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番外編

初めてのお泊まり

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  「―――いいか、母さん。今から行くのは結香の家でウチじゃないからな。家事や料理、特に料理はハルさんと茜さんに任せてくれ。手出ししちゃ駄目だ。くれぐれも」
  まだ注意事項はあるというのに、母さんは盛大に頬を膨らませた。大学生の息子を持つ母親の行動ではないと思うのだが。
  「解ってるわよぅ~。母さん、お勤めの経験はないけど常識はちゃんとあるんだから」
  常識ある大人は、衣替えとカーテンの洗濯を同時期に強行して洗濯機を壊したり、冷蔵庫と家族の胃袋が悲鳴を上げるほど料理を作り置きしたりしないと思う。
  母さんの気分を害さずに伝えるには何と言うべきか。
  答えを思いつかないまま一応口を開く。
  「それは解ってるが、でも母さん」
  まぁまぁと横から苦笑した茜さんが割って入った。
  「大人同士だから、何とかなるわよ。今日の夕弦くんは子ども組の責任者だから、みんなのことをしっかり守ってちょうだい」
  こっちは任せて、と年下の茜さんに腕をとられた母さんはにこやかな笑顔に戻る。
  二人の年齢が逆転しているような気がするが、俺は茜さんに頭を下げた。
  「茜さん、今日一日母を頼みます」
  顔を上げると母さんは盛大に頬を膨らませ、茜さんは俺たち二人を見て苦笑している。
  「了解。こっちは大人同士適当に楽しむから、あなたたちも程々に楽しくやりなさい」
  年長者らしい笑みを浮かべて茜さんが母さんを促して背を向ける。
  「母さん、気をつけて。酒弱いんだから、あまり飲むなよ」
  「解ってるわよーぅ」と声を張り上げながらも、母さんが茜さんと連れ立って歩く後ろ姿は明らかに浮き浮きとしている。
  「………心配だ………」
  思わず嘆くと、それまで俺の隣でやり取りを見守っていた結香が小さく笑った。

  きっかけの一つは、先日の遊園地だった。
  結香と一緒に乗ったアトラクションの元になっているアニメ映画を俺も見ようと思い、レンタルしようかとしたら、結香がDVDを持っていると言った。
  「何回も見たけどまだ見れるハズなので、お貸ししますよ?」
  快く言ってくれたが、一人家で見ていて萌に冷やかされるのも考えものだし、どうせなら結香と見たい。
  それとは別に、美紅ちゃんのことも気になった。
  美紅ちゃんの祖母がかなり厳しい人だということは聞いていた。その影響か、美紅ちゃんは日本の子どもなら自然に吸収してそうなアニメや絵本等を知らないんじゃないか―――その可能性に、ここ最近になって気付いたのだ。
  まずは美紅ちゃんが牧野家での生活に慣れることが必要だったし、毎日美紅ちゃんが楽しそうに陽にくっついて走り回っていたこともあって延び延びになっていたが、そろそろ見せてみてもいいんじゃないかと思ったのだ。
  母親の教育方針に反してはいけないだろうと茜さんに相談すると、茜さんはあっさりOKを出した。
  「母親が戻ってきたら美紅ちゃんは庶民として暮らしていくことになるからね。いいんじゃないかしら。友だち作りの話題にもなるし、日本のアニメは世界でも人気だし」
  美紅ちゃんの年齢や作品の時間を考えて三人でリストを作り、手元にない作品は俺がレンタルしてこようというところまで話が進んだとき、問題が生じた。
  双子も一緒に見たいと言い出したのだ。
  まさか兄弟三人で牧野家に押し掛けてDVD鑑賞するわけにもいかない。だが、迷惑になるからと説得したところで美紅ちゃんを気にいっている双子が引くこともなく。
  仕方なく茜さんに事情を説明すると、結香と美紅ちゃんを俺の家に泊まらせて、代わりに母さんを牧野家へ招待しようと提案された。鑑賞会を俺の家でやることにするのは簡単だが、二人の世話を母さんに丸投げするのは、茜さんの気が引けたのだ。
  「美紅ちゃんのアニメデビューに立ち会えないのは残念だけどね。大人同士楽しく飲むことにするわよ。子どもだけっていっても夕弦くんがいるわけだから、安心だしね」
  こうして今日、無事DVD鑑賞会が実施されることになった。

