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番外編
お婆ちゃんに会いに行きます
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おはようございますと頭を下げた私を見て、先輩は心から安心したような表情を浮かべた。
今日は私が京都で買ったお土産を先輩のお婆ちゃんの家へ届けに行く日です。
先輩は一人で行くつもりだったけど、自分から渡したいのだとお願いして一緒に連れていってもらうことにしたのです。
「大丈夫そうだな」
「八時前には布団に入ってましたもんっ」
思わずピースサインをして言うと、先輩は微かに微笑んで私の隣に視線を移した。
「おはよう、美紅ちゃん」
「ゆじゅぅおにいちゃん、おはよぅごじゃいます」
舌ったらずの口調で言ってペコリと頭を下げる美紅ちゃんを見て、先輩は微笑みを浮かべる。
「準備が出来てるなら、行こうか」
美紅ちゃんと二人で返事して外に出る。
昨日、美紅ちゃんが自分も行きたいと言い出したのだけど、運転席の後ろにはきちんとチャイルドシートがセットされていた。
チャイルドシートなんてどうしたんですか?と聞くと、持ってきてもらった、と先輩は簡単に答えた。
美紅ちゃんもいるから、今日は後部座席に座る。
「結香、着いたら起こすから眠たかったら寝ててもいいぞ」
後ろを向いた先輩が言うけど、後部座席から見る先輩の運転姿がまた新鮮で格好良くて、お喋りしたり変わっていく景色を楽しんでいるうちに、お婆ちゃんのお宅へ着いてしまいました。
「あの。本当にここですか?」
何度聞いてもあっさり頷く先輩に、目の前にそびえる立派な玄関に目眩を覚える。
きちんと整えられた長い生け垣に、手入れ大変そうだな、と思いながらも見蕩れ。見事な枝振りの木を見つけては、葉が落ちる前にあんな木を描きたいかも、と暢気に思いを馳せてるうちに車は停まり。
ため息が出るほど立派な玄関に三人並んで立ち尽くしているところです。
「おっきぃねー」
美紅ちゃんは素直に見上げてニコニコするけど、私は焦る一方。
お婆ちゃんの家がこんな立派な豪邸だなんて聞いてなかったから、至って普通の格好で来てしまったのです。
慌てて自分の服装をチェックしていると、先輩は奥に向かって呼びかける。
「夕弦様、申し訳ございません。お手間をかけまして」
現れた黒スーツの男の人がスッと流麗に頭を下げる。
「結香が怖がるから止めてくれ。なぜ今日はスーツなんだ」
先輩がため息をつきながら眉を寄せる。
「萌様のご要望でしたので」
「なんだってそんなことを」
男の人がにっこり笑って答えると、先輩は額に手を当てて大きなため息をつく。
パタパタパタっと軽い足音が近づいてきて、黒スーツの後ろから笑顔の萌ちゃんがピョコッと顔を出した。
「たまにはお嬢様扱いされてみたいなぁって言ったらいいよーって言ってくれたんだからいーじゃない」
ねー?と同意を求めると男の人は、はい、と笑顔で頷いた。
「お願い等されずとも、萌様は大奥様の大切なお孫様ですから。お嬢様とお呼び致します」
ほぉらっと胸を張る萌ちゃんに、先輩はため息をついた。
話のセレブ度についていけない私は固まるばかり。
男の人は笑顔のまま大奥様がお待ちです、と案内してくれた。
手際よくお茶を淹れながら大樹という名の男の人は滑らかな口調で話した。
大樹さんはお婆ちゃんの秘書をしている。お婆ちゃんは事業を切り回す一方、児童養護施設を廻ってはたくさんの子を引き取っているらしい。大樹さんも援助を受けてお婆ちゃんの元で働くことになったのだという。
一度しかお会いしたことないけど、すごくはきはきとした人だから、事業を切り回しているのだと聞いてもすんなり納得できた。
驚いたことに、美紅ちゃんが座ったチャイルドシートを持ってきてくれたのは大樹さんだった。
昨日、私と美紅ちゃんを連れていきたいと先輩が電話したところ、お婆ちゃんは快く受け入れてくれて、美紅ちゃんに必要だろうと今朝早いうちにチャイルドシートを持っていくように言ってくれたのだ。そしてチャイルドシートをレンタカーにセットして帰る大樹さんの車に乗って、萌ちゃんは一足先に来たのだという。
「あ、あの、お手数おかけしました」
私が一緒に行きたいと言い出して、美紅ちゃんも行きたいと言ったために、朝早くから大樹さんに迷惑をかけてしまったと頭を下げると、大樹さんは笑いながら首を横に振った。
「結香様と一緒に小さな女の子が遊びに来てくれると知って、大奥様は昨夜から心待ちにしていましたからね。本当はお出迎えもご自分でなさりたかったのですが、先程、大旦那様に突然来客がありまして。そちらがぜひ大奥様にもお目にかかりたいと仰るので。出迎えが出来ないことを幾重にも詫びるよう申しておりました」
「いえいえっ!いきなりお邪魔したいと言ったのはこちらですし………あの、その、私は思いきり庶民なので、様付けはその、過ぎると思うんですけど」
お婆ちゃんを大奥様と呼んだり、孫の先輩や萌ちゃんを様付けで呼ぶのは解るんだけど、庶民の私にまで様をつける必要はないと思う。いくら客とはいえ元々先輩にくっついてきた身だし、年上のきちんと仕事している人にここまでされるとどう対応すればいいのか解らない。
私の言葉に、大樹さんはきょとんと目を見開いてから、ふむ、と軽く握った拳に顎を乗せて唸った。
「それは困りましたね。大奥様からは、最大限におもてなししろ、かつ、くれぐれも困らせるなと命を受けているのですが。結香様はもうお困りになられているご様子」
これは困った、と腕組みする大樹さんに、私はどうしようと中腰であわあわする。
普通のお客扱いでいいですよ、と言いたかったのに、お婆ちゃんの心遣いを知らず、勝手なことを言ってしまったみたいだ。
どうしようどうしようと慌てていると、先輩が私の腰を抱き寄せるようにして隣に座らせる。
「影山」
大樹さんの名字を呼ぶ声がすごく低く聞こえて、思わず先輩の顔を見上げようと身動ぎしていると、カラリと障子が開いた。
「結香ちゃん!それに、美紅ちゃん、よね?いらっしゃい。出迎え出来なくてごめんなさいね」
私と美紅ちゃんを交互に見てぱぁぁっと花開くように破顔したお婆ちゃんが、障子を閉めていそいそとこちらへ歩いてくる。
「こっ、こんにちはっ。今日は突然お邪魔してごめんなさい」
頭を下げようとしたけど、先輩に抱えられているので上手く身体が動かない。
私と一緒にこんにちはと挨拶した美紅ちゃんに微笑みかけてから、お婆ちゃんは私の腰を見て、おやおやと笑った。
「夕弦、手加減おしと言ったのに。初めてお邪魔した家でそんなことをされたら、結香ちゃんが恥ずかしくて堪らないじゃないか」
苦笑しながら注意されても、先輩は手を離さず大樹さんを細い目で見つめる。
「申し訳ございません、大奥様。俺が結香様と呼べるよう、結香様を困らせてしまいました」
腰を折って頭を下げる大樹さんをチラリと見て、お婆ちゃんは声をあげて笑ってから、宥めるように言った。
「慣れないだろうけどさ、許しておくれでないかい?大樹が様付けで呼ぶのは性分みたいなもので大した意味はないんだから」
お婆ちゃんにそう言われて小さく頷くと、ありがとねと微笑んでから、くるりと大樹さんを振り返った。
「それで、なんでまたスーツなんて着てるんだい?」
「萌様のご要望でしたので」
先ほど先輩にしたのと同じ説明をすると、納得したお婆ちゃんはカラカラと笑う。
「そうかい。そんならロールスロイスで行かせるべきだったかね?」
「んー、そこまではいいや」
そうかい?とどこか残念そうに言って、お婆ちゃんは萌ちゃんと美紅ちゃんの間に落ち着いた。
なんとか先輩に離してもらって、目的の八ッ橋を取り出す。
「あの、お口に合うと良いんですけど」
どんな物を買えば良いのか解らなかったので、いろいろ試食してみて、ニッキ味の生八ッ橋を一箱、抹茶ソースにつけて食べるものを一箱買ってきた。
ドキドキしながら差し出すと、お婆ちゃんは嬉しそうに箱を取り上げた。
「まぁまぁ、二箱も。わざわざ持ってきてくれてありがとうね。昨日修学旅行から帰ってきたばかりなんでしょう。大丈夫?」
気遣わしげに見つめられて、慌てて首を横に振った。
「だ、大丈夫です。昨日はすごく早く寝ましたから。あ、あの、夏に美味しいスイカを頂いて、ありがとうございました」
なんとか言って頭を下げると、ふふふっとお婆ちゃんが笑った。
「結香ちゃんと話して楽しかったからお礼にと持たせたのだけど、却って気を遣わせちゃったかしらねぇ。でも、それで美紅ちゃんまで遊びに来てくれたんだから、嬉しい限りだねぇ」
あ、忘れてた、と萌ちゃんが鞄の中から袋を取り出した。
「お婆ちゃん、これ、リクエストされたヤツ」
ありがとねと受け取った袋を見て、お婆ちゃんがにっこりと笑う。
何を渡したんだ、と聞く先輩に、ハーブだよ、と萌ちゃんがあっさり答えた。
「お兄ちゃんが結香お姉ちゃんにハーブティーを淹れてあげた話を聞いて、飲んでみたくなったんだって」
それを聞いた先輩の眉がぎゅぅっと狭まる。
「一体何処から」
「結香様。宜しければこちらのハーブで大奥様にお茶を淹れていただけませんか?」
大樹さんに突然言われて、少し戸惑う。
「ハーブティーの淹れ方を実際に目で見て覚えたいので」
そう言われてお願いしますと頭を下げられるので、解りましたと返事をしていた。
大樹さんに続いて部屋を出てきてしまったけど、先輩に言ってなかった。大丈夫かな、と部屋の方を振り返っていると、結香様、と前から静かな声で話しかけられた。
「先ほどは意地の悪い真似をしました。申し訳ございません」
「意地の悪い?」
そんなことをされた記憶がないので首を傾げると、大樹さんは微かに笑って止めた足をまた動かす。
「夕弦様と結香様は、似ておられますね」
「え。似てますか?」
背は全然違うし、先輩は頼りになるけど私はいつの間にか知佳ちゃんや友だちにお世話されてるし、似てないと思うんだけど。
大樹さんはひっそりと笑った。
「はい。お似合いです」
嬉しいけど恥ずかしくて俯いていると、穏やかな声で大樹さんが言った。
「俺が言うのもどうかとは思いますが、是非これからも夕弦様と仲良くしてください」
「は、はい。が、頑張ります」
自分でも妙な答え方をしてしまったけど、大樹さんは穏やかに笑うだけだった。
人数分淹れたお茶を大樹さんに持ってもらって部屋に戻ると、知らない女の人がお婆ちゃんと先輩に話しかけていた。一緒にいたはずの萌ちゃんと美紅ちゃんがいない。どこに行ったんだろう。
大樹さんは女の人を一瞥すると、私にだけ聞こえるように耳打ちした。
「対処しますので、結香様にはお茶をお願いできますか?予定通り配ってください」
頷くと、にこりと笑ってから大樹さんはまた部屋を出ていく。
話の邪魔にならないように、脇からそっとお婆ちゃんの前にお茶を出す。
音をたてないように先輩の前にお茶を出すと、「ありがとう、結香」と先輩がにこりと笑った。
「何ですの、一体」
甲高い声に驚いて振り向くと、さっきまでにこやかに話していた女の人が目をつり上げて私を見ていた。
