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番外編

とある冬の日

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  あの、と声をかけると先輩は手を止めて顔を上げた。
「あの、私、風邪治りましたよ?」
  そうだなと頷いた先輩はまたうつむいて作業を続ける。
「あ。あの、看病してくれて、ありがとうございました」
「俺の役目だ。気にするな」
  沈黙が気になったのとお礼を言葉では言ってなかったのとで口にしても、先輩は手元に視線を落としたまま即答する。
  さりさりさりと皮を剥く音が続くのに耐えられなくて何回目かの「あの」を出すと「結香」と顔を上げた先輩が小首を傾げた。
「もしや、編み目を間違えたのか?」
  見ようかと差し出された手を、思いきり首を横に振って断ったのでした。


  先週、風邪をひきました。
  ここ最近にしては珍しく、学校を休むほどの熱や咳に苦しむ風邪でした。
  大学帰りで疲れているはずなのに丁寧に看病してくれた先輩のお蔭で、一日学校を休んだだけで次の日には登校もできたのだけど。
  風邪をひいた原因が、先輩にマフラーを編もうとしてちょっと夜更かししたことだと知った先輩は、日曜日のとでお出かけを中止にしてしまったのです。
  そりゃ、元々私はインドア派だし、先輩がこうして傍にいるから寂しくはない。
  けど、やっぱりお出かけした方が良いんじゃないかなと思う理由もあるわけで。


  間違えないように一目、一目と編んでいると「わぁ、すっごぉぉい」となんだか興奮したお母さんの声が間近で聞こえた。
「前から思ってたけど、夕弦くん、包丁上手よね~」
  手を止めずにそうですかと返す先輩に「うん、すっごく上手!」とお母さんが近づいた。
  ずいとお母さんが近づいても先輩の手は滑らかに動いているけど、先輩の邪魔をしないでほしい。
「ねぇねぇ、夕弦くん。包丁はやっぱりお母さんのお手伝いで上手になったの?」
「まぁ、そうですね」
  頷いた先輩は、なんだかすごく目を輝かせたお母さんが座りこんでいるから「きっかけは双子が腹に居た時ですね」と話し始めた。

  お母さんの悪阻はとてもひどいものだったらしい。
  朝起きるのも大変そう。ご飯を作る前に、冷蔵庫から食材を取り出すのも一苦労で、あの料理上手なお母さんがぜんぜんご飯を作れないことが何日も続いたらしい。
  ご近所はお母さんが子どもの頃から仲良くしていたお家ばかりだったから、先輩がご飯に困ることはなかったし、お母さんの様子を窺いにも来てくれたらしい。
  ただ、当のお母さんが自分のことを情けないと責めるようになってしまった。
  妊娠は二回目なのに、こんなに寝てばかりで先輩のお母さんとしてちゃんとできていない。先輩のご飯や自分の心配まで近所の人にさせてしまっている。
  情けない、情けないとお母さんが本当に泣くから、近所の人も様子を見に来るのがしづらくなってしまった。

  先輩にお弁当やお惣菜を渡しながら、何かあったら本当にチャイムを鳴らしなさい。
  咲ちゃんに何かあったら大変だ。何時でも構わないんだからちゃんと知らせるんだぞ。

  その頃はまだお父さんとお祖父さんの仲がまだ悪い頃で、ご近所の人がそう言ってくれたことが本当に心強かったと先輩は言った。
  ただ、頂いた物でご飯を食べる先輩に、自分がちゃんとご飯を作らなくてごめんねと何度も謝って泣くお母さんが痛ましくて、先輩は自分で作ろうと決心したそうだ。
  お母さんが妊娠するまでにお手伝いはしてたけど、小さな身体で実際にお母さんのようなご飯を作るのは難しい。
  習おうにも近所の人に頼んだらまたお母さんが気にするんじゃと悩んだ先輩は、夏目先輩のお父さんに習うことにした。遊びに行くついでに教えてもらおうとしたらしい。
  よそのお家に迷惑をかけたと、結局気にしたお母さんに説いたのは夏目先輩のお母さんだったそうだ。
  説教なのか羨ましがられているのか解らない言葉だったそうだけど、それでもお母さんは受け入れたそうで、先輩が家事をするようになったことで産後もずいぶん助かった、と何かにつけてお母さんは言っているそうだ。
  お母さんの体調が良くなるにつれて先輩が料理をする機会も少しずつ少なくなったけど、二人がお兄ちゃんのご飯を食べたいときは料理していたそうだ。

