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番外編
思惑乱れる披露パーティー
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顔を見るなり「お前という奴は」と新郎は嘆息した。
「俺たちを祝う為だけに来いとは言わんが、そういう建前も少しは見せろよ。お前、あれではただ嫁を見せびらかしに来ただけだと言ってるようなものだろう」
大きく嘆息する一ノ瀬に「何を言うか、イチノン」と光司が嘆息を返した。
「真似っこされたからって拗ねるなよ、イチノン。大人げないぞ」
どこかなげやりな口調で言われた一ノ瀬は再度嘆息すると、遠くで花嫁と談笑している結香を眺めた。
「進藤。牧野から離れるなよ。今日来る野郎はエリカに惚れていた者が殆どだが、だからといってその他の女が対象外で安全だとも言えん」
勿論ですと頷いて俺も結香に視線を向けた。
俺が選んだドレスに小さな身体を包んだ結香は、時折転びそうになっては付き添い役を買って出た委員長に支えられている。
委員長が笑顔で首を振っている。
おそらく、結香が礼を言ったのだろう。
椅子に座っていた花嫁が結香に話しかけ、小さな身体をピンと伸ばした結香が両手を顔の前に上げて勢い良く首を横に振っている。
「あんなに首を振ったら目眩を起こしてまた倒れるだろうに」
「そんな心配をするくらいなら、彼女ちゃんが自分一人で歩ける靴を買えよ」
結香を気遣って出た一人言に光司が茶茶を入れた。
光司を睨むついでに一ノ瀬に目を向けると、いいから行けというように手を振られた。
身体を支えようと腰を抱くと、結香は驚き顔で俺を見上げた後困ったように破顔した。
「先輩。もしかして、見ちゃいましたか?」
何をだと聞くと眉尻を下げて「だから、その」と口ごもる。そして二、三度瞬きすると急に身動ぎし出した。
今更この体勢に羞恥を感じたらしい。
結香の気持ちは解るが、手を離せば結香が転倒する。そもそも俺自身に手を離す意志が無いのだが。
か弱い力でもがく結香を楽しんでいると、呆れ返った委員長の視線に気付いた。
「委員長、世話になった」
短く礼を言うと「どういたしまして」とぞんざいに返される。
「やぁ、お嬢さん方。今日はまた一段と綺麗だね」
光司が芝居がかった口調で言っても委員長は「それはどうも」と流す。結香は恐縮したのか困り顔を俯けた。
「知らなかったよ。お前にもドレスの好みとかあったんだな」
腕の中の結香に気付かれない程度の音量で囁いてくる光司を軽く睨む。
「お前は結香を見るな。減る」
「だから。その『減る』って何なのよ」
食い下がる光司に、顎で後方の一ノ瀬を指し示す。
「あっちも俺と同意見だと思うが」
振り返った光司は「うげっ」と呻き声を上げた。
「同意見どころか、ありゃ殺意一歩手前じゃねぇの。新郎が鈍器を振り回すパーティーなんて冗談じゃねぇわ」
ボヤくと光司は「先に着席してるわ」と嘆息した。
「先生。今日はおめでとう。イチノンには勿体無い程綺麗よ。幸せになってねん」
但し、部屋から出る前に一ノ瀬にも聞こえるように声を張り上げる。
スーツで飾っていても安定の光司らしさに、つい息をついた。
一ノ瀬の悪友だという男の進行で乾杯をし、つつがなく何人かの挨拶が終わった。
新郎新婦の入場の時に不満そうな声をあげかけた女が居たが、流れるように現れたウェイターが「こちらのご婦人が気分を悪くされたようなので」との理由で迅速に退出させたり、挨拶の途中で壇上から新郎をやけに睨み付ける男が居たりしたが、新郎は終始笑顔を保っていたし、新婦は付き添いのスタッフに何か話しかけられる以外は強張った笑顔を張り付けるので精一杯の様子だった。
それら些細な出来事が起こる度に、俺の隣で小さな嘆息が何度も聞こえた。
「全くよくやるよ、イチノンも」
相槌を打ちながら結香の皿を確認する。
野菜しか乗せてこなかったので、難なく食べれたようだ。
次はどんなものが食べたいか聞いていると、後ろで光司が大袈裟に嘆息した。
何だよと振り返ると、「べっつにぃ」とぞんざいな返しをしてくる。
「あの地獄絵図に比べたらこっちは平和で良かったなぁ、と実感してただけ」
「お前はまたよく解らんことを言うな」
肉を切りながら顔も上げずにさっさと行けと促されるので、結香の頭を撫でてから腰を上げた。
酒の影響か、他のテーブルはやけに騒がしい。
物音が響く度にスタッフが迅速に駆け付ける様子を眺めながら、俺たちはただ延々と食事を進める。
結香はずっと委員長と話している。
本人は人見知りだというが、結香はよく未知の人間に話しかけられる。小さくて大人しい印象だから話しかけ易いのだろうと推測できるが、質が悪い奴に絡まれやしないか心配だ。
話の途中で結香が困ったような顔で俺を見上げてきた。
どうしたと聞くと小さく唸りながら目を伏せる。
「委員長、結香を困らせるな」
サイドで編み込まれている髪を指先でなぞりながら委員長に目を留めると「あら、心外だわ」とケーキをつついた。
「二年間授業受ける以外は無言で彫像化していた進藤くんが笑顔でショッピングしてたのよ。他にどういう風に豹変してるのか、聞いてみたくなっても仕方ないじゃない」
必要を感じない限り黙っていた弊害がこんな所で降りかかるとは。
嘆息していると「はぁ、食った食った」と光司が腹を擦った。
「腹拵えは済んだし、そろそろあっち行くか?」
そう言って正面の席を指差す。
「披露宴といえば、余興だの新婦との写真撮影だのだろう」
写真撮影に興味は無いが他にやることも無いし、これ以上座っていたら質問責めにされた結香が困るだけだ。
そうするかと四人揃って会場の端から新郎新婦の席に向けて奥へと移動する。酒で気が大きくなった人間は動きが不規則で大振りになるので結香を守りながら歩く。
騒ぐ人間は居たが、席と壁との距離がかなり広くとられていたので結香に倒れかかってくる様子は無かった。
「お疲れさん」
改めて新婦に祝いの挨拶をしている結香と委員長の後ろで、光司が囁き声で言ってくるのに頷く。
「お互い苦労するな、進藤」
話し終えた友人を見送った一ノ瀬が、白いタキシードに似合わない笑みを浮かべている。
「イチノン、もうドロドロ無いよね?俺、胸焼けしそうよ」
「そりゃお前が宣言通りに暴食いするからだ」
うげ。と光司は戦く振りをした。
「見てたのかよ」
「生憎、目は良いんでな」
近付いてくる友人と話す合間に、一ノ瀬は会場の奥に固まって座っていた俺たちの様子を見ていたと言う。
中々楽しかった、と解らんことを言われた俺は首を傾げた。
「実況中継してやったらエリカも喜んでいたよ。癪だがな」
新婦を見ると、笑みを浮かべた新婦と目が合う。
軽く頭を下げると笑顔で頷き返された。
じゃあ写真撮影といきますか、と光司が声を上げた。
「誰か、カメラ持ってる?」
「音頭を取りながら肝心のカメラを人任せという辺りが、物凄くお前らしいな」
一ノ瀬の野次を笑い飛ばしながら、光司は見当をつけた委員長に向かって手を伸ばす。委員長はクスクス笑いながらその手にデジカメを乗せた。
「はい、じゃあ主役のお二人から撮りますよー。こら、新郎。くっつぎ過ぎ!もう少し離れなさい!自然な距離で~、はい、ナチュラルな幸せを溢れ出させる笑顔ではいっ、チーズっ」
注文をつけながら光司がやっと最初の一枚を撮る。
光司のよく回る舌に、後ろに離れていた結香と委員長が楽しそうな笑い声を上げる。ごく近くの席に座っていた招待客にもにわかカメラマンの指示が聞こえたのか、背後から抑えた笑い声が聞こえた。
その声が聞こえたのか、「はいっ、じゃあお次は」と光司が楽し気に振り返った時だった。
「楽しそうだなぁぁ?」
いかにも酔っ払った様子の男が身体を揺らしながらこちらに近付いてくる。
その男の目付きが不愉快なので結香との間に身体を滑らせる。
男は酒で赤くなった顔で俺を睨み付けてきたが、一瞬で視線を一ノ瀬に向けた。
「よう、一ノ瀬。結婚おめでとう」
「あぁ、ありがとう。お前も楽しんでいるようで何よりだ」
棒読みで一ノ瀬が返すと、「けっ」と男が毒づく。
背後で動揺の震えを感じたので、後ろ手に手を伸ばす。細い腕に当たったのでそのまま擦ると小さくだが息をつく音が聞こえたので、目前の光景に意識を戻す。
男は不明瞭な言葉で一ノ瀬に突っ掛かっている。
「やれやれ、まだあんのかよ」
ゆっくり俺の隣に移動した光司がうんざりと嘆息する。
あれは何だと聞くと「この距離で聞いてなかったのかよ」とジト目を向けられた。
それでも人が良いので、かろうじて俺に聞こえる音量で囁いてきた。
「たぶん、エリカちゃんに惚れてた男の一人だろうな。イチノンが浚っちゃったもんだから、あの通り荒れてるわけ」
