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番外編

初東京、ドタバタ旅

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  出口に向かおうとしていると、肩を叩かれた。
  振り返って思わず、あ、と口を開ける私にその子は笑いかけた。
「また、会ったね。昨日はありがと」
  助かったよ、と言うその子に首を横に振る。
「ううん。鉛筆貸しただけだもん」
「でもリアルに助かったし。ね、お礼させてよ」
  気持ちは嬉しいけど鉛筆一本でお金を使わせるのは申し訳ないので断ると、その子はうーんと首を傾げた。
「じゃあ、単純にお茶しない?」
「ごめんなさい。このあと予定があって」
  申し訳なさに眉尻を下げると、そっかと頷かれた。
  でもせっかくなので出口までお喋りしながら歩く。ゆっくり出たはずだけど、まだ帰る人で賑わっている。
「東京って人が多いんだね」
  建物の外の道に元々通行人が多いからみんな外に出れないんだろうと思って言うと、一緒にここまで来た女の子は首を傾げた。
「そうかな。終わって結構経つのにここまで人がはけてないってのはなんか変だよ」
  そうなんだ、と頷きながら人の波に乗って少しずつ移動する。まだ別れの挨拶をしてないのでその子と離れないように気をつけて動いているといきなり腕をガシッと掴まれた。
「ふぇっ!?ぁ、先輩っ?」
  掴まれた腕の先に先輩の顔が見えて、驚きと安心とで大きな声をあげてしまった。
「え、なに?知り合い?」と聞いてくる女の子に頷く。
「うん。一緒に来てて」
  ふーん、と頷きながら私たちの顔と掴まれたままになっている腕とを観察した女の子は「っていうか」と口を開いた。
「『私の彼氏だから見ないで』くらい言わないと、この人ゴミはけないよ?」
  私の悲鳴は、周りの悲鳴と舌打ちの音にかき消された。


