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番外編
ある日の親父
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◆夕弦小学二年生の夏休みのとある一日◆
ある朝、夏休みでもいつもと同じ時間に起床した夕弦は台所の入口で少し首を傾げて話しかけた。
「父さん、おはよう。そこでナニしてるの?」
久しぶりに会った父親は、なぜか朝から台所で仁王立ちしていた。
父さんって、たまにしか会わないからだけど、会うと必ず『大人になったら必要になる男としての心構え』を言ってくるからな。
今回は、今なのかな。
………台所関係あるのかな。
正直夕弦は困惑しているが、見た目にはただジーッと父親を見上げているだけのように見える。
すでに夕弦は感情が表情に出ない子供だった。
父親は夕弦の困惑に気付かず、無造作に息子を見下ろす。
「おはよう。そのな、朝メシ作ろうと思ったんだが」
「…………………………作れるの?」
失礼な言い方になってしまったのは仕方ない。父親が台所に立つところを見たことがなかったのだから。
父親は無言で首を振った。
「おれ朝御飯の支度するから、母さんの様子見てきて。起きてたら、ミルクどうするか聞いてきて」
「わ、解った」
息子の口調に一瞬たじろいだ父親はそそくさと台所から出た。
妻は二ヶ月前に生まれた双子と一緒に和室で寝起きしている。
赤ん坊たちを起こさないよう慎重に襖を開けていると、「あなた、ね」と中から妻の笑い声が聞こえてきた。
「起きていたのか」
えぇ、と答える声は明るいが疲れを感じるものだった。
二回目の出産とはいえ、一度に二人も生んで育てているのだ。元々華奢な女性だけに、疲れもなかなかとれなかろう。
夕弦が赤ん坊の時も、初めての育児ということで大分くたびれていたが。
「あー………夕弦が、ミルクをどうするか、と言っていたんだが」
そうねぇとしばらく間が空いてから、落ち着いた声で答えた。
「萌のお代りだけお願いって言っておいて」
「解った」
襖を閉めようとすると、あとね、と呼び止められる。
「うつ伏せであげるから大丈夫って伝えてね」
「???解った」
うつ伏せ?と首を傾げるが、なんとか返事をして今度こそ襖を閉め台所へと戻った。
その光景に父親は目を見張って固まった。
流しやコンロの前に置かれた台を登り降りしながら、息子は漬け物や野菜を切りフライパンに卵を溶いて流し入れている。
その手つきはやたらしっかりしていて、動きも滑らかだ。
しばらく見ない間に、なんかすごいことになってるな。
同僚にも同じ年頃の子供がいるが話を聞く限り、なにか違うと思う。
明らかにお手伝いのレベルじゃないというか。
入口を塞いでいる父親に気が付いて、夕弦は首を傾げてじっと見つめる。
我にかえって慌てて口を開く。
「あー………萌のお代りだけお願い、と言っていた」
そう、と頷き調理台を軽く片付けてからふと父親を振り返る。
「授乳のこと、何か言ってない?」
息子って今何歳だ?
このくらいの子が授乳なんて言葉使うか?
