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番外編
ゆく年くる年
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ふと目を上げると、机に飾ったクレヨンが目に入って、つい口元が弛んでしまった。
楽しかったクリスマス。
パーティーが終わって、片づけやお風呂でみんながバタバタしている中、先輩がプレゼントと言って手渡してくれた。
そう、クリスマスはみんなで先輩の家にお泊まりだったのです。
「公平にあみだくじで部屋割り決めますっ」と言う夏目先輩の脳天に先輩が拳を落とし私は萌ちゃんや知佳ちゃんと和室で寝たんだけど、お喋りが楽しくて次の日は少し寝坊しちゃいました。
のんびり朝ごはんを頂いて昨日の後片づけを手伝って家に帰ってから先輩から貰ったプレゼントを開けてみて、思わずわぁと声をあげてしまった。
クレヨンだった。立派な木の箱に入った物と、綿の袋に入った物と、二種類のクレヨン。
木の箱に入った方は、野菜から作られたクレヨン。いつもはあまり出番がない黒や白も、翳してみると深い色をしていて、早く使いたくてワクワクする。
綿の袋に入ってたのは、最初クレヨンだとは解らなかった。パワーストーンかな、とつつきながらメモを読んでクレヨンなんだと知って驚いた。
お礼のメールを送ると、すぐに返信が来た。
―――クレヨンばかりで呆れられるかと思ったが、喜んで貰えて良かった。こちらも、眼鏡をありがとう。有り難く使わせてもらうよ。
ブルーライトをカットする眼鏡を送ってみたけど、喜んでもらえたみたいでホッと息をついた。前に、資料探しをしたあとは意外に目が疲れると言っていたのを覚えていて良かった。
もちろん私も貰ったクレヨンは大事に使うつもりだけど、せっかく可愛い入れ物に入ってるんだしと机に飾った。
それ以来、ついついことあるごとに机の上を見てニヤニヤ笑ってしまうのです。いい加減、大掃除をしないといけないんだけど。
「また一休みしてるの?」
少し呆れたように片眉を上げるお姉ちゃんに、私とお母さんはエヘヘと苦笑した。
纏め上げた髪をスカーフできちんとくるんでいても、お姉ちゃんの立ち姿は凛としている。ブランドショップのオーナーをしているお姉ちゃんはお掃除スタイルにも手を抜かない。ゴム手袋を嵌めてるのにダサくないお姉ちゃんって、すごすぎて怒られてるのに見入ってしまう。
「茜、そんな薄着で寒くないの?」
炬燵に潜るお母さんに向かって、お姉ちゃんはため息をついた。
「厚着してたら掃除の邪魔でしょ」
炬燵から出てさっさと大掃除に戻りなさいと言うお姉ちゃんに、苦笑を浮かべながらもお母さんは動かない。
「だって大掃除って、いつまでやっても終わらないじゃない。ウチは別にお客様を呼ぶ予定ないんだし、適当でいいかなって」
半ば開き直るお母さんを見て、お姉ちゃんは大きくため息をついて首を振った。
「―――解ったわ」
そしてスマホを取り出すと、どこかに電話をかけた。
「―――あ、もしもし。この間はどうも………うん、まぁそうなんだけどね。ちょっと大掃除手伝ってくれない?年越しそばご馳走してあげるから………いやぁねぇ、年末に食べるそばなんだから年越しそばってことでいいじゃない」
細かいことぶちぶち言わないでよ、禿げるわよ。なんて言ってから、じゃあ早めに来てねと電話を切ったお姉ちゃんに、誰に電話したのと聞けば、夕弦くん、と当たり前のように答えた。
「えぇぇっ、先輩、ここに来るのっ?」
「茜っ、人様に大掃除手伝わせるなんて、なんてことをっ」
慌てる私たちに、お姉ちゃんはプイッと拗ねてみせた。
「だってあたしばかり高い所の掃除やってて、疲れるんだもん。夕弦くんがここに来るのなんて、日常茶飯事なんだからいいじゃない。それに」
お姉ちゃんはにんまりと人の悪い笑みを浮かべて私たちの顔を覗きこんだ。
「人様が来るんだから、やる気にもなるわよね。大掃除」
急いで炬燵から抜け出る私たちに、お姉ちゃんはカラカラと笑った。
「お母さんは掃除機がけ、結香は自分の部屋を主にやりなさいね。夕弦くんの到着まで時間ないから。キリキリねーっ」
年末で仕事も忙しいはずなのに、お姉ちゃんは家でも元気。
良いことなんだけど、ダラダラしてるときに先輩を呼ぶのはやめてほしいっ。
チャイムや遠い話し声で先輩が来たのだと解るけど、お姉ちゃんが怖くて部屋の外に出ることができない。
先輩には会いたいけど、掃除を止めたらお姉ちゃんにものすごく怒られると解ってるから。
お姉ちゃんは基本的にはいつも優しいんだけど、きちんとした理由もなく義務を怠る人にはものすごく厳しい。
学生時代のときの知り合いには、お姉ちゃんに厳しい指導だったけどすごくお世話になったという人が何人かいて、たまに私にも挨拶してくれる人もいる。お姉ちゃんは中学も高校も女子高で部活には入ってなかったはずなんだけど、いつの間に同年代の男の人と知り合いになっていて、しかもいまだに妹の私がお礼を言われるほどのお世話をしたのか、謎だ。
お母さんの声が聞こえる。掃除機がけが終わったのかな。
小さなノックの音がして、狭い隙間から小さな頭がのぞいた。
「美紅ちゃん、おかえりなさい」
先輩が一緒に連れ帰ってくれたみたい。
「ゆぃかおねぇちゃん、みく、おてつだいしてもいー?」
「あ、ありがとう。じゃあね、テーブルを拭いてもらおうかな」
絞った雑巾を渡すと、んしょ、んしょ、とかけ声をかけながら一生懸命雑巾がけをしてくれる。そうしながら、先輩の家でも大掃除の手伝いをしてきたのだと話してくれた。
「きょぉはね、ゆじゅぅおにぃちゃんがおでかけしたんだって。でね、みくに、こーじおにぃちゃんのことみはっててっていったの」
見張ってないと、すぐ光司はサボるからな。しっかり見張っていてくれよ。
むくれる夏目先輩の前で、美紅ちゃんに先輩はそう言ったらしい。
「だからね、みく、よぅおにぃちゃんといっしょに、こーじおにぃちゃんのことずっとみてたの!」
こぉやって!と美紅ちゃんが大きな目をくわっと見開いてみせる。美紅ちゃんは真剣に厳しい目つきをしようとしてると解るけど可愛くて、思わず笑ってしまう。二人にずっとこんな風に見られてたんじゃ、夏目先輩も大変だっただろうな。
「そうなの。美紅ちゃん、頑張ったんだね」
うん!と美紅ちゃんは笑顔に戻る。
「んでね、こーじおにぃちゃんがにげなかったからごほぉびだよって、ゆじゅぅおにぃちゃんがぷりんを、あっ!」
楽しそうに話していたのに、美紅ちゃんは口を両手で抑えて困った表情を浮かべた。
「ぷりんのこと、ゆじゅぅおにぃちゃんにないしょだよっていわれてたの………」
「そうなの。じゃ、お口チャックしないとね」
指を口の前でクロスさせると、美紅ちゃんも真似して二人で笑い合う。
しばらく笑い合ってから、また二人で拭き掃除をする。
フローリングをぴょこぴょこ移動していた美紅ちゃんが、私を呼んだ。
「こりぇ、なぁに?」
とりあえず引っ張り出したままにしていた段ボールを不思議そうに見ている。
「うん、これはねぇ………前に使っていた物で、もう捨てようかと思ったんだけど」
雑巾で気持ち程度に表面を撫でてから、封を切る。空中に細かい埃が舞った。
あとでもう一度掃除機をかけて拭き掃除をしないと。
日にキラキラと光る埃を目で追いながら、ふ、と息をついて箱の中に視線を落とした。
箱を移動させたときの衝撃で少しよれているけど、四年前まとめて入れたままに残っていた。
ちょっと古ぼけた箱を取って蓋を開ける。中にはやっぱり基本の色のチューブが並んで収まっていて、所々凹んでいるのを見つけると、なんだか懐かしいような切ないような気持ちに息が詰まった。
それ、なぁに?と聞く美紅ちゃんの声がなぜか遠くから響く。美紅ちゃんは私の手元を覗きこんでいるのに。
「これはねぇ、油絵の具だよ」
あぶら?おりょぉりの?