「うぅぅ………恥ずかしかったよ………」
  何度目かの同じ独り言を呟いて熱い頬をペチペチ叩く。
「ごめんて」と言いながら女の子はズーッと飲み物を啜った。
  あの後。入り口近くに佇んでいるイケメン(=先輩)がさっきまで同じく模擬授業を受けていた一人(だと思う。特徴ない子だから特に覚えてないけど=私)の彼氏という驚愕の事実に湧く衆人の中から、先輩は私を引っ張りあげて悠々と歩き去った。私と話してた女の子と少し言葉を交わして「なら一緒にお茶を」とついでのように助け出す先輩の手際の良さを誉めればいいのか。それとも何十人もの女の子が夢中になって見詰めるようなイケメン相手に「あたし、単にこの子とお茶したいんですけど」と私を指差して主張できる彼女の胆力を讃えればいいのか。
  その前に羞恥で上がった体温をどうにかしたくて精一杯です。
「悪い、待たせた」と言ってトレイを運んできた先輩はプラスチックのカップを手渡してくれる。
「冷たいもので良かったのか?」
  そう聞かれたのは、私は夏でも屋内ではホットを飲んでいるから。でも、今は冷たいものがほしい。
  ありがとうございますと受け取って、そのまま頬に当てた。
「あぁぁ………冷たくて気持ちいー………」
  私が安心と幸せに浸ってる間に、彼女は先輩と自己紹介を始めた。
「―――とまぁ、あたし的にとにかくピンチだったのを助けてもらったんで。ついでになんとなく仲良くなれそうな気配がしたんでナンパしようとしてたんですよ」
  ナンパの言葉に眉を動かした先輩を見て「もちろん、友だちとしてですよ」と付け加える。先輩がそれならいいと言うように小さく息をつくと、クルリと私を振り返った。
「貴女の彼氏、イケメンのわりには面白い人だね」
「お、面白い?」
  うん、と頷くその子は気が済んだみたいで先輩をもう見ていない。
  戸惑っていると、どうしたの?というように首を傾げるけどすぐに、あぁ、と思いついたように口を開いた。
「もしかして、あたしの自己紹介耳に入ってなかった?」
「ううん。ちゃんと聞いてたよ。でも、鉛筆一本で友だちになりたいと言われたのがちょっとびっくりで」
  そう?と首を捻られる。
「友だちになるきっかけって、人それぞれじゃないの?あたしは、貴女と友だちになれそうな気がしたから」
  迷惑だった?と聞かれて慌てて首を振る。
  良かった、と微笑むとリュックを掴みながら「じゃ、これ」と言って小さく折り畳んだ紙をくれた。
「それ、あたしの連絡先。また、東京来たときに会いましょ」
「え、もう行くの?」
  荷物と自分のドリンクを持って立とうとするのを慌てて止める。
  きょとんと瞬きすると困ったように笑った。
「あんまりデートの邪魔したくないもの。あたし、都内の専門学校の模擬授業にはわりと参加してるから、貴女がこっちの授業受ければきっと再会できるわよ」
「ちょっと待って。それなら、今連絡先交換しちゃおう」
「え、いいの?」
  なぜか今度は相手が戸惑う。
  スマホを出して振ってみせると、一瞬躊躇ってリュックからスマホを取り出した。
  よし、ちゃんと登録できた。
  貰った紙とスマホの画面を見比べながら、この名前どう読むの?と聞くと、少し困ったように顔を歪めて小さな声で教えてくれた。
「………でも、あんまり好きじゃないかな。自分の名前」
「じゃあ、名字で呼んだ方がいい?」
  首を捻っているから、名字もダメらしい。
  じゃあ、どうしよう。と首を捻った。
「うーん………『あーちゃん』とか……『せっちゃん』は?」
「せっちゃん」
  意外そうに何度か繰り返すと、笑って頷いた。
「うん。『せっちゃん』がいいな」
  呼び方が無事に決まって良かった。
  胸を撫で下ろしながら私は名前で大丈夫だと伝えると、せっちゃんは嬉しそうに笑った。
「うん。じゃ、またね。結香」
「またね、せっちゃん」
  バイバイと手を振ってせっちゃんは店を出ていった。
  その後ろ姿を見送ってほーっと息をつくと、先輩がじっとこちらを見ているのに気がついた。
  もしかして今までのやり取りをずっと見られていたのかな。恥ずかしい。
「と、友だちできちゃいました」
  恥ずかしさを紛らわそうと言うと、良かったなと頭を撫でられた。やり取りを見られていた恥ずかしさなのか、人がたくさんいるお店の中で触られた恥ずかしさなのか、一度冷めたはずの熱が一気に頬に戻ってきた。
「わわわ私たちも行きましょうかっ。大樹さん、待たせちゃってますよねっ」
  軽く頷く先輩の飲み物はもうない。私のはまだほとんど残っている。
  今まで飲むタイミングを失っていたからだけど、行こうと自分で言い出した手前、この状況はかなり恥ずかしい。
  急いで啜って頭痛に額を押さえていると先輩が、ゆっくり飲め、と言ってくれた。
「合流したら何処かで一休みすることは伝えてあるから大丈夫だ。ゆっくり飲め」
「そ、うですか」
  ほ、と息をついてゆっくり啜る。なんとなくコーヒーを予想してたらゴマの味がしたので驚いてストローから口を離す。
「ご、ゴマ?」
  何だろうとカップを持ち上げて目をこらしても白と黒が程よく混ざった色が綺麗なだけで、何が入ってるのかはもちろん解らない。
  これ何ですかと聞くと、先輩は首を傾げて少し考えるような表情をした。
「胡麻胡麻なんとか、といったと思うが。注文が終わったから忘れてしまった。すまん」
  どうしても商品名が知りたいわけじゃないから大丈夫と首を振る。相変わらず先輩は私が好きな味のものをポンと買ってくれる。
  一生懸命啜っていると「旨いか」と聞かれる。
  頷くと、「一口くれ」と身を乗り出すのでストローを先輩に向ける。
  自分では甘い飲み物はあまり買わない先輩だけど、このゴマのドリンクは気に入ったみたい。
「うん。旨い」
  椅子に座り直しながら満足そうに微笑む。
  美味しいですよね、と相槌を打ちながら残りのドリンクを頑張って飲み干した。