戸惑いで硬直する父親にさらに首を傾げて夕弦はゆっくりと言う。
「抱えるからクッションあててとか、片方支えといてとか。あぁ、今朝はうつ伏せなの?」
最後の一言に、そのことだったのかと納得しつつ頷いた。
「ああ。うつ伏せであげるから大丈夫だと言っていた」
解った、と返すと夕弦は今度は哺乳瓶とミルク缶を取り出し、慎重に計りながら手早くミルクを作る。
ウチの息子、ミルクまで作ってるよ………
見事にミルクを作った夕弦はミルクを持っていくというので、父親は料理をテーブルに運ぶことにする。
卵焼き、サラダ、漬け物を作るところは見ていたが、さらに鮭を焼き味噌汁を作ったという。
くらりと目眩を堪え、セッティングはやるから行けと言うが、夕弦の手元を見て引き留める。
「なに?」
「ミルクはそれで足りるのか?ずいぶん少ないと思うんだが」
夕弦はミルクを確認し、こんなもんだよ、と事も無げに言った。
「これはお代りだし。母乳で足りてるはずなんだけど、ミルク飲まないと萌は落ち着かないんだよ」
「ソウナノカ」
思わず片言になる父親に向かって、朝御飯なんだけど、と夕弦は首を傾げる。
「おかず足りる?昨日の残りチンする?」
お前は奥さんか。
そんなツッコみを飲み込んだところで「んにゃぁぁぁぁっ」と声が聞こえ、思わず身を竦める。
「なっなんだ今の!?ウチはいつの間にか猫もいたのかっ」
狼狽える父親を夕弦は訝しげに見つめる。
「あれは、萌の泣き声だよ。お代りだね」
萌は食いしん坊になるねと夕弦はあっさり言って、戸惑う父親にお盆を渡し、さっさと和室へ向かった。
息子が用意した品々をテーブルに並べたところで、夕弦が母親を連れて戻ってきた。
三人揃っていただきますと手を合わせ、箸をとる。
「夕弦、朝御飯作ってくれてありがとうね」
「いいよ。夏休みだし。あ、コレ取るついでに糠床掻き回しちゃったよ」
「そう。中身まだあるかしら」
「味噌汁に使った残りの大根入れちゃった」
「そうなの。じゃあ母さんもあとで見てみるわね」
妻は息子の主夫振りに慣れているらしい。毎日接しているから今さらなのかもしれないが。
「夕弦は今日どうするの?」
「お昼食べたら道場行く。帰りに何か買ってくる物ある?」
「買い物は、俺が行く」
慌てて宣言すると、四つの目が驚いたように凝視する。
先に表情を緩めた妻は、じゃあお願いします、とにっこり笑った。
食べ終えると、夕弦は母親を和室へ追いやり食器を片付け始める。
手伝おうと手を出しかけたが「父さんも休みだから休めばいいじゃん」と言われてしまった。
デキた息子だ。お前も夏休みだというのに。
洗い物を終えた息子はまた台所に入りナニやらゴソゴソとやっている。と思ったら、とててっと駆けていって洗濯籠いっぱいの洗濯物を抱えてヨロヨロと戻ってきた。
近付いて代わりに持つと、一瞬目を丸くしてからありがとうと言う。
「お前な、声かけろよ」
危ないだろうと言うと、夕弦は首を竦めた。
「でも、いつものことだし」
いつもやってるのか。まぁあの手際だから納得だが。
「それに、そのうちおれも大きくなるから大丈夫だよ」
そんなに長いことやるつもりか。
まぁ反対する理由も立場もないが。
二人で洗濯物を干す。かなり大量にあったが、二人で干したのでそれほど時間はかからなかった。
居間に戻ると夕弦は二人分のお茶を淹れてから、筆記具と薄い冊子を持ってきた。
夏休みの宿題か。
眺めていると、夕弦が丸つけとサインをしてくれと言う。
「自分でやっちゃダメなんだ」
言われるままに回答と照らし合わせて丸をつけると、夕弦は満足気に道具を片付けてお茶を飲んだ。
「お前、料理や洗濯は前からやってたのか?」
夕弦はふるふると首を振った。
「母さんが、つ……気持ち悪くなってご飯作れない時に光司のお父さんに教えてもらったよ」
気持ち悪い………悪阻か。そんなに悪かったのか?
