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番外編
大きな声では言えないけれど………
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名前を呼ばれたけど口の中がいっぱいなので「んんん」と唸った。
「そんなに急いで食べて。何かあるの?」
んぐっと飲みこんで頷いた。
「今日ね、貸し出しの当番だから。このあと説明聞きに行くんだ」
へぇと知佳ちゃんが相槌を打つ近くで「しまったぁぁっ」と叫び声があがった。
慌てた拍子に倒した物を手早く片づけると、その人は足早にこちらに向かってきた。
「牧野っ。今日の当番は俺が行くから!」
「え。でも」
今日のスケジュールが出たときに都合を聞いたら「塾の申し込みされてて、行かなきゃどやされるんだよな」と嘆いていたはず。
それを言うと、その人は「しまったぁぁっ」ともう一度頭を抱えた。
「やべぇ。どっちも怖ぇ。詰んだ。俺、詰んだよ」
深刻そうに何かを呟いている。おーいと呼びかけても聞こえてないみたいだった。
やっぱり大学受験は今の時期から力を入れて取り組まないといけないらしい。私一人で全部引き受けるわけにもいかないけど、できるだけ私が担当しないとね。
「今日は私行ってくるよ!仕事の流れとかたくさんメモしてくるから任せて!」
「いや!俺も行く!行くから!」
ちゃんと教わった内容をメモして明日にでも伝えるねと言ったのに、思いきり首を横に振られてしまった。
「私、ちゃんとメモとれるのに………」
「本人が行くって言ってるんだから、行かせてあげれば?」
頬を膨らませる私の肩を、ため息をついた知佳ちゃんがポンと叩いた。
「そしてやはりお前は居るのか………」
なぜかがっくり肩を落とす同級生に「ども」と男の子は金色の頭を下げた。
当番の流れを説明してくれた子は、やっぱり修復の腕前を買っているようだった。目立つ頭を気にしながらも「頼むね」とぎこちなく笑って、さっき帰ったばかり。
私はカウンターに座って黙々と勉強したり本を探している人を眺めながら、作業の合間にボソボソと交わされる男の子たちの会話をなんとなく聞いている。
見たところ本を借りる人はいなさそう。こういうときが修復するチャンスかもと頭では解ってるんだけど、綺麗に修復しながら図書室全体を見渡すって意外に大変。
「牧野。修復は俺らがやるから、無理するなよ」
初めての当番と慣れない作業に、地味に身体を強張らせているのがバレたらしい。
後ろから囁き声で呆れられた。
「うん。でも、本当に大丈夫なの?塾に行かなくて」
受験のために授業料を払ってるんだから、行かないとかなり怒られると思うんだけど。
貸し出しの当番は二クラスで担当する。一クラス二人いる委員のうちどちらかが図書室に来ればいいことになっているし、一年生の方も今日は二人とも来ている。
委員は私を含めて三人いるし仕事も少ないみたいだから、抜けて塾に行っても大丈夫だと思う。
そう言って勧めたけど、同級生はぶるぶると首を振った。
「塾にはこれ終わってから行く」
でも、と言いかける私を同級生は片手を掲げて止めた。
「先日はダブルの脅威に動揺したが、よくよく考えればどっちがヤバいか明白だった。仮にも腹を痛めて産んだ息子。説教と拳固で済む方が良いに決まってる」
「うん?」
よく解らないけど、同級生は何かを悟ったかのように何度も神妙に頷いて作業に戻ってしまった。
職員室に鍵を返してから、四人でぞろぞろと廊下を歩く。
「終わった………無事に終わって良かった………」
心から安堵したようにため息をつく同級生に、そうだねと頷く。
「今まで借りてるときになんとなく見てたからできるような気でいたけど、実際にやってみると緊張するね」
「緊張は緊張だが、俺のはそういう緊張じゃねぇ」
なぜか怒ったように言うと、ハッと身体を揺らして急に辺りを見渡し始めた。
どうしたのと聞くと「警戒してるんだよ」と通り過ぎる教室の中や後ろを振り向きながら応えられた。
「警戒?何を?」
「お前、あんな強烈なのを忘れたのか」
一瞬呆れたように私を見下ろしたけど、すぐに少し離れた後ろを歩いていた男の子をビッと指差した。
「こいつがここに居るんだぞ。あのツインテールが突撃してくるかもしれないだろうが。二度あることは三度あるんだぞっ」
「そ、そんなことは」
ないんじゃない?と言いかけるのを「いーやっ、絶対あるっ。ヤツは来るっ」と遮って辺りを警戒する同級生に「あぁ」と一年生の男の子が何か納得したような声をあげた。
「アスカなら、来ないッスよ」
「何ィっ!??」
驚きで大きな声をあげて、同級生は一年生の男の子を振り仰いだ。
「お前~……それ早く言えよ。知ってたら塾行ったってのに」
「すみません」
一年生が金髪の頭をぺこりと下げると、仕方ないなぁというように同級生はため息をついた。
「まぁいいや。俺も委員なんだし。で?何でツインテール来なかったんだ?病欠か?」
聞かれた一年生たちはふるふると首を横に振る。
無言の男の子をチラリと見上げてから、あの、と女の子が口を開いた。
「もうすぐ、中間だから、勉強するって」
「あぁ。そりゃ良い心掛けだな。初対面がアレだから、意外っつーか疑わしいっつーかなんか裏があるような気がしてならんが」
正直過ぎる表現に「すみません……」と女の子が身体を縮ませる。
「や。別にお前が謝らんでもいいんだが」
縮こまって俯いてしまっている女の子に、困ったな、と同級生は頭を掻いた。
金髪の子と比べたら低いけど、自分より背が高い上級生の男の子が不満を表していたら、畏縮しちゃうよね?
そういえば、と鞄からお菓子を取り出して「ねぇ」と女の子に話しかけた。
「マシュマロとクッキーとチョコ、どれが好き?」
え。と私に振り向いた女の子に繰り返して聞くと「ま、マシュマロ?」と疑問形で答えられた。
「じゃあ、はい」
手を取って小分けになってるマシュマロを三つ乗せると「えっ」と目を見開かれた。
「も、貰えません。悪いです」
「え、いいよ」
マシュマロを片手に乗せたまま固まる女の子に、気にしないで受け取ってと言う。
「今日図書委員の当番だって言ったらみんなから貰ってしまったから。食べて?」
当番の合間のおやつとして貰ったんだけど、食べるタイミングを掴めなかった。そもそも図書室は飲食禁止だから、当番が始まる前に一緒に当番する人にお裾分けしようと思っていたのもすっかり忘れていたのです。
そう説明すると「相変わらずぼんやりだな」と同級生に苦笑されてしまった。それにごめんねと返して余ったクッキーとチョコを見せてどっちにする?と聞くと、迷わずクッキーの袋を取った。
「ごちそーさん」
いえいえ、と言いながら最後のチョコを男の子に渡そうとして、は、と気づく。
「えぇと、チョコ、食べれますか?」
なんか二人にはノリで配ってしまったけど、甘いお菓子は苦手で貰っても迷惑になってしまうかもしれない。それを無視して押しつけたら、上級生ぶってるってことになるかも。
心の中で焦っていると、目の前の学ランから「はい、まぁ」と声が響いた。
「えぇと……迷惑では、ない、ですか?」
確認のために聞き直すと「はい、まぁ」を繰り返される。
「で、では、どうぞ」
チョコの箱を両手で差し出すと「どうも」と受け取られる。
ハードなミッションを無事にクリアできた安心に息をついていると、「牧野」とため息混じりに呼ばれた。
「お前はナニさりげに騒ぎの種を蒔いてくれてんだ」
「へ」
じとっと睨まれて呆けた声を出す私を放って「あのな」と同級生は男の子に向き直った。
「こいつ、彼氏持ちだから。それは、ごくごく純粋に特別意味ないただのお裾分けだから。そこんとこよぉぉっく覚えとけよ」
念を押すように言われた男の子はしばらく同級生の目を見たあと、「はぁ」と言った。
「はぁ、じゃなくて。ちゃんと覚えとけよ。牧野が妙な絡み方されると堂々とここに乗り込んでくる人なんだからな」
そのあとも続く同級生の力説に男の子は「はぁ」と相槌を打っていた。その近くで私を珍しそうに見ていた女の子が「あ」と声をあげた。
「もしかして牧野先輩の彼氏って、あの人ですか?よく門の近くで待ってる背の高い……」