  大樹さんを呼ぶ声が自分でも驚くほど上ずっている。
「何でしょう、結香様」と応える大樹さんの声はいつも通り。私だけが過剰に反応しているだけかと思うけど、私の戸惑いは仕方ないと思う。
「あの、部屋を見に行くと聞いたんですけど」
  そうですよ、と相槌を打った大樹さんは玄関のドアを支えたままニコニコ笑う。
「結香様、今日案内する予定の部屋はこれで最後ですから。サクッと済ませればたくさん遊べますよ?」
  さぁさぁと中へ促す大樹さんの笑顔が少し怖い。
  つい後ろに数歩下がりかける背中を先輩がそっと支えて顔を覗きこんできた。
「結香、疲れたか。続きは明日にするか?」
  正直さっきからめまいはしてるけど、それは明らかに疲れじゃなくて精神的なもの。
  慌ててぶんぶんと首を振る。
「だっ、大丈夫ですっ。疲れてるわけじゃなくて!あの、部屋と聞いていたのでイメージよりだいぶ広いといいますか、なんかもう部屋じゃなくて家にしか見えないといいますか、今日見た部屋の違いが今一つ解らなくて、来年まで部屋決まるか不安になってきたといいますかっ」
  二人で暮らす部屋だから一部屋では足りないよなぁとは思っていた。でも部屋が多くなるとその分家賃も多くなるから、東京へ持っていく荷物はできるだけ少なくしようとか私なりにいろいろ考えていたんだけど。
  ………上京したての家が4LDKって、広すぎるよね?しかも小さめの部屋と案内された部屋、今の私の自室とそう変わらないよ………
  いきなり規模が大きくなってクラクラしているというのに、その中から選ぶなんて、かなりの難問です。
  うーと唸りながらこめかみを指の腹でグリグリ押していると、「解りますよ、結香様」と大樹さんが同情するような声をあげた。
「確かに二人だとちょっと広いですからね。特に今は何も無いから、余計に広く感じてしまうでしょう」
  それもあるけど、家具を入れても狭くはならないと思う。あ、今気がついたけど、家を決めたら今度は家具を揃えないといけないんだよね。
  今まで無駄遣いはしてないつもりだけど、お金、足りるかな………?
「何せ新婚なんですから、お二人の仲睦まじい生活が思い描ける部屋が良いですねぇ。部屋が広すぎると二人の距離が出来てしまって寂しいですねぇ」
  私が考えを飛ばしている間も大樹さんは話し続けていたみたい。目が合ったので、つい頷くとにこりと笑ってまた口を開いた。
「その点、六畳一間はある意味理想ではありますね。狭苦しく感じるかもしれませんが、身体がくっついてる分喧嘩する隙もない。金は無いが愛はある。良いですねぇ、ロマンですよ」
  滑らかに話す大樹さんはどこか感じ入っている。
  はぁ、と相槌を打つけど「しかし、結香様」と大樹さんがいきなりくわっと目を開けるものだから、はいっと思わず気をつけをした。
「六畳一間は確かにロマンですが、実際にやるのは駄目なんですよ」
  なぜかそんなことを急に言う。
  六畳一間、上京したての時期なら普通にみんな住んでるよね?
「え、ダメなんですか?」
  首を傾げると大樹さんはうんうんと重々しく頷いた。
「金は無いけど愛はある。石鹸カタコトいわせてても愛しい女を待つ喜び。それで生きていけりゃ良いんですけどねぇ、そうはいかないもんなんですよ。もし、お二人が六畳一間を選んだ場合」
  いつにない大樹さんの真面目な目が怖くて、ゴクリと唾を飲んだ。
「いずれ夕弦様は大失恋して、ウォンウォン泣きます」
「えぇぇっ!!」
  衝撃の言葉に、思わず勢いよく先輩を振り返る。当たり前だけど先輩の目は全然水気を帯びてなくて、ほーっと安心の息をついてからどういうことですかと大樹さんに向き直った。
「し、失恋、て。先輩が、私に、ですか?あり得ないですよ!」
  逆はあるかもしれないけど、私が先輩をふ、振るなんて、世界滅亡以上にあり得ない。
  でも大樹さんは、「それが有り得ちゃうんですよ」と言った。
「それが六畳一間の呪いというものです」
「六畳一間の呪い!!?何ですか、それ?」
  私は初めて聞いたんだけど、大人の中ではわりと知られているものらしい。
「六畳一間がそんな恐ろしいモノだなんて知らなかった………私、六畳一間止めます!」
  恐々と言うと、大樹さんは笑顔に戻ってドアを大きく開けた。
「大丈夫ですよ、こちらの部屋は六畳一間よりは大きいですからね。さ、どうぞ」
  お礼を言って中に入る。
  後ろで大樹さんと先輩が小さな声で言い合いをしていたけど、振り返って聞いても二人とも何でもないと首を振るだけだった。


