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番外編
秋入雨のとぶらひ
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朝からあやしいなと思っていたら、やっぱり降ってきた。
上着を変えようか、それともハンドタオルを大きめのにしようかと悩んでいたら、スマホが鳴った。
もしもしと取ると『結香』と先輩の声が聞こえる。なんだかすごく焦っているみたい。珍しい。
「先輩?どうしました?」
聞くと電話の向こうで、済まない、といきなり謝られた。
『今日、出掛けられなくなった』
お出かけできないのは残念だけど、先輩の声に余裕がぜんぜんない方が気になる。
「何かあったんですか?」
うん、とためらうような咳払いが聞こえたけど、あまり間を置かずに『あのな』と声が続いた。
『ばあさんが、亡くなったんだ』
え、と驚く声が受話器の向こうまで響くくらい大きいのか相づちにも認識されないほど掠れてるのか、自分でも解らなかった。
この間お世話になったときは、すごく元気で、私や美紅ちゃんに浴衣を当てて微笑んでくれたのに。
今朝起こしに部屋に行ったら亡くなっていたんだ、と先輩の声が頭の中で好き勝手に跳ね回ってるような目眩に、思わずベッドに座りこむ。
『夏はなんとか越えたが、歳も歳だから覚悟していなかった訳ではないが、葬儀の手配や遠方の親戚への連絡で商売どころでは無いだろう?暫くはバイト達で店を廻すことになる。とりあえず、今日は俺がシフトに入る』
説明しているうちに先輩の声は落ち着いてきたみたいだけど、私は話の流れについていけなくてベッドの上で首を傾げた。
「み。店?シフト、ですか?」
予想していなかったワードにただただ首を傾げる。
そういえばお婆ちゃんはお祖父さんの会社とは別の事業を起こしているとか聞いたけど、何かの店だったの?
先輩がお婆ちゃんの仕事を手伝っているなんて知らなかったけど、トップのお婆ちゃんがいない状態でお店は大丈夫なの?
いや、その前に。
先輩は、お婆ちゃんの孫だよね?一番目の孫だよね?
……………先輩は、お葬式じゃなくてお店の方をやってて良いものなの……………?
ぜんぜん脳ミソが動いていない。
パニックの中で首を捻っていると、『あぁ』とどこか納得したような声が聞こえた。
『亡くなったのは、コンビニのばあさんだ』
「はぇっ?」
驚きと動揺で声が裏返ったけど、先輩はそこには触れずに『すまん』と謝った。
『主語が抜けていたな。済まない』
先輩にしては珍しい言葉づかいだったような気がする。先輩もまだ動揺してるのかもしれない。
「じゃあ、亡くなったのはコンビニのおばあちゃんで、お婆ちゃん………えぇと、千鶴子お婆ちゃんは、何かお店を開いてるわけじゃないんですよね?」
そうだ、と先輩の声が聞こえて、やっと事実を理解できたことに息をついた。
『ウチの婆さんは、あんな大人しく死ぬような性格では無いし、この世に興味を引くものが多すぎて、素直に死なない』
「そんなことを言っちゃダメですよ」
不謹慎ですよと言いたくなったけど、珍しくお婆ちゃんの悪口を言う先輩の声に張りがあることについ安心してしまった。
すっかり勘違いしてしまったけど、お葬式の手配とかで手一杯になってしまう店長さんの代わりを、今日は先輩が務めるらしい。
きっとコンビニもあたふたしている。
「解りました。気をつけて行ってきてくださいね」
ありがとう、手が空いたら連絡する。と少しホッとしたような先輩の声で電話を切った。
そのままベッドに寝転がって目を閉じる。
行儀悪く寝転がったまま何度か深呼吸すると、起き上がってバッグを小さなリュックに代えて中身も入れ替える。
鏡に全身を映す。
トップスを着替えると脱いだものを荷物と一緒に腕にかけて部屋を出た。
「お母さん、ごめん。洗濯ってまだ間に合う?」
洗い物をしながら、大丈夫よーとお母さんが声を張り上げた。
「どうせ雨だから急いで回すこともねぇ。カゴに入れちゃいなさい………あら?」
天気を嘆きながら手を拭き拭き出てきたお母さんは、私の服装を見て目を丸くした。
「デートなのに、そんなにシンプルで良いの?」
「うん。お出かけは中止になったから」
驚くお母さんに説明すると、同情的に頭を振ってから私を改めて頭から爪先まで眺めた。
「でも、出掛けるの?結香」
「うん。ちょっと先輩の家に行ってくる」
そう、と頷いたお母さんは気をつけて行ってらっしゃいと手を振った。
出迎えてくれたお母さんは、私が来たことにちょっと驚いたようだけど、いつものようにおっとりとごめんなさいねと言った。
「デートだったのに。夕弦の都合でダメになっちゃうなんて」
大丈夫ですと首を横に振って、あの、と口を開いた。
「もしかして、お母さん、何か先輩に頼まれたかなと思って来たんです。その、お手伝いを」
まぁ、と目を見開いたお母さんは、ありがとうと微笑んだ。
「とりあえず、ね。お弁当を作っていたの。なんやかやでご飯食べる余裕も気力もないだろうから。量が多いから手伝ってもらえると助かるわ」
テーブルの上には蓋の空いたお重がいくつか広げられていた。その近くには美味しそうな湯気をたてているお総菜のタッパーや海苔を巻かれる前のおにぎりが大きな皿の上に乗っていた。
洗面所を借りて手を洗うと、持ってきたエプロンを着ける。
おにぎりはお母さんがそのまま握り、私は台所と居間を往復してお総菜を温め直したり冷めたものを重箱に詰めたりする。
何回か往復しているうちに、あっという間にお重が完成した。
大きめの水筒にお味噌汁を注ぎながら陽くんを探してくるように言ったところで、当の陽くんが迷惑そうな表情で「煩いなぁ」と居間に入ってきた。
「母さんが騒いでも何にもーーー結香姉ちゃん?こんなとこで何してんの?」
お弁当を作る音が煩かったみたいだけど、私がいることに驚いてギョッと目を見開く。
「先輩が急いでバイトに行ったでしょう?こっちも忙しくしてるんじゃないかなと思って来てみたの」
ふぅんと相づちを打ちながらも、「結香姉ちゃんも、大変だね」となぜか同情された。
「休みの日に母さんのお守りなんてさ」
「陽、このお弁当届けてきて頂戴」
陽くんの言葉にお母さんはちょっとムッとしながら包みを指差した。
持つ前から重たいことが想像ついてるみたいで、うぇぇぇ、と陽くんがちょっと不満そうに顔を歪める。