仕事中は出れないこともあるが、いざというときは連絡するように妻にも息子にも言ってある。息子は携帯を持っていないが、電話はかけられるはずだ。
父親の表情に息子は首を竦めた。
「父さんに電話しようとしたら、母さんに止められたんだ。『病気じゃないから、お仕事の邪魔しちゃ駄目よ』って」
母さんは心配かけたくなかっただけだよ。怒らないで。
そんな目で見上げる息子の頭をわしわし撫でた。
こういう目は咲にそっくりなんだよな。
二人でぼんやりとテレビを見ていると、微かに「「んあぁぁぁ」」と聞こえる。さすがに父親も双子の泣き声だと解った。
夕弦は電気ケトルのスイッチを入れると、和室へ向かう。父親も夕弦の後からついていき、入り口から室内を覗いた。
妻の布団は規則正しく上下している。まだ寝ているようだ。
夕弦は隣の蒲団に近付くと、膝をつきながら小さな声で話しかけながら手を動かしている。
「うん。綺麗になったよ、陽。萌、すぐやるから待っててね」
夕弦は一度和室を出ると、足早にどこかへ行きすぐに和室へ戻る。また話しながら手を動かしていると、蒲団がムクリと動いた。
「ん………ゆづる………?もしかして、二人起きちゃった?」
「うん。オムツ、陽は一回換えたよ。萌ももうすぐ終わる。授乳、どう?」
半分寝ているような顔で胸を触り、しばらくしてから「うーん」と首を傾げる。
「あんまり張ってる感じしないなぁ………萌の分、ちょっと多目にしてもらっていい?」
解った、と頷くと夕弦は和室を出る。
「んなぁぁ、んなぁぁ」と小さな声が聞こえる。
思わず近付くと、妻が見上げて苦笑した。
「ごめんなさい。お休みなのに」
首を振って膝をつく。泣いているのは、陽らしい。
「今、夕弦に萌のミルクを作ってもらっているの。萌がミルクを飲んでる間に、陽に授乳するから」
二人同時に授乳するのに慣れなくて、と情けなさそうに眉を下げた。
「夕弦にたくさん手伝ってもらってるの。あの子もまだ遊びたい盛りなのに、駄目ね」
基本仕事で家にいない身としては何と言っていいか、言葉に詰まったところで、夕弦がミルクを片手に入ってきた。
母親から萌を受け取ろうとする夕弦を掴まえて、自分がミルクをやると言うと、声に出さなかったものの大いに驚かせたらしい。それでも、萌を父親の片腕に抱かせて空いた手にミルクを手渡した。
「んなぁぁぁぁっ!」
萌が顔を真っ赤にして泣き声をあげる。うまくミルクが飲めないのだ。
固まったまま目を彷徨わせる父親からミルクを取り上げ、夕弦は迷いなく萌の口に突っ込む。
「はい、支えて」
「おぉ」
落ち着いた父娘を確認すると、夕弦は和室を出ていった。
なぁ、と声をかけるとはい?と妻が顔を上げた。
「夕弦もこんなだったんだよなぁ」
そうね、と妻が疲れた顔で微笑んだ。
妻がまた眠っているうちに二人で先に昼食にする。いつの間にか夕弦はサンドイッチを作っていた。行儀は悪いが、縁側で食べることにした。
「お前、せっかくの夏休みなのに毎日家事と双子の世話で嫌にならないか?」
聞くと、夕弦はきょとんと目を見開いてこてんと首を傾げる。
「宿題もやってるよ」
「そうじゃなくてだな」
「去年より、日記書くこと増えて楽になったよ」
今日は洗濯物が多くて大変だったことを書くのだという。小学校低学年男子の日記として、その内容はどうなのだろう。時代的にOKなのか?