「お料理に使うのとは別の油なんだけど、食べられない油でできてる絵の具なんだよ」
すごいねーと感心する美紅ちゃんの声も、応える自分の声も現実味がない。さっきからふわふわしてるけど、自分の身体なのか視界なのかも解らないまま、これみてもいー?と興味津々の美紅ちゃんに請われるままスケッチブックを取り出す。
嬉しそうな声をあげながら、美紅ちゃんがページを捲る。
久しぶりに見る絵は自分の手と頭で解っているのに、なぜか他人事のようで、それでもやっぱり懐かしかった。
最初の一枚は校門近くの桜の木。
新しく買ってもらったスケッチブックに描く最初の一枚だから、何を対象にするか悩んで悩んで。やっぱり最初に思いついた桜の木にしたけど、桜の花はすっかり落ちてしまって、ものすごく残念に思いながら描いた。
野球部の練習。
本当はアップで描きたかったんだけど、練習の邪魔をするわけにいかないし、からかわれるのが怖かったから遠くから全体的に描くしかなくて、結局全然上手く描けなかった。
日の射しこむ廊下。
職員室が近かったから、スケッチしているときにちょくちょくいろんな先生に話しかけられて、けっこう恥ずかしかった。
柔軟体操をしている知佳ちゃん。
私の絵を見た陸上部の女の子たちに、足とお尻のラインがエロいって騒がれた知佳ちゃんがしばらく機嫌が悪くて、申し訳なくて仕方なかった。
昼休みの教室。
みんなが代わる代わるポーズをとってくれた。みんながいつも通りにしているところを描きたかったんだけど、これも楽しかったな。
絵が代わる度に描いてたときのこと、そのとき話してた会話、好きだったお菓子や音楽を思い出す。
色が少しずつ暗くなる。線が少しずつ少なくなる。
それにつれて、懐かしさに苦しさが加わった。
もぉおわっちゃった、という残念そうな声がクリアに耳に響いて、ゆっくり何回か瞬きをして息をついた。
「ゆぃかおねぇちゃん、え、もぉないの?」
美紅ちゃんにとってはあっという間に見終えてしまう枚数で、物足りなかったみたい。
スケッチブックを片手に歩き回ったり夢中になって描いてるときにはいろいろなことをたくさん考えたり感じたり。いろいろあったはずなのに、ちゃんとした絵の枚数にすると十枚にも満たなくて、不思議と苦笑が浮かんでくる。
「このスケッチブックは、ここでおしまいなんだけど」
箱の中に入ってた未使用のスケッチブックを取り出した。
「これ、この間貰ったんだけど、これでクリスマスパーティーの絵を描かない?」
いつもデートに行くとお礼代わりに描いた絵を先輩に写メしているけど、今回は描いた絵をそのまま渡してみようかな。素人の絵のプレゼントなんてもらっても嬉しくないかもしれないけど、進藤家の皆さんは美紅ちゃんが大好きだもの。喜んでくれるはず。
小石に似たクレヨンを袋から出してみせると、使ってみたいと目を輝かせた美紅ちゃんだけど、なかなか触ろうとしないでモジモジしている。
「たくさん絵を描いてプレゼントしたら、喜んでくれるんじゃないかな」
「ほんと?」
ゆっくり頷いてみせると、じゃあかくっとやっと笑った。
クリスマスパーティーも楽しかったけど、その準備も美紅ちゃんには楽しいイベントだったみたいで、何枚も描きながら次から次へと話してくれた。
夏目先輩が幼稚園の先生の真似をしながら鋏の使い方を教えてくれたこと。
工作をするときは陽くんがずっと付き添ってくれたこと。
先輩に肩車してもらって、庭の木に飾りつけをしたこと。
先輩やお母さんに作ってもらったおやつを、夏目先輩と競争しながら食べたこと。
ページが捲られる度に話されるエピソードが面白くて、ドアが開いたことにも気づかなかった。
できたぁっと美紅ちゃんが最後のページを満足そうに見ていると、穏やかな声が間近に聞こえた。
「良く描けたな」
慌てて二人で振り返ると、いつの間にか先輩が微笑みを浮かべて座っていた。私のベッドに背中を預けて、手にはさっき美紅ちゃんが見ていた私の使いかけのスケッチブックが。
「な、ぁ、せ?」
動揺でまともに話すこともできない私に、先輩は苦笑した。
「悪い。ノックをしたんだが返事が無かったし、二人が楽しそうだから入ってしまったんだ」
「そっ、そそっ、そぉなんですかっ?えと、何か、ご用が?」
ぎごちなく口を動かしながら必死に脳ミソを働かせる。
部活のスケッチブック、先輩にバッチリ見られちゃった!は、早く取り戻さないと………もっと前に捨てとけば良かった………忘れてた私がいけないんだけど!
あぁぁ、先輩、そんなにしっかり見ないでっ………!
あ!先輩、どのくらいドアの前でお待たせしちゃったんだろう………謝らないと。
あれ?私、返事しなかったけどそれでも入らなきゃいけないほどの用事があったってこと?
でも、先輩は全然焦ってないし………またスケッチブック見てるし………
はぅっ!??
そういえば、先輩が私の部屋にいる!!!
ど、どうしよう………大掃除してたから散らかしてはいないけど………あ、さっき埃舞っちゃったけど、大丈夫かな………
「ゆじゅぅおにぃちゃん、おんなのこのおへやにかってにはいっちゃだめなんだよ?」
はわ!
