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番外編
遊びに行ったのです、あくまで
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扉を開けるといつものいらっしゃいに続けて「待ってたよ」と言われて顔が熱くなってしまった。
「さ、今日は何を食べる?」
どうする、と先輩が問いかけるような目を向けられて、慌てて壁に張られたメニューに目を凝らした。
「今朝は特に良いアジが入ったよ」
女将さんが言うならきっと美味しいアジのはず。
「じゃあ………ぁ。さんが焼き。アジのさんが焼き定食にします」
私に続いて先輩がアジフライ定食を頼むと、了解と女将さんが微笑んだ。
「じゃあ、先に二階に荷物置いてきちゃいなさいな」
「はい、ありがとうございます。あ、あのっ」
何だい?と振り返った女将さんにバッグから引っ張り出した箱を差し出す。
「あの、これを。部屋を使わせてもらうお礼です」
「お礼なんて。この間もご馳走になったのに」
箱を見た女将さんは、おやと目を見開いた。
「信州そば。これはまた美味しそうな物を、どうもありがとう」
笑って受け取ってくれたのでホッと胸を撫で下ろした。
アイスやキムチも美味しそうだったけど好みもあるし、そばを選んで良かった。乾麺だから持ち運びやすかったし。
帰ったら長野のお婆ちゃんにお礼の葉書を書こう。
荷物を置いて戻ってくると、無人のテーブルの上に大きなだし巻き玉子のお皿が置いてあった。いつ見ても湯気まで美味しそう。
その席に座ってね、とお盆を運んできた女将さんに促された。
「はい、お嬢さんのさんが焼きだよ。お兄さんのはもうすぐ上がるから、それまでそれでも摘まんでてね」
いつもはあとから頂くサービスのだし巻き玉子を先付け代わりに貰ってしまったらしい。
ありがとうございますと先輩が頭を下げると、いーのいーの、と女将さんが手を振った。
「お父さんにはちょくちょく寄ってもらってお金を落としてもらってるんだから。卵焼きの一皿二皿、軽いものよ」
ふふふ、と笑って女将さんは厨房に戻っていく。
「結香、冷めないうちに頂こう」
先輩の分が来るまで待つつもりだったけど、食べるように先輩に促された。先輩はだし巻き玉子を食べるから気にしないで食べろと言う。
こういう状況を考慮してお爺さんは先にだし巻き玉子を作ってくれたのかな?
厨房を振り返ったけど、今日も厨房は薄暗くてお爺さんの姿は見えなかった。
先輩のアジフライ定食と一緒になめろうまで頂いてしまった。朝からアジづくしってものすごく贅沢。
先輩がアジフライを半分くれると言うのでお返しにさんが焼きを一つ千切りキャベツに立て掛けた。
「アジフライを半分に対してさんが焼き一つは過分じゃないか」
そうですか?と首を捻る。
アジフライは一枚が大きいから半分でもさんが焼き一つとそんなに大きさが変わらないし、先輩はたくさん食べるんだから、おかずが多い方が良いと思う。
そう言うと、先輩は小さくため息をついた。
「結香もきちんと食べないと駄目だ」
最近また、きちんと食事を摂るように言われるようになった。
ちゃんと食べてますよ、と言っても先輩は首を振ってなめろうの小鉢を私に寄せる。
なめろうは美味しいからまたご飯を食べてしまう。
これから水着を着るから満腹にはなりたくないんたけど。
それでも取るように先輩は小鉢を引っ込めてくれなかった。
「最近、また食べてないだろう」
「食べてますよ。一日三食」
繰り返しても先輩は首を横に振る。
「また軽くなった。暑いから無意識に食事量が減っているんだろう」
確かに今年は暑くなるのが早かったけど、でも自分ではちゃんと食べてるつもりなんだけどなぁ。
まっすぐな目に圧されて二口ご飯の上になめろうを取ると、先輩はやっとお盆とお盆の間に小鉢を置いた。
「これから体力を使うんだから、今日はしっかり食べろよ」
念を押すように言われてなめろうを少し口に入れる。つられるようにご飯も食べてしまう。
「お腹出たら恥ずかしいのに」
つい小さな声でボヤくと「安心しろ」と先輩が言った。
「腹が出たところで結香は可愛い」
「かゎ!」
急に顔が熱くて困ってるのに、先輩は淡々とご飯を食べて、箸が進まないどころか固まってる私に「きちんと食べろ」と言い聞かせた。
可愛いと言われて浮かれてしまったけどやっぱり食後のお腹は気になる。
見たカンジ悲劇的に出てるほどじゃない、とは思うけど。おへそを出しても大丈夫!ってほどでもない。残念なことに。
「結香。もう良いか」
「はぇっ?ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
いけない。着替えの最中だった。
とりあえず先輩に待ってもらって水着を確認する。
上………うん、背中も首もほどける心配はなさそう。次、下………よし!食い込んでない!
「お待たせしました………っ」
声をかけながら振り返った先に見えた、先輩の身体のラインに見惚れる。
いつも好きだと見入っている肩や腕はもちろん、太い首や逞しい背筋、引き締まった腰のラインに急に頬が熱くなって心臓の音が煩くなる。
ジロジロ見たら失礼だと頭で解っているのに、目は勝手になめらかな肌に吸い寄せられている。
今まで自覚なかったけど、私って実はかなりエッチなのかな。
先輩に知られたら恥ずかしすぎる………
「結香?どうかしたか?」
首を傾げる先輩に慌てて何でもないと首を左右に振ると、そうかと破顔した先輩が私の水着姿をサッと一瞥する。
「うん。一年振りに見たが可愛いな」
「あ、ありがとうございます………」
先輩のチェックの仕方はぜんぜんいやらしいカンジがなくて、しかも自然体で誉めてくれる。
嬉しいと同時に、さっきの自分の視線に申し訳なくなってくる。
「結香。日焼け止めは塗ったのか」
「あ、はい。一応」
まんべんなく塗ったと頷いたけど、貸せと先輩は手の平を見せてくる。
「背中に塗るから。日差しが強いからしっかり塗らないといけないだろう?」
確かにオセロのように焼けたら恥ずかしくて学校に行けなくなる。
先輩の手に日焼け止めを渡すと背中を向ける。
日焼け止めの冷たさにちょっと身体が跳ねた。
「塗るから、じっとしてろ」
「っ、はい」
背中から伝わる先輩の声がいつもより色っぽい。
日焼け止めの冷たさは先輩の指の温かさですぐに中和されたけど、なめらかに撫で回される指の動きに心臓がまた音を立てて、私は一生懸命足に力を入れて背中を動かさないようにした。
先輩が終わりを告げる頃にはすっかり息があがって、はふはふと呼吸をしながらお礼を言った。
去年と大体同じくらい、午前中のまだ早い時間に着いたけど、海の中にはわりとたくさんの人が水遊びをしていた。
「思ったより人が多いですね」
そうだなと頷いた先輩が、海を一瞥した。
「今年は猛暑日の訪れも早いし、連休だからな。皆、水遊びをしたがるんだろう」
他の人との距離を考えると、泳ぐのは止した方が良さそうだ。と先輩は呟いた。
ですねと同意してから、一応確認する。
「あの、泳ぐときは……その、どういう体勢で」
勿論、と私の質問を遮る目がキランと一瞬輝いて見えたような気がした。
「俺が結香を抱えて泳ぐ。はぐれずに、しかも他者とぶつからずに泳ぐには一番だからな」
「………ですよね」
はっきり言い切った先輩に思わず苦笑する。
海にはゴムボートで遊ぶ親子やカップルがいる。波の浅いところではビーチボールで遊んでる人たちもいる。
その中を去年のように泳いでもらうのは先輩はずっと大変だし、私はとにかく恥ずかしい。
どうしても泳ぎたい、というほど熱狂的でもないので、じゃあ泳ぐのはまた今度にしましょうと言った。
「とりあえず、散歩でもするか」
私の手を握り直すと、先輩は波打ち際を歩き始めた。
ボール遊びをしている人たちを見つけると少し大回りに避け、人気が少なくなると膝が水に浸かるくらい深く入る。
「結香」
「何です、ふゎっ」
不意に手を離されて呼ばれたと思ったら、胸の辺りまで水を浴びた。
片足を水面から出した先輩がいたずらっ子のように笑ってる。
足で海水をかけられたみたい。顔にもちょっと跳ねたみたいで少ししょっぱい。
「やりましたねっ」
お返しっと屈むと両手を水中に突っ込んで先輩に向かってえいっと振り上げる。
咄嗟の攻撃だったけど、思ったより多くの水を放れたのでちょっと満足。
運動神経が良すぎる先輩のことだから、てっきりひらりと華麗に避けると思っていた。
先輩は本当に驚いたように目を丸く見開くと、避けるでもなくまともに海水を浴びた。胸から水を滴らせたまま、茫然と私を見詰めている。
顔にはかかってないようだけど、あまり濡れたくない所に懸かっちゃったのかな?耳とか鼻とか。
「先輩?どうしました、大丈夫ですか?」
声をかけてザバザバと派手な音を立てて近づくと、珍しく茫然と私を見ていた先輩がハッと気づいて首を振った。
「大丈夫だ。少し驚いただけだ」
「驚いた………?」
今のやり取りに驚くようなこと、あったかな?
