく。
可愛いが、大丈夫ではなさそうだ。
「世界史って、授業は好きなんですけどテストの点数とれないんですよねー………」
先輩はどう勉強してましたか?と聞かれ思い返す。
「まず範囲内の教科書と資料集暗記して、記述問題は赤本で練習してた、かな」
思い出しながら言って結香に視線を戻すと、目を真ん丸に見開いて口も微かに開いたまま俺を呆然と見上げている。
久しぶりに見る表情だな。
可愛いが、息はした方がいいぞ?
「どうした」
結香は目は真ん丸に見開いたまま口だけ動かして声を出す。
なかなか器用だな。
「きょ、きょうかしょとしりょうしゅうのあんき?するんですか?」
そんなに驚くことか?
「暗記といっても覚えるだけだからな。演習が必要な数学とかのが勉強時間必要だったな………結香?どうした?」
いつの間にか下を向いて肩を震わせている。
具合でも悪くなったか?
隣に移動して結香の顔を覗きこむ。微かに何か呟いた。
「どうした?具合悪いか?水飲むか?」
途端にガバッ!と顔を上げる。
驚いて思わず仰け反る。
「ずるいです!資料集まで暗記できるとか、先輩どれだけ凄いんですか!ずるい!」
「お、落ち着け」
片腕を伸ばして、涙目で詰め寄ってきた結香の背中を軽く叩く。
宥めるように軽く叩き、擦ってるうちに結香は落ち着いてきたのか少し身じろぎした。耳と首が少し紅い。
「………せ、先輩………ごめんなさい………取り乱しました………落ち着いたので、放してください………」
残念だが、また戸惑わせるのも駄目だ。ただ、放す前に少し強目に抱きしめたのは許してほしい。心残りだから。
まだほんのり紅い顔を上げた結香は、俺と目が合うと少し困ったように微笑んだ。
うん、可愛い。もう一回抱きしめたいくらい。
そんな気持ちを表に出さないように軽く息を吐いた。
「ごめんなさい、先輩。私の苦手な暗記をあっさりできちゃう先輩が羨ましくて………」
「羨ましいか。俺は、公式とか単語とか頭に入ってれば難レベルの問題さえあっさり解く結香が羨ましかったな」
結香は「先輩は慰め上手です………」と紅い顔で苦笑するが、本心だ。受験勉強中に結香と一緒に勉強できていたら、もっと効率よくできたはずだ。
今更思っても仕方ないことだが、もう少し早く会えてればと思うことがある。
こうして一緒に勉強するのも学校でできただろう。お互い勉強のコツを教え合うこともできるし、結香を守ることも他の男を牽制することも俺自身でできたのに。
学校の行事も、結香と一緒ならもっと楽しかっただろう。
できないことの埋め合わせに、俺は毎回必死で結香を連れ出している。
今は俺が誘ってばかりだ。そのうち結香からも言ってくれればいいのにと思う。
戸惑ったような声で呼ばれて、ふと結香を見ると頬がさらに紅くなっている。
いつの間にか髪を触っていたらしい。
怒ってはいないようだが、いきなり触られて驚いたかもしれない。
柔らかい表情を意識して目を見ると、嬉しそうに微笑み返された。
あまり見ているとまた撫でてしまいそうで、結香の教科書に目をやった。
「あぁ、ここら辺は今やってる映画の時代背景とカブるんじゃないか?」
結香は「ふぇ?」と目を丸くした。
歴史上の出来事を題材にした作品は多い。作品そのものを鵜呑みにはできないが、教科書をそのまま暗記するよりは印象に残る。
結香は基本さえおさえればどうとでもなる。苦痛に感じない覚え方をすればいいだけだ。
結香は絵を見るのも好きだという。それなら、範囲内の画家がどういう時代を生きて、何をきっかけに絵を描いたか、というアプローチでも良いかもしれない。
考えついたことを話しながら見ると、結香はキラキラと大きな目を輝かせて俺を見上げている。
うん、可愛すぎる。
「―――――なんだ。どうした?」
かろうじて普段通りの声を出す。
「凄いです!絵画から覚えるなんて、思いつきもしませんでした。やってみます、ありがとうございますっ」
「あ、あぁ」
物凄く可愛らしく元気に礼を言うと、猛然と教科書に向き直る。
俺はなんとなく隣に座ったままやる気に満ちあふれた結香を眺めていた。
三十分程俯いたままの結香は首が凝ったのか、首を回しながら目を開け、隣に座ったままの俺を見つけた。
あ、と声に出さなくても口を開けて恥ずかしそうに固まっているのも可愛い。
「一休み、するか?」
聞くと、はい、と照れたように笑って答える。
俺は向かいの席に戻って、広げたままだったノートを片付ける。結香も自分の分を片付けると、隣の席に置いてあったトレイから台拭きを取りテーブルを丁寧に拭いた。
「夕弦くん、休憩か?」
振り返るとマスターと目が合った。はいと頷くと、「解った。今支度してるからちょっと待ってて」と手を振られる。
不思議そうな表情で俺を見上げている結香に説明する。
「試食することを条件に、この席予約したんだ」
「予約なんてしなくても大丈夫だとは思うんだけどね」
ティーポットとカップを乗せたトレイを持ったマスターが苦笑する。
「ここの営業日不定期だし、入り口があれだからお客さんそんなに来ないし」
形や大きさの様々なサンドイッチを乗せた皿を置きながら、あっさり言う。