男の話が一ノ瀬の家柄や経歴のことなので恋愛に関する恨みだと思わなかったと囁くと「それもネックなんだろうさ」と囁き返してくる。
「家柄は解らんが経歴は完敗。しかも自分が惚れて憧れて恋い焦がれて止まなかった女を盗られて、腸が煮えくり返って堪らない。おまけに年下の可愛い女の子にも慕われてるみたいで、それがまた面白くないときた」
「これは披露パーティーなんだろ?なら俺にも幸せのお裾分けをしてくれてもいいんじゃないか?」
光司の言葉を裏付けるように大声を張り上げた男は、頭をグラグラ揺らしてこちらを見据える。
俺の背後に居る結香を。
多少目付きを鋭くしたところで、酔いの回った脳では殺気に鈍くなるらしい。
舌打ちをしつつ男を見据えたまま半歩下がり、後ろ手で結香の身体を探す。
俺の手が腰を捕らえる前に、俺の背中に小さく温かいものが触れた。それが背中の布地を握り込んだことで、結香の手なのだと認識する。
届いた手で腰を引き寄せると安堵の息が背中を温めてくれた。
「夕弦、集中途切れさせるなよ」
光司が低く囁いてくるのに、解ってると返す。
「委員長。俺の背中は握らせてあげられないけど、この場は守るから安心してねー」
「握らないわよ」
低い声で即答してくる辺り、委員長は取り乱していないらしい。寧ろ好戦的な気配を感じて逆に気掛かりだ。
「剣道部主将でしょ。見栄に固持した酔っ払い一人、さっさと倒しちゃえばいいのに」
物騒な発言だ。かなり憤慨しているようだ。
怒りを軽減させるつもりか「怖い、怖い」と光司がおどけてみせた。
「その酔っ払いってのが厄介なんだよ。素面と違って動きが読みづらいし、力加減も難しいんだぞ。間違えたらこっちだって過剰防衛になっちまうからな」
理解はしたものの納得は出来なかったのだろう。舌打ちの音がはっきり聞こえて、光司は渇いた笑いを溢した。
委員長、と呼ぶと「なに」と短く返される。
「こちらに向かってくるなら俺と光司が出る。委員長は出るなよ」
「解ってるわよ」
返事が割と落ち着いた声なので、内心安堵しつつ「それで」と付け加えた。
「俺たちが出たら、結香の靴を脱がせて連れて離れてくれないか。そのままだと転ぶから」
いいけど、と嘆息混じりの声が背後から投げ掛けられた。
「最初から歩ける靴を買いなさいよ」
すまんと呟くと、「まったくもう」等と愚痴りながらも動く気配がする。
早くも脱がしているようだ。
すみませんと小さく結香が謝るのに「いいから。足、触るわよ」とかける声に面倒見の良さが滲み出ていて、つい口元に笑みが浮かんだ。
「夕弦」
光司の張り詰めた呼び掛けに、改めて正面を見据える。
一ノ瀬が宥めているようだが、男が引く気配は無い。好敵手とも恋敵ともいえる男に諭されて引く程ならば、最初から騒ぎ等起こさないだろうが。
最初は静観していた、というより面白がっていた招待客も雰囲気が険呑としてきたことに気付いたか、まだ酔いの浅そうな男が数人、スタッフと共に喚く男の肩に手を置いた。
「なぁ、それくらいにしとけって。酒に酔ってロリコンになるなんて、醒めたらお前だって不本意だろう?」
男を宥めようとしてかけた言葉に俺が苛立ちを表す前に、怒号を上げた男が肩に置かれた手を振り払った。
女の悲鳴が数多く上がる。
暴れる男に視線を据えたまま、結香から手を離し軽く腰を落とす。
隣でも同じように構える気配がした。
ここから見る限り取り抑えること自体は楽にこなせるだろうが、結香たちを気にして無意識に距離を取り過ぎたらしい。俺たちと男との間に、招待客の何人かがウロウロと立ち尽くしている。
こちらを守る、或いはこちらを手助けする目的で席から出てきたのかもしれないが、どう見ても視界を妨げる存在でしかない。
光司も同じ認識らしく、忌々しそうに舌打ちをした。
―――落ち着け。
―――とりあえず一旦ここから出よう。
―――もっと佳い女を紹介してやるから。
そんな声をかける招待客に向かって、男は持っていたグラスを刃物のように突き付けながら何かを叫ぶ。
「っせぇんだよ!そっちのは結婚してないんだからいいだろうがっ。いいから寄越せよっ」
吠えた男が壁伝いに逃げようとしていた結香たちに向かって、グラスを振り回しながら走り出した。
「光司っ」
あいよ、という応えを聞きながら男を注視する。
目の前の人垣がやっと左右に掃け出して隙が窺えるようになった時だった。
ぱっりぃぃぃぃぃぃぃんっ
派手な音が響いた一瞬後、ゆっくりと男は崩れ落ちる。
その背後には―――
「うわ。出た。美人。でも怖っ」
「素直なご挨拶どうも」
片言で脳内の感想を片端から表した光司に、面白そうな声音で応えて茜さんは目ばくせをした。
「お姉ちゃんっ」
驚愕する結香に満面の笑みで手を振ってから「うわ、嫌だわ」と利き手に残った破片を男の身体の上に放り投げた。
「やっぱり飴は飴なのね。手がベタつくわ」
辟易したように左手をじっと見てから「おしぼり頂ける?」と声を張り上げた。
要望に応えようと俺たちの周りに立ち尽くしていた男性客がテーブルの上からおしぼりを差し出すが、茜さんはそれらを無視してスタッフが差し出したおしぼりを受け取るとせっせと左手を拭う。
その眉間にはうっすら筋が浮かんでいる。
「あーもう、なかなか落ちないじゃない。つい強く握りすぎちゃった」
「いっそのこと、ぬるま湯で洗った方がいいんじゃないか?」
新しいおしぼりを茜さんに差し出しながら、俺に手を上げて挨拶する高原さんに目礼する。
誰?と囁く光司に、茜さんの婚約者だと説明すると抑えた声で「うへぇ」と呻いた。
「ここにきて、あのおっかねぇ美人の旦那登場かよ。何たるツワモノ」
「聞こえてるわよ、夏目光司くん?」
手を拭きながらジト目を向けられた光司は「うげっ」と呻くと俺に恨みがましい視線を向けた。
「夕弦、お前。俺を売ったな?」
わざわざ茜さんに光司のことを話題にする機会も無かったので首を横に振ると「んじゃ、彼女ちゃんか?」と首を捻る。
「ひでぇぞ、彼女ちゃん。そりゃデートに乱入とかやらかしたけどさ。何も姉貴に頼らずとも夕弦に言えば、道場に一回沈む程度で済んだというのに。手加減無しですかい」
「ふぇっ?」
光司のボヤきを真面目に受け取ってしまった結香は足を止めてオロオロと光司と茜さんとを見やる。
結香に見える程度の遅さと軽さで光司の頭に手刀を落とす振りをすると光司は解りやすく肩を竦めた。
光司のことは気にするな、と頷いてみせる。
結香は小さく息をつくと頷いて、そろそろと茜さんに近付いた。
「お、お姉ちゃん」
結香に呼ばれた茜さんは微笑みを浮かべて振り返る。
その笑みを見た招待客が先程とは違う様子でざわめき出した。新婦は少々呆れた様子で、新郎は笑い声こそ上げていないもののテーブルに突っ伏して身体を震わせている。
「結香。大丈夫だとは思うけど、怖かった?」
周りの動揺を無視して茜さんは妹を気遣う。
「大丈夫。先輩たちが庇ってくれたし、カヤさんが一緒に逃げてくれたから」
そう、と安堵の嘆息を洩らした茜さんは離れて立っていた委員長に向かって「ありがとう」と頭を下げると、俺たちに向かって親指を立てた。
「良くやった!それでこそオトコノコ!」
「やったのはオネエサンだと思うんですがね」
茜さんの耳に入れたくなかったのか、ぼそりと光司が呟いた。
だが茜さんはしっかり聞いていたようで、ふははははっと仁王立ちで大きく笑った。
「だってクズ虫ごときがあたしの妹を手籠めにしようなんて言い出すんだもの。酔っ払いのオチャメで片づけるなんて、このあたしが許すわけないじゃない」
でもっと結香が悲鳴のような声を上げた。
「ビール瓶で殴るなんてっ。どうしよう、救急車呼ばなきゃ」
「は?―――あぁ、そういうこと」
結香の動揺に一瞬小首を傾げると、茜さんは結香を手招きした。
「結香、ちょっとこっち来て―――あぁ、その濡れてる所は踏まないようにね」
恐々結香が近付くと、先程投げ捨てた破片を指先で詰まんで持ち上げた。
「ほら見て。これ、ワインボトル形の飴なの。ほら、ドラマとか映画の乱闘シーンとかで使うヤツ」
「へ。で、でも、血が」
絨毯に広がった染みをチラ見しては怖がる結香に、大丈夫だと茜さんは言い聞かせた。
「血じゃないわ。赤ワインよ」
「あ、赤ワイン?」
そ。と笑顔で頷いた茜さんは改めて破片を男の上に落とす。
「ワインボトルで殴られたと勘違いしてそのまま大人しくなってくれるならいいけど、所詮飴でしょう?大してダメージを感じなかったら余計キレる可能性もある。でも、血が出たと思ったらショックを受けて勝手に瀕死だと勘違いして驚くかな、と思ってボトルの中に入れておいたのよ」
驚いて隙ができればさすがに取り抑えられるでしょう?