  「ゆじゅぅおにぃちゃん、なにをみゅの?」
  リュックを降ろす前に、美紅ちゃんが俺の袖を引っ張った。待ちきれないのだろう。可愛らしく繰り返されるつま先立ちに合わせて、ツインテールがピョコピョコ揺れている。
  「最初のはもう陽がセットしているけど、次見るのは美紅ちゃんが決めていいんだぞ。でも、一つ約束があるんだ」
  つま先立ちを止めて首を傾げる美紅ちゃんの目をしっかり見つめる。
  「一つ見終わったら、俺が合図するまではDVDを見ないこと。陽たちと一緒にジュースを飲んだり、遊んだりすること。出来るか?」
  「できるっ」
  ぐっと小さな握り拳を握って頷いた美紅ちゃんの頭を撫でていると、玄関から「こんにちはー」と落ち着いた声が響いた。
  「あ。私、出ますね」
  目を輝かせた結香が小走りに玄関に向かう。すぐに物言いたげな表情の水瀬を連れて戻ってきた。
  「進藤先輩、こんにちは。誘いに乗って押しかけてしまいました」
  すみませんと頭を下げる前に口を開いた。
  「今日はDVDを何枚か見るんだ。俺も気を付けるが、きちんと休憩を入れれるように注意してくれると助かる」
  美紅ちゃんは言い聞かせれば解る子だと思うが、人に注意出来る水瀬がいてくれればより安心出来る。
  招いておいて頼み事をするような真似をしてしまったが、水瀬は表情を歪めることなく解りました、と頷いた。
  「みんな聞き分けの良い方だと思うけど、束になると悪ノリすることもありますからね」
  「そういうことだ」
  頼むぞ、と言うと水瀬が頷く。
  俺たちの様子を結香が笑顔で見ていた。
  「二人ともしっかりしていてすごいね」
  途端に水瀬が大きくため息をついた。
  「ナニ呑気にしているのよ。あんたがビシッと注意すれば私が呼ばれることもなかったでしょうに」
  「えぇ?………でも私、人に注意できるほどしっかりしてないし」
  「それはものすごく解ってるけど。今日の場合、あんたが注意しないと後々苦しい思いするのは美紅ちゃんでしょう?言うべきときはきちんと言わなきゃダメよ」
  「うん………頑張る………」
  おずおずと頷いた結香に、水瀬は満足そうに頷いた。
  「ま、今日は進藤先輩も私もいるから大丈夫だけどね」
  「うん!頼りにしてるよ、知佳ちゃん!パジャマパーティー久しぶりだよねぇ。楽しみだねっ」
  「あんた………今、年長者らしくしっかりしましょうって話をしたんじゃないの………?」
  軽く額を押さえて脱力する水瀬の腕を取って、結香はニコニコと笑いながら首を傾げる。
  荷物を片付けながら二人の会話を楽しんでいると、陽が足音荒く部屋に駆け込んできた。
  「兄ちゃん、大変だっ」
  「どうした、陽。もう皆来てるんだぞ」
  行儀が悪い、と目で言えば陽は結香たちを見て、ぱっと姿勢を正す。
  「い、いらっしゃい」
  「よぅおにぃちゃん、みくきたよぉぉっ」
  「お邪魔してます。で、何が大変?」
  抱きついてきた美紅ちゃんの頭を撫でて笑顔を浮かべた陽だが、片手を挙げた水瀬に挨拶がてらに問われて一つ瞬きをした。
  「そっ、そうだった………兄ちゃん、母さんが」
  「母さんならさっき茜さんに連れていってもらったが、どうかしたのか」
  一瞬言葉を詰まらせてから、陽は台所を指差した。
  まさか、と口の動きで問うと、静かに頷く。
  足早に台所に行くと。
  「―――やられた」
  頭を抱えて項垂れる俺の隣で、一緒についてきた美紅ちゃんがすごぉぉぉいっと飛び跳ねた。
  「ごちそぉだっ、ごちそぉだぁぁっ」
  所狭しと並ぶ料理の数々を見て美紅ちゃんは喜んでいるが、この光景を一度でも見たことがある他の面々は思い思いにため息をつく。
  「一応見たけど、冷蔵庫も冷凍庫もいつも通りだったよ」
  呆れた声で呟く陽に、だろうな、と言葉なく頷く。
  「なんというか………まぁ、予想できる展開ですよね」
  フォローではないだろう水瀬の一言に、思わずため息をついた。
  「一体いつの間に作ってたんだ………」
  今朝は牧野家へ行く仕度もあって、料理する時間などないと践んでいたのだが。
  脱力する俺の背を、結香の小さな手が優しく上下に擦る。
  「えぇと、とりあえず一本見ませんか?」
  そうだな、と気を取り直して皆で居間に移動した。


