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番外編

最後の委員会活動日のこと

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  本当に大丈夫かと繰り返す男の子に、私も大丈夫と繰り返した。
「今日は俺が行くから。牧野は帰れよ。な?」
「どうして?私、用事ないもん。委員会行けるよ?」
  慣例的に、今日が最後の貸し出し当番の日です。
  本の貸し出しや委員会の集まり自体はこのあとも、もちろん三学期に入ってからもある。でも、私たち三年生は十一月以降は顔を出さなくても良いと言われています。
  でもそれは本格的な受験シーズンに入る人に向けての配慮であって、受験と無関係の私まで当番を無視してはいけないのです。
  だから特に声をかけることもなく一人で図書室へ向かおうとしたんだけど、目ざとく見つかってこの言い合いになったのです。
  受験勉強や予備校で忙しいと溢しながらも、毎回当番の日には来てくれる。
  「お前、受験無いなら暇なんだろ。俺の分まで行っといて」なんて押しつけられたらちょっと嫌だな、なんて最初チラッと思っていただけに少し申し訳ない。
  春の委員会決めのときはすごく面倒くさそうにしていたから、ここまで出てくれると思わなかった。
「忙しいのに、良い人なんだねぇ」
「いいからさっさと行ってとっとと終わらせるぞ」
  誉めたつもりなんだけど、呆れられてしまいました。
  知佳ちゃんと一緒に宮本くんとお喋りするようになったから、少しは男の子と話すのも上達したかと思っていたのに、まだまだのようです。


「そして何故お前が居るんだ………」
  そう言ってガックリ肩を落とした男の子に、アスカちゃんは絨毯の上に座りこんだままむぅと頬を膨らませた。
「お前、部活はどうした?」
「休みです。元々今日は活動日じゃないですから」
  即答したアスカちゃんに、男の子は眉を寄せた。
「ちゃんと活動しろよ。そんなんだから茶道部って大した活動してないって年々部費削られるんだろ」
「お茶の心が解らない人にどうこう言われたくありませんー」
  ぷいっと顔を背けるアスカちゃんに男の子は大きくため息をついた。
「そんじゃあ茶道部が広め伝えろよ。お茶の心とやらをさ」
  じーっと男の子を見上げたアスカちゃんは「良いですよ?」とにーっと笑った。
「先輩が貴人点てを飲むのにふさわしい人になれたら、点ててあげます」
「きじ………?」
  知らない言葉に男の子が首を傾げる。私も何だろうと首を捻った。
「アスカ」
  アスカちゃんに向かい合って座っていた男の子が、叱るような声をあげた。
  ぺろりと舌を出したアスカちゃんは私を振り返るとにっこりと笑みを浮かべた。
「牧野先輩になら喜んで点てますよ、貴人点て」
「あ、ありがと、う?」
  解らないながらもお礼を言うと「だから茶道部に遊びに来てくださいね」とにっこりと笑う。
  文化祭の看板を二年続けて描いたからか、アスカちゃんにも他の茶道部の子にも遊びにおいでと誘われてるんだけど、部員じゃないのに部室に遊びに行くのは良くないよね。
  それを言うと、えぇー、とちょっと残念そうな表情をしたアスカちゃんは、でもすぐに「じゃあ」と顔を上げた。
「牧野先輩、今からでも茶道部に入部しましょう?」
「それも、ダメなんじゃないかな………」
  三年生、しかも卒業まで半年もない今入部する人はきっといない。
  やんわりと断るとアスカちゃんはまた、えぇー、と頬を膨らませた。
「お前………何をしに来たんだ………態度はだいぶマトモだけどよ………」
  窘めるように名前を呼ぶ声と同時に、呆れたような、そして少し疲れたような声を回転いすをぐるりと回しながら男の子が上げた。
  直接の関わりはないけど先輩相手なのに、アスカちゃんはむぅと頬を膨らませる。