楽しそうな口振りでそう言って茜さんは俺たちに向かって目ばくせをする。
俺たちが揃って肩を竦めるのに構わず、「まぁ」と男を見下ろす目付きはかなり冷え冷えとしたものだった。
「殴っただけでノビてくれるなんて、あたしとしては全っ然面白くない結果なんだけどね」
「今は抑えてくれないか、牧野」
涙目を拭いながら話しかけてきた一ノ瀬を、茜さんはギロリと睨み付けた。
「そもそも何でこれが出席してるのよ。知ってたら大切な妹を出席させるなんてこと、しなかったわよ」
「説明するから、そう怒るなよ」
落ち着けと宥める一ノ瀬に茜さんは、はんっと息巻く。
「怒らずにはいられるかっての。最愛の妹が嫌らしい目で見られたかと思うと、腹が立って腹が立って―――そうだ」
何かを思い付いたのか、くるりと茜さんが会場を見渡す。
その視線を受けた招待客が一瞬ざわめいて身動ぎした。
「この中にもいたわよね?あたしの大切な、可愛い、最愛の妹をロリータ扱いしてくれたバカが」
ニーッコリと茜さんが笑みを浮かべると同時に、会場のあちらこちらで小さな悲鳴が上がる。
悲鳴に比例して茜さんは笑みを深めた。
「素直に出てらっしゃい?今なら『お話し合い』で済ませて差し上げるわ」
「夕弦、あの人はフランス革命で戦死した元近衛連隊長か?それともクソ重いドレスで躍りたがる貴婦人か?」
呟いた光司に首を振って否定する。
だがあの茜さんを見て男装の麗人を連想する人間が居たことに、どこか安堵を感じた。
「さっさと出てきなさい」
俺たちのアホなやり取りに構わず茜さんが促すが、わざわざ名乗り出る者が居る筈も無く「仕方ないわね」と大袈裟に嘆息してみせた。
「こんなこともあろうかと、箱買いしておいて良かったわ。あんなに手がベタつくなんてちょっと想定外だけど、クズ虫風情を叩き潰すには足りるでしょ」
「「ちょっと待て、落ち着け!」」
身を翻していつの間にか会場の片隅に置かれていた段ボールに向かって歩き出した茜さんに、新郎と駆け込んできたシェフが必死の形相で取りすがる。
「だから今は抑えろと言ってるだろうがっ」
「抑えられないから手っ取り早くあたしがカタつけようとしてるんじゃない」
新郎席から叫ぶ一ノ瀬に、フンッと茜さんはそっぽを向く。
「遅れて来るなり何だっていきなり場内を騒然とさせてんだよ!困るよ、わざわざ俺の店で新たな伝説こさえないでくれよ!」
「急遽打ち合わせ入ったんだから仕方ないでしょ。新婦にはちゃんと遅れる旨連絡したし。言っとくけど騒ぎを起こしたのはあたしじゃないんだから、妙な言いがかり止めてよね。あれの迷惑料なら、クリーニング代をあとで請求まわしてちょうだい」
きっぱり言い放つ茜さんにシェフは深く嘆息しつつ頭を抱えた。
「出資者様にンな真似出来るかよ………」
そう?と茜さんは首を傾げた。
「そこそこ派手にやったから、請求するべきなんじゃないの?経営者としては」
「それはあっちに払わそう」
一ノ瀬が指差す先では、スタッフとは明らかに異なるスーツの男たちが赤ワインと飴にまみれた酔っ払いを回収するところだった。
その中の一人が輪を外れ、一ノ瀬に向かって恭しく頭を下げた。
「見ての通りだ。結果的にはそいつは牧野茜すら激怒させた。どうする?」
感情のこもらない声で一ノ瀬が言うと、男は更に頭を下げる。
「はい。当主に報告し、改めてお詫びに伺います」
「呉々も妻へ接触はしないように。連絡は俺に」
「あ、じゃあこっちも」
茜さんがヒラヒラと上げた手を振った。
「息子の教育一つマトモにできない腹黒狸なんかにあたしの妹の近くに来てほしくないの。話があるならあたしに連絡してちょうだい―――それでいい?」
男にそう注文をつけると最後に俺に構わないか聞いてきた。
俺が頷くと茜さんは男に向かって笑みを深める。
「くれぐれも連絡はこの牧野茜に、ね?」
了承代わりに再度恭しく頭を下げると「お騒がせ致して申し訳ございませんでした」と言いおいて立ち去った。
騒ぎを起こした張本人が去ったところで場が治まるわけもなく、辺りでひそひそと囁き合う声が聞こえる。
新郎が席を離れ、シェフと司会とで囁き合う。
一ノ瀬が席に戻る頃を見計らって「えー、皆様」と司会が話し始めた。
「本日は参加頂き誠にありがとうございました。このような騒ぎになってしまったことを心よりお詫び申し上げます。お詫びといってはなんですが、これからお渡しする引き出物に本日の会場となりましたこちらイル・コニーリョ・ビアンコ特製のパスタソースとドレッシングをお付け致します」
途端に会場のあちらこちらで歓声が上がる。
引き出物が増えるのがそれほど嬉しいのかと首を捻っていると「お前は知らんのか」と光司がいかにも呆れたという調子で嘆息した。
「生産が間に合わないからと断っても断っても、お土産用に売ってくれとリクエストが絶えないと評判だぞ」
「お前はよく知っているな」
素直に感心すると「お前が無知過ぎるんだ。バカヤロウ」と光司は肩を落とした。
司会は順に会場から退出するように促している。
「なおアルコールをお飲みになった皆様、お帰りの際にはお支払のほど宜しくお願い致します」
慇懃に案内していた司会だが、会場のあちらこちらからブーイングが上がると「煩っせぇ!」とマイクで怒鳴る。
怒号とハウリングは会場を鎮まらせるのに効果的だったが、お蔭で結香は大きく身体を震わせて固まった。
急いで近寄り、耳を塞いだ手の上から頭を撫でる。大きな目がこちらをそろそろと見上げるので頷いてみせると、涙を溜めながらも安心したのか少し瞳の色が変わった。
「案内状にきっちりビュッフェだと書いてあっただろうがっ。お前らバイキングと勘違いしてんじゃねぇっ」
「ひぃぃっっっ」
マイクから流れる低い声に結香が身を縮める。
抱き寄せて抱え上げれば、珍しく腕の中で固まっている。
脅えて文句を言う余裕が無いのだろう。
大丈夫だと耳に唇を当てて何度か囁くと、やっと少し強張りが解ける。
結香のこめかみに唇を押し当てたまま目を上げる。
茜さんが人並みを縫って司会に近付き、マイクに手をかけて話しかけた。
「失礼致しました。皆様、本日はご参加頂き誠にありがとうございました。お帰りの際にはドリンクのお支払をよろしくお願いいたします。足元にお気をつけてお帰りください」
見るからに動揺した司会からマイクを奪った茜さんが同じ挨拶を繰り返すと、招待客はぞろぞろと動き出した。心なしかその表情が一様に青かった気がするが、出口に向かう面々を満面の笑みで見送る茜さんを見て、なんとなく納得する。
一人納得して頷いていると、背後から光司に呼ばれた。
「酒なんて飲まないからいいんだが、そもそもビュッフェスタイルがどうのなんて案内状に書いてあったか?」
覚えが無いので首を横に振る。
二人で妙だと首を捻っていると、「お前らはいいんだよ」と一ノ瀬の声が聞こえた。
いつの間にか俺たちの近くまで来ていて、新婦は居ない。一ノ瀬も白いタキシードから上質なもののフォーマルではないジャケットに着替えていた。
光司が新婦はどうしたのか聞くと着替えに下がったと答えた。茜さんも一緒だと付け加えられる。
「そういえば、なんでお姉ちゃんが」
腕の中でまだ少し固まっている結香が呟くと、知らなかったのかと一ノ瀬が小首を傾げた。
「あの二人は同じ高校でな。学年は違うが卒業後もずっと付き合いがあったんだ」
「で、イチノンとも仲良いんだ?」
光司が向けた人差し指を一ノ瀬は軽く捻る真似をしてから、着いてこいと手招きして手口とは別のドアに向かって歩き出した。
「ま、ちょいちょい関わることがあってな。牧野、あぁ、姉の方な。あれにとっては俺は顔見知り程度だと思うが、仲が良いのは槇原の方じゃないか。出資までしてもらうくらいなんだから」