「夏休みだからどこか遠くへ行きたいとかさ」
「父さんは仕事だし双子いるんだから無理だよ」
「それは、まぁ、そうだけどな」
至極真っ当な意見なのだが、ずいぶん達観してしまってる息子が心配だ。
「父さんは家にいないけどさ、ここの他に別のカテイ持ってて母さんが泣くってパターンじゃないからいいと思う」
「ちょっと待て。何だその妙な話は」
光司の家で聞いたよ、と夕弦が言う。
息子がよく遊んでいる光司という子の母親は弁護士をしているらしい。春休みに遊びに行ったときに話を漏れ聞いたらしい。
「その人は、おくさんが妊娠中によそに女をつくって?おくさんが出産したときくらいに女をはら………なんとかして。で、こどもの運動会がかぶってはん………はんめい?したんだって。父さんは毎日帰ってこないけど、母さん泣いてないからいいかなって」
「………うん。そーだな」
辿々しく生々しい話をする息子に、父親はがっくり肩を落とした。
夕方、買い物袋を下げてぶらぶら歩いていると、後ろから夕弦が駆けてきた。走ったせいで、頬が赤く上気している。
「おぅ、おかえり」
「ただいまー。父さん、買い物?」
おぅ、と買い物袋を持ち上げて見せる。
「今日の夜は、俺が作る」
「……………大丈夫なの?」
心配そうに言う。朝のことがあるからだろう。
「大丈夫だ。焼き肉だからな」
やったぁ!と嬉しそうに飛び跳ねながら先を行く息子を、笑みを浮かべて追いかけた。
意識が浮上する。
ぼんやりとしていると、目の前の金色っぽいもわもわしたものが動いた。
軽く頭を振ってよく見る。
「―――あぁ、君は」
こんにちは、お邪魔してます。と頭を下げた。
「えぇと、夕弦はどうしたのかな」
庭です、と言われ見ると、すっかり大きくなった夕弦が庭の片隅で棒を持って立っている。
「陽くんのお手伝いだそうです」
お茶飲みますか?と聞かれ頼むと、すぐに湯呑みが差し出される。熱い茶が寝惚けた頭に染み渡る。
「せっかく結香ちゃんが来てくれてるのに、畑仕事とはあいつは………」
呆れた調子で言うと、結香は首を横に振る。
「私こそ、お休みの日にお邪魔しちゃってごめんなさい」
次のデートの予定を話し合おうとしたのだが、喫茶店が混んでいてここへ来たと言う。
ローテーブルの上には雑誌と湯呑みが二つ並べて置いてあった。
「俺は別に居眠りしてただけだから、恐縮することなんかないよ。それで、予定は決まったかい?」
はい、と顔を紅くしながら微笑む姿に、自然に顔が緩む。
あの小さくて柔らかくて抱っこするのも怖かった夕弦が、家事や育児の手伝いをするようになって、知らないうちに大学を決め、こんな可愛らしい恋人と寄り添ってどこへ行こう、どの映画を見ようなんて話すようになった。
時間が経つのはあっという間だ。
仕事に振り回されているうちに、長男が結婚してた。孫が出来てた。なんてことになってやしないかな。
「俺は仕事ばかりで家にいても寝てばかりだから、三人子供がいても赤ん坊を抱いたことは数回なんだ」
結香はこてんと首を傾げつつ聞き入っている。
「俺は萌や陽を抱っこするのにも一苦労しているとき、夕弦はオムツを替えるのもミルクを作るのも上手でね」
茶を一口がぶりと飲む。
「あいつは、いい父親になるんだろうなぁ」
ぼんやりと言って想像する。
夕弦はきっと定期検診にも付き合うんだろう。もしかしたら、男性の産科医にも嫉妬するのかもしれない。