「お手伝いに来てるんじゃないですか、ほら」
「その割には口ばかり働いてるみたいだけどなー」
  修復途中の本を掲げてみせるアスカちゃんに、「図書室は静かにな」と子どもに言い聞かせるような口調で言うと男の子は椅子を回転させて貸し出しの対応に戻ってしまう。
  取り残されたアスカちゃんはぶくぅぅと頬を膨らませた。


  小さな声で質問しながら一冊を直したアスカちゃんは、次の一冊をほとんど一人で直した。
  その手つきが本当に慣れてるように滑らかで、羨ましいとついため息を洩らしてしまう。
  返却用のカゴに本を入れながら、小さな声でどうしました?とアスカちゃんが聞いてきた。
「へ?ぁ、上手だな、と思って」
  そうですか?と聞きながら次の本をくるくると引っくり返して、さっさと修復にかかる。
「テキトーにやってるだけですよ?」
「テキトーにやるなよ」
  こっちを見もしないでぼそりと呟いた男の子の背中に向かって、アスカちゃんはべーっと舌を出した。
「言われた通りにはちゃんとやってますよ。これで間違えてるって言うなら、教えたカッちゃんの教え方が悪いんですー」
  ねぇ?といきなり話をふられた男の子は一瞬間を置いてからアスカちゃんの膝を指差した。
「手が止まってる」
「解ってるわよぅ」
  先輩に注意されても舌を出してたのに、文句を言いながらも素直に本を直してる。
  最初は怖い印象だったけどこういうところが可愛い。
「牧野先輩っ?ナニを笑ってるんですかっ」
「な。何でもないよ?」
  こっそり笑ったはずが思いきりバレていて、しばらくアスカちゃんには小声で怒られながら修復することになってしまったのでした。


  何度目かの「もう、牧野先輩たら」と「ごめんね」を繰り返したところで、ふぅと大きなため息をついて男の子が本を閉じた。
「アスカ、しつこい」
  本当はアスカちゃんもそう思っていて、でも指摘されると面白くないからぶぅっとそっぽを向いた。
  そんなアスカちゃんを見て男の子は小さくため息をつくと私に頭を下げる。
「牧野先輩、すみません」
「へ?ぃ?いいよ、いいよ、大丈夫っ」
  気にしてないと手を振る私にかまわず、男の子はアスカちゃんをじっと見た。アスカちゃんが視線を向けると、つ、と顎で私を指差す。
「……………ごめんなさい」
  じ、と真面目な表情で謝られる。
  前はこの目がちょっと苦手だったけど、今は違う。何度かお喋りして、アスカちゃんも恋する女の子だと解って親近感が芽生えたからかも。
  だから、アスカちゃんが何が面白くなくて、何を怖れてるのか、なんとなくだけど解る。
「ん。私もごめんね?」
  苦笑いで私も謝ると、アスカちゃんも小さく笑った。アスカちゃんも、私の気持ちが想像できるのかもしれない。
「牧野先輩が謝る必要無いのに」
  ぼそりと呟く男の子に、アスカちゃんと顔を見合わせて少し笑ってしまう。
「女の子同士の話だからね」
「全然解らん」
  ふふんと微笑むアスカちゃんに、男の子はこてんと首を傾げる。
「仲良いのは結構だけどよーーーここ、図書室だって解ってるか?」
  ぎぎっと音を立てながらジト目でこちらを見下ろす男の子に、三人揃ってごめんなさいと頭を下げたのでした。


  街灯の下に佇む人を見つけて、きゃっとアスカちゃんは私の袖を引っ張った。
「牧野先輩っ。お迎えですか?」
  頷くと、私がスマホを弄ってなかったのに迎えに来てくれるなんてすごいと感心して目を丸くする。
  先輩を誉めてくれるのはすごく嬉しいんだけど、確かに私が今日何時に帰るのかはっきりと解らない状況でも程よく迎えに来れる理由は今でも謎。
  先輩に聞いてみても、「間に合ってるなら良いだろう?」とごまかされるんだよねぇ。
「もしかして、牧野先輩が遅くなるときはいつも迎えに来てくれるんですか?」
「うん。まぁ、そう……かな」