「えと。ハーブティー、です」
なんとか声が裏返らないように答えると、まぁっと女の人が大きな声を出した。
「進藤夫人にそんな貧相なモノを出すなんて、あなた、一体どういうつもりなんですの?」
「え?」
とたんに先輩の目が細くなった。その向こうに座るお婆ちゃんは笑顔のままだけど、さっきの笑い転げてたときの笑顔とは違って、どこか顔の所々に力を入れているような笑顔だ。
戸惑っていると、女の人はさらに声をあげる。
「なんとか答えたらどうですの?使用人のクセに」
「使用人」
先輩の低い一言に振り返った女の人は、やっと先輩が怒っていることに気づいたみたいだけど、一つ頷くと教えるように言った。
「そうですよ。夕弦さんが日頃離れた所で生活されててこういう家に慣れていないのは解りますけど、使用人は使用人。立場というものはきちんとしなければ、お互いの為になりません。特にこういう小娘はすぐに勘違いしますからね」
「勘違いしているのはあんたじゃないかね」
強張った笑顔のままお婆ちゃんが言ってカップを手に取った。一口飲むと、ふんわり笑って私を見る。
「美味しいよ。ありがとう、結香ちゃん」
その笑顔にホッとしていると、女の人がまた声をあげる。
「大奥様。勘違いというのはどういうことでしょうか。わたしは」
「ただの無粋な不法侵入者だよ」
スパッとお婆ちゃんが言い放つと、女の人は「なっ」と声をあげて口を開けた。
「大体、あんたはうちの人に会いに来たという父親に引っ付いて来ただけだ。なぜこの部屋にいるんだい?この部屋では今日、とても大切な客をもてなすことになっている。うちの者が部外者を案内するはずがないんだけどね」
カップを置きながらお婆ちゃんが下から見上げると、女の人は言葉を詰まらせ視線を彷徨わせる。
つまり、この女の人はお祖父さんと会っていた部屋から自分でこの部屋まで来たんだよね。
うーん………よそのお家を勝手に歩き回るって、失礼だと思うんだけど。
私だったら………そもそも、一人でこの部屋を出たら、きっと戻ってこれないよ。
私の情けない考えをよそに、お婆ちゃんは続けて言う。
「つまり、あんたは大切な客をもてなす邪魔にしかならない不法侵入者というわけさ。解ったならとっとと出て行ってもらいたいね」
不愉快だ、とキッパリ言ったお婆ちゃんに一瞬表情を歪めた女の人だけど、すぐに笑顔を浮かべて切り出した。
「大切な客というのは夕弦さんのことでしょう?邪魔にはなりませんから、ぜひわたしもお話に交ぜてくださいな」
ね、と同意を求めるように先輩を見る目が嫌で、思わず俯く。膝の上で握りしめた手が大きな手に包まれた。
そっと見上げると、先輩が優しい目で私を見ていた。
「やれやれ。話の解らない嫁ぎ遅れはこれだから困るよ」
「なんですってっ!!?」
ため息をつきながらもはっきり言ったお婆ちゃんに、女の人が怒って立ち上がる。
驚いて身体がビクリとしたけど、先輩が宥めるように背中を擦ってくれる。
目の前で女の人が怒ってワナワナと身体を震わせているにも関わらず、はて、とお婆ちゃんは腕組みをした。
「ヒトの話をロクに聞きもしない解らず屋だから、嫁ぎ遅れになった、が正しいのかね」
呑気にそんなことを言ってくるりと私を振り返る。
「どう思う、結香ちゃん?」
「ふぇぇっ!!?」
そこでどう思うか聞かれても困るんですけど!
驚くばかりで私が答えられないうちに、女の人が大きな声をあげた。
「いい加減にしてくださいっ。さっきからその使用人ばかりチヤホヤしてっ」
「あぁ、そうそう。あんたに説明する必要は微塵もないけど、使用人使用人煩いから言っておこうかね」
お婆ちゃんは女の人に向き直ると、にこりと微笑んだ。
「こちらは夕弦の恋人さ。あたしの大切なお客人だよ」
女の人が目を大きく見開いて私を見る。
今気づいたけど、台所で借りたエプロンをつけたままだった。これなら間違えられても文句言えないかな。
「あなた、お名前は?」
「ふぇっ?ま、牧野結香、と申します」
怒ってたはずの女の人は、私の名前を聞いて笑った。
その笑顔が怖くて少し身を竦める。
私にとってはなんだか怖い笑顔を浮かべたまま、女の人は静かに座り直して口を開いた。
「牧野結香さん。大奥様、この人がどういう人か、ご存知ですか?」
「夕弦が心底惚れてる娘さ。両家族にも望まれる縁組みなんて羨ましいことさね」
お婆ちゃんがさらりと答えたけど、女の人はそれには反応しないで続けて口を開いた。
「この人は、ビギナーズラックで入賞したことを良いことに、無理に頼みこんでコンクールに応募しようとしたんですよ」
そんなことはしていない―――
そう言おうとした手を握っていた力が強くなる。
先輩は真っ直ぐ私を見ていた。
その瞳の色にホッとする。
近くに座っているはずの女の人の声が、どこか遠くから聞こえた。
「その人のお姉さんにはね、犯罪歴も」
「そんな戯れ言をよくものうのうと語れるものだね」
どこか感心したように呟くお婆ちゃんに、女の人がしびれを切らしたようにまた声を大きくした。
「戯れ言ではありませんっ。夕弦さんはSD製薬の大切な跡取り。その伴侶に相応しいのはっ」
「虚言癖の嫁などいらん」
落ち着いた声が割って入った。
いつの間にか障子を開けて喚く女の人を冷たい目で見下ろしていたのは、お祖父さんだった。
「遅いですよ、あなた」
お婆ちゃんが不機嫌な表情で言うと、「すまん」とお祖父さんはすんなり謝った。
「大樹からの連絡を受けて家の中を移動するのに、何十分かかってるんです。お蔭で結香ちゃんや美紅ちゃんと遊ぶ時間がどんどん減ってるじゃないですかっ。日頃車に乗ってばかりだから、足腰弱るんですよっ」
ペシペシと自分の膝を叩きながらお婆ちゃんは叱る。お祖父さんは心もち小さくなった。
「大奥様、その辺でご勘弁を。すぐにこちらに駆け付けようとした大旦那様を客人が引き留めたので」
お祖父さんの背後から、宥めるような声を大樹さんがあげた。
「そもそも。約束のない相手にお茶なんて出すから、相手が勘違いするんです。人様の家に勝手に上がり込んで勝手に歩き回る。しかもあることないこと言いふらして自分が主のように振る舞う。強盗ですか」
「わっ、我々はっ、そんなつもりはっ」
障子の向こうの影が大きく動いている。大樹さんとお祖父さんが入り口に立っているから慌てているみたいだ。
お婆ちゃんは構わず、とにかく!と声を張り上げた。
「この人の会社もあたしの事業も、あたしたちのやりたいようにやります。チマチマ人様のアラを探してまで結構なことだけど、進藤家の男は自分の嫁は自分で見つけてくるものです。大樹!とっとと追い出して!」
はいっと返事をすると、するりと大樹さんが部屋に入り、女の人の肩に手を置いたと思ったら、次の瞬間には女の人を立たせて部屋の外に追いやっていた。
女の人も影しか見えなかった人も抵抗して騒いでいたけど、あっという間に連れていってしまったみたいで、騒がしかった部屋はいきなりしんと静まり返った。
「えっと………なんだったんでしょう………?」
話の流れや展開にだいぶ前からついていけなかった私が首を傾げると。
先輩が優しい手つきで長いこと髪を撫でてくれた。
大樹さんは何事もなかったような表情でお茶の用意をして戻ってきた。その後ろには萌ちゃんと美紅ちゃんがいたので、小さく安心のため息をついた。
あの女の人が勝手に部屋に入ってきて息つく暇もないくらい話し出したので、萌ちゃんが美紅ちゃんを連れ出して庭で遊んでいたらしい。
あの騒ぎで怖い思いさせずに済んで良かった。
「あのオバサンやっと帰ったの?」
開口一番で萌ちゃんが聞くと、その口の悪さにお婆ちゃんがカラカラと笑った。
「自分で帰ってくれなかったからねぇ。追い出したよ」
「ふぅん。良かったの?仕事の付き合いがある人じゃないの?」
お婆ちゃんは首を振ってからお祖父さんを見た。
「大した付き合いではない」
お祖父さんがぼそりと言うと、やれやれとお婆ちゃんが首を振った。
「あの嫁ぎ遅れもねぇ。自分が優秀だと思うなら、ヒトの会社アテにしないで自分で会社作ればいーのに。会社なんて作るのは簡単なんだから」
ため息をついてから、お祖父さんをキッと睨みつけた。
「大体、あなたが家にいるからあの二人は口八丁でここへ上がり込んだんでしょう。なんだって今日は家にいるんです?」
口ごもるお祖父さんに、フンッとお婆ちゃんは鼻息を荒くした。
「大方今日は結香ちゃんが来ると知って行きたくなくなったんでしょう?残・念でした。結香ちゃんはあたしに!会いに来てくれたんです」
フフンと胸を張るお婆ちゃんに、お祖父さんは少し悔しそうにしている。
「ゆじゅぅおにいちゃん、おばぁちゃん、おじいちゃんとけんかしてりゅの?」
「あの二人は大抵あんな感じだ」
二人の方を見もせずに、先輩は袋を開けて中のお菓子を美紅ちゃんにあげている。
美紅ちゃんはパウンドケーキをじっと見ると、お婆ちゃんに向かって歩いていく。
「うん?どうしたの、美紅ちゃん」
目をつり上げてお祖父さんに怒っていたお婆ちゃんは、隣にちょこんと座った美紅ちゃんに相好を崩した。
んしょ、んしょ、とかけ声をかけながら半分に割ったケーキを、お婆ちゃんとお祖父さんにはいっと渡してにっこり笑った。
「けぇきはんぶんこして、なかなぉりよ?」
お婆ちゃんはポカンとしていたけど、クスクスと笑い出した。
「そうね。仲直りね」
「ちゃんといただきましゅすぅのよ」
小さな子に言い聞かせるような口調の美紅ちゃんに、笑いながらも「はい、いただきます」とお婆ちゃんは挨拶して半分のケーキを食べた。お祖父さんも小さく挨拶して食べる。
それを満足そうな笑顔で見届けると、美紅ちゃんはトテトテとこちらへ戻ってくる。
その後ろ姿を、お祖父さんがじぃぃっと見つめていた。
お菓子を食べると、萌ちゃんは美紅ちゃんを誘った。
「家の探検しに行こうよ」
美紅ちゃんはすごく行きたそうにしているけど、もし家具とか調度品とか壊しちゃったらと気になって素直に送り出せない私です。
「いいよ。行っておいで」
お婆ちゃんがあっさり頷いて送り出すと、二人とも嬉しそうな声をあげて手を繋いで走って行ってしまった。
「立派そうに見えるだけで、大した値打ちなんてないから大丈夫よ。それより」
お婆ちゃんは口調を改めてきちんと座り直すと、スッと畳に手をついた。
「結香ちゃん。今日は疲れているところを遠くまで来てくれたのに、あんな不愉快なモノを目に入れてしまってごめんなさい」
「えっ………あの、大丈夫なので顔を上げてくださいっ」
とにかく土下座を止めてほしくて慌てていると、そういえば、と先輩が声をあげた。
「門から玄関までの道沿いに植えられている木の中に、スケッチしたいと言っていた木があったな」
先輩の言葉にパッとお婆ちゃんが顔を上げる。
「せ、先輩。いきなり何を」
「絵に描きたいの?」
私の戸惑う声とお婆ちゃんの弾んだ声が重なる。
「結香は京都ではスケッチする時間まではなかったと思うから、灯籠なんかも描きたがるんじゃないか?」
言いながら私の目を見て、確信したように先輩は笑う。
先輩、エスパーですか?
