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番外編
知佳ちゃんの異変
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月曜日はみんな憂鬱そう。
私もヒトのことは言えないんだけど。
「四時間目の体育ってゴーモンだよねぇ」
誰かが言うと「言えてるー」と別のコが応えた。
「しかも月曜日!もう何の罰ゲーム?」
少し笑い声があがってから「でもさぁ」とまた誰かが言った。
「五時間目の体育もキツくない?」
教室のあちこちでそうかもと同調する声があがる。
「空腹時と食後すぐの体育、どっちもキツいわぁ~」
近くでほどいた髪を三つ編みに結い直していた子が「ね」と振り返る。
髪を帽子の中に押し込みながら、うん、と頷くとちょっと残念な子を見る目をされた。
「髪入れるの、手伝おうか?」
「大丈夫。もう少しで入るから」
帽子を被る前にピンで留めてはいるけど、一房を押し込むと逆サイドから別の一房が飛び出す。
何度かトライしてやっと全部を帽子の中に押し込んだ。
ふぅと息をついていると周りからお疲れと声をかけられる。
「毎回毎回これが鬱陶しいんだよね」
ストレートの髪の子が羨ましいとため息をつくと、「そうでもないよ」とため息で返された。
髪の毛が真っ直ぐでも全部の髪を帽子の中に入れるのは一苦労らしい。
「私らが苦労して髪を帽子で隠してるのに先生はチョロっと出してるの、ズルいよね」
「ね。私らには色気付くなとか言っておいて、自分は誰にアピールしてんだよっての」
軽口を叩きながら、着替えが終わった子は日焼け止めの塗り合いっこをしている。
「結香も背中塗る?」
左手をクリームで光らせた知佳ちゃんが小首を傾げた。
「うん。お願い」
背中を向けるとすぐにチョンチョンと冷たいクリームが水着を避けて塗られる。教室がむぁっとしているから日焼け止めの冷たさがちょっと気持ちいい。
背中の冷たさにホッと息をついていると「あらら」と小さく驚く声が聞こえた。
「なに?何かついてる?」
うん、まぁね。と知佳ちゃんは珍しく言葉を濁した。
「結香。昨日一昨日は東京に行ってきたのね」
「すごい!なんで解るの?」
塗ってもらってる途中で邪魔しちゃうかもしれないけど、驚いてつい振り返る。
日焼け止めが濡れないでしょ、と怒りもしないで、なんだか紅い顔をしている知佳ちゃんに首を傾げた。
「どうしたの、知佳ちゃん?気分悪くなった?」
教室の外に出て新鮮な空気を吸った方が良いかも。
連れ出そうとすると「大丈夫」と首を振られた。
「ちょっとね。見ちゃっただけだから」
「え。なに?ヘンな跡ついてるの?」
別におかしな体勢で寝たつもりはないんだけど。
首を傾げる私を「そろそろ行きましょ」と知佳ちゃんは促した。
あれ、と首を傾げていると「どうしたのー?」と下校の準備をしながら聞かれた。
「あ、うん。知佳ちゃん、知らない?」
え、と周りを見渡したその子も「いないねー」と首を傾げた。
「生徒会行ったんじゃない?」
「そうかなー………」
今日は仕事ないから一緒に帰ろうって話してたと思うんだけど。
うぅんと首を傾げていると「牧野よ」と宮本くんに呼ばれた。
「水瀬な。書類提出してない部長たちに突撃かけるから、先に帰ってくれ。だとよ」
「え………そうなの?」
少し不自然な気もするけど宮本くんに食い下がってもきっと意味はない。
解ったと頷くと、宮本くんは気遣わしげに眉尻を下げた。
「大丈夫か?一人で帰って。進藤先輩、呼ぶか?」
「大丈夫だもんっ」
心配してくれるのはありがたいけど、子どものような扱いは止めてほしい。同い年だし!
ぶくっとむくれた私を見て失礼にもあははと笑った宮本くんは、それでも「気をつけて帰れよな」と言った。
「日中でも危ないヤツが出歩いてる可能性だってあるんだから。何かあったら電話しろよ」
解ったよぅと少しだけ頬の空気を抜く。
「知佳ちゃんによろしくね」
手を振ると「おぅ」と片手を上げた宮本くんはさっさと教室を出ていった。
「私も帰ろ」
声に出すとちょっと寂しくなる。
鞄を持ち上げると足早に教室を出た。
あれ、今日も?と首を傾げると宮本くんは困ったように頭を掻いた。
ホームルームが終わるといつの間にか知佳ちゃんが教室からいなくなっていることが、最近いきなり増えた。それに合わせて、いないなと探していると宮本くんが伝言を伝えにやって来ることも増えた。
突然生徒会の仕事ができたから先に帰っていて、とか、用事があるから先に帰るけど挨拶してなかったからごめんね、とか。
「知佳ちゃん、最近なんかいつもと違うよね?」
「牧野もそう思うか」
宮本くんもそう感じていたようで、ガシガシと後頭部を掻く。
知佳ちゃんは生徒会長だし先生に用を頼まれることも多いけど、こんなに毎日急に消えるなんておかしい。帰りの挨拶を宮本くんに代弁させるのも知佳ちゃんらしくない。
「別に、喧嘩してるわけじゃないんだよなぁ」
言ってはみたものの宮本くん自身そう思っていなかったようで、私が頷くと「だよなぁ」と首を捻った。
「喧嘩してたらあんなにべったり世話なんかしねぇよなぁ」
「世話って」
大げさな、と言う私に「そうだろうが」と言って宮本くんは大きくため息をついた。
「毎朝牧野が来るなり近付いて、教室移動の度にぺったり張り付いてるんだぞ。あいつ、SPでも目指すつもりなのか」
「違うと思うけど」
否定しても宮本くんは沈痛な表情で頭を抱えている。
朝おはようと言い合って宿題の確認をしたりお弁当を食べてるときはいたって普通なんだけど、確かに廊下を歩くときは距離がいつもより近い気もする。
でもこうして不意に避けられるのも事実で。
知佳ちゃんに何があったのか解らない私はどうすれば良いのか、このところちょっと困っている。
「宮本くんとは知佳ちゃん、どんなカンジ?」
「どんなカンジって言われてもなぁ」
さっきとは逆サイドに首を捻った。
別にいつも通りなんだよなぁ、と困ったように唸る。
「書類出さない部長連中の尻は叩くし、書類の不備が見つかったら眉間にシワ刻んで修正してるし。予算オーバーしてる部長や委員長の首根っこ、それはもう生き生きと捕まえに走ってるし。昨日だってハーブティー淹れてやったら『羊羮食べるのになんでハーブティーなの』って元気に怒ってたし」
知佳ちゃん本人にはあまり生徒会のことを詳しく聞かないようにしてたから、宮本くんが語る知佳ちゃんの様子はどこか新鮮。
忙しそうと前から思っていたのが私の想像だけではないことははっきりしたけど、最近の知佳ちゃんの異変には関係なさそう。
「お家も今は落ち着いてるみたいだし、そうなると受験かなぁ?」
考えられる原因を挙げてみるけど宮本くんはうぅんとさらに首を捻った。
そんなに捻ると痛くしないかちょっと心配。
「ストレスにならないとは言えないけどさ。知佳の学力、そんなんで悩む程じゃねぇだろ?」
「だよねぇ」
宮本くんの言う通りだけど、だったら知佳ちゃんの不自然さの原因は何?という話で。
二人でうーんと首を捻って、同時にはぁとため息をついた。
「仕方ねぇな。俺もそれとなく探ってみるけど、牧野も知佳の様子見てやってくれよ」
「それは良いけど………なら、私から聞いてみた方が早くない?」
女の子同士の方が知佳ちゃんだって話しやすいんじゃと提案してみると、それは止めておけ、と言われてしまった。
なんで?と頬を膨らませる私に「あのなぁ」と宮本くんはため息をついた。
「どうしたのと聞かれて答えるくらいなら、こんな回りくどい態度取らずに言い出すよ、知佳なら。それに」
後ろ頭をガシガシ掻いてから宮本くんはジト目を私に向けた。
「牧野。あいつがサラッと答えちゃうような自然な聞き取り、出来るのか?」
私の顔を見て、だろう?とため息をついた宮本くんはひらひらと片手を振った。
「そういうのは俺がやるから。牧野は知佳をよく観察してくれよ。なんか手掛かり見せるかもしれないからさ」
解ったと頷くと、じゃ、と片手を上げて宮本くんは生徒会室に向けて歩いていった。
ふと瞬きをすると、長芋の和え物を摘まんだ先輩が私をじっと見ていた。
マズい。ボーッとしてたかも。
「え、と。何か言いましたか?」
軽く首を振った先輩は心配そうな目で見つめる。
「元気がない。具合が悪いわけでは無いようたが、放心している」
「そ」
冷静に観察したままを言い連ねた先輩は、私が否定する前に「悩み事か」と断定するように聞いてきた。
「悩み事、というほど深刻なことでもないんですけど」
「それでも、気になるんだろう?」
何があった、と口調は静かで佇まいも穏やかなのに、誤魔化せない雰囲気で。
言葉に詰まった私を認めた先輩はす、と視線をゴーヤチャンプルーに向けた。
「まぁ、いい」
ホッとすると同時につきんと胸が痛む。
知佳ちゃんのことを先輩に相談するのも何と話すか悩むから、追求の手を緩めてくれて助かったけど、心配してくれた気持ちを無下にして先輩を傷つけたような気がしてならない。
静まり返った居間に、食器の音がかすかに響く。
沈黙が怖くて膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。
「結香」
食器の音の合間に先輩の声が静かに響いた。
いつも通りではないけど、なんとか震えない声で「はい」と応えることができた。
「食事が終わったら時間をくれ」
「はい?」
まさかこれからどこかに行くの?