  きゃあっとアスカちゃんが声を上げる。
  この距離だから先輩にはきっと聞こえてる。
  せっかく迎えに来てくれたのに、すぐに傍に行かないまま騒いでいたら申し訳ない。
「アスカ、煩い」
「何よ、カッちゃん」
  キッと睨み上げるアスカちゃんを適当にいなしながら、男の子はくいっと顎をしゃくった。
  わざとアスカちゃんを怒らせて私から離してくれたのかも。
  男の子に向かって小さく手を合わせると、先輩に向かって走る。
「急がなくて良い。暗い中走るのは危ないだろう」
  注意した先輩だけど、私を抱き止めながらおかえりと微笑んでくれる表情はいつものように穏やかで、安心で顔が弛んだ。
「ただいま、です。迎えに来てくれてありがとうございます」
  うんと微笑んだ先輩は、顔を上げてあっちは良いのかと聞いてきた。
  振り返ると、アスカちゃんはまだ男の子に文句を言い続けていた。男の子は視線を彷徨わせながらため息をついている。
「あの二人は、大丈夫なのか?帰りは」
  気づかう先輩に、たぶん大丈夫と頷いてみせる。
「幼馴染みだから、たぶん一緒に帰ると思います」
「そうか。なら」
  言いかけた先輩がぐいと私を引き寄せる。
  奇声をあげる前に視界の端がパッと明るくなってエンジンの音、それにブレーキの音がすごく近くに聞こえた。
  車がいつの間にかすぐそこまで来ていたことにヒヤッと身体がすくむと同時に、薄手のセーター越しに伝わる体温と匂いにほぅっと安心の息をついた。
  ドアが開く音、それに誰かが足早に歩く音が聞こえる。
  きっとアスカちゃんたち以外の人がいるのだろうけど、今はもう少しこの体温と匂いに包まれていたい。
  少しセーターに顔を押しつけると、腕の力が強まってポンポンと背中を撫でられる。
  怖かった強張りがすぐに溶けて頬がだらしなく弛んでしまいそうになる。人前で密着するなんて恥ずかしいけど、きっとだらしない顔を晒す方が恥ずかしいから先輩の胸に顔を押し続けた。
  先輩の腕に包まれてるから、人の声もくぐもって聞こえる。
  でも、少し不機嫌そうな男の人の声は確かに、アスカ、と言った。
  瞬きをして少し顔を上げると、ほんの少しだけ腕の力が弛んだ。
  顔を上げると、心配そうに見下ろす先輩の目とかち合った。
  大丈夫と伝わるように笑顔になってみる。
  上手く笑えてるか不安だったけど、私の表情を見た先輩は少しだけ破顔して一瞬だけぎゅっと抱きしめてくれた。
「アスカ、来なさい」
  冷たい声に振り返る。
  黒い車越しに見えるアスカちゃんは、初めて会ったときみたいな固い表情をしていた。
  嫌、と声に出さないまま、拒否してる。
「アスカ、車に乗りなさい」
  アスカちゃんが何も言わないで立ったままでいるから焦れたのか、男の人の声に苛立ちが交じった。
「そうですよ、アスカ」
  宥めるような声で言いながら、女の人が車から降りた。
「迎えに来てあげたのよ?こんな遅くまで学校にいるなんて……心配したのよ?」
「そうですか?」
  内容からたぶんアスカちゃんのご両親だと思うんだけど、女の人に返すアスカちゃんの返事はすごく他人行儀だった。
「田中さんに、電話で伝えましたけど」
「えぇ、聞いてるわ」
  でもね、と女の人はなんだか嫌な声音で言った。
「使用人の息子の用事で遅くなるなんて、考えられないわ。どういうつもりなの?」
  聞いたのに、アスカちゃんが口を開く前に「まぁ、いいわ」と女の人はため息交じりに言ってから少し冷たさを増した声で「久し振りね」と言った。
「お久し振りです」
  それまで黙っていた男の子が小さく頭を下げると、ふんっと女の人は鼻で笑ったみたいだった。
「しばらく見ない間に大きくなったわね」
  ありがとうございますと男の子はまた頭を下げるけど、女の人の声がただただ冷たいから、聞いてる私の方がなんだか不安になってきた。