「調理実習後は家でも作っていたので、手が感覚を覚えているだけです」
  先輩がそう締めると「それでもすごいわよ」とお母さんが先輩に詰め寄った。
「お母さんが大変だからって、毎日続けて作り続けるなんて、簡単にできることじゃないわよ、うん。お母さんを大事にしてたのねぇ」
「あたしも家事をやっていたはずなんだけどね?結香を妊娠している間」
  真後ろに立っていたお姉ちゃんが半目で言った。お母さんが「あら?おかえり、茜」とひきつった笑みを浮かべると、ニーッコリと綺麗なんだけど少し攻撃的な笑みを浮かべた。
「それで?さっきからどうしてお母さんが夕弦くんに纏わりついているのかしら?」
  笑顔だけどお姉ちゃんが怒ってると解ったお母さんは、それはね、を繰り返しながら、それでも言い訳をした。
「ま、纏わりついてなんかないわよ?お母さんはただ、結香が忙しい間夕弦くんの相手をしようと」
「そーぉ?それ、結香が頼んだの?」
  聞かれるように見つめられたのでふるふると首を横に振る。
  はぁぁぁとお姉ちゃんが大きなため息をつくと、お母さんはビクリと震えて顔をひきつらせた。
「ちょっと、あちらでお話しましょうか?お母さん?」
「あ、あの、でもね」
「し、ま、しょ、う、ね?」
  腰に両手を当てたお姉ちゃんが笑顔を深めると、お母さんは「………………………はぃ」と観念したみたいだった。
「はいはい、じゃあ、お邪魔しーーー夕弦くんはそもそも何をしているの?」
「干し柿を作ろうと」
  お母さんを立たせようとしたお姉ちゃんが首を傾げた。
「そんな大量の柿、どこから………もしかして、ウチの庭の柿の木?」
  先輩が頷くとお姉ちゃんは呆れたように片手を頬に当てた。
「あれ、渋柿でしょ。わざわざもぐことなかったのに」
  仏間に面した庭には、柿の木が植えられている。お姉ちゃんが生まれた記念の木らしい。
  大きな木で毎年色が綺麗で大きな実をたくさんつけるんだけど、残念なことに全部渋柿。
「あたしが似たのか、柿があたしをなぞったのかは解らないけど、オブジェ代わりになって良いんじゃない?」
  なんて木の主のお姉ちゃん本人が言うものだから、毎年実がついてもそのままにしていたのです。
  それを、今日先輩が干し柿にすると全部もいだのでした。
「干し柿は結香の好物ですから。許可取るべきでしたか」
「別に良いけど」
  一応お姉ちゃんの柿の木ということになっているから勝手に実をもいではいけないかと先輩は気にしていたけど、やっぱりお姉ちゃんはぜんぜん気にしてなかった。
「夕弦くん、干し柿なんて作れるんだ?」
「作った経験はありませんが、聞いたので」
  ちゃぶ台の端に財布と一緒に置いたスマホを指差した先輩に、「便利ね」と片眉を上げるとお姉ちゃんはお母さんの背中を押して部屋から出ていった。