私がアワアワしているうちに、美紅ちゃんが先輩にお説教してしまった。
ごめん、とあっさり先輩は謝る。
「二人が楽しそうだったから何をしているのか気になったし、一度結香の部屋を見ておきたかったんだ」
ごめんと私に向けられた目がすごく優しくて甘くて、急に頬に集まった熱を払うように首を振った。
部屋を見たいというのはたぶん、私のことをもっと知りたいと思ってくれてるってことだよね。
それは、ものすごく嬉しい。
でも、やっぱり恥ずかしいことは恥ずかしいわけで。
心の中でうーうー唸っている私をよそに、美紅ちゃんは先輩に描いたスケッチブックを見せている。
「上手に描いたな。あのクレヨン、持ちやすかったか?」
うん!と笑顔で頷いた美紅ちゃんが、テーブルの上を見て、あ、と気まずそうな表情を私に向けた。
「ごめんなさい、ゆぃかおねぇちゃん。いっぱいなくなっちゃった………」
スケッチブックいっぱいに絵を描いたあとだから、新品だったクレヨンもすっかり小さくなっていた。
大丈夫だよと言っても、美紅ちゃんはしょぼんと俯いたまま。
その頭を、大きな手が優しく撫でた。
「美紅ちゃんがそんなに気に入ったなら、本当に良いクレヨンだったんだな。また結香にプレゼント出来る」
ありがとう、と微笑む先輩を美紅ちゃんが目を見開いて見上げる。
「みく、くれよんいっぱいつかっちゃったのに、ありがとうなの?」
ひとつ頷いて先輩は笑顔を浮かべた。
「結香が美紅ちゃんに使って欲しいと言ったのだし、二人共楽しかったんだから、謝ることはない。それを買ったのはすごく大きな画材屋だから、デートで行ってもいいかもしれないと思い付いた。だから、ありがとう」
先輩の言葉を聞くうちに少し落ち着いた美紅ちゃんがチラリと私を見る。
「美紅ちゃん、クレヨンはね、使えばなくなる物だから、謝ることないんだよ。それに、短くなったクレヨンは復活できるんだから、大丈夫だよ」
「ふっかつ?」
驚いてさらに目を大きくする美紅ちゃんに、私はえへんと胸を張ってみせた。
「そうだよー。必殺技を使えばクレヨンは大きく、しかも可愛くなっちゃうんだから」
すごいすごい、と座ったまま跳ねる美紅ちゃんに、私はにまっと笑った。
「じゃあ、あとでやってみようか。必殺技」
やるーっと手を挙げる美紅ちゃんに心の中で安堵のため息をついていると、ぽふ、と頭に温かい重みが乗った。
「その前に、下で一休みしないか」
一階ではもうみんな掃除を終えて休憩に入ったので先輩が呼びに来てくれたのです。
「じゃあ、下に行こうか………あの、先輩?」
何だ、と首を傾げる先輩に手を伸ばした。
「その、スケッチブック………こちらに」
なぜかそのままスケッチブックを持って部屋を出ようとした先輩から受け取ったスケッチブックを段ボールに戻して、三人で一階に降りました。
階段まで漂う香りでまさかと思ったけど、本当にお蕎麦を茹でていました。
こんな中途半端な時間に食べて大丈夫かなと首を傾げるけど、お姉ちゃんは気にしないみたい。
「結香、良いタイミングね」
明るい笑顔を浮かべたお姉ちゃんが、これは結香の分といいながらお蕎麦をよそう。
しっかり手を洗ってからお盆にお蕎麦の器とお箸を乗せると、先輩が止める間もなく炬燵へ運んでくれた。
炬燵にはもうお母さんが潜りこんでいて、少ししかめ面で唸っている。
お母さんも寒さには弱いから、大掃除で炬燵から出たのが堪えたのかなと思ったけど、違うと頚を横に振られた。
「せっかく夕弦くんが来てくれたのに、ちょっとお話しようと思ったら茜に叱られたの」
「えぇっ?」と驚く私の向かいに潜りながら、お姉ちゃんが眉を寄せた。
「調子の良いこと言って。サボろうとするからじゃない。それに、あれはちょっとじゃないわよ、明らかに」
ねーぇ?と同意を求められた美紅ちゃんも眉をぎゅっと寄せて頷く。勢いが良すぎて炬燵の角におでこをぶつけないか心配になったけど、幸い当たらずに済んだみたい。
「ゆじゅぅおにぃちゃんはゆぃかおねぇちゃんのなのよ。だめなのよっ」
はい、ごめんなさい。と素直に謝ったお母さんは自分のお蕎麦の上に乗っていたかまぼこを美紅ちゃんの器にポンと入れた。ニッと笑顔に戻った美紅ちゃんにホーッと息をついてから、軽く手を合わせて箸を入れる。
「結香、蕎麦が伸びるぞ」
右の頬をつつかれて囁かれる。
「いっ、いただきますっ」
慌てて手を合わせると、熱いから焦らないでね、とお姉ちゃんに生温いものを見る目で見つめられてしまった。
いつもより部屋が明るいな、と見回しているとお姉ちゃんが満足そうに笑った。
「夕弦くんが手伝ってくれたからね」
「そうなんだ。先輩、ありがとうございます」
自分の家の大掃除もあるのに、と頭を下げると先輩は、構わない、と首を振った。
「光司がいるから」
「そ、そうかもしれないですけど……いくら泊めてるからって夏目先輩に手伝わせるのは、悪くないですか?」
それは大丈夫だ、と先輩は淡々と説明した。
元々夏目先輩は、毎年何やかんやと理由をつけて大掃除から逃げる人だった。そうして先輩の家に逃げこむのに、先輩が「ここに居座るなら手伝え」と言うと文句を言いながら、ついでに掃除の合間にちょこちょこ逃げ出しながらも結局手伝ってくれる。夏目先輩にとって、大掃除は先輩の家と決まってるらしい。
「どうせやるのだから、最初から自分の家を掃除すれば済む話だと思うんだが」
そう言ってため息をついた先輩だけど、今年は美紅ちゃんが叱ってくれるから光司が脱走しないで助かる、と破顔した。
「その子、夕弦くんのことも夕弦くんの家も気に入ってるのね」
お母さんが微笑むと、先輩は意外そうに瞬きをした。
「……………どうですかね」
珍しく歯切れの悪い返事をする先輩の耳が少し紅い。
思わず小さな笑い声を漏らしてしまった。
「こうして炬燵でお蕎麦食べてると、今年も終わりだなぁってしみじみしちゃうわよね」
「まだ、あと何日かあるけどね。大掃除もまだだからね」
すかさず釘を指すお姉ちゃんに、解ってるわよ、と苦笑しながらもお母さんは微笑んだ。
「今年は、すごく良い年だったわよね。結香は夕弦くんとお付き合いできて、すごく充実した一年だったでしょ?」
一気に顔が熱くなったけど、そうだね、となんとか声を出す。先輩の指が冷たくて気持ちいい。
「みくね、とってもたのしいよ!」
フォークを握って笑う美紅ちゃんに微笑み返すと、お母さんはお姉ちゃんを優しく見つめた。
「茜も、良い一年だったわよね?」
小首を傾げてから、お姉ちゃんは軽く頷いた。
「そうね。本音を言えば、素の姿さらす前にもうちょっと夕弦くんをいろいろ試して見たかったけど。まぁ自分でやってて違和感ありすぎたから、良いお姉さん像。早々にバレて良かったのかもね」
違うわよ、とお母さんが目を眇るとお姉ちゃんの手がつと止まった。
「貴女個人として、良い年だったでしょう?」
お姉ちゃんの目は少し宙を彷徨う。
「……………たぶん。もしかしたら、だけど」
渋々返された返事に、それでもお母さんは満足そうに微笑んだ。
「そのうち、報告はしてくれるんでしょう?」
お姉ちゃんは少し難しい表情を浮かべていたけど、ふ、と息をついて今度はしっかり頷いた。
「あたしが納得したら、ね」
お母さんが嬉しそうに破顔した。
「待ってるわ。お父さんもね。でも、焦らなくていいからね」
お姉ちゃんも小さく破顔した。
「ん。お母さんたちを待たせるつもりはないけど………ありがとう」
珍しくぎこちない微笑みを浮かべるお姉ちゃんを、隣の美紅ちゃんが不思議そうに見上げた。
「ほーこくって、みくにもしてくれるの?」
目を見開いて美紅ちゃんを見つめたお姉ちゃんは、すぐに優しい笑顔を浮かべて頷いた。
「うん。美紅ちゃんにも、お説教してもらおうかな」
まかせて!と美紅ちゃんが夏目先輩を見張るための目付きをしてみせる。
頼もしいね、とお姉ちゃんとお母さんが微笑んだ。
段ボールを持ったまま呼ぶと、なぁにーとお母さんは炬燵に潜りこんだまま声をあげた。
「今年のごみ収集、まだ終わってないよね?」
「どうだったかなぁ………処分するなら、とりあえずゴミ箱近くにそのまま置いといてぼちぼち捨てればいいんじゃない?」