「お姉ちゃん、マンションの次は出資なんて。いつの間に………」
俺に抱えられたまま目を白黒させる結香に、一ノ瀬は憐れむような視線を向けた。
「あれと家族である牧野に言うことでもないと思うがな。あの牧野茜の行動をイチイチ把握しようなんてことはしない方が精神衛生上良いと思うぞ」
一理あると思ったようで、結香はうぅぅと唸って大人しくなった。
結香が俺の中で落ち着いたのを確認した一ノ瀬は「そういえば」と光司に視線を向ける。
「夏目。お前、さっきの騒ぎ、何か記録を録ったか」
「あら嫌だ、イチノン。乙女の秘密を覗き見なんて駄目よ」
条件反射のように気色悪い声を出す光司だが、一ノ瀬の視線に「目敏いでやんの」とボヤきながらスマホを取り出した。サッと操作し「ほいよ」と一ノ瀬に手渡す。
音量を極力抑えて確認した一ノ瀬は「ほぉう?」と感心したような声を上げた。
「音声だけとはいえ中々良く録れてるじゃないか」
「有料アプリだからねぇ」
のんびり応える光司に、この音声データをくれと一ノ瀬は言った。
ほいほいとのんびり光司は頷く。
「いいよぉ。ビュッフェ代代わりに持っていくがいいさ」
「お前らにビュッフェ代を要求するつもりなんぞハナからないさ。何処の世界に教え子に食事代や祝儀をタカる教師が居る」
「おぉ、流石イチノン。教師の鑑っ」
軽く煽ててから「じゃあ何の名目でデータ渡そうかね」と宙を眺める光司に、一ノ瀬はニヤリと笑いかけた。
「お袋さん以外の大人に助言受けたくなった時に気兼ねなく相談に来れる権利なんてどうだ」
「ふぅん………?」
訝しげに首を捻った光司だが、少しの間を置いてから「それでいっか」と呟いた。
ここだと一ノ瀬が案内したのは、新郎新婦の控え室として使用していた部屋だった。
平常時は個室として利用しているそうで、先程は無かったテーブルと椅子が運びこまれていて、きっちり整えられていた。
ウェディングドレスから白いワンピースに着替えた新婦と深緑色のドレスに身を包んだ茜さんが談笑している側で座っていた委員長が、入ってきた俺たちを見ていち早く近付いてきた。
「お、委員長。ここに居たんだ、ってぇっ」
声をかけた光司に委員長は問答無用でデコピンを放つ。
「何が『ここに居たんだ』よっ。守ると言ったんなら相手の居場所とか状態とかきっちり把握しときなさいよっ」
額を擦っていた光司は「あー……うん、そうだね」と一瞬目を伏せた。
「ごめんね、委員長」
「え。ナニ、やけに素直で怖いんだけど」
訝しげに後退る委員長に「ひでぇなぁ」と苦笑した光司が再度謝ると、仕方ないなぁという表情で委員長が嘆息した。
「いーわよ。ぶっちゃけ無事だったし」
「委員長。結香が世話になった。ありがとう」
俺が横から礼を言うと「あぁ、そうそう」と目を瞬いた。
「これ、結香ちゃんの靴とバッグ。ここに置いておくね」
「あ!ありがとうございますっ」
すっかり忘れていた結香が慌てると、構わないと笑いながら委員長が空いている席の一つにバッグと靴を置く。
椅子に結香を座らせて靴を履かせようと片足を取ると、結香が小さく抵抗した。
「じっ!自分で履きますっ」
真っ赤な顔の結香がなんとか靴を履き、俺たちが各々席につくと「さて」と新婦の隣に座った一ノ瀬が口を開いた。
「さっきは妙な騒ぎに巻き込んで済まなかったな。これでやっと披露宴が始められる」
「え。でもさっきまで」
パーティーのことを結香が指摘すると一ノ瀬は苦笑した。
「あれは大掃除というか鬼退治のようなものだ」
「鬼はイチノンなんじゃ、ぁだっ?」
テーブルの下で鈍い物音がした。察した俺たちは視線を彷徨わせた。
「さっき会場に居た殆どは付き合い上招かざるを得なかった面々で、お前らとは別なんだ。披露宴というものは、やはり俺たちのことを心から素直に祝ってくれる人をメインに招いて行うべきだろう?」
「あ、そうなんですね」
ニーッコリと笑ってそれらしく説明する一ノ瀬に、結香はコクコクと頷いた。
ドアから顔を出したシェフが「もういいか?」と一ノ瀬に確認を取り、新郎新婦の前に料理を運ぶ。
二人は先程は食べる余裕も無かったので、ここで食事にするという。俺たちの前にはデザートの皿が置かれた。
「飲みたいものや他に食いたいものがあったらそこのベルを押してくれ」
そう言いながらシェフがメニューを呼び出しボタンの近くに置いた。
「何だ、こんなゆっくり食う時間があると解ってたらもっとペース配分考えたのに」
「お前はまだ食う気だったのか」
呆れる一ノ瀬に、DVDのセットをしていたスタッフが小声で囁いてリモコンを渡して退出する。
一ノ瀬がリモコンをDVDデッキに向ける。
少しの間を置いて「HAPPY WEDDING」の文字がテレビ画面に浮かび上がり、相原がぎこちなく喋り始めた。
「先輩たちもDVD作ったんですね」
頷く俺越しに「やっぱ披露宴にはこういうのが必要っしょ」と光司がニヤッと笑った。
「やっと披露宴らしくなったじゃないか」
給仕していたシェフが感心したように言うと、一ノ瀬が破顔して頷く。
「相原め、緊張しまくってるじゃないか」
口振りはからかうような調子だが、一ノ瀬の目は珍しく少し潤んでいた。
「本当なら、こいつらも呼びたかったな。披露宴には」
画面の中から「結婚おめでとう」や「末長くお幸せに!」と呼び掛ける元生徒を、一ノ瀬はうんうんと頷きながら食い入るように見ている。
腹が減ったと言っていたのに、料理に手もつけずに画面を見詰めている。
新婦も、画面とそれを見詰める一ノ瀬の横顔を見詰めている。
「んじゃ、もう一度やれば?」
結局サンドイッチを頼んだ光司が咀嚼しながら言った。
「どうせだから俺たちが大学卒業するタイミングとかにさ、もう一回、今度はガチで招きたい人だけ呼んでやりゃいーじゃん。イチノンならそんくらいポケットマネーで出せるっしょ?」
少しの間目を丸くしていた一ノ瀬が、小さく吹き出して「それも良いかもしれんな」と呟いた。
それで和やかにDVDを楽しみつつ食事をし、デザートを楽しんだ、と締められれば良かったのだが。
同級生に挨拶を求める人間が相原から光司に代わった辺りから挨拶の内容がかなり変わり。
結果として。
「良ーい度胸だ、夏目。ちょっとそこの高架下まで行かないか?」
「いや、イチノン。そこの高架下ってどこの高架下よ?今日の善き日にそんなバイオレンスなノリはよしこちゃんよ」
黒い笑みを湛えた一ノ瀬とジト汗を垂れ流す光司とが部屋の片隅を混沌とさせることになった。
◆ その効果だけを狙ったわけではない ◆
ベッドの上で唸りながらマッサージしていると、ドアがノックされた。
返事をするとお姉ちゃんが顔を見せた。
「結香、足は―――大丈夫ではなさそうね」
足はどう?と聞きに来てくれたみたいだけど、一目で見抜かれてしまった。
「お風呂で揉まなかったの?」
「一応揉んだよ」
自分なりに一生懸命揉んだつもりだけど、この分では明日絶対筋肉痛。やっぱり高いヒールは私にはレベルが高過ぎる。
仕方ないなぁ、とお姉ちゃんはため息をついた。
「だから夕弦くんにマッサージしてもらえば良かったのに」
「そ、それは、そう、かもしれない、けど」
確かに先輩にマッサージしてもらえば明日までに復活できる。でも、先輩だってきっと早く帰って休みたいはずだし、先輩にマッサージしてもらうのはやっぱり恥ずかしい。
先輩は構わないと申し出てくれたのだけど、大丈夫ですからと断ってしまったのです。
気を悪くした様子はなかったけど、帰り際、先輩は恐ろしい一言を残した。
「明日筋肉痛が残っているようなら、お仕置きだからな」
ものすごく爽やかに言われたけど、先輩のお仕置きはかなり恥ずかしい。
お仕置き回避のために、一生懸命自分で揉まねば!