頭の中でリプレイして、あ、と心の中でポンと手を打つ。
「私がちゃんと水をかき出せたことにビックリしたんですね!運動神経悪くても、たまに奇跡起こせるんですよ!」
「そうではないんだが」
えへんと胸を張ってみせると、なぜか先輩に苦笑されてしまった。
いつもの目付きに戻った先輩だけど、なぜか私をじっと見詰めてから「まぁ、良いか」と呟いた。
「幸い、ここは人が少ないし」
「?先輩?どうしたんです?」
呟く声が小さすぎて、波の音でよく聞こえない。
もう一度言ってもらおうと聞いてみたけど、先輩はにこりと笑うだけで何と囁いたのか教えてくれない。
「せっかくだから、遊んでいくか」
返事を返す前に、さっきよりも大きな水の固まりに襲われた。
「っぷ!しょっぱいっ」
涙目で舌を出していると先輩は楽しそうに笑ってる。
くぅぅぅぅっ。負けるもんかっ。
「いきますよっ」
涙目で宣戦布告すると、勢い良く両腕を水の中に突っ込んで先輩に向けて一生懸命水をかけまくり始めた。
「ふはっ………………つかれた……………」
ヨロヨロと浜辺に上がると、先輩は岩の影になっている場所を見つけてレジャーシートを広げた。
一緒に水遊びをしていたのにずぶ濡れでヨロヨロ這う私と違って先輩は顔や髪はたいして濡れていない。動きもいつも通りてきぱきとしている。
「うぅぅ………負けたっ………!」
「結香、どうした?用意が出来たから少し休もう」
考えてみなくても勝ち目なんてないし、そもそも水のかけ合いっこの勝ち負けって何?という話だけど、それでも一人で悔しがる私を、小首を傾げた先輩が呼んだ。
悔しいので頑張っていつも通りの歩き方で近づくと、タオルで優しく拭ってくれる。
距離も近いし素肌に触れるタオルや指の感触が異様にリアルに感じて、呼吸に困った。
「どうした」
静かな口調で聞かれるのに首を横に振ると、ふ、と破顔される。
頬が熱い。胸が痛い。
促されるまま座って向かい合う体勢から隣同士に座る形になる。
はふ、とこっそり息継ぎをした。
絶え間ない波の音の間に、楽しそうに遊ぶ声が紛れて聞こえてくる。
冷えた肌に差す日差しが気持ちいい。
日に当たる部分を少しずつずらしながら、寄せては返す波をぼんやり眺める。
「結香」
身体の疲れもあってさっきの緊張がかなり落ち着いたのか、はいと答える自分の声がいつも通りでちょっとホッとした。
レジャーシートに寝そべっていた先輩はいつの間にか起き上がっていて、持ってきていたペットボトルを差し出してくれていた。
一晩凍らせていたペットボトルの中にはまだ大きな氷の固まりが浮いている。
溶けた水がすごく冷たいからゆっくり飲むと、先輩は氷だけのペットボトルに常温のミネラルウォーターを慎重に注ぎ入れた。半分くらい入れると冷えたペットボトルを私に戻し、自分は残りの水を喉を鳴らして飲んだ。
貰った水を抱えたまま喉に見入っていると艶のある声で名前を呼ばれる。
「はい?」
「そこに俯せになれ」
戸惑う私を、片手で日焼け止めのボトルを振りながら先輩がレジャーシートに寝そべるように導く。
組んだ腕を枕代わりにしてだらんとしていると、先輩の指が肩に触れた。
一瞬冷たいかなと思ったクリームはすぐに温まって肌の上に広げられていく。
肩から首、反対の肩にとなめらかに動いていた指が少しずつ下に移動する。
必死に息をつめて声を出さないようにしていたけど、指が背中の紐の下にするりと入るとつい「ぃにゃっ」と奇声をあげてしまった。
「そ!こは。そこは、大丈夫、です」
やんわりと断ろうとする間にするすると動く指は紐の下をしっかりと動き回った。
「跡を見られたら恥ずかしいんじゃないのか」
そうかもしれないけど変な声を聞かれるのが恥ずかしいから待ってほしい。
そう訴える前に指は背中を這い回り脇腹や腰の敏感なところを掠めた。
「っっっ、にゃ!」
思わず身を捩って声を洩らすと背後でくすりと笑う声が聞こえた気がした。
「ほら。もう少しだからじっとしてろ」
「~~~~~っっっ」
恥ずかしい。そしてものすごく悔しい。
先輩がもういいぞと言うまで、腕で顔を隠して息をつめた。
起き上がった私は日焼け止めのボトルを取り返すと「寝てください」と自分がさっきまで寝ていた場所を指差した。
「俺は別に焼けても構わないんだが」
「ダメですっ」
苦笑する先輩に、なおもレジャーシートを指差して正座したまま軽く跳ねた。
「綺麗な肌が日焼けしてシミになったら大変ですっ。塗りますっ」
本当は恥ずかしい声を出しちゃった仕返しがしたいだけだけど。
私の本心に気づいているのかは解らないけど、クスクス笑った先輩はすぐに俯せに寝転がってくれた。
いきますよ~と声をかけながらクリームを背中に広げていく。面積が広いから指では足りなくて、手の平をクリームまみれにして、先輩と同じように肩と首、背中中を触る。
同じように触っているのに、先輩はぜんぜん声をあげないし気持ち良さそうに寝ている。脇腹を指先でなぞってもくすりと笑うだけで身体はリラックスして寝たまま。
なんだかものすごく悔しいので、水着に隠れた腰のラインを指先でつーっとなぞった。
「ふふ」と先輩が声に出して笑う。
「どうしました?くすぐったかったですか?」
自分でもわざとらしい、意地悪な声で聞いてみると「いや?」と先輩は笑みを浮かべた顔を上げて私を見上げた。
「今日の結香は随分積極的だと思ってな」
「はい?」
積極的?と首を傾げる私の手をあっさり掴まえると、先輩は寝返りをうちながら掴まえた手を思いきり引っ張った。
「ぅわっ」
自然に先輩の胸の上に倒れこむ。
逆の手で腰を押さえ込まれて、ぜんぜん動けなくなってしまった。
「ちょぉっ!??せんぱぃっ!??」
外で水着でこんな体勢はものすごく恥ずかしいと暴れても、先輩は楽しそうに笑うだけ。
私が上に乗ってる方だから思いきり暴れれば先輩の上から降りれるはずなのに、先輩の腕二本だけで囚われる。
「ふぐぅ……………」
ぐったりと先輩の上で乱れた息を整えていると、両腕をしっかり私の身体に巻きつけた先輩は満足そうに髪にキスを落とした。
「………ここ、外なのに………」
悔し紛れに呟くと、「安心しろ」と頭を撫でられた。先輩の声が耳から聞こえてくるのと同時に温かい胸が上下して、心臓がまた煩く鳴るけど嬉しくてホッとする。
「時間が時間だからな。人が減っているだろう?」
顔を少し上げて周りをそっと見渡す。
私たちと同じように浜で休んでいる人もいたけど、思ったより少ない。見える限りでは、海に入ってる人もずっと少ない。
「今は店に集中しているだろうな」
首を捻っているとそんな声が下から響いてくる。
そういえばさっきから受け取りの番号札を呼ぶアナウンスや浜の歩き方やゴミの捨て方を指示するアナウンスが途切れ途切れに聞こえる。人の賑わう声や音と一緒に、ソースの焼ける匂いも漂ってきた。
お昼?と呟く声が聞こえたのか、うん、と先輩が私を抱きしめたまま答えた。
「もう、そんな時間なんですね」
うん、と聞こえる先輩の声が心地いい。
「結香は、腹減ったか?」
少し空いたような気もするけど、今は疲れて眠い方が強い。
あくびを堪えながら伝えると、もう少しここで休んでいこう、と言う先輩の声が響いてきた。