お母さんの緩い返事に何も言わないところを見ると、お姉ちゃんも年内にごみ出しを終わらせることに拘っていないみたい。
「解っ………なにこれ………」
段ボールを置こうとして、勝手口近くの歪な形のごみ袋に掠れた声を出した。数日前にはなかったごみ袋。
「何って、見れば解るでしょ。空き缶のごみ袋よ」
「なんでこんな大きな袋一杯の空き缶ゴミが出るの?これ、この間までなかったよね?」
匂いに顔をしかめながら聞くと、うーんとお姉ちゃんは唸った。
「それはこの間クリスマスだったからね」
一晩でごみ袋一つ分のお酒を飲んだらしい。壁沿いに真新しい空き瓶が仲良く並べられていて、大きなため息をついてしまった。
「お姉ちゃん、一晩でこんなに飲んじゃ駄目だよ………」
両親もお姉ちゃんもお酒が好き。でも、酔っぱらっておかしなことをしたり次の日頭を抱えて唸ったりしないのはお姉ちゃんだけ。
たぶん、お父さんもお母さんもお酒は好きだけど弱いのだと思う。
お姉ちゃんは頻繁ではないけど、家でも外でも楽しく飲む。外で飲むときはきちんと帰ってくるし、家で飲むときはあとで必ず自分で後片づけをする。そして次の日はケロッといつも通り仕事に行く。
美紅ちゃんが家に来てからは外でも家でもあまり飲んでいないようだった。美紅ちゃんを気にしてのことかもしれないけど、美紅ちゃんがいないからって一度にたくさん飲んだら身体に悪いんじゃないかな。
心配から言うけど、お姉ちゃんは苦笑するばかり。
「あたし一人で飲んだわけじゃないわよ?お母さんも一緒に飲んでたし、途中からお父さんも交ぜてあげたし」
元々女子会の予定だったからお母さんはともかく、思ったよりも早く帰ってきたお父さんが途中参加したから自分が飲む分が少なくなったんだ、とお姉ちゃんは頬を膨らませた。
酔っぱらったお父さんにはいつも困ってるけど、お姉ちゃんの分のお酒が少しでも少なくなったからお父さんには感謝しないといけないのかな。
お父さんの酔い姿を思い起こして眉を寄せていると、先輩が私の名前を呼んで台所を覗いた。今まで話題に上がっていた宴会の名残に目を見開く。恥ずかしくなって俯いた。
「せ、先輩。どうしましたか?」
あぁ、と応える声に呆れがなくて安堵のため息が口から零れた。
「その段ボールの中身なんだが、もう使わないなら貰ってもいいか?」
え、と瞬きをして足元の段ボールを見つめる。これですか?と視線で問うと先輩はあっさり頷いた。
「え。でもこれ、本当にゴミで」
段ボールに四年間も入れっ放しだった油絵の具や絵筆が今でも使えるか解らないのに、先輩はどうしても欲しいと言って軽々と段ボールを持ち上げた。
「ほ、本当にそんなゴミ持ち帰るんですか?」
うん、と頷いた先輩は優しい目で私を見つめた。
「先輩?」
綺麗な目に引きこまれるように近づくと、温かい唇が軽く私の唇に触れてから優しく食まれる。
先輩を呼ぶ自分の声が甘くて驚きと恥ずかしさで耳が熱くなる。
おでこをくっつけたまま、先輩が艶っぽく微笑んだ。
「大掃除、無事に終わって良かったな」
「―――はい。先輩も、手伝ってくれて、ありがとう、ございます」
息継ぎの合間になんとか紡いだ言葉に応える先輩の声が甘くて、もっと幸せな息苦しさに頭がぼうっとして頬どころか目まで熱くなる。
大掃除お疲れ様の挨拶なのに、どうしてもこんなに甘い雰囲気になるんだろう。
「年明けたら、初詣行こうか」
聞いた口で音をたててキスされるから、簡単な返事にも口がなかなか動かない。甘い空気にすがりつきたい手で、必死に自分のニットを握りしめた。
「………っ………はい………いきたい、です………」
「そうか。じゃあ、後でメールする」
近くで聞こえる甘くて低い声に身体が震えるのを隠したくて必死に首を縦に振ると、おでこにしっかりと唇が当てられた。
おでこへのキスに固まると、鼻、頬を掠めた唇が最後に耳をかぷっと食んだ。
「ふっ………ひゃっ?」
思わず堪えていた声を出してしまうと、先輩は満足そうに微笑んだ。
「結香。今年は色々ありがとう。来年も宜しくな」
「はっ、はひっ………こちら、こしょ、ょろしくおねがぃしまふっ」
全然言えていない返事にもにっこりと笑って先輩は帰っていった。
皺になるわよ、とお姉ちゃんに両手を開かれるまで、私はそのまま玄関に立ち尽くしていた。
具体的にどうするのかは不明だけど。
来年はもう少し先輩の色っぽい攻撃への防御力を上げたいと思う。
◆ 色仕掛けしてでも欲しいもの ◆
「おー、おかえり、夕弦。お前、帰るなりそんな暗い所で何してんだ?」
あぁ、と返事を返しながら段ボールを置いて立ち上がる。
「裏口なんて、こんなもんだろう。でも、お前のお蔭で綺麗じゃないか」
褒めたというのに、光司は渋面を浮かべて壁に寄りかかった。
「温い寝床を盾に取られたんじゃ、草むしりだろうが壁磨きだろうがやるしかなかろうが。ったく、毎年毎年コキ使いやがって。しかも可愛い女の子を見張りにするなんて、なんつー卑怯なマネをするようになったんだ、お前は。俺はそんな子に育てたつもりはないぞっ」
喚く光司を、寒いから中に入ろうと促す。
「ふざけてないで、中に入ろう。汁粉を作ってやる」
「お前はまた甘いモンを………」
仕方ないなと嘆息した光司が、段ボールを顎で指差して小首を傾げた。
「お前、親父さんに差し入れに行ったのに、何処からそんなもんを持ってきたんだよ?」
「まぁ、色々あってな。早く処分したかったんだが、あぁしとけば適当に捌いてくれるだろうと思ってな」
ふぅん、と息をついた光司が俺の手元を覗き込む。
「そっちのスケッチブックは?」
こっちはいいんだ、と抱え直す。
「そのうち預けることになるだろうが、今すぐは勿体無いからな」
ふぅん、とまた唸った光司は、呆れたように俺の顔を見た。
「お前、一年もかからずにそんなのめり込んで、来年は一体どうなるんだろうな」
来年の一言に考えを巡らせる。
結香は高校生活最後の一年になる。恐らく進路変更はないだろうが、もうそろそろ細かいことを話し合って決めていく必要がある。
今年は出来なかったことでも来年は出来るかもしれない。もっと頻繁に会いに行かないといけない。
「忙しい一年になるだろうな」
「無表情でそんな嬉々と何を企んでいるのやら………俺、彼女ちゃんの身が案じられてきたぞ」
聞き捨てならない一言に目を眇る。
「お前が結香の身を案じるな」
「はいはい。一々ヤキモチ妬かずに汁粉を作ろうね」
呆れ口調で言い捨てると、勝手知ったる体で光司はさっさと炬燵に潜り込んだ。
タオルで頭を拭いていると、俺の着信音が流れた。
『結香様と勘違いさせてしまいましたか?』
要らん気遣いに嘆息に苛立ちが混じる。
「着信音が違うんだ。勘違い等するか」
『それはそれは。夕弦様もそんなマメなことをなさるんですねぇ』
余計なことを言ってしまったと苦々しく思いながら、何か用かと聞けば、笑い声のまま相手は言った。
『お礼をと思いまして。今日は結構なものを頂きましてありがとうございます』
夕食前に確認はしたが、本当に持って行ったらしい。
「早く結香の視界から取り除きたかったからな。あれが役立つのか?」
画材本来の使用目的ではもう役に立たない気もするが、何も考えずに持って帰ったわけでもないようだ。
『為せば成る、というじゃありませんか。結香様の憂いの元凶か身の程知らずか。どちらに使おうか今会議中ですが、夕弦様としては何かお考えがあるので?』
「どちらでもいい。とにかく結香の視界に二度と入らなければ」
その話し合いに名前が挙がっている以上マークされていることに変わりないのだから、とりあえずはそれでいい。
夕弦様は無欲ですねぇと笑う影山に、廊下の気配を窺いながら低い声で聞く。
「クリスマスのことについて、俺は礼を言うべきなのか」
あぁ~と陽気な声ながらも、影山は返事を躊躇った。
『いいんじゃないですかね、言わなくても。スポンサーの因縁はこちらですし。旦那様のストップが入って、実質こちらは何もしてませんから』
まだ、ね。という黒い一言は無視することにした。
『まぁ、年内に下らないのが纏めて片付いて良かったじゃないですか。良い子にはプレゼントがあるんですよ』
「そうか。じゃあ、そういうことで」