自分で言ったことを直してまで客を増やすつもりはないらしい。謎な人だ。
「あれだから?お花踏まないように歩くのは大変だけど、すごく面白そうなのに」
結香の言葉に俺だけでなくマスターも興味深く感じたのか、「面白そう?」と可笑しそうに聞いた。
「周りの建物と雰囲気が違って別世界みたいというか………魔女の家っぽくて、入るときワクワクしました」
魔女の家………入りたいのか………
「お店の中は明るくて意外に広く感じてすごく………あの、ベラベラと喋っちゃってごめんなさい………」
俺たちの視線に気がつくと途端に首を竦める。
俺は結香の頭を軽く撫でて、マスターはふふっと破顔した。
「うん、本当に気に入ってもらえてよかった。ここは開いてない日もあるからね。夕弦くんとまたおいで」
食べたら声かけてと言ってマスターはカウンターに戻っていった。
「………私、調子に乗って喋り過ぎましたかね?」
「大丈夫だろ」
実際マスターは気を悪くしてないだろう。むしろ、店を誉められて喜んでいると思う。
結香を制してカップに紅茶を注ぐ。
ありがとうございます、と受け取りながら結香の目は皿にくぎ付けだ。
「………ものすごい量ですね」
「試食だからな。あまりこっちで腹一杯になるなよ。このあとケーキの試食もあるから」
驚愕の顔のまま結香が固まっている。
「試食という話だけど、普通に食べればいいだけだぞ。無理はしなくていいんだぞ」
目を覗きこんで言うと、こくこくと頷く。
それぞれ好きなサンドイッチを取って食べる。
試食と聞いたからか、眉間に皺を刻んで食べている。
「そういえば、マスターとお知り合いなんですか?仲良さそうです」
いきなり聞かれて首を傾げる。
どこを見て仲良さそうと思ったんだ?
「マスターとは、道場で会った」
「道場………剣道のですか?」
頷いてサンドイッチをつまみながら話す。
師匠の道場は昼は小学生相手に、夜は大人相手に開いている。
大学に入って初めの手続き諸々が終わると、俺は夜時間をもて余すようになった。とはいっても不定期なことなのでバイトをいれることができず、師匠に道場に顔を出す許可を貰った。
夜に道場通いをしている者は、俺と同じで不定期の者が多いらしい。その中でもわりとよく会う者もいて、マスターはその一人だった。
「じゃあ、マスターも剣道やってるんですか」
「やってる、なんて言えないレベルだけどね。運動不足解消だから」
ケーキの皿を持ってきたマスターが謙遜する。
何度か手合わせをしたが、いつものらりくらりとかわされる。毎回「いやぁ勝てないなぁ」などと笑ってるが、決して本心ではない。かといってこちらを馬鹿にしているわけでもない。底が知れない、謎な人としか言えない。
俺を目で制しながらケーキの大皿を置く。
言うな、ということか。言いたくても俺に言えることなんてないんだけどな。
結香は俺たちの視線のやり取りに気付くことなく、色とりどりのケーキに目を輝かせている。
どれを食べるか聞くと、真剣に悩む。
「さっきのサンドイッチは俺がほとんど食べたから、ケーキは結香が全部食べていいぞ」
「全部なんて食べれません!でも、悩みます…いっぱい食べ過ぎると、このあと勉強できなそうだし………」
先に選んでくださいと言われ、適当にケーキを取り皿に取り、結香のも取って渡す。
美味しそうに頬張っているが、様子がいつもとは明らかに違う。
「結香、約束」
「え」
一瞬きょとんとしたが、俺が言いたいことは解ったのだろう。少し俯いてぽつりと洩らす。
「今日、ちょっと学年主任に呼ばれまして」
「うん」
「この間、進路希望を出したんですけど」
「うん」
「大学進学に変えろって言われました」
「その話は、今日初めてされた話か?」
結香は俯いたまま、首を横に振る。
嫌な話だ。思わず眉を寄せる。
受験は学生にとっても正念場だが、教師にとってもかなり重要らしい。偏差値の高い大学や有名な大学に数多く生徒を送り出すと、高校に箔がつくらしい。よって、教師は生徒の実力ギリギリか少し上の大学をゴリ押しする。
俺はあまりそういうのに煩わされずに済んだ。一応国立だからだろう。結香は、説得すれば進路変更すると思われているのだろう。
「進路希望にはなんて書いたんだ?」
一瞬俺をチラリと見上げてから、小さな声で答える。
「専門学校、です」
「専門学校か」
俺の声が否定的でないことに安心したのか、少し表情を柔らかくして話始める。
「先輩のお蔭で絵を描くのが楽しくなって、描く勉強したいなって。でも、画家とか学芸員になるとかじゃなくて、できればイラストレーターになりたいと思いまして。でも、担任の先生はあまりいい顔してなくて。学年主任の先生は大学受験の可能性を考えて理社の成績を上げろって」
自分のことをたくさん話して恥ずかしくなったのか、顔を紅くして少し俯いた。
俺のお蔭。結香がそう思ってくれて素直に嬉しい。
「大学受験は、現役で受けた方が色々楽だし、受かりやすいとも聞く」
俺の言葉に、結香が俯く。
「高校を卒業してからもし結香が大学に行きたくなったとき、来年受験するより苦労するかもしれないし、受験しても受からないかもしれない。今、大学受験しなくても後悔しないか?」