  思わず温かい胸に抱きつくと逞しい腕が包んでくれる。
  女の人の声はやっぱり冷たくて聞きたくなかったけど、聞いても心はざわつかなくなった。
「そんなに成長したのなら解るわよね?アスカとあなたとでは進む道が違うのよ。うちの人が言うから同じ高校に進むことは許したけど、勘違いしないでちょうだい」
  男の子は黙ったままで、特に何か言い返すとかもしなかったのに、女の人は面白くなさそうに「何よ、その態度は」と言った。
「本当にあの女そっくりに育って。まぁ、だからこそ、うちの人には気に入られているんでしょうけど」
「少し宜しいですか」
  女の人を遮ったのは、先輩だった。
「何ですの、あなたは?」
  邪魔されて女の人が怖い目を先輩に向ける。
  妙な声をあげないように気をつけながら先輩を見上げると、先輩はいつも通りの冷静な表情で女の人を見返していた。一瞬、見上げる私に気づいて小さく微笑むけど、女の人に向ける視線は女の人のみたいに刺々しくなくても冷たいものだった。
  先輩はいつも通りの表情で、いつも通りの声で「そこの」とアスカちゃん達の背後を指差した。
「そこの高校の卒業生です」
「そう。それでその卒業生が何の用なの?」
  不愉快そうに問う女の人に、先輩は解りませんかと本当に不思議そうに首を傾げた。
「貴女の車がもう少しで彼女を轢くところでした。謝罪をして頂きたい」
「ーーーーーは?」
  女の人は、心底意外そうな声をあげる。
  もう少しで轢かれるところだった。
  先輩の言葉に、今さらながら口や膝がカクカクと震え出した。急に寒くなった気もする。
  崩れるのを防ぐかのように、二本の腕がしっかりと支えてくれる。温かい。
  ほっと息をつくと大きな手がポンポンと背中を撫でてくれた。
「轢くところだったなんてーーー大袈裟な。あなた、因縁つけて何をせびるつもり?」
  不愉快そうな声を強めた女の人に、先輩はまた首を傾げる。
「謝罪はしないつもりですか」
  必要ないでしょ、と女の人はそっけなく言った。
「その子は無傷なんだし、言いがかりも甚だしいわ」
「そうですか」
  あっさり頷いた先輩は、おもむろにスマホを取り出した。
「何なの?」
  女の人が訝しげに目を細める。
「警察に電話します」
「は?そんな子どもの嘘を」
「多少は取り合うでしょう。証拠があるので」
  片手で操作したスマホを先輩は女の人に向けた。すぐにスマホの画面が光ったと思ったら、さっきのエンジン音とブレーキ音が立て続けに聞こえた。
「ナンバープレートとこの映像を提出すれば、子どもの嘘で一蹴するわけにはいかなくなるでしょうしーーーそっちは撮れたのか」
「勿論ですとも。夕弦様」
  最後の先輩の問いかけに答えたのは、なぜか少し離れたところに立っていた大樹さんだった。
「だ、いき、さん?」
「はい。こんばんは、結香様。御無沙汰しております」
  裏返った声に、大樹さんは優雅に一礼してから「ほらほら。見てくださいよ、夕弦様」となぜか楽しそうに先輩にカメラを向けた。
「ほぅら。こっちは後ろからしっかり撮りましたからね。ちゃあんと映ってるでしょ?車が結香様に向かって突っ込む所が。ナンバープレートもばっちり」
「そうか。お喋りに興じていると諦めていたが、撮れていて良かった」
  先輩が少しジト目で言うと「嫌だなぁ、夕弦様」と大樹さんは頭を掻いた。
「待機ポイントの近くに未知の人間が居たんですよ?確認せにゃならんでしょう?ほら、映像ちゃんと撮れてるし、結香様も無事で良かったでしょう?」
「当たり前だ。俺が結香に傷を負わせる筈が無い」
「あの」
  やり取りを中断した女の人に、先輩と大樹さんはふ、と口を閉じて冷たい視線を向ける。
  話してるときは仲が良いのか悪いのか解らないのに、こういうタイミングがばっちり合うところが不思議。
「あなた、一体………」
「そこの高校の卒業生です」