照れちゃって、もぅ。という笑い声に思い切り嘆息する。
『礼を言うより、スケッチブックを拝見させて頂く方がいいと思うんですけどね』
「そのうちな」
今は駄目だと言うと、影山はあからさまな笑い声を上げた。
そろそろ光司も上がってくる頃合いだ。
切り上げるかと考えていると、やたら真面目な声で呼ばれた。
『資料は既に色々揃えておりますが』
考えを読まれていたことには眉をひそめたが、軽く息をついて苛立ちを紛らわせる。
「結香とも相談しないといけないから。そのうち爺さんの所に顔を出す」
お待ちしております、という声を聞いて通話を切った。
楽しかったクリスマス。
パーティーが終わって、片づけやお風呂でみんながバタバタしている中、先輩がプレゼントと言って手渡してくれた。
そう、クリスマスはみんなで先輩の家にお泊まりだったのです。
「公平にあみだくじで部屋割り決めますっ」と言う夏目先輩の脳天に先輩が拳を落とし私は萌ちゃんや知佳ちゃんと和室で寝たんだけど、お喋りが楽しくて次の日は少し寝坊しちゃいました。
のんびり朝ごはんを頂いて昨日の後片づけを手伝って家に帰ってから先輩から貰ったプレゼントを開けてみて、思わずわぁと声をあげてしまった。
クレヨンだった。立派な木の箱に入った物と、綿の袋に入った物と、二種類のクレヨン。
木の箱に入った方は、野菜から作られたクレヨン。いつもはあまり出番がない黒や白も、翳してみると深い色をしていて、早く使いたくてワクワクする。
綿の袋に入ってたのは、最初クレヨンだとは解らなかった。パワーストーンかな、とつつきながらメモを読んでクレヨンなんだと知って驚いた。
お礼のメールを送ると、すぐに返信が来た。
―――クレヨンばかりで呆れられるかと思ったが、喜んで貰えて良かった。こちらも、眼鏡をありがとう。有り難く使わせてもらうよ。
ブルーライトをカットする眼鏡を送ってみたけど、喜んでもらえたみたいでホッと息をついた。前に、資料探しをしたあとは意外に目が疲れると言っていたのを覚えていて良かった。
もちろん私も貰ったクレヨンは大事に使うつもりだけど、せっかく可愛い入れ物に入ってるんだしと机に飾った。
それ以来、ついついことあるごとに机の上を見てニヤニヤ笑ってしまうのです。いい加減、大掃除をしないといけないんだけど。
「また一休みしてるの?」
少し呆れたように片眉を上げるお姉ちゃんに、私とお母さんはエヘヘと苦笑した。
纏め上げた髪をスカーフできちんとくるんでいても、お姉ちゃんの立ち姿は凛としている。ブランドショップのオーナーをしているお姉ちゃんはお掃除スタイルにも手を抜かない。ゴム手袋を嵌めてるのにダサくないお姉ちゃんって、すごすぎて怒られてるのに見入ってしまう。
「茜、そんな薄着で寒くないの?」
炬燵に潜るお母さんに向かって、お姉ちゃんはため息をついた。
「厚着してたら掃除の邪魔でしょ」
炬燵から出てさっさと大掃除に戻りなさいと言うお姉ちゃんに、苦笑を浮かべながらもお母さんは動かない。
「だって大掃除って、いつまでやっても終わらないじゃない。ウチは別にお客様を呼ぶ予定ないんだし、適当でいいかなって」
半ば開き直るお母さんを見て、お姉ちゃんは大きくため息をついて首を振った。
「―――解ったわ」
そしてスマホを取り出すと、どこかに電話をかけた。
「―――あ、もしもし。この間はどうも………うん、まぁそうなんだけどね。ちょっと大掃除手伝ってくれない?年越しそばご馳走してあげるから………いやぁねぇ、年末に食べるそばなんだから年越しそばってことでいいじゃない」
細かいことぶちぶち言わないでよ、禿げるわよ。なんて言ってから、じゃあ早めに来てねと電話を切ったお姉ちゃんに、誰に電話したのと聞けば、夕弦くん、と当たり前のように答えた。
「えぇぇっ、先輩、ここに来るのっ?」
「茜っ、人様に大掃除手伝わせるなんて、なんてことをっ」
慌てる私たちに、お姉ちゃんはプイッと拗ねてみせた。
「だってあたしばかり高い所の掃除やってて、疲れるんだもん。夕弦くんがここに来るのなんて、日常茶飯事なんだからいいじゃない。それに」
お姉ちゃんはにんまりと人の悪い笑みを浮かべて私たちの顔を覗きこんだ。
「人様が来るんだから、やる気にもなるわよね。大掃除」
急いで炬燵から抜け出る私たちに、お姉ちゃんはカラカラと笑った。
「お母さんは掃除機がけ、結香は自分の部屋を主にやりなさいね。夕弦くんの到着まで時間ないから。キリキリねーっ」
年末で仕事も忙しいはずなのに、お姉ちゃんは家でも元気。
良いことなんだけど、ダラダラしてるときに先輩を呼ぶのはやめてほしいっ。
チャイムや遠い話し声で先輩が来たのだと解るけど、お姉ちゃんが怖くて部屋の外に出ることができない。
先輩には会いたいけど、掃除を止めたらお姉ちゃんにものすごく怒られると解ってるから。
お姉ちゃんは基本的にはいつも優しいんだけど、きちんとした理由もなく義務を怠る人にはものすごく厳しい。
学生時代のときの知り合いには、お姉ちゃんに厳しい指導だったけどすごくお世話になったという人が何人かいて、たまに私にも挨拶してくれる人もいる。お姉ちゃんは中学も高校も女子高で部活には入ってなかったはずなんだけど、いつの間に同年代の男の人と知り合いになっていて、しかもいまだに妹の私がお礼を言われるほどのお世話をしたのか、謎だ。
お母さんの声が聞こえる。掃除機がけが終わったのかな。
小さなノックの音がして、狭い隙間から小さな頭がのぞいた。
「美紅ちゃん、おかえりなさい」
先輩が一緒に連れ帰ってくれたみたい。
「ゆぃかおねぇちゃん、みく、おてつだいしてもいー?」
「あ、ありがとう。じゃあね、テーブルを拭いてもらおうかな」
絞った雑巾を渡すと、んしょ、んしょ、とかけ声をかけながら一生懸命雑巾がけをしてくれる。そうしながら、先輩の家でも大掃除の手伝いをしてきたのだと話してくれた。
「きょぉはね、ゆじゅぅおにぃちゃんがおでかけしたんだって。でね、みくに、こーじおにぃちゃんのことみはっててっていったの」
見張ってないと、すぐ光司はサボるからな。しっかり見張っていてくれよ。
むくれる夏目先輩の前で、美紅ちゃんに先輩はそう言ったらしい。
「だからね、みく、よぅおにぃちゃんといっしょに、こーじおにぃちゃんのことずっとみてたの!」
こぉやって!と美紅ちゃんが大きな目をくわっと見開いてみせる。美紅ちゃんは真剣に厳しい目つきをしようとしてると解るけど可愛くて、思わず笑ってしまう。二人にずっとこんな風に見られてたんじゃ、夏目先輩も大変だっただろうな。
「そうなの。美紅ちゃん、頑張ったんだね」
うん!と美紅ちゃんは笑顔に戻る。
「んでね、こーじおにぃちゃんがにげなかったからごほぉびだよって、ゆじゅぅおにぃちゃんがぷりんを、あっ!」
楽しそうに話していたのに、美紅ちゃんは口を両手で抑えて困った表情を浮かべた。
「ぷりんのこと、ゆじゅぅおにぃちゃんにないしょだよっていわれてたの………」
「そうなの。じゃ、お口チャックしないとね」
指を口の前でクロスさせると、美紅ちゃんも真似して二人で笑い合う。
しばらく笑い合ってから、また二人で拭き掃除をする。
フローリングをぴょこぴょこ移動していた美紅ちゃんが、私を呼んだ。
「こりぇ、なぁに?」
とりあえず引っ張り出したままにしていた段ボールを不思議そうに見ている。
「うん、これはねぇ………前に使っていた物で、もう捨てようかと思ったんだけど」
雑巾で気持ち程度に表面を撫でてから、封を切る。空中に細かい埃が舞った。
あとでもう一度掃除機をかけて拭き掃除をしないと。
日にキラキラと光る埃を目で追いながら、ふ、と息をついて箱の中に視線を落とした。
箱を移動させたときの衝撃で少しよれているけど、四年前まとめて入れたままに残っていた。
ちょっと古ぼけた箱を取って蓋を開ける。中にはやっぱり基本の色のチューブが並んで収まっていて、所々凹んでいるのを見つけると、なんだか懐かしいような切ないような気持ちに息が詰まった。
それ、なぁに?と聞く美紅ちゃんの声がなぜか遠くから響く。美紅ちゃんは私の手元を覗きこんでいるのに。
「これはねぇ、油絵の具だよ」
あぶら?おりょぉりの?