確かに修学旅行では鹿以外描けなかったけど!
車の中から見えた灯籠に、京都で見たお庭とは違った雰囲気だけど素敵だなぁと見惚れちゃってたけど!
何もこんなときに言い出さなくても………っ
「そうねっ。結香ちゃんは絵が得意だものねっ。あの庭が役に立つこともあるのねっ」
パァァッと音がなるくらい顔を輝かせて、どこでも存分に描いてっと言ってくれるお婆ちゃんに遠慮も出来ず。
初めて来たお宅でスケッチするためにウロウロすることになってしまったのです………
どこでも何でも好きなものを描いてね、というお婆ちゃんの言葉に甘えて庭をウロウロすることしばし。
結局灯籠のある一画を描くことにした。
あまり長いこと歩き回って時間かけるのも良くないし、遠くまで歩き回って迷子になったら恥ずかし過ぎるし。
少し離れた所では美紅ちゃんが萌ちゃんや先輩と遊んでいる。絵を描き始めたときに「そこであしょんだらじゃま?」と聞きに来たけど、スケッチブックと鉛筆だけだから大丈夫だよ、と言ったら嬉しそうに笑って駆けていった。
最近の美紅ちゃんは本当に毎日楽しそう。礼儀正しい美紅ちゃんはお世話しやすいと思うけど、あんな風に自然に駆け回ったり笑ったりできるようになって良かったと思う。両親の離婚は美紅ちゃんにはキツい出来事かもしれないけど、いずれはお母さんと二人で暮らすんだもの。完璧なお嬢様よりも自然体の美紅ちゃんの方がいいと思う。
そんなことを思いながら鉛筆を走らせていると、視界の隅にスッと影が落ちた。
「色はつけないのか?」
話しかけてきたお祖父さんに少し驚く。
「え、と………今は鉛筆でスケッチして、家で塗ろうかと」
いつもそうしているんです、と言うとお祖父さんは、そうか、と頷いてから小さく息を吐いた。
「すまんかったな」
ぽつりと言われて首を傾げると、お祖父さんは数回瞬きをした。
「なまじ大きな組織になると、要らぬ縁が絡み付く」
さっきの女の人のことを、お祖父さんも気にしていたみたいだ。
わざわざ確認してないけど、お祖父さんの会社がSD製薬だということは間違いないと思う。夏にお祖父さんとお父さんが進路のことで揉めたと聞いたけど、お祖父さんはお父さんに会社を継いでほしかったのかな。
もしかして、先輩に継いでほしいと思ってるのかな。
でも、先輩は……………
聞いてみたいとは思うけど、よそのお家のことをズケズケと聞けずに黙っていると、お祖父さんは遠くで遊ぶ三人を眺めながら口を開いた。
「夕弦を見ていると、あれを思い出す」
お父さんのことかな、と推測して続きを待つ。
「あれは母親に似て迷わない男だった。自分で己の道を決め、真っ直ぐ進む。失敗しようが周りがどう言おうが構うことなく」
どちらも失敗したところを見たことはないが、と小さく笑ってから、お祖父さんは私を見た。
「あれに似てしまって言葉が足りん孫でついていくのは大変かもしれん。苦労をかけるな」
「い、いえ」
必死に首を横に振ると、お祖父さんはフッと笑った。
「あ、あの、姉のことですが」
「解っておる」
一応お姉ちゃんのことはきちんと説明しなくちゃと口を開くと、お祖父さんは頷いた。
「茜さん。あの人は夏にここへ来た」
夏に会ったとき、私は解らなかったけどお姉ちゃんは大企業の社長だと一目で解ったらしい。家へお祖父さんを訪ねて頭を下げたという。
自分のことが目障りだというなら牧野の性から抜けてもいい。
妹そのものを見てやってほしい。
牧野の家から、妹をお孫さんに添わせてほしい。
そう言って土下座をしたと聞いて、複雑な気持ちになってしまう。
「若いときの千鶴子を見ているようだった」
遊んでいる三人を見守るお婆ちゃんを見つめる瞳が優しくて、その様子を見ていると気持ちがほっこりした。
「あの下らない戯言を広めさせないから、安心しなさい」
はい、と頷くと、お祖父さんはゆっくり歩いてお婆ちゃんの隣にちょこんと座った。
お婆ちゃんがお祖父さんに話しかけている。
何を話しているのか解らないけど、二人で仲良くお茶を飲んで先輩たちを眺める姿はとても幸せそうだな、と羨ましくなった。
「あの時間で二枚も描いたのか」
いつの間にか隣に来ていた先輩に覗きこまれて小さく頷く。
庭の様子と先輩たちが遊んでいる様子、二枚を描いた。自分でも上手く描けたと思う。色を塗るのが楽しみ。
「結香お姉ちゃん、お爺ちゃんに邪魔されなかった?」
少し心配するような表情の萌ちゃんに首を横に振ると、安心したように破顔した。
「良かった。お兄ちゃんに会社継がせるとか言い出して困らせてるんじゃないかと思ったんだ」
「そのつもりはない」
お祖父さんが少し不機嫌そうに言うと、お婆ちゃんがクスクス笑った。
「あなたも早いところ後継を決めなさいな」
お祖父さんの視線を受けて、あたしは決めましたよ。仮だけど。とお婆ちゃんは大樹さんを見やった。
「えぇっ!お婆ちゃん跡継ぎ決めちゃったの?」
「おや。萌は嫌かい?」
面白そうに聞くお婆ちゃんに、萌ちゃんは首を竦めた。
「嫌、じゃないけど………できれば、私、お婆ちゃんのお仕事やってみたいなって」
「おや。そうだったのかい?」
嬉しそうに驚くお婆ちゃんに、萌ちゃんは満面の笑みで頷いた。
「うんっ。お婆ちゃんは私の憧れだからねっ」
嬉しいね、と微笑むお婆ちゃんは本当に嬉しそう。
「でも困ったね。あたしの跡を大樹が継ぐか萌が継ぐか」
嬉しそうにしながらも悩むお婆ちゃんに、大樹さんはのんびり笑った。
「それなら俺は萌様のサポートをしましょう」
「それは勿体ない気がするわね」
本気で悩み始めたお婆ちゃんに、萌ちゃんは明るく切り出した。
「大丈夫だよ、お婆ちゃん。私、自分で頑張る。跡継ぎ狙ってたら、あのオバサンと同じになっちゃうもんね」
勇ましくガッツポーズをする萌ちゃんを、お祖父さんが呼んだ。
「儂の会社はどうだ」
萌ちゃんは困ったように小首を傾げた。
「薬作る会社でしょ?私、理科って好きじゃないんだよね」
残念そうに肩を落とすお祖父さんに、お婆ちゃんはカラカラと笑っていた。
萌ちゃんに影響を受けたのか、帰り道は大樹さんの車に乗りたいと美紅ちゃんが言い出した。
おねだりする様子は子どもらしい仕草で可愛いんだけど。
萌ちゃんがお嬢様扱いされるのはお婆ちゃんの孫だからで、そんな我が儘言っちゃダメと説得しようと思ったら、お婆ちゃんはあっさり、いいじゃないか、と笑った。
大樹さんもさっさとチャイルドシートをつけ直している。
「予行演習みたいなものですからお気になさらずともいいんですよ」
予行演習?と首を傾げて考える。
「あの、美紅ちゃんにはちゃんとお母さんがいて………先輩もお母さんも美紅ちゃんのこと可愛がってくれてますけど、養子には出せないんです………ふぇ?」
話してる途中から肩を揺らしていた大樹さんは一頻り笑ってから、心得てますよ、と息も切れ切れに言った。
「じゃあ―――大樹さん、もうすぐお子さんが産まれるんですか?」
「いやいや。まだ独身ですので」
ちょっと失礼かなとは思ったけど、大樹さんは気にする様子もなく内緒話のようにこっそり囁いた。
「せっかくこんな遠方まで来たんです。美紅様は俺に任せて、少しドライブデートを楽しんで下さい」
デート、の響きに顔が熱くなると同時に、後ろから肩を抱かれた。
「ひゃぁっ!??」
「そろそろ帰るぞ。萌、美紅ちゃん、気をつけて帰れよ」
車に乗りながら「「はぁーいっ」」と返事が合唱する二人は仲良しの姉妹みたい。
美紅ちゃん、可愛いし礼儀正しいから、本当に養子に欲しいって言われたらどうしよう。
そんなことを思っていたら、車に乗るように先輩に促される。
「まっ、待ってくださ―――先輩っ、ご挨拶してなっ」
「問題ない」
結局押しきられるように乗車してしまった。
大樹さんが車に寄りかかって大笑いしている。
「あああのっ!お、お邪魔しましたっ」
窓を開けて急いで言うと、お婆ちゃんはニコニコと笑った。
「また遊びに来てね。美紅ちゃんも一緒に。泊りで来てくれればもっと嬉しいわ」
「は、はい。ありがとうございます」
養子の発想が頭に残っていて、ちょっと笑顔が固くなってしまった。
お祖父さんも窓に近づいて屈む。
「茜さんに、よろしくな」
お姉ちゃんのことを本当に解ってくれてるんだ、と嬉しくなって顔が弛んだ。
「はいっ」
元気よく返事すると、お祖父さんはゆっくり頷いて車から離れた。
シートベルトをつけると、車はゆっくり走り出す。立ったまま見送ってくれるお婆ちゃんたちやまだ動いていない車に向かって手を振った。
途中で見つけた道の駅で遅めのお昼ご飯を食べることにしました。
いつもは流れるような動きで食べる先輩が、なぜか私をチラリと見ながらゆっくり食べています。その物憂げな様子ですら格好良いって、イケメンはすごいなぁ。
ぼんやりとサンドイッチを齧っていると、先輩は静かに聞きました。
「大丈夫だったか?」
朝からいろいろ驚くことがあったので疲れていないか、心配してくれたみたいです。
「お家の大きさとか会社のこととかには驚きましたけど、大丈夫です。お婆ちゃんは夏にお会いしたときと変わらず優しくしてくれましたし、お祖父さんともお話できましたし」
お茶を淹れに台所にお邪魔したときもそこで作業していたお婆さんには驚かれたけど、挨拶して事情を説明したら快くエプロンを貸してくれたし。
「お家やお庭は豪華だったけど、みなさん普通にお話してくれましたから、大丈夫でしたよ。お話だとお屋敷に住んでる人とかお勤めしてる人は庶民に厳しいってよくあるけど、現実は違うんですねぇ………先輩、どうしました?」
楽しく話していると、先輩が途中からなぜか眉を寄せていた。
「いや………結香は、ああいう所で暮らしたいか?」
「ふぇ?うーん………住むのは、大変そうですね」