平常時の放課後に校門近くまで迎えに来る人ってあまりいないから、たぶん先輩のことかな。
私が考えている間に、先に同級生が「たぶんその人」と肯定してしまった。
わぁと女の子が明るい声をあげた。
「やっぱりその人なんですか。誰だろうって、クラスで話題になってたんです」
頭では仕方ないと解っていても胸がモヤッとする。やっぱり先輩が逆ナンに遭うのは嫌だ。
「マメにやって来て立ってるけど、無表情だからどういうモチベーションなのか解らないねって!」
「あ………そうなんだ………?」
想定してた会話とはちょっと違って、少し複雑ながらも安心してしまった。
女の子は、気になっていた人の正体が解って満足そうにニコニコしている。
「でも、先輩はどうしてあの人が牧野先輩の彼氏って知ってるんですか?」
「そりゃあの人もここの卒業生だからだよ。二人が付き合ってることは今年の三年と二年は大体知ってる」
そのうち一年生が高校生活に慣れて二年生や三年生と会話するようになったら、自然と知れ渡るだろう。
そう言われた女の子は目を輝かせて、先輩の話を聞きたがる。
見た目以上に格好良いことまで知られたら、先輩、一年生にもモテてしまうかも。
先輩について話す同級生と熱心に聞き入る女の子をハラハラしながら見ていると、上から「牧野先輩」と呼ばれた。
「は、い?」
見上げると男の子がじっと私を見下ろしていた。
怖い人ではないと解ってるんだけど、上からマジマジ見下ろされるとちょっと怖い。
何ですか、と聞く声が出なくて口がパクパクする。
男の子は少し私をじとっと見てから「牧野先輩の彼氏は」と口を開いた。
「何か、やってますか」
「な、何か?」
何かって何?と首を傾げていると男の子は口を開いて「柔道とか、合気道とか」と付け加えた。
なるほど、と頷いて、やってるよと答える。
「先輩はね、剣道をやってるよ。小さいときからやってて、すっごく強いんだって」
「あ?でも剣道部には居なかったよな、進藤先輩」
居たら試合の度に女子が煩かった筈だ、と首を捻る同級生を振り返る。
「うん。部活には入ってなかったけど、道場に通ってるんだよ。夏目先輩の特訓にも付き合ったんだって」
「うわ、マジか」
すごいでしょ?と話したのに同級生はなぜか口元を引きつらせた。
「夏目先輩て主将だった人だろう?身長低いからって油断してかかると速攻でやられてるっていう……そんな人の特訓に付き合うとか、やっぱり俺の目に狂いはなかった……」
なんだかよく解らないことを呟いていた同級生は、ハッと瞬きすると「あぁ、だからな」と一年生を振り返った。
「この二人、周りの人間がマジマジ見てても平気でイチャつける程の仲だから。牧野は進藤先輩一筋だって、特にあのツインテールに言っておけ」
「いっ!?イチャついてないよっ?」
精一杯の否定に、同級生はジト目で「ほぉぉぉぉう?」と声をあげる。
全然信じてもらえてない。
さらに主張しようと口を開きかけると横から「解りましたっ」と元気の良い声があがった。
「今あの子、猛勉強中だから話しても通じないと思うけど、必ず伝えますっ。任せてください、牧野先輩っ」
「う、うん?ありがとう?」
なんだかやる気に満ちた目を向けられたのでとりあえずお礼を言うと、任せてくださいと胸を叩かれた。
なぜかよしよしと頷いていた同級生は「しかしなぁ」と首を傾げた。
「あのツインテール、そんなに勉強熱心には見えなかったんだけど。ヒトって見かけによらないんだな」
それなんですけど、と女の子は少し申し訳なさそうな表情をした。
「なんかこの間怒られたのが嫌だったみたいで、猛勉強して中間の成績で勝つって言ってるんです。あの………生徒会長と、その………牧野先輩に」
「えぇっ?」
驚く私の隣で、「何だそりゃ」と同級生は呆れ返った声をあげた。
「テストの成績なんてどうやって競うんだ。総合点ならともかく、詳しい点数なんて本人しか解らんだろう。そもそも、学年が違うんだから競うこと自体無理だろう」
「いや、具体的にどうするつもりなのかは私も知らないんですけど」
困ったように眉尻を下げる一年生に「そりゃそうか」とため息をついてから、同級生は呆れた口調で言った。
「とりあえず本人やる気になってこっちに来なきゃいいだけなんだけどな。一応言っとくけど、先生にこいつらの成績教えてもらおうとしても無駄だぞ。いくら校内の人間相手でもそんな情報、先生が漏らす筈無いからな」
女の子は本当に困りきった様子で、「言っておきます。はい」と恐縮していた。
なんだか申し訳ないので、キャンディを追加であげた。
呼ぶ前に顔を上げた先輩はゆっくり破顔して手を上げた。そして両手を広げて、おいでと微笑みかける。
「結香。おかえり」
「た、ただいま、です。遅くなるのに、迎えに来てくれたんですか?」
私を抱き寄せた先輩は不思議そうに小首を傾げた。
「遅くなるから迎えに来たんだろう?」
「う」
知佳ちゃんにも言われてるけど、こういうところ、先輩は私に甘いと思う。
先輩だって忙しいんだし、時間をとらせるのも申し訳ないと思う。
でも、一度迎えに来なくても大丈夫ですよと言ったら「何故だ」と本当に首を傾げられ。やり取りをしているうちに、なぜか……た、たくさん抱きしめられたりきき、キス、されたりして迎えは続行されることになってしまった。
あ。思い出したら頬が熱くなってきちゃった。
「どうした、結香。頬が紅い」
風邪か?とさらに顔を近づけられるので、ブンブンと首を振った。
「だ!いじょぶですっ。あの、迎えに来てくれて、ありがとうございます」
うんと頷いた先輩は安心したように微笑んだ。そして片手を腰から外して優しく髪をすく。
「―――ほら。言った通りのラブラブだろ。余計な八つ当たりで迷惑かけんなって、ツインテールに言っとけ」
「い!!?」
突然ハッキリと聞こえた声に驚いて首だけ振り返ると、ちょっと前まで一緒に当番してた面々が並んでこちらをじーっと見ていた。
ひぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!
見られた、見られた!いや、今も見られてるけど!
恥ずかしすぎる!!!
「結香。その振り向き方をするとまた首を痛める」
「だ!だいじょぶですっ。先輩っ、ちょっと離してくださいっ」
痛めてないか確認しようと首を触ってくる先輩の手を避けて、ついでに恥ずかしいから離してと暴れると、先輩はちょっと不満そうな表情を浮かべた。
「何故だ」
「あ」
マズい。
これは迎えいらないと言ったときの表情。
このあとの流れを予想した私は必死で「あのですね」を繰り返した。
「首は無事ですしっ。みんな見てるから、恥ずかしいんですっ」
叫ぶ私をじっと見ていた先輩は、納得してくれたみたいだけど「しかしな」と口を開いた。
「見てるも何も、最初からそこに居たぞ」
「うっ」
そりゃ一緒に行動してたんだから近くにいても当然なんだけど、だからといって先輩に抱っこされてるのを見られるのは恥ずかしいわけで。
でも、先輩はお構い無しで三人に目を向けて「図書委員か」と聞いてくる。
そうなんです、と頷きながらなんとか自然な流れで抱っこから抜けたいな、と方法を頭の中で探していると「それで」と先輩は再び笑顔を浮かべて私を覗きこんだ。
「迷惑なツインテールとは、誰だ?」
「へ」
突然の話題変換に呆ける私から答えは出ないと判断したのか、先輩は後ろの三人に向かって「誰だ」と聞き直した。
話が話だけに説明しづらいのか「えぇと……」とか「あー……あのですね」とか、同級生と女の子の困ったような声が聞こえる。
「せっ!先輩っ!」
目の前のシャツを掴むと「うん?」と先輩の声が降ってくる。なぜだろう。声は優しいのに、私は心臓がばくばくするしなんか妙に汗をかいている気もする。
でも、必死に口を動かす。
「かっ、帰りましょうっ?」
うん?と聞き返す先輩の声は優しい。
「帰るのか?」
見詰めてくる目もきっと優しいはずだけど、今の私に見上げる余裕や勇気はなかった。
握ったシャツだけを見て「はい、帰りましょう」と繰り返す。
「わ、私っ。中間テストなんですっ。そうだ、教えてほしいとこがあって!」
視界の端にあった太い腕に抱きついて教えてくださいと引っ張ると、上から微かな笑い声が聞こえた。
「解った。じゃあ、帰るか」