  今日見せてもらってる部屋………じゃなくて、家はお祖父さんが買ったものの日常的には使っていないものらしい。たまに用事で東京に出てきた大樹さんがホテル代わりに泊まることもあるから、広い部屋の真ん中にドンとベッド一つ置いてあることもあった。
「この中の家を選んで私たちが住んだら、大樹さんはどうするんですか?」
  ん?と首を傾げてから何か納得したように、あぁ、と頷いた。
「ベッドを置いてある部屋はここ以外にもありますからね。そっちに行くとか、ここの近くの部屋にベッドを移動させれば済む話なので、気になさらないで選んでください」
  最終的にはホテルを取れば済む話ですしね、と言う大樹さんは身軽で羨ましい。
  元々はホテルに泊まろうとしていたのを、ずっと空き家状態だと何かと不便だからと鍵を預けたのはお婆ちゃんらしい。
「ずっと閉めっぱなしにしてたら、あの人の心と一緒にダラダラダラダラ、ジメジメジメジメして鬱陶しいったらありゃしない。せめて部屋だけでも風通ししておいてちょうだい」
  お祖父さんとお父さんとの膠着状態に心を痛めていたお婆ちゃんは、大樹さんにはそう言って気丈に笑ったそうだ。
「大体部屋があって誰も住んでないのに、それを置いといてホテルを取ろうなんて贅沢な話だよ。どうせなら使う人間が出るまでは、大樹の好きなように使ったらどうだい?」
  そんなことを仰って度々、ベッド以外の家具も揃えなさい、とお金を握らせようとしてくるのをかわすのが本当に難儀でした。
  そう言ってため息をつく大樹さんだけど、その顔は本当に迷惑してる、という顔でもない。
  大樹さんはお婆ちゃんの秘書という立場だけど、お婆ちゃんは孫のように可愛がってるのかもしれないな。
  そんなことを思ってつい、ふふ、と笑っていると、「どうしました?」と大樹さんに見つかってしまったので、首を振って誤魔化した。


  それなりに頑張って説明を聞いてあちこちを見たつもりだけど、結局部屋の違いはよく解らなかった。
  どの部屋もやたら広くて、空き家だというわりには綺麗。コンシェルジュさんがいるちゃんとしたマンションだからというのもあるかもしれないけど、たまにお婆ちゃんが掃除する人をお願いしているらしい。
「その手配をする度に旦那様と大旦那様の愚痴を堂々と仰られるんですから。お二人が部屋を使って頂けるならその愚痴も減るんですから、このファイルからぜひご検討下さいね」
  先輩の持つ分厚いファイルを指し示して切実に訴える大樹さんとは、さっき別れたばかり。
  はーっと息をついていると、隣で姿勢よく佇んでいる先輩が「疲れたな」とポツンと言った。
  その一言につい顔を上げて先輩を見る。
  いつもと変わらない綺麗な表情で、私みたいにくたびれてる感じがまったくしない。
「先輩も、疲れるんですか?」
  本当に疲れてますか、という意味合いで聞きたかったけど、疲れていろいろ単語が抜けてしまった。
  結果微妙に失礼な質問になってしまったけど、先輩は怒らずにこくんと頷いた。
「物件探しは初めての経験だからな。見てもよく解らん」
  とりあえず夕食にしよう、と手を引く先輩に応える間も元気もなく、とにかくせかせかと足を動かした。


  疲れてたからあまり食べられないかもと思っていたけど、意外にたくさん食べれた。
  運動神経悪いし基本家と学校を往復するだけだから体力ないんだけど、思ったより体力ついたかも?
  そう不思議に思ったけど、よくよく考えたらここ最近は休みの日は先輩といろいろお出かけしてることに今さら気づいた。
「あぁ、そっか」
  納得の声をあげると私の手を引いていた先輩が、どうした?と振り返る。
「私、知らないうちに少し逞しくなったと思うんですよ」
  先輩のお蔭です、とお礼を言うと、不思議そうに首を傾けていた先輩はふと微笑んで、そうか、と呟いた。
「それなら、もう少し歩けるか?」
  初めての道を人が多い中歩くのはすごく不安だけど、先輩が手を引いてくれてるから歩きやすいし安心して歩ける。
「はい。でも、どこに行くんですか?」
  先輩はすぐに「もうすぐ解る」と言って歩き続ける。
  元から多かった人がさらに多くなってきたなぁ、と思いながら周りを見る余裕もなく繋がれた手と広い背中を頼りに足を動かしていると、赤いレンガの建物が見えてきた。
「先輩、先輩。東京駅ですよ」
  テレビで見た建物を実際に見てしまった感動で話しかけたくなる。でも、自分でも笑うほど田舎者っぽいセリフが恥ずかしいので先輩の腕を引いてこそこそ小声で言うと、先輩はうんと頷いた。
  東京駅といえば、夜になると綺麗な映像を見せてくれると前にニュースで聞いた気がする。あれからだいぶ経つけど、まだやってるのかな?
「ここでライティングを見るんですか?あ、それか、電車で移動ですか?」
  綺麗なライティングには心引かれるけど、駅ってそもそも電車に乗る所だし、明日に備えてここからどこかへ移動するのかもしれない。
  前にお父さんが「東京の駅は人の波が凄くて敵わん。もう行きたくない」と玄関でノビていたことがあった。そのボヤキだけじゃ解らなかったけど、駅の周りにこれだけ人が密集してるのを見ればさすがに解る。駅の中はきっとここより人が多い。
  目的のホームまでしっかり歩かなければ、と気合いを入れていると「駅には入らないぞ」と先輩が言った。
「え、電車に乗るんじゃないんですか?」
  うんと頷いた先輩は辺りに視線を巡らせて「それにしても人が多いな」と息をついた。
「トイレを借りたいだけだが、駅に入るのは危なそうだ。あちらにしよう」
  そう言って目当てをつけたビルに向かって、私の手を引いて方向転換した。