掃除だけで時間かなりかかりそうだし、調度品のお手入れなんて大変そう。綺麗な日本庭園の掃除の仕方なんて想像つかないし。掃除だけで一日終わってくたびれ果ててる自分の姿が簡単に想像できた。
先輩は、そうか、と優しく破顔した。
「少し遠回りになるが、峠を通って帰らないか?途中で展望スペースがあるんだ」
ドライブデートの誘いに、はい!と笑って頷いた。
途中で夕食も食べたので帰りは少し遅かった。メールで聞いた通り、美紅ちゃんはもう寝ている。
熱い頬を手で扇ぎながら歩いていると、二階からお姉ちゃんが降りてきた。
「結香、おかえり」
「ただいま、お姉ちゃん―――起こしちゃった?」
首を横に振りながら台所に入ったお姉ちゃんは冷蔵庫からハーブティーを取り出す。
飲む?と聞かれて頷くと、コップを二つ取り出して注ぐ。
「今日ね、先輩のお祖父さんにもお会いしたよ」
受け取りながら言うと、そう、と静かに頷いた。
「お姉ちゃんに、よろしくって」
ほぅっと、返事の代わりにお姉ちゃんは長い息をついた。
「結香、ごめんね」
ぽつりと謝る。前に、過去のことを気にして勝手なことを言ったりしたりしたら怒るよ、と私が言ったからだと思うけど、私のためにわざわざお祖父さんに会いに行ったんだと思うと、何も言えなかった。
顔を上げると、珍しくショボンと項垂れているお姉ちゃんが視界に入った。
「お祖父さんね、お姉ちゃんは若いときのお婆ちゃんに似てるって言ってたよ」
そう?と微かにお姉ちゃんが首を傾げた。
「お婆ちゃんね、お祖父さんにハキハキ話してて凛としていて、でも、並んで座ってるときは穏やかでね、二人で遊んでる先輩たちを見つめていたの。なんかいいなぁ、って羨ましくなっちゃった」
萌ちゃんがお婆ちゃんに憧れる気持ちは、よく解る。
「お姉ちゃんがね、いつでも真っ直ぐ前見て立ってる姿は便りになるし格好いいって思うけど、隣に誰かいてほしいと思うんだ」
お姉ちゃんは、何も言わずにただ困ったように笑った。
◆ 後日談・学食にて ◆
トレイを受け取って席を見渡すと、見知ってはいるが異質な存在を見つけて眉を寄せる。
断りなく前の席に座ったが、相手はいつもの笑みを浮かべるだけだった。パーカーとジーンズなので、周りの人間も部外者だと気付いていないのだろう。
「いやいや、学食なんて初めてですけど、なかなか楽しいですね」
「ここで何をしている」
短く聞くと、笑みを浮かべたまま「勿論食事です」と言った。
「夕弦さんに会いに来るついでに休憩をとっています」
ため息をつくが相手は構わず笑顔でカツ丼をつついている。
「牧野家を探っていた調査会社は、こちらで抑えました」
穏便ではない一言に辺りを見渡すが、それぞれ話をしていてこちらに注目している者は居なそうだ。
「堂々としていればバレないもんですよ」
目の前の相手は飄々と言ってのけた。
「調査会社は数社。でも依頼主は先日の人で間違いはないでしょう。とにかく蝿は排除しましたので」
「そうか。ありがとう」
首を横に振ると、つまらなそうに味噌汁を箸で掻き回した。
「元は大旦那様と大奥様に金喰い虫が引っ付いたのがきっかけですからね。礼は不要かと」
それに、とやたら楽しそうに続ける。
「結香様と美紅様を見てお二人とも喜ばれましてね。可愛い曾孫の顔が見れるならこの程度何のその、ですよ」
ウキウキと浮かれる様子を想像して再びため息をついた。
「結香も俺も未成年で、まだ学生なんだが」
目の前の男は表情を変えなかった。
「何を仰います。大奥様が大旦那様を焚き付けて駆け落ちなさったのは、大奥様が十六歳のときですよ?」
「それはそうだが」
時代も違うし、三代続けて周囲の同意を得ずに結婚するのはどうか。
夕弦さんは真面目ですねぇ、と笑う姿がどこか婆さんを思わせる。
「絹枝さんまで気に入る女の子ですからね、是非とも嫁にして頂かないと」
解っている、と頷く。
絹枝さんというのは、あの家の家事全般を請け負っている人だ。結香にエプロンを貸したのはこの人だろう。
結香は庶民にも気取らない優しい人と認識しているが、それは初対面の人間には稀な姿だと思う。絹枝さんは相手に関わらず礼儀に厳しく、主人への態度次第では客であろうと問答無用で追い出す。先日の親子も竹箒一本で追い出したそうだ。
その絹枝さんに気に入られたということは俺としては喜ばしいことだが。
「結香はあの家に住む気はないぞ」
相手は一瞬呆けたような表情をしたが、すぐに声を上げて笑った。
「そりゃあ夕弦さんには大旦那様の跡を継いで頂きたいと思う気持ちはありますけどね。旦那様の一件で大旦那様も解っておられますよ。それより、早く嫁取りを、というのがお二人の心情で」
第一子は母親似の女の子がいい。美紅ちゃんのように愛らしくなるだろう。男の子でもいいな。
そんな会話を老夫婦二人でワイワイとしているらしい。
その光景に軽い頭痛を覚えながら、ふりかけをかける。
「おや。結香様からのお土産ですか」
目を細めて見るが、悪びれずに笑うばかり。
ため息をつきながら思いつく。
「蝿は排除した、と言っていたが、つまりハルさんのパート先から一人抜けた、ということか」
二人ですね、と訂正される。
「夫妻の周囲に二人ずつ、お姉様の周りに四人、美紅様がいらっしゃる公園に二人、結香様の高校の近くに二人、中学時代の学友をあたっていたのが三人、といったところでしょうか」
羅列されていく人数にうんざりしている俺とは別に、相手は平然と味噌汁を啜った。
「顔見せしていない夕弦さんを狙ってここまで金をばらまいたんです。余程嫁入りしたかったんでしょうねぇ」
所詮無駄な散財でしたけどね、と笑う顔が黒い。
「そこは別にいいんだが。パートからいきなり人が抜けると困るんじゃないかと思ってな」
募集をかけてもすぐに応募がくるとは限らない。人が補充されるまで、またハルさんが苦労するのか心配になった。
「それもそうですね。いざとなったら俺たちの中から三人ほど応募しましょうか」
婆さんが引き取るなり援助するなりした子どもたちのことだろう。
もしかしたら頼むかもしれない、と呟いてから、大きくため息をついた。
「そのうち婆さんが忍び集団を作るような気がする」
何です、それ。と爆笑された。
「夕弦さんも冗談なんて言うんですねぇ」
涙を拭いながら影山はニヤリと笑った。
「萌様か夕弦様が跡を継がれて、今日から忍びになれと命じれば、なるかもしれませんよ?」
「誰がそんなことをするか」
影山は面白そうに笑うばかりだった。
後日、台所で作業する結香を眺めていると静かに茜さんが近付いてきた。
「少し煩いのがいなくなったみたい。ありがとね」
驚いて見上げるが、茜さんは穏やかな表情で結香を見つめていた。
「わざわざお礼に伺うほど親しくもないけど、お礼は言っておきたくて」
それだけ。じゃね。と茜さんは身を翻して二階へ上がって行った。
「先輩、お待たせしました―――どうしました?」
「いや。茜さんは、忍びなのか?」
思わず思い付いたまま呟くと、へっ?と結香が戸惑う。
「お姉ちゃんが、ですか?お姉ちゃん、綺麗で目立つから忍べないと思うんですけど………あれ?でもかくれんぼじゃなかなか見つからなかったような………あれ?」
否定しながらも頭を抱える結香に、ひどく安心を感じた。
今日は私が京都で買ったお土産を先輩のお婆ちゃんの家へ届けに行く日です。
先輩は一人で行くつもりだったけど、自分から渡したいのだとお願いして一緒に連れていってもらうことにしたのです。
「大丈夫そうだな」
「八時前には布団に入ってましたもんっ」
思わずピースサインをして言うと、先輩は微かに微笑んで私の隣に視線を移した。
「おはよう、美紅ちゃん」
「ゆじゅぅおにいちゃん、おはよぅごじゃいます」
舌ったらずの口調で言ってペコリと頭を下げる美紅ちゃんを見て、先輩は微笑みを浮かべる。
「準備が出来てるなら、行こうか」
美紅ちゃんと二人で返事して外に出る。
昨日、美紅ちゃんが自分も行きたいと言い出したのだけど、運転席の後ろにはきちんとチャイルドシートがセットされていた。
チャイルドシートなんてどうしたんですか?と聞くと、持ってきてもらった、と先輩は簡単に答えた。
美紅ちゃんもいるから、今日は後部座席に座る。
「結香、着いたら起こすから眠たかったら寝ててもいいぞ」
後ろを向いた先輩が言うけど、後部座席から見る先輩の運転姿がまた新鮮で格好良くて、お喋りしたり変わっていく景色を楽しんでいるうちに、お婆ちゃんのお宅へ着いてしまいました。
「あの。本当にここですか?」
何度聞いてもあっさり頷く先輩に、目の前にそびえる立派な玄関に目眩を覚える。
きちんと整えられた長い生け垣に、手入れ大変そうだな、と思いながらも見蕩れ。見事な枝振りの木を見つけては、葉が落ちる前にあんな木を描きたいかも、と暢気に思いを馳せてるうちに車は停まり。
ため息が出るほど立派な玄関に三人並んで立ち尽くしているところです。
「おっきぃねー」
美紅ちゃんは素直に見上げてニコニコするけど、私は焦る一方。
お婆ちゃんの家がこんな立派な豪邸だなんて聞いてなかったから、至って普通の格好で来てしまったのです。
慌てて自分の服装をチェックしていると、先輩は奥に向かって呼びかける。
「夕弦様、申し訳ございません。お手間をかけまして」
現れた黒スーツの男の人がスッと流麗に頭を下げる。
「結香が怖がるから止めてくれ。なぜ今日はスーツなんだ」
先輩がため息をつきながら眉を寄せる。
「萌様のご要望でしたので」
「なんだってそんなことを」
男の人がにっこり笑って答えると、先輩は額に手を当てて大きなため息をつく。
パタパタパタっと軽い足音が近づいてきて、黒スーツの後ろから笑顔の萌ちゃんがピョコッと顔を出した。