「今はあっちがかなり混雑しているからな。出口へ抜けるだけでもキツいだろう。少し落ち着くのを待とう」
寝かしつけるように背中を撫でる大きな手が気持ち良くて、ちゃんと返事できたのかも解らないまますぅと落ちた。
裏口にはインターホンがついていない。
営業の邪魔になるのは嫌だからノックするかどうかで悩みながら近づいていく。
「ほぁっ?」
ドアまであと一歩、というところで目の前のドアが突然開いたので小さく飛びはねる。
「おう」
一言発したおじいさんは私たちをじ、と見つめると一つ頷いて、ドアを開けたままくるりと身を翻して奥へ去ってしまう。
「あ、れ?」
挨拶する間もなく行かれてしまったので呆けて立ち尽くしていると、小走りに現れた女将さんが私たちを見るなり「おやまぁ」と声をあげた。
「嫌だよ、あの人ったら。おかえりとか水道使ってね、くらい言ってくれりゃいいのに」
ホントにもう、と小さく憤慨しつつも私たちには「おかえり」と微笑んでくれる。
「ただいま、です。仕事を中断させちゃってごめんなさい」
大丈夫大丈夫、と女将さんはニコニコ笑う。
「今タオルを持ってくるから、そこの水道、適当に使ってね」
言うなり女将さんもまた小走りで奥に戻る。
ありがとうございます、と声をかけて蛇口を捻った。
身支度を整えて荷物と部屋を簡単に片づけてから一階に降りた。
足音に気づいたのか、汚れた食器を下げていた女将さんが振り返って「もう済んだのかい?」と笑った。
「ちょいとそこに座っててね。すぐご飯にしよう」
「いえっ。お構いなくっ」
ほとんど食事は終わってるみたいだけどまだお客さんが一組残っている。
まだお昼の営業が終わったわけじゃないのに私たちの世話に手を割いてもらうわけにいかない、と止めても女将さんはいーのいーの、とテーブルを片づける。
「何だ、やけに機嫌良いと思ったらお孫さんが来てたのかい」
「へ」
お客さんの一人、ウチのお父さんと同じくらいの年の男の人がこっちを見ながらにこやかに言う。
年は同じくらいだけど恰幅はこの人の方がかなり立派。ワイシャツのボタンを多目に外しているけど、不思議とくたびれてるカンジはない。
頼りになる上司って雰囲気だ。
………ウチのお父さんも確か上司の立場だと言ってたと思うけど、会社ではちゃんと上司してるのかな………
「ちゃあんと孝行しなよ」
「へ?ぁ?あ、はい」
ほげっと考えているうちに女将さんとお喋りしていた男の人に突然振り返られた。
思わず頷いてから、あれ、と首を傾げる。
「余計なこと言ってないで、とっとと仕事にお戻りよ」
叱るように言っておつりを渡した女将さんに「ハイハイ」と笑ってから、一度こちらにひらりと手を振って男の人は連れ立って出ていった。
入れ代わりに入ってきたおじさんが私たちを見つけて「お」と笑った。
「まだ帰ってなかったな。どうだ、海で腹一杯なんてなってないだろうな」
海では何も食べていないと先輩が答えると「そりゃ良かった」とノブさんがテーブルの上にレジ袋を二つ置いた。
「向こうのは見栄えは良いだろうが、肉の質はこっちだって負けねぇからな」
熱いうちに食え、と言われた先輩はありがとうございますとお礼を言ってから私の背中を軽く押した。
満腹のお腹を擦りながら去年も歩いた道をぶらりと歩く。去年は可愛い小物が売ってるお店があちこちにある静かな通りだったけど、今日はなんだかあちらもこちらも行列で塞がっている。
入ってるお店が変わったのかな、と呟くと「どうも違うようだ」と先輩が言った。
お店は去年あったものと同じだけど、目玉商品を求めてお客さんが集中しているらしい。
「色や形がやたら派手だと思う」
目玉商品ってどんなだろうという呟きに、少し首を伸ばして看板を眺めた先輩のコメントがそれだった。
買い終わった人が店の近くで写真を撮ってるから、SNSをやってる人なのかな。
この中をぶらりと歩くのはちょっと無理。
先輩も同意見だったようで、くいと手を引かれて来た道を少し戻る。
「話題だというから、買ってみたかったか?」
少ししてから、ふと聞かれた。
何も言わないで引き返したことを気にしてくれたみたい。
「今お腹いっぱいだから、買っても食べれませんよ」
そう答えると、そうかとホッとしたような笑顔を向けられた。
先輩はまだお腹に余裕があると思うから、実は食べてみたかったのかな。と聞いてみると、先輩は難しそうな表情を浮かべた。
「先輩?」
「どうも旨そうに見えないんだが。何故あれがあれほどの値段なんだろうな」
全く解らん。と呟きながら歩く先輩がなんだか可愛く見えてしまって、手を引かれながらこっそり笑った。
さっき店に押しかける人の山に驚いた反動かもしれないけど、住宅街の静けさにホッと一息つく。
住宅街といってもウチの近所と少し趣きが違うからふらふら歩いてるだけでも楽しい。
ベランダの外側に飾られている鮮やかな花とか駐車場の隅に置かれた三輪車とか。最近は外壁に絵が書いてあったり一部を岩っぽく装飾している家もあるから、手を繋いでいる先輩を引っ張らないように気をつけつつしっかり観察する。
気をつけてはいるんだけどやっぱり引いてしまうようで、先輩がくすりと笑う音が聞こえた。
「す、すみません。つい」
軽く頭を振ると、身体を屈めて私と同じ視線になった。
「何を見つけたんだ?」
「あ、あのですね。あそこの家はバスケットゴールがあるでしょう?どういう人が使ってるのかなとか、ミスして窓ガラス割っちゃうことないのかな、なんて考えてしまって」
なんとなく思いついたもしもの話を、先輩はからかったりしないで聞いてくれる。
優しい目で促されるから、結局歩きながら見つけたものは全部話すことになってしまった。
「すみません、先輩。私、落ち着きないですね」
項垂れると先輩が繋いだ手をくいと引いた。
顔を上げると優しく微笑んだ先輩の顔が視界に広がる。
近い、と驚く前に温かくて柔らかいものがおでこに触れてスッと離れた。
「せ、先輩」
空いた手でおでこを押さえてうろたえると、先輩は優しく微笑んで手を引いた。
「散歩、楽しいな」
頬が熱い。きっと真っ赤になってるはず。
ごまかすようにぶんぶん縦に首を振ると、先輩は笑みを深めて歩き始めた。
家と家の間に、いきなりお店を見つけた。
周りのお家の雰囲気と同じ、落ち着いた雰囲気の中にちょっと高級感を感じる。店内から見えるライティングの色のせいかな。
ケーキ屋さんかと思ったら違うみたい。
近づいてよく見てみたいけど綺麗に磨かれた窓ガラスを汚すのが申し訳なくて、立ち止まったまま首を伸ばした。
「チーズの専門店らしいな」
ドアベルについている小さな看板を見詰めながら先輩が言った。
「チーズ?どこにも書いてないのに」
あれだ、と先輩は看板を指差す。
「フランス語ではチーズのことをフロマージュというんだ」
そういえばそんな言葉を聞いたことがある気がする。恥ずかしい。
「じゃあ、あのショーケースの中は全部チーズなんですか」
おそらくと頷いた先輩は静かに店内を眺めた。
「壮観だな」
「ですね。チーズってたくさん種類があると聞いてはいたけど、いつも買うチーズはたいてい同じだからぜんぜん意識してませんでした」
ウチで買うチーズといったら定番のお徳用チーズ………あれ。あのチーズは種類なんだっけ?