  夕方だけど休日だからかそれとも東京だからか、結局女子トイレの列は少し長かった。
  順番待ちの人にぶつからずに通路に出れて、思わず安堵のため息をつく。
  ため息をついたタイミングで、少し離れた壁に凭れかかってスマホをチェックしている先輩を見つけた。後ろの壁紙がちょっと外国の街並み風のオシャレなものだから、よけいに先輩が格好良く見える。

  いや、先輩はいつも格好良いんだけどね。
  さらに格好良く見える、ってだけで。

  心の中で自分にツッコみを入れていると、通路を歩く人の中にたまに先輩を見てはしゃいだ様子で囁きあってる女の子がいるのに気づいた。
  いつもみたいに逆ナンには至ってないみたいだけど、相変わらず先輩は女の子の目を引く。
  あの女の子たちが先輩に声をかけなかったのは、あの子たちの都合なのかここが東京だからかは解らない。今は囁くだけでスルーしてくれてるけど、もしこっちに引っ越して先輩が東京に慣れて立派な東京人になったら、また声かけられるようになっちゃうかな。
「結香、どうした」
  ぐるぐる考えていたら、私が出てきていることに気づいたのかいつの間にか先輩が目の前に立っていた。片手で私の身体を支えて、逆の手は私の髪や頬を撫で、心配そうに私の目を覗きこんでいた。
  大丈夫かと気づかう声は嬉しいけど、その肩の後ろに通路に戻りながらバッチリこちらを見ている人の目に居たたまれなさを感じる。
「だ、いじょぶですっ」
  なんとか声を出すと、そうか、と先輩は安心したように破顔した。
「なら、行くか。時間があるから中の店を見ることが出来ないんだ。ごめんな」
「いえっ、そういうわけではっ……時間?何の時間ですか?」
  大樹さんとも別れたし今日はもう何の予定もないはずだけど?と首を捻るけど、先輩は「すぐに解る」と言うだけで私の手を引いて来た道を戻った。


  先輩が名乗ると色合いは大人しいけど袖口とか首に巻いたスカーフがオシャレな女の人がにこやかな笑みを浮かべた。
「進藤様ですね。お待ちしておりました。本日はご利用頂きありがとうございます」
  案内を聞いた先輩は黄色い車体をあんぐりと口を開けて見上げる私の手を引いて車内に乗り込んだ。
「せ、んぱい?これってアレですよね。あの有名な」
  テレビでたまに特集で見る黄色い観光バスになぜ今乗っちゃってるの?
  きっと先輩が申し込んだからと解っていても言葉で確認したい私の口を、先輩は指一本で封じた。
「ほら。もうすぐ出発だぞ」
  先輩の言葉通り、さっきまで入り口の外で出迎えをしていたガイドさんがマイクで挨拶を始めるところだった。
  口をつぐんで前を向く。
  ちょっと悔しい気もするし、先輩のいたずらっ子のような目と近くで囁かれた声の色香に酔わされて頬が熱いから、意地でも先輩の方はしばらく見ない。
  なんだか隣で小さく笑ってる声が聞こえるけど、必死にガイドさんに集中した。