「たまにはお嬢様扱いされてみたいなぁって言ったらいいよーって言ってくれたんだからいーじゃない」
ねー?と同意を求めると男の人は、はい、と笑顔で頷いた。
「お願い等されずとも、萌様は大奥様の大切なお孫様ですから。お嬢様とお呼び致します」
ほぉらっと胸を張る萌ちゃんに、先輩はため息をついた。
話のセレブ度についていけない私は固まるばかり。
男の人は笑顔のまま大奥様がお待ちです、と案内してくれた。
手際よくお茶を淹れながら大樹という名の男の人は滑らかな口調で話した。
大樹さんはお婆ちゃんの秘書をしている。お婆ちゃんは事業を切り回す一方、児童養護施設を廻ってはたくさんの子を引き取っているらしい。大樹さんも援助を受けてお婆ちゃんの元で働くことになったのだという。
一度しかお会いしたことないけど、すごくはきはきとした人だから、事業を切り回しているのだと聞いてもすんなり納得できた。
驚いたことに、美紅ちゃんが座ったチャイルドシートを持ってきてくれたのは大樹さんだった。
昨日、私と美紅ちゃんを連れていきたいと先輩が電話したところ、お婆ちゃんは快く受け入れてくれて、美紅ちゃんに必要だろうと今朝早いうちにチャイルドシートを持っていくように言ってくれたのだ。そしてチャイルドシートをレンタカーにセットして帰る大樹さんの車に乗って、萌ちゃんは一足先に来たのだという。
「あ、あの、お手数おかけしました」
私が一緒に行きたいと言い出して、美紅ちゃんも行きたいと言ったために、朝早くから大樹さんに迷惑をかけてしまったと頭を下げると、大樹さんは笑いながら首を横に振った。
「結香様と一緒に小さな女の子が遊びに来てくれると知って、大奥様は昨夜から心待ちにしていましたからね。本当はお出迎えもご自分でなさりたかったのですが、先程、大旦那様に突然来客がありまして。そちらがぜひ大奥様にもお目にかかりたいと仰るので。出迎えが出来ないことを幾重にも詫びるよう申しておりました」
「いえいえっ!いきなりお邪魔したいと言ったのはこちらですし………あの、その、私は思いきり庶民なので、様付けはその、過ぎると思うんですけど」
お婆ちゃんを大奥様と呼んだり、孫の先輩や萌ちゃんを様付けで呼ぶのは解るんだけど、庶民の私にまで様をつける必要はないと思う。いくら客とはいえ元々先輩にくっついてきた身だし、年上のきちんと仕事している人にここまでされるとどう対応すればいいのか解らない。
私の言葉に、大樹さんはきょとんと目を見開いてから、ふむ、と軽く握った拳に顎を乗せて唸った。
「それは困りましたね。大奥様からは、最大限におもてなししろ、かつ、くれぐれも困らせるなと命を受けているのですが。結香様はもうお困りになられているご様子」
これは困った、と腕組みする大樹さんに、私はどうしようと中腰であわあわする。
普通のお客扱いでいいですよ、と言いたかったのに、お婆ちゃんの心遣いを知らず、勝手なことを言ってしまったみたいだ。
どうしようどうしようと慌てていると、先輩が私の腰を抱き寄せるようにして隣に座らせる。
「影山」
大樹さんの名字を呼ぶ声がすごく低く聞こえて、思わず先輩の顔を見上げようと身動ぎしていると、カラリと障子が開いた。
「結香ちゃん!それに、美紅ちゃん、よね?いらっしゃい。出迎え出来なくてごめんなさいね」
私と美紅ちゃんを交互に見てぱぁぁっと花開くように破顔したお婆ちゃんが、障子を閉めていそいそとこちらへ歩いてくる。
「こっ、こんにちはっ。今日は突然お邪魔してごめんなさい」
頭を下げようとしたけど、先輩に抱えられているので上手く身体が動かない。
私と一緒にこんにちはと挨拶した美紅ちゃんに微笑みかけてから、お婆ちゃんは私の腰を見て、おやおやと笑った。
「夕弦、手加減おしと言ったのに。初めてお邪魔した家でそんなことをされたら、結香ちゃんが恥ずかしくて堪らないじゃないか」
苦笑しながら注意されても、先輩は手を離さず大樹さんを細い目で見つめる。
「申し訳ございません、大奥様。俺が結香様と呼べるよう、結香様を困らせてしまいました」
腰を折って頭を下げる大樹さんをチラリと見て、お婆ちゃんは声をあげて笑ってから、宥めるように言った。
「慣れないだろうけどさ、許しておくれでないかい?大樹が様付けで呼ぶのは性分みたいなもので大した意味はないんだから」
お婆ちゃんにそう言われて小さく頷くと、ありがとねと微笑んでから、くるりと大樹さんを振り返った。
「それで、なんでまたスーツなんて着てるんだい?」
「萌様のご要望でしたので」
先ほど先輩にしたのと同じ説明をすると、納得したお婆ちゃんはカラカラと笑う。
「そうかい。そんならロールスロイスで行かせるべきだったかね?」
「んー、そこまではいいや」
そうかい?とどこか残念そうに言って、お婆ちゃんは萌ちゃんと美紅ちゃんの間に落ち着いた。
なんとか先輩に離してもらって、目的の八ッ橋を取り出す。
「あの、お口に合うと良いんですけど」
どんな物を買えば良いのか解らなかったので、いろいろ試食してみて、ニッキ味の生八ッ橋を一箱、抹茶ソースにつけて食べるものを一箱買ってきた。
ドキドキしながら差し出すと、お婆ちゃんは嬉しそうに箱を取り上げた。
「まぁまぁ、二箱も。わざわざ持ってきてくれてありがとうね。昨日修学旅行から帰ってきたばかりなんでしょう。大丈夫?」
気遣わしげに見つめられて、慌てて首を横に振った。
「だ、大丈夫です。昨日はすごく早く寝ましたから。あ、あの、夏に美味しいスイカを頂いて、ありがとうございました」
なんとか言って頭を下げると、ふふふっとお婆ちゃんが笑った。
「結香ちゃんと話して楽しかったからお礼にと持たせたのだけど、却って気を遣わせちゃったかしらねぇ。でも、それで美紅ちゃんまで遊びに来てくれたんだから、嬉しい限りだねぇ」
あ、忘れてた、と萌ちゃんが鞄の中から袋を取り出した。
「お婆ちゃん、これ、リクエストされたヤツ」
ありがとねと受け取った袋を見て、お婆ちゃんがにっこりと笑う。
何を渡したんだ、と聞く先輩に、ハーブだよ、と萌ちゃんがあっさり答えた。
「お兄ちゃんが結香お姉ちゃんにハーブティーを淹れてあげた話を聞いて、飲んでみたくなったんだって」
それを聞いた先輩の眉がぎゅぅっと狭まる。
「一体何処から」
「結香様。宜しければこちらのハーブで大奥様にお茶を淹れていただけませんか?」
大樹さんに突然言われて、少し戸惑う。
「ハーブティーの淹れ方を実際に目で見て覚えたいので」
そう言われてお願いしますと頭を下げられるので、解りましたと返事をしていた。
大樹さんに続いて部屋を出てきてしまったけど、先輩に言ってなかった。大丈夫かな、と部屋の方を振り返っていると、結香様、と前から静かな声で話しかけられた。
「先ほどは意地の悪い真似をしました。申し訳ございません」
「意地の悪い?」
そんなことをされた記憶がないので首を傾げると、大樹さんは微かに笑って止めた足をまた動かす。
「夕弦様と結香様は、似ておられますね」
「え。似てますか?」
背は全然違うし、先輩は頼りになるけど私はいつの間にか知佳ちゃんや友だちにお世話されてるし、似てないと思うんだけど。
大樹さんはひっそりと笑った。
「はい。お似合いです」
嬉しいけど恥ずかしくて俯いていると、穏やかな声で大樹さんが言った。
「俺が言うのもどうかとは思いますが、是非これからも夕弦様と仲良くしてください」
「は、はい。が、頑張ります」
自分でも妙な答え方をしてしまったけど、大樹さんは穏やかに笑うだけだった。
人数分淹れたお茶を大樹さんに持ってもらって部屋に戻ると、知らない女の人がお婆ちゃんと先輩に話しかけていた。一緒にいたはずの萌ちゃんと美紅ちゃんがいない。どこに行ったんだろう。
大樹さんは女の人を一瞥すると、私にだけ聞こえるように耳打ちした。
「対処しますので、結香様にはお茶をお願いできますか?予定通り配ってください」
頷くと、にこりと笑ってから大樹さんはまた部屋を出ていく。
話の邪魔にならないように、脇からそっとお婆ちゃんの前にお茶を出す。
音をたてないように先輩の前にお茶を出すと、「ありがとう、結香」と先輩がにこりと笑った。
「何ですの、一体」
甲高い声に驚いて振り向くと、さっきまでにこやかに話していた女の人が目をつり上げて私を見ていた。
「えと。ハーブティー、です」
なんとか声が裏返らないように答えると、まぁっと女の人が大きな声を出した。
「進藤夫人にそんな貧相なモノを出すなんて、あなた、一体どういうつもりなんですの?」
「え?」
とたんに先輩の目が細くなった。その向こうに座るお婆ちゃんは笑顔のままだけど、さっきの笑い転げてたときの笑顔とは違って、どこか顔の所々に力を入れているような笑顔だ。
戸惑っていると、女の人はさらに声をあげる。
「なんとか答えたらどうですの?使用人のクセに」
「使用人」
先輩の低い一言に振り返った女の人は、やっと先輩が怒っていることに気づいたみたいだけど、一つ頷くと教えるように言った。
「そうですよ。夕弦さんが日頃離れた所で生活されててこういう家に慣れていないのは解りますけど、使用人は使用人。立場というものはきちんとしなければ、お互いの為になりません。特にこういう小娘はすぐに勘違いしますからね」
「勘違いしているのはあんたじゃないかね」
強張った笑顔のままお婆ちゃんが言ってカップを手に取った。一口飲むと、ふんわり笑って私を見る。
「美味しいよ。ありがとう、結香ちゃん」
その笑顔にホッとしていると、女の人がまた声をあげる。
「大奥様。勘違いというのはどういうことでしょうか。わたしは」
「ただの無粋な不法侵入者だよ」