  さっきと同じ答えを繰り返す先輩に「それじゃ夕弦様」と大樹さんがにこやかに声をかけた。
「俺はこれを持って一足先に警察に行ってきますよ」
「あぁ、頼む」
「ちょっと待ってっ」
  再び遮った女の人に、今度は二人ともさっきと同じように冷たい、でもなぜ遮られるのか本当に不思議だ、みたいな視線を向けた。
  言ったら先輩は嫌がるような気がするけど、大樹さんと先輩はすごく気が合ってると思う。
  謝罪します。
  さっきまでとは一変して、女の人はそう言った。
「娘を、遅くなった娘を迎えに行こうと焦っていたの」
「そういえば」
  先輩はもう一度首を傾げると私を見下ろした。
「結香。生徒手帳持っているか?」
「ふぇ?」
  なぜいきなり生徒手帳?
  展開についていけなくなった私に、先輩は「生徒手帳」と繰り返す。
「な?んで。せいとてちょう?」
「はい」
  頭が全然働かない私の代わりに、横から見慣れた生徒手帳が差し出された。
「ぁれ?」
「あれ、じゃねぇよ。さっさと帰れって言ったろうが」
  叱るように言ったのは、図書室の鍵を職員室に返却しに行ってくれた私のクラスの図書委員だった。
  後から来たのに、呆けた私の代わりに生徒手帳を先輩に貸してくれたらしい。
  すごく勇気のある人だったのかもしれない。
「ほら見ろ。すっかり暗くなってるだろ?冬は暮れるのが早いんだ。子どもでも知ってることだぞ。フラフラしてるとこういう要らんトラブルに巻き込まれるんだ。だからさっさと帰れと言ったのに」
「ご、ごめん!ごめんなさい!」
  星がちらほら見えている空を指差して怒る男の子に、とにかく謝る。
  なんだろう。小さいときに風邪をひいたときのお母さんと同じ言い方な気がする。
「ーーーうん。やっぱりそうか」
  先輩の納得した声で、男の子のお説教がピタリと止まった。
「迎えに来ることを、学校から了承を得ていますか」
  は?
  それぞれ首を傾げる面々の中、先輩は淡々と説明した。
「うちの高校では、近所への迷惑を考慮して基本的に車での送迎を禁止しています。車で送迎したい場合は、事前に電話で学校の外来用駐車場を利用できるかどうかを確認しなければなりません。俺も五年前に暗記した限りでしたが、まだこの校則は存在していたようです」
  この通り、と生徒手帳を開いて女の人に向けるけど、この暗い中小さな生徒手帳の文字は読めないと思う。
  でも、生徒手帳を取り出してヒソヒソとやり取りするアスカちゃん達の会話から、先輩の説明が本当だと解ったらしい。
「そんなっーーーそんな、些細なっ」
「些細な?」
  プルプルと震える女の人に、先輩は本当に不思議そうに首を傾げた。
「この校則に従って、貴女の娘さんも高校生活を送っています。その校則が、些細なことですか」
  成る程、人を轢きかけておいて言い逃れの言い訳で逃げようとする人間ならではの発想ですか。
  そう言った先輩の目はすごく鋭く冷たくて、でもすごく格好良くて抱きしめてくれる腕は頼もしくて、心臓がさっきとは違う感情にドクドクと鳴り始める。
「だから!だから、それはっ」
「何の騒ぎですか?」
  思わず、あ、と声を出してしまった。
  出てきたのは、あの、学年主任の先生だったから。
  先生は私を見るとちょっと眉をしかめたようだけど、落ち着いた声で「あなたたち、まだ帰ってなかったの」と聞いた。
  その先生に「先生」と先輩が呼びかける。
「………進藤くん。久し振りね」
  お久し振りです、と私を抱えたまま一礼した先輩は「こちらなんですが」と女の人を視線で指差した。
「迎えに来たとのことですが、学校に了解の電話はありましたか?」
  片眉を上げた先生は持っていたファイルを捲って、「無いわね」と言った。
「校則に書いてあることは、入学式、春の一斉メール等で知らせています。生徒にも、一学期の中間テストを通して確認させているはずですが」