首を捻ってうぅんと唸っていると、チリンと可愛らしい音が聞こえた。
「よろしかったら、中でご覧になりませんか?」
さっきまでショーケースの向こうに立っていた女の人がドアを開けてこちらに微笑みかけていた。白いブラウスに黒い前掛けと帽子がとてもスタイリッシュで一瞬見惚れる。
「へ、ぁ?ぅえっ?」
店の外からじーっと見ていてごめんなさいとか、買うかどうか解らないので入店はできませんとか断る前に。
先輩に手を引かれてあっさり店の中にお邪魔してしまっていた。
やっぱりこのライトは柔らかい印象だけど高級感あるなぁ。あ、絨毯がふかふかする。
でなくてっ。
「先輩、先輩」
お店の雰囲気に一瞬意識を飛ばした私は慌てて先輩の袖を引く。
「どうしましょう、お高そうですよ」
ワタワタする私と正反対に落ち着いた先輩は珍しそうにショーケースを覗いている。
「マスカルポーネとは、どれですか?」
こちらになります、と示された先を見た先輩はほぅと唸った。
「先輩、マスカルポーネ買うんですか?」
先輩は料理が上手。最近は日常的に作る機会は減ったそうだけど、今でも美味しいご飯を手際良く作れちゃう。しかも品数が多い。
陽くん萌ちゃんが小さかったときはおやつまで作っていたと聞いた。
ここでマスカルポーネなんてアイテムを手に入れてしまったら、女子力でさらに遅れをとってしまう。
ふるふると首を振る先輩に、自分のズルさを感じながらも安心してしまう。
「最近、菓子によく入っているだろう。いつの間にか現れた食材だから気になっていたんだ」
「そ、そうなんですね………」
しげしげとマスカルポーネに見入る先輩に、こっそり息をついた。
その拍子にショーケースの一部に目が吸い寄せられる。
「あ、お正月用のチーズ」
マスカルポーネからこちらに視線を移した先輩が不思議そうな眼差しで私を見詰める。
「普通のカマンベールチーズに見えるんだが」
言葉には出さないけど店員さんも不思議そうにこちらを見ていて、思わず肩をすくめてしまった。
「あの、ウチではお正月にこれを皆で食べるのがなんとなくの習慣で………」
部屋着でだらだらしている中で適当に切ったチーズを家族皆で包み紙からそのまま取って食べる。少なくともこんな高級感溢れるお店で披露するエピソードでもないので、なんとも申し訳ない。
そうかと頷いた先輩は、買っていくかとカマンベールを指差した。
久しぶりに食べたい気もするけど、せっかくだからもう少し違うものを買ってみたいかも。
「ワインか………あ、ビールに合うチーズってありますか?」
ございますよ、と店員さんが笑顔で頷いた。
「お酒の好みに合わせてお勧めすることもできますが」
そう言ってもらえたけど、お姉ちゃんはとにかくたくさん飲む人で、と告白するのは恥ずかしいのでいくつか教えてもらった中でも馴染みのあるチェダーチーズを買うことにした。
どのぐらい買っていこうかな、と考えていると先輩が店員さんに話しかけた。
「日本酒に合うチーズはありますか」
意外な組み合わせだと思ったけど、もちろんと店員さんは頷いた。
「発酵食品同士で相性も良いんですよ」
目を丸くしている私に話しかけるように教えてくれた。なるほど、豚キムチにチーズをかけると美味しい、みたいなやつかもしれない。
いくつか教えてくれる中で、先輩はじゃあこれをとベイクドチーズケーキみたいな見た目のチーズを指差した。
「あとこれをください」
私の分と合わせて焼酎に合うチーズのセットとフルーツが入ったチーズを二種類追加したから、やっぱりそこそこの金額になった。
大きめの紙袋を片手に、店員さんに見送られて店を出る。
「いっぱい買いましたね」
先輩は満足そうに頷くと周りを見渡した。
何を探しているのかなと聞いてみると、「パン屋だ」となおも見渡しながら言う。
「フルーツ入りのチーズをパンにつけて食べたら旨そうじゃないか?」
心なしかいつもより足取りが早くてキョロキョロ周りを見渡している。早く食べたくて仕方ないらしい。
「先輩。パン屋さんなら、先輩の家の近くのパン屋さんが美味しいんじゃないですか?」
ピタッと立ち止まった先輩が何度か瞬きをする。
「よし、帰ろう」
言うなり回れ右して歩き始めた先輩がまた立ち止まった。
「?」
どうしましたと聞く前に、珍しく不安そうな目で見詰められた。
「結香は、もう少し遊びたいか?」
早く帰ってチーズを食べたいのに律儀に聞いてくれる先輩に、思わず笑ってしまってから帰りましょう?と手を引いた。
◆ 茜さんの酒盛り ◆
チャイムを鳴らすとエプロンを着けた結香が出迎えてくれる。
「結香、ただいま」
声をかけて腕を広げると困ったような表情を浮かべながらも、結香は腕の中におとなしく収まる。
ただいまともう一度言って額に口付けると、頬をほんのり染めて「おかえりなさい」と囁き返してくる。
あぁ、可愛い。連れて帰りたい。
毎日のように家に寄り手作りの夕飯を食べていれば、その衝動は自然と増してくる。
実際に連れ帰るのは無理だろうがせめて、と腰を軽く抱き上げるとやはり結香は慌てて暴れ始めた。
「先輩。お夕飯冷めちゃうから」
こんな風に叱られるのも楽しい。
拘束し続けても泣かれるだけなので柔らかい身体を抱き締めてから下ろす。
「もうっ」と小声で怒りながら奥へ逃げ込む結香の背中を追いかける俺の顔はきっと弛んでいるだろう。
「あ。そうだ」
居間のドアに手をかけた結香がはた、と何かに気付いて俺を振り返る。
先程とは違う困った表情にどうしたと目で問うと「あの」と口を開く。
「お姉ちゃんが、先輩と話したいからと待ってるんですけど」
テレビでも見ているのだろうか。ドアの向こうからは茜さんの笑い声が聞こえる。
解ったと頷いても結香は心配そうな表情を崩さない。
「大丈夫でしょうか。お姉ちゃん、もうお酒飲んでて」
俺が帰るまで飲まないように止めたつもりが、いつの間にか一人酒盛りを始めていたのだと肩を落として言う。
気にするな、と髪を撫でると結香の手の上からノブを回してドアを開ける。
「おーぅ、夕弦くん。帰ったかぁぁ」
機嫌良く俺に手を振った茜さんは、しかし次の瞬間にはテレビに挑戦的な目を向けていた。
「んふふ。失言、不祥事なんて格好つけるなよ?言動がぜーんぶ小学校低学年かってぇの!先生と呼ばれていい気になるなっての!」
楽しそうに笑っているのでバラエティーかと思ったが至って真面目な報道番組にツッコんでいた。VTRのみに限らず、コメンテーターや司会に対しても次から次へとツッコんでいる。
ごめんなさいと結香が俺の袖を引いて謝る。
「お姉ちゃん、最近ちょっとストレス気味らしくて。あぁして一人で騒ぐのがストレス発散には一番良いって……すみません。話があると言い出したのはお姉ちゃんなのに、そのお姉ちゃんがこんなに酔っちゃって」
別に構わないと首を振ると再度謝ってから結香は夕飯支度に台所へ小走りに行く。
その後ろ姿をテレビ画面の反射で確認した茜さんは、そこに座れと近くの座布団を指差した。
「結香相手でも演技を続けるんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
くすりと苦笑した茜さんは「やっぱり夕弦くんは誤魔化されないか」と呟いて酒を一口呷る。
「少しは付き合ってよ。結香が毎日でも飽きずに見惚れてるそのスーツ、作ったのはあたしよ?夕弦くんだって楽しんでるでしょう?」
家族も居るこの家で抱き締めたり、ましてやキスをするなど基本有り得ない。しかし、俺がスーツを着て来た時には態度が多少軟化する。
それが茜さんのお蔭というのは確かな話なので素直に頭を下げると、茜さんは艶やかに微笑んだ後「あーぁ、テロップ間違えてるじゃん!」と声を張り上げた。
「先輩、大丈夫ですか?」
結香が様子を見に来ていたらしい。
大丈夫だと答えると、「今、ご飯できますから」と小走りで戻っていく。
「全部が演技ってわけでもないのよ」
テレビを眺める目から笑みを消して茜さんが呟いた。
「役所だけで済むかと思ったら何から何まで連絡取って出向かないといけないんだもの。名前変わるって、本当に面倒」
うんざりと言う茜さんはつい先日、婚姻届を提出して戸籍上では高原性になった。
結婚前と何も変わらずこの家に居るのは「姉として結香がこの家から巣立つのを見送るため」との言だ。
「あの叔父さんが余計な嘴入れてくるのが煩いから籍は入れるけど、結香がこの家にいる限りはあたしの家もここだから!」
その弁に異を唱えているのは信夫さんで、入籍に伴う様々な手続きの合間に親子でずっと話し合いを続けているらしい。
「お父さんが珍しくしぶといからさ。夕弦くんからの差し入れはなかなか嬉しかった」
ごちそうさまと茜さんは上機嫌な様子で猪口を掲げる。
酒に合うというチーズは好評だったらしい。
「せっかくなら夕弦くんと一献傾けられればもっと美味しかったのにね」
「それは申し訳ありません」
それはまたの機会にね、と茜さんは笑い声を上げた。
皿から一切れ摘まみ上げながら「それでさ」と茜さんが口を開く。
「そんな優しい夕弦くんに助力を頼みたいんだけどな」
何ですかと返しながら身体を少し離すと、「さすが夕弦くん!ブレないなぁ!」と笑う。
「お父さんがねぇ、結婚式を挙げろと言うのよ」
つい返したくなった一言を飲み込んだ筈だが、茜さんには筒抜けだったらしい。
「今、『挙げればいいじゃないですか』とか思ったわよね?」
「えぇ、まぁ」
すみませんと頭を軽く下げると「いーけどさ」と言いながらも茜さんは少し頬を膨らませた。
「あんなクソ重たいモン、この年になってわざわざ着たかないわよ。あんなモン着なくても共白髪迎える覚悟くらい決めてやるわよ」
結香のドレスに心血を注いでいる茜さんは、自分でドレスを着るつもりは全く無いらしい。
「お父さんは珍しく食い下がるし、お母さんも泣き落としにかかってくるし。もう毎日疲れちゃう。夕弦くん、あの二人のお気に入りなんだから巧いこと言って誤魔化してよ」
それは無理ですと言うと「やっぱりかぁぁ」と茜さんは背後のソファーにひっくり返った。
「お姉ちゃん。先輩を困らせないで」
盆を運んできた結香が叱るように言うと「結香ぁぁ」と茜さんが甘えるように呼んだ。
「お姉ちゃん、このままじゃ純潔でも清楚でもないのに『女の子の夢だから』で誤魔化して純白のウェディングドレスをいけしゃあしゃあと着る、ご都合主義の頭のかっるぅぅい女と同類になっちゃうぅぅぅ」
「じゅんけ………………っ」
動揺した結香の手から盆を取り上げる。
「茜さん、結香を動揺させないでくださいよ」
「あら、失礼」と嘘泣きを瞬時に止めた茜さんは、ふふふと艶やかに笑った。
「大丈夫よ。婚約中の性交渉OKってのは昔からの由緒正しい慣例だし、結香は清楚で純粋よ!」
親指を立てて保証しても結香を落ち着かせる要因にはならない。
「茜さん………」
ついジト目を茜さんに向けたが、茜さんはどこ吹く風でチーズを咀嚼する。
「堂々と抱きしめる良い理由ができたじゃない」
「そんな暢気に構えないで下さいよ」
つい嘆息しながら呟くのに、「そぉ?」と茜さんはけろりとチーズを飲み込んだ。
「さ、今日は何を食べる?」
どうする、と先輩が問いかけるような目を向けられて、慌てて壁に張られたメニューに目を凝らした。
「今朝は特に良いアジが入ったよ」
女将さんが言うならきっと美味しいアジのはず。
「じゃあ………ぁ。さんが焼き。アジのさんが焼き定食にします」
私に続いて先輩がアジフライ定食を頼むと、了解と女将さんが微笑んだ。
「じゃあ、先に二階に荷物置いてきちゃいなさいな」
「はい、ありがとうございます。あ、あのっ」
何だい?と振り返った女将さんにバッグから引っ張り出した箱を差し出す。
「あの、これを。部屋を使わせてもらうお礼です」
「お礼なんて。この間もご馳走になったのに」
箱を見た女将さんは、おやと目を見開いた。
「信州そば。これはまた美味しそうな物を、どうもありがとう」
笑って受け取ってくれたのでホッと胸を撫で下ろした。
アイスやキムチも美味しそうだったけど好みもあるし、そばを選んで良かった。乾麺だから持ち運びやすかったし。
帰ったら長野のお婆ちゃんにお礼の葉書を書こう。
荷物を置いて戻ってくると、無人のテーブルの上に大きなだし巻き玉子のお皿が置いてあった。いつ見ても湯気まで美味しそう。
その席に座ってね、とお盆を運んできた女将さんに促された。
「はい、お嬢さんのさんが焼きだよ。お兄さんのはもうすぐ上がるから、それまでそれでも摘まんでてね」
いつもはあとから頂くサービスのだし巻き玉子を先付け代わりに貰ってしまったらしい。
ありがとうございますと先輩が頭を下げると、いーのいーの、と女将さんが手を振った。
「お父さんにはちょくちょく寄ってもらってお金を落としてもらってるんだから。卵焼きの一皿二皿、軽いものよ」
ふふふ、と笑って女将さんは厨房に戻っていく。
「結香、冷めないうちに頂こう」
先輩の分が来るまで待つつもりだったけど、食べるように先輩に促された。先輩はだし巻き玉子を食べるから気にしないで食べろと言う。
こういう状況を考慮してお爺さんは先にだし巻き玉子を作ってくれたのかな?