  赤い顔で美紅ちゃんが駆けてきた。
  どうしたのと聞くと、あのねあのねっと膝で跳び跳ねる。頬っぺたが赤いのは台所が寒いせいだと思ってたけど、興奮してるせいでもあるのかも。
「ゆじゅうおにぃちゃん、おっきなおなべにおゆをちゅくってね、かきをぜんぶいれたのよ」
「茹でてるの?」
  干し柿なんて作ったことないけど、まさか柿を茹でるなんて思わなかった。
  聞いてみると美紅ちゃんはもどかしそうに首を横に振った。
「ちがぅの。ゆでるじゃなくて、くぐ……くぐ……?」
  知らない言葉らしくて美紅ちゃんは「くぐ」を何回か繰り返しながらうんうん唸った。
  美紅ちゃんはかなりお喋りが上手だけど、こんな風に知らない言葉に困ってるところは本当に小さな子どもらしい様子でかなり可愛い。
  ただ、私も「くぐ…」が何のことなのか推測もできなかったから、何だろうと首を捻った。
「あのね、ゆでるじゃないの。でも、おゆにいれて、こぉ……ひょうめ、を、さっき?して…」
  一生懸命説明しようとして、両手で小さな丸いものを形作る。
  いつもははきはき喋る美紅ちゃんがこうしてたどたどしく話していると、すっごく可愛い。
「そうなの。火傷したら大変だから、ガスに近づいちゃダメだよ?」
「わかってるぅぅぅ」
  返事をしながら美紅ちゃんが元気良く台所へ駆け戻っていく。
  すぐにお湯をあける音と美紅ちゃんの歓声が立て続けに聞こえた。ふんわりと何か香った気もしたけど、甘いかどうかもはっきりしないままに流れてしまう。
  流れた香りが戻ってきたと思ったら先輩がザル一杯の柿を片手に抱えてこちらへ来るところだった。逆の手で美紅ちゃんをエスコートしている。
「結香。ビニール紐はあるか?」
  はいと頷いて立つと、先輩は柿をテーブルに置いて、熱いから触らないようにと美紅ちゃんに注意していた。

  美紅ちゃんが作った輪っかに、先輩は手際よく柿を結びつけていく。
  興奮した美紅ちゃんが不用意に動くと少し厳しく叱るけど、先輩は本当に小さな子の相手が上手だと思う。
  私は美紅ちゃんの安全や作業が滞ることが気になって、どうしても美紅ちゃんと二人で台所に立つことをためらってしまう。お手伝いしたいという美紅ちゃんの気持ちは嬉しいんだけど、刃物でケガしたらとか火傷したらと思うと、何にもできなくなってしまうから。
  でも、先輩はきちんと叱りながらも美紅ちゃんが危なくないように見ていて、さりげなくフォローする。美紅ちゃんはお手伝いができて満足するし、ご飯の支度がそんなに遅れることもない。
  陽くんと萌ちゃんの相手をしていたからだと言われてしまえばそれまでなんだけど、こういうとき、そつなくできない自分が情けなくなる。
「どうした、結香。編み目を間違えたのか」
「だ、大丈夫ですよ」
  小さくついたため息がしっかり聞かれていたようで、柿を結わえていた先輩はまっすぐこちらを振り返った。
  大丈夫だと言っているのに、先輩は私の手元を覗きこもうとする。
「ダメなのよ、ゆじゅうおにぃちゃんっ」
  先輩を止めてくれたのは、美紅ちゃんだった。
「あいじょおのこもったおくりものなのよっ。じゃましちゃダメなのよっ」
「そうか。それは悪かった」
  あっさり頭を下げた先輩に「わかればいーのよっ?」と胸を張った美紅ちゃんは、自分の膝の上を見下ろして小首を傾げた。
「これ、いっぱいくっつけてどぉすぅの?」
「軒下に吊るすんだ」
  イメージできなくて首を傾げる美紅ちゃんのために、先輩は縛り終わった一セットをぶら下げた。
  たぶん初めて見る光景に、「ぅわぁぁぁぁ……」と声をあげた美紅ちゃんだけど、やっぱりすぐに首を傾げた。
「なんでつぅすの?たべちゃダメなの?」
「駄目では無いが」
  苦笑した先輩はザルに残っていたらしい破片を美紅ちゃんの口に「あーん」した。
「………ぅん?………ぅ、ぅえええ………」
  次第に渋さが口の中に広がったみたいで、美紅ちゃんが舌を出して顔を歪める。
  先輩がジュースを注いで差し出すと、最近にしては珍しく文句も言わないで一気に飲み干した。
「………ゆじゅうおにぃちゃん、ひどぃ………」
  恨みがましげに睨まれた先輩はちょっと首を竦めて「すまん」と言った。
「渋いだろう?だから干して甘くする」 
「………ほんっとぉぉにあまくなぅのぉぉ?」
  まずい物を口に入れられたせいか、美紅ちゃんがすごく疑っている。
「………………………っく………」
「先輩?」
  先輩がいきなり吹き出した。
  ぜんぜん笑わないわけじゃないけど、こんな風にいきなりお腹を抱えて笑い出すのはすごく珍しい。
  ちょっと怒ってた美紅ちゃんも心配そうな表情で先輩に呼びかけた。
  何度か呼びかけると、まだ笑いの残った声で「悪い」と先輩が言った。
「ゆじゅうおにぃちゃん、だいじょぶ?」
  大丈夫だと先輩に頭を撫でてもらうと、嬉しそうに笑う。怒ってたことはすっかり忘れたみたい。
  大丈夫だと繰り返した先輩はすごく優しい表情で美紅ちゃんの頭を撫でた。
「今は渋いが、あぁして干して揉むと甘く柔らかくなるんだ」
  ほんとぉ?と首を傾げた美紅ちゃんに、先輩が頷いて微笑む。
「あぁ。だから一緒に揉んで旨い干し柿を沢山作ろう」
「ん!………でも」
  すごく可愛い笑顔で頷いた美紅ちゃんが、いきなりまじめな顔で先輩の手を両手で持ち上げた。
「あんまりみくのことペタペタさわったらダメなのよ。ゆぃかおねぇちゃんがおこるのよ」
「怒らないよっ?」
  慌てて否定すると、先輩はまた楽しそうに笑い崩れた。