  女の人に言ったあと、「誰か、迎えを頼んだの?」と先生は私たち生徒の顔を順々に見る。
  目が合うと全員が首を横に振った。
  ふぅと息をついた先生は「困りましたね」と女の人に向き直る。
「この校則は近所への配慮の元作られたものです。御理解頂けないようでしたら、お子さんを生徒として預かることが出来なくなる可能性も出てきます」
「それはっ」
「進藤先輩」
  女の人が焦った声をあげたところで、男の子が先輩に向かって片手を広げた。
「生徒手帳。もう良いっすか」
「あぁ、助かった。ありがとう」
  手帳を鞄に押し込みながら「それは良いんですけど」と男の子はどこか呆れたような声で言った。
「もう高校の校則なんて関係無いのに、よく覚えてましたね」
  先輩は一度読んだ文面は完璧に覚えてしまう。そして必要なときに正しく思い出せるらしい。
「そら、なんとも羨まし過ぎる特技だ」
  それを聞いた男の子は大きなため息をつくと、「じゃ、俺は帰ります」と片手を上げた。
「先生、さようなら」
  至って普通の声で挨拶された先生は、女の人に向けていた視線から少し目を柔らかくして、気をつけて帰りなさい、と言った。
「お前らも、さっさと帰れよー!」
  先生の向こうにいたアスカちゃん達に向かって叫ぶと、「じゃな」とさっさと歩き出す。
  私たちから少し離れた男の子を、スーツの男の人が数人サッと取り囲んだ。
  また知らない人?と焦る私の背中を、あやすように先輩が撫でる。
「何だ?」
  男の子は慌てるでもなく首を傾げる。
  スーツの人の一人が何かを囁くと「はぁっ?」と声をあげた。
「そんなんでわざわざ迎えに来たのかよ?」
  ったく、もう。と舌打ちした男の子は「先生ぇ~」と振り返った。
「そこのコンビニに車停めて迎えに来たっつーんだけど、俺、停学とかにならんよねぇ?」
「ならないからさっさと帰りなさい」
  呆れたような先生の返事に「そりゃ一安心」と笑った男の子は「じゃあ、今度こそ。さようなら~」とスーツの人に取り囲まれたまま帰っていった。
「あなたたちも早く帰りなさい」
  男の子の背中を見送った先生が、アスカちゃん達、そして私たちに向かって言った。
  目が合うと、ちょっと気まずい無言の間が生まれる。
「気をつけて、帰りなさい」
  先に間を静かに破ったのは先生だった。
  行こう、というように先輩が背中をポンと叩く。
  頷いて、先生に向かって頭を下げる。
  さようなら、の声は自分でも情けないほどか細かったけど、「はい。さようなら」と先生は確かに言ってくれた。





  ◆ 女傑は一日にして成らず ◆

  聞き返す声が、自分でも意外な程に驚いていた。
「代議士の息子なのか?結香の同級生の、あの男が」
  『だそうですよ』
  何てこと無い、といった口調で影山は肯定した。
  あの夜迎えに来た黒スーツの男達の素性含め確認したというのだから、嘘では無いようだ。
  俺の学年にも著名人、有名人と呼ばれる親を持つ者が多く居たが、結香の学年にもちらほら居るらしい。
  あのアスカという女子生徒の親もそれなりの社会的地位を持っているそうだし、一体どういう事だ。
  『あれ。知らなかったんですか、夕弦様?』
  俺の呟きを拾って、白々しい声を影山が上げる。
「何をだ」
  『嫌だなぁ、夕弦様。怒らないでくださいよ』
  巫山戯た口調で言ってから、影山は『夕弦様の母校はですね』と続けた。
  『若い頃の大奥様のアイディアを元に造り直された学校らしいですよ』
  とんでもない話だが、あの婆さんなら有り得る話だ。
  一応本当かと呟くと『だそうですよ』と繰り返された。

  正面きって「うちは金持ちのための高校です」なんてダサいのよ。
  親の懐に関係なく子どもを集める。
  それでも教育方法に拘る余裕のある人間が子どもを預けてくれるのが、本当に上等な学校なんじゃないかい?