  流れる色とりどりの灯りに目を奪われていたら、国会議事堂を通り過ぎたと言われてしまった。
  今からでも見えないかなと窓にこめかみを押しつけて後ろを見詰めていると、「あれだ」と長い指が横から伸びた。
  振り返ってお礼を言うと、先輩は微笑んで頷く。
  地名だけは何度も聞いたことがある有名な通りを、バスはゆっくりと走った。同じ東京なのに、がらっと雰囲気が変わるのが夜目にも解って不思議だった。
  ずっとバスに乗ってるのかと思ったら、一度降りて観覧車に乗るらしい。夜だけど観覧車はライティングで華やかだし連休中だし、順番待ちの列が階段の下まで延々に続いている。
  バスツアーの料金には観覧車代も含まれてると説明はされたけど、ずっと立ちっぱなしで待っている人の横を堂々と歩く勇気はなかった。
「遊園地の優先チケットと同じシステムだと思えばいいんじゃないか?」
  ゴンドラの中でやっと落ち着いたと息をついている私を見て、先輩がそう言って苦笑する。
  優先チケットの列は通路が途中で別れてるから罪悪感がちょっと減るんですよ、と言い訳するとなるほどと頷く。
  そんなことを言い合っているうちに私たちのゴンドラは少し高い位置まで回った。窓から順番待ちの人が見えなくなって、ホッと息をつくとさっきとは違う一面の灯りに感嘆のため息を洩らした。
  そういえば、と思い出して窓から先輩に視線を移すと、うん?と首を傾ける。
「あの、今日は普通に座ってて良いんですか?」
  この間観覧車に乗ったときは、思い出しても恥ずかしいけど先輩の膝の上に座った。そうでなくても先輩は日頃から軽いスキンシップはよくする。
  向かい合って座る今の座り方が正しいスタイルのはずなんだけど、ちょっと寂しい気がするのは先輩に触られることに慣れちゃったからなのかな。
  先輩はじっと私の顔を見る。
  その綺麗でまっすぐな視線から目を反らしたい衝動を必死に堪えていると、先に目を伏せた先輩が小さく何かを呟いた。
「え、何ですか?」
  いや、と首を振った先輩が両手をこちらに向けて広げる。
「今からでも、来るか?」
「え」
  自分から膝の上に乗るなんてかなり恥ずかしい。
  でも、話を振ったのは私だしおいでと誘う先輩の目は優しく光ってるし。
  誘われるように立ち上がると不安定に身体が揺れる。すぐに先輩の手が伸びて、ポスンと広い胸に収まる。
  自然に抱きつく形になってしまったけど、シャツ越しの体温が心地好くてぎゅうと抱きついた。
  参ったな。と呟く息が頭の天辺にかかる。
「この後があるから、今はゆっくり夜景を見せようと我慢しているのに。結香は簡単に煽る」
  いろいろ気になることはあったけど、そのまま頭、こめかみ、耳元に軽いキスを落とされ、長く深いキスをされて、声を出す余裕がなくなった。
「煽ったのは結香だから、覚悟しろよ」
  首筋をなめられながら脅すように言われた言葉に、背筋がぞくりと甘く震えた。


  海外の人にも人気だとガイドさんが話していたホテルの内装を見る暇も余裕もなかった。
  ドアが閉まるなり、噛みつくようなキスをされる。
  ドアを開ければ廊下。誰か通りがかった人に声が聞こえないか怖くて、移動してほしいと息継ぎの合間にお願いすると、拐うように抱えあげられて部屋の奥に運ばれた。
  いつもの先輩ぽくない荒々しい行動だけど、ベッドに降ろす動きはすごく丁寧だった。でも、すぐにベッドに上がって私の足の間に身体を割り込ませてシャツのボタンをいくつか外しながら暑そうに息をつく仕草は性急で、先輩が興奮している証拠。
  興奮の対象が自分なのかと思うと、甘い震えが止まらない。
「結香が煽ったんだから、止まってやれないぞ」
  顔中にキスの雨を降らせながら囁く。
  その熱い息が耳にかかって私も、は、と息をつく。
  まだ始まったばかりなのに、もう頭がぼーっとしている。
「二回目だから、それに久しぶりだから優しくしようと思っていたのに」
「ひゃっ」
  大きくて熱い手が服の下に入り込んで下着越しの胸をぎゅっと掴まれた。
  驚いて開いた口にすかさず先輩の厚くて太い舌がぬるりと侵入した。
  恥ずかしい音が聞こえる。
  聞きたくないと首を振るのすら許さないとばかりに、上から押さえつけるように舌を差し込まれ両の胸を揉まれる。
「ずっと触りたかった」
  唇を合わせたまま囁かれる言葉に身体が熱くなる。
「本当は、早く籍を入れたい」
  え、と聞く前に先輩の手が身体のラインをなぞる。
「早く、一緒に住みたい」
  お腹をゆっくり撫でていた手がスカートに当たると、先輩は一瞬顔をしかめる。スッと服から抜けた手はそのままスカートの裾から太ももを撫でて、下着を軽く避けると何度か割れ目をなぞって、つぷり、と指を入れられた。
  あぁ、と出る声が悲鳴なのか安心の声なのか自分でも解らない。
「一緒に住めば、朝も夜も結香の顔が見れる。抱き抱えて眠ることが出来る」
  中をゆっくりなぞられて、ぞくぞくと震えながらもどこか安心を感じた。
  荒い息継ぎを妨げないように口の端に頬に降るキスが嬉しい。
「こうして抱き抱えていれば、結香は俺のものだと実感できる」
  キスの合間に囁かれる言葉が切なくて、それでも嬉しくて、重い腕をノロノロと持ち上げて背中に回す。抱きつきたかったけど、そうできる体力がなくて指先が広い背中を何度も滑った。
  一瞬問うように首を傾げた先輩だけど、私のしたいことを察してくれたのか、両手を一度離してぎゅっと抱きしめてくれた。
  先輩の体温と匂いに安心する。
  でも、二人分の服が邪魔にしか思えなくて、もどかしくなった。
  抱きついたまま息を整えて、私は、と声を出した。
「私は、先輩の、ですよ」
  先輩の身体がピクッと震えた。
  身体を離されそうになるのを必死に引っ付いて、だから、と続けた。
「先輩も、私のに、したいです」
  いつもならこんな言葉、照れてしまって絶対言えない。
  気まずい沈黙を、先輩の肩におでこをくっつけて耐える。
  ぎゅうと抱きついていると「うん」と先輩が唸った。
「俺は、もう結香のものだと思うんだが」
  そう言うとスッと身体を離して視線を合わせて微笑んだ。
「どうすれば、納得出来る?」

