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番外編

あなたにお礼を

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  突然投げ掛けられた一言に、首を傾げてしまった。
  「は?―――あの、それはどういう」
  『もぅ、察し悪いなぁ。バイト上がりでお疲れだから仕方ないかもしれないけど』
  不満げな声に思わず、すみません、と頭を下げる。
  まぁ、いいけど?とからかう調子で言うところをみると電話の相手―――茜さんはあまり怒ってないようで内心安堵した。
  『この間結香の面倒みてくれたお礼するって言ってたでしょ?それをしたいから、明日時間ある?って聞いてんの』
  結香のことを気にかけるのは俺にとっては当たり前のことなのだが、それを言っても茜さんは納得しないだろう。言い出したことは必ずやる人だし、妹を溺愛することにかけては俺には勿論親にすら許さないところがあるのだから。
  心中でため息をつきながら明日はバイトがないことを伝えると、時間と場所を指定される。
  『結香はあたしが連れていくから、夕弦くんは待ち合わせ場所にそのまま来てね』
  結香と会う時はいつも家まで迎えに行くから予め言われたと思うのだが、メモをとりながら緩く首を傾げる。
  「結香も行くんですか?もう出歩いて大丈夫なんですか?」
  台風が来た時に会って以来、何度かメールで具合を尋ねる度に結香からは「だいぶ良くなりました」と返される。俺に心配をかけないようにそう返信しているのだろう。いつもより青白い顔で眉を寄せてソファに凭れかかっていた結香を思い出す。
  『正直今回はここ最近に比べたら血の量が多かったみたいだけどね、そのわりには辛くなさそうだったわ。夕弦くんが置いてってくれたハーブティーのお蔭かしらね?』
  男に生理の症状を詳しく話すとは、流石茜さんと言うべきか。あのハーブが役にたったというなら、陽に礼を言わないといけないな。
  『もう量も少なくなってきてるから、大丈夫よ。とにかく!明日、ちゃんと来てね。待ってるから―――もちろん、時間通りよ?』
  「勿論です」
  最後の脅すような一言に慌てて返事をすると、小さな笑い声の後に通話が切れた。
  綺麗で頼りになるという結香の評価も解るが、それ以上に常に緊張感を強いられて仕方ない。
  なんだか早朝からのバイトより数分の電話の方がずっと疲れる気がする。
  こういう時は結香を撫でると落ち着くんだが、今結香は家だ。傍にはあの茜さんか親友の水瀬がいるのかもしれない。
  ため息をつきながらスマホをしまい、家に向かって歩き出した。


  待ち合わせ場所に指定されたのは、先日高校の同窓会の会場になった店だった。お腹空かせて来てね、と言われたので食事を御馳走してくれるのだろう。
  「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
  「いえ。待ち合わせをしているんですが」
  店員に答えかけたところで、「夕弦くん!こっちよー」と茜さんの声が響く。見ると、席から立ち上がった茜さんがこちらに向かって大きく手を振っていた。
  出迎えてくれた店員に軽く頭を下げるとそちらに向かって歩き出す。
  茜さんは大柄の男性と向かい合って座っていた。
  「こんにちは、夕弦くん。わざわざ来てくれてありがとう」
  にこりと笑いながら茜さんが丁寧に労いの言葉を言う。
  いえ、と首を振りながら向かいの男性をちらりと見ると、相手が思いきり俺を見ていて目が合ってしまった。
  俺は無愛想なので初対面の相手からは基本的に目を反らされる。不愉快そうに睨まれることもあるが、このように好意的な視線を向けられるのは意外で仕方ない。
  「結香は今トイレに行ってるから。あなたたちの席はあっちよ」
  そう言って茜さんは通路向かいのテーブル席を示す。
  白い小さなバックが置いてあるが、結香の物だろうか?結香の好みとは少し違うが。
  少し不可解だが茜さんが言うのだし座って結香を待つか、と動きかけたところで「先輩?こんにちは」と可愛らしい声が聞こえた。
  「ゆい……………」
  振り返った俺は思わず固まってしまう。

  何だこの物凄い可愛さは。

  数日前よりもずっと元気そうで安心するより先に、その衝撃に硬直してしまう。
  首元が大きく空いているカットソーも結香が動く度に裾が揺れる赤いスカートも、茜さんの見立てだろう。
  結香は日頃色も形も控え目な物を選ぶ。勿論それも結香の可愛らしさに合っているが、茜さんのコーディネイトに身を包んだ結香は恥ずかしそうにしていることもあって、いつもの可愛らしさに加えどこか艶がある。

  この装いで一人で座って俺を待っていたのか?危ないだろう?
  囲まれるだけじゃなくて、そのまま強引に連れてかれたらどうするんだ?