「持ち出して大丈夫なのか」
  歩きながら聞かれるとちょっと気になってしまう。でも、ばか正直に言うとせっかく出てきた家に逆戻りすることになるから、一生懸命笑った。
「大丈夫ですよ。気をつけて仕舞ったんだから」
  たぶん。の一言は心の中で付け足した。
  一生懸命作った笑顔を先輩はしばらく見つめたあと小さくため息をついて前を向いた。
「まぁ、外れたら直せば良いだけだから大丈夫か」
  すごく簡単に言っているけど、もし編み途中のマフラーが編み棒から取れていたらと思うとゾッとする。
  気になって仕方ないので、やたらそろそろと歩いてしまった。


  日頃電車を使わないから駅の中もすごく珍しく見える。
  先輩に遅れないように一生懸命早足で歩きながら、それでも途中にあるお店のショーウィンドウや大きな広告の鮮やかな写真を楽しんだ。
「出れたか?」
  改札口を無事に通過すると先輩が待っていてくれた。
  でも、ニヤッとした笑い方が、私が無事に切符を入れて通れるかドキドキしていたのを見透かしているようで、つい頬を膨らませた。
「通れましたよ?初めてじゃないんだから」
  初めてじゃないけどそんなに頻ぱんに乗ってるわけでもないからヒヤヒヤしたのを隠して胸を反らす。
  くすりと笑った先輩は、すまんと言って私の頬をつついてから、指を絡めてしっかり握った。


  ウチの近所とは少し違う家並みを眺めながら歩いていると、しかし、と隣から声が降ってきた。
「大学の近くなんて、大した物は無いぞ」
「いーんですっ」
  電車の中でも何回か繰り返した会話だから、答える声もちょっと強くなってしまった。
「先輩にとってはいつもの場所かもしれないけど、私にとってはすごく珍しいんですから」
  先輩はあまり大学の話をしない。
  話したくないわけじゃなくて、わざわざ話す出来事がないだけだと先輩は言うんだけど、夏希さんたちの話からするとそうでもないような気がする。
  大学が休みの日に来てもあまり意味はないかもしれないけど、せめてどんな雰囲気なのかを実際に感じてみたくなっておねだりしてしまったのです。
  だけど、はた、と隣を歩く先輩を見上げる。
  どこに行きたいと聞かれてつい先輩の大学がある街と答えてしまったけど、先輩にはすごくつまらなかったかも。
  だって、毎日通ってる所に必要もないのに日曜日まで来るなんて、やっぱり嫌だよね?
  眉を寄せて小首を傾げていた先輩は、私の視線に気づくと「どうした」と目元を弛めた。
「あの。やっぱりここ来るの嫌でしたか……?」
「いや、そんなことは無いが」
  ふるふると首を横に振った先輩は、「あぁ!」と何かを思いついたように破顔した。
「大学から少し離れるが、喫茶店がある。行くか?」
  言われてみると電車の中がかなり暖かくて、ちょっと喉が渇いているかも。
  頷くと、先輩は微笑んで繋いだ手を軽く引いた。