厨房を振り返ったけど、今日も厨房は薄暗くてお爺さんの姿は見えなかった。
先輩のアジフライ定食と一緒になめろうまで頂いてしまった。朝からアジづくしってものすごく贅沢。
先輩がアジフライを半分くれると言うのでお返しにさんが焼きを一つ千切りキャベツに立て掛けた。
「アジフライを半分に対してさんが焼き一つは過分じゃないか」
そうですか?と首を捻る。
アジフライは一枚が大きいから半分でもさんが焼き一つとそんなに大きさが変わらないし、先輩はたくさん食べるんだから、おかずが多い方が良いと思う。
そう言うと、先輩は小さくため息をついた。
「結香もきちんと食べないと駄目だ」
最近また、きちんと食事を摂るように言われるようになった。
ちゃんと食べてますよ、と言っても先輩は首を振ってなめろうの小鉢を私に寄せる。
なめろうは美味しいからまたご飯を食べてしまう。
これから水着を着るから満腹にはなりたくないんたけど。
それでも取るように先輩は小鉢を引っ込めてくれなかった。
「最近、また食べてないだろう」
「食べてますよ。一日三食」
繰り返しても先輩は首を横に振る。
「また軽くなった。暑いから無意識に食事量が減っているんだろう」
確かに今年は暑くなるのが早かったけど、でも自分ではちゃんと食べてるつもりなんだけどなぁ。
まっすぐな目に圧されて二口ご飯の上になめろうを取ると、先輩はやっとお盆とお盆の間に小鉢を置いた。
「これから体力を使うんだから、今日はしっかり食べろよ」
念を押すように言われてなめろうを少し口に入れる。つられるようにご飯も食べてしまう。
「お腹出たら恥ずかしいのに」
つい小さな声でボヤくと「安心しろ」と先輩が言った。
「腹が出たところで結香は可愛い」
「かゎ!」
急に顔が熱くて困ってるのに、先輩は淡々とご飯を食べて、箸が進まないどころか固まってる私に「きちんと食べろ」と言い聞かせた。
可愛いと言われて浮かれてしまったけどやっぱり食後のお腹は気になる。
見たカンジ悲劇的に出てるほどじゃない、とは思うけど。おへそを出しても大丈夫!ってほどでもない。残念なことに。
「結香。もう良いか」
「はぇっ?ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
いけない。着替えの最中だった。
とりあえず先輩に待ってもらって水着を確認する。
上………うん、背中も首もほどける心配はなさそう。次、下………よし!食い込んでない!
「お待たせしました………っ」
声をかけながら振り返った先に見えた、先輩の身体のラインに見惚れる。
いつも好きだと見入っている肩や腕はもちろん、太い首や逞しい背筋、引き締まった腰のラインに急に頬が熱くなって心臓の音が煩くなる。
ジロジロ見たら失礼だと頭で解っているのに、目は勝手になめらかな肌に吸い寄せられている。
今まで自覚なかったけど、私って実はかなりエッチなのかな。
先輩に知られたら恥ずかしすぎる………
「結香?どうかしたか?」
首を傾げる先輩に慌てて何でもないと首を左右に振ると、そうかと破顔した先輩が私の水着姿をサッと一瞥する。
「うん。一年振りに見たが可愛いな」
「あ、ありがとうございます………」
先輩のチェックの仕方はぜんぜんいやらしいカンジがなくて、しかも自然体で誉めてくれる。
嬉しいと同時に、さっきの自分の視線に申し訳なくなってくる。
「結香。日焼け止めは塗ったのか」
「あ、はい。一応」
まんべんなく塗ったと頷いたけど、貸せと先輩は手の平を見せてくる。
「背中に塗るから。日差しが強いからしっかり塗らないといけないだろう?」
確かにオセロのように焼けたら恥ずかしくて学校に行けなくなる。
先輩の手に日焼け止めを渡すと背中を向ける。
日焼け止めの冷たさにちょっと身体が跳ねた。
「塗るから、じっとしてろ」
「っ、はい」
背中から伝わる先輩の声がいつもより色っぽい。
日焼け止めの冷たさは先輩の指の温かさですぐに中和されたけど、なめらかに撫で回される指の動きに心臓がまた音を立てて、私は一生懸命足に力を入れて背中を動かさないようにした。
先輩が終わりを告げる頃にはすっかり息があがって、はふはふと呼吸をしながらお礼を言った。
去年と大体同じくらい、午前中のまだ早い時間に着いたけど、海の中にはわりとたくさんの人が水遊びをしていた。
「思ったより人が多いですね」
そうだなと頷いた先輩が、海を一瞥した。
「今年は猛暑日の訪れも早いし、連休だからな。皆、水遊びをしたがるんだろう」
他の人との距離を考えると、泳ぐのは止した方が良さそうだ。と先輩は呟いた。
ですねと同意してから、一応確認する。
「あの、泳ぐときは……その、どういう体勢で」
勿論、と私の質問を遮る目がキランと一瞬輝いて見えたような気がした。
「俺が結香を抱えて泳ぐ。はぐれずに、しかも他者とぶつからずに泳ぐには一番だからな」
「………ですよね」
はっきり言い切った先輩に思わず苦笑する。
海にはゴムボートで遊ぶ親子やカップルがいる。波の浅いところではビーチボールで遊んでる人たちもいる。
その中を去年のように泳いでもらうのは先輩はずっと大変だし、私はとにかく恥ずかしい。
どうしても泳ぎたい、というほど熱狂的でもないので、じゃあ泳ぐのはまた今度にしましょうと言った。
「とりあえず、散歩でもするか」
私の手を握り直すと、先輩は波打ち際を歩き始めた。
ボール遊びをしている人たちを見つけると少し大回りに避け、人気が少なくなると膝が水に浸かるくらい深く入る。
「結香」
「何です、ふゎっ」
不意に手を離されて呼ばれたと思ったら、胸の辺りまで水を浴びた。
片足を水面から出した先輩がいたずらっ子のように笑ってる。
足で海水をかけられたみたい。顔にもちょっと跳ねたみたいで少ししょっぱい。
「やりましたねっ」
お返しっと屈むと両手を水中に突っ込んで先輩に向かってえいっと振り上げる。
咄嗟の攻撃だったけど、思ったより多くの水を放れたのでちょっと満足。
運動神経が良すぎる先輩のことだから、てっきりひらりと華麗に避けると思っていた。
先輩は本当に驚いたように目を丸く見開くと、避けるでもなくまともに海水を浴びた。胸から水を滴らせたまま、茫然と私を見詰めている。
顔にはかかってないようだけど、あまり濡れたくない所に懸かっちゃったのかな?耳とか鼻とか。
「先輩?どうしました、大丈夫ですか?」
声をかけてザバザバと派手な音を立てて近づくと、珍しく茫然と私を見ていた先輩がハッと気づいて首を振った。
「大丈夫だ。少し驚いただけだ」
「驚いた………?」
今のやり取りに驚くようなこと、あったかな?