  テレビの前に小さいテーブルを置き、その向こうに双子が美紅ちゃんを挟んで座る。
  再生ボタンを押すと、台所へ戻り飲み物とつまめる物を適当におぼんに乗せた。
  結香と二人で居間に戻ると、子どもたちと一緒に座っていた水瀬が自分と子どもたちの分の飲み物を配置する。
  双子はすぐにジュースやお菓子を手に取るが、美紅ちゃんはじっと画面に見入っている。
  画面の中でヒーローが窮地に陥り、「あぁっ」と美紅ちゃんが声を上げた。時折話の展開に反応しながら美紅ちゃんは必死に画面を見つめ、エンディングが終わるとほぉぉっと息をついた。
  「どうだった?」
  小首を傾げて声をかけた結香の膝に飛び付くと、「面白かったぁぁ」と話し出す。
  あらすじの合間にここが凄かったとかこのキャラクターが好きだとか話す美紅ちゃんに時々ジュースを飲ませながら、笑顔で話を聞く結香は可愛いだけじゃなくて綺麗だと思った。
  「兄ちゃん、今のうちに草取りしてくる」
  自分が戻る前に次の見ちゃってもいいから、と居間を出ていこうとする陽を引き留める。
  「美紅ちゃん、陽と畑行かないか?」
  粗方話し終えていた美紅ちゃんは、「行くーっ」と陽に駆け寄る。二人を見送ると、結香と一緒に片付けをしていた萌と水瀬に加わった。
  「とりあえず、楽しめたみたいだな」
  萌が使った食器をお盆に乗せながら頷く。
  「前の家にいたときはお祖母さんに隠れてちょっとしか見れなかったみたいだけど、少しは知ってる話だからね。次からのは作品名も知らない可能性もあるから、次が本番、てとこじゃない?」
  「そうだな。萌、美紅ちゃんがDVD選ぶのを手伝ってやってくれ」
  もちろん、と萌が頷くのを確認してお盆を持って台所へ行く。
  結香に食器を洗ってもらい、それを俺が拭いて棚に仕舞う。
  飲み物を揃えて居間に戻ると、美紅ちゃんと萌がDVDを選んでいるところだった。
  次はこれにする、と選んだのは見るのに二時間近くかかる長編アニメ映画だった。
  途中で一時停止して休憩を挟んだり昼御飯を食べながら一応最後まで見たが、やはり話の内容全ては解らなかったようだ。でも、絵が綺麗だったと喜んでいた。