結香は真っ直ぐ俺の目を見る。
「はい。私は今、大学受験は考えてません」
「解った。じゃあ、三者面談で大学受験の意思はないとはっきり言えばいい」
「三者面談ですか?」
「ああ。面談前に家族と相談して結香の意思を伝えておけば、先生も強くは言えなくなる。だから無理して点とろうとするな。成績を上げるのはいいが、無理したって意味はない」
結香は俺の顔を見てにこっと笑った。
「そうしてみます。先輩、ありがとうございます。気が楽になりました」
「うん、この間まで受験生だったから、こういうやり取りは慣れてるんだ」
自分の皿にケーキを取るついでに、結香の皿の空いたところにケーキを追加する。
「先輩も何か言われたんですか?国立行ったのに」
結香が少し眉を寄せる。
「東京の大学をやたら薦められたが、家族のことを言ったらわりとすぐに諦めてもらえた」
たぶん、俺に言い聞かせるのが面倒になったのだと思う。
結局、そのあとはケーキを食べながら話をして遅くならないうちに帰ることにした。
マスターに場所を借りた礼を言っていると、結香が「あの………」と遠慮がちに袖を引いてきた。
「試食なのに、このまま帰っちゃってもいいんですか?」
試食だと言ってあったので、何か感想を言ったり書いたりすると思っていたらしい。
真面目さが可愛らしくてつい頭を撫でた。
「あぁ、うん、サンドイッチもケーキも完食してもらえたし、こちらとしては満足かな。あ、これ作りすぎたから持っていって」
マスターはケーキの箱を結香に差し出す。
さらに土産を貰うことに抵抗があるのか、困った表情でマスターと俺の顔を交互に見る。
「これの感想は、次ここに来たときに教えてね」
マスターに笑顔で言われ、俺に頷かれて、結香はにこっと微笑んで「ありがとうございます」と化粧箱を受け取った。
結香は男を苦手としているが、なんだかんだと構われる。
こんな謎の人にまで気に入られるとは、心配で仕方ない。
帰りはもちろん家まで送る。
思わぬ土産に結香はご機嫌だ。その笑顔に俺も頬が緩むが、同じように結香を見る男を睨み付けることも忘れない。
そうして無事帰った結香を出迎えたのは茜さんだ。
「ただいま。見て、お姉ちゃん。お土産にって貰っちゃった」
化粧箱を嬉しそうに掲げる妹を愛しそうに見つめながら、チラリとこちらに来た視線を捕らえる。
「良かったわね。じゃあ、早く冷蔵庫に入れましょうね」
蕩けるような笑顔で言いながら、結香を奥へ追いやる。
「え?前にもこんなことあったよ?」と戸惑った声をあげながらも、素直に台所に向かう結香。
その後ろ姿を横目で見送りつつ、茜さんは低く問う。
「何かあった?」
「進路のことで、学年主任に無理強いされてるようです。担任も今は学年主任寄りかと思います」
抑えた声で言うと、柳眉を寄せて舌打ちする。
「結香には、三者面談前に家族に相談するように言いました」
茜さんは表情を緩める。
「解ったわ。夕弦くん、ありがとうね」
艶やかに微笑む茜さんの後ろから、結香が小走りに玄関に戻ってきた。
「結香、試験終わったらまた出かけよう」
「は、はい。あの………」
結香はどこか恥ずかしそうに言い澱む。
「はいはい、お邪魔虫は消えますよ」と手を振りながら茜さんは奥へ戻る。
玄関には、俺たち二人だけ。
「あの、先輩は………映画、好きですか?」
「最近はレンタルが多いけど、まぁ好きだな」
結香は視線を彷徨わせていたが、おずおずと切り出した。
「あの、夏にやる映画で………歴史とか勉強に関係ないと思うんですけど、一緒に、行ってもらえます、か?」
聞いてるうちに、じわじわと頬が緩んでいくのが解る。嬉しすぎて、妙な顔になってなければいいが。
「うん、行こう」
なんとかそう言うと、一瞬真っ赤な顔で俺を見つめてから、にぱぁっと物凄く可愛い笑顔を見せた。
◆ その日の夜 ◆
―――プルルルッ………ピッ……
『はい、もしも』
「知佳ちゃぁぁぁぁんっ」
『………結香、落ち着いて。耳元で大声出さないで』
「う。ご、ごめん」
『いーわよ。どうかしたの?』
「せ、先輩に、一緒に映画行ってってお願いしちゃった!」
『それで?』
「うん、て言ってくれた………!」
『良かったじゃない』
「いいんだけど!行こうって言ってくれたときの先輩、物凄くカッコよかった!どうしよう、映画館ってカップルとか女の人とかいっぱいいるよね?先輩と一緒に行って大丈夫かな?」
『大丈夫でしょ。誘っといてナニ怖気付いてんのよ』
「だって、あんな笑顔振り撒いたら女の人みんな先輩に近付くよ………」
『進藤先輩、そんな笑顔の大安売りする人じゃないから大丈夫よ』
「そうだけど……………」
『進藤先輩の心配よりまずは期末試験でしょ』
「大丈夫!先輩のお蔭で今回の世界史はイケる気がする!」
『それは凄いわ。で、生物と化学は?』
「…………………………知佳ちゃぁぁぁん………」
『まぁ、いいんじゃない?無駄に成績上げて教師の言いなりに進路決めるのもシャクだし。赤点とらなきゃいいのよ』
「うぅぅ、平均点は取りたい………」