「良いから行ってきなさい」
珍しく叱るような声で言うと、お母さんは腰に手を当てて胸を反らした。
「行ってくれないなら、お母さん、陽が苛めるって美紅ちゃんに告げ口するから」
「それ、卑怯だぞっ」
陽くんが声を荒げてもお母さんはツーンとそっぽを向いた。
「あの、私、持っていきます」
「あら、ダメよ。重いもの。結香ちゃんに持たせるなんてしたら、夕弦に怒られちゃう」
「自分で持てない量を詰めこまなきゃ良いじゃん、最初から」
呆れたような声を出した陽くんだけど、ため息を一つつくと、解ったよ、と言った。
「おれが持っていくよ」
「ありがとう、陽。助かるわ」
お母さんがにっこり笑ってお礼を言うと、陽くんはため息をつきながら風呂敷の結び目を掴んだ。
「やっぱり私も行きます。水筒もあるから」
申し出ると、困ったようにお母さんは片手を頬に当てた。
「そう?でも、重たいわよ?」
「大丈夫です。陽くんと一緒に行くので」
そう?と首を傾げたお母さんに見送られて、陽くんと歩き始めた。
「まったく、母さんにも困ったものだよ」
ときどき持ち手を代えながらため息をつく陽くんについ苦笑してしまった。
コンビニの裏手に廻ってインターホンを鳴らそうと指を伸ばすと「開いてるね」と陽くんが顎で玄関を指差した。
半開きになったドアからは、前にお邪魔したときには聞こえなかった人がひっきりなしに歩く足音や何かを問いかける声が聞こえる。
とりあえずインターホンを押して、すき間からごめんくださいと呼びかけると少しして奥の方から「はい」と応える声が聞こえた。
店長さんにしては若い声、と首を傾げていると、ドアを全開にしたのは本当に店長さんじゃない若い男の人だった。
天地さんか奥さんのどちらか、男の人の声だから店長さんだと思ってた私は、知らない男の人に驚いて固まった。
私が黙りこくってるものだから、男の人も困ったような表情で固まっている。
見かねたのか、陽くんが横から「こんにちは」と声をあげる。
「っ、はい。あぁっと………何でしょう」
弾かれたように息を吹き返した男の人に、陽くんは突然お邪魔してすみませんと頭を下げた。
「おれは、ここのコンビニでお世話になっている進藤夕弦の弟で、陽といいます」
「あぁ……………進藤の」
先輩を知ってるようで、男の人はちょっと屈みこんで陽くんの顔をしげしげと見つめ始めた。
思いきり観察されるからちょっと後退りした陽くんだけど、お母さんからのお弁当を届けに来たことをスラスラと説明した。
「それは………わざわざありがとう」
男の人は静かにお礼を言ったけど、ちょっと躊躇ってるようだった。
そりゃあ、初対面の人にお弁当どうぞと言われても困るよね。
でも、このお弁当はお母さんが気持ちを込めて作ったものなのにとお互いに固まっていると「あの」と陽くんが口を開いた。
「お兄さんは、ここの家の人ですか?」
「へ?あぁ、いや、違うよ」
そうですかと頷いた陽くんは、じゃあと首を傾けた。
「葬儀社の人ですか?」
違うと否定されるのを解っていたみたいで、陽くんはですよねと頷いて男の人をじっと見た。
つられて私も男の人を見上げる。
先輩と同じくらいだと思うけど、男の人は見た目から年齢を判断するのが難しい。
ラフな私服だから、学生なのか社会人なのかも解らないなと眺めていると、ふと気になった。
あれ、私、この人にあったことあるんじゃない?
思い出そうとさらに観察していると、私を一瞥した男の人が顔をしかめてちょっと身動ぎした。
ジロジロ見すぎて不愉快に思われたかな。
でも気になる。
あまり男の人を見ないように気をつけながら思い出そうとしていると、「タカフミくん」と男の人を呼ぶ声が近づいてきた。
「どうかしたの………あれ、結香ちゃん。それと、君は………」
玄関先で立ち尽くしている私たちを見て目を見開いた店長さんに、「お邪魔してます」と陽くんが頭を下げて、さっき男の人にした挨拶と説明を繰り返した。
店長さんはちょっと長い顔を片手でゴシゴシと擦りながら陽くんの説明を聞き終わると、「なるほどねぇ」とのんびり言った。
「そういえば、今日はご飯を食べていなかった気がするなぁ………だよね、タカフミくん?」
「え?」
急に話を振られた男の人は目を丸くして、まぁ、と言った。
「えぇ、まぁ……………そうですね」
躊躇いがちに男の人が肯定すると、「ごめんねぇ」と店長さんが苦笑した。
「預かってる側なのに、自分たちの都合ですっかり忘れちゃってさ」
男の人が首を横に振ると店長さんは陽くんが抱えてる包みを見てにっこり笑った。
「せっかくだし、ありがたく頂こうか。二人ともありがとう。騒がしいけど、上がって休んでいって」
陽くんから包みを受け取った店長さんは「おぉ、こりゃ重い」と嬉しそうに言うと奥さんを呼びながら奧へ行ってしまった。
その背中を見送って、男の人が気まずそうに咳払いした。
「えぇと、じゃあ、どうぞ」
お邪魔します、と頭を下げると陽くんと二人、上がらせてもらうことにした。
店長さんから話を聞いた奧さんは、朝ごはんを忘れていたことに気づいて青白くなった。
お弁当を持ってきた私たちに何回もお礼を言うと、慌てたように朝ごはんを作り忘れたことを男の人に涙目で謝った。
男の人はうろたえて大丈夫ですからと繰り返した。
テーブルの上に出ていた電話帳やら手帳やらを片づけて、店長さんがお重を広げようとするのを陽くんとそっと手伝う。
取り皿やお箸を並べたところで店長さんが「いいから食べようよ」と二人を呼んで、やっとお重を囲むことになった。
私と陽くんは淹れてもらったお茶を飲む。
猫舌だから少しずつでないと飲めないけど、温かいお茶が欲しい陽気になってきた。
おばあちゃんは大きな湯飲みに半分くらい淹れたお茶をゆっくり飲むのが好きな人だった。
あそこの卓袱台でお茶を飲みながら一緒に鶴を折ったりお菓子を貰ったりした。
思い出すとつい鼻がツンとするから、小さく鼻を啜って湯飲みに口をつける。
口にあたる湯気がすごく熱くて、急いで息を吹きかけていると「ナニ慌ててるの?」と陽くんに怪しまれてしまった。
なんでもないと首を振ると、ふぅんとつまらなそうに頷いてから、ふと取り分けたお総菜を摘まんでいる男の人を眺めて改めて首を傾げた。
「そういえば、その人、おじさんの息子とかじゃないんですか」
「あぁ、うん。僕らには子ども居なくてね」