かけ声をかけながら自分で揉んでいるくせに、痛くて泣き声を漏らす私を眺めていたお姉ちゃんは「なるほどねぇ」と呟いた。
「わざわざ連れ込まなくても、触り倒す策をあらかじめ仕込むとは。夕弦くんも男の子ね」
「うぇ?お姉ちゃん、なに?」
せっせとマッサージしているときに何か呟くので、聞こえなかったからもう一度と聞くけど、お姉ちゃんはため息混じりに首を振って教えてくれなかった。
「湿布貼る?」
「うん、貼る」
頷いて、湿布が貼りやすいように俯せに寝転んだ。
「俺たちを祝う為だけに来いとは言わんが、そういう建前も少しは見せろよ。お前、あれではただ嫁を見せびらかしに来ただけだと言ってるようなものだろう」
大きく嘆息する一ノ瀬に「何を言うか、イチノン」と光司が嘆息を返した。
「真似っこされたからって拗ねるなよ、イチノン。大人げないぞ」
どこかなげやりな口調で言われた一ノ瀬は再度嘆息すると、遠くで花嫁と談笑している結香を眺めた。
「進藤。牧野から離れるなよ。今日来る野郎はエリカに惚れていた者が殆どだが、だからといってその他の女が対象外で安全だとも言えん」
勿論ですと頷いて俺も結香に視線を向けた。
俺が選んだドレスに小さな身体を包んだ結香は、時折転びそうになっては付き添い役を買って出た委員長に支えられている。
委員長が笑顔で首を振っている。
おそらく、結香が礼を言ったのだろう。
椅子に座っていた花嫁が結香に話しかけ、小さな身体をピンと伸ばした結香が両手を顔の前に上げて勢い良く首を横に振っている。
「あんなに首を振ったら目眩を起こしてまた倒れるだろうに」
「そんな心配をするくらいなら、彼女ちゃんが自分一人で歩ける靴を買えよ」
結香を気遣って出た一人言に光司が茶茶を入れた。
光司を睨むついでに一ノ瀬に目を向けると、いいから行けというように手を振られた。
身体を支えようと腰を抱くと、結香は驚き顔で俺を見上げた後困ったように破顔した。
「先輩。もしかして、見ちゃいましたか?」
何をだと聞くと眉尻を下げて「だから、その」と口ごもる。そして二、三度瞬きすると急に身動ぎし出した。
今更この体勢に羞恥を感じたらしい。
結香の気持ちは解るが、手を離せば結香が転倒する。そもそも俺自身に手を離す意志が無いのだが。
か弱い力でもがく結香を楽しんでいると、呆れ返った委員長の視線に気付いた。
「委員長、世話になった」
短く礼を言うと「どういたしまして」とぞんざいに返される。
「やぁ、お嬢さん方。今日はまた一段と綺麗だね」
光司が芝居がかった口調で言っても委員長は「それはどうも」と流す。結香は恐縮したのか困り顔を俯けた。
「知らなかったよ。お前にもドレスの好みとかあったんだな」
腕の中の結香に気付かれない程度の音量で囁いてくる光司を軽く睨む。
「お前は結香を見るな。減る」
「だから。その『減る』って何なのよ」
食い下がる光司に、顎で後方の一ノ瀬を指し示す。
「あっちも俺と同意見だと思うが」
振り返った光司は「うげっ」と呻き声を上げた。
「同意見どころか、ありゃ殺意一歩手前じゃねぇの。新郎が鈍器を振り回すパーティーなんて冗談じゃねぇわ」
ボヤくと光司は「先に着席してるわ」と嘆息した。
「先生。今日はおめでとう。イチノンには勿体無い程綺麗よ。幸せになってねん」
但し、部屋から出る前に一ノ瀬にも聞こえるように声を張り上げる。
スーツで飾っていても安定の光司らしさに、つい息をついた。
一ノ瀬の悪友だという男の進行で乾杯をし、つつがなく何人かの挨拶が終わった。
新郎新婦の入場の時に不満そうな声をあげかけた女が居たが、流れるように現れたウェイターが「こちらのご婦人が気分を悪くされたようなので」との理由で迅速に退出させたり、挨拶の途中で壇上から新郎をやけに睨み付ける男が居たりしたが、新郎は終始笑顔を保っていたし、新婦は付き添いのスタッフに何か話しかけられる以外は強張った笑顔を張り付けるので精一杯の様子だった。
それら些細な出来事が起こる度に、俺の隣で小さな嘆息が何度も聞こえた。
「全くよくやるよ、イチノンも」
相槌を打ちながら結香の皿を確認する。
野菜しか乗せてこなかったので、難なく食べれたようだ。
次はどんなものが食べたいか聞いていると、後ろで光司が大袈裟に嘆息した。
何だよと振り返ると、「べっつにぃ」とぞんざいな返しをしてくる。
「あの地獄絵図に比べたらこっちは平和で良かったなぁ、と実感してただけ」
「お前はまたよく解らんことを言うな」
肉を切りながら顔も上げずにさっさと行けと促されるので、結香の頭を撫でてから腰を上げた。
酒の影響か、他のテーブルはやけに騒がしい。
物音が響く度にスタッフが迅速に駆け付ける様子を眺めながら、俺たちはただ延々と食事を進める。
結香はずっと委員長と話している。
本人は人見知りだというが、結香はよく未知の人間に話しかけられる。小さくて大人しい印象だから話しかけ易いのだろうと推測できるが、質が悪い奴に絡まれやしないか心配だ。
話の途中で結香が困ったような顔で俺を見上げてきた。
どうしたと聞くと小さく唸りながら目を伏せる。
「委員長、結香を困らせるな」
サイドで編み込まれている髪を指先でなぞりながら委員長に目を留めると「あら、心外だわ」とケーキをつついた。
「二年間授業受ける以外は無言で彫像化していた進藤くんが笑顔でショッピングしてたのよ。他にどういう風に豹変してるのか、聞いてみたくなっても仕方ないじゃない」
必要を感じない限り黙っていた弊害がこんな所で降りかかるとは。
嘆息していると「はぁ、食った食った」と光司が腹を擦った。
「腹拵えは済んだし、そろそろあっち行くか?」
そう言って正面の席を指差す。
「披露宴といえば、余興だの新婦との写真撮影だのだろう」
写真撮影に興味は無いが他にやることも無いし、これ以上座っていたら質問責めにされた結香が困るだけだ。
そうするかと四人揃って会場の端から新郎新婦の席に向けて奥へと移動する。酒で気が大きくなった人間は動きが不規則で大振りになるので結香を守りながら歩く。
騒ぐ人間は居たが、席と壁との距離がかなり広くとられていたので結香に倒れかかってくる様子は無かった。
「お疲れさん」
改めて新婦に祝いの挨拶をしている結香と委員長の後ろで、光司が囁き声で言ってくるのに頷く。
「お互い苦労するな、進藤」
話し終えた友人を見送った一ノ瀬が、白いタキシードに似合わない笑みを浮かべている。
「イチノン、もうドロドロ無いよね?俺、胸焼けしそうよ」
「そりゃお前が宣言通りに暴食いするからだ」
うげ。と光司は戦く振りをした。
「見てたのかよ」
「生憎、目は良いんでな」
近付いてくる友人と話す合間に、一ノ瀬は会場の奥に固まって座っていた俺たちの様子を見ていたと言う。
中々楽しかった、と解らんことを言われた俺は首を傾げた。
「実況中継してやったらエリカも喜んでいたよ。癪だがな」
新婦を見ると、笑みを浮かべた新婦と目が合う。
軽く頭を下げると笑顔で頷き返された。
じゃあ写真撮影といきますか、と光司が声を上げた。
「誰か、カメラ持ってる?」
「音頭を取りながら肝心のカメラを人任せという辺りが、物凄くお前らしいな」
一ノ瀬の野次を笑い飛ばしながら、光司は見当をつけた委員長に向かって手を伸ばす。委員長はクスクス笑いながらその手にデジカメを乗せた。
「はい、じゃあ主役のお二人から撮りますよー。こら、新郎。くっつぎ過ぎ!もう少し離れなさい!自然な距離で~、はい、ナチュラルな幸せを溢れ出させる笑顔ではいっ、チーズっ」
注文をつけながら光司がやっと最初の一枚を撮る。
光司のよく回る舌に、後ろに離れていた結香と委員長が楽しそうな笑い声を上げる。ごく近くの席に座っていた招待客にもにわかカメラマンの指示が聞こえたのか、背後から抑えた笑い声が聞こえた。
その声が聞こえたのか、「はいっ、じゃあお次は」と光司が楽し気に振り返った時だった。
「楽しそうだなぁぁ?」
いかにも酔っ払った様子の男が身体を揺らしながらこちらに近付いてくる。
その男の目付きが不愉快なので結香との間に身体を滑らせる。
男は酒で赤くなった顔で俺を睨み付けてきたが、一瞬で視線を一ノ瀬に向けた。
「よう、一ノ瀬。結婚おめでとう」
「あぁ、ありがとう。お前も楽しんでいるようで何よりだ」
棒読みで一ノ瀬が返すと、「けっ」と男が毒づく。
背後で動揺の震えを感じたので、後ろ手に手を伸ばす。細い腕に当たったのでそのまま擦ると小さくだが息をつく音が聞こえたので、目前の光景に意識を戻す。
男は不明瞭な言葉で一ノ瀬に突っ掛かっている。
「やれやれ、まだあんのかよ」
ゆっくり俺の隣に移動した光司がうんざりと嘆息する。
あれは何だと聞くと「この距離で聞いてなかったのかよ」とジト目を向けられた。
それでも人が良いので、かろうじて俺に聞こえる音量で囁いてきた。