『じゃあ明日私と勉強会しましょ。結香の家でいい?お菓子持っていくから』
「あ。知佳ちゃん」
『なに?』
「お菓子、できれば和菓子とかスナック菓子がいいんだけど、ダメかな」
『いいけど、珍しいわね。和菓子はともかく、あんたがスナック菓子なんて』
「今日先輩とケーキいっぱい食べたから、できれば他のものがいいなと思って」
『………あんた、勉強会じゃなかったの』
「勉強もしたよ!世界史は任せて!」
『はいはい、明日帰り道で選びましょ。どうせあんたと生クリーム食べるつもりなかったから問題ないわよ』
「ふぇ?なんで私と生クリーム食べないの?」
『進藤先輩とのラブラブ勉強会にあてられて生クリームなんて食べられないわよ。胸焼けするわ』
「らぶっ………!してないよ!してない!」
『じゃあ今日は先輩に頭撫でられるとか二人見つめ合うとか、一切なかったって言える?』
「……………………………………………………えぇっと………」
『………明日は塩羊羮か七味煎餅にしましょう』
「辛いのは嫌~っ!」
『あんた用に甘いのも買うけど!私の心の平穏のために必要なのよ!』
校門近くのガードレールに腰をかけて建物を眺めていると、チャイムが流れ、ぽつぽつと制服姿の生徒が出てきた。
見慣れない俺の姿にチラリと目を開いて見てくる者もいる。大抵は黙って通り過ぎるが、一人戸惑いがちに声をかけてくる者がいた。
「あー………進藤先輩、ですか?」
俺を知ってるらしい。
頷くと、改めて一礼してくる。
「剣道部二年で、牧野さんと同じクラスです。牧野さん待ちですか?」
頷くと「呼んできましょうか」と聞かれるが、首を振る。約束はしてるし急かすつもりはない。急がせて転んだら大変だ。
「―――――先輩っ」
帰る生徒の間を縫って結香が走ってきた。
「そんなに慌てると、転ぶぞ」
声をかけると、ぷうっと頬を膨らませる。怒ってるつもりなのだろう。ただ可愛いだけだが。
「転びませんっ。知佳ちゃんも先輩も、私が運動神経ないの笑うなんてひどいっ」
「実際足縺れてたからね、今」
結香の後ろから呆れた声が聞こえ、眼鏡の子が顔をのぞかせる。目礼で俺に挨拶するのに、俺は軽く頷いて応えた。
「縺れただけだもん、転んでないもんっ」
結香が振り返って抗議する。危うかったことは変わりないと思うのだが、結香にとってその違いは大きいらしい。
親友とじゃれあう結香は俺の前とは違う様子で可愛い。
親友にいなされた結香は軽く頬を膨らませながら、俺の前に立ったままでいた男子生徒に目をとめて、目をぱちくりと見開いた。
「あれ?えっと………」
「あんた………同じクラスなのにまだ名前覚えてなかったの」
ため息をついて首を振る親友を前に、結香は申し訳なさそうに項垂れる。
男子生徒は気にした様子もなく、平気平気と手を振った。
「牧野さんとあんま仲良くすると先輩たちにどやされるから、俺としては今くらいのカンジが助かるかなぁ」
「仲良くするのが困るなら、サクッと帰りなさいよ」
「君はもうちょっと歩み寄ってもいいんじゃないかな………クラスメイトだし」
シッシッと追い払う振りをする眼鏡の子を、男子生徒は恨めしそうに見る。
「知佳ちゃん、その仕草はよくないんじゃないかな。クラスメイトなんだし」
おずおずと言う結香を、親友はキッと見据えた。
「名前覚えてない子がナニ言うのっ。あんたはとっとと帰って進藤先輩と仲良く勉強しなさい」
言いながら結香を俺の方へ押し出す。
受け取りながら見ると、口を微かに動かしている。
―――早く行ってください。よろしく―――
よく解らないが、さっさと離れた方が良さそうだ。
じゃ、と片手を上げると結香の手を握り歩き出す。
「ふぇ?ち、知佳ちゃん!また明日ね!」
結香の慌てた声に振り返れば、手を振りながら俺たちを見送る眼鏡の子はどこか安堵の表情を浮かべていた。
駅近くの商店街を結香の手を引いて歩く。この商店街はいつも人が多い。後ろの結香を庇いながら急ぎ足で歩いていると、「進藤か?」と声がかかった。
数ヵ月前まで同級生だったヤツだ。確か今は俺とは別の大学に行ってるはずだ。
「久しぶりだな。元気か?」
あぁ、と頷きながら脇へ寄る。立ち止まったことで後ろの結香が胸に手をあてて息を整えている。
「あれ、後ろの子、俺らの後輩?彼女?」
俺の後ろにいる結香を目敏く見つけて、目を丸くした。
「よ。俺は相原。進藤の元同級生だよ」
「二年のま、牧野結香です。は、初めまして」
俺の前に出てなんとか挨拶した結香は、少し震えている。
相原は俺よりは背が低いし話しやすいヤツだと思うが、それでも怖いらしい。肩に手を置くとピクッと身体を震わせて見上げてくる。大丈夫だと笑ってみせると、強張っていた目が少し和らいだ。
「うはー…お前が実は彼女持ちで、それが高校の後輩で、めちゃ溺愛とか………いきなりなスキャンダルだわ」
相原が目を点にして俺を見ている。
「そうか?高校ではもう知られてることだが」
「いや。俺らは知らないから、十分みんな驚くぞ。今度同窓会の計画があるんだが、話題はお前中心になるなぁ」
「もう同窓会の計画か?」
数ヶ月前に卒業したばかりなのに早いんじゃないか?