  先輩が私のもの。

  甘美な響きに、ほ、と息をつく。
  それを疑ってるわけじゃない。でも、先輩が逆ナンに遭った話を聞く度に、先輩のことをうっとりと見詰める目を見てしまったときに感じてしまう嫉妬が、少しでも減るのかな。
  先輩が私のものだと、心から思えたら。
  何をすれば、私は実感できるんだろう。
「解らない、です」
  呟いてから背中から外れてしまった手を動かして先輩のシャツを引っ張った。
  脱いで、とお願いする声が掠れて震えてしまったけど、先輩には聞こえていたみたいで雄々しい喉がゴクリと鳴った。

  体温を感じて、安心したい。

  その願いをどう伝えるか迷っているうちに、獣のような唸り声をあげた先輩が身体を起こして手早く服を脱いだ。ベッドに戻ると私の服も次々に取り去りながら荒々しくキスをする。
  少しずらされてたブラジャーまで取ると、ぎゅうと強く抱きしめられた。熱いくらいの体温が心地好い。待ち焦がれていた抱擁に、満足のため息をついた。
  しばらくそうして私の身体を閉じこめてから「触ってもいいか」と先輩が聞いた。
  さっきまでもたくさん触っていたのに、とちょっと笑い出したいようなくすぐったい気持ちになる。
  抱きつく力を強くして、はい、と答えると先輩は嬉しそうに微笑んだ。


「どうして、声を我慢するんだ?」
  答えたいのに、中で指をバラバラに動かされているからちゃんとした声が出せない。
  中からの刺激に「あ」とか「ん」とかしか発音できない私に焦れたのか、身体を起こした先輩が中を擦る勢いを少し弱めて私の顔を覗きこむように覆い被さってきた。
  久しぶりに間近に顔が見れて、ホッと息をつく。
「声、聞きたい」
  甘いおねだりに応えたい気持ちはあるけど。
「こえ、となりにきこえま、せんか………っ?」
  初めてのときは気にする余裕もなかったけど、かなり叫んだらしい。次の日すごく喉が痛かったから。
  あのときの叫び声で周りの部屋の人に迷惑をかけてないかも気になるけど、そもそも声を聞かれたこと自体恥ずかしい。
「壁は厚いと思うが」と一瞬冷静な表情に戻った先輩だけど、すぐに肉食獣の目で笑った。
「塞いでやるから、存分に啼け」
  え、と聞く前に口を先輩のそれで塞がれる。
  息苦しさに首を振る前に、私の中に入ったままだった指が一斉に暴れだした。