  大きな道沿いにあるのに、その喫茶店の周りはちょっとひっそりとしていた。入り口に行くためにまず階段を降りていくから、なんだか秘密基地みたい。
「なるほどな」
  先を降りていた先輩が小さく笑ったみたいだった。
「大通りからはこちらが見えなくなるから、秘密基地は言い得て妙だな」
  結香は上手いことを言う、と誉めてくれるのは嬉しいけど、そもそもちょっとした呟きを聞かれてたこと自体が恥ずかしい。
  頬の熱さに一瞬困ったけど、扉の向こうのほんわかした暖かさにホッと息をついた。
  こんにちはと挨拶した先輩を振り返ったおじさんは、カウンターの向こうで「……おや」と目を丸くした。
「久しぶりだね。日曜日だから来ると思っていなかったよ」
「近くまで来たものですから……二人ですが、少し長居しても良いですか」
  先輩が身体をずらして私を指差すと、おじさんは私を見て「お?」とまた目を丸くしたあと、こくこくと首を縦に振った。
「おぉ、どうせお客も居ないんだ。ゆっくりしていきな」
  どうもと頭を下げた先輩は、奥の四人がけの席をとった。
  確かに他にお客さんはいないけど、二人用の席じゃなくて良いのかな。
  そっと聞くと、いつもここの席を使うと言われてしまった。
「そのうち解る」
  良いから座れと手招きされた私は、恐る恐る向かいのソファに座った。


  先輩が四人がけの席に拘ったのは、テーブルの大きさだった。

  腹はどうだい。
  普通に空いています。
  おぅ。じゃあ、座って待っとけ。

  このやり取りと、私には温かい紅茶とサンドイッチをお願いしただけで、十分後には大きなテーブルの端から端まで料理のお皿で埋まった。
  そしておじさんは今も何かを作っているようだし、先輩はその料理を迎えるべく、せっせと食べ続けている。
  私はすごく喉が渇いていただけだったから、大きなタマゴサンドを一つ食べるとお腹いっぱいになってしまった。
「ここなら続けられそうか?」
「ふぇ?」
  あくびを堪えていると、料理に集中していたはずの先輩から声をかけられた。
  間抜けな声で聞き返すと、先輩は顔を上げて視線で私のバッグを指差す。
  そうだ。編み物持ってきてたんだった。
  家だとお母さんにちょこちょこちょっかいをかけられるから、できるときにしっかり編まないと。
  急いで編みかけのマフラーを取り出すと、軽く目を擦ってから編み目を確認した。


  いらっしゃいというおじさんの声に、なぁなぁな感じで応えた声が、「あぁっ」と嬉しそうな声にはね上がった。
  ヒールの足音が大きくなったので顔を上げると、ぜんぜん知らない女の人が先輩側に立っていた。
「こ、こんにちはっ」
「……………こんにちは」
  先輩は軽く首を傾げて挨拶だけ返すと、視線をテーブルの上に戻して食事の続きを始めた。
  さっきまで、美味しいときは目元が柔らかくなったり味付けとか具材に驚いたときは目を少し見開いたりしていたのに、今はただ目の前の料理を平らげることだけに集中しているみたい。
「日曜日なのに、ここで会えると思いませんでした。お隣、良いですかっ?」
「嫌です」
  ものすごく冷たくはっきりした声で先輩が断ると、女の人は笑顔のままで固まった。
  女の人は断られると思っていなかったみたいだけど、先輩はただただ食事に集中している。
  ちょっと張り詰めた空気に、私は編み棒の音を立てないように緊張して見守った。
「………あの、私は春に構内を案内してもらって」
「人違いですね」
  想像では、たぶん道を教えたのは先輩じゃないかなと思ったけど、先輩ははっきり否定した。
  必要ないのに道を教えてと話しかけられたから授業に遅れそうになったことで、嫌な思いをしたせいなのかも。
  戸惑いを浮かべて立ち尽くす女の人を無視して、先輩は最後の一口を食べ終えるとコーヒーを飲み干して口を拭いた。
「結香」
  目を開けた先輩はいつもの優しい表情に戻っている。
  驚いたせいで返事の声が出ないけど、そういえば陽くんがこんな風に表情を急に変えてたかも、と頭の端でぼんやり思った。
「そろそろ出ようか。ゆっくり出来なくなったみたいだからな」
  悪いと謝られるのにふるふると首を横に振って編み物をバッグに仕舞う。
  先輩は脇に置いておいた上着を掴むと、また表情を消した。
「退いていただけますか」
  口調は丁寧だけど冷たい声で女の人を退けると、先輩はこちら側に廻って私が立つのを手伝ってくれる。ちょっと恥ずかしいは恥ずかしいけど、冬はバッグの他にコートがかさ張るからちょっと助かったりしている。
「………クリスマスに手編みって、ベタな女」
  決して大きくなかったけど鋭いその一言は、密かな私の不安そのもので。
  心臓が嫌な音を立てて、ちょっと呼吸の仕方が解らなくなった。
「結香」
  優しい呼びかけと背中に回される体温に、ヒュッと息継ぎをする。
  行くぞと声をかけた先輩は、レジに諭吉さんを二枚出すとすみませんと一言おじさんに謝った。
「またおいで」
  おじさんは一言そう言って諭吉さんをレジにそのまま入れた。
  そりゃすごいたくさんの料理だったけど、おつりはないのかな。
  そんなことを思ったのは、喫茶店から出て寒さに震え上がって慌ててコートを着こんだあとだった。