相原はふふっと笑った。
「俺らみたいな地元組はともかく県外に行ったヤツに連絡すること考えたら、今くらいから準備しないとな」
「前期試験の対策もあるのに大変だな」
「前期試験………お前、相変わらず真面目だな。もう準備してるのか」
黙った俺の腕を相原が軽く叩いた。
早目に試験対策をしている俺を笑うつもりではないらしい。こいつはヒトの努力を馬鹿にするヤツではなかった。
「ま、そのうち連絡するからさ。彼女も連れてくるか?」
相原の視線を受けて、結香がピクッと固まる。
俺はゆっくり首を横に振った。
知らない、しかも年上の人間だらけの集まりに連れていけば疲れさせるだけだし、わざわざ晒し者にするつもりもない。
余計なのに気に入られても困るし。
「俺は賑やかな集まり苦手だしな」
相原は眉を寄せる。
「お前はちょっとでも顔出してくれないか?みんなお前と話したがってるし」
眉を寄せて首を傾げる。
クラスの和を乱したつもりはないが、積極的に交流した記憶もない。同級生が俺個人を覚えてるとは思えんのだが。
俺の印象なんて「そういえば、やたらデカいけど喋らない男子生徒がいたな」くらいだろう。
渋面の俺を見て「なぁ頼む」と相原は両手を合わせて拝んでくる。
こいつは同じ世話焼きでも光司と違って対応が丁寧だから、逆に断りにくいんだよな。
「……………俺一人で、数分でもいいなら」
ぼそりと言うと、相原はやったぁ!とガッツポーズをした。
「助かったぁ!サンキュー!詳しいこと決まったら連絡するから!」
じゃ、と手を挙げて相原と別れ、結香の手を引いて歩き出す。
商店街を抜けて少し歩いてから一軒の店の前で立ち止まる。
「ここですか?」
問う結香に頷くと、「ふわぁ」と声を上げて建物を見上げた。
両隣を大きな新しいビルに挟まれたその店は、壁一面を蔦が覆い、一見入り口前が植え込みやら何やらで塞がっているように見える。
カフェである。一応看板があったはずだが、植え込みで隠れていては意味がないと思う。
学校帰りに寄れる距離でゆっくり試験勉強ができる所、と考えて思い付いたのがここなのだがこの外観、やはり女の子は怖がるだろうか?
ちらり、と結香の様子を見る。
結香は―――きらきらと目を輝かせて店を仰視していた。
「―――――結香?」
声をかけると、一度瞬きをして俺を見上げてきた。
「先輩!すごいです!こんな素敵なお店ご存知なんですね!わ、私、入っていいんですか?」
入ってくれた方が店も俺も助かる。
物凄く興奮してる結香が可愛いので、とりあえず頭を撫でた。
緑を踏まないように店内に入るとカウンターから「いらっしゃい」と穏やかに声をかけられた。
「どうも。連れてきたんですが―――いいですか?」
「うん、いいよ。奥の席どうぞ」
背後に気配を感じないので振り返ると、結香は律儀にマスターにお辞儀をしていた。小走りに俺に近寄ってきたので、二人で奥の席に座る。
初めて来た興奮からか目を輝かせて店内を見渡している。
「お店の外と中で印象違うんですね。スケッチブック持って来ればよかった」
「今日は試験勉強だろ?」
目を覗きこむと、そうですけど、と少し頬を膨らませる。
「気に入ってもらえたなら良かった。夕弦くんとまたゆっくり来るといいよ」
氷水が並々と入った水差しとコップ二つを乗せたトレイを隣の席に置いて、マスターがにっこりと笑った。何か入り用の時は声かけて、と言いながらさっとカウンターに戻っていく。
「勉強の前に何か飲む?」
聞くと結香は大丈夫と首を横に振るが、少し困った様子を見せる。
「何か注文しないと、ですよね」
「後で注文すれば大丈夫だ。マスターに断ってあるから」
俺の言葉にホッとしたように結香が笑ったので、先に勉強しようと俺たちはテーブルの上に道具を広げた。
試験勉強といっても俺が受講している科目は暗記よりレポートやノート作りがメインだ。予め指示されたテーマについてノートにまとめ、試験中にそれを用紙に写す。
結香はそれを聞いて、「それ、本当に試験ですか?」と目を丸く見開いていた。
俺もそう思う。集団で堂々とカンニングしてるみたいでシュールだと思う。
ぼやいていても仕方ない。俺はノートを改めて要点を書き出していく。
ある程度終わったところで向かいの様子を見る。
結香は、うぅぅ、と唸りながらノートと教科書を睨み付けていた。
「―――大丈夫か?」
声をかけると、眉間に皺を刻んだ顔を上げた。ふぇぇぇと長いため息をつく。
可愛いが、大丈夫ではなさそうだ。
「世界史って、授業は好きなんですけどテストの点数とれないんですよねー………」
先輩はどう勉強してましたか?と聞かれ思い返す。
「まず範囲内の教科書と資料集暗記して、記述問題は赤本で練習してた、かな」
思い出しながら言って結香に視線を戻すと、目を真ん丸に見開いて口も微かに開いたまま俺を呆然と見上げている。
久しぶりに見る表情だな。
可愛いが、息はした方がいいぞ?
「どうした」
結香は目は真ん丸に見開いたまま口だけ動かして声を出す。
なかなか器用だな。
「きょ、きょうかしょとしりょうしゅうのあんき?するんですか?」
そんなに驚くことか?
「暗記といっても覚えるだけだからな。演習が必要な数学とかのが勉強時間必要だったな………結香?どうした?」
いつの間にか下を向いて肩を震わせている。
具合でも悪くなったか?