頭の中でリプレイして、あ、と心の中でポンと手を打つ。
「私がちゃんと水をかき出せたことにビックリしたんですね!運動神経悪くても、たまに奇跡起こせるんですよ!」
「そうではないんだが」
えへんと胸を張ってみせると、なぜか先輩に苦笑されてしまった。
いつもの目付きに戻った先輩だけど、なぜか私をじっと見詰めてから「まぁ、良いか」と呟いた。
「幸い、ここは人が少ないし」
「?先輩?どうしたんです?」
呟く声が小さすぎて、波の音でよく聞こえない。
もう一度言ってもらおうと聞いてみたけど、先輩はにこりと笑うだけで何と囁いたのか教えてくれない。
「せっかくだから、遊んでいくか」
返事を返す前に、さっきよりも大きな水の固まりに襲われた。
「っぷ!しょっぱいっ」
涙目で舌を出していると先輩は楽しそうに笑ってる。
くぅぅぅぅっ。負けるもんかっ。
「いきますよっ」
涙目で宣戦布告すると、勢い良く両腕を水の中に突っ込んで先輩に向けて一生懸命水をかけまくり始めた。
「ふはっ………………つかれた……………」
ヨロヨロと浜辺に上がると、先輩は岩の影になっている場所を見つけてレジャーシートを広げた。
一緒に水遊びをしていたのにずぶ濡れでヨロヨロ這う私と違って先輩は顔や髪はたいして濡れていない。動きもいつも通りてきぱきとしている。
「うぅぅ………負けたっ………!」
「結香、どうした?用意が出来たから少し休もう」
考えてみなくても勝ち目なんてないし、そもそも水のかけ合いっこの勝ち負けって何?という話だけど、それでも一人で悔しがる私を、小首を傾げた先輩が呼んだ。
悔しいので頑張っていつも通りの歩き方で近づくと、タオルで優しく拭ってくれる。
距離も近いし素肌に触れるタオルや指の感触が異様にリアルに感じて、呼吸に困った。
「どうした」
静かな口調で聞かれるのに首を横に振ると、ふ、と破顔される。
頬が熱い。胸が痛い。
促されるまま座って向かい合う体勢から隣同士に座る形になる。
はふ、とこっそり息継ぎをした。
絶え間ない波の音の間に、楽しそうに遊ぶ声が紛れて聞こえてくる。
冷えた肌に差す日差しが気持ちいい。
日に当たる部分を少しずつずらしながら、寄せては返す波をぼんやり眺める。
「結香」
身体の疲れもあってさっきの緊張がかなり落ち着いたのか、はいと答える自分の声がいつも通りでちょっとホッとした。
レジャーシートに寝そべっていた先輩はいつの間にか起き上がっていて、持ってきていたペットボトルを差し出してくれていた。
一晩凍らせていたペットボトルの中にはまだ大きな氷の固まりが浮いている。
溶けた水がすごく冷たいからゆっくり飲むと、先輩は氷だけのペットボトルに常温のミネラルウォーターを慎重に注ぎ入れた。半分くらい入れると冷えたペットボトルを私に戻し、自分は残りの水を喉を鳴らして飲んだ。
貰った水を抱えたまま喉に見入っていると艶のある声で名前を呼ばれる。
「はい?」
「そこに俯せになれ」
戸惑う私を、片手で日焼け止めのボトルを振りながら先輩がレジャーシートに寝そべるように導く。
組んだ腕を枕代わりにしてだらんとしていると、先輩の指が肩に触れた。
一瞬冷たいかなと思ったクリームはすぐに温まって肌の上に広げられていく。
肩から首、反対の肩にとなめらかに動いていた指が少しずつ下に移動する。
必死に息をつめて声を出さないようにしていたけど、指が背中の紐の下にするりと入るとつい「ぃにゃっ」と奇声をあげてしまった。
「そ!こは。そこは、大丈夫、です」
やんわりと断ろうとする間にするすると動く指は紐の下をしっかりと動き回った。
「跡を見られたら恥ずかしいんじゃないのか」
そうかもしれないけど変な声を聞かれるのが恥ずかしいから待ってほしい。
そう訴える前に指は背中を這い回り脇腹や腰の敏感なところを掠めた。
「っっっ、にゃ!」
思わず身を捩って声を洩らすと背後でくすりと笑う声が聞こえた気がした。
「ほら。もう少しだからじっとしてろ」
「~~~~~っっっ」
恥ずかしい。そしてものすごく悔しい。
先輩がもういいぞと言うまで、腕で顔を隠して息をつめた。
起き上がった私は日焼け止めのボトルを取り返すと「寝てください」と自分がさっきまで寝ていた場所を指差した。
「俺は別に焼けても構わないんだが」
「ダメですっ」
苦笑する先輩に、なおもレジャーシートを指差して正座したまま軽く跳ねた。
「綺麗な肌が日焼けしてシミになったら大変ですっ。塗りますっ」
本当は恥ずかしい声を出しちゃった仕返しがしたいだけだけど。
私の本心に気づいているのかは解らないけど、クスクス笑った先輩はすぐに俯せに寝転がってくれた。
いきますよ~と声をかけながらクリームを背中に広げていく。面積が広いから指では足りなくて、手の平をクリームまみれにして、先輩と同じように肩と首、背中中を触る。
同じように触っているのに、先輩はぜんぜん声をあげないし気持ち良さそうに寝ている。脇腹を指先でなぞってもくすりと笑うだけで身体はリラックスして寝たまま。
なんだかものすごく悔しいので、水着に隠れた腰のラインを指先でつーっとなぞった。
「ふふ」と先輩が声に出して笑う。
「どうしました?くすぐったかったですか?」
自分でもわざとらしい、意地悪な声で聞いてみると「いや?」と先輩は笑みを浮かべた顔を上げて私を見上げた。
「今日の結香は随分積極的だと思ってな」
「はい?」
積極的?と首を傾げる私の手をあっさり掴まえると、先輩は寝返りをうちながら掴まえた手を思いきり引っ張った。
「ぅわっ」
自然に先輩の胸の上に倒れこむ。
逆の手で腰を押さえ込まれて、ぜんぜん動けなくなってしまった。
「ちょぉっ!??せんぱぃっ!??」
外で水着でこんな体勢はものすごく恥ずかしいと暴れても、先輩は楽しそうに笑うだけ。
私が上に乗ってる方だから思いきり暴れれば先輩の上から降りれるはずなのに、先輩の腕二本だけで囚われる。
「ふぐぅ……………」
ぐったりと先輩の上で乱れた息を整えていると、両腕をしっかり私の身体に巻きつけた先輩は満足そうに髪にキスを落とした。
「………ここ、外なのに………」
悔し紛れに呟くと、「安心しろ」と頭を撫でられた。先輩の声が耳から聞こえてくるのと同時に温かい胸が上下して、心臓がまた煩く鳴るけど嬉しくてホッとする。
「時間が時間だからな。人が減っているだろう?」
顔を少し上げて周りをそっと見渡す。
私たちと同じように浜で休んでいる人もいたけど、思ったより少ない。見える限りでは、海に入ってる人もずっと少ない。
「今は店に集中しているだろうな」
首を捻っているとそんな声が下から響いてくる。
そういえばさっきから受け取りの番号札を呼ぶアナウンスや浜の歩き方やゴミの捨て方を指示するアナウンスが途切れ途切れに聞こえる。人の賑わう声や音と一緒に、ソースの焼ける匂いも漂ってきた。
お昼?と呟く声が聞こえたのか、うん、と先輩が私を抱きしめたまま答えた。
「もう、そんな時間なんですね」
うん、と聞こえる先輩の声が心地いい。
「結香は、腹減ったか?」
少し空いたような気もするけど、今は疲れて眠い方が強い。
あくびを堪えながら伝えると、もう少しここで休んでいこう、と言う先輩の声が響いてきた。