「お料理に使うのとは別の油なんだけど、食べられない油でできてる絵の具なんだよ」
すごいねーと感心する美紅ちゃんの声も、応える自分の声も現実味がない。さっきからふわふわしてるけど、自分の身体なのか視界なのかも解らないまま、これみてもいー?と興味津々の美紅ちゃんに請われるままスケッチブックを取り出す。
嬉しそうな声をあげながら、美紅ちゃんがページを捲る。
久しぶりに見る絵は自分の手と頭で解っているのに、なぜか他人事のようで、それでもやっぱり懐かしかった。
最初の一枚は校門近くの桜の木。
新しく買ってもらったスケッチブックに描く最初の一枚だから、何を対象にするか悩んで悩んで。やっぱり最初に思いついた桜の木にしたけど、桜の花はすっかり落ちてしまって、ものすごく残念に思いながら描いた。
野球部の練習。
本当はアップで描きたかったんだけど、練習の邪魔をするわけにいかないし、からかわれるのが怖かったから遠くから全体的に描くしかなくて、結局全然上手く描けなかった。
日の射しこむ廊下。
職員室が近かったから、スケッチしているときにちょくちょくいろんな先生に話しかけられて、けっこう恥ずかしかった。
柔軟体操をしている知佳ちゃん。
私の絵を見た陸上部の女の子たちに、足とお尻のラインがエロいって騒がれた知佳ちゃんがしばらく機嫌が悪くて、申し訳なくて仕方なかった。
昼休みの教室。
みんなが代わる代わるポーズをとってくれた。みんながいつも通りにしているところを描きたかったんだけど、これも楽しかったな。
絵が代わる度に描いてたときのこと、そのとき話してた会話、好きだったお菓子や音楽を思い出す。
色が少しずつ暗くなる。線が少しずつ少なくなる。
それにつれて、懐かしさに苦しさが加わった。
もぉおわっちゃった、という残念そうな声がクリアに耳に響いて、ゆっくり何回か瞬きをして息をついた。
「ゆぃかおねぇちゃん、え、もぉないの?」
美紅ちゃんにとってはあっという間に見終えてしまう枚数で、物足りなかったみたい。
スケッチブックを片手に歩き回ったり夢中になって描いてるときにはいろいろなことをたくさん考えたり感じたり。いろいろあったはずなのに、ちゃんとした絵の枚数にすると十枚にも満たなくて、不思議と苦笑が浮かんでくる。
「このスケッチブックは、ここでおしまいなんだけど」
箱の中に入ってた未使用のスケッチブックを取り出した。
「これ、この間貰ったんだけど、これでクリスマスパーティーの絵を描かない?」
いつもデートに行くとお礼代わりに描いた絵を先輩に写メしているけど、今回は描いた絵をそのまま渡してみようかな。素人の絵のプレゼントなんてもらっても嬉しくないかもしれないけど、進藤家の皆さんは美紅ちゃんが大好きだもの。喜んでくれるはず。
小石に似たクレヨンを袋から出してみせると、使ってみたいと目を輝かせた美紅ちゃんだけど、なかなか触ろうとしないでモジモジしている。
「たくさん絵を描いてプレゼントしたら、喜んでくれるんじゃないかな」
「ほんと?」
ゆっくり頷いてみせると、じゃあかくっとやっと笑った。
クリスマスパーティーも楽しかったけど、その準備も美紅ちゃんには楽しいイベントだったみたいで、何枚も描きながら次から次へと話してくれた。
夏目先輩が幼稚園の先生の真似をしながら鋏の使い方を教えてくれたこと。
工作をするときは陽くんがずっと付き添ってくれたこと。
先輩に肩車してもらって、庭の木に飾りつけをしたこと。
先輩やお母さんに作ってもらったおやつを、夏目先輩と競争しながら食べたこと。
ページが捲られる度に話されるエピソードが面白くて、ドアが開いたことにも気づかなかった。
できたぁっと美紅ちゃんが最後のページを満足そうに見ていると、穏やかな声が間近に聞こえた。
「良く描けたな」
慌てて二人で振り返ると、いつの間にか先輩が微笑みを浮かべて座っていた。私のベッドに背中を預けて、手にはさっき美紅ちゃんが見ていた私の使いかけのスケッチブックが。
「な、ぁ、せ?」
動揺でまともに話すこともできない私に、先輩は苦笑した。
「悪い。ノックをしたんだが返事が無かったし、二人が楽しそうだから入ってしまったんだ」
「そっ、そそっ、そぉなんですかっ?えと、何か、ご用が?」
ぎごちなく口を動かしながら必死に脳ミソを働かせる。
部活のスケッチブック、先輩にバッチリ見られちゃった!は、早く取り戻さないと………もっと前に捨てとけば良かった………忘れてた私がいけないんだけど!
あぁぁ、先輩、そんなにしっかり見ないでっ………!
あ!先輩、どのくらいドアの前でお待たせしちゃったんだろう………謝らないと。
あれ?私、返事しなかったけどそれでも入らなきゃいけないほどの用事があったってこと?
でも、先輩は全然焦ってないし………またスケッチブック見てるし………
はぅっ!??
そういえば、先輩が私の部屋にいる!!!
ど、どうしよう………大掃除してたから散らかしてはいないけど………あ、さっき埃舞っちゃったけど、大丈夫かな………
「ゆじゅぅおにぃちゃん、おんなのこのおへやにかってにはいっちゃだめなんだよ?」
はわ!