  コートも着てるし繋いだ手から先輩の体温が伝わって温かいのに、胸が妙にざわざわしている。
  先輩は何も言わないけど、クリスマスプレゼントに手編みのマフラーって、やっぱり迷惑なのかな。
  気になって仕方ない。
  いっそ先輩に聞いてしまえば良いのかもしれないけど、迷惑じゃないと言ってもらえてもそれが本心なのか気になってしまうし。もし迷惑だと言われてしまったら。別のプレゼントを探す時間も脳ミソも私にはない。
  どうしよう、どうしよう。
「結香」
  呼びかけに顔を上げると、先輩は優しい目で私を覗きこんでいた。
「急に店から出ることになって悪かった。マフラーは完成しそうか?」
  先輩が食べてる間ずっと編んでたから、かなり長く編めたはず。
  小さく頷くと先輩は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「楽しみだな。結香のマフラー」
  繋いだ手をぎゅうっと握りこんでくれる。
  温かい。
  頬だけじゃなくて胸まで熱くなって、勝手に目が潤みそうになるから慌てて前を向いてうつむいた。
「が、頑張ります」
  ありがとうと言いたいけど、それを言ったらあの女の人の言葉に傷ついたことを認めるような気がして、この一言しか言えなかった。
  今あんまり喋ると泣いちゃいそう。
  うん、という優しい頷きのあとに、「あぁ、でも」とどこか弾んだ声が降ってきた。
「無理はするなよ。また風邪をひく」
  子どもの頃とは違うから、そう何度も風邪ひきませんよ。
  そう応えたかったけどこの間風邪をひいたばかりだから、はい、とだけ応えた。