隣に移動して結香の顔を覗きこむ。微かに何か呟いた。
「どうした?具合悪いか?水飲むか?」
途端にガバッ!と顔を上げる。
驚いて思わず仰け反る。
「ずるいです!資料集まで暗記できるとか、先輩どれだけ凄いんですか!ずるい!」
「お、落ち着け」
片腕を伸ばして、涙目で詰め寄ってきた結香の背中を軽く叩く。
宥めるように軽く叩き、擦ってるうちに結香は落ち着いてきたのか少し身じろぎした。耳と首が少し紅い。
「………せ、先輩………ごめんなさい………取り乱しました………落ち着いたので、放してください………」
残念だが、また戸惑わせるのも駄目だ。ただ、放す前に少し強目に抱きしめたのは許してほしい。心残りだから。
まだほんのり紅い顔を上げた結香は、俺と目が合うと少し困ったように微笑んだ。
うん、可愛い。もう一回抱きしめたいくらい。
そんな気持ちを表に出さないように軽く息を吐いた。
「ごめんなさい、先輩。私の苦手な暗記をあっさりできちゃう先輩が羨ましくて………」
「羨ましいか。俺は、公式とか単語とか頭に入ってれば難レベルの問題さえあっさり解く結香が羨ましかったな」
結香は「先輩は慰め上手です………」と紅い顔で苦笑するが、本心だ。受験勉強中に結香と一緒に勉強できていたら、もっと効率よくできたはずだ。
今更思っても仕方ないことだが、もう少し早く会えてればと思うことがある。
こうして一緒に勉強するのも学校でできただろう。お互い勉強のコツを教え合うこともできるし、結香を守ることも他の男を牽制することも俺自身でできたのに。
学校の行事も、結香と一緒ならもっと楽しかっただろう。
できないことの埋め合わせに、俺は毎回必死で結香を連れ出している。
今は俺が誘ってばかりだ。そのうち結香からも言ってくれればいいのにと思う。
戸惑ったような声で呼ばれて、ふと結香を見ると頬がさらに紅くなっている。
いつの間にか髪を触っていたらしい。
怒ってはいないようだが、いきなり触られて驚いたかもしれない。
柔らかい表情を意識して目を見ると、嬉しそうに微笑み返された。
あまり見ているとまた撫でてしまいそうで、結香の教科書に目をやった。
「あぁ、ここら辺は今やってる映画の時代背景とカブるんじゃないか?」
結香は「ふぇ?」と目を丸くした。
歴史上の出来事を題材にした作品は多い。作品そのものを鵜呑みにはできないが、教科書をそのまま暗記するよりは印象に残る。
結香は基本さえおさえればどうとでもなる。苦痛に感じない覚え方をすればいいだけだ。
結香は絵を見るのも好きだという。それなら、範囲内の画家がどういう時代を生きて、何をきっかけに絵を描いたか、というアプローチでも良いかもしれない。
考えついたことを話しながら見ると、結香はキラキラと大きな目を輝かせて俺を見上げている。
うん、可愛すぎる。
「―――――なんだ。どうした?」
かろうじて普段通りの声を出す。
「凄いです!絵画から覚えるなんて、思いつきもしませんでした。やってみます、ありがとうございますっ」
「あ、あぁ」
物凄く可愛らしく元気に礼を言うと、猛然と教科書に向き直る。
俺はなんとなく隣に座ったままやる気に満ちあふれた結香を眺めていた。
三十分程俯いたままの結香は首が凝ったのか、首を回しながら目を開け、隣に座ったままの俺を見つけた。
あ、と声に出さなくても口を開けて恥ずかしそうに固まっているのも可愛い。
「一休み、するか?」
聞くと、はい、と照れたように笑って答える。
俺は向かいの席に戻って、広げたままだったノートを片付ける。結香も自分の分を片付けると、隣の席に置いてあったトレイから台拭きを取りテーブルを丁寧に拭いた。
「夕弦くん、休憩か?」
振り返るとマスターと目が合った。はいと頷くと、「解った。今支度してるからちょっと待ってて」と手を振られる。
不思議そうな表情で俺を見上げている結香に説明する。
「試食することを条件に、この席予約したんだ」
「予約なんてしなくても大丈夫だとは思うんだけどね」
ティーポットとカップを乗せたトレイを持ったマスターが苦笑する。
「ここの営業日不定期だし、入り口があれだからお客さんそんなに来ないし」
形や大きさの様々なサンドイッチを乗せた皿を置きながら、あっさり言う。
自分で言ったことを直してまで客を増やすつもりはないらしい。謎な人だ。
「あれだから?お花踏まないように歩くのは大変だけど、すごく面白そうなのに」
結香の言葉に俺だけでなくマスターも興味深く感じたのか、「面白そう?」と可笑しそうに聞いた。
「周りの建物と雰囲気が違って別世界みたいというか………魔女の家っぽくて、入るときワクワクしました」
魔女の家………入りたいのか………
「お店の中は明るくて意外に広く感じてすごく………あの、ベラベラと喋っちゃってごめんなさい………」
俺たちの視線に気がつくと途端に首を竦める。
俺は結香の頭を軽く撫でて、マスターはふふっと破顔した。
「うん、本当に気に入ってもらえてよかった。ここは開いてない日もあるからね。夕弦くんとまたおいで」
食べたら声かけてと言ってマスターはカウンターに戻っていった。
「………私、調子に乗って喋り過ぎましたかね?」
「大丈夫だろ」
実際マスターは気を悪くしてないだろう。むしろ、店を誉められて喜んでいると思う。
結香を制してカップに紅茶を注ぐ。
ありがとうございます、と受け取りながら結香の目は皿にくぎ付けだ。
「………ものすごい量ですね」
「試食だからな。あまりこっちで腹一杯になるなよ。このあとケーキの試食もあるから」
驚愕の顔のまま結香が固まっている。
「試食という話だけど、普通に食べればいいだけだぞ。無理はしなくていいんだぞ」
目を覗きこんで言うと、こくこくと頷く。
それぞれ好きなサンドイッチを取って食べる。
試食と聞いたからか、眉間に皺を刻んで食べている。
「そういえば、マスターとお知り合いなんですか?仲良さそうです」
いきなり聞かれて首を傾げる。
どこを見て仲良さそうと思ったんだ?