「はいっ。帰りましょうっ」
先輩が頷いてくれたのに安堵して三人を振り返る。
「それじゃ、お先に!また明日!」
一生懸命腕を引く私に、先輩はクスクス笑い声をたてながらゆったり歩く。
しばらく歩いて三人からだいぶ離れたはずと心の中で安堵のため息をついていると右の頬にふわっと温もりを感じて「結香」と呼ばれた。
「帰ったら、お仕置きだ」
「ぴっ」
甘い声で宣言されて固まる私に、先輩は楽しそうに笑い声をあげる。引かれてた腕をゆっくり抜くと、その腕で私の腰を抱いて「さ、早く帰ろう」と笑顔で促した。
大丈夫?と知佳ちゃんは私の顔を覗きこんだ。
その目が本当に心配しているときの目で、嬉しくてついニヘッと顔が崩れる。
「大丈夫。ちょっとこの前のおしお……勉強会がねっ、なかなか白熱しててっ」
「………うん。ものすごく想像ついたからいいわ、もう。ほとんど言っちゃってるし」
うぐぐと唸る私を放って、知佳ちゃんはノートや筆箱を取り出す。
今日からテスト期間に入ったので、早速私の家で勉強会をすることになった。
宮本くんは呼ばなくていいの?と聞くと、いーの、と知佳ちゃんはさらりと言った。
「無理やり来ようもんならピーマンとしいたけを延々食べさせてやると言ったら、大人しく帰っていったわ」
「そ、そうなの………………?」
すれ違いざまに見かけた宮本くん、すごく肩を落としてふらついていたんだけど。
いいからさっさと始めましょうと促されて、私も教科書を開く。
総合点ではいつも知佳ちゃんの方が上だから私が教えてもらうことが多いんだけど、今日は私もちょっと教えることができた。
「結香、今回はいつもより頑張ってるんじゃない?かなり良い点取れちゃうかもね」
感心する知佳ちゃんに、自分でもそうかもと思えてきた。
「先週のうちに授業で解らなかったところを先輩に教わったから、自分でもちょっと自信あるんだ」
えへへと笑う私に、へぇと知佳ちゃんが感心したように唸った。
「ちゃんと勉強してたのね。イチャついてるだけかと思ったけど」
「いっ………してないよっ」
私の否定を「ま、それはいいんだけど」と知佳ちゃんは取り合ってくれない。
「高校生としては正しい行動なのかもしれないけど、あんまり点数取りすぎるのも考えた方が良いわよ?成績の関係で受験校見直さなきゃいけない人たちの反感買うかもしれないし、去年みたいに学年主任に進路変えろって言われるかもしれないじゃない?」
去年の今頃はかなり呼び出されて億劫だったから、そうだけど、と肩をすくめた。
「なんか勝負を挑まれるかもと思うと、しっかり準備しないと落ち着かないんだもん」
「勝負?誰があんたに勝負挑もうって言うの」
訝しげに小首を傾げる知佳ちゃんに一年生のことを話すと、ふぅんと目を細めた。
「放っとけば。本人から勝負しようって言ってきてるわけでもないんだし、勝手にやらせておけば」
素っ気なく言ったあと、「くっだらない!」と不機嫌な声で付け加えてお煎餅をバリッと噛んだ。
目を紡錘ってもぐもぐと口を動かす度に眉間の縦ジワが薄くなっていく。
それを見守りながら心の中で安心していると、「あ、そうだ」とパチッと目が開いた。
なに?と聞くと「ちょっと待って」と言いながら鞄の中を手で探って「あった、あった」と弾んだ声をあげた。
はい、と渡されたものを見ると一枚のDVDだった。
「あ、もしかして結婚式用の?もうできたの?」
そう、と頷く知佳ちゃんの顔は柔らかな笑顔だった。
「それ、先生に渡してくれる?」
「うん。知佳ちゃん、ありがとう」
どういたしましてと微笑んだ知佳ちゃんは、やっぱり少し照れたみたいで「さ、休憩終わりっ」と紅い顔で声を張りあげた。
「でも結香。今回は本当に調子良さそうね」
みんなテスト前ともなると恐々としているのになぜ私一人元気なのか、知佳ちゃんは首を捻った。
「そりゃ元気になるよ。テスト前だから本の貸し出しもないし、あの怖い子と会わなくて済むもん。もっと頻繁にテスト期間作ってくれないかなぁ」
自分がそうだから、基本的に用事がない限り他の学年の階に行く人はいないと思っていた。
でも、それは違ったらしい。
一人で廊下を歩いてるときに限ってあの女の子がにゅっと現れて「私、負けませんから」と言って走り去る。
ちょっと怖い。
わりと本気でため息をつく私に、知佳ちゃんは「はぁぁぁぁぁっ」とそれを凌ぐ大きな大きなため息を口から吐いた。
「気持ちは解るけど、それ、口外しない方が良いわよ?受験組の反感ただ買うだけだから」
「うっっっ……………!!!」
思わずヘラっと浮かべてた笑顔を圧し殺す私を見て、知佳ちゃんはもう一度小さくため息をつくと「とにかく、勉強の続きする?」と少し優しい声で言った。
◆ 茜さんはやはり手強い ◆
珍しく早めに帰宅した茜さんが、俺を見て目を丸くした。
「夕弦くん?そこで何をしているの?」
「おかえりなさい、茜さん。台所お借りしています」
うん。それはいいんだけど。と言いながら茜さんは俺が何故牧野家の台所に居るのかを重ねて尋ねた。
「ハルさんのパートが延びることになりまして。夕飯当番が急遽結香に廻ってきたので俺が代わりに作ることにしました」
結香は自室で勉強していると言えば、茜さんは深く嘆息して額を押さえた。
「なんというかもう………お母さんが甘えちゃってごめんなさいね」
作業を進めながら首を振る。
「いえ。結香には栄養をつけてもらってテストを頑張ってもらいたいので」
うん?と首を傾げかけた茜さんは、あぁ、とすぐに納得したような息をついた。
「あの悲劇のヒロイン気取りちゃんのこと?夕弦くん、もう知ってるの」
卒業してだいぶ経つのに、よく気づいたわね。
そう言ってOGでもない茜さんはふふふと笑った。
宮本に聞いたと言えば、なるほどと頷く。
陽の畑仕事を手伝っている宮本に気付いたのは、テスト期間に入る結香に無理しない程度に頑張れと言って家に送り届けて家に戻った直後だった。
「お前はテスト勉強をしなくていいのか」
おかえりなさい、進藤先輩。
草むしりの体勢のままへらりとそう言った宮本に思わず聞くと、はぁ、と息をつきながら顔の汗を乱暴に拭った。汗は拭けたようだが、所々に土がついた。
「テスト勉強の一休みですよ。一応ちゃんとやってますって」
指差す先の客間の長机の上には、確かに勉強の道具が広がっていた。
「毎度のごとく水瀬にフラれまして。一人で家でやってたら無駄に寂しくなってきたんでここでやらせてもらおうと思いまして」
何故わざわざ俺の家に来たかと問えば「陽が居るんで」とあっさり即答された。
「お邪魔するお詫びに何でも手伝いしますよ、と言ったんですけど」
「宮本さんが勉強すんのと一緒におれが宿題終わらせたから、母さんが喜んで。夕飯も食べていってもらおうってことになった」
陽が代わりに説明すると宮本が恐縮したように「すみません」と苦笑した。
毎晩終わってるのか恐々とさせる陽の宿題が既に終わってるとは有り難い。勉強場所の提供と夕飯がその礼になるなら安いものだが、他家で夕飯を摂ることについて家から文句は言われないだろうか。
確認の為聞いてみると「あれ。俺、進藤先輩に言ってませんでしたっけ」としゃがんだまま、膝に肘をついて頬杖をついた。
そんな体勢を取れば確実に土まみれになるのだが、それには頓着しないらしい。
「俺、兄と二人暮らしなんですけど、最近兄が長期で海外に行くことになって、今は一人暮らしなんですよ」
それなら存分に食べてくれと言ったところで、母さんが夕食が出来たと知らせに畑まで出てきた。俺の顔を見て「あら、帰ってたの」と目を丸くした。
「聞いた?今日は宮本くんもお夕飯一緒にしてもらおうと思って―――あらやだ」
言葉の途中で振り返った母さんは、大変、と笑い声を立てた。
「宮本くん。顔、真っ黒よ?」
「へ?―――あ。ヤベ」
土いじりをしていた手で顔を触っていたことに今更気付いたらしい。
笑いながら「なんなら陽とお風呂に入っちゃう?」と聞いた母さんに、苦笑いで宮本は断って外の水道でザブザブと顔を洗った。
次の日も客間でノートを広げる宮本に「夕食目当てか?」と聞くと違うと苦笑した。そして、勉強を教えてくれと言った。
先日結香に教えた箇所なので教えること自体は大したことではないが、宮本が俺に教えてくれと言ってくることがどうにも妙だ。