それともまさか、真面目な話?
心配したのに素直に答えない私とはもう一緒にいられない……………とか。
心臓が嫌な音を立てて視界が勝手に潤んできた。
カチャリと音がしたあとで大きな肌色のものが視界を塞いだ、と思ったら目に溜まった水分を優しく拭ってくれた。
温かいそれが先輩の指だ、と理解する前に大きくて温かい手が私の頬を包み、涙を拭った指先は優しく肌を撫でた。
「結香が安心して話せるように、念入りにリラックスさせてやるからな」
「ふ、ぇ」
にっこりと微笑まれた笑顔に見入って惚けている間に、先輩はせっせとご飯を食べた。
はい。先輩は有言実行の人でした。
白状してしまった脱力感と散々触られて必死に声を我慢した疲労感で、私はぐったりと沈みこむばかり。
そんな私を平然と後ろから抱えこんだ先輩は「なるほど」と頷きながら私の頭の天辺にキスを落として、ときどき頬ずりをしている。
私だけの問題じゃなくて知佳ちゃんにも関わることだから安易なことは言いたくなくて黙ってるつもりだったのに。
それをいつものお仕置きマッサージで聞き出す先輩って。
「いぢわるです」
なんとか不機嫌な声で言うと「すまん」と言ってくれたけど、声が笑ってる。
キッと睨みつけようと見上げたけど、労るような笑顔に顔が自然に弛んだ。
「憂いの元を晴らしたかったんだ」
そのためには私から話を聞く必要があった。
すまないと謝られてしまっては、これ以上怒るわけにもいかなくて、小さく息をついた。
さんざん暴れたし顔はまだ熱いし、まだ完全に怒りが消えたワケでもない。
きっと今の私はすっごく不細工なのに、そんな私を先輩は楽しそうに膝の上に乗せて慈しむように見つめてくる。
白状させられたのはいやいやだけど心配してもらえたのは嬉しい。
それに腕の中は気持ちが良くて、少し座り直してほっぺたを広い胸にあてる。腕を背中に巻きつけてぎゅうとくっつくと温かくて、満足のため息が出た。
「知佳ちゃん、どうしちゃったんだろ」
安心すると頭に浮かぶのはやっぱり知佳ちゃんのことで。
ぽつりと呟くとうんと唸る声が触れてる頭に直接響いた。
「まったく無視されているわけでは無いんだな」
そうなんですとひっついたまま頷く。
「お弁当はいつも通り一緒に食べてるし……教室で着替えるときはなんか着替えを手伝ってくれるし」
一人で着替えできるよと言ってもどこか危機迫った顔で『文句はあとで聞くからさっさと着替える!』と体操服を被せられる。
恥ずかしくて宮本くんには言えなかったけど。
頭の温かみがふっと離れる。
少し間が空いてから「なるほどな」と呟く声が聞こえて、頭にまた温かいものがやんわり乗った。
「おそらく、数日中には元に戻るだろう」
「え」
一瞬何のことなのかと目を瞬く。
知佳ちゃんのことを話してたんだ、と顔を上げようとしたけど先輩の頭で押さえこまれてて動けなかった。
「先輩。数日中に戻るってどういうことですか?知佳ちゃんがおかしい理由、解ったんですか?」
教えてください、と暴れてもしっかり抱きしめられていて抵抗になっていない。
結局先輩は理由らしい理由を教えてくれなかった。
ただ、温かい腕に包まれて大丈夫だと囁かれると、なんだか本当に大丈夫だと思えてきた。
「結香」
何ですと間延びした声で返しながら頭を振ると、いつの間にか頭が動かせるようになっていた。
弛く見上げるとなぜか眉尻を下げた表情で見つめられる。
「すまない」
「え。な、んです、か?いきなり」
先輩はなぜか申し訳なさそうに微笑んだ。
「今回のことは、俺のせいだろうから。だから、ごめん」
「え。なんで先輩のせいなんですか?先輩、知佳ちゃんと何かあったんですか?」
先輩はあっさり首を振る。
知佳ちゃんの調子がおかしい原因が先輩だなんて、ぜんぜん解らない。
謝らなくていいから理由を教えてほしいと言っても、先輩はただ困ったように微笑んで私を抱きしめた。
上着を脱いで、ふ、と周りを見渡す。
「あれ」
「どうしたの、結香」
「へ」
同じくキャミソール姿の知佳ちゃんが首を傾げた。
最近の流れならここで、体操服を急いで被らされる、はず。
上からの衝撃が来ないことに首を傾げていると、知佳ちゃんは首を傾けてため息をついた。
「早く着替えなさいよ。これから移動する時間も必要なんだから。授業に遅れるわよ」
「う、うん」
頷く私の肩を、近くで着替えていた子がツンツンとつっついた。
「ねぇ、結香?知佳、今日は普通ね?」
「そ、そうだね」
「止めちゃったの?おままごと」
「お、おままごと?」
そんなこと今さらしないよ!と首を振っても、そう?と小首を傾げられる。
「知佳がお母さん、結香が子どもの役でやってたんじゃないの?早くお着替えしないと幼稚園に遅れますよーって」
しかも私、幼稚園児!?
「やってないもんっ」
ぶすっとむくれると「はいはい」とか「ごめん、ごめん」と言いながら代わる代わる頭を撫でられる。
みんな背が高いからって子ども扱いするなんて!