「マスターとは、道場で会った」
「道場………剣道のですか?」
頷いてサンドイッチをつまみながら話す。
師匠の道場は昼は小学生相手に、夜は大人相手に開いている。
大学に入って初めの手続き諸々が終わると、俺は夜時間をもて余すようになった。とはいっても不定期なことなのでバイトをいれることができず、師匠に道場に顔を出す許可を貰った。
夜に道場通いをしている者は、俺と同じで不定期の者が多いらしい。その中でもわりとよく会う者もいて、マスターはその一人だった。
「じゃあ、マスターも剣道やってるんですか」
「やってる、なんて言えないレベルだけどね。運動不足解消だから」
ケーキの皿を持ってきたマスターが謙遜する。
何度か手合わせをしたが、いつものらりくらりとかわされる。毎回「いやぁ勝てないなぁ」などと笑ってるが、決して本心ではない。かといってこちらを馬鹿にしているわけでもない。底が知れない、謎な人としか言えない。
俺を目で制しながらケーキの大皿を置く。
言うな、ということか。言いたくても俺に言えることなんてないんだけどな。
結香は俺たちの視線のやり取りに気付くことなく、色とりどりのケーキに目を輝かせている。
どれを食べるか聞くと、真剣に悩む。
「さっきのサンドイッチは俺がほとんど食べたから、ケーキは結香が全部食べていいぞ」
「全部なんて食べれません!でも、悩みます…いっぱい食べ過ぎると、このあと勉強できなそうだし………」
先に選んでくださいと言われ、適当にケーキを取り皿に取り、結香のも取って渡す。
美味しそうに頬張っているが、様子がいつもとは明らかに違う。
「結香、約束」
「え」
一瞬きょとんとしたが、俺が言いたいことは解ったのだろう。少し俯いてぽつりと洩らす。
「今日、ちょっと学年主任に呼ばれまして」
「うん」
「この間、進路希望を出したんですけど」
「うん」
「大学進学に変えろって言われました」
「その話は、今日初めてされた話か?」
結香は俯いたまま、首を横に振る。
嫌な話だ。思わず眉を寄せる。
受験は学生にとっても正念場だが、教師にとってもかなり重要らしい。偏差値の高い大学や有名な大学に数多く生徒を送り出すと、高校に箔がつくらしい。よって、教師は生徒の実力ギリギリか少し上の大学をゴリ押しする。
俺はあまりそういうのに煩わされずに済んだ。一応国立だからだろう。結香は、説得すれば進路変更すると思われているのだろう。
「進路希望にはなんて書いたんだ?」
一瞬俺をチラリと見上げてから、小さな声で答える。
「専門学校、です」
「専門学校か」
俺の声が否定的でないことに安心したのか、少し表情を柔らかくして話始める。
「先輩のお蔭で絵を描くのが楽しくなって、描く勉強したいなって。でも、画家とか学芸員になるとかじゃなくて、できればイラストレーターになりたいと思いまして。でも、担任の先生はあまりいい顔してなくて。学年主任の先生は大学受験の可能性を考えて理社の成績を上げろって」
自分のことをたくさん話して恥ずかしくなったのか、顔を紅くして少し俯いた。
俺のお蔭。結香がそう思ってくれて素直に嬉しい。
「大学受験は、現役で受けた方が色々楽だし、受かりやすいとも聞く」
俺の言葉に、結香が俯く。
「高校を卒業してからもし結香が大学に行きたくなったとき、来年受験するより苦労するかもしれないし、受験しても受からないかもしれない。今、大学受験しなくても後悔しないか?」
結香は真っ直ぐ俺の目を見る。
「はい。私は今、大学受験は考えてません」
「解った。じゃあ、三者面談で大学受験の意思はないとはっきり言えばいい」
「三者面談ですか?」
「ああ。面談前に家族と相談して結香の意思を伝えておけば、先生も強くは言えなくなる。だから無理して点とろうとするな。成績を上げるのはいいが、無理したって意味はない」
結香は俺の顔を見てにこっと笑った。
「そうしてみます。先輩、ありがとうございます。気が楽になりました」
「うん、この間まで受験生だったから、こういうやり取りは慣れてるんだ」
自分の皿にケーキを取るついでに、結香の皿の空いたところにケーキを追加する。
「先輩も何か言われたんですか?国立行ったのに」
結香が少し眉を寄せる。
「東京の大学をやたら薦められたが、家族のことを言ったらわりとすぐに諦めてもらえた」
たぶん、俺に言い聞かせるのが面倒になったのだと思う。
結局、そのあとはケーキを食べながら話をして遅くならないうちに帰ることにした。
マスターに場所を借りた礼を言っていると、結香が「あの………」と遠慮がちに袖を引いてきた。
「試食なのに、このまま帰っちゃってもいいんですか?」
試食だと言ってあったので、何か感想を言ったり書いたりすると思っていたらしい。
真面目さが可愛らしくてつい頭を撫でた。
「あぁ、うん、サンドイッチもケーキも完食してもらえたし、こちらとしては満足かな。あ、これ作りすぎたから持っていって」