ふぅん?と相づちを打った陽くんの顔を見て、「この子はね」と店長さんは口を開いた。
「夕弦くんと同じ大学に通ってるんだけど、一人暮らしでね。生活費を自分で稼がないといけないんだ」
一度言葉を切ると、「生活費とか自分で稼ぐとか、解るかな」と陽くんの顔を覗きこむ。
「なんとなくは」と陽くんが頷くとホッとしたように続けた。
「いつもは授業に併せてウチで仕事してもらってるんだけどね。夏休みで時間が増えるからバイトも増やしたいと思ってたそうなんだよ。でもねぇ」
店長さんは困ったように眉を寄せた。
「他でバイトを増やして身体を壊されたら、ウチとしても困るし。そんなら夏休みの間ウチに住み込みにしたらどうかなと誘ったんだよ」
訝しげに眉を寄せる陽くんに構わず「だって、ほら」とのんびり続ける。
「ウチのシフトを無理に増やすことも出来ないけどさ。ここで寝泊まりすれば通勤時間三分で済むし、光熱費が浮くでしょ」
光熱費って解る?と問う店長さんに頷いて、「そんなことを」と陽くんは口を開いた。
「バイトの人皆にやってるんですか?そんな」
「お人好しな真似を?」
言葉を探して視線を彷徨わせていた陽くんに代わって続きの言葉を言うと、店長さんは声を出さずに笑った。
おずおずと陽くんが頷くと「流石に全員はやらないなぁ」と苦笑する。
「ウチにバイトに来る子でこの子程必死なのは居ないし。それに、この子が居てくれるメリットが僕らにもあったからね」
メリット、とおうむ返しに聞く陽くんに、うんそう、と店長さんは頷いた。
「ほら、ウチには婆ちゃんが居るからね」
そう言ってから、ふ、と息をついて「あ、居た、だよね」と苦笑いする店長さんは、やっぱり心の中が騒いでるんだろうな、と思うと私はただ湯飲みを持って耳を傾けた。
少し間があって、あぁ、ごめんね?と息を吹き返すように苦笑した店長さんに陽くんは黙って首を横に振る。
「婆ちゃんは徘徊の心配は無い人だったんだけど、だからといって世話の時以外は一人でここに残すわけにいかないでしょ。僕も家内も様子を見に来るようにはしてたけど、一緒に居て相手してくれる人間が多いのは助かったんだよ」
それに、と店長さんはお茶を飲んで一息ついた。
「タカフミくんは夕弦くんの紹介だからね。同居しても大丈夫だろうと思ったんだよ」
さっきから思い出せそうで思い出せないのは、私自身の知り合いじゃなくて先輩の知り合いだったからなのかな。
人の顔と名前を覚えるのはそんなに得意でもないけど、だからこそ先輩から紹介された人のことはしっかり覚えていたつもりだったんだけど………
もう少しで思い出せそうな気がして一人考えている私の隣で、陽くんはふぅんと頷いた。お兄さんの名前が出たから、よけいに納得できたのかも。
とりあえず男の人について納得した陽くんはテーブルの片隅に追いやられた物を眺めた。
「ごめんね、散らかってて」
「それは、別に良いけど」
小首を傾げて少し考えていた陽くんは、大変ですかと聞いた。
「そうだねぇ。バタバタしちゃってるねぇ」
苦笑いする店長さんに、陽くんはそっと口を開いた。
「ウチの母さんが、何か手伝いがいるなら声をかけて欲しいと言ってましたけど」
雑用でも弁当の出前でも、と陽くんが付け加えると店長さんは頬をゴシゴシ擦りながら唸った。
「有り難い申し出だけど……甘えて良いものなのかなぁ」
「いいんじゃないですか」
どこか他人事のように陽くんが言った。
「今朝だって兄ちゃんが止めたから留守番してただけなんだから、こき使ったら良いと思う」
お母さんに悪い言い種だけど店長さんは、ふ、と破顔すると「お願いしようか?」と奥さんを見た。
「でも」
「身内のことだからと僕らだけでやってみたけど、てんやわんやしただけで、何がどう終わってるのかどうかも解らない状態だろう?申し訳ないけど手助けしてもらおうよ」
奧さんは躊躇っているようだけど店長さんにそうしようよと何度か諭されると、ショボンと肩を落として頷いた。
言いそびれてしまったけど、おばあちゃんに会っても良いですかと聞くと店長さんは頷いて、おばあちゃんの部屋に通してくれた。
部屋の真ん中に敷かれた布団に寝ているおばあちゃんは、ただ寝ているだけに見えた。
作業に戻るから何かあったら声かけて、という意味合いの声がぼんやり聞こえる。
ゆっくり部屋の中に入ると、おばあちゃんの枕元に座った。
穏やかな顔だった。
痛そうでも苦しそうでもなくて、いつもみたいに微笑んでいるように見えた。
頬の青白さにちょっと触れてみると、温かくなくて、少し固いようにも感じた。
顔を上げると、文机の上に折りかけの鶴が転がっていた。
眺めているうちに視界がぼやけてきて、どうしようもできなくなった。
ずずっとみっともなく鼻を啜っていると、桃色の四角い物が視界の端ににゅっと現れた。
「ずっ………、ぅえ………?」
目を擦って見ると、ティッシュの箱だった。ピンクのカバーはおばあちゃんが何年も前に作ったものだと聞いたのを思い出して、また目が潤みかかるのを頭を振ってごまかした。
なんとか涙を堪えて見ていると、また箱がずいと突き出される。
みっともないけど音を立てて鼻をかむと今度は文机の近くに置いてあった屑入れを差し出された。
言葉なくゴミを入れると屑入れは引いて元の場所に戻る。
戻したのは、あの男の人だった。店長さんが、タカフミくんと呼んでいた。
眉を寄せてこちらを見下ろす目を、前にも見たことがある気がする。
「…………………………あ、あぁっ?」
思い出したショックでつい指差すと、その眉がぎゅっと狭まった。
あ、失礼だった。
「あの、前に助けてくれた店員さんですよね?ハンバーガーショップの」
指を仕舞って尋ねると、ふん、とか、あぁ、みたいな音を出して私から目を反らす。
「あのときは、ありがとうございました。知佳ちゃ………あのとき一緒にいた友だちも、その子の彼氏も感謝してたんですけど、お礼を言えなくて、ごめんなさい」
「………………別に」
あれからだいぶ経ってるから、そっけない口調で返された。目を合わさないまま、それより、と言われた。
「その顔、もう少しどうにかしろよ」
「へ?」
首を傾げると、はぁぁっと大きなため息をついて、男の人はタンスの引き出しからおばあちゃんの手鏡を取り出した。
「ーーーぅわっ??」
向けられた鏡に映った自分に驚いて仰け反る。
鼻は拭いたからマシだけど、全体的に悲劇的すぎて、これじゃ表を歩けない。ここに来たときと同じくらい雨が降ってたら、傘でごまかせるかな。