答えに悩む俺を見て宮本は思い切り吹き出した。
「何だ。やはり何か企んでいるのか」
「企みなんて無いですよ。やはりって何ですか」
ひでぇなぁと笑う宮本に一応すまんと謝った。
「お前も光司の後輩だからな。あいつの厄介な悪巫山戯癖を受け継いでいるのかと思った」
腹を抱えて笑いながらも宮本は「企みなんて無いから教えて下さいよ」と言った。
「そしたら牧野に喧嘩腰の女の情報、教えますから」
「………………………………ほぅ」
低く唸ると「怖っ」と宮本がわざとらしく首を竦めてみせる。
「たぶん、先輩たちの婚約とは関係無いと思いますけど。あ、遅くなりましたけど、婚約おめでとうございます」
ありがとうと頷きながらも、小さく嘆息した。
俺たちの婚約を嗅ぎ付けた何処かの誰かが余計な真似をしているのか、と一瞬は懸念したからだ。
俺の不安を察したのか、「本当に違うと思いますよ」と宮本は笑いを引っ込めて言った。
「恋愛問題には違いないと思いますけど。進藤先輩は関係無い揉め事ですよ。寧ろ、進藤先輩の存在が明るみになったら逆に解決するかも」
一体どういうことだと聞くと、宮本はニッと笑みを浮かべて教科書の一点を指し示した。
「そこはほら。まずはこっちのテスト勉強に付き合って下さいよ」
そのやり取りを話して聞かせると茜さんは、はふ、と呆れた表情で嘆息した。
「やっぱり、蛙の弟は蛙ね」
以前聞いた話を元に考え、そうでしょうかと首を捻る。
「確かに正面切った動きではないですけど、俺を動かしてどうにかしようという印象はありませんでしたよ。何故俺に言うのか聞いても、あっさり理由を話してましたし」
『その女ね、今度の中間で牧野だけじゃなく知佳にも勝負を吹っ掛けるつもりだそうなんですよ。知佳は常に上位十位以内に入ってるし、牧野も大抵上位者の発表に名前が載ってるから大丈夫だと思うんですけど。やっぱり面白くないんですよ、俺は。だから今回は牧野にも順位を上げてもらって、徹底的に敗北させてやりたいんです。あのツインテール振り乱して、キーキー悔しがらせたいんですよ』
だから俺に結香のサポートをさせたいのだろう、と宮本の考えを話すと茜さんは少し安心したように息をついた。
「まぁ、あの陰険竜よりはマシかもね」
階上の気配を探ってから、「その人ですが」と少々抑えた声で切り出す。
「ウチの爺さんが海外に送った以上、数年は帰国出来ないですよね」
そうね、と茜さんは頷くのを確認して更に問う。
「あのカフェはどうするんですか?」
少し目を見張ってから「臆測だけど」と茜さんも声をひそめる。
「あの人が日本を離れるのは別に珍しいことじゃないから、たまに様子見に来る人くらいはいるはずよ。帰国したらまたひょっこり店を開けるでしょう」
そうですかと頷く。
「それなら良かった。あの店は結香が気に入っていたから、閉店になったら落胆しますから」
「あなたたちがまたあの店に行く話が出る前に、東京に行ってるかもしれないのに?」
茜さんにとっては天敵以上の人物に関わる話題なのに表情は穏やかだ。今確実に海外に居る。そして滅多に帰国出来ない。その二点で心から安心しているのだろう。
「その人が海外から簡単に帰国出来ないのなら、茜さんも高原さんと入籍出来るんじゃないですか?」
そう言うと茜さんの笑い声が止んだ。
「茜さんが嫁に行こうとしても、地球の裏側から高原さんに手を出すことは出来ないんじゃないでしょうか」
表情に不満や怒りが見えないので重ねて言うと、「方法が全くないわけじゃないわ」と視線を落として呟く。
「あの男はね。末恐ろしい男なの。警戒に警戒を重ねようが、それを平気で軽く凌駕するのよ」
過去を思い出したのか、ふーっと茜さんは長い息をついた。
「あたしだって、毎回やられてたわけじゃないわ。数回はあの男を出し抜いたこともあった。でも、そんなときも喜びに浸れるほど圧勝したわけでもない。あの人は、確かに頭が良くて強い。でも、他に底知れない何かを持っている。あたしは、それが怖いのよ」
まだ五月だというのに日中は既に夏前のように暑い日もある。
だが俺は敢えて茜さんの湯飲みに緑茶を淹れて差し出した。
ありがとうと受け取った茜さんは、指先を温めるように両手で湯飲みを包んで中を覗き込んだ。底に描かれた青い兎の柄に、ふっと薄く笑みを浮かべる。
「ありがとう。温かいわ」
呟くように囁くと一口飲み、ほぅと息をつく。
「美味しい。お茶淹れるの上手ね」
ありがとうございますと言う前に、茜さんは先程と比べればかなり穏やかな笑みを浮かべた。
「こうして夕弦くんがサポートしてくれるなら、その小うるさい小娘の件は任せて大丈夫かしら?」
頷くと茜さんは微笑みを浮かべたまま、そう、と頷いた。
俺が「先程の件ですが」と言うと、目を瞬いて首を傾げる。
「検討してもらえませんか?」
少し間を置いて入籍の件だと思い至った茜さんは、小さく吹き出した。
「もしかして、また彼に頼まれたの?」
首を横に振って否定する。
「結香が気にかけているからです。茜さんが考えた上で結論を出したことは解っていても、やはり理由を知りたい。でも」
「どう聞いたらいいか解らないし、そもそも踏み込んで聞いて良いのか悩む」
そんなとこ?と首を傾げる茜さんに頷くと、穏やかに微笑んだ。
「本当に、結香は優しい良い子ね」
「その結香の気がかりを減らしてくれませんか。結局は茜さんの結論通りになるかもしれないけど、結香だって茜さんの悩みを聞きたい筈です」
勿論、ハルさんや信夫さんも娘を心配している筈だと付け加えるのを静かに聞いていた茜さんは、ふーっと長い息をつくと湯飲みの残りを一気に飲み干した。
極々小さな声が「わかった」と確かに聞こえて、俺は思わず嘆息した。
「差し出がましいことを言いました」
すみませんと謝ると「ナニ言ってるの」と苦笑される。
「義弟にあんな言い方で説得されたら、折れるしかないでしょ。妹大好きなお姉ちゃんとしては」
さすが、突くポイントを心得てるわね。といつもの好戦的な笑みを浮かべる茜さんにすみませんと言いつつも、内心安堵する。
安堵ついでに思いだし、「茜さん」と呼ぶと「なぁに」と返事が返ってきた。
「今度恩師の結婚披露パーティーに出席するのですが」
「らしいわね」と軽く頷く茜さんに内心で一息ついてから切り出した。
「結香のドレスを俺が見繕ってはいけませんか」
茜さんは一瞬きょとんと呆けた後、ケラケラと笑い転げた。
「ゆっ………夕弦くんっ、にもっ……そぉゆー願望、あったのねっ………」
腹が捩れるほど笑い転げる茜さんがスツールから落ちやしないか見守っていると、息も絶え絶えに「はぁっ、笑った!」と息を整えた。
「あたしだってそういう男のロマンがあるって解ったから、やりたいってんならどうぞ?ただし」
言葉を途中で切ると茜さんは再び好戦的な目で俺を真っ直ぐ見た。
「それこそ産まれる前から愛でてきたあたしのブランド以外で結香をうんと可愛く愛らしく飾れるか。夕弦くんのお手並み拝見、ね?」
挑むように言い放つ茜さんに、やはりと頷く。
「やはり、茜さんのブランドは結香の為のモノだったんですね」
当たり前じゃない、と茜さんは胸を張った。
「他に誰のために服なんて作れと言うの」
茜さんの結香に対する愛情を疑うわけではないので、軽く首を横に振った。
「自分でもたまに呆れるけど、あたしはこの二十年近く、結香のために生きてきたようなものなの。そんなあたしから結香を取るんだから、全力で守って大切にしてよね」
当然ですとしっかり頷くと、茜さんは満足そうに微笑んだ一瞬後にからかうような笑みに切り替えた。
「そして、大切な結香を取り上げるんだから。気晴らし代わりに楽しませて頂戴。夕弦くんが結香をどう飾るか」
プロに喧嘩を売ったのだ。
心してかからねばと頷くと「でもねぇ」と茜さんは困ったような表情を浮かべた。
「会場って近所でしょ?いくら自分好みに仕立ててもそこら辺のラブホに連れ込まない程度に手を抜いてね?」
「は」
ラブホなどという言葉がさらりと出たことに今度は俺が呆けた。
「この近隣で抱こうなんて発想は、俺にはありませんよ」
首を振って言うと、「そう?なら良かった」と茜さんは明るく笑った。
「あぁいうのって速効で周りにバレるから。恥ずかしい思いするのは結香の方だからね。そこのとこ重々承知してね?」