出産にも立ち会おうとするだろう。生まれるまでの間、あいつでもヤキモキするのだろうか。生まれた子を一目見たとき、あいつは泣くのだろうか。自分はどうだったかな。
日頃想像することと真逆で、どこか夢見心地の想像に浸っていると、夕弦の慌てふためいた声が傍で聞こえた。
見ると、首の付け根まで真っ赤に染まった結香を夕弦が抱え声をかけている。
一体どうした―――言いかけて、自分が直前に何を言ったかを思い出す。
「あ。すまん。つい」
詰め寄られはしなかったが、久しぶりに見る夕弦の怒り顔はそこそこ迫力があった。
その日の夕食後、萌に尋問と説教を喰らったが、今日想像したことは現実になってほしいなぁと年甲斐もなく夢見てしまうのも、仕方ないと思う。
ある朝、夏休みでもいつもと同じ時間に起床した夕弦は台所の入口で少し首を傾げて話しかけた。
「父さん、おはよう。そこでナニしてるの?」
久しぶりに会った父親は、なぜか朝から台所で仁王立ちしていた。
父さんって、たまにしか会わないからだけど、会うと必ず『大人になったら必要になる男としての心構え』を言ってくるからな。
今回は、今なのかな。
………台所関係あるのかな。
正直夕弦は困惑しているが、見た目にはただジーッと父親を見上げているだけのように見える。
すでに夕弦は感情が表情に出ない子供だった。
父親は夕弦の困惑に気付かず、無造作に息子を見下ろす。
「おはよう。そのな、朝メシ作ろうと思ったんだが」
「…………………………作れるの?」
失礼な言い方になってしまったのは仕方ない。父親が台所に立つところを見たことがなかったのだから。
父親は無言で首を振った。
「おれ朝御飯の支度するから、母さんの様子見てきて。起きてたら、ミルクどうするか聞いてきて」
「わ、解った」
息子の口調に一瞬たじろいだ父親はそそくさと台所から出た。
妻は二ヶ月前に生まれた双子と一緒に和室で寝起きしている。
赤ん坊たちを起こさないよう慎重に襖を開けていると、「あなた、ね」と中から妻の笑い声が聞こえてきた。
「起きていたのか」
えぇ、と答える声は明るいが疲れを感じるものだった。
二回目の出産とはいえ、一度に二人も生んで育てているのだ。元々華奢な女性だけに、疲れもなかなかとれなかろう。
夕弦が赤ん坊の時も、初めての育児ということで大分くたびれていたが。
「あー………夕弦が、ミルクをどうするか、と言っていたんだが」
そうねぇとしばらく間が空いてから、落ち着いた声で答えた。
「萌のお代りだけお願いって言っておいて」
「解った」
襖を閉めようとすると、あとね、と呼び止められる。
「うつ伏せであげるから大丈夫って伝えてね」
「???解った」
うつ伏せ?と首を傾げるが、なんとか返事をして今度こそ襖を閉め台所へと戻った。
その光景に父親は目を見張って固まった。
流しやコンロの前に置かれた台を登り降りしながら、息子は漬け物や野菜を切りフライパンに卵を溶いて流し入れている。
その手つきはやたらしっかりしていて、動きも滑らかだ。
しばらく見ない間に、なんかすごいことになってるな。
同僚にも同じ年頃の子供がいるが話を聞く限り、なにか違うと思う。
明らかにお手伝いのレベルじゃないというか。
入口を塞いでいる父親に気が付いて、夕弦は首を傾げてじっと見つめる。
我にかえって慌てて口を開く。
「あー………萌のお代りだけお願い、と言っていた」
そう、と頷き調理台を軽く片付けてからふと父親を振り返る。
「授乳のこと、何か言ってない?」
息子って今何歳だ?
このくらいの子が授乳なんて言葉使うか?