むすーっと頬を膨らませていると、パンパンっと手を叩いた知佳ちゃんが、時間に遅れるよ、とみんなを促した。
ふふふと笑うと「どうしたのよ」と知佳ちゃんが訝しげに首を傾げた。
いけない。しばらくは様子を見て、ここ最近の異変についてあまり煩いことは言わないようにしようって宮本くんと話し合ったんだっけ。
「えーと………ほら。パジャマパーティー久しぶりでしょ?」
「……………ふーん。まぁ、いいけど」
ゆっくりとだけど寄せられた眉がほどけるのを見て、心の中でホッと息をつく。
「でも、本当に久しぶりだよね。知佳ちゃん、元々生徒会で忙しかったけど今年は受験もあるもんね」
元に戻ってくれたことが嬉しくてついパジャマパーティーに誘ってしまったけど、忙しいからと断られると思っていた。OK貰えて戸惑った分、よけいにワクワクしてしまう。
「結香だってそれは同じでしょ。良かったの?今日も本当は進藤先輩と約束してたんじゃないの?」
心配そうに首を傾げる知佳ちゃんに、大丈夫だよと首を振る。
「平気平気。先輩は今日バイト行くって言ってたもん。夜電話くれるって言ってたから、ちょっとその間席外すことになっちゃうけど」
どうぞと知佳ちゃんはいつもの落ち着いた表情で頷いた。
いきなり気まずそうに目を反らすこともない。
本当にいつも通りに戻ったんだなぁと思ったら、勝手に顔が弛む。
「何なの、もう」
知佳ちゃんのしかめ面でさえ嬉しくなってしまって、またニマニマしてしまった。
受験はデリケートな話題だから聞き方にも気を遣わないと、と思ったら実際にどう聞くか言葉に悩んで。
「大学受験って、大変?」
結局こんな気の利かない聞き方になってしまった。いかにも受験しないお気楽な立場丸出しってカンジで、ナーバスになっている人には喧嘩を売るような発言なんじゃないかな。
自分で言っておいて心の中でびくびくしていると、そうねぇという知佳ちゃんの声がのんびり聞こえた。
「志望校が本決まりしてない段階だから、大変といえば大変だけど。決まってない分本格的に受験に取りかかってるわけでもないから、ぜんぜん大変じゃない、とも言えるわね」
「志望校、決まってないの?」
いつも手際の良い知佳ちゃんのことだから、とっくに第一志望を決めてると思っていた。
私もそのつもりだったんだけどね、と知佳ちゃんはため息をついて紅茶をかき回した。
「ちょっとお母さんに反対されてて」
正直意外だったので目を丸くした。知佳ちゃんは無理のある計画は立てないし、知佳ちゃんのお母さんだって知佳ちゃんのやりたいことに反対するような人じゃなかったと思うんだけど。
「知佳ちゃん、そんな偏差値高い所に行こうとしてるの?」
「そりゃ世間では偏差値が高いと有名な大学だけど、今のところ学力で冒険しているカンジはないわよ」
けろりと言い放つ知佳ちゃんはいたっていつも通りで、受験生に対するイメージとはかなりかけ離れているけどなんだか知佳ちゃんらしくて、はぁ、と圧倒されてしまった。
「ま、受験勉強はするけどね。普通に」
「そ、そうなんだ………宮本くんも同じ大学行くの?」
どうかな、と知佳ちゃんは首を傾げた。
「誠吾は有名大学に行きたい、みたいな欲はないみたいだし。とりあえず私と同じ県の大学に進むつもりで考えてくれてるみたいだけど」
ちょっぴり紅い頬をカップで隠してる。
ふふ、知佳ちゃん、可愛い。
何よ、と知佳ちゃんがしかめ面になる前に、なんでもないとニマニマ顔を引っ込める。
「ちなみに、知佳ちゃんが行きたい大学ってどこか聞いても良いの?」
「別に良いわよ。まだ私一人の意見だし」
そう言って教えてくれたのは、私でも知ってる超有名大学。毎年毎年合格者にインタビューしてたり、最近では合格者のお家の教育方法が紹介されたりするような。
「えっと、知佳ちゃん的にはどっちの大学がより第一志望?」
「別にどっちでも良いの。二校の争いに興味ないし」
早くも落ち着きを取り戻した知佳ちゃんはごくごくと紅茶を飲み干した。
「でも両方とも東京だよね?」
そうなの、と頷いた知佳ちゃんはカップを戻しながらまたため息をついた。
「それが反対の理由なのよ」
つまり、一人暮らしを反対されてるみたい。
知佳ちゃんは家事もできるし、しっかりしてると思うんだけど。
「やっぱりずっと二人だったから、知佳ちゃんが家を出たら寂しいのかな、おばさん」
「そうねぇ………」
悩むような声をあげて少し視線を彷徨わせていた知佳ちゃんは、「あのね」と私の目をじっと見た。
「黙ってたけど。お母さん、今の上司とお付き合いしててね」
「えっ!」
声に出して驚いてしまってから口を押さえてごめんと呟くと、平気と首を振られた。
「じょ、上司ってあの、つまり社長だよね?おばさん、社長秘書だったよね?」
こそこそ確認すると、そう、と知佳ちゃんはあっさり首を縦に振った。
「引っ越したあの家、手配したのはその社長なのよね」
「そうなの?」
ずいぶん広くて立派なマンションだと思ったけど、社長秘書ならそのくらい稼いじゃうものなのかな、なんて思ってた。
「本格的なお付き合いは最近だけど、社長、だいぶ前からお母さんのこと狙ってたらしくて。『君のお母さん口説いてもいいかい?』ってこっそり聞かれたのよね」
「ふぉぉっ」
なにそれなにそれっ。ものすごく気になる!
「ド、ドラマみたいだねっ」
ついワクワクを隠せずに言うとおかわりを注ぎながら知佳ちゃんも頷いた。
「それで。それなりにデートはしてるみたいだけど、なまじ相手が社長だからお母さん、入籍を渋っててね。社長はとっとと囲いこみたいみたいだし、私が東京に行ったら一緒に暮らせばって言ったんだけど。それだと私を追い出してまで同棲するみたいで嫌だ、と言い出されちゃって」
はーっと知佳ちゃんのため息が紅茶の湯気を散らした。
「良い年なんだしお互い初婚なんだからサクッと籍入れちゃえば良いのにね」
「良い年はよけいだと思うよ?」
おばさんのために一応言うと「そうだけどさ」と知佳ちゃんはマドレーヌを取った。
社長も知佳ちゃんの案にはちょっと渋い顔をしているみたい。
「そりゃお母さんとラブラブ暮らしたいのは山々だし、私が有名大学を受験する動機も理解してくれてるみたいだけど、それでも、同棲早々私が出ていくのは嫌、なんだって」
知佳ちゃんは人と打ち解けるまでには少し時間がかかるみたいだけど、社長さんとはけっこう仲良くできてるみたい。
「社長さん、良い人なんだね」
「お母さん、にはっ、ねっ」
手こずっている知佳ちゃんにハサミを差し出すと「ありがと」と受け取った。
「でも、知佳ちゃんも東京で暮らしてくれるなら嬉しいな。たまには一緒に遊びに行けるかもしれないもんね」
期待をこめて言うと、知佳ちゃんもにこりと笑った。
「そうね。今より機会は減るだろうけど、そうできたら良いわね。私も安心だし。茜さんは上京しないの?」
どうかなぁと首を捻った。
「たぶん、しないんじゃないかなぁ。旦那さんの都合もあると思うけど、なんだかんだ言って、お姉ちゃん、お父さんたちを心配してるんだと思うんだ」
結局戸籍上は高原性になったけど、最初高原さんと内縁関係になると言った理由。
お姉ちゃんはきっと認めないけど、たぶん長女としての責任というものを感じてのことだったんじゃないのかな。
へぇ、と知佳ちゃんは感心したようなため息をついた。
「茜さん、結香以外はどうでもいいのかと思ってたけど、案外そうでもないのね」
返事に困ってるうちに「まぁ、いいんじゃない?」と知佳ちゃんは続けた。
「いろいろ大変だろうけどその分邪魔されない方が、進藤先輩としては新婚生活を満喫できるものね」
「ち、知佳ちゃんっ」
もうっと頬を膨らませると知佳ちゃんはにっこり笑ってごめんねと言った。
◆ 夜に明かされる真相 ◆
作業の手を止めて、一旦席を外すと断って外に出る。
スマホを操作し耳に当てると程無くして結香の可愛い声が聞こえた。
『先輩。今日はごめんなさい。もうお仕事終わりましたか?』
予定が合いそうなのでできれば水瀬と遊びたいという希望を了承したことを気にしているようだ。
それは気にしないでいいと繰り返し、まだバイトの途中だと言うと『夜遅くまでかかるなんて、営業って大変ですね』と労われた。
労ってもらっておいて申し訳ないが今はコンビニの方だと言うと、営業に行くと聞いていた結香は意外そうな声で『あら』と驚く。
「シフトに入ってるわけではないんだ。シフトを組んでいる」
そうだったんですね、と納得した声が受話器の向こうから聞こえる。