「たぶん、エリカちゃんに惚れてた男の一人だろうな。イチノンが浚っちゃったもんだから、あの通り荒れてるわけ」
男の話が一ノ瀬の家柄や経歴のことなので恋愛に関する恨みだと思わなかったと囁くと「それもネックなんだろうさ」と囁き返してくる。
「家柄は解らんが経歴は完敗。しかも自分が惚れて憧れて恋い焦がれて止まなかった女を盗られて、腸が煮えくり返って堪らない。おまけに年下の可愛い女の子にも慕われてるみたいで、それがまた面白くないときた」
「これは披露パーティーなんだろ?なら俺にも幸せのお裾分けをしてくれてもいいんじゃないか?」
光司の言葉を裏付けるように大声を張り上げた男は、頭をグラグラ揺らしてこちらを見据える。
俺の背後に居る結香を。
多少目付きを鋭くしたところで、酔いの回った脳では殺気に鈍くなるらしい。
舌打ちをしつつ男を見据えたまま半歩下がり、後ろ手で結香の身体を探す。
俺の手が腰を捕らえる前に、俺の背中に小さく温かいものが触れた。それが背中の布地を握り込んだことで、結香の手なのだと認識する。
届いた手で腰を引き寄せると安堵の息が背中を温めてくれた。
「夕弦、集中途切れさせるなよ」
光司が低く囁いてくるのに、解ってると返す。
「委員長。俺の背中は握らせてあげられないけど、この場は守るから安心してねー」
「握らないわよ」
低い声で即答してくる辺り、委員長は取り乱していないらしい。寧ろ好戦的な気配を感じて逆に気掛かりだ。
「剣道部主将でしょ。見栄に固持した酔っ払い一人、さっさと倒しちゃえばいいのに」
物騒な発言だ。かなり憤慨しているようだ。
怒りを軽減させるつもりか「怖い、怖い」と光司がおどけてみせた。
「その酔っ払いってのが厄介なんだよ。素面と違って動きが読みづらいし、力加減も難しいんだぞ。間違えたらこっちだって過剰防衛になっちまうからな」
理解はしたものの納得は出来なかったのだろう。舌打ちの音がはっきり聞こえて、光司は渇いた笑いを溢した。
委員長、と呼ぶと「なに」と短く返される。
「こちらに向かってくるなら俺と光司が出る。委員長は出るなよ」
「解ってるわよ」
返事が割と落ち着いた声なので、内心安堵しつつ「それで」と付け加えた。
「俺たちが出たら、結香の靴を脱がせて連れて離れてくれないか。そのままだと転ぶから」
いいけど、と嘆息混じりの声が背後から投げ掛けられた。
「最初から歩ける靴を買いなさいよ」
すまんと呟くと、「まったくもう」等と愚痴りながらも動く気配がする。
早くも脱がしているようだ。
すみませんと小さく結香が謝るのに「いいから。足、触るわよ」とかける声に面倒見の良さが滲み出ていて、つい口元に笑みが浮かんだ。
「夕弦」
光司の張り詰めた呼び掛けに、改めて正面を見据える。
一ノ瀬が宥めているようだが、男が引く気配は無い。好敵手とも恋敵ともいえる男に諭されて引く程ならば、最初から騒ぎ等起こさないだろうが。
最初は静観していた、というより面白がっていた招待客も雰囲気が険呑としてきたことに気付いたか、まだ酔いの浅そうな男が数人、スタッフと共に喚く男の肩に手を置いた。
「なぁ、それくらいにしとけって。酒に酔ってロリコンになるなんて、醒めたらお前だって不本意だろう?」
男を宥めようとしてかけた言葉に俺が苛立ちを表す前に、怒号を上げた男が肩に置かれた手を振り払った。
女の悲鳴が数多く上がる。
暴れる男に視線を据えたまま、結香から手を離し軽く腰を落とす。
隣でも同じように構える気配がした。
ここから見る限り取り抑えること自体は楽にこなせるだろうが、結香たちを気にして無意識に距離を取り過ぎたらしい。俺たちと男との間に、招待客の何人かがウロウロと立ち尽くしている。
こちらを守る、或いはこちらを手助けする目的で席から出てきたのかもしれないが、どう見ても視界を妨げる存在でしかない。
光司も同じ認識らしく、忌々しそうに舌打ちをした。
―――落ち着け。
―――とりあえず一旦ここから出よう。
―――もっと佳い女を紹介してやるから。
そんな声をかける招待客に向かって、男は持っていたグラスを刃物のように突き付けながら何かを叫ぶ。
「っせぇんだよ!そっちのは結婚してないんだからいいだろうがっ。いいから寄越せよっ」
吠えた男が壁伝いに逃げようとしていた結香たちに向かって、グラスを振り回しながら走り出した。
「光司っ」
あいよ、という応えを聞きながら男を注視する。
目の前の人垣がやっと左右に掃け出して隙が窺えるようになった時だった。
ぱっりぃぃぃぃぃぃぃんっ
派手な音が響いた一瞬後、ゆっくりと男は崩れ落ちる。
その背後には―――
「うわ。出た。美人。でも怖っ」
「素直なご挨拶どうも」
片言で脳内の感想を片端から表した光司に、面白そうな声音で応えて茜さんは目ばくせをした。
「お姉ちゃんっ」
驚愕する結香に満面の笑みで手を振ってから「うわ、嫌だわ」と利き手に残った破片を男の身体の上に放り投げた。
「やっぱり飴は飴なのね。手がベタつくわ」
辟易したように左手をじっと見てから「おしぼり頂ける?」と声を張り上げた。
要望に応えようと俺たちの周りに立ち尽くしていた男性客がテーブルの上からおしぼりを差し出すが、茜さんはそれらを無視してスタッフが差し出したおしぼりを受け取るとせっせと左手を拭う。
その眉間にはうっすら筋が浮かんでいる。
「あーもう、なかなか落ちないじゃない。つい強く握りすぎちゃった」
「いっそのこと、ぬるま湯で洗った方がいいんじゃないか?」
新しいおしぼりを茜さんに差し出しながら、俺に手を上げて挨拶する高原さんに目礼する。
誰?と囁く光司に、茜さんの婚約者だと説明すると抑えた声で「うへぇ」と呻いた。
「ここにきて、あのおっかねぇ美人の旦那登場かよ。何たるツワモノ」
「聞こえてるわよ、夏目光司くん?」
手を拭きながらジト目を向けられた光司は「うげっ」と呻くと俺に恨みがましい視線を向けた。
「夕弦、お前。俺を売ったな?」
わざわざ茜さんに光司のことを話題にする機会も無かったので首を横に振ると「んじゃ、彼女ちゃんか?」と首を捻る。
「ひでぇぞ、彼女ちゃん。そりゃデートに乱入とかやらかしたけどさ。何も姉貴に頼らずとも夕弦に言えば、道場に一回沈む程度で済んだというのに。手加減無しですかい」
「ふぇっ?」
光司のボヤきを真面目に受け取ってしまった結香は足を止めてオロオロと光司と茜さんとを見やる。
結香に見える程度の遅さと軽さで光司の頭に手刀を落とす振りをすると光司は解りやすく肩を竦めた。
光司のことは気にするな、と頷いてみせる。
結香は小さく息をつくと頷いて、そろそろと茜さんに近付いた。
「お、お姉ちゃん」
結香に呼ばれた茜さんは微笑みを浮かべて振り返る。
その笑みを見た招待客が先程とは違う様子でざわめき出した。新婦は少々呆れた様子で、新郎は笑い声こそ上げていないもののテーブルに突っ伏して身体を震わせている。
「結香。大丈夫だとは思うけど、怖かった?」
周りの動揺を無視して茜さんは妹を気遣う。
「大丈夫。先輩たちが庇ってくれたし、カヤさんが一緒に逃げてくれたから」
そう、と安堵の嘆息を洩らした茜さんは離れて立っていた委員長に向かって「ありがとう」と頭を下げると、俺たちに向かって親指を立てた。
「良くやった!それでこそオトコノコ!」
「やったのはオネエサンだと思うんですがね」
茜さんの耳に入れたくなかったのか、ぼそりと光司が呟いた。
だが茜さんはしっかり聞いていたようで、ふははははっと仁王立ちで大きく笑った。
「だってクズ虫ごときがあたしの妹を手籠めにしようなんて言い出すんだもの。酔っ払いのオチャメで片づけるなんて、このあたしが許すわけないじゃない」
でもっと結香が悲鳴のような声を上げた。
「ビール瓶で殴るなんてっ。どうしよう、救急車呼ばなきゃ」
「は?―――あぁ、そういうこと」
結香の動揺に一瞬小首を傾げると、茜さんは結香を手招きした。
「結香、ちょっとこっち来て―――あぁ、その濡れてる所は踏まないようにね」
恐々結香が近付くと、先程投げ捨てた破片を指先で詰まんで持ち上げた。
「ほら見て。これ、ワインボトル形の飴なの。ほら、ドラマとか映画の乱闘シーンとかで使うヤツ」
「へ。で、でも、血が」
絨毯に広がった染みをチラ見しては怖がる結香に、大丈夫だと茜さんは言い聞かせた。
「血じゃないわ。赤ワインよ」
「あ、赤ワイン?」
そ。と笑顔で頷いた茜さんは改めて破片を男の上に落とす。
「ワインボトルで殴られたと勘違いしてそのまま大人しくなってくれるならいいけど、所詮飴でしょう?大してダメージを感じなかったら余計キレる可能性もある。でも、血が出たと思ったらショックを受けて勝手に瀕死だと勘違いして驚くかな、と思ってボトルの中に入れておいたのよ」
驚いて隙ができればさすがに取り抑えられるでしょう?