戸惑いで硬直する父親にさらに首を傾げて夕弦はゆっくりと言う。
「抱えるからクッションあててとか、片方支えといてとか。あぁ、今朝はうつ伏せなの?」
最後の一言に、そのことだったのかと納得しつつ頷いた。
「ああ。うつ伏せであげるから大丈夫だと言っていた」
解った、と返すと夕弦は今度は哺乳瓶とミルク缶を取り出し、慎重に計りながら手早くミルクを作る。
ウチの息子、ミルクまで作ってるよ………
見事にミルクを作った夕弦はミルクを持っていくというので、父親は料理をテーブルに運ぶことにする。
卵焼き、サラダ、漬け物を作るところは見ていたが、さらに鮭を焼き味噌汁を作ったという。
くらりと目眩を堪え、セッティングはやるから行けと言うが、夕弦の手元を見て引き留める。
「なに?」
「ミルクはそれで足りるのか?ずいぶん少ないと思うんだが」
夕弦はミルクを確認し、こんなもんだよ、と事も無げに言った。
「これはお代りだし。母乳で足りてるはずなんだけど、ミルク飲まないと萌は落ち着かないんだよ」
「ソウナノカ」
思わず片言になる父親に向かって、朝御飯なんだけど、と夕弦は首を傾げる。
「おかず足りる?昨日の残りチンする?」
お前は奥さんか。
そんなツッコみを飲み込んだところで「んにゃぁぁぁぁっ」と声が聞こえ、思わず身を竦める。
「なっなんだ今の!?ウチはいつの間にか猫もいたのかっ」
狼狽える父親を夕弦は訝しげに見つめる。
「あれは、萌の泣き声だよ。お代りだね」
萌は食いしん坊になるねと夕弦はあっさり言って、戸惑う父親にお盆を渡し、さっさと和室へ向かった。
息子が用意した品々をテーブルに並べたところで、夕弦が母親を連れて戻ってきた。
三人揃っていただきますと手を合わせ、箸をとる。
「夕弦、朝御飯作ってくれてありがとうね」
「いいよ。夏休みだし。あ、コレ取るついでに糠床掻き回しちゃったよ」
「そう。中身まだあるかしら」
「味噌汁に使った残りの大根入れちゃった」
「そうなの。じゃあ母さんもあとで見てみるわね」
妻は息子の主夫振りに慣れているらしい。毎日接しているから今さらなのかもしれないが。
「夕弦は今日どうするの?」
「お昼食べたら道場行く。帰りに何か買ってくる物ある?」
「買い物は、俺が行く」
慌てて宣言すると、四つの目が驚いたように凝視する。
先に表情を緩めた妻は、じゃあお願いします、とにっこり笑った。
食べ終えると、夕弦は母親を和室へ追いやり食器を片付け始める。
手伝おうと手を出しかけたが「父さんも休みだから休めばいいじゃん」と言われてしまった。
デキた息子だ。お前も夏休みだというのに。
洗い物を終えた息子はまた台所に入りナニやらゴソゴソとやっている。と思ったら、とててっと駆けていって洗濯籠いっぱいの洗濯物を抱えてヨロヨロと戻ってきた。
近付いて代わりに持つと、一瞬目を丸くしてからありがとうと言う。
「お前な、声かけろよ」
危ないだろうと言うと、夕弦は首を竦めた。
「でも、いつものことだし」
いつもやってるのか。まぁあの手際だから納得だが。
「それに、そのうちおれも大きくなるから大丈夫だよ」
そんなに長いことやるつもりか。
まぁ反対する理由も立場もないが。
二人で洗濯物を干す。かなり大量にあったが、二人で干したのでそれほど時間はかからなかった。
居間に戻ると夕弦は二人分のお茶を淹れてから、筆記具と薄い冊子を持ってきた。
夏休みの宿題か。
眺めていると、夕弦が丸つけとサインをしてくれと言う。
「自分でやっちゃダメなんだ」
言われるままに回答と照らし合わせて丸をつけると、夕弦は満足気に道具を片付けてお茶を飲んだ。
「お前、料理や洗濯は前からやってたのか?」
夕弦はふるふると首を振った。
「母さんが、つ……気持ち悪くなってご飯作れない時に光司のお父さんに教えてもらったよ」
気持ち悪い………悪阻か。そんなに悪かったのか?