『私にお仕事の詳しい内容は解らないけど、難しいんですよね』
確かに個々の予定を考慮して組まねばならない上に、修練度も合わせて考慮する必要がある。
組んで連絡した後でバイトの申し出に合わせて修正するのは専ら店長の仕事だが、そもそも修正が多く必要になるようなシフトは作る意味がない。
出来る限り修正が必要無いようにシフトを組むのはかなり神経を遣う。
そうだなと言うと『無理しないでくださいね』と控え目に言われた。
「ありがとう。結香は今日、どうだった?」
だらだらしちゃいました、と苦笑する声に今日一日分の疲労が薄まる。
『一緒にスーパーで買い物して、ご飯を作ったんです。知佳ちゃんは和食が得意だから、教えてもらってたくさん作ったんですよ。お蔭で今日のお夕飯の仕度が早く終わって………ちょっと食べすぎちゃったかもです』
「良かったじゃないか。しっかり食べれば暑さにも負けない」
『そうかもですけど体重が………え、なに?………代わるの?ちょっと待って?………先輩?』
何だと聞くと困った声で、水瀬が電話を代わってほしいと言ってきた、と言う。
「そうか。じゃあ代わってくれ」
へ?と裏返った声で戸惑う。
『い、良いんですか?』
あぁと頷くと『ちょ、ちょっと待ってください』とやや物音だけが聞こえ、やがて落ち着いた声が『もしもし』と言った。
「水瀬。今日は結香の相手をしてくれてありがとう」
『はい。進藤先輩もお疲れ様です。せっかくの休日に、気を遣わせてしまいましたか?』
ドアの開閉音の後に大きさを抑えながらもはっきりとした声で聞かれる。
俺が急遽バイトを入れたことに気付いているようだ。
「いや、俺が先に気を遣わせたようだから」
なんだ、と珍しく敬語でない言葉がスマホの向こうで上がった。
『やっぱり、わざとだったんですね』
肯定すると呆れたような息遣いが流れた後で、『やり過ぎです』と叱られた。
「制服に隠れるように付けたつもりだが」
『高校では今の季節、体育で水着になることを忘れてますね。しっかり見えてましたよ』
週明けの着替えの最中に発見し、消えるまではヒヤヒヤしながら過ごしたのだと訴えられた。
「それは、悪かった」
『本当ですよ、もう』と水瀬がスマホの向こうで大きく嘆息した。
『特に女子体育を担当しているのは学年主任ですからね。ただでさえあの先生は結香の進路に今でも不満タラタラなんですから。キスマークなんて見つけた日には、進路の見直しを計って健全な高校生として真っ当に過ごすべきだ、みたいなこと言いたがるんじゃないですか?』
そういえば女性の体育教師は年配故に教師陣からは信頼されているようだが、女子生徒にはかなり不人気だったことを思い出す。
風紀検査などで厳しく指導する割にはその教師本人は華美な装いをしているそうで、俺の同級生も「ヒトに『何しに学校に来てるんだ』って言う前にテメェの服と香水どうにかしろよ、ババァ」と毒づいていた記憶がある。
光司もあの先生は苦手だったようで、「イチノンと駄弁りに職員室行ったけど、イチノンに色目使いに来たおばあちゃん先生がキショくて逃げてきた」というような発言をすることが何度かあった。
記憶を頼りに言うと、はたしてその教師だと水瀬は嘆息した。
『なまじ相手は教師歴も人間としても先輩ですからね。先生たちも言いなりですよ』
だからその教師が騒ぐネタを提供しないように気をつけてほしい、と言われてしまえば夏休みまで印を付けることは自重した方が良さそうだ。不本意だが、結香のためには仕方ない。
「結香に絡んでくるようなら、俺か茜さんが動くが」
提案してみるが意外にも水瀬は『勘弁してくださいよ』と嘆息した。
『一応相手はあと数年で定年退職の独身女性ですよ。それになまじ学年主任なんてやってるヒトにいきなり抜けられると困るんですよ。コネで入った遊びのヒトと違って引き継ぐモノがたくさんあるから』
「コネ?」
そういえば進藤先輩は知りませんか。と水瀬は少々元の落ち着いた口調で言った。
『先輩たちが卒業したのと入れ代わりに、そういうヒトが赴任したんですよ。もういないけど。一ノ瀬先生から聞いてません?』
「いや、聞いていない。何故そこで一ノ瀬が出てくるんだ」
あぁ~と水瀬は声を上げてから『いいです、いいです』と遮った。
『年が若いだけでやってることは学年主任と一緒っていうヒトが一人いたってだけの話なので。とにかく、一ノ瀬先生みたいな力業咬まされると困るんですよ。私たちの受験にどう影響するかも解らないし』
解った、と言うと安堵の嘆息がスマホから聞こえた。
「結香が害を被らない限り俺は動くつもりは無いから安心しろ」
『それが厄介なんですよ』
安心したばかりの水瀬は憂鬱そうに嘆息すると、用件は終わったので結香に代わると言う。
「ちょっと待て。今回水瀬に迷惑をかけたから、結香と一緒に何かを奢る」
えぇ、と意外そうな声を上げた水瀬はそうですねぇと悩んだ後で言い出した。
『宮本くんと相談してからでもいいですか?今回、私が動揺したせいで彼も振り回されたので』
勿論だと答えると、では相談してみます、と言ってから水瀬は心配そうな声を出した。
『宮本くん、けっこう食べる人ですよ』
金額を気にしているのだろう。
安心しろ、と少々声を大きくして言った。
「今日分のバイト代は元々それに充てるつもりだったから」
呆れたような声で後日連絡すると言った水瀬に代わって『もしもしっ?』とどこか焦ったような声で結香が出た。
「結香。明日は夜そっちに行っても良いか?夏休みの計画を相談しよう」
『も、もちろんですっ』と答える結香の声が焦っていても嬉しそうで、知らずのうちに破顔する。
『ご飯用意して、待ってます。あ、知佳ちゃんに教わった料理も』
「うん。楽しみだ」
おやすみと告げる自分の声が自分でも呆れるほど情のこもったものだったからか、『ひゃぃっ!ぉ、おやすみなさい!』と締める声はひどく焦りと照れを含んでいた。
おそらくスマホの向こうではパジャマ姿の結香が耳まで紅く染めて動揺しているに違いない。
絶対に可愛いその姿を見ることが出来ないことに対する落胆に黒く変わった画面を見詰めたまま嘆息していると「進藤?」と呼ばれた。
「お前か。調子はどうだ」
「お蔭様でなんとかやってるつもりだ」
そんな言い方で答えるが、バイト歴こそ浅いがシフトに多く入ってる分手際の良さは春から入ってるバイトに引けは取らない筈だ。
「来週辺りから短期バイトも増える。暫くは繁忙期に加え指導もあって慌ただしいだろうが乗りきってくれ」
「もう、そんな時期か」
思い起こすようにそいつは宙を眺めた。
「この間入ったばかりの俺が仕事を教えることになるとはな」
呟く声には疲れが滲み出ているが、口調はどこか嬉しそうでもある。指導する立場に回れる程一つのバイトが続いていることを喜んでいるのかもしれない。
「指導の仕方によっては冬休みにもバイトに来てくれる可能性が生まれるからな。よろしく頼む」
「それは中々責任重大だな」
嘆息が重いのは、やはり疲労が溜まってる為だろう。
「お前、帰省の予定は無いんだろう?毎週入ってもらう分、一日辺りの時間を少なくするつもりなんだが」
いや、と相手は首を振った。
「夏休み中に稼いでおきたい。シフトは最大に入れて欲しい」
そう気負うな、と肩を叩くとドアから顔を出した店長が「夕弦くん」と俺を呼んだ。
「もう電話終わった?」
「はい。今戻ります」
長く中座して申し訳ありませんと頭を下げると、いいよ、と店長は手を振った。
「わざわざ寄ってもらってるんだから。ただ、帰りが遅くならない程度に切り上げてね―――あと、キミ。ちょっと相談したいことがあるんだけど、良いかな?」
訝しげに首を傾げながらもはいと頷いたそいつを店長は手招きする。
さて、もう少し頑張るか。
内心で気合いを入れると俺も室内に戻った。
私もヒトのことは言えないんだけど。
「四時間目の体育ってゴーモンだよねぇ」
誰かが言うと「言えてるー」と別のコが応えた。
「しかも月曜日!もう何の罰ゲーム?」
少し笑い声があがってから「でもさぁ」とまた誰かが言った。
「五時間目の体育もキツくない?」
教室のあちこちでそうかもと同調する声があがる。
「空腹時と食後すぐの体育、どっちもキツいわぁ~」
近くでほどいた髪を三つ編みに結い直していた子が「ね」と振り返る。
髪を帽子の中に押し込みながら、うん、と頷くとちょっと残念な子を見る目をされた。
「髪入れるの、手伝おうか?」
「大丈夫。もう少しで入るから」