楽しそうな口振りでそう言って茜さんは俺たちに向かって目ばくせをする。
俺たちが揃って肩を竦めるのに構わず、「まぁ」と男を見下ろす目付きはかなり冷え冷えとしたものだった。
「殴っただけでノビてくれるなんて、あたしとしては全っ然面白くない結果なんだけどね」
「今は抑えてくれないか、牧野」
涙目を拭いながら話しかけてきた一ノ瀬を、茜さんはギロリと睨み付けた。
「そもそも何でこれが出席してるのよ。知ってたら大切な妹を出席させるなんてこと、しなかったわよ」
「説明するから、そう怒るなよ」
落ち着けと宥める一ノ瀬に茜さんは、はんっと息巻く。
「怒らずにはいられるかっての。最愛の妹が嫌らしい目で見られたかと思うと、腹が立って腹が立って―――そうだ」
何かを思い付いたのか、くるりと茜さんが会場を見渡す。
その視線を受けた招待客が一瞬ざわめいて身動ぎした。
「この中にもいたわよね?あたしの大切な、可愛い、最愛の妹をロリータ扱いしてくれたバカが」
ニーッコリと茜さんが笑みを浮かべると同時に、会場のあちらこちらで小さな悲鳴が上がる。
悲鳴に比例して茜さんは笑みを深めた。
「素直に出てらっしゃい?今なら『お話し合い』で済ませて差し上げるわ」
「夕弦、あの人はフランス革命で戦死した元近衛連隊長か?それともクソ重いドレスで躍りたがる貴婦人か?」
呟いた光司に首を振って否定する。
だがあの茜さんを見て男装の麗人を連想する人間が居たことに、どこか安堵を感じた。
「さっさと出てきなさい」
俺たちのアホなやり取りに構わず茜さんが促すが、わざわざ名乗り出る者が居る筈も無く「仕方ないわね」と大袈裟に嘆息してみせた。
「こんなこともあろうかと、箱買いしておいて良かったわ。あんなに手がベタつくなんてちょっと想定外だけど、クズ虫風情を叩き潰すには足りるでしょ」
「「ちょっと待て、落ち着け!」」
身を翻していつの間にか会場の片隅に置かれていた段ボールに向かって歩き出した茜さんに、新郎と駆け込んできたシェフが必死の形相で取りすがる。
「だから今は抑えろと言ってるだろうがっ」
「抑えられないから手っ取り早くあたしがカタつけようとしてるんじゃない」
新郎席から叫ぶ一ノ瀬に、フンッと茜さんはそっぽを向く。
「遅れて来るなり何だっていきなり場内を騒然とさせてんだよ!困るよ、わざわざ俺の店で新たな伝説こさえないでくれよ!」
「急遽打ち合わせ入ったんだから仕方ないでしょ。新婦にはちゃんと遅れる旨連絡したし。言っとくけど騒ぎを起こしたのはあたしじゃないんだから、妙な言いがかり止めてよね。あれの迷惑料なら、クリーニング代をあとで請求まわしてちょうだい」
きっぱり言い放つ茜さんにシェフは深く嘆息しつつ頭を抱えた。
「出資者様にンな真似出来るかよ………」
そう?と茜さんは首を傾げた。
「そこそこ派手にやったから、請求するべきなんじゃないの?経営者としては」
「それはあっちに払わそう」
一ノ瀬が指差す先では、スタッフとは明らかに異なるスーツの男たちが赤ワインと飴にまみれた酔っ払いを回収するところだった。
その中の一人が輪を外れ、一ノ瀬に向かって恭しく頭を下げた。
「見ての通りだ。結果的にはそいつは牧野茜すら激怒させた。どうする?」
感情のこもらない声で一ノ瀬が言うと、男は更に頭を下げる。
「はい。当主に報告し、改めてお詫びに伺います」
「呉々も妻へ接触はしないように。連絡は俺に」
「あ、じゃあこっちも」
茜さんがヒラヒラと上げた手を振った。
「息子の教育一つマトモにできない腹黒狸なんかにあたしの妹の近くに来てほしくないの。話があるならあたしに連絡してちょうだい―――それでいい?」
男にそう注文をつけると最後に俺に構わないか聞いてきた。
俺が頷くと茜さんは男に向かって笑みを深める。
「くれぐれも連絡はこの牧野茜に、ね?」
了承代わりに再度恭しく頭を下げると「お騒がせ致して申し訳ございませんでした」と言いおいて立ち去った。
騒ぎを起こした張本人が去ったところで場が治まるわけもなく、辺りでひそひそと囁き合う声が聞こえる。
新郎が席を離れ、シェフと司会とで囁き合う。
一ノ瀬が席に戻る頃を見計らって「えー、皆様」と司会が話し始めた。
「本日は参加頂き誠にありがとうございました。このような騒ぎになってしまったことを心よりお詫び申し上げます。お詫びといってはなんですが、これからお渡しする引き出物に本日の会場となりましたこちらイル・コニーリョ・ビアンコ特製のパスタソースとドレッシングをお付け致します」
途端に会場のあちらこちらで歓声が上がる。
引き出物が増えるのがそれほど嬉しいのかと首を捻っていると「お前は知らんのか」と光司がいかにも呆れたという調子で嘆息した。
「生産が間に合わないからと断っても断っても、お土産用に売ってくれとリクエストが絶えないと評判だぞ」
「お前はよく知っているな」
素直に感心すると「お前が無知過ぎるんだ。バカヤロウ」と光司は肩を落とした。
司会は順に会場から退出するように促している。
「なおアルコールをお飲みになった皆様、お帰りの際にはお支払のほど宜しくお願い致します」
慇懃に案内していた司会だが、会場のあちらこちらからブーイングが上がると「煩っせぇ!」とマイクで怒鳴る。
怒号とハウリングは会場を鎮まらせるのに効果的だったが、お蔭で結香は大きく身体を震わせて固まった。
急いで近寄り、耳を塞いだ手の上から頭を撫でる。大きな目がこちらをそろそろと見上げるので頷いてみせると、涙を溜めながらも安心したのか少し瞳の色が変わった。
「案内状にきっちりビュッフェだと書いてあっただろうがっ。お前らバイキングと勘違いしてんじゃねぇっ」
「ひぃぃっっっ」
マイクから流れる低い声に結香が身を縮める。
抱き寄せて抱え上げれば、珍しく腕の中で固まっている。
脅えて文句を言う余裕が無いのだろう。
大丈夫だと耳に唇を当てて何度か囁くと、やっと少し強張りが解ける。
結香のこめかみに唇を押し当てたまま目を上げる。
茜さんが人並みを縫って司会に近付き、マイクに手をかけて話しかけた。
「失礼致しました。皆様、本日はご参加頂き誠にありがとうございました。お帰りの際にはドリンクのお支払をよろしくお願いいたします。足元にお気をつけてお帰りください」
見るからに動揺した司会からマイクを奪った茜さんが同じ挨拶を繰り返すと、招待客はぞろぞろと動き出した。心なしかその表情が一様に青かった気がするが、出口に向かう面々を満面の笑みで見送る茜さんを見て、なんとなく納得する。
一人納得して頷いていると、背後から光司に呼ばれた。
「酒なんて飲まないからいいんだが、そもそもビュッフェスタイルがどうのなんて案内状に書いてあったか?」
覚えが無いので首を横に振る。
二人で妙だと首を捻っていると、「お前らはいいんだよ」と一ノ瀬の声が聞こえた。
いつの間にか俺たちの近くまで来ていて、新婦は居ない。一ノ瀬も白いタキシードから上質なもののフォーマルではないジャケットに着替えていた。
光司が新婦はどうしたのか聞くと着替えに下がったと答えた。茜さんも一緒だと付け加えられる。
「そういえば、なんでお姉ちゃんが」
腕の中でまだ少し固まっている結香が呟くと、知らなかったのかと一ノ瀬が小首を傾げた。
「あの二人は同じ高校でな。学年は違うが卒業後もずっと付き合いがあったんだ」
「で、イチノンとも仲良いんだ?」
光司が向けた人差し指を一ノ瀬は軽く捻る真似をしてから、着いてこいと手招きして手口とは別のドアに向かって歩き出した。
「ま、ちょいちょい関わることがあってな。牧野、あぁ、姉の方な。あれにとっては俺は顔見知り程度だと思うが、仲が良いのは槇原の方じゃないか。出資までしてもらうくらいなんだから」
「お姉ちゃん、マンションの次は出資なんて。いつの間に………」
俺に抱えられたまま目を白黒させる結香に、一ノ瀬は憐れむような視線を向けた。
「あれと家族である牧野に言うことでもないと思うがな。あの牧野茜の行動をイチイチ把握しようなんてことはしない方が精神衛生上良いと思うぞ」