仕事中は出れないこともあるが、いざというときは連絡するように妻にも息子にも言ってある。息子は携帯を持っていないが、電話はかけられるはずだ。
父親の表情に息子は首を竦めた。
「父さんに電話しようとしたら、母さんに止められたんだ。『病気じゃないから、お仕事の邪魔しちゃ駄目よ』って」
母さんは心配かけたくなかっただけだよ。怒らないで。
そんな目で見上げる息子の頭をわしわし撫でた。
こういう目は咲にそっくりなんだよな。
二人でぼんやりとテレビを見ていると、微かに「「んあぁぁぁ」」と聞こえる。さすがに父親も双子の泣き声だと解った。
夕弦は電気ケトルのスイッチを入れると、和室へ向かう。父親も夕弦の後からついていき、入り口から室内を覗いた。
妻の布団は規則正しく上下している。まだ寝ているようだ。
夕弦は隣の蒲団に近付くと、膝をつきながら小さな声で話しかけながら手を動かしている。
「うん。綺麗になったよ、陽。萌、すぐやるから待っててね」
夕弦は一度和室を出ると、足早にどこかへ行きすぐに和室へ戻る。また話しながら手を動かしていると、蒲団がムクリと動いた。
「ん………ゆづる………?もしかして、二人起きちゃった?」
「うん。オムツ、陽は一回換えたよ。萌ももうすぐ終わる。授乳、どう?」
半分寝ているような顔で胸を触り、しばらくしてから「うーん」と首を傾げる。
「あんまり張ってる感じしないなぁ………萌の分、ちょっと多目にしてもらっていい?」
解った、と頷くと夕弦は和室を出る。
「んなぁぁ、んなぁぁ」と小さな声が聞こえる。
思わず近付くと、妻が見上げて苦笑した。
「ごめんなさい。お休みなのに」
首を振って膝をつく。泣いているのは、陽らしい。
「今、夕弦に萌のミルクを作ってもらっているの。萌がミルクを飲んでる間に、陽に授乳するから」
二人同時に授乳するのに慣れなくて、と情けなさそうに眉を下げた。
「夕弦にたくさん手伝ってもらってるの。あの子もまだ遊びたい盛りなのに、駄目ね」
基本仕事で家にいない身としては何と言っていいか、言葉に詰まったところで、夕弦がミルクを片手に入ってきた。
母親から萌を受け取ろうとする夕弦を掴まえて、自分がミルクをやると言うと、声に出さなかったものの大いに驚かせたらしい。それでも、萌を父親の片腕に抱かせて空いた手にミルクを手渡した。
「んなぁぁぁぁっ!」
萌が顔を真っ赤にして泣き声をあげる。うまくミルクが飲めないのだ。
固まったまま目を彷徨わせる父親からミルクを取り上げ、夕弦は迷いなく萌の口に突っ込む。
「はい、支えて」
「おぉ」
落ち着いた父娘を確認すると、夕弦は和室を出ていった。
なぁ、と声をかけるとはい?と妻が顔を上げた。
「夕弦もこんなだったんだよなぁ」
そうね、と妻が疲れた顔で微笑んだ。
妻がまた眠っているうちに二人で先に昼食にする。いつの間にか夕弦はサンドイッチを作っていた。行儀は悪いが、縁側で食べることにした。
「お前、せっかくの夏休みなのに毎日家事と双子の世話で嫌にならないか?」
聞くと、夕弦はきょとんと目を見開いてこてんと首を傾げる。
「宿題もやってるよ」
「そうじゃなくてだな」
「去年より、日記書くこと増えて楽になったよ」
今日は洗濯物が多くて大変だったことを書くのだという。小学校低学年男子の日記として、その内容はどうなのだろう。時代的にOKなのか?