私がアワアワしているうちに、美紅ちゃんが先輩にお説教してしまった。
ごめん、とあっさり先輩は謝る。
「二人が楽しそうだったから何をしているのか気になったし、一度結香の部屋を見ておきたかったんだ」
ごめんと私に向けられた目がすごく優しくて甘くて、急に頬に集まった熱を払うように首を振った。
部屋を見たいというのはたぶん、私のことをもっと知りたいと思ってくれてるってことだよね。
それは、ものすごく嬉しい。
でも、やっぱり恥ずかしいことは恥ずかしいわけで。
心の中でうーうー唸っている私をよそに、美紅ちゃんは先輩に描いたスケッチブックを見せている。
「上手に描いたな。あのクレヨン、持ちやすかったか?」
うん!と笑顔で頷いた美紅ちゃんが、テーブルの上を見て、あ、と気まずそうな表情を私に向けた。
「ごめんなさい、ゆぃかおねぇちゃん。いっぱいなくなっちゃった………」
スケッチブックいっぱいに絵を描いたあとだから、新品だったクレヨンもすっかり小さくなっていた。
大丈夫だよと言っても、美紅ちゃんはしょぼんと俯いたまま。
その頭を、大きな手が優しく撫でた。
「美紅ちゃんがそんなに気に入ったなら、本当に良いクレヨンだったんだな。また結香にプレゼント出来る」
ありがとう、と微笑む先輩を美紅ちゃんが目を見開いて見上げる。
「みく、くれよんいっぱいつかっちゃったのに、ありがとうなの?」
ひとつ頷いて先輩は笑顔を浮かべた。
「結香が美紅ちゃんに使って欲しいと言ったのだし、二人共楽しかったんだから、謝ることはない。それを買ったのはすごく大きな画材屋だから、デートで行ってもいいかもしれないと思い付いた。だから、ありがとう」
先輩の言葉を聞くうちに少し落ち着いた美紅ちゃんがチラリと私を見る。
「美紅ちゃん、クレヨンはね、使えばなくなる物だから、謝ることないんだよ。それに、短くなったクレヨンは復活できるんだから、大丈夫だよ」
「ふっかつ?」
驚いてさらに目を大きくする美紅ちゃんに、私はえへんと胸を張ってみせた。
「そうだよー。必殺技を使えばクレヨンは大きく、しかも可愛くなっちゃうんだから」
すごいすごい、と座ったまま跳ねる美紅ちゃんに、私はにまっと笑った。
「じゃあ、あとでやってみようか。必殺技」
やるーっと手を挙げる美紅ちゃんに心の中で安堵のため息をついていると、ぽふ、と頭に温かい重みが乗った。
「その前に、下で一休みしないか」
一階ではもうみんな掃除を終えて休憩に入ったので先輩が呼びに来てくれたのです。
「じゃあ、下に行こうか………あの、先輩?」
何だ、と首を傾げる先輩に手を伸ばした。
「その、スケッチブック………こちらに」
なぜかそのままスケッチブックを持って部屋を出ようとした先輩から受け取ったスケッチブックを段ボールに戻して、三人で一階に降りました。
階段まで漂う香りでまさかと思ったけど、本当にお蕎麦を茹でていました。
こんな中途半端な時間に食べて大丈夫かなと首を傾げるけど、お姉ちゃんは気にしないみたい。
「結香、良いタイミングね」
明るい笑顔を浮かべたお姉ちゃんが、これは結香の分といいながらお蕎麦をよそう。
しっかり手を洗ってからお盆にお蕎麦の器とお箸を乗せると、先輩が止める間もなく炬燵へ運んでくれた。
炬燵にはもうお母さんが潜りこんでいて、少ししかめ面で唸っている。
お母さんも寒さには弱いから、大掃除で炬燵から出たのが堪えたのかなと思ったけど、違うと頚を横に振られた。
「せっかく夕弦くんが来てくれたのに、ちょっとお話しようと思ったら茜に叱られたの」
「えぇっ?」と驚く私の向かいに潜りながら、お姉ちゃんが眉を寄せた。
「調子の良いこと言って。サボろうとするからじゃない。それに、あれはちょっとじゃないわよ、明らかに」
ねーぇ?と同意を求められた美紅ちゃんも眉をぎゅっと寄せて頷く。勢いが良すぎて炬燵の角におでこをぶつけないか心配になったけど、幸い当たらずに済んだみたい。
「ゆじゅぅおにぃちゃんはゆぃかおねぇちゃんのなのよ。だめなのよっ」
はい、ごめんなさい。と素直に謝ったお母さんは自分のお蕎麦の上に乗っていたかまぼこを美紅ちゃんの器にポンと入れた。ニッと笑顔に戻った美紅ちゃんにホーッと息をついてから、軽く手を合わせて箸を入れる。
「結香、蕎麦が伸びるぞ」
右の頬をつつかれて囁かれる。
「いっ、いただきますっ」
慌てて手を合わせると、熱いから焦らないでね、とお姉ちゃんに生温いものを見る目で見つめられてしまった。
いつもより部屋が明るいな、と見回しているとお姉ちゃんが満足そうに笑った。
「夕弦くんが手伝ってくれたからね」
「そうなんだ。先輩、ありがとうございます」
自分の家の大掃除もあるのに、と頭を下げると先輩は、構わない、と首を振った。
「光司がいるから」
「そ、そうかもしれないですけど……いくら泊めてるからって夏目先輩に手伝わせるのは、悪くないですか?」
それは大丈夫だ、と先輩は淡々と説明した。
元々夏目先輩は、毎年何やかんやと理由をつけて大掃除から逃げる人だった。そうして先輩の家に逃げこむのに、先輩が「ここに居座るなら手伝え」と言うと文句を言いながら、ついでに掃除の合間にちょこちょこ逃げ出しながらも結局手伝ってくれる。夏目先輩にとって、大掃除は先輩の家と決まってるらしい。
「どうせやるのだから、最初から自分の家を掃除すれば済む話だと思うんだが」
そう言ってため息をついた先輩だけど、今年は美紅ちゃんが叱ってくれるから光司が脱走しないで助かる、と破顔した。
「その子、夕弦くんのことも夕弦くんの家も気に入ってるのね」
お母さんが微笑むと、先輩は意外そうに瞬きをした。
「……………どうですかね」
珍しく歯切れの悪い返事をする先輩の耳が少し紅い。
思わず小さな笑い声を漏らしてしまった。
「こうして炬燵でお蕎麦食べてると、今年も終わりだなぁってしみじみしちゃうわよね」
「まだ、あと何日かあるけどね。大掃除もまだだからね」
すかさず釘を指すお姉ちゃんに、解ってるわよ、と苦笑しながらもお母さんは微笑んだ。
「今年は、すごく良い年だったわよね。結香は夕弦くんとお付き合いできて、すごく充実した一年だったでしょ?」
一気に顔が熱くなったけど、そうだね、となんとか声を出す。先輩の指が冷たくて気持ちいい。
「みくね、とってもたのしいよ!」
フォークを握って笑う美紅ちゃんに微笑み返すと、お母さんはお姉ちゃんを優しく見つめた。
「茜も、良い一年だったわよね?」
小首を傾げてから、お姉ちゃんは軽く頷いた。
「そうね。本音を言えば、素の姿さらす前にもうちょっと夕弦くんをいろいろ試して見たかったけど。まぁ自分でやってて違和感ありすぎたから、良いお姉さん像。早々にバレて良かったのかもね」
違うわよ、とお母さんが目を眇るとお姉ちゃんの手がつと止まった。
「貴女個人として、良い年だったでしょう?」
お姉ちゃんの目は少し宙を彷徨う。
「……………たぶん。もしかしたら、だけど」
渋々返された返事に、それでもお母さんは満足そうに微笑んだ。
「そのうち、報告はしてくれるんでしょう?」
お姉ちゃんは少し難しい表情を浮かべていたけど、ふ、と息をついて今度はしっかり頷いた。
「あたしが納得したら、ね」
お母さんが嬉しそうに破顔した。
「待ってるわ。お父さんもね。でも、焦らなくていいからね」
お姉ちゃんも小さく破顔した。
「ん。お母さんたちを待たせるつもりはないけど………ありがとう」
珍しくぎこちない微笑みを浮かべるお姉ちゃんを、隣の美紅ちゃんが不思議そうに見上げた。
「ほーこくって、みくにもしてくれるの?」
目を見開いて美紅ちゃんを見つめたお姉ちゃんは、すぐに優しい笑顔を浮かべて頷いた。
「うん。美紅ちゃんにも、お説教してもらおうかな」
まかせて!と美紅ちゃんが夏目先輩を見張るための目付きをしてみせる。
頼もしいね、とお姉ちゃんとお母さんが微笑んだ。
段ボールを持ったまま呼ぶと、なぁにーとお母さんは炬燵に潜りこんだまま声をあげた。
「今年のごみ収集、まだ終わってないよね?」
「どうだったかなぁ………処分するなら、とりあえずゴミ箱近くにそのまま置いといてぼちぼち捨てればいいんじゃない?」
お母さんの緩い返事に何も言わないところを見ると、お姉ちゃんも年内にごみ出しを終わらせることに拘っていないみたい。
「解っ………なにこれ………」
段ボールを置こうとして、勝手口近くの歪な形のごみ袋に掠れた声を出した。数日前にはなかったごみ袋。
「何って、見れば解るでしょ。空き缶のごみ袋よ」
「なんでこんな大きな袋一杯の空き缶ゴミが出るの?これ、この間までなかったよね?」