こくこくと頷いていると、「賑やかだね」と降りてきた結香が俺の顔を見て首を傾げた。
「そんなに急いで食べて。何かあるの?」
んぐっと飲みこんで頷いた。
「今日ね、貸し出しの当番だから。このあと説明聞きに行くんだ」
へぇと知佳ちゃんが相槌を打つ近くで「しまったぁぁっ」と叫び声があがった。
慌てた拍子に倒した物を手早く片づけると、その人は足早にこちらに向かってきた。
「牧野っ。今日の当番は俺が行くから!」
「え。でも」
今日のスケジュールが出たときに都合を聞いたら「塾の申し込みされてて、行かなきゃどやされるんだよな」と嘆いていたはず。
それを言うと、その人は「しまったぁぁっ」ともう一度頭を抱えた。
「やべぇ。どっちも怖ぇ。詰んだ。俺、詰んだよ」
深刻そうに何かを呟いている。おーいと呼びかけても聞こえてないみたいだった。
やっぱり大学受験は今の時期から力を入れて取り組まないといけないらしい。私一人で全部引き受けるわけにもいかないけど、できるだけ私が担当しないとね。
「今日は私行ってくるよ!仕事の流れとかたくさんメモしてくるから任せて!」
「いや!俺も行く!行くから!」
ちゃんと教わった内容をメモして明日にでも伝えるねと言ったのに、思いきり首を横に振られてしまった。
「私、ちゃんとメモとれるのに………」
「本人が行くって言ってるんだから、行かせてあげれば?」
頬を膨らませる私の肩を、ため息をついた知佳ちゃんがポンと叩いた。
「そしてやはりお前は居るのか………」
なぜかがっくり肩を落とす同級生に「ども」と男の子は金色の頭を下げた。
当番の流れを説明してくれた子は、やっぱり修復の腕前を買っているようだった。目立つ頭を気にしながらも「頼むね」とぎこちなく笑って、さっき帰ったばかり。
私はカウンターに座って黙々と勉強したり本を探している人を眺めながら、作業の合間にボソボソと交わされる男の子たちの会話をなんとなく聞いている。
見たところ本を借りる人はいなさそう。こういうときが修復するチャンスかもと頭では解ってるんだけど、綺麗に修復しながら図書室全体を見渡すって意外に大変。
「牧野。修復は俺らがやるから、無理するなよ」
初めての当番と慣れない作業に、地味に身体を強張らせているのがバレたらしい。
後ろから囁き声で呆れられた。
「うん。でも、本当に大丈夫なの?塾に行かなくて」
受験のために授業料を払ってるんだから、行かないとかなり怒られると思うんだけど。
貸し出しの当番は二クラスで担当する。一クラス二人いる委員のうちどちらかが図書室に来ればいいことになっているし、一年生の方も今日は二人とも来ている。
委員は私を含めて三人いるし仕事も少ないみたいだから、抜けて塾に行っても大丈夫だと思う。
そう言って勧めたけど、同級生はぶるぶると首を振った。
「塾にはこれ終わってから行く」
でも、と言いかける私を同級生は片手を掲げて止めた。
「先日はダブルの脅威に動揺したが、よくよく考えればどっちがヤバいか明白だった。仮にも腹を痛めて産んだ息子。説教と拳固で済む方が良いに決まってる」
「うん?」
よく解らないけど、同級生は何かを悟ったかのように何度も神妙に頷いて作業に戻ってしまった。
職員室に鍵を返してから、四人でぞろぞろと廊下を歩く。
「終わった………無事に終わって良かった………」
心から安堵したようにため息をつく同級生に、そうだねと頷く。
「今まで借りてるときになんとなく見てたからできるような気でいたけど、実際にやってみると緊張するね」
「緊張は緊張だが、俺のはそういう緊張じゃねぇ」
なぜか怒ったように言うと、ハッと身体を揺らして急に辺りを見渡し始めた。
どうしたのと聞くと「警戒してるんだよ」と通り過ぎる教室の中や後ろを振り向きながら応えられた。
「警戒?何を?」
「お前、あんな強烈なのを忘れたのか」
一瞬呆れたように私を見下ろしたけど、すぐに少し離れた後ろを歩いていた男の子をビッと指差した。
「こいつがここに居るんだぞ。あのツインテールが突撃してくるかもしれないだろうが。二度あることは三度あるんだぞっ」
「そ、そんなことは」
ないんじゃない?と言いかけるのを「いーやっ、絶対あるっ。ヤツは来るっ」と遮って辺りを警戒する同級生に「あぁ」と一年生の男の子が何か納得したような声をあげた。
「アスカなら、来ないッスよ」
「何ィっ!??」
驚きで大きな声をあげて、同級生は一年生の男の子を振り仰いだ。
「お前~……それ早く言えよ。知ってたら塾行ったってのに」
「すみません」
一年生が金髪の頭をぺこりと下げると、仕方ないなぁというように同級生はため息をついた。
「まぁいいや。俺も委員なんだし。で?何でツインテール来なかったんだ?病欠か?」
聞かれた一年生たちはふるふると首を横に振る。
無言の男の子をチラリと見上げてから、あの、と女の子が口を開いた。
「もうすぐ、中間だから、勉強するって」
「あぁ。そりゃ良い心掛けだな。初対面がアレだから、意外っつーか疑わしいっつーかなんか裏があるような気がしてならんが」
正直過ぎる表現に「すみません……」と女の子が身体を縮ませる。
「や。別にお前が謝らんでもいいんだが」
縮こまって俯いてしまっている女の子に、困ったな、と同級生は頭を掻いた。
金髪の子と比べたら低いけど、自分より背が高い上級生の男の子が不満を表していたら、畏縮しちゃうよね?
そういえば、と鞄からお菓子を取り出して「ねぇ」と女の子に話しかけた。
「マシュマロとクッキーとチョコ、どれが好き?」
え。と私に振り向いた女の子に繰り返して聞くと「ま、マシュマロ?」と疑問形で答えられた。
「じゃあ、はい」
手を取って小分けになってるマシュマロを三つ乗せると「えっ」と目を見開かれた。
「も、貰えません。悪いです」
「え、いいよ」
マシュマロを片手に乗せたまま固まる女の子に、気にしないで受け取ってと言う。
「今日図書委員の当番だって言ったらみんなから貰ってしまったから。食べて?」
当番の合間のおやつとして貰ったんだけど、食べるタイミングを掴めなかった。そもそも図書室は飲食禁止だから、当番が始まる前に一緒に当番する人にお裾分けしようと思っていたのもすっかり忘れていたのです。
そう説明すると「相変わらずぼんやりだな」と同級生に苦笑されてしまった。それにごめんねと返して余ったクッキーとチョコを見せてどっちにする?と聞くと、迷わずクッキーの袋を取った。
「ごちそーさん」
いえいえ、と言いながら最後のチョコを男の子に渡そうとして、は、と気づく。
「えぇと、チョコ、食べれますか?」
なんか二人にはノリで配ってしまったけど、甘いお菓子は苦手で貰っても迷惑になってしまうかもしれない。それを無視して押しつけたら、上級生ぶってるってことになるかも。
心の中で焦っていると、目の前の学ランから「はい、まぁ」と声が響いた。
「えぇと……迷惑では、ない、ですか?」
確認のために聞き直すと「はい、まぁ」を繰り返される。
「で、では、どうぞ」
チョコの箱を両手で差し出すと「どうも」と受け取られる。
ハードなミッションを無事にクリアできた安心に息をついていると、「牧野」とため息混じりに呼ばれた。
「お前はナニさりげに騒ぎの種を蒔いてくれてんだ」
「へ」
じとっと睨まれて呆けた声を出す私を放って「あのな」と同級生は男の子に向き直った。
「こいつ、彼氏持ちだから。それは、ごくごく純粋に特別意味ないただのお裾分けだから。そこんとこよぉぉっく覚えとけよ」
念を押すように言われた男の子はしばらく同級生の目を見たあと、「はぁ」と言った。
「はぁ、じゃなくて。ちゃんと覚えとけよ。牧野が妙な絡み方されると堂々とここに乗り込んでくる人なんだからな」
そのあとも続く同級生の力説に男の子は「はぁ」と相槌を打っていた。その近くで私を珍しそうに見ていた女の子が「あ」と声をあげた。
「もしかして牧野先輩の彼氏って、あの人ですか?よく門の近くで待ってる背の高い……」
平常時の放課後に校門近くまで迎えに来る人ってあまりいないから、たぶん先輩のことかな。
私が考えている間に、先に同級生が「たぶんその人」と肯定してしまった。
わぁと女の子が明るい声をあげた。
「やっぱりその人なんですか。誰だろうって、クラスで話題になってたんです」