スパッとお婆ちゃんが言い放つと、女の人は「なっ」と声をあげて口を開けた。
「大体、あんたはうちの人に会いに来たという父親に引っ付いて来ただけだ。なぜこの部屋にいるんだい?この部屋では今日、とても大切な客をもてなすことになっている。うちの者が部外者を案内するはずがないんだけどね」
カップを置きながらお婆ちゃんが下から見上げると、女の人は言葉を詰まらせ視線を彷徨わせる。
つまり、この女の人はお祖父さんと会っていた部屋から自分でこの部屋まで来たんだよね。
うーん………よそのお家を勝手に歩き回るって、失礼だと思うんだけど。
私だったら………そもそも、一人でこの部屋を出たら、きっと戻ってこれないよ。
私の情けない考えをよそに、お婆ちゃんは続けて言う。
「つまり、あんたは大切な客をもてなす邪魔にしかならない不法侵入者というわけさ。解ったならとっとと出て行ってもらいたいね」
不愉快だ、とキッパリ言ったお婆ちゃんに一瞬表情を歪めた女の人だけど、すぐに笑顔を浮かべて切り出した。
「大切な客というのは夕弦さんのことでしょう?邪魔にはなりませんから、ぜひわたしもお話に交ぜてくださいな」
ね、と同意を求めるように先輩を見る目が嫌で、思わず俯く。膝の上で握りしめた手が大きな手に包まれた。
そっと見上げると、先輩が優しい目で私を見ていた。
「やれやれ。話の解らない嫁ぎ遅れはこれだから困るよ」
「なんですってっ!!?」
ため息をつきながらもはっきり言ったお婆ちゃんに、女の人が怒って立ち上がる。
驚いて身体がビクリとしたけど、先輩が宥めるように背中を擦ってくれる。
目の前で女の人が怒ってワナワナと身体を震わせているにも関わらず、はて、とお婆ちゃんは腕組みをした。
「ヒトの話をロクに聞きもしない解らず屋だから、嫁ぎ遅れになった、が正しいのかね」
呑気にそんなことを言ってくるりと私を振り返る。
「どう思う、結香ちゃん?」
「ふぇぇっ!!?」
そこでどう思うか聞かれても困るんですけど!
驚くばかりで私が答えられないうちに、女の人が大きな声をあげた。
「いい加減にしてくださいっ。さっきからその使用人ばかりチヤホヤしてっ」
「あぁ、そうそう。あんたに説明する必要は微塵もないけど、使用人使用人煩いから言っておこうかね」
お婆ちゃんは女の人に向き直ると、にこりと微笑んだ。
「こちらは夕弦の恋人さ。あたしの大切なお客人だよ」
女の人が目を大きく見開いて私を見る。
今気づいたけど、台所で借りたエプロンをつけたままだった。これなら間違えられても文句言えないかな。
「あなた、お名前は?」
「ふぇっ?ま、牧野結香、と申します」
怒ってたはずの女の人は、私の名前を聞いて笑った。
その笑顔が怖くて少し身を竦める。
私にとってはなんだか怖い笑顔を浮かべたまま、女の人は静かに座り直して口を開いた。
「牧野結香さん。大奥様、この人がどういう人か、ご存知ですか?」
「夕弦が心底惚れてる娘さ。両家族にも望まれる縁組みなんて羨ましいことさね」
お婆ちゃんがさらりと答えたけど、女の人はそれには反応しないで続けて口を開いた。
「この人は、ビギナーズラックで入賞したことを良いことに、無理に頼みこんでコンクールに応募しようとしたんですよ」
そんなことはしていない―――
そう言おうとした手を握っていた力が強くなる。
先輩は真っ直ぐ私を見ていた。
その瞳の色にホッとする。
近くに座っているはずの女の人の声が、どこか遠くから聞こえた。
「その人のお姉さんにはね、犯罪歴も」
「そんな戯れ言をよくものうのうと語れるものだね」
どこか感心したように呟くお婆ちゃんに、女の人がしびれを切らしたようにまた声を大きくした。
「戯れ言ではありませんっ。夕弦さんはSD製薬の大切な跡取り。その伴侶に相応しいのはっ」
「虚言癖の嫁などいらん」
落ち着いた声が割って入った。
いつの間にか障子を開けて喚く女の人を冷たい目で見下ろしていたのは、お祖父さんだった。
「遅いですよ、あなた」
お婆ちゃんが不機嫌な表情で言うと、「すまん」とお祖父さんはすんなり謝った。
「大樹からの連絡を受けて家の中を移動するのに、何十分かかってるんです。お蔭で結香ちゃんや美紅ちゃんと遊ぶ時間がどんどん減ってるじゃないですかっ。日頃車に乗ってばかりだから、足腰弱るんですよっ」
ペシペシと自分の膝を叩きながらお婆ちゃんは叱る。お祖父さんは心もち小さくなった。
「大奥様、その辺でご勘弁を。すぐにこちらに駆け付けようとした大旦那様を客人が引き留めたので」
お祖父さんの背後から、宥めるような声を大樹さんがあげた。
「そもそも。約束のない相手にお茶なんて出すから、相手が勘違いするんです。人様の家に勝手に上がり込んで勝手に歩き回る。しかもあることないこと言いふらして自分が主のように振る舞う。強盗ですか」
「わっ、我々はっ、そんなつもりはっ」
障子の向こうの影が大きく動いている。大樹さんとお祖父さんが入り口に立っているから慌てているみたいだ。
お婆ちゃんは構わず、とにかく!と声を張り上げた。
「この人の会社もあたしの事業も、あたしたちのやりたいようにやります。チマチマ人様のアラを探してまで結構なことだけど、進藤家の男は自分の嫁は自分で見つけてくるものです。大樹!とっとと追い出して!」
はいっと返事をすると、するりと大樹さんが部屋に入り、女の人の肩に手を置いたと思ったら、次の瞬間には女の人を立たせて部屋の外に追いやっていた。
女の人も影しか見えなかった人も抵抗して騒いでいたけど、あっという間に連れていってしまったみたいで、騒がしかった部屋はいきなりしんと静まり返った。
「えっと………なんだったんでしょう………?」
話の流れや展開にだいぶ前からついていけなかった私が首を傾げると。
先輩が優しい手つきで長いこと髪を撫でてくれた。
大樹さんは何事もなかったような表情でお茶の用意をして戻ってきた。その後ろには萌ちゃんと美紅ちゃんがいたので、小さく安心のため息をついた。
あの女の人が勝手に部屋に入ってきて息つく暇もないくらい話し出したので、萌ちゃんが美紅ちゃんを連れ出して庭で遊んでいたらしい。
あの騒ぎで怖い思いさせずに済んで良かった。
「あのオバサンやっと帰ったの?」
開口一番で萌ちゃんが聞くと、その口の悪さにお婆ちゃんがカラカラと笑った。
「自分で帰ってくれなかったからねぇ。追い出したよ」
「ふぅん。良かったの?仕事の付き合いがある人じゃないの?」
お婆ちゃんは首を振ってからお祖父さんを見た。
「大した付き合いではない」
お祖父さんがぼそりと言うと、やれやれとお婆ちゃんが首を振った。
「あの嫁ぎ遅れもねぇ。自分が優秀だと思うなら、ヒトの会社アテにしないで自分で会社作ればいーのに。会社なんて作るのは簡単なんだから」
ため息をついてから、お祖父さんをキッと睨みつけた。
「大体、あなたが家にいるからあの二人は口八丁でここへ上がり込んだんでしょう。なんだって今日は家にいるんです?」
口ごもるお祖父さんに、フンッとお婆ちゃんは鼻息を荒くした。
「大方今日は結香ちゃんが来ると知って行きたくなくなったんでしょう?残・念でした。結香ちゃんはあたしに!会いに来てくれたんです」
フフンと胸を張るお婆ちゃんに、お祖父さんは少し悔しそうにしている。
「ゆじゅぅおにいちゃん、おばぁちゃん、おじいちゃんとけんかしてりゅの?」
「あの二人は大抵あんな感じだ」
二人の方を見もせずに、先輩は袋を開けて中のお菓子を美紅ちゃんにあげている。
美紅ちゃんはパウンドケーキをじっと見ると、お婆ちゃんに向かって歩いていく。
「うん?どうしたの、美紅ちゃん」
目をつり上げてお祖父さんに怒っていたお婆ちゃんは、隣にちょこんと座った美紅ちゃんに相好を崩した。
んしょ、んしょ、とかけ声をかけながら半分に割ったケーキを、お婆ちゃんとお祖父さんにはいっと渡してにっこり笑った。
「けぇきはんぶんこして、なかなぉりよ?」
お婆ちゃんはポカンとしていたけど、クスクスと笑い出した。
「そうね。仲直りね」
「ちゃんといただきましゅすぅのよ」
小さな子に言い聞かせるような口調の美紅ちゃんに、笑いながらも「はい、いただきます」とお婆ちゃんは挨拶して半分のケーキを食べた。お祖父さんも小さく挨拶して食べる。
それを満足そうな笑顔で見届けると、美紅ちゃんはトテトテとこちらへ戻ってくる。
その後ろ姿を、お祖父さんがじぃぃっと見つめていた。
お菓子を食べると、萌ちゃんは美紅ちゃんを誘った。
「家の探検しに行こうよ」
美紅ちゃんはすごく行きたそうにしているけど、もし家具とか調度品とか壊しちゃったらと気になって素直に送り出せない私です。
「いいよ。行っておいで」
お婆ちゃんがあっさり頷いて送り出すと、二人とも嬉しそうな声をあげて手を繋いで走って行ってしまった。
「立派そうに見えるだけで、大した値打ちなんてないから大丈夫よ。それより」
お婆ちゃんは口調を改めてきちんと座り直すと、スッと畳に手をついた。
「結香ちゃん。今日は疲れているところを遠くまで来てくれたのに、あんな不愉快なモノを目に入れてしまってごめんなさい」
「えっ………あの、大丈夫なので顔を上げてくださいっ」
とにかく土下座を止めてほしくて慌てていると、そういえば、と先輩が声をあげた。
「門から玄関までの道沿いに植えられている木の中に、スケッチしたいと言っていた木があったな」
先輩の言葉にパッとお婆ちゃんが顔を上げる。
「せ、先輩。いきなり何を」
「絵に描きたいの?」
私の戸惑う声とお婆ちゃんの弾んだ声が重なる。
「結香は京都ではスケッチする時間まではなかったと思うから、灯籠なんかも描きたがるんじゃないか?」
言いながら私の目を見て、確信したように先輩は笑う。
先輩、エスパーですか?