  ずっと注視していたわけではないがそれなりの時間画面を見ていたので、休憩を長くとることにした。
  昼飯の後、また陽と少し畑に出た美紅ちゃんは楽しそうな声を上げている。もう少し遊んだら昼寝をしたくなるかもしれない。
  別にノルマがあるわけでもないし、夕食を食べながらもう一本くらい見ればいいか、と考えながら片付けをしていると、小さな声で萌に呼ばれた。
  「どうした」
  一瞬奥で洗い物をしている結香を気にしてから、抑えた声で言い出した。
  「近くの電信柱のとこから、こっちをじっと見てる人がいるの」
  「どんな人だ」
  軽く目を閉じて、思い返しながら口を開く。
  「男の人。スーツじゃないけど、だらしない格好でもない。背は低くはないけど、お兄ちゃんよりは低い。年は、お父さんよりは若いと思う」
  「ウチを見ているのか」
  少し首を傾げてから、一つ頷いた。
  「いつから見ているのかは解らないけど、ウチを見てるのは絶対だと思う。私が気づいたのはさっき二階に上がったときだけど、十分後くらいに見たらまだあそこにいてこっちを見てたもの」
  解ったと頷いて頭を軽く撫でると、やっと萌は目元の力を弛める。
  「結香の手伝い、頼むな」
  頷いた萌と入れ違いに台所を出ると、裏口から出てゆっくり歩く。
  後ろから近付いても、その男はこちらに気付く素振りも見せなかった。
  「ウチに、何か御用ですか?」
  静かに声をかけると、びくりと身動ぎして俺を見上げる。何か言おうとしたのか口は動くが、声は出なかった。
  「ウチに、何か御用ですか?先程からこちらを見ていたようですが」
  ウチの様子を探っていたことを知っているんだぞと知らせれば、再び男はびくりと身動ぎした。
  何度か深呼吸して男はやっと薄く口を開いた。
  「あの、美紅は」
  その一言で、美紅ちゃんの父親かと当たりをつけた。
  「美紅ちゃんなら、母親の親族が大切に預かっている筈ですが?」
  「今はこちらに居ることは解っているんです。一目」
  声を荒らげながらこちらに近寄って来るが、眉を寄せて顔を引き締めると少し後退りした。
  「それは、母親の許可を得てのことですか?」
  男は俺を睨み付けるだけで何も言わない。
  軽く息を吐いて、もう一つ確認した。
  「美紅ちゃんがこちらに居ることを、どうして御存知でしょう?」
  やはり答えはない。
  ため息をつくと、スマホを取り出して電話をかけた。
  「あ、もしもし。夕弦です。ご無沙汰してます―――ええ、少々聞きたいことがありまして、おばさんはご在宅ですか?―――はい」
  突然電話をかけた俺を訝しげに見ているが、男は黙ったまま突っ立っている。
  明らかに電話の相手が警察ではないからだろう。
  幸い、おばさんは在宅していてすぐに電話に出てくれた。
  「―――お久しぶりです、おばさん。ご無沙汰してます―――ええ、そうなんです。ちょっと聞きたいことがありまして。ある女性が親権を得て離婚しようとしてまして、今調停中だと思うんですけど。その場合、父親なり父親の親族は子どもに会いに来ていいもんですかね?」
  『おばさん』の職業が想像出来たのか、男はあからさまに動揺するが、俺は構わず会話を続ける。
  「監護者指定の申し立て?それをすると父親でも会いに来れる可能性があるんですか?―――訴訟ナンバーですか?」
  さすがにそんな番号は聞いていないと言おうすると、男の背後から作りに作った笑顔が覗いた。
  「夕弦様、美紅様のご両親の離婚調停についての情報が御入り用ですか?」
  ギョッと振り返った男に目もくれず、影山は男の側を通り過ぎ俺に手帳を開いてみせる。
  殴り書きされている番号から視線を反らし、焦りを声に出さないように必死に声を出す。
  「いやいや。気持ちは有り難いですけど、そういう問い合わせをすると立場的に不味いんじゃないですか?―――あはは、大袈裟ですよ。とりあえずその監護者のことを教えていただけただけでも。はい、ありがとうございました」
  なんとか礼を言って電話を切った。
  スマホを仕舞って顔を上げると、男はなおも俺を睨み付けていた。
  「監護者指定の申し立てというのを申請していれば美紅ちゃんに会ってもいいのかもしれませんが、その様子では申請していないようですね」
  静かに話しかけると、男は顔を歪めて、それでも簡単に諦めきれないのか美紅ちゃんが居る家をチラチラ振り返る。
  「更に言えば、今日のようなことを今後もされるようなら、離婚成立後も美紅ちゃんに会えなくなるかもしれませんね」
  そこら辺もおばさんに詳しく聞いてみるか、と考えていると、男が小さく呻いた。
  「お前のような若造に、何が解る」
  俺は首を傾げて、解りませんね、と素直に言った。
  「幸い俺は、大切にしたいものがそう多くはないので」
  男は顔を歪めると、俺たちの側を通り過ぎて帰って行った。
  その後ろ姿が完全に視界から消えてから、静かに問いかけた。
  「一人で来たと思うか?」
  おそらくは、と影山が頷く。
  「あちらサイドは基本婆さんが主導権を握っているようですが、どうも一枚岩でもないようで。あの息子も思うところはあるみたいですねぇ」
  美紅ちゃんの言い分では、父親は祖母の言いなりという印象だったが、実際あの人が今どう考えているのかは解らない。単身で美紅ちゃんに会おうとしたところを見ると、全くの無関心というわけではなさそうだが、その動機も解らない今、やはり美紅ちゃんに会わせずに済んで良かったと安堵した。