どうしよう、と呟くと仕方ないなというように男の人がため息をついた。
こっちと手招かれて洗面所に連れていかれる。
「とりあえず、洗ったら?」
男の人の勧めに頷いて顔を洗っていると、お母さんがごめんくださいと告げる声が聞こえてきて、なんだか安心のため息をついてしまった。
◆ 想いを折る ◆
昼を過ぎれば客の入りも減る。
店内を見回して大丈夫かと視線を向けると、そこそこ長く勤めている女子が頷いて寄越した。
手を洗ってからロッカーからスマホを取り出し表に出る。
結香にかけてみるが短い呼び出し音の後でマナーモードがかけられていることを告げられた。
この雨の中をわざわざ出掛けたのだろうか。
それとも夢中で本でも読んでいるのだろうか。
声が聞けないことに落胆しながらも、伝言を残し足早に店長宅の玄関に向かう。
これから人が出入りすることを見越してか、バイトでは後輩、大学では学部違いの同期が玄関の掃除をしていた。
「バイトは?」
制服姿のままの俺を見て、そいつは訝しげに尋ねてくる。
客の波が引いてきたので様子を見に来たと言えば、自分で腕時計を確認し「もう、そんな時間帯か」と呟く。
一ヶ月弱とはいえ共に暮らした人間が亡くなったことに、かなり動揺しているらしい。
そんなことを言う俺も、いつもの仕事をこなすことで多少落ち着いてきた感がする程度だ。
今日は役割を交換するべきだったかと内心首を傾げながら、様子はどうだと聞いてみると、何故か呆れたような半眼を向ける。
「お前が寄越したアドバイザーのお蔭でそこそこ巧くいってるんじゃないか?」
アドバイザー?と鸚鵡返しに問うと「じゃなきゃコンパニオンだ」と投げやりにボヤいてから、嘆息した。
「お前の母親と名乗っていたが、姉の間違いじゃないのか」
こういう問いかけは小学校の授業参観以来だった。
無性に懐かしく感じるのは、俺の当時を知る人間が一人亡くなったとどうしても感じ入ってしまうからだろうか。
母親だと主張すると、流石に子どものように嘘だと騒ぐことはなかったが「若過ぎるだろ」と嘆息された。
容姿でかなり驚かせたようだが、母さんはかなり手伝ったらしい。
いい加減俺も中に邪魔するかと見ると、見慣れたスニーカーが視界に入った。
「何故、結香がここに居るんだ」
「自分で聞け」
思わず呟くと、知るかと言わんばかりの口調で返される。
去年の騒動によって、こいつは結香に関わるのを避けるようになったらしい。
俺としては好ましいことだが。
確かに自分で聞けば良いことだと中に上がりかけると、あのな、と呼び止められた。
「俺は最善を尽くしたし、少なくとも俺が原因じゃねぇからな」
何を言っているんだと追及するが、そいつは早く行けと手を振るだけで、掃除に戻ってしまった。
ダイニングテーブルで何か書き物をしていた店長にコンビニでは特に問題無いことを報告していると、「あら、夕弦」と盆を持った母さんが普通に入ってきた。
普通に、他人様の家とは思えない程いつも通りの言動の母さんに少々拍子抜けする。
俺の表情を読んだ母さんは、もうっと頬を膨らませた。
「夕弦までそんな顔してっ。母さん、ちゃんとお手伝いしてるものっ」
「いや、本当にお母さんが居てくれたお蔭で葬儀屋さんの話も納得できたし、親戚への連絡も混乱せずに済みそうなんだよ」
店長が補助するように言うので得心したと頷くと、ぶすっと剥れていた母さんの頬がやがて引っ込む。
「そうそう、夕弦。来たんなら結香ちゃんを呼んできてよ」
そろそろお茶にするからと言う盆の上を見ると、家で何回か見たパウンドケーキが乗っていた。
わざわざ持ってきたらしい。
早く早くと急かすので、ばあさんの部屋へ行くと結香はこちらに背を向けたまま、小さく呟いていた。
「ーーーあぁ、また曲がった。おばあちゃんの鶴みたいに綺麗に折れないねぇ」
文机を借りて、ばあさんに話し掛けながら折り鶴を折っているようだ。
「うん、今度はちょっと綺麗。でも、おばあちゃんの鶴ほどハンサムじゃないかな」
静かな声の合間に、時折鼻を啜る音が聞こえる。
結香と呼ぶと、小さな背中がビクリと震えてゆっくりと振り返る。
こちらを向いた顔はやはり泣き顔で、少々呆然としていたがやがて俺がここに居ることに狼狽え始めた。
目を擦らせないようにして涙を拭うが、その目は既に少々腫れていた。
彼奴が言っていたのはこの事かと得心しつつ、結香の言い訳を聞きながら髪を撫で背中を擦る。
この部屋ででは無いが一緒に鶴を折った事が結香とばあさんの思い出らしい。
だからせめて最期にとここで話し掛けながら折り鶴を折っていたようだ。
以前何かの折に聞いた話だが、千羽鶴を棺に入れることもあるらしい。
結香の想いもばあさんに届けば良い。
そんなことを思いながら、二人で折り鶴を折った。
上着を変えようか、それともハンドタオルを大きめのにしようかと悩んでいたら、スマホが鳴った。
もしもしと取ると『結香』と先輩の声が聞こえる。なんだかすごく焦っているみたい。珍しい。
「先輩?どうしました?」
聞くと電話の向こうで、済まない、といきなり謝られた。
『今日、出掛けられなくなった』
お出かけできないのは残念だけど、先輩の声に余裕がぜんぜんない方が気になる。
「何かあったんですか?」
うん、とためらうような咳払いが聞こえたけど、あまり間を置かずに『あのな』と声が続いた。
『ばあさんが、亡くなったんだ』
え、と驚く声が受話器の向こうまで響くくらい大きいのか相づちにも認識されないほど掠れてるのか、自分でも解らなかった。
この間お世話になったときは、すごく元気で、私や美紅ちゃんに浴衣を当てて微笑んでくれたのに。
今朝起こしに部屋に行ったら亡くなっていたんだ、と先輩の声が頭の中で好き勝手に跳ね回ってるような目眩に、思わずベッドに座りこむ。
『夏はなんとか越えたが、歳も歳だから覚悟していなかった訳ではないが、葬儀の手配や遠方の親戚への連絡で商売どころでは無いだろう?暫くはバイト達で店を廻すことになる。とりあえず、今日は俺がシフトに入る』
説明しているうちに先輩の声は落ち着いてきたみたいだけど、私は話の流れについていけなくてベッドの上で首を傾げた。
「み。店?シフト、ですか?」
予想していなかったワードにただただ首を傾げる。
そういえばお婆ちゃんはお祖父さんの会社とは別の事業を起こしているとか聞いたけど、何かの店だったの?