  ぼんやりした視界の中でも、もどかしそうに片手と口で小さな袋を開ける先輩のギラギラした目ははっきりと見える。
  声ははっきりと聞こえないけど、いいか、と言われてるようで、荒い息をしながらなんとか頷く。
  音をたてて指が抜ける。
  寂しいと感じる前に、指よりも圧倒的に太いものが代わりに押し入ってくる。
  あげかけた悲鳴を先輩が大きな口で飲みこんでくれた。
  抱きしめ合ったまま、久しぶりの圧迫感に耐える。
「痛い、な」
  確信しているように言われた。
  そう言われてしまうと平気と答えることができなくて、痛みを堪える息が洩れてしまった。
「もう少し、こうしていよう」
   気づかってくれているのが嬉しい。
  でも、先輩はこのままの体勢辛くないのかな?
「うごいて、だいじょぶで、すよ」
  いつもの声でなんとか言うと、先輩がふ、と微笑んだ。
「だから、煽るな」
  煽るなんてテクニック、私にできるはずがない。
  そう主張しても先輩は苦笑するだけだった。
「私、が、せんぱいの、もの、って感じれて、ます?」
  さっきのことを思い出して聞いてみると、あぁ、と蕩けるような笑顔を浮かべて頬を撫でてくれる。
「早く、結婚したくなったな」
  さっきもそう言ってたことを指摘すると、「さっきよりも、もっとしたくなった」と言われた。
「結婚して同じ家に住めば、声を気にする必要も無くなるだろう?」
  欲を孕んだ目で頬を撫でられ、「思う存分出来るな」と耳元に囁かれると、すでに熱かった身体がさらに熱くなる。
  抗議代わりに厚い胸をペチペチ叩くけど、先輩はいたずらっ子の目で私を覗きこんだ。
「たくさんすれば結香も、俺が結香のものだと得心がいくんじゃないか?」
「そっ!」
  そんなことない!
  と断言したいけど、こうしてると痛いけど安心できるのも確かで、返事に詰まる。
  言葉もなく唸る私を見てククッと笑うと、先輩はやおら身体を起こした。
「先輩?」
「とりあえず次まで我慢出来るように、結香を堪能させてくれ」
  強請るような、それでもこれから私を喰らいつくすぞという欲を明らかにみせた笑みに怯んだ私が、効果はないと解っていても後退りしたいとジタバタする前に。
  先輩は猛然と動き出した。





  ◆ 翌日の車中 ◆

「―――ゆぅぅづるぅぅさまぁぁぁぁ?」
「煩い。こっちを見るな。運転に集中しろ」
  何度か繰り返しているやり取りに、「仰りたいことは解りますけどねぇ?」と影山は大袈裟に嘆息してみせた。
「楽しむなとまでは言いませんけど、もう少し手加減とか出来ないんですか。抱き潰してどうするんですか。東京観光を楽しませてあげるんじゃなかったんですか。結局物件案内に車を使う羽目になってるじゃないですか」
  一度に捲し立てられる。
  悔しいが正論なので無言で通していると、「すっかり旦那様そっくりにお育ちになられて」と演技がかった口調で言われた。
「煩い。いいから結香を見るな」
「はいはい。可愛い寝顔を他の男に一目でも晒したくないってんなら、欲に任せて抱き潰すなってんですよ。どうするんですか、この資料。結香様が気になさるから車は使わない方向で用意したし、少しは楽しめるよう色々下調べしておいたのに」
  やけに突っ掛かるような言い方をされるのは、助手席に山積みになっている物件と観光の資料が無駄になることに対しての苛立ちからだろう。
  空き時間が多くあるわけでもないしファイルの形が変形する程資料を集める必要は無かったのでは。とも思ったが、影山の好意に甘えて資料集めを頼んだのは俺なので、すまんと謝った。
「まぁ、いーですけどねぇぇ」とぞんざいに返す影山はルームミラー越しにジト目を寄越した。
「次の物件見学の時には、程々になさって下さいよ。東京では駐車場を探すのも一苦労なんですから」
  地元とは勝手が違うんですよ、と言う影山の側頭部を軽く睨む。
「マンションの駐車場に入れるだけだろう」
  コインパーキングを探す必要は無い分、そこを責められる謂れは無いと睨めば、「バレましたか」とヘラリと笑う。
「その駐車場にもうすぐ着きますからね。そろそろ結香様を起こして下さいよ」
  解ったと頷いてから影山と呼ぶと「はいはい、何ですか」といつもの声で応えられる。
「資料、無駄にさせて悪かったな」
  は?と間の抜けた声を上げた一瞬の後、何故か影山は爆笑し始めた。
  その声で目を覚ました結香が「大樹さん、どうしたんですか?」と目を擦るのに、解らんと首を振ってその目から手を取った。
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