  「夕弦様、いかがなさいますか?」
  突然の曖昧な問いかけに首を傾げると、影山はにこりと笑って小首を傾げた。
  「一応、あの男は進藤家の周囲を窺って、あわよくば侵入したかもしれません。証拠はおさえてありますから、切っ掛けにサクッと潰しますか?」
  爽やかな笑顔で物騒なことを言う影山に、軽く目眩を覚える。
  「まさか、それが婆さんの指示か?」
  ふるふると首を振る影山に、心底安堵した。
  「じゃあ、タラレバ論で家を潰す真似は止めてくれ。いい気はしないが、美紅ちゃんの生家だぞ。父親が困るとなったら、美紅ちゃんが悲しむだろう」
  それもそうですね、とあっさり頷く影山に、小さく息をついて続ける。
  「ただ、訴訟がどの程度の段階なのかは知りたい。ああいうものは時間がかかるとは聞いたが、あまり美紅ちゃんが母親から離れてる時間が長くなると良くない」
  自分でもかなり無茶なことを言っている自覚はあったが、畏まりました、と影山はあっさり一礼した。
  「いや、当事者でも法律家でもないのに解るものじゃないだろう?」
  困惑して言うが、「ふふっ」と影山は爽やかな笑みを崩さない。
  却って不気味だ。
  「お前は本当は忍者なんじゃないか?」
  呟くと、とうとう影山は声を上げて笑う。
  「嫌ですねぇ、夕弦さん。久しぶりにアニメ映画を見過ぎたんじゃないですか?」
  俺が反論する前に、長居も出来ませんので失礼致します、と影山はあっさり去る。
  ため息をついて、門から入った。
  「あれっ?先輩っ?いつの間に表に出てたんですか?」
  物音に気付いたのか、顔を出した結香が大きな目を丸くした。
  「うん、ちょっと。郵便受けを見にな」
  そうですか、と微笑む結香の頭を撫でる。
  「皆はどうしてる?」
  庭も家の中も随分静かなので見渡しながら聞いてみる。
  えぇと、と結香が口を開く。
  「美紅ちゃんは寝ちゃいました。陽くんも一緒に横になってて。で、萌ちゃんと知佳ちゃんは、美紅ちゃんが寝てる間に一本DVDを見ようかって話してますよ」
  そうか、と頷きながら歩いていると、後ろで結香がクスクス笑った。
  どうした、と聞くと笑い声で答える。
  「先輩ったらいつの間にか萌ちゃんに変わってて、しかも外から帰ってくるんですもん。忍者みたいだなぁって」
  その話をしていたら、忍者モノのDVDがあったから見よう、という話になったらしい。美紅ちゃんにパッケージを見せたところ、あまり興味がなさそうだったので調度いいだろうと話していたそうだ。
  「勝手に決めて、ダメでしたか?」
  いいや、と頭を撫でると結香は安心したように破顔した。
  「見ないで返すのも勿体無いからな。見たいヤツは見るといい」
  はい、と頷く結香の笑顔を見ていると、台所から居間に戻る萌が俺たちを見つけた。
  「そんなところでイチャついてないで、さっさと見ちゃおうよ」
  「あ、ごめんね、萌ちゃんっ」
  呆れた声の萌に、小走りで結香が近付いてお盆を受け取る。
  テーブルの周りに四人で座り、少し音量を下げて再生ボタンを押す。
  俺でも覚えているオープニングが流れた。
  映像を見ながら、これからの予定を話し合う。
  「美紅ちゃんは、いつも何時くらいに夕食を食べる?」
  えぇと、と結香が時計を見上げる。
  「夕方か、その少し前ですね」
  「それなら、今日は二人が起きたら早目に夕食にしようか。たくさん目を使って思うよりも疲れているかもしれないし」
  そうですね、と頷く結香の隣で、水瀬がチラリと台所の方を見た。
  「夕御飯どころか、明日の朝御飯まで食べるものに困らないのは助かりましたね」
  顔を正面に戻して小首を傾げる。
  「寝る場所はどうします?」
  それは大丈夫、と萌が頷いた。
  「みんなが荷物を置いた部屋に布団を敷くから、三人でゆっくり眠れるよ」
  「萌ちゃんは一緒に寝ないの?」
  意外そうに結香が首を傾げると、萌は顔を紅くしてもじもじする。
  「わ、私は………自分の部屋、あるし」
  そうだけど、と結香が食い下がる。
  「今夜は萌ちゃんも一緒に一階で寝ない?パジャマパーティー、楽しいよ?」
  「結香、あんたお邪魔してる身で強引に誘うようなマネしないの」
  呆れた声で呟く水瀬に構わず、一緒に寝ようよ、と結香は萌の袖を引っ張る。
  萌はチラリと俺を見た。
  「いいんじゃないか?夜更かししなければ」
  俺が言うと嬉しそうに破顔して、「じゃあ、今夜は一階で寝る」と言った。
  きゃあっと結香が喜んではしゃぐ。
  その声に美紅ちゃんと陽がもぞもぞと起き出したが、楽し気に結香が説明すると、美紅ちゃんも一緒にはしゃいで喜んだ。
  「一緒に寝るだけなのに楽しいかなぁ」
  大きく欠伸をしながら陽がボヤく。
  「陽は、林間学校の夜はどうしてた?」
  「寝てた」
  短く答えて、それがいけないのか、とこちらを見るので首を横に振る。
  「兄ちゃんは、何かしてたの?」
  聞かれて、嫌なことを思い出した。
  「寝てたら枕投げに巻き込まれて説教喰らった」
  「その元凶が誰なのかは言わなくていいですよ。ものすごく解るから」
  呆れ返った表情でため息をついた水瀬に、「二人も起きたし、夕御飯にしますか?」と聞かれて、陽と三人で支度を始めた。