先輩がお婆ちゃんの仕事を手伝っているなんて知らなかったけど、トップのお婆ちゃんがいない状態でお店は大丈夫なの?
いや、その前に。
先輩は、お婆ちゃんの孫だよね?一番目の孫だよね?
……………先輩は、お葬式じゃなくてお店の方をやってて良いものなの……………?
ぜんぜん脳ミソが動いていない。
パニックの中で首を捻っていると、『あぁ』とどこか納得したような声が聞こえた。
『亡くなったのは、コンビニのばあさんだ』
「はぇっ?」
驚きと動揺で声が裏返ったけど、先輩はそこには触れずに『すまん』と謝った。
『主語が抜けていたな。済まない』
先輩にしては珍しい言葉づかいだったような気がする。先輩もまだ動揺してるのかもしれない。
「じゃあ、亡くなったのはコンビニのおばあちゃんで、お婆ちゃん………えぇと、千鶴子お婆ちゃんは、何かお店を開いてるわけじゃないんですよね?」
そうだ、と先輩の声が聞こえて、やっと事実を理解できたことに息をついた。
『ウチの婆さんは、あんな大人しく死ぬような性格では無いし、この世に興味を引くものが多すぎて、素直に死なない』
「そんなことを言っちゃダメですよ」
不謹慎ですよと言いたくなったけど、珍しくお婆ちゃんの悪口を言う先輩の声に張りがあることについ安心してしまった。
すっかり勘違いしてしまったけど、お葬式の手配とかで手一杯になってしまう店長さんの代わりを、今日は先輩が務めるらしい。
きっとコンビニもあたふたしている。
「解りました。気をつけて行ってきてくださいね」
ありがとう、手が空いたら連絡する。と少しホッとしたような先輩の声で電話を切った。
そのままベッドに寝転がって目を閉じる。
行儀悪く寝転がったまま何度か深呼吸すると、起き上がってバッグを小さなリュックに代えて中身も入れ替える。
鏡に全身を映す。
トップスを着替えると脱いだものを荷物と一緒に腕にかけて部屋を出た。
「お母さん、ごめん。洗濯ってまだ間に合う?」
洗い物をしながら、大丈夫よーとお母さんが声を張り上げた。
「どうせ雨だから急いで回すこともねぇ。カゴに入れちゃいなさい………あら?」
天気を嘆きながら手を拭き拭き出てきたお母さんは、私の服装を見て目を丸くした。
「デートなのに、そんなにシンプルで良いの?」
「うん。お出かけは中止になったから」
驚くお母さんに説明すると、同情的に頭を振ってから私を改めて頭から爪先まで眺めた。
「でも、出掛けるの?結香」
「うん。ちょっと先輩の家に行ってくる」
そう、と頷いたお母さんは気をつけて行ってらっしゃいと手を振った。
出迎えてくれたお母さんは、私が来たことにちょっと驚いたようだけど、いつものようにおっとりとごめんなさいねと言った。
「デートだったのに。夕弦の都合でダメになっちゃうなんて」
大丈夫ですと首を横に振って、あの、と口を開いた。
「もしかして、お母さん、何か先輩に頼まれたかなと思って来たんです。その、お手伝いを」
まぁ、と目を見開いたお母さんは、ありがとうと微笑んだ。
「とりあえず、ね。お弁当を作っていたの。なんやかやでご飯食べる余裕も気力もないだろうから。量が多いから手伝ってもらえると助かるわ」
テーブルの上には蓋の空いたお重がいくつか広げられていた。その近くには美味しそうな湯気をたてているお総菜のタッパーや海苔を巻かれる前のおにぎりが大きな皿の上に乗っていた。
洗面所を借りて手を洗うと、持ってきたエプロンを着ける。
おにぎりはお母さんがそのまま握り、私は台所と居間を往復してお総菜を温め直したり冷めたものを重箱に詰めたりする。
何回か往復しているうちに、あっという間にお重が完成した。
大きめの水筒にお味噌汁を注ぎながら陽くんを探してくるように言ったところで、当の陽くんが迷惑そうな表情で「煩いなぁ」と居間に入ってきた。
「母さんが騒いでも何にもーーー結香姉ちゃん?こんなとこで何してんの?」
お弁当を作る音が煩かったみたいだけど、私がいることに驚いてギョッと目を見開く。
「先輩が急いでバイトに行ったでしょう?こっちも忙しくしてるんじゃないかなと思って来てみたの」
ふぅんと相づちを打ちながらも、「結香姉ちゃんも、大変だね」となぜか同情された。
「休みの日に母さんのお守りなんてさ」
「陽、このお弁当届けてきて頂戴」
陽くんの言葉にお母さんはちょっとムッとしながら包みを指差した。
持つ前から重たいことが想像ついてるみたいで、うぇぇぇ、と陽くんがちょっと不満そうに顔を歪める。
「良いから行ってきなさい」
珍しく叱るような声で言うと、お母さんは腰に手を当てて胸を反らした。
「行ってくれないなら、お母さん、陽が苛めるって美紅ちゃんに告げ口するから」
「それ、卑怯だぞっ」
陽くんが声を荒げてもお母さんはツーンとそっぽを向いた。
「あの、私、持っていきます」
「あら、ダメよ。重いもの。結香ちゃんに持たせるなんてしたら、夕弦に怒られちゃう」
「自分で持てない量を詰めこまなきゃ良いじゃん、最初から」
呆れたような声を出した陽くんだけど、ため息を一つつくと、解ったよ、と言った。
「おれが持っていくよ」
「ありがとう、陽。助かるわ」
お母さんがにっこり笑ってお礼を言うと、陽くんはため息をつきながら風呂敷の結び目を掴んだ。
「やっぱり私も行きます。水筒もあるから」
申し出ると、困ったようにお母さんは片手を頬に当てた。
「そう?でも、重たいわよ?」
「大丈夫です。陽くんと一緒に行くので」
そう?と首を傾げたお母さんに見送られて、陽くんと歩き始めた。
「まったく、母さんにも困ったものだよ」