  ◆ 旧友の恋路 ◆

  視線だけで様子を窺うと、結香は多少目元を潤ませているだけでショックを受けてはいないようだ。
  まったく、突然未知の相手に声をかける人間にはロクな人間が居ない。
  内心で嘆息しつつぶらぶらと歩いていると、前方で何やら騒いでいる二人組を見付けた。
  男の方に見覚えがあったので呼び掛けると、一瞬不審そうな表情で俺を睨み付ける。が、直ぐに俺と気付いたのか「何だ、進藤か」と目付きを弛めた。
  こんな所で奇遇だなと言うと、全くだと相原は笑って、俺の傍らに居た結香に挨拶した。
  結香も頭を下げるが、相原の連れが気になるようで、戸惑ったように大きな目を何回か瞬きさせた。
  上手く相手をのせて動かすことに長けている相原が声を荒げる相手とはどういう人物か。
  一見ほんの子どものように見えた。
  背は結香とあまり変わらないように見えるが、スニーカーとジーンズという服装で幼く見えるだけかもしれない。
「…………………………なに?」
  観察されたことが不愉快だったのか、少女は明らかに不機嫌な顔を俺に向けた。
  いや、と首を横に振ると「ふぅぅぅぅぅん?」とやたら長く唸ったあと、「安心して?」と今度はやたら大袈裟に微笑んでみせた。
「私、た・だ・の近所の子どもで、この人とはなーんも特別な関係じゃないって、わざわざ見ず知らずのヒトに教えてもらわなくても解ってるから!」
「こらこらこらっ!」
  突然憤慨し出した少女を後ろから抑えつつ、相原が俺と結香に向かって交互に「ごめんっ、ごめんなっ」と繰り返す。
「こいつらも俺の顔見知りだけど、さっきのとは違ってもっとマトモだって。こっちは高校の同級生だった進藤。んでそっちが進藤の彼女の………えぇと………」
「牧野結香と申します」
  日頃会わない相手だけに直ぐに思い付かなかった相原を助けるためか、結香が自ら名乗り頭を下げた。
「まきの………」
  少女は、結香の名字を呟くと結香の顔を注視した。
「ふえっ?へ?」
  凝視されたことに戸惑う結香を放って、少女はスマホを取り出し手早く操作すると「これ」と画面を結香に向けた。
「描いたの、貴女?」
「ふぇ?……………………ぁ」
  何回か瞬きしつつ画面を改めた結香が、掠れた驚きの声を上げた。
  高さの問題で俺からは見えないのだが、確かめる前に「やっぱ貴女が描いたんだ」と納得したらしい少女は、さっさとスマホを仕舞ってしまった。
「その絵、どうして写真撮ってるの?」
「趣味なの」
  結香の質問に、少女は至極簡潔に答えた。
「でも、すごく小さな賞だったのに」
「だってこれが一番良かったんだもん。良いと思った絵はこうして記録しとくの」
  そう言った少女はまじまじと結香を見ている。
「悪いな。あいつ、自分のコレクションの作者に会ったの初めてだから興奮してるんだわ」
  相原が囁いてくるのに、そうらしいなと頷くと、「解るのか!?」と何故か驚かれた。
  結香を見詰める目が爛々と輝いているし、次第に結香に近付いている。何より、結香の一挙一動に敏感になる余り、俺たちの存在をすっかり忘れているようだ。
  これらを列挙するとなるほどと呟いた相原は、何故か俺の顔をまじまじと見た。
「流石無表情キャラ同士、理解がしやすいのか」
  何やら失礼なことを言われた気もするが、悪かったな、と相原が謝ってきたので表情について言及するのは止めた。
「さっき大学の知り合いに会ったんだが、妙な言いがかりをつけられてな。あいつ、ちょっとキレかかってたんだ」
  そこに俺たちが現れたのでとうとう爆発したらしい。
「お前も苦労してるんだな」
「………お前程じゃ無いけどな」
  共感したつもりが、何故か相原からはやたら深く嘆息された。
「ーーーちゃんも、絵描くの好き?」
  結香たちはそれなりに仲良くなったようで話が弾んでいる。
  結香は人見知りだと自分では言うが、会って数分の相手をちゃん付けで呼べる辺り、なかなか親しみやすい気質である。
  聞かれた少女は首を横に振り、描くのは苦手なのだと言った。
「この先、美術館があるの」
「美術館?」
  唐突に話題を変えた少女に動じることなく、結香が首を傾げた。
  少女は頷くと、リュックの中を漁り「これ」と紙片を引っ張り出した。
「素敵な美術館。でも、もうすぐなくなる」
「なくなっちゃうんだ?」
  残念だね、と結香が言うのに少女は熱心に頷いた。
「あげる。行ってみて……良かったら」
  結香が気遣わしげに俺を見上げる。
  パンフレットの裏面を確認すると、確かにここからそう遠くもないようだ。大まかな地図もついている。
  行ってみるかと言うと結香が嬉しそうに頷いて、一緒に行くかと少女に聞いた。
  少女は、さっき行ってきたと断ってから、少々顔を歪めた。
「なんか今日はげんが悪いから帰る」
「いや、だから機嫌治せって」
「近寄んな。あっち行け」
  慌てる相原に向かってシッシッと手を振ると、少し紅く染めた顔で結香に「じゃ」と小さく手を振って歩き始めた。
「し、進藤っ、じゃなっ」
  珍しく相原が慌ただしく走っていく。
「ぁ、あの、ありがとー」
  駆け寄りつつ何かと話し掛ける相原を後ろ姿でも解るほど鬱陶しそうに追いやっていた少女だが、結香が声を上げるとピタリと立ち止まり、少し振り返って再度手を振った。
「…………………………行くか」
  少女の背中を見送っている結香に声をかけると、結香は満面の笑顔で頷いた。
  大きな世話かもしれないが頑張れ、と頭の中で相原に投げかけ、俺は結香の手を繋いで歩き出したのだった。
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