一理あると思ったようで、結香はうぅぅと唸って大人しくなった。
結香が俺の中で落ち着いたのを確認した一ノ瀬は「そういえば」と光司に視線を向ける。
「夏目。お前、さっきの騒ぎ、何か記録を録ったか」
「あら嫌だ、イチノン。乙女の秘密を覗き見なんて駄目よ」
条件反射のように気色悪い声を出す光司だが、一ノ瀬の視線に「目敏いでやんの」とボヤきながらスマホを取り出した。サッと操作し「ほいよ」と一ノ瀬に手渡す。
音量を極力抑えて確認した一ノ瀬は「ほぉう?」と感心したような声を上げた。
「音声だけとはいえ中々良く録れてるじゃないか」
「有料アプリだからねぇ」
のんびり応える光司に、この音声データをくれと一ノ瀬は言った。
ほいほいとのんびり光司は頷く。
「いいよぉ。ビュッフェ代代わりに持っていくがいいさ」
「お前らにビュッフェ代を要求するつもりなんぞハナからないさ。何処の世界に教え子に食事代や祝儀をタカる教師が居る」
「おぉ、流石イチノン。教師の鑑っ」
軽く煽ててから「じゃあ何の名目でデータ渡そうかね」と宙を眺める光司に、一ノ瀬はニヤリと笑いかけた。
「お袋さん以外の大人に助言受けたくなった時に気兼ねなく相談に来れる権利なんてどうだ」
「ふぅん………?」
訝しげに首を捻った光司だが、少しの間を置いてから「それでいっか」と呟いた。
ここだと一ノ瀬が案内したのは、新郎新婦の控え室として使用していた部屋だった。
平常時は個室として利用しているそうで、先程は無かったテーブルと椅子が運びこまれていて、きっちり整えられていた。
ウェディングドレスから白いワンピースに着替えた新婦と深緑色のドレスに身を包んだ茜さんが談笑している側で座っていた委員長が、入ってきた俺たちを見ていち早く近付いてきた。
「お、委員長。ここに居たんだ、ってぇっ」
声をかけた光司に委員長は問答無用でデコピンを放つ。
「何が『ここに居たんだ』よっ。守ると言ったんなら相手の居場所とか状態とかきっちり把握しときなさいよっ」
額を擦っていた光司は「あー……うん、そうだね」と一瞬目を伏せた。
「ごめんね、委員長」
「え。ナニ、やけに素直で怖いんだけど」
訝しげに後退る委員長に「ひでぇなぁ」と苦笑した光司が再度謝ると、仕方ないなぁという表情で委員長が嘆息した。
「いーわよ。ぶっちゃけ無事だったし」
「委員長。結香が世話になった。ありがとう」
俺が横から礼を言うと「あぁ、そうそう」と目を瞬いた。
「これ、結香ちゃんの靴とバッグ。ここに置いておくね」
「あ!ありがとうございますっ」
すっかり忘れていた結香が慌てると、構わないと笑いながら委員長が空いている席の一つにバッグと靴を置く。
椅子に結香を座らせて靴を履かせようと片足を取ると、結香が小さく抵抗した。
「じっ!自分で履きますっ」
真っ赤な顔の結香がなんとか靴を履き、俺たちが各々席につくと「さて」と新婦の隣に座った一ノ瀬が口を開いた。
「さっきは妙な騒ぎに巻き込んで済まなかったな。これでやっと披露宴が始められる」
「え。でもさっきまで」
パーティーのことを結香が指摘すると一ノ瀬は苦笑した。
「あれは大掃除というか鬼退治のようなものだ」
「鬼はイチノンなんじゃ、ぁだっ?」
テーブルの下で鈍い物音がした。察した俺たちは視線を彷徨わせた。
「さっき会場に居た殆どは付き合い上招かざるを得なかった面々で、お前らとは別なんだ。披露宴というものは、やはり俺たちのことを心から素直に祝ってくれる人をメインに招いて行うべきだろう?」
「あ、そうなんですね」
ニーッコリと笑ってそれらしく説明する一ノ瀬に、結香はコクコクと頷いた。
ドアから顔を出したシェフが「もういいか?」と一ノ瀬に確認を取り、新郎新婦の前に料理を運ぶ。
二人は先程は食べる余裕も無かったので、ここで食事にするという。俺たちの前にはデザートの皿が置かれた。
「飲みたいものや他に食いたいものがあったらそこのベルを押してくれ」
そう言いながらシェフがメニューを呼び出しボタンの近くに置いた。
「何だ、こんなゆっくり食う時間があると解ってたらもっとペース配分考えたのに」
「お前はまだ食う気だったのか」
呆れる一ノ瀬に、DVDのセットをしていたスタッフが小声で囁いてリモコンを渡して退出する。
一ノ瀬がリモコンをDVDデッキに向ける。
少しの間を置いて「HAPPY WEDDING」の文字がテレビ画面に浮かび上がり、相原がぎこちなく喋り始めた。
「先輩たちもDVD作ったんですね」
頷く俺越しに「やっぱ披露宴にはこういうのが必要っしょ」と光司がニヤッと笑った。
「やっと披露宴らしくなったじゃないか」
給仕していたシェフが感心したように言うと、一ノ瀬が破顔して頷く。
「相原め、緊張しまくってるじゃないか」
口振りはからかうような調子だが、一ノ瀬の目は珍しく少し潤んでいた。
「本当なら、こいつらも呼びたかったな。披露宴には」
画面の中から「結婚おめでとう」や「末長くお幸せに!」と呼び掛ける元生徒を、一ノ瀬はうんうんと頷きながら食い入るように見ている。
腹が減ったと言っていたのに、料理に手もつけずに画面を見詰めている。
新婦も、画面とそれを見詰める一ノ瀬の横顔を見詰めている。
「んじゃ、もう一度やれば?」
結局サンドイッチを頼んだ光司が咀嚼しながら言った。
「どうせだから俺たちが大学卒業するタイミングとかにさ、もう一回、今度はガチで招きたい人だけ呼んでやりゃいーじゃん。イチノンならそんくらいポケットマネーで出せるっしょ?」
少しの間目を丸くしていた一ノ瀬が、小さく吹き出して「それも良いかもしれんな」と呟いた。
それで和やかにDVDを楽しみつつ食事をし、デザートを楽しんだ、と締められれば良かったのだが。
同級生に挨拶を求める人間が相原から光司に代わった辺りから挨拶の内容がかなり変わり。
結果として。
「良ーい度胸だ、夏目。ちょっとそこの高架下まで行かないか?」
「いや、イチノン。そこの高架下ってどこの高架下よ?今日の善き日にそんなバイオレンスなノリはよしこちゃんよ」
黒い笑みを湛えた一ノ瀬とジト汗を垂れ流す光司とが部屋の片隅を混沌とさせることになった。
◆ その効果だけを狙ったわけではない ◆
ベッドの上で唸りながらマッサージしていると、ドアがノックされた。
返事をするとお姉ちゃんが顔を見せた。
「結香、足は―――大丈夫ではなさそうね」
足はどう?と聞きに来てくれたみたいだけど、一目で見抜かれてしまった。
「お風呂で揉まなかったの?」
「一応揉んだよ」
自分なりに一生懸命揉んだつもりだけど、この分では明日絶対筋肉痛。やっぱり高いヒールは私にはレベルが高過ぎる。
仕方ないなぁ、とお姉ちゃんはため息をついた。
「だから夕弦くんにマッサージしてもらえば良かったのに」
「そ、それは、そう、かもしれない、けど」
確かに先輩にマッサージしてもらえば明日までに復活できる。でも、先輩だってきっと早く帰って休みたいはずだし、先輩にマッサージしてもらうのはやっぱり恥ずかしい。
先輩は構わないと申し出てくれたのだけど、大丈夫ですからと断ってしまったのです。
気を悪くした様子はなかったけど、帰り際、先輩は恐ろしい一言を残した。
「明日筋肉痛が残っているようなら、お仕置きだからな」
ものすごく爽やかに言われたけど、先輩のお仕置きはかなり恥ずかしい。
お仕置き回避のために、一生懸命自分で揉まねば!
かけ声をかけながら自分で揉んでいるくせに、痛くて泣き声を漏らす私を眺めていたお姉ちゃんは「なるほどねぇ」と呟いた。
「わざわざ連れ込まなくても、触り倒す策をあらかじめ仕込むとは。夕弦くんも男の子ね」
「うぇ?お姉ちゃん、なに?」
せっせとマッサージしているときに何か呟くので、聞こえなかったからもう一度と聞くけど、お姉ちゃんはため息混じりに首を振って教えてくれなかった。
「湿布貼る?」
「うん、貼る」
頷いて、湿布が貼りやすいように俯せに寝転んだ。
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