頭では仕方ないと解っていても胸がモヤッとする。やっぱり先輩が逆ナンに遭うのは嫌だ。
「マメにやって来て立ってるけど、無表情だからどういうモチベーションなのか解らないねって!」
「あ………そうなんだ………?」
想定してた会話とはちょっと違って、少し複雑ながらも安心してしまった。
女の子は、気になっていた人の正体が解って満足そうにニコニコしている。
「でも、先輩はどうしてあの人が牧野先輩の彼氏って知ってるんですか?」
「そりゃあの人もここの卒業生だからだよ。二人が付き合ってることは今年の三年と二年は大体知ってる」
そのうち一年生が高校生活に慣れて二年生や三年生と会話するようになったら、自然と知れ渡るだろう。
そう言われた女の子は目を輝かせて、先輩の話を聞きたがる。
見た目以上に格好良いことまで知られたら、先輩、一年生にもモテてしまうかも。
先輩について話す同級生と熱心に聞き入る女の子をハラハラしながら見ていると、上から「牧野先輩」と呼ばれた。
「は、い?」
見上げると男の子がじっと私を見下ろしていた。
怖い人ではないと解ってるんだけど、上からマジマジ見下ろされるとちょっと怖い。
何ですか、と聞く声が出なくて口がパクパクする。
男の子は少し私をじとっと見てから「牧野先輩の彼氏は」と口を開いた。
「何か、やってますか」
「な、何か?」
何かって何?と首を傾げていると男の子は口を開いて「柔道とか、合気道とか」と付け加えた。
なるほど、と頷いて、やってるよと答える。
「先輩はね、剣道をやってるよ。小さいときからやってて、すっごく強いんだって」
「あ?でも剣道部には居なかったよな、進藤先輩」
居たら試合の度に女子が煩かった筈だ、と首を捻る同級生を振り返る。
「うん。部活には入ってなかったけど、道場に通ってるんだよ。夏目先輩の特訓にも付き合ったんだって」
「うわ、マジか」
すごいでしょ?と話したのに同級生はなぜか口元を引きつらせた。
「夏目先輩て主将だった人だろう?身長低いからって油断してかかると速攻でやられてるっていう……そんな人の特訓に付き合うとか、やっぱり俺の目に狂いはなかった……」
なんだかよく解らないことを呟いていた同級生は、ハッと瞬きすると「あぁ、だからな」と一年生を振り返った。
「この二人、周りの人間がマジマジ見てても平気でイチャつける程の仲だから。牧野は進藤先輩一筋だって、特にあのツインテールに言っておけ」
「いっ!?イチャついてないよっ?」
精一杯の否定に、同級生はジト目で「ほぉぉぉぉう?」と声をあげる。
全然信じてもらえてない。
さらに主張しようと口を開きかけると横から「解りましたっ」と元気の良い声があがった。
「今あの子、猛勉強中だから話しても通じないと思うけど、必ず伝えますっ。任せてください、牧野先輩っ」
「う、うん?ありがとう?」
なんだかやる気に満ちた目を向けられたのでとりあえずお礼を言うと、任せてくださいと胸を叩かれた。
なぜかよしよしと頷いていた同級生は「しかしなぁ」と首を傾げた。
「あのツインテール、そんなに勉強熱心には見えなかったんだけど。ヒトって見かけによらないんだな」
それなんですけど、と女の子は少し申し訳なさそうな表情をした。
「なんかこの間怒られたのが嫌だったみたいで、猛勉強して中間の成績で勝つって言ってるんです。あの………生徒会長と、その………牧野先輩に」
「えぇっ?」
驚く私の隣で、「何だそりゃ」と同級生は呆れ返った声をあげた。
「テストの成績なんてどうやって競うんだ。総合点ならともかく、詳しい点数なんて本人しか解らんだろう。そもそも、学年が違うんだから競うこと自体無理だろう」
「いや、具体的にどうするつもりなのかは私も知らないんですけど」
困ったように眉尻を下げる一年生に「そりゃそうか」とため息をついてから、同級生は呆れた口調で言った。
「とりあえず本人やる気になってこっちに来なきゃいいだけなんだけどな。一応言っとくけど、先生にこいつらの成績教えてもらおうとしても無駄だぞ。いくら校内の人間相手でもそんな情報、先生が漏らす筈無いからな」
女の子は本当に困りきった様子で、「言っておきます。はい」と恐縮していた。
なんだか申し訳ないので、キャンディを追加であげた。
呼ぶ前に顔を上げた先輩はゆっくり破顔して手を上げた。そして両手を広げて、おいでと微笑みかける。
「結香。おかえり」
「た、ただいま、です。遅くなるのに、迎えに来てくれたんですか?」
私を抱き寄せた先輩は不思議そうに小首を傾げた。
「遅くなるから迎えに来たんだろう?」
「う」
知佳ちゃんにも言われてるけど、こういうところ、先輩は私に甘いと思う。
先輩だって忙しいんだし、時間をとらせるのも申し訳ないと思う。
でも、一度迎えに来なくても大丈夫ですよと言ったら「何故だ」と本当に首を傾げられ。やり取りをしているうちに、なぜか……た、たくさん抱きしめられたりきき、キス、されたりして迎えは続行されることになってしまった。
あ。思い出したら頬が熱くなってきちゃった。
「どうした、結香。頬が紅い」
風邪か?とさらに顔を近づけられるので、ブンブンと首を振った。
「だ!いじょぶですっ。あの、迎えに来てくれて、ありがとうございます」
うんと頷いた先輩は安心したように微笑んだ。そして片手を腰から外して優しく髪をすく。
「―――ほら。言った通りのラブラブだろ。余計な八つ当たりで迷惑かけんなって、ツインテールに言っとけ」
「い!!?」
突然ハッキリと聞こえた声に驚いて首だけ振り返ると、ちょっと前まで一緒に当番してた面々が並んでこちらをじーっと見ていた。
ひぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!
見られた、見られた!いや、今も見られてるけど!
恥ずかしすぎる!!!
「結香。その振り向き方をするとまた首を痛める」
「だ!だいじょぶですっ。先輩っ、ちょっと離してくださいっ」
痛めてないか確認しようと首を触ってくる先輩の手を避けて、ついでに恥ずかしいから離してと暴れると、先輩はちょっと不満そうな表情を浮かべた。
「何故だ」
「あ」
マズい。
これは迎えいらないと言ったときの表情。
このあとの流れを予想した私は必死で「あのですね」を繰り返した。
「首は無事ですしっ。みんな見てるから、恥ずかしいんですっ」
叫ぶ私をじっと見ていた先輩は、納得してくれたみたいだけど「しかしな」と口を開いた。
「見てるも何も、最初からそこに居たぞ」
「うっ」
そりゃ一緒に行動してたんだから近くにいても当然なんだけど、だからといって先輩に抱っこされてるのを見られるのは恥ずかしいわけで。
でも、先輩はお構い無しで三人に目を向けて「図書委員か」と聞いてくる。
そうなんです、と頷きながらなんとか自然な流れで抱っこから抜けたいな、と方法を頭の中で探していると「それで」と先輩は再び笑顔を浮かべて私を覗きこんだ。
「迷惑なツインテールとは、誰だ?」
「へ」
突然の話題変換に呆ける私から答えは出ないと判断したのか、先輩は後ろの三人に向かって「誰だ」と聞き直した。
話が話だけに説明しづらいのか「えぇと……」とか「あー……あのですね」とか、同級生と女の子の困ったような声が聞こえる。
「せっ!先輩っ!」
目の前のシャツを掴むと「うん?」と先輩の声が降ってくる。なぜだろう。声は優しいのに、私は心臓がばくばくするしなんか妙に汗をかいている気もする。
でも、必死に口を動かす。
「かっ、帰りましょうっ?」
うん?と聞き返す先輩の声は優しい。
「帰るのか?」
見詰めてくる目もきっと優しいはずだけど、今の私に見上げる余裕や勇気はなかった。
握ったシャツだけを見て「はい、帰りましょう」と繰り返す。
「わ、私っ。中間テストなんですっ。そうだ、教えてほしいとこがあって!」
視界の端にあった太い腕に抱きついて教えてくださいと引っ張ると、上から微かな笑い声が聞こえた。
「解った。じゃあ、帰るか」
「はいっ。帰りましょうっ」
先輩が頷いてくれたのに安堵して三人を振り返る。
「それじゃ、お先に!また明日!」
一生懸命腕を引く私に、先輩はクスクス笑い声をたてながらゆったり歩く。