ときどき持ち手を代えながらため息をつく陽くんについ苦笑してしまった。
コンビニの裏手に廻ってインターホンを鳴らそうと指を伸ばすと「開いてるね」と陽くんが顎で玄関を指差した。
半開きになったドアからは、前にお邪魔したときには聞こえなかった人がひっきりなしに歩く足音や何かを問いかける声が聞こえる。
とりあえずインターホンを押して、すき間からごめんくださいと呼びかけると少しして奥の方から「はい」と応える声が聞こえた。
店長さんにしては若い声、と首を傾げていると、ドアを全開にしたのは本当に店長さんじゃない若い男の人だった。
天地さんか奥さんのどちらか、男の人の声だから店長さんだと思ってた私は、知らない男の人に驚いて固まった。
私が黙りこくってるものだから、男の人も困ったような表情で固まっている。
見かねたのか、陽くんが横から「こんにちは」と声をあげる。
「っ、はい。あぁっと………何でしょう」
弾かれたように息を吹き返した男の人に、陽くんは突然お邪魔してすみませんと頭を下げた。
「おれは、ここのコンビニでお世話になっている進藤夕弦の弟で、陽といいます」
「あぁ……………進藤の」
先輩を知ってるようで、男の人はちょっと屈みこんで陽くんの顔をしげしげと見つめ始めた。
思いきり観察されるからちょっと後退りした陽くんだけど、お母さんからのお弁当を届けに来たことをスラスラと説明した。
「それは………わざわざありがとう」
男の人は静かにお礼を言ったけど、ちょっと躊躇ってるようだった。
そりゃあ、初対面の人にお弁当どうぞと言われても困るよね。
でも、このお弁当はお母さんが気持ちを込めて作ったものなのにとお互いに固まっていると「あの」と陽くんが口を開いた。
「お兄さんは、ここの家の人ですか?」
「へ?あぁ、いや、違うよ」
そうですかと頷いた陽くんは、じゃあと首を傾けた。
「葬儀社の人ですか?」
違うと否定されるのを解っていたみたいで、陽くんはですよねと頷いて男の人をじっと見た。
つられて私も男の人を見上げる。
先輩と同じくらいだと思うけど、男の人は見た目から年齢を判断するのが難しい。
ラフな私服だから、学生なのか社会人なのかも解らないなと眺めていると、ふと気になった。
あれ、私、この人にあったことあるんじゃない?
思い出そうとさらに観察していると、私を一瞥した男の人が顔をしかめてちょっと身動ぎした。
ジロジロ見すぎて不愉快に思われたかな。
でも気になる。
あまり男の人を見ないように気をつけながら思い出そうとしていると、「タカフミくん」と男の人を呼ぶ声が近づいてきた。
「どうかしたの………あれ、結香ちゃん。それと、君は………」
玄関先で立ち尽くしている私たちを見て目を見開いた店長さんに、「お邪魔してます」と陽くんが頭を下げて、さっき男の人にした挨拶と説明を繰り返した。
店長さんはちょっと長い顔を片手でゴシゴシと擦りながら陽くんの説明を聞き終わると、「なるほどねぇ」とのんびり言った。
「そういえば、今日はご飯を食べていなかった気がするなぁ………だよね、タカフミくん?」
「え?」
急に話を振られた男の人は目を丸くして、まぁ、と言った。
「えぇ、まぁ……………そうですね」
躊躇いがちに男の人が肯定すると、「ごめんねぇ」と店長さんが苦笑した。
「預かってる側なのに、自分たちの都合ですっかり忘れちゃってさ」
男の人が首を横に振ると店長さんは陽くんが抱えてる包みを見てにっこり笑った。
「せっかくだし、ありがたく頂こうか。二人ともありがとう。騒がしいけど、上がって休んでいって」
陽くんから包みを受け取った店長さんは「おぉ、こりゃ重い」と嬉しそうに言うと奥さんを呼びながら奧へ行ってしまった。
その背中を見送って、男の人が気まずそうに咳払いした。
「えぇと、じゃあ、どうぞ」
お邪魔します、と頭を下げると陽くんと二人、上がらせてもらうことにした。
店長さんから話を聞いた奧さんは、朝ごはんを忘れていたことに気づいて青白くなった。
お弁当を持ってきた私たちに何回もお礼を言うと、慌てたように朝ごはんを作り忘れたことを男の人に涙目で謝った。
男の人はうろたえて大丈夫ですからと繰り返した。
テーブルの上に出ていた電話帳やら手帳やらを片づけて、店長さんがお重を広げようとするのを陽くんとそっと手伝う。
取り皿やお箸を並べたところで店長さんが「いいから食べようよ」と二人を呼んで、やっとお重を囲むことになった。
私と陽くんは淹れてもらったお茶を飲む。
猫舌だから少しずつでないと飲めないけど、温かいお茶が欲しい陽気になってきた。
おばあちゃんは大きな湯飲みに半分くらい淹れたお茶をゆっくり飲むのが好きな人だった。
あそこの卓袱台でお茶を飲みながら一緒に鶴を折ったりお菓子を貰ったりした。
思い出すとつい鼻がツンとするから、小さく鼻を啜って湯飲みに口をつける。
口にあたる湯気がすごく熱くて、急いで息を吹きかけていると「ナニ慌ててるの?」と陽くんに怪しまれてしまった。
なんでもないと首を振ると、ふぅんとつまらなそうに頷いてから、ふと取り分けたお総菜を摘まんでいる男の人を眺めて改めて首を傾げた。
「そういえば、その人、おじさんの息子とかじゃないんですか」
「あぁ、うん。僕らには子ども居なくてね」
ふぅん?と相づちを打った陽くんの顔を見て、「この子はね」と店長さんは口を開いた。
「夕弦くんと同じ大学に通ってるんだけど、一人暮らしでね。生活費を自分で稼がないといけないんだ」
一度言葉を切ると、「生活費とか自分で稼ぐとか、解るかな」と陽くんの顔を覗きこむ。