匂いに顔をしかめながら聞くと、うーんとお姉ちゃんは唸った。
「それはこの間クリスマスだったからね」
一晩でごみ袋一つ分のお酒を飲んだらしい。壁沿いに真新しい空き瓶が仲良く並べられていて、大きなため息をついてしまった。
「お姉ちゃん、一晩でこんなに飲んじゃ駄目だよ………」
両親もお姉ちゃんもお酒が好き。でも、酔っぱらっておかしなことをしたり次の日頭を抱えて唸ったりしないのはお姉ちゃんだけ。
たぶん、お父さんもお母さんもお酒は好きだけど弱いのだと思う。
お姉ちゃんは頻繁ではないけど、家でも外でも楽しく飲む。外で飲むときはきちんと帰ってくるし、家で飲むときはあとで必ず自分で後片づけをする。そして次の日はケロッといつも通り仕事に行く。
美紅ちゃんが家に来てからは外でも家でもあまり飲んでいないようだった。美紅ちゃんを気にしてのことかもしれないけど、美紅ちゃんがいないからって一度にたくさん飲んだら身体に悪いんじゃないかな。
心配から言うけど、お姉ちゃんは苦笑するばかり。
「あたし一人で飲んだわけじゃないわよ?お母さんも一緒に飲んでたし、途中からお父さんも交ぜてあげたし」
元々女子会の予定だったからお母さんはともかく、思ったよりも早く帰ってきたお父さんが途中参加したから自分が飲む分が少なくなったんだ、とお姉ちゃんは頬を膨らませた。
酔っぱらったお父さんにはいつも困ってるけど、お姉ちゃんの分のお酒が少しでも少なくなったからお父さんには感謝しないといけないのかな。
お父さんの酔い姿を思い起こして眉を寄せていると、先輩が私の名前を呼んで台所を覗いた。今まで話題に上がっていた宴会の名残に目を見開く。恥ずかしくなって俯いた。
「せ、先輩。どうしましたか?」
あぁ、と応える声に呆れがなくて安堵のため息が口から零れた。
「その段ボールの中身なんだが、もう使わないなら貰ってもいいか?」
え、と瞬きをして足元の段ボールを見つめる。これですか?と視線で問うと先輩はあっさり頷いた。
「え。でもこれ、本当にゴミで」
段ボールに四年間も入れっ放しだった油絵の具や絵筆が今でも使えるか解らないのに、先輩はどうしても欲しいと言って軽々と段ボールを持ち上げた。
「ほ、本当にそんなゴミ持ち帰るんですか?」
うん、と頷いた先輩は優しい目で私を見つめた。
「先輩?」
綺麗な目に引きこまれるように近づくと、温かい唇が軽く私の唇に触れてから優しく食まれる。
先輩を呼ぶ自分の声が甘くて驚きと恥ずかしさで耳が熱くなる。
おでこをくっつけたまま、先輩が艶っぽく微笑んだ。
「大掃除、無事に終わって良かったな」
「―――はい。先輩も、手伝ってくれて、ありがとう、ございます」
息継ぎの合間になんとか紡いだ言葉に応える先輩の声が甘くて、もっと幸せな息苦しさに頭がぼうっとして頬どころか目まで熱くなる。
大掃除お疲れ様の挨拶なのに、どうしてもこんなに甘い雰囲気になるんだろう。
「年明けたら、初詣行こうか」
聞いた口で音をたててキスされるから、簡単な返事にも口がなかなか動かない。甘い空気にすがりつきたい手で、必死に自分のニットを握りしめた。
「………っ………はい………いきたい、です………」
「そうか。じゃあ、後でメールする」
近くで聞こえる甘くて低い声に身体が震えるのを隠したくて必死に首を縦に振ると、おでこにしっかりと唇が当てられた。
おでこへのキスに固まると、鼻、頬を掠めた唇が最後に耳をかぷっと食んだ。
「ふっ………ひゃっ?」
思わず堪えていた声を出してしまうと、先輩は満足そうに微笑んだ。
「結香。今年は色々ありがとう。来年も宜しくな」
「はっ、はひっ………こちら、こしょ、ょろしくおねがぃしまふっ」
全然言えていない返事にもにっこりと笑って先輩は帰っていった。
皺になるわよ、とお姉ちゃんに両手を開かれるまで、私はそのまま玄関に立ち尽くしていた。
具体的にどうするのかは不明だけど。
来年はもう少し先輩の色っぽい攻撃への防御力を上げたいと思う。
◆ 色仕掛けしてでも欲しいもの ◆
「おー、おかえり、夕弦。お前、帰るなりそんな暗い所で何してんだ?」
あぁ、と返事を返しながら段ボールを置いて立ち上がる。
「裏口なんて、こんなもんだろう。でも、お前のお蔭で綺麗じゃないか」
褒めたというのに、光司は渋面を浮かべて壁に寄りかかった。
「温い寝床を盾に取られたんじゃ、草むしりだろうが壁磨きだろうがやるしかなかろうが。ったく、毎年毎年コキ使いやがって。しかも可愛い女の子を見張りにするなんて、なんつー卑怯なマネをするようになったんだ、お前は。俺はそんな子に育てたつもりはないぞっ」
喚く光司を、寒いから中に入ろうと促す。
「ふざけてないで、中に入ろう。汁粉を作ってやる」
「お前はまた甘いモンを………」
仕方ないなと嘆息した光司が、段ボールを顎で指差して小首を傾げた。
「お前、親父さんに差し入れに行ったのに、何処からそんなもんを持ってきたんだよ?」
「まぁ、色々あってな。早く処分したかったんだが、あぁしとけば適当に捌いてくれるだろうと思ってな」
ふぅん、と息をついた光司が俺の手元を覗き込む。
「そっちのスケッチブックは?」
こっちはいいんだ、と抱え直す。
「そのうち預けることになるだろうが、今すぐは勿体無いからな」
ふぅん、とまた唸った光司は、呆れたように俺の顔を見た。
「お前、一年もかからずにそんなのめり込んで、来年は一体どうなるんだろうな」
来年の一言に考えを巡らせる。
結香は高校生活最後の一年になる。恐らく進路変更はないだろうが、もうそろそろ細かいことを話し合って決めていく必要がある。
今年は出来なかったことでも来年は出来るかもしれない。もっと頻繁に会いに行かないといけない。
「忙しい一年になるだろうな」
「無表情でそんな嬉々と何を企んでいるのやら………俺、彼女ちゃんの身が案じられてきたぞ」
聞き捨てならない一言に目を眇る。
「お前が結香の身を案じるな」
「はいはい。一々ヤキモチ妬かずに汁粉を作ろうね」
呆れ口調で言い捨てると、勝手知ったる体で光司はさっさと炬燵に潜り込んだ。
タオルで頭を拭いていると、俺の着信音が流れた。
『結香様と勘違いさせてしまいましたか?』
要らん気遣いに嘆息に苛立ちが混じる。
「着信音が違うんだ。勘違い等するか」
『それはそれは。夕弦様もそんなマメなことをなさるんですねぇ』
余計なことを言ってしまったと苦々しく思いながら、何か用かと聞けば、笑い声のまま相手は言った。
『お礼をと思いまして。今日は結構なものを頂きましてありがとうございます』
夕食前に確認はしたが、本当に持って行ったらしい。
「早く結香の視界から取り除きたかったからな。あれが役立つのか?」
画材本来の使用目的ではもう役に立たない気もするが、何も考えずに持って帰ったわけでもないようだ。
『為せば成る、というじゃありませんか。結香様の憂いの元凶か身の程知らずか。どちらに使おうか今会議中ですが、夕弦様としては何かお考えがあるので?』
「どちらでもいい。とにかく結香の視界に二度と入らなければ」
その話し合いに名前が挙がっている以上マークされていることに変わりないのだから、とりあえずはそれでいい。
夕弦様は無欲ですねぇと笑う影山に、廊下の気配を窺いながら低い声で聞く。
「クリスマスのことについて、俺は礼を言うべきなのか」
あぁ~と陽気な声ながらも、影山は返事を躊躇った。
『いいんじゃないですかね、言わなくても。スポンサーの因縁はこちらですし。旦那様のストップが入って、実質こちらは何もしてませんから』
まだ、ね。という黒い一言は無視することにした。
『まぁ、年内に下らないのが纏めて片付いて良かったじゃないですか。良い子にはプレゼントがあるんですよ』
「そうか。じゃあ、そういうことで」
照れちゃって、もぅ。という笑い声に思い切り嘆息する。
『礼を言うより、スケッチブックを拝見させて頂く方がいいと思うんですけどね』
「そのうちな」
今は駄目だと言うと、影山はあからさまな笑い声を上げた。
そろそろ光司も上がってくる頃合いだ。
切り上げるかと考えていると、やたら真面目な声で呼ばれた。
『資料は既に色々揃えておりますが』
考えを読まれていたことには眉をひそめたが、軽く息をついて苛立ちを紛らわせる。
「結香とも相談しないといけないから。そのうち爺さんの所に顔を出す」
お待ちしております、という声を聞いて通話を切った。
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