しばらく歩いて三人からだいぶ離れたはずと心の中で安堵のため息をついていると右の頬にふわっと温もりを感じて「結香」と呼ばれた。
「帰ったら、お仕置きだ」
「ぴっ」
甘い声で宣言されて固まる私に、先輩は楽しそうに笑い声をあげる。引かれてた腕をゆっくり抜くと、その腕で私の腰を抱いて「さ、早く帰ろう」と笑顔で促した。
大丈夫?と知佳ちゃんは私の顔を覗きこんだ。
その目が本当に心配しているときの目で、嬉しくてついニヘッと顔が崩れる。
「大丈夫。ちょっとこの前のおしお……勉強会がねっ、なかなか白熱しててっ」
「………うん。ものすごく想像ついたからいいわ、もう。ほとんど言っちゃってるし」
うぐぐと唸る私を放って、知佳ちゃんはノートや筆箱を取り出す。
今日からテスト期間に入ったので、早速私の家で勉強会をすることになった。
宮本くんは呼ばなくていいの?と聞くと、いーの、と知佳ちゃんはさらりと言った。
「無理やり来ようもんならピーマンとしいたけを延々食べさせてやると言ったら、大人しく帰っていったわ」
「そ、そうなの………………?」
すれ違いざまに見かけた宮本くん、すごく肩を落としてふらついていたんだけど。
いいからさっさと始めましょうと促されて、私も教科書を開く。
総合点ではいつも知佳ちゃんの方が上だから私が教えてもらうことが多いんだけど、今日は私もちょっと教えることができた。
「結香、今回はいつもより頑張ってるんじゃない?かなり良い点取れちゃうかもね」
感心する知佳ちゃんに、自分でもそうかもと思えてきた。
「先週のうちに授業で解らなかったところを先輩に教わったから、自分でもちょっと自信あるんだ」
えへへと笑う私に、へぇと知佳ちゃんが感心したように唸った。
「ちゃんと勉強してたのね。イチャついてるだけかと思ったけど」
「いっ………してないよっ」
私の否定を「ま、それはいいんだけど」と知佳ちゃんは取り合ってくれない。
「高校生としては正しい行動なのかもしれないけど、あんまり点数取りすぎるのも考えた方が良いわよ?成績の関係で受験校見直さなきゃいけない人たちの反感買うかもしれないし、去年みたいに学年主任に進路変えろって言われるかもしれないじゃない?」
去年の今頃はかなり呼び出されて億劫だったから、そうだけど、と肩をすくめた。
「なんか勝負を挑まれるかもと思うと、しっかり準備しないと落ち着かないんだもん」
「勝負?誰があんたに勝負挑もうって言うの」
訝しげに小首を傾げる知佳ちゃんに一年生のことを話すと、ふぅんと目を細めた。
「放っとけば。本人から勝負しようって言ってきてるわけでもないんだし、勝手にやらせておけば」
素っ気なく言ったあと、「くっだらない!」と不機嫌な声で付け加えてお煎餅をバリッと噛んだ。
目を紡錘ってもぐもぐと口を動かす度に眉間の縦ジワが薄くなっていく。
それを見守りながら心の中で安心していると、「あ、そうだ」とパチッと目が開いた。
なに?と聞くと「ちょっと待って」と言いながら鞄の中を手で探って「あった、あった」と弾んだ声をあげた。
はい、と渡されたものを見ると一枚のDVDだった。
「あ、もしかして結婚式用の?もうできたの?」
そう、と頷く知佳ちゃんの顔は柔らかな笑顔だった。
「それ、先生に渡してくれる?」
「うん。知佳ちゃん、ありがとう」
どういたしましてと微笑んだ知佳ちゃんは、やっぱり少し照れたみたいで「さ、休憩終わりっ」と紅い顔で声を張りあげた。
「でも結香。今回は本当に調子良さそうね」
みんなテスト前ともなると恐々としているのになぜ私一人元気なのか、知佳ちゃんは首を捻った。
「そりゃ元気になるよ。テスト前だから本の貸し出しもないし、あの怖い子と会わなくて済むもん。もっと頻繁にテスト期間作ってくれないかなぁ」
自分がそうだから、基本的に用事がない限り他の学年の階に行く人はいないと思っていた。
でも、それは違ったらしい。
一人で廊下を歩いてるときに限ってあの女の子がにゅっと現れて「私、負けませんから」と言って走り去る。
ちょっと怖い。
わりと本気でため息をつく私に、知佳ちゃんは「はぁぁぁぁぁっ」とそれを凌ぐ大きな大きなため息を口から吐いた。
「気持ちは解るけど、それ、口外しない方が良いわよ?受験組の反感ただ買うだけだから」
「うっっっ……………!!!」
思わずヘラっと浮かべてた笑顔を圧し殺す私を見て、知佳ちゃんはもう一度小さくため息をつくと「とにかく、勉強の続きする?」と少し優しい声で言った。
◆ 茜さんはやはり手強い ◆
珍しく早めに帰宅した茜さんが、俺を見て目を丸くした。
「夕弦くん?そこで何をしているの?」
「おかえりなさい、茜さん。台所お借りしています」
うん。それはいいんだけど。と言いながら茜さんは俺が何故牧野家の台所に居るのかを重ねて尋ねた。
「ハルさんのパートが延びることになりまして。夕飯当番が急遽結香に廻ってきたので俺が代わりに作ることにしました」
結香は自室で勉強していると言えば、茜さんは深く嘆息して額を押さえた。
「なんというかもう………お母さんが甘えちゃってごめんなさいね」
作業を進めながら首を振る。
「いえ。結香には栄養をつけてもらってテストを頑張ってもらいたいので」
うん?と首を傾げかけた茜さんは、あぁ、とすぐに納得したような息をついた。
「あの悲劇のヒロイン気取りちゃんのこと?夕弦くん、もう知ってるの」
卒業してだいぶ経つのに、よく気づいたわね。
そう言ってOGでもない茜さんはふふふと笑った。
宮本に聞いたと言えば、なるほどと頷く。
陽の畑仕事を手伝っている宮本に気付いたのは、テスト期間に入る結香に無理しない程度に頑張れと言って家に送り届けて家に戻った直後だった。
「お前はテスト勉強をしなくていいのか」
おかえりなさい、進藤先輩。
草むしりの体勢のままへらりとそう言った宮本に思わず聞くと、はぁ、と息をつきながら顔の汗を乱暴に拭った。汗は拭けたようだが、所々に土がついた。
「テスト勉強の一休みですよ。一応ちゃんとやってますって」
指差す先の客間の長机の上には、確かに勉強の道具が広がっていた。
「毎度のごとく水瀬にフラれまして。一人で家でやってたら無駄に寂しくなってきたんでここでやらせてもらおうと思いまして」
何故わざわざ俺の家に来たかと問えば「陽が居るんで」とあっさり即答された。
「お邪魔するお詫びに何でも手伝いしますよ、と言ったんですけど」
「宮本さんが勉強すんのと一緒におれが宿題終わらせたから、母さんが喜んで。夕飯も食べていってもらおうってことになった」
陽が代わりに説明すると宮本が恐縮したように「すみません」と苦笑した。
毎晩終わってるのか恐々とさせる陽の宿題が既に終わってるとは有り難い。勉強場所の提供と夕飯がその礼になるなら安いものだが、他家で夕飯を摂ることについて家から文句は言われないだろうか。
確認の為聞いてみると「あれ。俺、進藤先輩に言ってませんでしたっけ」としゃがんだまま、膝に肘をついて頬杖をついた。
そんな体勢を取れば確実に土まみれになるのだが、それには頓着しないらしい。
「俺、兄と二人暮らしなんですけど、最近兄が長期で海外に行くことになって、今は一人暮らしなんですよ」
それなら存分に食べてくれと言ったところで、母さんが夕食が出来たと知らせに畑まで出てきた。俺の顔を見て「あら、帰ってたの」と目を丸くした。
「聞いた?今日は宮本くんもお夕飯一緒にしてもらおうと思って―――あらやだ」
言葉の途中で振り返った母さんは、大変、と笑い声を立てた。
「宮本くん。顔、真っ黒よ?」
「へ?―――あ。ヤベ」
土いじりをしていた手で顔を触っていたことに今更気付いたらしい。
笑いながら「なんなら陽とお風呂に入っちゃう?」と聞いた母さんに、苦笑いで宮本は断って外の水道でザブザブと顔を洗った。
次の日も客間でノートを広げる宮本に「夕食目当てか?」と聞くと違うと苦笑した。そして、勉強を教えてくれと言った。
先日結香に教えた箇所なので教えること自体は大したことではないが、宮本が俺に教えてくれと言ってくることがどうにも妙だ。
答えに悩む俺を見て宮本は思い切り吹き出した。
「何だ。やはり何か企んでいるのか」
「企みなんて無いですよ。やはりって何ですか」
ひでぇなぁと笑う宮本に一応すまんと謝った。