帽子を被る前にピンで留めてはいるけど、一房を押し込むと逆サイドから別の一房が飛び出す。
何度かトライしてやっと全部を帽子の中に押し込んだ。
ふぅと息をついていると周りからお疲れと声をかけられる。
「毎回毎回これが鬱陶しいんだよね」
ストレートの髪の子が羨ましいとため息をつくと、「そうでもないよ」とため息で返された。
髪の毛が真っ直ぐでも全部の髪を帽子の中に入れるのは一苦労らしい。
「私らが苦労して髪を帽子で隠してるのに先生はチョロっと出してるの、ズルいよね」
「ね。私らには色気付くなとか言っておいて、自分は誰にアピールしてんだよっての」
軽口を叩きながら、着替えが終わった子は日焼け止めの塗り合いっこをしている。
「結香も背中塗る?」
左手をクリームで光らせた知佳ちゃんが小首を傾げた。
「うん。お願い」
背中を向けるとすぐにチョンチョンと冷たいクリームが水着を避けて塗られる。教室がむぁっとしているから日焼け止めの冷たさがちょっと気持ちいい。
背中の冷たさにホッと息をついていると「あらら」と小さく驚く声が聞こえた。
「なに?何かついてる?」
うん、まぁね。と知佳ちゃんは珍しく言葉を濁した。
「結香。昨日一昨日は東京に行ってきたのね」
「すごい!なんで解るの?」
塗ってもらってる途中で邪魔しちゃうかもしれないけど、驚いてつい振り返る。
日焼け止めが濡れないでしょ、と怒りもしないで、なんだか紅い顔をしている知佳ちゃんに首を傾げた。
「どうしたの、知佳ちゃん?気分悪くなった?」
教室の外に出て新鮮な空気を吸った方が良いかも。
連れ出そうとすると「大丈夫」と首を振られた。
「ちょっとね。見ちゃっただけだから」
「え。なに?ヘンな跡ついてるの?」
別におかしな体勢で寝たつもりはないんだけど。
首を傾げる私を「そろそろ行きましょ」と知佳ちゃんは促した。
あれ、と首を傾げていると「どうしたのー?」と下校の準備をしながら聞かれた。
「あ、うん。知佳ちゃん、知らない?」
え、と周りを見渡したその子も「いないねー」と首を傾げた。
「生徒会行ったんじゃない?」
「そうかなー………」
今日は仕事ないから一緒に帰ろうって話してたと思うんだけど。
うぅんと首を傾げていると「牧野よ」と宮本くんに呼ばれた。
「水瀬な。書類提出してない部長たちに突撃かけるから、先に帰ってくれ。だとよ」
「え………そうなの?」
少し不自然な気もするけど宮本くんに食い下がってもきっと意味はない。
解ったと頷くと、宮本くんは気遣わしげに眉尻を下げた。
「大丈夫か?一人で帰って。進藤先輩、呼ぶか?」
「大丈夫だもんっ」
心配してくれるのはありがたいけど、子どものような扱いは止めてほしい。同い年だし!
ぶくっとむくれた私を見て失礼にもあははと笑った宮本くんは、それでも「気をつけて帰れよな」と言った。
「日中でも危ないヤツが出歩いてる可能性だってあるんだから。何かあったら電話しろよ」
解ったよぅと少しだけ頬の空気を抜く。
「知佳ちゃんによろしくね」
手を振ると「おぅ」と片手を上げた宮本くんはさっさと教室を出ていった。
「私も帰ろ」
声に出すとちょっと寂しくなる。
鞄を持ち上げると足早に教室を出た。
あれ、今日も?と首を傾げると宮本くんは困ったように頭を掻いた。
ホームルームが終わるといつの間にか知佳ちゃんが教室からいなくなっていることが、最近いきなり増えた。それに合わせて、いないなと探していると宮本くんが伝言を伝えにやって来ることも増えた。
突然生徒会の仕事ができたから先に帰っていて、とか、用事があるから先に帰るけど挨拶してなかったからごめんね、とか。
「知佳ちゃん、最近なんかいつもと違うよね?」
「牧野もそう思うか」
宮本くんもそう感じていたようで、ガシガシと後頭部を掻く。
知佳ちゃんは生徒会長だし先生に用を頼まれることも多いけど、こんなに毎日急に消えるなんておかしい。帰りの挨拶を宮本くんに代弁させるのも知佳ちゃんらしくない。
「別に、喧嘩してるわけじゃないんだよなぁ」
言ってはみたものの宮本くん自身そう思っていなかったようで、私が頷くと「だよなぁ」と首を捻った。
「喧嘩してたらあんなにべったり世話なんかしねぇよなぁ」
「世話って」
大げさな、と言う私に「そうだろうが」と言って宮本くんは大きくため息をついた。
「毎朝牧野が来るなり近付いて、教室移動の度にぺったり張り付いてるんだぞ。あいつ、SPでも目指すつもりなのか」
「違うと思うけど」
否定しても宮本くんは沈痛な表情で頭を抱えている。
朝おはようと言い合って宿題の確認をしたりお弁当を食べてるときはいたって普通なんだけど、確かに廊下を歩くときは距離がいつもより近い気もする。
でもこうして不意に避けられるのも事実で。
知佳ちゃんに何があったのか解らない私はどうすれば良いのか、このところちょっと困っている。
「宮本くんとは知佳ちゃん、どんなカンジ?」
「どんなカンジって言われてもなぁ」
さっきとは逆サイドに首を捻った。
別にいつも通りなんだよなぁ、と困ったように唸る。
「書類出さない部長連中の尻は叩くし、書類の不備が見つかったら眉間にシワ刻んで修正してるし。予算オーバーしてる部長や委員長の首根っこ、それはもう生き生きと捕まえに走ってるし。昨日だってハーブティー淹れてやったら『羊羮食べるのになんでハーブティーなの』って元気に怒ってたし」
知佳ちゃん本人にはあまり生徒会のことを詳しく聞かないようにしてたから、宮本くんが語る知佳ちゃんの様子はどこか新鮮。
忙しそうと前から思っていたのが私の想像だけではないことははっきりしたけど、最近の知佳ちゃんの異変には関係なさそう。
「お家も今は落ち着いてるみたいだし、そうなると受験かなぁ?」
考えられる原因を挙げてみるけど宮本くんはうぅんとさらに首を捻った。
そんなに捻ると痛くしないかちょっと心配。
「ストレスにならないとは言えないけどさ。知佳の学力、そんなんで悩む程じゃねぇだろ?」
「だよねぇ」
宮本くんの言う通りだけど、だったら知佳ちゃんの不自然さの原因は何?という話で。
二人でうーんと首を捻って、同時にはぁとため息をついた。
「仕方ねぇな。俺もそれとなく探ってみるけど、牧野も知佳の様子見てやってくれよ」
「それは良いけど………なら、私から聞いてみた方が早くない?」
女の子同士の方が知佳ちゃんだって話しやすいんじゃと提案してみると、それは止めておけ、と言われてしまった。
なんで?と頬を膨らませる私に「あのなぁ」と宮本くんはため息をついた。
「どうしたのと聞かれて答えるくらいなら、こんな回りくどい態度取らずに言い出すよ、知佳なら。それに」
後ろ頭をガシガシ掻いてから宮本くんはジト目を私に向けた。
「牧野。あいつがサラッと答えちゃうような自然な聞き取り、出来るのか?」
私の顔を見て、だろう?とため息をついた宮本くんはひらひらと片手を振った。
「そういうのは俺がやるから。牧野は知佳をよく観察してくれよ。なんか手掛かり見せるかもしれないからさ」
解ったと頷くと、じゃ、と片手を上げて宮本くんは生徒会室に向けて歩いていった。
ふと瞬きをすると、長芋の和え物を摘まんだ先輩が私をじっと見ていた。
マズい。ボーッとしてたかも。
「え、と。何か言いましたか?」
軽く首を振った先輩は心配そうな目で見つめる。
「元気がない。具合が悪いわけでは無いようたが、放心している」
「そ」
冷静に観察したままを言い連ねた先輩は、私が否定する前に「悩み事か」と断定するように聞いてきた。
「悩み事、というほど深刻なことでもないんですけど」
「それでも、気になるんだろう?」
何があった、と口調は静かで佇まいも穏やかなのに、誤魔化せない雰囲気で。
言葉に詰まった私を認めた先輩はす、と視線をゴーヤチャンプルーに向けた。
「まぁ、いい」
ホッとすると同時につきんと胸が痛む。
知佳ちゃんのことを先輩に相談するのも何と話すか悩むから、追求の手を緩めてくれて助かったけど、心配してくれた気持ちを無下にして先輩を傷つけたような気がしてならない。
静まり返った居間に、食器の音がかすかに響く。
沈黙が怖くて膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。
「結香」
食器の音の合間に先輩の声が静かに響いた。
いつも通りではないけど、なんとか震えない声で「はい」と応えることができた。
「食事が終わったら時間をくれ」
「はい?」
まさかこれからどこかに行くの?