  賑やかに夕食を済ませると、結香と萌、美紅ちゃんの三人が後片付けを申し出た。「んしょ、んしょ」と掛け声をかけながら食器を運ぶ美紅ちゃんを後ろから見守ったり、一緒にテーブルを拭く結香はうんと優しい目をしている。
  交代で風呂に入ることになり、結香たちに先に入ってもらうことにした。
  「普通に風呂に入るだけなのに、何であんなに楽しそうなんだろ」
  カードを揃えながら陽が呟く。
  「楽しそうだからいいんじゃないか」
  視線でお互い準備が出来たことを確認してゲームを始める。女の子四人が交互に入るとなると時間もかかるので、何度となくゲームを繰り返した。
  「陽、随分強くなったな」
  「兄ちゃんのが圧倒的に多く勝ってるだろ」
  悔しそうな表情を浮かべて陽がカードを分ける。もう一回、と請われて風呂場の方を見やるとまだ物音がしていたので、頷いた。

  「なにしてゅの?」
  カードを分けていると、ピンク色のパジャマに着替えた美紅ちゃんが陽の隣に座って手元を覗き込んでいた。
  「スピードだよ」
  負けた悔しさからか、美紅ちゃん相手には珍しく素っ気なく答えた陽だが、「よぅおにぃちゃんしゅごぃね」と笑顔で見上げられると途端に相好を崩す。
  スピードがどういうルールか知らない美紅ちゃんに陽がトランプを見せながら説明していると、俺の隣に結香が座った。
  「お待たせしちゃいましたか?」
  「いや。遊んでたから大丈夫だ。ちゃんとゆっくり浸かってきたか?」
  はい、と頷く結香からシャンプーの香りが漂う。いつもの穏やかな笑顔に、どこか色気が加わって視線を前の二人に戻す。
  スピードのやり方を習った美紅ちゃんはすっかりやる気に満ちている。
  「よぉしっ。みく、ゆじゅぅおにぃちゃんとすぴーどするっ」
  しょぉぶしょぉぶっと両の拳を振り回す美紅ちゃんの肩を叩いて、陽が美紅ちゃんを落ち着かせる。
  「最初に兄ちゃん相手は止めた方がいいぞ。めっちゃ強いんだ。しかも手加減してくれない」
  手加減すると陽がひどく怒るから手加減しなかっただけなのだが。
  陽に待ったをかけられた美紅ちゃんはうぅぅと不満そうな声を上げる。たまに結香も悔しそうに唸っているが、少し涙が溜まった目元も兎のように動く口元も可愛い。
  「美紅ちゃん、私とやってみない?」
  結香が身を乗り出すと、美紅ちゃんがパッと顔を上げた。
  「私、何度かやってみたことあるんだけど負けてばかりで………一緒にやってみない?」
  「やるっ」と美紅ちゃんが大きく手を上げ、結香には俺が、美紅ちゃんには陽がサポートについてやってみることにした。
  陽はどちらの山にどのカードを出せるかを教えているが、結香はルールを覚えているので、俺は隣で見ているだけだった。
  基本的に結香は相手を押し退けて自分のカードを捌こうとしないので、ゲームは和やかに進んだ。美紅ちゃんがルールに慣れてくると、陽も二人の和やかなやり取りを見守った。
  そのうち萌と水瀬が戻って来たので、陽を風呂に行かせた。