確かに修学旅行では鹿以外描けなかったけど!
車の中から見えた灯籠に、京都で見たお庭とは違った雰囲気だけど素敵だなぁと見惚れちゃってたけど!
何もこんなときに言い出さなくても………っ
「そうねっ。結香ちゃんは絵が得意だものねっ。あの庭が役に立つこともあるのねっ」
パァァッと音がなるくらい顔を輝かせて、どこでも存分に描いてっと言ってくれるお婆ちゃんに遠慮も出来ず。
初めて来たお宅でスケッチするためにウロウロすることになってしまったのです………
どこでも何でも好きなものを描いてね、というお婆ちゃんの言葉に甘えて庭をウロウロすることしばし。
結局灯籠のある一画を描くことにした。
あまり長いこと歩き回って時間かけるのも良くないし、遠くまで歩き回って迷子になったら恥ずかし過ぎるし。
少し離れた所では美紅ちゃんが萌ちゃんや先輩と遊んでいる。絵を描き始めたときに「そこであしょんだらじゃま?」と聞きに来たけど、スケッチブックと鉛筆だけだから大丈夫だよ、と言ったら嬉しそうに笑って駆けていった。
最近の美紅ちゃんは本当に毎日楽しそう。礼儀正しい美紅ちゃんはお世話しやすいと思うけど、あんな風に自然に駆け回ったり笑ったりできるようになって良かったと思う。両親の離婚は美紅ちゃんにはキツい出来事かもしれないけど、いずれはお母さんと二人で暮らすんだもの。完璧なお嬢様よりも自然体の美紅ちゃんの方がいいと思う。
そんなことを思いながら鉛筆を走らせていると、視界の隅にスッと影が落ちた。
「色はつけないのか?」
話しかけてきたお祖父さんに少し驚く。
「え、と………今は鉛筆でスケッチして、家で塗ろうかと」
いつもそうしているんです、と言うとお祖父さんは、そうか、と頷いてから小さく息を吐いた。
「すまんかったな」
ぽつりと言われて首を傾げると、お祖父さんは数回瞬きをした。
「なまじ大きな組織になると、要らぬ縁が絡み付く」
さっきの女の人のことを、お祖父さんも気にしていたみたいだ。
わざわざ確認してないけど、お祖父さんの会社がSD製薬だということは間違いないと思う。夏にお祖父さんとお父さんが進路のことで揉めたと聞いたけど、お祖父さんはお父さんに会社を継いでほしかったのかな。
もしかして、先輩に継いでほしいと思ってるのかな。
でも、先輩は……………
聞いてみたいとは思うけど、よそのお家のことをズケズケと聞けずに黙っていると、お祖父さんは遠くで遊ぶ三人を眺めながら口を開いた。
「夕弦を見ていると、あれを思い出す」
お父さんのことかな、と推測して続きを待つ。
「あれは母親に似て迷わない男だった。自分で己の道を決め、真っ直ぐ進む。失敗しようが周りがどう言おうが構うことなく」
どちらも失敗したところを見たことはないが、と小さく笑ってから、お祖父さんは私を見た。
「あれに似てしまって言葉が足りん孫でついていくのは大変かもしれん。苦労をかけるな」
「い、いえ」
必死に首を横に振ると、お祖父さんはフッと笑った。
「あ、あの、姉のことですが」
「解っておる」
一応お姉ちゃんのことはきちんと説明しなくちゃと口を開くと、お祖父さんは頷いた。
「茜さん。あの人は夏にここへ来た」
夏に会ったとき、私は解らなかったけどお姉ちゃんは大企業の社長だと一目で解ったらしい。家へお祖父さんを訪ねて頭を下げたという。
自分のことが目障りだというなら牧野の性から抜けてもいい。
妹そのものを見てやってほしい。
牧野の家から、妹をお孫さんに添わせてほしい。
そう言って土下座をしたと聞いて、複雑な気持ちになってしまう。
「若いときの千鶴子を見ているようだった」
遊んでいる三人を見守るお婆ちゃんを見つめる瞳が優しくて、その様子を見ていると気持ちがほっこりした。
「あの下らない戯言を広めさせないから、安心しなさい」
はい、と頷くと、お祖父さんはゆっくり歩いてお婆ちゃんの隣にちょこんと座った。
お婆ちゃんがお祖父さんに話しかけている。
何を話しているのか解らないけど、二人で仲良くお茶を飲んで先輩たちを眺める姿はとても幸せそうだな、と羨ましくなった。
「あの時間で二枚も描いたのか」
いつの間にか隣に来ていた先輩に覗きこまれて小さく頷く。
庭の様子と先輩たちが遊んでいる様子、二枚を描いた。自分でも上手く描けたと思う。色を塗るのが楽しみ。
「結香お姉ちゃん、お爺ちゃんに邪魔されなかった?」
少し心配するような表情の萌ちゃんに首を横に振ると、安心したように破顔した。
「良かった。お兄ちゃんに会社継がせるとか言い出して困らせてるんじゃないかと思ったんだ」
「そのつもりはない」
お祖父さんが少し不機嫌そうに言うと、お婆ちゃんがクスクス笑った。
「あなたも早いところ後継を決めなさいな」
お祖父さんの視線を受けて、あたしは決めましたよ。仮だけど。とお婆ちゃんは大樹さんを見やった。
「えぇっ!お婆ちゃん跡継ぎ決めちゃったの?」
「おや。萌は嫌かい?」
面白そうに聞くお婆ちゃんに、萌ちゃんは首を竦めた。
「嫌、じゃないけど………できれば、私、お婆ちゃんのお仕事やってみたいなって」
「おや。そうだったのかい?」
嬉しそうに驚くお婆ちゃんに、萌ちゃんは満面の笑みで頷いた。
「うんっ。お婆ちゃんは私の憧れだからねっ」
嬉しいね、と微笑むお婆ちゃんは本当に嬉しそう。
「でも困ったね。あたしの跡を大樹が継ぐか萌が継ぐか」
嬉しそうにしながらも悩むお婆ちゃんに、大樹さんはのんびり笑った。
「それなら俺は萌様のサポートをしましょう」
「それは勿体ない気がするわね」
本気で悩み始めたお婆ちゃんに、萌ちゃんは明るく切り出した。
「大丈夫だよ、お婆ちゃん。私、自分で頑張る。跡継ぎ狙ってたら、あのオバサンと同じになっちゃうもんね」
勇ましくガッツポーズをする萌ちゃんを、お祖父さんが呼んだ。
「儂の会社はどうだ」
萌ちゃんは困ったように小首を傾げた。
「薬作る会社でしょ?私、理科って好きじゃないんだよね」
残念そうに肩を落とすお祖父さんに、お婆ちゃんはカラカラと笑っていた。
萌ちゃんに影響を受けたのか、帰り道は大樹さんの車に乗りたいと美紅ちゃんが言い出した。
おねだりする様子は子どもらしい仕草で可愛いんだけど。
萌ちゃんがお嬢様扱いされるのはお婆ちゃんの孫だからで、そんな我が儘言っちゃダメと説得しようと思ったら、お婆ちゃんはあっさり、いいじゃないか、と笑った。
大樹さんもさっさとチャイルドシートをつけ直している。
「予行演習みたいなものですからお気になさらずともいいんですよ」
予行演習?と首を傾げて考える。
「あの、美紅ちゃんにはちゃんとお母さんがいて………先輩もお母さんも美紅ちゃんのこと可愛がってくれてますけど、養子には出せないんです………ふぇ?」
話してる途中から肩を揺らしていた大樹さんは一頻り笑ってから、心得てますよ、と息も切れ切れに言った。
「じゃあ―――大樹さん、もうすぐお子さんが産まれるんですか?」
「いやいや。まだ独身ですので」
ちょっと失礼かなとは思ったけど、大樹さんは気にする様子もなく内緒話のようにこっそり囁いた。
「せっかくこんな遠方まで来たんです。美紅様は俺に任せて、少しドライブデートを楽しんで下さい」
デート、の響きに顔が熱くなると同時に、後ろから肩を抱かれた。
「ひゃぁっ!??」
「そろそろ帰るぞ。萌、美紅ちゃん、気をつけて帰れよ」
車に乗りながら「「はぁーいっ」」と返事が合唱する二人は仲良しの姉妹みたい。
美紅ちゃん、可愛いし礼儀正しいから、本当に養子に欲しいって言われたらどうしよう。
そんなことを思っていたら、車に乗るように先輩に促される。
「まっ、待ってくださ―――先輩っ、ご挨拶してなっ」
「問題ない」
結局押しきられるように乗車してしまった。
大樹さんが車に寄りかかって大笑いしている。
「あああのっ!お、お邪魔しましたっ」
窓を開けて急いで言うと、お婆ちゃんはニコニコと笑った。
「また遊びに来てね。美紅ちゃんも一緒に。泊りで来てくれればもっと嬉しいわ」
「は、はい。ありがとうございます」
養子の発想が頭に残っていて、ちょっと笑顔が固くなってしまった。
お祖父さんも窓に近づいて屈む。
「茜さんに、よろしくな」
お姉ちゃんのことを本当に解ってくれてるんだ、と嬉しくなって顔が弛んだ。
「はいっ」
元気よく返事すると、お祖父さんはゆっくり頷いて車から離れた。
シートベルトをつけると、車はゆっくり走り出す。立ったまま見送ってくれるお婆ちゃんたちやまだ動いていない車に向かって手を振った。
途中で見つけた道の駅で遅めのお昼ご飯を食べることにしました。