「お前も光司の後輩だからな。あいつの厄介な悪巫山戯癖を受け継いでいるのかと思った」
腹を抱えて笑いながらも宮本は「企みなんて無いから教えて下さいよ」と言った。
「そしたら牧野に喧嘩腰の女の情報、教えますから」
「………………………………ほぅ」
低く唸ると「怖っ」と宮本がわざとらしく首を竦めてみせる。
「たぶん、先輩たちの婚約とは関係無いと思いますけど。あ、遅くなりましたけど、婚約おめでとうございます」
ありがとうと頷きながらも、小さく嘆息した。
俺たちの婚約を嗅ぎ付けた何処かの誰かが余計な真似をしているのか、と一瞬は懸念したからだ。
俺の不安を察したのか、「本当に違うと思いますよ」と宮本は笑いを引っ込めて言った。
「恋愛問題には違いないと思いますけど。進藤先輩は関係無い揉め事ですよ。寧ろ、進藤先輩の存在が明るみになったら逆に解決するかも」
一体どういうことだと聞くと、宮本はニッと笑みを浮かべて教科書の一点を指し示した。
「そこはほら。まずはこっちのテスト勉強に付き合って下さいよ」
そのやり取りを話して聞かせると茜さんは、はふ、と呆れた表情で嘆息した。
「やっぱり、蛙の弟は蛙ね」
以前聞いた話を元に考え、そうでしょうかと首を捻る。
「確かに正面切った動きではないですけど、俺を動かしてどうにかしようという印象はありませんでしたよ。何故俺に言うのか聞いても、あっさり理由を話してましたし」
『その女ね、今度の中間で牧野だけじゃなく知佳にも勝負を吹っ掛けるつもりだそうなんですよ。知佳は常に上位十位以内に入ってるし、牧野も大抵上位者の発表に名前が載ってるから大丈夫だと思うんですけど。やっぱり面白くないんですよ、俺は。だから今回は牧野にも順位を上げてもらって、徹底的に敗北させてやりたいんです。あのツインテール振り乱して、キーキー悔しがらせたいんですよ』
だから俺に結香のサポートをさせたいのだろう、と宮本の考えを話すと茜さんは少し安心したように息をついた。
「まぁ、あの陰険竜よりはマシかもね」
階上の気配を探ってから、「その人ですが」と少々抑えた声で切り出す。
「ウチの爺さんが海外に送った以上、数年は帰国出来ないですよね」
そうね、と茜さんは頷くのを確認して更に問う。
「あのカフェはどうするんですか?」
少し目を見張ってから「臆測だけど」と茜さんも声をひそめる。
「あの人が日本を離れるのは別に珍しいことじゃないから、たまに様子見に来る人くらいはいるはずよ。帰国したらまたひょっこり店を開けるでしょう」
そうですかと頷く。
「それなら良かった。あの店は結香が気に入っていたから、閉店になったら落胆しますから」
「あなたたちがまたあの店に行く話が出る前に、東京に行ってるかもしれないのに?」
茜さんにとっては天敵以上の人物に関わる話題なのに表情は穏やかだ。今確実に海外に居る。そして滅多に帰国出来ない。その二点で心から安心しているのだろう。
「その人が海外から簡単に帰国出来ないのなら、茜さんも高原さんと入籍出来るんじゃないですか?」
そう言うと茜さんの笑い声が止んだ。
「茜さんが嫁に行こうとしても、地球の裏側から高原さんに手を出すことは出来ないんじゃないでしょうか」
表情に不満や怒りが見えないので重ねて言うと、「方法が全くないわけじゃないわ」と視線を落として呟く。
「あの男はね。末恐ろしい男なの。警戒に警戒を重ねようが、それを平気で軽く凌駕するのよ」
過去を思い出したのか、ふーっと茜さんは長い息をついた。
「あたしだって、毎回やられてたわけじゃないわ。数回はあの男を出し抜いたこともあった。でも、そんなときも喜びに浸れるほど圧勝したわけでもない。あの人は、確かに頭が良くて強い。でも、他に底知れない何かを持っている。あたしは、それが怖いのよ」
まだ五月だというのに日中は既に夏前のように暑い日もある。
だが俺は敢えて茜さんの湯飲みに緑茶を淹れて差し出した。
ありがとうと受け取った茜さんは、指先を温めるように両手で湯飲みを包んで中を覗き込んだ。底に描かれた青い兎の柄に、ふっと薄く笑みを浮かべる。
「ありがとう。温かいわ」
呟くように囁くと一口飲み、ほぅと息をつく。
「美味しい。お茶淹れるの上手ね」
ありがとうございますと言う前に、茜さんは先程と比べればかなり穏やかな笑みを浮かべた。
「こうして夕弦くんがサポートしてくれるなら、その小うるさい小娘の件は任せて大丈夫かしら?」
頷くと茜さんは微笑みを浮かべたまま、そう、と頷いた。
俺が「先程の件ですが」と言うと、目を瞬いて首を傾げる。
「検討してもらえませんか?」
少し間を置いて入籍の件だと思い至った茜さんは、小さく吹き出した。
「もしかして、また彼に頼まれたの?」
首を横に振って否定する。
「結香が気にかけているからです。茜さんが考えた上で結論を出したことは解っていても、やはり理由を知りたい。でも」
「どう聞いたらいいか解らないし、そもそも踏み込んで聞いて良いのか悩む」
そんなとこ?と首を傾げる茜さんに頷くと、穏やかに微笑んだ。
「本当に、結香は優しい良い子ね」
「その結香の気がかりを減らしてくれませんか。結局は茜さんの結論通りになるかもしれないけど、結香だって茜さんの悩みを聞きたい筈です」
勿論、ハルさんや信夫さんも娘を心配している筈だと付け加えるのを静かに聞いていた茜さんは、ふーっと長い息をつくと湯飲みの残りを一気に飲み干した。
極々小さな声が「わかった」と確かに聞こえて、俺は思わず嘆息した。
「差し出がましいことを言いました」
すみませんと謝ると「ナニ言ってるの」と苦笑される。
「義弟にあんな言い方で説得されたら、折れるしかないでしょ。妹大好きなお姉ちゃんとしては」
さすが、突くポイントを心得てるわね。といつもの好戦的な笑みを浮かべる茜さんにすみませんと言いつつも、内心安堵する。
安堵ついでに思いだし、「茜さん」と呼ぶと「なぁに」と返事が返ってきた。
「今度恩師の結婚披露パーティーに出席するのですが」
「らしいわね」と軽く頷く茜さんに内心で一息ついてから切り出した。
「結香のドレスを俺が見繕ってはいけませんか」
茜さんは一瞬きょとんと呆けた後、ケラケラと笑い転げた。
「ゆっ………夕弦くんっ、にもっ……そぉゆー願望、あったのねっ………」
腹が捩れるほど笑い転げる茜さんがスツールから落ちやしないか見守っていると、息も絶え絶えに「はぁっ、笑った!」と息を整えた。
「あたしだってそういう男のロマンがあるって解ったから、やりたいってんならどうぞ?ただし」
言葉を途中で切ると茜さんは再び好戦的な目で俺を真っ直ぐ見た。
「それこそ産まれる前から愛でてきたあたしのブランド以外で結香をうんと可愛く愛らしく飾れるか。夕弦くんのお手並み拝見、ね?」
挑むように言い放つ茜さんに、やはりと頷く。
「やはり、茜さんのブランドは結香の為のモノだったんですね」
当たり前じゃない、と茜さんは胸を張った。
「他に誰のために服なんて作れと言うの」
茜さんの結香に対する愛情を疑うわけではないので、軽く首を横に振った。
「自分でもたまに呆れるけど、あたしはこの二十年近く、結香のために生きてきたようなものなの。そんなあたしから結香を取るんだから、全力で守って大切にしてよね」
当然ですとしっかり頷くと、茜さんは満足そうに微笑んだ一瞬後にからかうような笑みに切り替えた。
「そして、大切な結香を取り上げるんだから。気晴らし代わりに楽しませて頂戴。夕弦くんが結香をどう飾るか」
プロに喧嘩を売ったのだ。
心してかからねばと頷くと「でもねぇ」と茜さんは困ったような表情を浮かべた。
「会場って近所でしょ?いくら自分好みに仕立ててもそこら辺のラブホに連れ込まない程度に手を抜いてね?」
「は」
ラブホなどという言葉がさらりと出たことに今度は俺が呆けた。
「この近隣で抱こうなんて発想は、俺にはありませんよ」
首を振って言うと、「そう?なら良かった」と茜さんは明るく笑った。
「あぁいうのって速効で周りにバレるから。恥ずかしい思いするのは結香の方だからね。そこのとこ重々承知してね?」
こくこくと頷いていると、「賑やかだね」と降りてきた結香が俺の顔を見て首を傾げた。
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