  風呂からあがると、結香が台所から顔を見せた。
  「先輩、お台所借りてます。何か飲みますか?」
  頷いて入り口に凭れかかって眺めていると、時折何かを確認しながら慎重に結香が動いている。
  「えぇと………っ?先輩、どうしました?」
  振り返った結香が俺に気付いて驚く。ずっと見ていたとは知らなかったようだ。
  「いや。何か手伝おうか?」
  目元を弛めて言うと、安心したように微笑んで、カップを出してくださいと言ってくる。
  二人で居間に戻ると、皆が一斉にこちらを見た。
  「結香お姉ちゃん、やっと戻ってきた!さ、続き続き!」
  皆で結香を待っていたのだと萌は頬を膨らます。
  自分の分のカップを持って一人離れてゲームを見守ってた陽の隣に座る。
  「人数増えたから、大貧民に切り替えたんだけどさ」
  陽がため息をついた。
  「結香姉ちゃんが鬼強くて。皆勝つまで寝ないって息巻いてんだよ」
  そうか、と頷く。
  以前初めてやったという将棋で結香は師匠をこてんぱんに打ち負かしたことがある。速さを競うものは苦手でも、流れを読んだり戦略を練るのは得意なのかもしれない。
  皆に囲まれて苦笑している結香を眺めていると、隣から陽がじっと俺を見ているのに気付いた。
  何だ?と首を傾げると、もしかして、と陽が口を開く。
  「兄ちゃんなら、勝てるんじゃないの?結香姉ちゃんに」
  は?と首を傾げるが、その呟きに女の子たちが一斉に俺を振り返る。
  「そういえば………お兄ちゃんもいつもいつの間にか勝ってるイメージだった」
  「頂上決戦ね」
  「いや。そんな期待されても困るんだが………」
  辞退しようとするが、結香はにこりと笑った。
  「先輩はすごく強そうだよねぇ」
  だよね!と女の子たちが頷く。
  皆結香を負かしたいのではなかったのか。
  「兄ちゃん、頑張って勝ってよ。おれ、もう寝たい」
  俺に打倒結香を任せた陽が大きな欠伸をするが、その袖を美紅ちゃんが引っ張った。
  「よぅおにぃちゃん、みくといっしょにやって」
  しょうがないなぁと言いながらも目尻を下げて陽が美紅ちゃんの隣に座る。
  皆に目で促された俺は、ため息をつきながら輪の中に座った。


  抑えた声で呼ばれて振り返ると、入り口から結香がこちらを覗き込んでいた。
  「結香。眠れないのか?」
  指と目で飲むか?と聞くと頷くのでカップをもう一つ取り出す。
  「なんか頭が冴えちゃって………場所も微妙になくて」
  美紅ちゃんたちは最後の一戦が終わると、さっさと布団を敷いた和室に引き込もって眠ってしまった。いっしょにねるのよ、と美紅ちゃんが陽を引っ張って行ったので、結香が寝る場所が無くなってしまったのだろう。
  「そうか………悪いな。いざとなったら萌のベッドで寝るか?」
  苦笑しながら結香が小首を傾げる。
  「もう少し様子見てみます。もしかしたら、場所空くかもしれないし」
  「そうか。じゃあ、もう少し夜更かしするか?」
  可愛らしく小首を傾げる結香を連れて居間に入る。一旦結香をソファーに座らせてから、テレビ台からDVDの束を取り出した。
  「そっ、それっ」
  興奮した結香が、あ、と和室を気にして口を両手で覆った。
  「柊さんがくれたんだ。自分はもう見ないからって」
  タイミングが無くて今まで言えなかったが、結香は物凄く喜んだ。目を大きく見開き、足がぴょこぴょこ動き、ソファーの上で小さく跳ねている。
  「部屋からちょっと取ってくるから、選んでセットしてくれるか?」
  はいっと満面の笑顔で頷いた結香の頭を撫でて、自分の部屋に戻る。
  戻ると楽しそうに結香がDVDをセットしていた。
  「私一人で決めちゃったけど、いいんですか?」
  聞かれるのに頷いて手招きで呼ぶ。
  小走りに寄ってきた結香を抱えてソファーに座り、持ってきた毛布で自分たち二人をくるむ。
  「ふなっ??せんぱいっ??」
  慌てて離れようと身動きする結香を抱き締める。
  「大きな声を出すと、皆起きるぞ?」
  真っ赤になった耳元に囁くと、小さく息を飲んで身体の動きが止まる。
  うぅぅと聞こえる小さな唸り声にこっそり笑いながら、音量を調節して再生ボタンを押す。
  時折結香が小さな声を漏らすのを楽しみながら、画面を見つめる。
  「ふわぁ………っ。先輩、そんなにしっかり押さえなくても、私、ソファーから落ちませんよ?」
  「解ってる。くっついてた方が、温かいだろ?」
  笑って答えると、うぅぅと恥ずかしそうに視線を画面に戻す。ホームズに見惚れてたのが気に入らなかったとはバレたくない。
  「小さい頃テレビで見てたときは吹き替えだったから………英語で聞くと違和感ありますね」
  「そうかもしれないな」
  暫く見入っていた結香が、うーん、と唸った。
  「最初から英語で聞いてたら、今頃英語ペラペラになれましたかね?」
  「どうだろうな。方言の問題もあるし」
  そっかぁとどこか悔しそうな声で唸る結香の頭を撫でていると、そぉいえば、とどこか甘えるような声で言った。
  「ホームズのDVD、貸してくれれば家で見れたのに」
  「貸したら夜更かしし過ぎて体調崩すかもしれないだろう?ここで見る方がいいんじゃないかと思ってな」
  不服だったのか、むにゃむにゃと不満気な声を出す結香の身体を抱き締める。温かい体温に安心する。
  「ホームズのDVDはここにあるから、また一緒に見ような?」
  「んー………はぁぃ………」
  子どものような返事の後、規則正しい寝息が聞こえた。小さく笑うとDVDを止めテレビを消して、結香を抱え直して横になる。
  結香の温かさに、直に俺も寝入った。