いつもは流れるような動きで食べる先輩が、なぜか私をチラリと見ながらゆっくり食べています。その物憂げな様子ですら格好良いって、イケメンはすごいなぁ。
ぼんやりとサンドイッチを齧っていると、先輩は静かに聞きました。
「大丈夫だったか?」
朝からいろいろ驚くことがあったので疲れていないか、心配してくれたみたいです。
「お家の大きさとか会社のこととかには驚きましたけど、大丈夫です。お婆ちゃんは夏にお会いしたときと変わらず優しくしてくれましたし、お祖父さんともお話できましたし」
お茶を淹れに台所にお邪魔したときもそこで作業していたお婆さんには驚かれたけど、挨拶して事情を説明したら快くエプロンを貸してくれたし。
「お家やお庭は豪華だったけど、みなさん普通にお話してくれましたから、大丈夫でしたよ。お話だとお屋敷に住んでる人とかお勤めしてる人は庶民に厳しいってよくあるけど、現実は違うんですねぇ………先輩、どうしました?」
楽しく話していると、先輩が途中からなぜか眉を寄せていた。
「いや………結香は、ああいう所で暮らしたいか?」
「ふぇ?うーん………住むのは、大変そうですね」
掃除だけで時間かなりかかりそうだし、調度品のお手入れなんて大変そう。綺麗な日本庭園の掃除の仕方なんて想像つかないし。掃除だけで一日終わってくたびれ果ててる自分の姿が簡単に想像できた。
先輩は、そうか、と優しく破顔した。
「少し遠回りになるが、峠を通って帰らないか?途中で展望スペースがあるんだ」
ドライブデートの誘いに、はい!と笑って頷いた。
途中で夕食も食べたので帰りは少し遅かった。メールで聞いた通り、美紅ちゃんはもう寝ている。
熱い頬を手で扇ぎながら歩いていると、二階からお姉ちゃんが降りてきた。
「結香、おかえり」
「ただいま、お姉ちゃん―――起こしちゃった?」
首を横に振りながら台所に入ったお姉ちゃんは冷蔵庫からハーブティーを取り出す。
飲む?と聞かれて頷くと、コップを二つ取り出して注ぐ。
「今日ね、先輩のお祖父さんにもお会いしたよ」
受け取りながら言うと、そう、と静かに頷いた。
「お姉ちゃんに、よろしくって」
ほぅっと、返事の代わりにお姉ちゃんは長い息をついた。
「結香、ごめんね」
ぽつりと謝る。前に、過去のことを気にして勝手なことを言ったりしたりしたら怒るよ、と私が言ったからだと思うけど、私のためにわざわざお祖父さんに会いに行ったんだと思うと、何も言えなかった。
顔を上げると、珍しくショボンと項垂れているお姉ちゃんが視界に入った。
「お祖父さんね、お姉ちゃんは若いときのお婆ちゃんに似てるって言ってたよ」
そう?と微かにお姉ちゃんが首を傾げた。
「お婆ちゃんね、お祖父さんにハキハキ話してて凛としていて、でも、並んで座ってるときは穏やかでね、二人で遊んでる先輩たちを見つめていたの。なんかいいなぁ、って羨ましくなっちゃった」
萌ちゃんがお婆ちゃんに憧れる気持ちは、よく解る。
「お姉ちゃんがね、いつでも真っ直ぐ前見て立ってる姿は便りになるし格好いいって思うけど、隣に誰かいてほしいと思うんだ」
お姉ちゃんは、何も言わずにただ困ったように笑った。
◆ 後日談・学食にて ◆
トレイを受け取って席を見渡すと、見知ってはいるが異質な存在を見つけて眉を寄せる。
断りなく前の席に座ったが、相手はいつもの笑みを浮かべるだけだった。パーカーとジーンズなので、周りの人間も部外者だと気付いていないのだろう。
「いやいや、学食なんて初めてですけど、なかなか楽しいですね」
「ここで何をしている」
短く聞くと、笑みを浮かべたまま「勿論食事です」と言った。
「夕弦さんに会いに来るついでに休憩をとっています」
ため息をつくが相手は構わず笑顔でカツ丼をつついている。
「牧野家を探っていた調査会社は、こちらで抑えました」
穏便ではない一言に辺りを見渡すが、それぞれ話をしていてこちらに注目している者は居なそうだ。
「堂々としていればバレないもんですよ」
目の前の相手は飄々と言ってのけた。
「調査会社は数社。でも依頼主は先日の人で間違いはないでしょう。とにかく蝿は排除しましたので」
「そうか。ありがとう」
首を横に振ると、つまらなそうに味噌汁を箸で掻き回した。
「元は大旦那様と大奥様に金喰い虫が引っ付いたのがきっかけですからね。礼は不要かと」
それに、とやたら楽しそうに続ける。
「結香様と美紅様を見てお二人とも喜ばれましてね。可愛い曾孫の顔が見れるならこの程度何のその、ですよ」
ウキウキと浮かれる様子を想像して再びため息をついた。
「結香も俺も未成年で、まだ学生なんだが」
目の前の男は表情を変えなかった。
「何を仰います。大奥様が大旦那様を焚き付けて駆け落ちなさったのは、大奥様が十六歳のときですよ?」
「それはそうだが」
時代も違うし、三代続けて周囲の同意を得ずに結婚するのはどうか。
夕弦さんは真面目ですねぇ、と笑う姿がどこか婆さんを思わせる。
「絹枝さんまで気に入る女の子ですからね、是非とも嫁にして頂かないと」
解っている、と頷く。
絹枝さんというのは、あの家の家事全般を請け負っている人だ。結香にエプロンを貸したのはこの人だろう。
結香は庶民にも気取らない優しい人と認識しているが、それは初対面の人間には稀な姿だと思う。絹枝さんは相手に関わらず礼儀に厳しく、主人への態度次第では客であろうと問答無用で追い出す。先日の親子も竹箒一本で追い出したそうだ。
その絹枝さんに気に入られたということは俺としては喜ばしいことだが。
「結香はあの家に住む気はないぞ」
相手は一瞬呆けたような表情をしたが、すぐに声を上げて笑った。
「そりゃあ夕弦さんには大旦那様の跡を継いで頂きたいと思う気持ちはありますけどね。旦那様の一件で大旦那様も解っておられますよ。それより、早く嫁取りを、というのがお二人の心情で」
第一子は母親似の女の子がいい。美紅ちゃんのように愛らしくなるだろう。男の子でもいいな。
そんな会話を老夫婦二人でワイワイとしているらしい。
その光景に軽い頭痛を覚えながら、ふりかけをかける。
「おや。結香様からのお土産ですか」
目を細めて見るが、悪びれずに笑うばかり。
ため息をつきながら思いつく。
「蝿は排除した、と言っていたが、つまりハルさんのパート先から一人抜けた、ということか」
二人ですね、と訂正される。
「夫妻の周囲に二人ずつ、お姉様の周りに四人、美紅様がいらっしゃる公園に二人、結香様の高校の近くに二人、中学時代の学友をあたっていたのが三人、といったところでしょうか」
羅列されていく人数にうんざりしている俺とは別に、相手は平然と味噌汁を啜った。
「顔見せしていない夕弦さんを狙ってここまで金をばらまいたんです。余程嫁入りしたかったんでしょうねぇ」
所詮無駄な散財でしたけどね、と笑う顔が黒い。
「そこは別にいいんだが。パートからいきなり人が抜けると困るんじゃないかと思ってな」
募集をかけてもすぐに応募がくるとは限らない。人が補充されるまで、またハルさんが苦労するのか心配になった。
「それもそうですね。いざとなったら俺たちの中から三人ほど応募しましょうか」
婆さんが引き取るなり援助するなりした子どもたちのことだろう。
もしかしたら頼むかもしれない、と呟いてから、大きくため息をついた。
「そのうち婆さんが忍び集団を作るような気がする」
何です、それ。と爆笑された。
「夕弦さんも冗談なんて言うんですねぇ」
涙を拭いながら影山はニヤリと笑った。
「萌様か夕弦様が跡を継がれて、今日から忍びになれと命じれば、なるかもしれませんよ?」
「誰がそんなことをするか」
影山は面白そうに笑うばかりだった。
後日、台所で作業する結香を眺めていると静かに茜さんが近付いてきた。
「少し煩いのがいなくなったみたい。ありがとね」
驚いて見上げるが、茜さんは穏やかな表情で結香を見つめていた。
「わざわざお礼に伺うほど親しくもないけど、お礼は言っておきたくて」
それだけ。じゃね。と茜さんは身を翻して二階へ上がって行った。
「先輩、お待たせしました―――どうしました?」
「いや。茜さんは、忍びなのか?」
思わず思い付いたまま呟くと、へっ?と結香が戸惑う。
「お姉ちゃんが、ですか?お姉ちゃん、綺麗で目立つから忍べないと思うんですけど………あれ?でもかくれんぼじゃなかなか見つからなかったような………あれ?」
否定しながらも頭を抱える結香に、ひどく安心を感じた。
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