  「……先輩?あの……やっぱりこの格好、ヘン、ですかね?」
  「いや、すごく可愛いよ」
  俺が無言でいたのを気にしてか、結香が眉を下げるのに慌てて否定する。
  視界の隅で、瞬時に盤若の形相になった茜さんが表情を弛めてうんうんと頷いている。
  「茜さんに見立ててもらったのか?」
  努めて穏やかな声色を意識して聞くと、結香は勢いよく頷いた。
  「そ、そうなんです。朝いきなりお店に連れてかれて」
  「二人とも、とりあえず座ったら?邪魔になるでしょ?」
  結香の言葉を遮って茜さんがやんわり注意するので、二人で素早く座る。
  水を飲んでホッと息をつく結香を見ながら、茜さんは満足そうに笑った。
  「どぉ?夕弦くん、いい仕事でしょ?」
  こちらを見る目がなんとも人の悪そうな笑みを浮かべている。本人には絶対に悟られたくないが。
  「はい。プロは凄いですね」
  「ふふっ。プロっていっても、最近はこういうことなんてしてなかったけどね。ホント結香は可愛くて素直で飾りがいがあるわ―――そう思わない?」
  挑むような目を向けられ、頷く。
  目の前の結香はさらに顔を紅くして俯いている。いきなり褒められて戸惑っているようだ。つと、物言いたげな目で俺を見上げた。
  「どうした?」
  そんな可愛らしく見上げないでほしい。茜さんの目の前であることも構わず撫でくり回したくなる。
  そんな衝動を堪えながら聞くと、結香は言おうかどうか少し悩んでからおずおずと囁いた。
  「ぇと、久しぶりに会えたのにお姉ちゃんばかり先輩と話してズルいって思っちゃったんです」
  結香が呟いたとたんに、「「くぅぅぅっ」」と小さな唸り声が響く。目だけを向けると、通路向かいの二人が悶えていた。
  俺の視線に気付いたのか、茜さんは瞬時に表情を改め微笑みを浮かべた。
  「ごめんね、結香。今日は一応夕弦くんへのお礼ってことになってたから。張り切りすぎて邪魔しちゃったわね。ごめんね」
  「う、ううん。私、知らないで一人で拗ねちゃって………ごめんなさい」
  いいのよ、と微笑む茜さんに安堵の息を吐いて、結香は俺を眉を下げて見上げた。
  「先輩も、わざわざ来てくれたのにごめんなさい」
  笑って頷いてみせると、安心したように笑った。

  俺としては茜さんとの会話は気が抜けないやり取りなので中断させてくれて有り難いのだが、嫉妬してしまった結香としては申し訳なかったのだろう。
  やはり結香の笑顔は安心する。
  人目が―――茜さんの目がなければ、会えなかった分も含めて存分に撫でるのに。