「なんとなくは」と陽くんが頷くとホッとしたように続けた。
「いつもは授業に併せてウチで仕事してもらってるんだけどね。夏休みで時間が増えるからバイトも増やしたいと思ってたそうなんだよ。でもねぇ」
店長さんは困ったように眉を寄せた。
「他でバイトを増やして身体を壊されたら、ウチとしても困るし。そんなら夏休みの間ウチに住み込みにしたらどうかなと誘ったんだよ」
訝しげに眉を寄せる陽くんに構わず「だって、ほら」とのんびり続ける。
「ウチのシフトを無理に増やすことも出来ないけどさ。ここで寝泊まりすれば通勤時間三分で済むし、光熱費が浮くでしょ」
光熱費って解る?と問う店長さんに頷いて、「そんなことを」と陽くんは口を開いた。
「バイトの人皆にやってるんですか?そんな」
「お人好しな真似を?」
言葉を探して視線を彷徨わせていた陽くんに代わって続きの言葉を言うと、店長さんは声を出さずに笑った。
おずおずと陽くんが頷くと「流石に全員はやらないなぁ」と苦笑する。
「ウチにバイトに来る子でこの子程必死なのは居ないし。それに、この子が居てくれるメリットが僕らにもあったからね」
メリット、とおうむ返しに聞く陽くんに、うんそう、と店長さんは頷いた。
「ほら、ウチには婆ちゃんが居るからね」
そう言ってから、ふ、と息をついて「あ、居た、だよね」と苦笑いする店長さんは、やっぱり心の中が騒いでるんだろうな、と思うと私はただ湯飲みを持って耳を傾けた。
少し間があって、あぁ、ごめんね?と息を吹き返すように苦笑した店長さんに陽くんは黙って首を横に振る。
「婆ちゃんは徘徊の心配は無い人だったんだけど、だからといって世話の時以外は一人でここに残すわけにいかないでしょ。僕も家内も様子を見に来るようにはしてたけど、一緒に居て相手してくれる人間が多いのは助かったんだよ」
それに、と店長さんはお茶を飲んで一息ついた。
「タカフミくんは夕弦くんの紹介だからね。同居しても大丈夫だろうと思ったんだよ」
さっきから思い出せそうで思い出せないのは、私自身の知り合いじゃなくて先輩の知り合いだったからなのかな。
人の顔と名前を覚えるのはそんなに得意でもないけど、だからこそ先輩から紹介された人のことはしっかり覚えていたつもりだったんだけど………
もう少しで思い出せそうな気がして一人考えている私の隣で、陽くんはふぅんと頷いた。お兄さんの名前が出たから、よけいに納得できたのかも。
とりあえず男の人について納得した陽くんはテーブルの片隅に追いやられた物を眺めた。
「ごめんね、散らかってて」
「それは、別に良いけど」
小首を傾げて少し考えていた陽くんは、大変ですかと聞いた。
「そうだねぇ。バタバタしちゃってるねぇ」
苦笑いする店長さんに、陽くんはそっと口を開いた。
「ウチの母さんが、何か手伝いがいるなら声をかけて欲しいと言ってましたけど」
雑用でも弁当の出前でも、と陽くんが付け加えると店長さんは頬をゴシゴシ擦りながら唸った。
「有り難い申し出だけど……甘えて良いものなのかなぁ」
「いいんじゃないですか」
どこか他人事のように陽くんが言った。
「今朝だって兄ちゃんが止めたから留守番してただけなんだから、こき使ったら良いと思う」
お母さんに悪い言い種だけど店長さんは、ふ、と破顔すると「お願いしようか?」と奥さんを見た。
「でも」
「身内のことだからと僕らだけでやってみたけど、てんやわんやしただけで、何がどう終わってるのかどうかも解らない状態だろう?申し訳ないけど手助けしてもらおうよ」
奧さんは躊躇っているようだけど店長さんにそうしようよと何度か諭されると、ショボンと肩を落として頷いた。
言いそびれてしまったけど、おばあちゃんに会っても良いですかと聞くと店長さんは頷いて、おばあちゃんの部屋に通してくれた。
部屋の真ん中に敷かれた布団に寝ているおばあちゃんは、ただ寝ているだけに見えた。
作業に戻るから何かあったら声かけて、という意味合いの声がぼんやり聞こえる。
ゆっくり部屋の中に入ると、おばあちゃんの枕元に座った。
穏やかな顔だった。
痛そうでも苦しそうでもなくて、いつもみたいに微笑んでいるように見えた。
頬の青白さにちょっと触れてみると、温かくなくて、少し固いようにも感じた。
顔を上げると、文机の上に折りかけの鶴が転がっていた。
眺めているうちに視界がぼやけてきて、どうしようもできなくなった。
ずずっとみっともなく鼻を啜っていると、桃色の四角い物が視界の端ににゅっと現れた。
「ずっ………、ぅえ………?」
目を擦って見ると、ティッシュの箱だった。ピンクのカバーはおばあちゃんが何年も前に作ったものだと聞いたのを思い出して、また目が潤みかかるのを頭を振ってごまかした。
なんとか涙を堪えて見ていると、また箱がずいと突き出される。
みっともないけど音を立てて鼻をかむと今度は文机の近くに置いてあった屑入れを差し出された。
言葉なくゴミを入れると屑入れは引いて元の場所に戻る。
戻したのは、あの男の人だった。店長さんが、タカフミくんと呼んでいた。
眉を寄せてこちらを見下ろす目を、前にも見たことがある気がする。
「…………………………あ、あぁっ?」
思い出したショックでつい指差すと、その眉がぎゅっと狭まった。
あ、失礼だった。
「あの、前に助けてくれた店員さんですよね?ハンバーガーショップの」
指を仕舞って尋ねると、ふん、とか、あぁ、みたいな音を出して私から目を反らす。