「夏休みだからどこか遠くへ行きたいとかさ」
「父さんは仕事だし双子いるんだから無理だよ」
「それは、まぁ、そうだけどな」
至極真っ当な意見なのだが、ずいぶん達観してしまってる息子が心配だ。
「父さんは家にいないけどさ、ここの他に別のカテイ持ってて母さんが泣くってパターンじゃないからいいと思う」
「ちょっと待て。何だその妙な話は」
光司の家で聞いたよ、と夕弦が言う。
息子がよく遊んでいる光司という子の母親は弁護士をしているらしい。春休みに遊びに行ったときに話を漏れ聞いたらしい。
「その人は、おくさんが妊娠中によそに女をつくって?おくさんが出産したときくらいに女をはら………なんとかして。で、こどもの運動会がかぶってはん………はんめい?したんだって。父さんは毎日帰ってこないけど、母さん泣いてないからいいかなって」
「………うん。そーだな」
辿々しく生々しい話をする息子に、父親はがっくり肩を落とした。
夕方、買い物袋を下げてぶらぶら歩いていると、後ろから夕弦が駆けてきた。走ったせいで、頬が赤く上気している。
「おぅ、おかえり」
「ただいまー。父さん、買い物?」
おぅ、と買い物袋を持ち上げて見せる。
「今日の夜は、俺が作る」
「……………大丈夫なの?」
心配そうに言う。朝のことがあるからだろう。
「大丈夫だ。焼き肉だからな」
やったぁ!と嬉しそうに飛び跳ねながら先を行く息子を、笑みを浮かべて追いかけた。
意識が浮上する。
ぼんやりとしていると、目の前の金色っぽいもわもわしたものが動いた。
軽く頭を振ってよく見る。
「―――あぁ、君は」
こんにちは、お邪魔してます。と頭を下げた。
「えぇと、夕弦はどうしたのかな」
庭です、と言われ見ると、すっかり大きくなった夕弦が庭の片隅で棒を持って立っている。
「陽くんのお手伝いだそうです」
お茶飲みますか?と聞かれ頼むと、すぐに湯呑みが差し出される。熱い茶が寝惚けた頭に染み渡る。
「せっかく結香ちゃんが来てくれてるのに、畑仕事とはあいつは………」
呆れた調子で言うと、結香は首を横に振る。
「私こそ、お休みの日にお邪魔しちゃってごめんなさい」
次のデートの予定を話し合おうとしたのだが、喫茶店が混んでいてここへ来たと言う。
ローテーブルの上には雑誌と湯呑みが二つ並べて置いてあった。
「俺は別に居眠りしてただけだから、恐縮することなんかないよ。それで、予定は決まったかい?」
はい、と顔を紅くしながら微笑む姿に、自然に顔が緩む。
あの小さくて柔らかくて抱っこするのも怖かった夕弦が、家事や育児の手伝いをするようになって、知らないうちに大学を決め、こんな可愛らしい恋人と寄り添ってどこへ行こう、どの映画を見ようなんて話すようになった。
時間が経つのはあっという間だ。
仕事に振り回されているうちに、長男が結婚してた。孫が出来てた。なんてことになってやしないかな。
「俺は仕事ばかりで家にいても寝てばかりだから、三人子供がいても赤ん坊を抱いたことは数回なんだ」
結香はこてんと首を傾げつつ聞き入っている。
「俺は萌や陽を抱っこするのにも一苦労しているとき、夕弦はオムツを替えるのもミルクを作るのも上手でね」
茶を一口がぶりと飲む。
「あいつは、いい父親になるんだろうなぁ」
ぼんやりと言って想像する。
夕弦はきっと定期検診にも付き合うんだろう。もしかしたら、男性の産科医にも嫉妬するのかもしれない。
出産にも立ち会おうとするだろう。生まれるまでの間、あいつでもヤキモキするのだろうか。生まれた子を一目見たとき、あいつは泣くのだろうか。自分はどうだったかな。
日頃想像することと真逆で、どこか夢見心地の想像に浸っていると、夕弦の慌てふためいた声が傍で聞こえた。
見ると、首の付け根まで真っ赤に染まった結香を夕弦が抱え声をかけている。
一体どうした―――言いかけて、自分が直前に何を言ったかを思い出す。
「あ。すまん。つい」
詰め寄られはしなかったが、久しぶりに見る夕弦の怒り顔はそこそこ迫力があった。
その日の夕食後、萌に尋問と説教を喰らったが、今日想像したことは現実になってほしいなぁと年甲斐もなく夢見てしまうのも、仕方ないと思う。
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