  薄く障子を開けると、掛け布団の一枚がもぞりと動いて寝起きの顰め面がこちらをぼんやりと見る。もぞもぞと動き、そろりそろりと廊下に出てきた。
  「おはよぉ、ございます、進藤先輩。結香、どうしたんですか?」
  挨拶の途中で一度欠伸をした水瀬だが、その後はすっかりいつもの様子で小首を傾げる。
  「二人とも眠れなくてな、DVDを見てたら二人して寝てたんだ。朝飯の時間まで布団で寝かせてやりたいんだが」
  頷いた水瀬が障子を開ける。
  足元に気を付けながら進み、それまで水瀬が寝ていた敷き布団に結香を降ろした。


  どうだった?と出迎えた茜さんに、美紅ちゃんは飛び付いた。
  「たのしかったぁぁっ。みんなででぃーびーでぃーみてね、とらんぷしたのよっ」
  そうなの、良かったわね。と微笑む茜さんに、美紅ちゃんはにこにこと笑う。
  「みく、またおとまりしたいっ」
  「それは夕弦くんにお願いしないとね」
  茜さんに苦笑された美紅ちゃんが俺を振り返った。
  「ゆじゅぅおにぃちゃんっ、またおとまりしてもいーい?」
  「あぁ。またおいで」
  んふーと嬉しそうに笑った美紅ちゃんを連れて、茜さんが奥へ行く。
  次いで家に上がった結香が、俺を振り返って微笑んだ。
  「先輩、ありがとうございました」
  美紅ちゃんのためにありがとうございました、と微笑む結香の髪を撫でる。
  「俺たちも楽しかった。約束もしたし、またやろう。ホームズのDVDも、まだあるしな?」
  大きな目を覗き込んで囁くと、頬が真っ赤に染まって、うぅぅと可愛く呻いた。


  帰ると、何やら台所が賑やかだった。
  「何をしてるんだ?」
  居間で園芸雑誌を捲っている陽に聞くと、ため息混じりに答えた。
  「ピザ焼くんだって」
  「は?何故唐突に」
  「昨日デリバリーのピザがやたら旨かったんだって。だから」
  帰ってきて早々に強力粉を引っ張り出したらしい。
  「そこで今夜ピザを取ろうって話にならないのが母さんらしいよね」
  諦め気味に雑誌を捲る陽に、ため息をつきながら同意した。





  ◆ 後日談・結香の憂鬱 ◆

  「どうしたの?進藤先輩ロスには早いんじゃない?」
  「ロス?違うけど………いや、違わないような?」
  「どっちよ」
  「あのね、知佳ちゃん。先輩からDVD借りたいんだけど、なんて言ったら貸してくれると思う?」
  「は?そんなの、貸してくださいでいいじゃないの」
  「だ、だって………夜更かししないように先輩の家で見る約束になってたんだもの………いつの間にか」
  「………もぉ、見ればいーじゃない。進藤先輩の家に泊まりこんで」
  「そんなっ、知佳ちゃんっ」
  「寝惚けてる間に婚姻届とか書かないように気をつけなさいよ?」
  「こんっ!!?」
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