「あのときは、ありがとうございました。知佳ちゃ………あのとき一緒にいた友だちも、その子の彼氏も感謝してたんですけど、お礼を言えなくて、ごめんなさい」
「………………別に」
あれからだいぶ経ってるから、そっけない口調で返された。目を合わさないまま、それより、と言われた。
「その顔、もう少しどうにかしろよ」
「へ?」
首を傾げると、はぁぁっと大きなため息をついて、男の人はタンスの引き出しからおばあちゃんの手鏡を取り出した。
「ーーーぅわっ??」
向けられた鏡に映った自分に驚いて仰け反る。
鼻は拭いたからマシだけど、全体的に悲劇的すぎて、これじゃ表を歩けない。ここに来たときと同じくらい雨が降ってたら、傘でごまかせるかな。
どうしよう、と呟くと仕方ないなというように男の人がため息をついた。
こっちと手招かれて洗面所に連れていかれる。
「とりあえず、洗ったら?」
男の人の勧めに頷いて顔を洗っていると、お母さんがごめんくださいと告げる声が聞こえてきて、なんだか安心のため息をついてしまった。
◆ 想いを折る ◆
昼を過ぎれば客の入りも減る。
店内を見回して大丈夫かと視線を向けると、そこそこ長く勤めている女子が頷いて寄越した。
手を洗ってからロッカーからスマホを取り出し表に出る。
結香にかけてみるが短い呼び出し音の後でマナーモードがかけられていることを告げられた。
この雨の中をわざわざ出掛けたのだろうか。
それとも夢中で本でも読んでいるのだろうか。
声が聞けないことに落胆しながらも、伝言を残し足早に店長宅の玄関に向かう。
これから人が出入りすることを見越してか、バイトでは後輩、大学では学部違いの同期が玄関の掃除をしていた。
「バイトは?」
制服姿のままの俺を見て、そいつは訝しげに尋ねてくる。
客の波が引いてきたので様子を見に来たと言えば、自分で腕時計を確認し「もう、そんな時間帯か」と呟く。
一ヶ月弱とはいえ共に暮らした人間が亡くなったことに、かなり動揺しているらしい。
そんなことを言う俺も、いつもの仕事をこなすことで多少落ち着いてきた感がする程度だ。
今日は役割を交換するべきだったかと内心首を傾げながら、様子はどうだと聞いてみると、何故か呆れたような半眼を向ける。
「お前が寄越したアドバイザーのお蔭でそこそこ巧くいってるんじゃないか?」
アドバイザー?と鸚鵡返しに問うと「じゃなきゃコンパニオンだ」と投げやりにボヤいてから、嘆息した。
「お前の母親と名乗っていたが、姉の間違いじゃないのか」
こういう問いかけは小学校の授業参観以来だった。
無性に懐かしく感じるのは、俺の当時を知る人間が一人亡くなったとどうしても感じ入ってしまうからだろうか。
母親だと主張すると、流石に子どものように嘘だと騒ぐことはなかったが「若過ぎるだろ」と嘆息された。
容姿でかなり驚かせたようだが、母さんはかなり手伝ったらしい。
いい加減俺も中に邪魔するかと見ると、見慣れたスニーカーが視界に入った。
「何故、結香がここに居るんだ」
「自分で聞け」
思わず呟くと、知るかと言わんばかりの口調で返される。
去年の騒動によって、こいつは結香に関わるのを避けるようになったらしい。
俺としては好ましいことだが。
確かに自分で聞けば良いことだと中に上がりかけると、あのな、と呼び止められた。
「俺は最善を尽くしたし、少なくとも俺が原因じゃねぇからな」
何を言っているんだと追及するが、そいつは早く行けと手を振るだけで、掃除に戻ってしまった。
ダイニングテーブルで何か書き物をしていた店長にコンビニでは特に問題無いことを報告していると、「あら、夕弦」と盆を持った母さんが普通に入ってきた。
普通に、他人様の家とは思えない程いつも通りの言動の母さんに少々拍子抜けする。
俺の表情を読んだ母さんは、もうっと頬を膨らませた。
「夕弦までそんな顔してっ。母さん、ちゃんとお手伝いしてるものっ」
「いや、本当にお母さんが居てくれたお蔭で葬儀屋さんの話も納得できたし、親戚への連絡も混乱せずに済みそうなんだよ」
店長が補助するように言うので得心したと頷くと、ぶすっと剥れていた母さんの頬がやがて引っ込む。
「そうそう、夕弦。来たんなら結香ちゃんを呼んできてよ」
そろそろお茶にするからと言う盆の上を見ると、家で何回か見たパウンドケーキが乗っていた。
わざわざ持ってきたらしい。
早く早くと急かすので、ばあさんの部屋へ行くと結香はこちらに背を向けたまま、小さく呟いていた。
「ーーーあぁ、また曲がった。おばあちゃんの鶴みたいに綺麗に折れないねぇ」
文机を借りて、ばあさんに話し掛けながら折り鶴を折っているようだ。
「うん、今度はちょっと綺麗。でも、おばあちゃんの鶴ほどハンサムじゃないかな」
静かな声の合間に、時折鼻を啜る音が聞こえる。
結香と呼ぶと、小さな背中がビクリと震えてゆっくりと振り返る。
こちらを向いた顔はやはり泣き顔で、少々呆然としていたがやがて俺がここに居ることに狼狽え始めた。
目を擦らせないようにして涙を拭うが、その目は既に少々腫れていた。
彼奴が言っていたのはこの事かと得心しつつ、結香の言い訳を聞きながら髪を撫で背中を擦る。
この部屋ででは無いが一緒に鶴を折った事が結香とばあさんの思い出らしい。
だからせめて最期にとここで話し掛けながら折り鶴を折っていたようだ。
以前何かの折に聞いた話だが、千羽鶴を棺に入れることもあるらしい。
結香の想いもばあさんに届けば良い。
そんなことを思いながら、二人で折り鶴を折った。
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