それともまさか、真面目な話?
心配したのに素直に答えない私とはもう一緒にいられない……………とか。
心臓が嫌な音を立てて視界が勝手に潤んできた。
カチャリと音がしたあとで大きな肌色のものが視界を塞いだ、と思ったら目に溜まった水分を優しく拭ってくれた。
温かいそれが先輩の指だ、と理解する前に大きくて温かい手が私の頬を包み、涙を拭った指先は優しく肌を撫でた。
「結香が安心して話せるように、念入りにリラックスさせてやるからな」
「ふ、ぇ」
にっこりと微笑まれた笑顔に見入って惚けている間に、先輩はせっせとご飯を食べた。
はい。先輩は有言実行の人でした。
白状してしまった脱力感と散々触られて必死に声を我慢した疲労感で、私はぐったりと沈みこむばかり。
そんな私を平然と後ろから抱えこんだ先輩は「なるほど」と頷きながら私の頭の天辺にキスを落として、ときどき頬ずりをしている。
私だけの問題じゃなくて知佳ちゃんにも関わることだから安易なことは言いたくなくて黙ってるつもりだったのに。
それをいつものお仕置きマッサージで聞き出す先輩って。
「いぢわるです」
なんとか不機嫌な声で言うと「すまん」と言ってくれたけど、声が笑ってる。
キッと睨みつけようと見上げたけど、労るような笑顔に顔が自然に弛んだ。
「憂いの元を晴らしたかったんだ」
そのためには私から話を聞く必要があった。
すまないと謝られてしまっては、これ以上怒るわけにもいかなくて、小さく息をついた。
さんざん暴れたし顔はまだ熱いし、まだ完全に怒りが消えたワケでもない。
きっと今の私はすっごく不細工なのに、そんな私を先輩は楽しそうに膝の上に乗せて慈しむように見つめてくる。
白状させられたのはいやいやだけど心配してもらえたのは嬉しい。
それに腕の中は気持ちが良くて、少し座り直してほっぺたを広い胸にあてる。腕を背中に巻きつけてぎゅうとくっつくと温かくて、満足のため息が出た。
「知佳ちゃん、どうしちゃったんだろ」
安心すると頭に浮かぶのはやっぱり知佳ちゃんのことで。
ぽつりと呟くとうんと唸る声が触れてる頭に直接響いた。
「まったく無視されているわけでは無いんだな」
そうなんですとひっついたまま頷く。
「お弁当はいつも通り一緒に食べてるし……教室で着替えるときはなんか着替えを手伝ってくれるし」
一人で着替えできるよと言ってもどこか危機迫った顔で『文句はあとで聞くからさっさと着替える!』と体操服を被せられる。
恥ずかしくて宮本くんには言えなかったけど。
頭の温かみがふっと離れる。
少し間が空いてから「なるほどな」と呟く声が聞こえて、頭にまた温かいものがやんわり乗った。
「おそらく、数日中には元に戻るだろう」
「え」
一瞬何のことなのかと目を瞬く。
知佳ちゃんのことを話してたんだ、と顔を上げようとしたけど先輩の頭で押さえこまれてて動けなかった。
「先輩。数日中に戻るってどういうことですか?知佳ちゃんがおかしい理由、解ったんですか?」
教えてください、と暴れてもしっかり抱きしめられていて抵抗になっていない。
結局先輩は理由らしい理由を教えてくれなかった。
ただ、温かい腕に包まれて大丈夫だと囁かれると、なんだか本当に大丈夫だと思えてきた。
「結香」
何ですと間延びした声で返しながら頭を振ると、いつの間にか頭が動かせるようになっていた。
弛く見上げるとなぜか眉尻を下げた表情で見つめられる。
「すまない」
「え。な、んです、か?いきなり」
先輩はなぜか申し訳なさそうに微笑んだ。
「今回のことは、俺のせいだろうから。だから、ごめん」
「え。なんで先輩のせいなんですか?先輩、知佳ちゃんと何かあったんですか?」
先輩はあっさり首を振る。
知佳ちゃんの調子がおかしい原因が先輩だなんて、ぜんぜん解らない。
謝らなくていいから理由を教えてほしいと言っても、先輩はただ困ったように微笑んで私を抱きしめた。
上着を脱いで、ふ、と周りを見渡す。
「あれ」
「どうしたの、結香」
「へ」
同じくキャミソール姿の知佳ちゃんが首を傾げた。
最近の流れならここで、体操服を急いで被らされる、はず。
上からの衝撃が来ないことに首を傾げていると、知佳ちゃんは首を傾けてため息をついた。
「早く着替えなさいよ。これから移動する時間も必要なんだから。授業に遅れるわよ」
「う、うん」
頷く私の肩を、近くで着替えていた子がツンツンとつっついた。
「ねぇ、結香?知佳、今日は普通ね?」
「そ、そうだね」
「止めちゃったの?おままごと」
「お、おままごと?」
そんなこと今さらしないよ!と首を振っても、そう?と小首を傾げられる。
「知佳がお母さん、結香が子どもの役でやってたんじゃないの?早くお着替えしないと幼稚園に遅れますよーって」
しかも私、幼稚園児!?
「やってないもんっ」
ぶすっとむくれると「はいはい」とか「ごめん、ごめん」と言いながら代わる代わる頭を撫でられる。
みんな背が高いからって子ども扱いするなんて!