「今はあっちがかなり混雑しているからな。出口へ抜けるだけでもキツいだろう。少し落ち着くのを待とう」
寝かしつけるように背中を撫でる大きな手が気持ち良くて、ちゃんと返事できたのかも解らないまますぅと落ちた。
裏口にはインターホンがついていない。
営業の邪魔になるのは嫌だからノックするかどうかで悩みながら近づいていく。
「ほぁっ?」
ドアまであと一歩、というところで目の前のドアが突然開いたので小さく飛びはねる。
「おう」
一言発したおじいさんは私たちをじ、と見つめると一つ頷いて、ドアを開けたままくるりと身を翻して奥へ去ってしまう。
「あ、れ?」
挨拶する間もなく行かれてしまったので呆けて立ち尽くしていると、小走りに現れた女将さんが私たちを見るなり「おやまぁ」と声をあげた。
「嫌だよ、あの人ったら。おかえりとか水道使ってね、くらい言ってくれりゃいいのに」
ホントにもう、と小さく憤慨しつつも私たちには「おかえり」と微笑んでくれる。
「ただいま、です。仕事を中断させちゃってごめんなさい」
大丈夫大丈夫、と女将さんはニコニコ笑う。
「今タオルを持ってくるから、そこの水道、適当に使ってね」
言うなり女将さんもまた小走りで奥に戻る。
ありがとうございます、と声をかけて蛇口を捻った。
身支度を整えて荷物と部屋を簡単に片づけてから一階に降りた。
足音に気づいたのか、汚れた食器を下げていた女将さんが振り返って「もう済んだのかい?」と笑った。
「ちょいとそこに座っててね。すぐご飯にしよう」
「いえっ。お構いなくっ」
ほとんど食事は終わってるみたいだけどまだお客さんが一組残っている。
まだお昼の営業が終わったわけじゃないのに私たちの世話に手を割いてもらうわけにいかない、と止めても女将さんはいーのいーの、とテーブルを片づける。
「何だ、やけに機嫌良いと思ったらお孫さんが来てたのかい」
「へ」
お客さんの一人、ウチのお父さんと同じくらいの年の男の人がこっちを見ながらにこやかに言う。
年は同じくらいだけど恰幅はこの人の方がかなり立派。ワイシャツのボタンを多目に外しているけど、不思議とくたびれてるカンジはない。
頼りになる上司って雰囲気だ。
………ウチのお父さんも確か上司の立場だと言ってたと思うけど、会社ではちゃんと上司してるのかな………
「ちゃあんと孝行しなよ」
「へ?ぁ?あ、はい」
ほげっと考えているうちに女将さんとお喋りしていた男の人に突然振り返られた。
思わず頷いてから、あれ、と首を傾げる。
「余計なこと言ってないで、とっとと仕事にお戻りよ」
叱るように言っておつりを渡した女将さんに「ハイハイ」と笑ってから、一度こちらにひらりと手を振って男の人は連れ立って出ていった。
入れ代わりに入ってきたおじさんが私たちを見つけて「お」と笑った。
「まだ帰ってなかったな。どうだ、海で腹一杯なんてなってないだろうな」
海では何も食べていないと先輩が答えると「そりゃ良かった」とノブさんがテーブルの上にレジ袋を二つ置いた。
「向こうのは見栄えは良いだろうが、肉の質はこっちだって負けねぇからな」
熱いうちに食え、と言われた先輩はありがとうございますとお礼を言ってから私の背中を軽く押した。
満腹のお腹を擦りながら去年も歩いた道をぶらりと歩く。去年は可愛い小物が売ってるお店があちこちにある静かな通りだったけど、今日はなんだかあちらもこちらも行列で塞がっている。
入ってるお店が変わったのかな、と呟くと「どうも違うようだ」と先輩が言った。
お店は去年あったものと同じだけど、目玉商品を求めてお客さんが集中しているらしい。
「色や形がやたら派手だと思う」
目玉商品ってどんなだろうという呟きに、少し首を伸ばして看板を眺めた先輩のコメントがそれだった。
買い終わった人が店の近くで写真を撮ってるから、SNSをやってる人なのかな。
この中をぶらりと歩くのはちょっと無理。
先輩も同意見だったようで、くいと手を引かれて来た道を少し戻る。
「話題だというから、買ってみたかったか?」
少ししてから、ふと聞かれた。
何も言わないで引き返したことを気にしてくれたみたい。
「今お腹いっぱいだから、買っても食べれませんよ」
そう答えると、そうかとホッとしたような笑顔を向けられた。
先輩はまだお腹に余裕があると思うから、実は食べてみたかったのかな。と聞いてみると、先輩は難しそうな表情を浮かべた。
「先輩?」
「どうも旨そうに見えないんだが。何故あれがあれほどの値段なんだろうな」
全く解らん。と呟きながら歩く先輩がなんだか可愛く見えてしまって、手を引かれながらこっそり笑った。
さっき店に押しかける人の山に驚いた反動かもしれないけど、住宅街の静けさにホッと一息つく。
住宅街といってもウチの近所と少し趣きが違うからふらふら歩いてるだけでも楽しい。
ベランダの外側に飾られている鮮やかな花とか駐車場の隅に置かれた三輪車とか。最近は外壁に絵が書いてあったり一部を岩っぽく装飾している家もあるから、手を繋いでいる先輩を引っ張らないように気をつけつつしっかり観察する。
気をつけてはいるんだけどやっぱり引いてしまうようで、先輩がくすりと笑う音が聞こえた。
「す、すみません。つい」
軽く頭を振ると、身体を屈めて私と同じ視線になった。
「何を見つけたんだ?」
「あ、あのですね。あそこの家はバスケットゴールがあるでしょう?どういう人が使ってるのかなとか、ミスして窓ガラス割っちゃうことないのかな、なんて考えてしまって」
なんとなく思いついたもしもの話を、先輩はからかったりしないで聞いてくれる。
優しい目で促されるから、結局歩きながら見つけたものは全部話すことになってしまった。
「すみません、先輩。私、落ち着きないですね」
項垂れると先輩が繋いだ手をくいと引いた。
顔を上げると優しく微笑んだ先輩の顔が視界に広がる。
近い、と驚く前に温かくて柔らかいものがおでこに触れてスッと離れた。
「せ、先輩」
空いた手でおでこを押さえてうろたえると、先輩は優しく微笑んで手を引いた。
「散歩、楽しいな」
頬が熱い。きっと真っ赤になってるはず。
ごまかすようにぶんぶん縦に首を振ると、先輩は笑みを深めて歩き始めた。
家と家の間に、いきなりお店を見つけた。
周りのお家の雰囲気と同じ、落ち着いた雰囲気の中にちょっと高級感を感じる。店内から見えるライティングの色のせいかな。
ケーキ屋さんかと思ったら違うみたい。
近づいてよく見てみたいけど綺麗に磨かれた窓ガラスを汚すのが申し訳なくて、立ち止まったまま首を伸ばした。
「チーズの専門店らしいな」
ドアベルについている小さな看板を見詰めながら先輩が言った。
「チーズ?どこにも書いてないのに」
あれだ、と先輩は看板を指差す。
「フランス語ではチーズのことをフロマージュというんだ」
そういえばそんな言葉を聞いたことがある気がする。恥ずかしい。
「じゃあ、あのショーケースの中は全部チーズなんですか」
おそらくと頷いた先輩は静かに店内を眺めた。
「壮観だな」
「ですね。チーズってたくさん種類があると聞いてはいたけど、いつも買うチーズはたいてい同じだからぜんぜん意識してませんでした」
ウチで買うチーズといったら定番のお徳用チーズ………あれ。あのチーズは種類なんだっけ?