マスターはケーキの箱を結香に差し出す。
さらに土産を貰うことに抵抗があるのか、困った表情でマスターと俺の顔を交互に見る。
「これの感想は、次ここに来たときに教えてね」
マスターに笑顔で言われ、俺に頷かれて、結香はにこっと微笑んで「ありがとうございます」と化粧箱を受け取った。
結香は男を苦手としているが、なんだかんだと構われる。
こんな謎の人にまで気に入られるとは、心配で仕方ない。
帰りはもちろん家まで送る。
思わぬ土産に結香はご機嫌だ。その笑顔に俺も頬が緩むが、同じように結香を見る男を睨み付けることも忘れない。
そうして無事帰った結香を出迎えたのは茜さんだ。
「ただいま。見て、お姉ちゃん。お土産にって貰っちゃった」
化粧箱を嬉しそうに掲げる妹を愛しそうに見つめながら、チラリとこちらに来た視線を捕らえる。
「良かったわね。じゃあ、早く冷蔵庫に入れましょうね」
蕩けるような笑顔で言いながら、結香を奥へ追いやる。
「え?前にもこんなことあったよ?」と戸惑った声をあげながらも、素直に台所に向かう結香。
その後ろ姿を横目で見送りつつ、茜さんは低く問う。
「何かあった?」
「進路のことで、学年主任に無理強いされてるようです。担任も今は学年主任寄りかと思います」
抑えた声で言うと、柳眉を寄せて舌打ちする。
「結香には、三者面談前に家族に相談するように言いました」
茜さんは表情を緩める。
「解ったわ。夕弦くん、ありがとうね」
艶やかに微笑む茜さんの後ろから、結香が小走りに玄関に戻ってきた。
「結香、試験終わったらまた出かけよう」
「は、はい。あの………」
結香はどこか恥ずかしそうに言い澱む。
「はいはい、お邪魔虫は消えますよ」と手を振りながら茜さんは奥へ戻る。
玄関には、俺たち二人だけ。
「あの、先輩は………映画、好きですか?」
「最近はレンタルが多いけど、まぁ好きだな」
結香は視線を彷徨わせていたが、おずおずと切り出した。
「あの、夏にやる映画で………歴史とか勉強に関係ないと思うんですけど、一緒に、行ってもらえます、か?」
聞いてるうちに、じわじわと頬が緩んでいくのが解る。嬉しすぎて、妙な顔になってなければいいが。
「うん、行こう」
なんとかそう言うと、一瞬真っ赤な顔で俺を見つめてから、にぱぁっと物凄く可愛い笑顔を見せた。
◆ その日の夜 ◆
―――プルルルッ………ピッ……
『はい、もしも』
「知佳ちゃぁぁぁぁんっ」
『………結香、落ち着いて。耳元で大声出さないで』
「う。ご、ごめん」
『いーわよ。どうかしたの?』
「せ、先輩に、一緒に映画行ってってお願いしちゃった!」
『それで?』
「うん、て言ってくれた………!」
『良かったじゃない』
「いいんだけど!行こうって言ってくれたときの先輩、物凄くカッコよかった!どうしよう、映画館ってカップルとか女の人とかいっぱいいるよね?先輩と一緒に行って大丈夫かな?」
『大丈夫でしょ。誘っといてナニ怖気付いてんのよ』
「だって、あんな笑顔振り撒いたら女の人みんな先輩に近付くよ………」
『進藤先輩、そんな笑顔の大安売りする人じゃないから大丈夫よ』
「そうだけど……………」
『進藤先輩の心配よりまずは期末試験でしょ』
「大丈夫!先輩のお蔭で今回の世界史はイケる気がする!」
『それは凄いわ。で、生物と化学は?』
「…………………………知佳ちゃぁぁぁん………」
『まぁ、いいんじゃない?無駄に成績上げて教師の言いなりに進路決めるのもシャクだし。赤点とらなきゃいいのよ』
「うぅぅ、平均点は取りたい………」
『じゃあ明日私と勉強会しましょ。結香の家でいい?お菓子持っていくから』
「あ。知佳ちゃん」
『なに?』
「お菓子、できれば和菓子とかスナック菓子がいいんだけど、ダメかな」
『いいけど、珍しいわね。和菓子はともかく、あんたがスナック菓子なんて』
「今日先輩とケーキいっぱい食べたから、できれば他のものがいいなと思って」
『………あんた、勉強会じゃなかったの』
「勉強もしたよ!世界史は任せて!」
『はいはい、明日帰り道で選びましょ。どうせあんたと生クリーム食べるつもりなかったから問題ないわよ』
「ふぇ?なんで私と生クリーム食べないの?」
『進藤先輩とのラブラブ勉強会にあてられて生クリームなんて食べられないわよ。胸焼けするわ』
「らぶっ………!してないよ!してない!」
『じゃあ今日は先輩に頭撫でられるとか二人見つめ合うとか、一切なかったって言える?』
「……………………………………………………えぇっと………」
『………明日は塩羊羮か七味煎餅にしましょう』
「辛いのは嫌~っ!」
『あんた用に甘いのも買うけど!私の心の平穏のために必要なのよ!』
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