むすーっと頬を膨らませていると、パンパンっと手を叩いた知佳ちゃんが、時間に遅れるよ、とみんなを促した。
ふふふと笑うと「どうしたのよ」と知佳ちゃんが訝しげに首を傾げた。
いけない。しばらくは様子を見て、ここ最近の異変についてあまり煩いことは言わないようにしようって宮本くんと話し合ったんだっけ。
「えーと………ほら。パジャマパーティー久しぶりでしょ?」
「……………ふーん。まぁ、いいけど」
ゆっくりとだけど寄せられた眉がほどけるのを見て、心の中でホッと息をつく。
「でも、本当に久しぶりだよね。知佳ちゃん、元々生徒会で忙しかったけど今年は受験もあるもんね」
元に戻ってくれたことが嬉しくてついパジャマパーティーに誘ってしまったけど、忙しいからと断られると思っていた。OK貰えて戸惑った分、よけいにワクワクしてしまう。
「結香だってそれは同じでしょ。良かったの?今日も本当は進藤先輩と約束してたんじゃないの?」
心配そうに首を傾げる知佳ちゃんに、大丈夫だよと首を振る。
「平気平気。先輩は今日バイト行くって言ってたもん。夜電話くれるって言ってたから、ちょっとその間席外すことになっちゃうけど」
どうぞと知佳ちゃんはいつもの落ち着いた表情で頷いた。
いきなり気まずそうに目を反らすこともない。
本当にいつも通りに戻ったんだなぁと思ったら、勝手に顔が弛む。
「何なの、もう」
知佳ちゃんのしかめ面でさえ嬉しくなってしまって、またニマニマしてしまった。
受験はデリケートな話題だから聞き方にも気を遣わないと、と思ったら実際にどう聞くか言葉に悩んで。
「大学受験って、大変?」
結局こんな気の利かない聞き方になってしまった。いかにも受験しないお気楽な立場丸出しってカンジで、ナーバスになっている人には喧嘩を売るような発言なんじゃないかな。
自分で言っておいて心の中でびくびくしていると、そうねぇという知佳ちゃんの声がのんびり聞こえた。
「志望校が本決まりしてない段階だから、大変といえば大変だけど。決まってない分本格的に受験に取りかかってるわけでもないから、ぜんぜん大変じゃない、とも言えるわね」
「志望校、決まってないの?」
いつも手際の良い知佳ちゃんのことだから、とっくに第一志望を決めてると思っていた。
私もそのつもりだったんだけどね、と知佳ちゃんはため息をついて紅茶をかき回した。
「ちょっとお母さんに反対されてて」
正直意外だったので目を丸くした。知佳ちゃんは無理のある計画は立てないし、知佳ちゃんのお母さんだって知佳ちゃんのやりたいことに反対するような人じゃなかったと思うんだけど。
「知佳ちゃん、そんな偏差値高い所に行こうとしてるの?」
「そりゃ世間では偏差値が高いと有名な大学だけど、今のところ学力で冒険しているカンジはないわよ」
けろりと言い放つ知佳ちゃんはいたっていつも通りで、受験生に対するイメージとはかなりかけ離れているけどなんだか知佳ちゃんらしくて、はぁ、と圧倒されてしまった。
「ま、受験勉強はするけどね。普通に」
「そ、そうなんだ………宮本くんも同じ大学行くの?」
どうかな、と知佳ちゃんは首を傾げた。
「誠吾は有名大学に行きたい、みたいな欲はないみたいだし。とりあえず私と同じ県の大学に進むつもりで考えてくれてるみたいだけど」
ちょっぴり紅い頬をカップで隠してる。
ふふ、知佳ちゃん、可愛い。
何よ、と知佳ちゃんがしかめ面になる前に、なんでもないとニマニマ顔を引っ込める。
「ちなみに、知佳ちゃんが行きたい大学ってどこか聞いても良いの?」
「別に良いわよ。まだ私一人の意見だし」
そう言って教えてくれたのは、私でも知ってる超有名大学。毎年毎年合格者にインタビューしてたり、最近では合格者のお家の教育方法が紹介されたりするような。
「えっと、知佳ちゃん的にはどっちの大学がより第一志望?」
「別にどっちでも良いの。二校の争いに興味ないし」
早くも落ち着きを取り戻した知佳ちゃんはごくごくと紅茶を飲み干した。
「でも両方とも東京だよね?」
そうなの、と頷いた知佳ちゃんはカップを戻しながらまたため息をついた。
「それが反対の理由なのよ」
つまり、一人暮らしを反対されてるみたい。
知佳ちゃんは家事もできるし、しっかりしてると思うんだけど。
「やっぱりずっと二人だったから、知佳ちゃんが家を出たら寂しいのかな、おばさん」
「そうねぇ………」
悩むような声をあげて少し視線を彷徨わせていた知佳ちゃんは、「あのね」と私の目をじっと見た。
「黙ってたけど。お母さん、今の上司とお付き合いしててね」
「えっ!」
声に出して驚いてしまってから口を押さえてごめんと呟くと、平気と首を振られた。
「じょ、上司ってあの、つまり社長だよね?おばさん、社長秘書だったよね?」
こそこそ確認すると、そう、と知佳ちゃんはあっさり首を縦に振った。
「引っ越したあの家、手配したのはその社長なのよね」
「そうなの?」
ずいぶん広くて立派なマンションだと思ったけど、社長秘書ならそのくらい稼いじゃうものなのかな、なんて思ってた。
「本格的なお付き合いは最近だけど、社長、だいぶ前からお母さんのこと狙ってたらしくて。『君のお母さん口説いてもいいかい?』ってこっそり聞かれたのよね」
「ふぉぉっ」
なにそれなにそれっ。ものすごく気になる!
「ド、ドラマみたいだねっ」
ついワクワクを隠せずに言うとおかわりを注ぎながら知佳ちゃんも頷いた。
「それで。それなりにデートはしてるみたいだけど、なまじ相手が社長だからお母さん、入籍を渋っててね。社長はとっとと囲いこみたいみたいだし、私が東京に行ったら一緒に暮らせばって言ったんだけど。それだと私を追い出してまで同棲するみたいで嫌だ、と言い出されちゃって」
はーっと知佳ちゃんのため息が紅茶の湯気を散らした。
「良い年なんだしお互い初婚なんだからサクッと籍入れちゃえば良いのにね」
「良い年はよけいだと思うよ?」
おばさんのために一応言うと「そうだけどさ」と知佳ちゃんはマドレーヌを取った。
社長も知佳ちゃんの案にはちょっと渋い顔をしているみたい。
「そりゃお母さんとラブラブ暮らしたいのは山々だし、私が有名大学を受験する動機も理解してくれてるみたいだけど、それでも、同棲早々私が出ていくのは嫌、なんだって」
知佳ちゃんは人と打ち解けるまでには少し時間がかかるみたいだけど、社長さんとはけっこう仲良くできてるみたい。
「社長さん、良い人なんだね」
「お母さん、にはっ、ねっ」
手こずっている知佳ちゃんにハサミを差し出すと「ありがと」と受け取った。
「でも、知佳ちゃんも東京で暮らしてくれるなら嬉しいな。たまには一緒に遊びに行けるかもしれないもんね」
期待をこめて言うと、知佳ちゃんもにこりと笑った。
「そうね。今より機会は減るだろうけど、そうできたら良いわね。私も安心だし。茜さんは上京しないの?」
どうかなぁと首を捻った。
「たぶん、しないんじゃないかなぁ。旦那さんの都合もあると思うけど、なんだかんだ言って、お姉ちゃん、お父さんたちを心配してるんだと思うんだ」
結局戸籍上は高原性になったけど、最初高原さんと内縁関係になると言った理由。
お姉ちゃんはきっと認めないけど、たぶん長女としての責任というものを感じてのことだったんじゃないのかな。
へぇ、と知佳ちゃんは感心したようなため息をついた。
「茜さん、結香以外はどうでもいいのかと思ってたけど、案外そうでもないのね」
返事に困ってるうちに「まぁ、いいんじゃない?」と知佳ちゃんは続けた。
「いろいろ大変だろうけどその分邪魔されない方が、進藤先輩としては新婚生活を満喫できるものね」
「ち、知佳ちゃんっ」
もうっと頬を膨らませると知佳ちゃんはにっこり笑ってごめんねと言った。
◆ 夜に明かされる真相 ◆
作業の手を止めて、一旦席を外すと断って外に出る。
スマホを操作し耳に当てると程無くして結香の可愛い声が聞こえた。
『先輩。今日はごめんなさい。もうお仕事終わりましたか?』
予定が合いそうなのでできれば水瀬と遊びたいという希望を了承したことを気にしているようだ。
それは気にしないでいいと繰り返し、まだバイトの途中だと言うと『夜遅くまでかかるなんて、営業って大変ですね』と労われた。
労ってもらっておいて申し訳ないが今はコンビニの方だと言うと、営業に行くと聞いていた結香は意外そうな声で『あら』と驚く。