首を捻ってうぅんと唸っていると、チリンと可愛らしい音が聞こえた。
「よろしかったら、中でご覧になりませんか?」
さっきまでショーケースの向こうに立っていた女の人がドアを開けてこちらに微笑みかけていた。白いブラウスに黒い前掛けと帽子がとてもスタイリッシュで一瞬見惚れる。
「へ、ぁ?ぅえっ?」
店の外からじーっと見ていてごめんなさいとか、買うかどうか解らないので入店はできませんとか断る前に。
先輩に手を引かれてあっさり店の中にお邪魔してしまっていた。
やっぱりこのライトは柔らかい印象だけど高級感あるなぁ。あ、絨毯がふかふかする。
でなくてっ。
「先輩、先輩」
お店の雰囲気に一瞬意識を飛ばした私は慌てて先輩の袖を引く。
「どうしましょう、お高そうですよ」
ワタワタする私と正反対に落ち着いた先輩は珍しそうにショーケースを覗いている。
「マスカルポーネとは、どれですか?」
こちらになります、と示された先を見た先輩はほぅと唸った。
「先輩、マスカルポーネ買うんですか?」
先輩は料理が上手。最近は日常的に作る機会は減ったそうだけど、今でも美味しいご飯を手際良く作れちゃう。しかも品数が多い。
陽くん萌ちゃんが小さかったときはおやつまで作っていたと聞いた。
ここでマスカルポーネなんてアイテムを手に入れてしまったら、女子力でさらに遅れをとってしまう。
ふるふると首を振る先輩に、自分のズルさを感じながらも安心してしまう。
「最近、菓子によく入っているだろう。いつの間にか現れた食材だから気になっていたんだ」
「そ、そうなんですね………」
しげしげとマスカルポーネに見入る先輩に、こっそり息をついた。
その拍子にショーケースの一部に目が吸い寄せられる。
「あ、お正月用のチーズ」
マスカルポーネからこちらに視線を移した先輩が不思議そうな眼差しで私を見詰める。
「普通のカマンベールチーズに見えるんだが」
言葉には出さないけど店員さんも不思議そうにこちらを見ていて、思わず肩をすくめてしまった。
「あの、ウチではお正月にこれを皆で食べるのがなんとなくの習慣で………」
部屋着でだらだらしている中で適当に切ったチーズを家族皆で包み紙からそのまま取って食べる。少なくともこんな高級感溢れるお店で披露するエピソードでもないので、なんとも申し訳ない。
そうかと頷いた先輩は、買っていくかとカマンベールを指差した。
久しぶりに食べたい気もするけど、せっかくだからもう少し違うものを買ってみたいかも。
「ワインか………あ、ビールに合うチーズってありますか?」
ございますよ、と店員さんが笑顔で頷いた。
「お酒の好みに合わせてお勧めすることもできますが」
そう言ってもらえたけど、お姉ちゃんはとにかくたくさん飲む人で、と告白するのは恥ずかしいのでいくつか教えてもらった中でも馴染みのあるチェダーチーズを買うことにした。
どのぐらい買っていこうかな、と考えていると先輩が店員さんに話しかけた。
「日本酒に合うチーズはありますか」
意外な組み合わせだと思ったけど、もちろんと店員さんは頷いた。
「発酵食品同士で相性も良いんですよ」
目を丸くしている私に話しかけるように教えてくれた。なるほど、豚キムチにチーズをかけると美味しい、みたいなやつかもしれない。
いくつか教えてくれる中で、先輩はじゃあこれをとベイクドチーズケーキみたいな見た目のチーズを指差した。
「あとこれをください」
私の分と合わせて焼酎に合うチーズのセットとフルーツが入ったチーズを二種類追加したから、やっぱりそこそこの金額になった。
大きめの紙袋を片手に、店員さんに見送られて店を出る。
「いっぱい買いましたね」
先輩は満足そうに頷くと周りを見渡した。
何を探しているのかなと聞いてみると、「パン屋だ」となおも見渡しながら言う。
「フルーツ入りのチーズをパンにつけて食べたら旨そうじゃないか?」
心なしかいつもより足取りが早くてキョロキョロ周りを見渡している。早く食べたくて仕方ないらしい。
「先輩。パン屋さんなら、先輩の家の近くのパン屋さんが美味しいんじゃないですか?」
ピタッと立ち止まった先輩が何度か瞬きをする。
「よし、帰ろう」
言うなり回れ右して歩き始めた先輩がまた立ち止まった。
「?」
どうしましたと聞く前に、珍しく不安そうな目で見詰められた。
「結香は、もう少し遊びたいか?」
早く帰ってチーズを食べたいのに律儀に聞いてくれる先輩に、思わず笑ってしまってから帰りましょう?と手を引いた。
◆ 茜さんの酒盛り ◆
チャイムを鳴らすとエプロンを着けた結香が出迎えてくれる。
「結香、ただいま」
声をかけて腕を広げると困ったような表情を浮かべながらも、結香は腕の中におとなしく収まる。
ただいまともう一度言って額に口付けると、頬をほんのり染めて「おかえりなさい」と囁き返してくる。
あぁ、可愛い。連れて帰りたい。
毎日のように家に寄り手作りの夕飯を食べていれば、その衝動は自然と増してくる。
実際に連れ帰るのは無理だろうがせめて、と腰を軽く抱き上げるとやはり結香は慌てて暴れ始めた。
「先輩。お夕飯冷めちゃうから」
こんな風に叱られるのも楽しい。
拘束し続けても泣かれるだけなので柔らかい身体を抱き締めてから下ろす。
「もうっ」と小声で怒りながら奥へ逃げ込む結香の背中を追いかける俺の顔はきっと弛んでいるだろう。
「あ。そうだ」
居間のドアに手をかけた結香がはた、と何かに気付いて俺を振り返る。
先程とは違う困った表情にどうしたと目で問うと「あの」と口を開く。
「お姉ちゃんが、先輩と話したいからと待ってるんですけど」
テレビでも見ているのだろうか。ドアの向こうからは茜さんの笑い声が聞こえる。
解ったと頷いても結香は心配そうな表情を崩さない。
「大丈夫でしょうか。お姉ちゃん、もうお酒飲んでて」
俺が帰るまで飲まないように止めたつもりが、いつの間にか一人酒盛りを始めていたのだと肩を落として言う。
気にするな、と髪を撫でると結香の手の上からノブを回してドアを開ける。
「おーぅ、夕弦くん。帰ったかぁぁ」
機嫌良く俺に手を振った茜さんは、しかし次の瞬間にはテレビに挑戦的な目を向けていた。
「んふふ。失言、不祥事なんて格好つけるなよ?言動がぜーんぶ小学校低学年かってぇの!先生と呼ばれていい気になるなっての!」
楽しそうに笑っているのでバラエティーかと思ったが至って真面目な報道番組にツッコんでいた。VTRのみに限らず、コメンテーターや司会に対しても次から次へとツッコんでいる。
ごめんなさいと結香が俺の袖を引いて謝る。
「お姉ちゃん、最近ちょっとストレス気味らしくて。あぁして一人で騒ぐのがストレス発散には一番良いって……すみません。話があると言い出したのはお姉ちゃんなのに、そのお姉ちゃんがこんなに酔っちゃって」
別に構わないと首を振ると再度謝ってから結香は夕飯支度に台所へ小走りに行く。
その後ろ姿をテレビ画面の反射で確認した茜さんは、そこに座れと近くの座布団を指差した。
「結香相手でも演技を続けるんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
くすりと苦笑した茜さんは「やっぱり夕弦くんは誤魔化されないか」と呟いて酒を一口呷る。
「少しは付き合ってよ。結香が毎日でも飽きずに見惚れてるそのスーツ、作ったのはあたしよ?夕弦くんだって楽しんでるでしょう?」
家族も居るこの家で抱き締めたり、ましてやキスをするなど基本有り得ない。しかし、俺がスーツを着て来た時には態度が多少軟化する。
それが茜さんのお蔭というのは確かな話なので素直に頭を下げると、茜さんは艶やかに微笑んだ後「あーぁ、テロップ間違えてるじゃん!」と声を張り上げた。
「先輩、大丈夫ですか?」
結香が様子を見に来ていたらしい。
大丈夫だと答えると、「今、ご飯できますから」と小走りで戻っていく。
「全部が演技ってわけでもないのよ」
テレビを眺める目から笑みを消して茜さんが呟いた。
「役所だけで済むかと思ったら何から何まで連絡取って出向かないといけないんだもの。名前変わるって、本当に面倒」
うんざりと言う茜さんはつい先日、婚姻届を提出して戸籍上では高原性になった。
結婚前と何も変わらずこの家に居るのは「姉として結香がこの家から巣立つのを見送るため」との言だ。
「あの叔父さんが余計な嘴入れてくるのが煩いから籍は入れるけど、結香がこの家にいる限りはあたしの家もここだから!」
その弁に異を唱えているのは信夫さんで、入籍に伴う様々な手続きの合間に親子でずっと話し合いを続けているらしい。
「お父さんが珍しくしぶといからさ。夕弦くんからの差し入れはなかなか嬉しかった」
ごちそうさまと茜さんは上機嫌な様子で猪口を掲げる。
酒に合うというチーズは好評だったらしい。
「せっかくなら夕弦くんと一献傾けられればもっと美味しかったのにね」
「それは申し訳ありません」
それはまたの機会にね、と茜さんは笑い声を上げた。
皿から一切れ摘まみ上げながら「それでさ」と茜さんが口を開く。
「そんな優しい夕弦くんに助力を頼みたいんだけどな」
何ですかと返しながら身体を少し離すと、「さすが夕弦くん!ブレないなぁ!」と笑う。
「お父さんがねぇ、結婚式を挙げろと言うのよ」
つい返したくなった一言を飲み込んだ筈だが、茜さんには筒抜けだったらしい。
「今、『挙げればいいじゃないですか』とか思ったわよね?」
「えぇ、まぁ」
すみませんと頭を軽く下げると「いーけどさ」と言いながらも茜さんは少し頬を膨らませた。
「あんなクソ重たいモン、この年になってわざわざ着たかないわよ。あんなモン着なくても共白髪迎える覚悟くらい決めてやるわよ」
結香のドレスに心血を注いでいる茜さんは、自分でドレスを着るつもりは全く無いらしい。
「お父さんは珍しく食い下がるし、お母さんも泣き落としにかかってくるし。もう毎日疲れちゃう。夕弦くん、あの二人のお気に入りなんだから巧いこと言って誤魔化してよ」
それは無理ですと言うと「やっぱりかぁぁ」と茜さんは背後のソファーにひっくり返った。
「お姉ちゃん。先輩を困らせないで」
盆を運んできた結香が叱るように言うと「結香ぁぁ」と茜さんが甘えるように呼んだ。
「お姉ちゃん、このままじゃ純潔でも清楚でもないのに『女の子の夢だから』で誤魔化して純白のウェディングドレスをいけしゃあしゃあと着る、ご都合主義の頭のかっるぅぅい女と同類になっちゃうぅぅぅ」
「じゅんけ………………っ」
動揺した結香の手から盆を取り上げる。
「茜さん、結香を動揺させないでくださいよ」
「あら、失礼」と嘘泣きを瞬時に止めた茜さんは、ふふふと艶やかに笑った。
「大丈夫よ。婚約中の性交渉OKってのは昔からの由緒正しい慣例だし、結香は清楚で純粋よ!」
親指を立てて保証しても結香を落ち着かせる要因にはならない。
「茜さん………」
ついジト目を茜さんに向けたが、茜さんはどこ吹く風でチーズを咀嚼する。
「堂々と抱きしめる良い理由ができたじゃない」
「そんな暢気に構えないで下さいよ」
つい嘆息しながら呟くのに、「そぉ?」と茜さんはけろりとチーズを飲み込んだ。
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