  そう言ってケラケラ笑う婆さんに共感した誰かが、俺たちの母校を今の形に造り変えたらしい。
  つまり、関係者の誰かが婆さんの知り合いだということになる。最も有力なのは、用務員紛いのあの老人なのだが。
  推測を言ってみても影山は『さぁ、それは知りません』と答えるだけだった。
  『自分で聞いてみたらどうですか?』
  影山はそう言うが、この程度でわざわざ連絡を取るのも面倒だ。
  何より、まさか俺が何れ入学することを考えて家の近くに高校を創ったと言われると無性に腹が立つ気がする。
  『それは無いんじゃないですか?その頃の大奥様はまだ大旦那様にもお会いしてない頃でしょうから。夕弦様ってば、考え過ぎですよ』
「話は結香の同級生についてだったか」
  話を戻すと『夕弦様が気にしたんでしょうに』とボヤいた影山が『そうそう、そうなんですよ』と無駄にはしゃいだ。
  『つまり、あの黒スーツさん達は本物のSPだったんですよ。いやぁ、マジモンと話したのなんて初めてだからビックリです。強そうでしたねぇ。ガチで殺り合うことにならんくて良かったですよー』
  興奮した口調ではあるが、何ともノリが軽い。
  実際、例えば対峙したとして後れは取らんだろうと言うと『まぁ、そうですけどねー』としれっと返してきた。
  『黒スーツさん達があの日来たのは、本当に夕弦様達とは別件だそうで、そっちは何の心配も無いようです』
  ただ、と続ける影山の声から笑いが消えた。
  『あのアスカという娘さんは、良縁を期待して入学させられたみたいですねぇ。親御さんが希望する男子生徒とは基本距離を置いているようですが』
  それで焦れてあの夜迎えを理由に乗り付けて来たらしい。
  驚いたことに、親が作ったリストには俺の名前もあったらしい。
「俺は二年も前に卒業しているんだぞ。それでどうやって縁を結ぼうという?」
  家に近いとはいえ、卒業した高校には日常的に立ち寄る理由が無い。
  結香という繋がりが無ければ、行く筈が無い場所に通う新入生に出会う筈が無い。
  『結香様を利用しようとしたんじゃないですかね』
  恋人である結香に近付き、俺と知り合ってから結香を排除しようとしたのだろう。
  甚だ気分の悪い推測に舌打ちが漏れる。
  大丈夫ですよ、と影山が同情的な声を出した。
  『警察とのやり取りで暫く婚約どころでは無いし。未遂とはいえ、結香様を害そうとしたんです。婚約なんて持ちかけてきた日にゃ、大奥様が薙刀でズパンッ!ですよ』
  轢き逃げ未遂の話を聞いただけで。婆さんは愛用の薙刀の手入れを入念にするようになったらしい。
  『夏に金喰い虫どもを追っ払って以来、薙刀の出番も無かったでしょう?あの時だって満足に薙ぐ前に相手がずらかったものだから、大奥様、不満で不満で。だから手薬煉引いて待ってますよ』
  用意に想像出切る光景に、思わず頭痛を覚える。
「いい歳なんだから、程程にしないと腰をやるぞ」
  『毎朝百回スクワットと太極拳やってるから大丈夫なんじゃないですか?』
  軽い調子で応えてから、『女性に歳のことをどうこう言うのはモラハラですよ、夕弦様』と影山は宣ったのだった。
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