「シフトに入ってるわけではないんだ。シフトを組んでいる」
そうだったんですね、と納得した声が受話器の向こうから聞こえる。
『私にお仕事の詳しい内容は解らないけど、難しいんですよね』
確かに個々の予定を考慮して組まねばならない上に、修練度も合わせて考慮する必要がある。
組んで連絡した後でバイトの申し出に合わせて修正するのは専ら店長の仕事だが、そもそも修正が多く必要になるようなシフトは作る意味がない。
出来る限り修正が必要無いようにシフトを組むのはかなり神経を遣う。
そうだなと言うと『無理しないでくださいね』と控え目に言われた。
「ありがとう。結香は今日、どうだった?」
だらだらしちゃいました、と苦笑する声に今日一日分の疲労が薄まる。
『一緒にスーパーで買い物して、ご飯を作ったんです。知佳ちゃんは和食が得意だから、教えてもらってたくさん作ったんですよ。お蔭で今日のお夕飯の仕度が早く終わって………ちょっと食べすぎちゃったかもです』
「良かったじゃないか。しっかり食べれば暑さにも負けない」
『そうかもですけど体重が………え、なに?………代わるの?ちょっと待って?………先輩?』
何だと聞くと困った声で、水瀬が電話を代わってほしいと言ってきた、と言う。
「そうか。じゃあ代わってくれ」
へ?と裏返った声で戸惑う。
『い、良いんですか?』
あぁと頷くと『ちょ、ちょっと待ってください』とやや物音だけが聞こえ、やがて落ち着いた声が『もしもし』と言った。
「水瀬。今日は結香の相手をしてくれてありがとう」
『はい。進藤先輩もお疲れ様です。せっかくの休日に、気を遣わせてしまいましたか?』
ドアの開閉音の後に大きさを抑えながらもはっきりとした声で聞かれる。
俺が急遽バイトを入れたことに気付いているようだ。
「いや、俺が先に気を遣わせたようだから」
なんだ、と珍しく敬語でない言葉がスマホの向こうで上がった。
『やっぱり、わざとだったんですね』
肯定すると呆れたような息遣いが流れた後で、『やり過ぎです』と叱られた。
「制服に隠れるように付けたつもりだが」
『高校では今の季節、体育で水着になることを忘れてますね。しっかり見えてましたよ』
週明けの着替えの最中に発見し、消えるまではヒヤヒヤしながら過ごしたのだと訴えられた。
「それは、悪かった」
『本当ですよ、もう』と水瀬がスマホの向こうで大きく嘆息した。
『特に女子体育を担当しているのは学年主任ですからね。ただでさえあの先生は結香の進路に今でも不満タラタラなんですから。キスマークなんて見つけた日には、進路の見直しを計って健全な高校生として真っ当に過ごすべきだ、みたいなこと言いたがるんじゃないですか?』
そういえば女性の体育教師は年配故に教師陣からは信頼されているようだが、女子生徒にはかなり不人気だったことを思い出す。
風紀検査などで厳しく指導する割にはその教師本人は華美な装いをしているそうで、俺の同級生も「ヒトに『何しに学校に来てるんだ』って言う前にテメェの服と香水どうにかしろよ、ババァ」と毒づいていた記憶がある。
光司もあの先生は苦手だったようで、「イチノンと駄弁りに職員室行ったけど、イチノンに色目使いに来たおばあちゃん先生がキショくて逃げてきた」というような発言をすることが何度かあった。
記憶を頼りに言うと、はたしてその教師だと水瀬は嘆息した。
『なまじ相手は教師歴も人間としても先輩ですからね。先生たちも言いなりですよ』
だからその教師が騒ぐネタを提供しないように気をつけてほしい、と言われてしまえば夏休みまで印を付けることは自重した方が良さそうだ。不本意だが、結香のためには仕方ない。
「結香に絡んでくるようなら、俺か茜さんが動くが」
提案してみるが意外にも水瀬は『勘弁してくださいよ』と嘆息した。
『一応相手はあと数年で定年退職の独身女性ですよ。それになまじ学年主任なんてやってるヒトにいきなり抜けられると困るんですよ。コネで入った遊びのヒトと違って引き継ぐモノがたくさんあるから』
「コネ?」
そういえば進藤先輩は知りませんか。と水瀬は少々元の落ち着いた口調で言った。
『先輩たちが卒業したのと入れ代わりに、そういうヒトが赴任したんですよ。もういないけど。一ノ瀬先生から聞いてません?』
「いや、聞いていない。何故そこで一ノ瀬が出てくるんだ」
あぁ~と水瀬は声を上げてから『いいです、いいです』と遮った。
『年が若いだけでやってることは学年主任と一緒っていうヒトが一人いたってだけの話なので。とにかく、一ノ瀬先生みたいな力業咬まされると困るんですよ。私たちの受験にどう影響するかも解らないし』
解った、と言うと安堵の嘆息がスマホから聞こえた。
「結香が害を被らない限り俺は動くつもりは無いから安心しろ」
『それが厄介なんですよ』
安心したばかりの水瀬は憂鬱そうに嘆息すると、用件は終わったので結香に代わると言う。
「ちょっと待て。今回水瀬に迷惑をかけたから、結香と一緒に何かを奢る」
えぇ、と意外そうな声を上げた水瀬はそうですねぇと悩んだ後で言い出した。
『宮本くんと相談してからでもいいですか?今回、私が動揺したせいで彼も振り回されたので』
勿論だと答えると、では相談してみます、と言ってから水瀬は心配そうな声を出した。
『宮本くん、けっこう食べる人ですよ』
金額を気にしているのだろう。
安心しろ、と少々声を大きくして言った。
「今日分のバイト代は元々それに充てるつもりだったから」
呆れたような声で後日連絡すると言った水瀬に代わって『もしもしっ?』とどこか焦ったような声で結香が出た。
「結香。明日は夜そっちに行っても良いか?夏休みの計画を相談しよう」
『も、もちろんですっ』と答える結香の声が焦っていても嬉しそうで、知らずのうちに破顔する。
『ご飯用意して、待ってます。あ、知佳ちゃんに教わった料理も』
「うん。楽しみだ」
おやすみと告げる自分の声が自分でも呆れるほど情のこもったものだったからか、『ひゃぃっ!ぉ、おやすみなさい!』と締める声はひどく焦りと照れを含んでいた。
おそらくスマホの向こうではパジャマ姿の結香が耳まで紅く染めて動揺しているに違いない。
絶対に可愛いその姿を見ることが出来ないことに対する落胆に黒く変わった画面を見詰めたまま嘆息していると「進藤?」と呼ばれた。
「お前か。調子はどうだ」
「お蔭様でなんとかやってるつもりだ」
そんな言い方で答えるが、バイト歴こそ浅いがシフトに多く入ってる分手際の良さは春から入ってるバイトに引けは取らない筈だ。
「来週辺りから短期バイトも増える。暫くは繁忙期に加え指導もあって慌ただしいだろうが乗りきってくれ」
「もう、そんな時期か」
思い起こすようにそいつは宙を眺めた。
「この間入ったばかりの俺が仕事を教えることになるとはな」
呟く声には疲れが滲み出ているが、口調はどこか嬉しそうでもある。指導する立場に回れる程一つのバイトが続いていることを喜んでいるのかもしれない。
「指導の仕方によっては冬休みにもバイトに来てくれる可能性が生まれるからな。よろしく頼む」
「それは中々責任重大だな」
嘆息が重いのは、やはり疲労が溜まってる為だろう。
「お前、帰省の予定は無いんだろう?毎週入ってもらう分、一日辺りの時間を少なくするつもりなんだが」
いや、と相手は首を振った。
「夏休み中に稼いでおきたい。シフトは最大に入れて欲しい」
そう気負うな、と肩を叩くとドアから顔を出した店長が「夕弦くん」と俺を呼んだ。
「もう電話終わった?」
「はい。今戻ります」
長く中座して申し訳ありませんと頭を下げると、いいよ、と店長は手を振った。
「わざわざ寄ってもらってるんだから。ただ、帰りが遅くならない程度に切り上げてね―――あと、キミ。ちょっと相談したいことがあるんだけど、良いかな?」
訝しげに首を傾げながらもはいと頷いたそいつを店長は手招きする。
さて、もう少し頑張るか。
内心で気合いを入れると俺も室内に戻った。
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「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
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