  「―――うんっ!いぃわぁ~っ、いいカンジだわぁ~っ」
  突然聞こえたダミ声に瞠目して視線を巡らす。
  茜さんの向かいの男性はまだ悶えが止まらず、上半身をくねくね捩らせながら俺たちを―――どちらかと言えば俺を見つめていた。
  「いつもと違うファッションでカレを悶えさせつつそれでも不安になっちゃう女ゴコロ!彼女に構いたい衝動に耐えて耐えて姐さんと攻防繰り広げるカレ!―――いいわ!コレよ!キタキタキタァッ」
  「あ。忘れてたわ、ごめん。こっちはね、ウチのデザイナーなんだけど最近スランプでね。そろそろ〆切ヤバイから、可愛いさ間違いなしの結香と夕弦くんのラブラブっぷりを見れば少しは閃くかなーっと思って連れてきたの」
  男性は蘭々と目を輝かせて主に俺を食い入るように見て何やらぶつぶつ呟いたかと思うと、大きな体をぶんっと動かして猛然とテーブルにかじりつく。テーブルの上のカップ類は既に隅に寄せられ、いつの間にか出してあったスケッチブックに猛然と何かを描いている。呟きの間に呟かれる「いつもと違うワタシ」とか「でも不安になっちゃうの」とか「いつもより見てくれるかな?」とか少女漫画のような一言がペンを動かす勢いと相まって中々の迫力がある。
  目前の男性の呟きと鬼気迫る腕の動きを無視して茜さんはにこやかに紹介する。仕事仲間だからこのノリに馴れているのだろう。
  「ちょっと煩いけど、もう少しで終わるから勘弁してね?」
  茜さんが言い終わるや否や男性はペンを置いてフーッと長い息を吐いた。
  「どんなもん?」
  そう聞きながらも茜さんは満足そうな笑みを浮かべている。
  「スゴいわ………姐さん。どうしてもっと早くこの子たち見せてくれなかったの………そうしたら、スランプなんてならずに済んだのに………」
  「クリエイター名乗るんならそんな軟弱なこと言わないで。コレは応急処置よ。可愛い妹をダシにするようなマネ、何度もするわけないでしょ?―――あと、姐さんじゃなくて、オーナー。何度、言えば、いいのかしら?」
  どこか恍惚と宙を見て唄うように言う男性を、茜さんは冷ややかに見る。
  その声色が次第に色を帯びていくにつれ、男性はピシリと背筋を伸ばした。
  「はっ、はい!あね………オーナー!申し訳ございません!」
  一瞬目を吊り上げかけた茜さんだが、軽くため息をついた。
  「ま、いいわ。で、出来たんでしょうね?」
  「もっ、勿論です!」
  そう、とそれでも茜さんはニーッコリと黒く笑う。
  「もちろん、それなりの出来よね?あたしの可愛い妹を見たんだから、当然よね?」
  ひぐぅっ!と喉の奥で妙な音を出してから、男性は笑顔で頷いてみせた。店内は快適な涼しさなのに滝のような汗を流していることに、初対面ながら同情したくなる。
  「お!お陰様でアイデアは湯水のように湧いてますが、オーナーにお見せする前に少し整理させて頂きたく………」
  「いいわよ。戻ってさっさと描きなさい」
  茜さんが許可するや否や、男性は手早く片付け茜さんと俺たちそれぞれに深く頭を下げると素早い身のこなしで去っていった。
  「うんと………お姉ちゃん?」
  「なぁに?結香」
  戸惑いながら声をかける結香に、茜さんはオーナーの表情から一変して慈しむような笑顔を向ける。
  「あの……今日って、先輩へのお礼だよね……?」
  そうよ?と頷く茜さんに、結香はさらに首を傾げる。
  「でも、ご飯御馳走するだけならこの服、わざわざ買うことなかったんじゃないの?バックやミュールまで、すごく高いでしょ?」
  「なに言ってるの!」
  茜さんは片手を握り締めて身を乗り出す。
  「いつもと違う魅力を秘めた結香!もちろん、いつもとんでもなく可愛いけど!可愛い結香と食べる食事!可愛い結香と過ごす時間!これ以上に夕弦くんへのお礼に相応しいモノが他にあるっ?」
  握り締めた拳を掲げながら滔々と言う茜さんとは対称的に、小さな呻き声をあげて結香は身を竦める。
  恥ずかしがって小さくなっていく様子すら可愛いのだから、茜さんが可愛いを連発しても仕方ない。
  真っ赤になって小さく固まってしまった結香を確認してから、茜さんは俺にニッと笑いかけた。
  「ご飯はもうすぐ来ると思うわ。このお店でもデカ盛りチャレンジメニューを作ってみようって話があってね、是非夕弦くんに試してほしいのよ。お試しだから、時間とか気にしないで大丈夫。あ、でも食べ終わったら感想軽く聞かれるかもしれないから、よろしくね」
  「お姉ちゃん……それってお礼じゃなくてお願いなんじゃないの……?」
  笑顔でつらつらと告げる茜さんに、いつの間にか復活した結香が呆然と呟く。
  茜さんはニーッコリと笑みを濃くした。
  「だって相談されたときに夕弦くんのこと思い出しちゃったんだもの。たくさん食べるって聞いたから、いいかなぁって。味は妥協しないし、夕弦くんはたっぷり食べられていいでしょ?一石二鳥よね」
  ね?と視線で問われ頷く。
  茜さんのお礼に俺からの要望は特にないし、前回ここの料理を食べられなかったのだから調度いい。
  何より、こんな可愛い結香と一緒にいられるのだから文句などない。
  茜さんの言葉を反芻し、「一石二鳥………え?一石二鳥?」と何やら数えている結香を余所に、茜さんは席をたって俺に静かに近付いた。
  「連絡してくれれば多少遅くなるのはいいけど………結香、まだ生理中だから。ね?」
  「……………解ってます」
  思わず眉を寄せた俺に破顔して軽く肩を叩いてから茜さんは笑い声で「じゃあね、ごゆっくり」と手を振って帰っていった。
  その後ろ姿が店から消えて、改めてため息をついた。

  念を推すくらいなら、わざわざこんなに仕上げて俺の前に差し出さなければいいのに。
  いや、それを見越してわざと生理中に「お礼」を実行したということか?
  ………やはり茜さんは強敵だ。頼りになることは確かだが、それでも手強い人だ。

  「お客様、本日は試作メニューにお付き合い頂けるとのことで、ありがとうございます。そろそろお出ししてもよろしいでしょうか」
  「はい、お願いします」
  店員に答えると、考えを切り替えるため軽く頭を振り、まだ考え込んでいた結香の頬に手を伸ばした。


  覚醒したものの今度は俺に触れられて狼狽えたりいつの間にか二人だけになっていることに驚愕する結香を見ていると、試作メニューとやらが運ばれてきた。ワゴンからテーブルに移す時も二人がかりで山を崩さないように慎重に運んでいる。
  結香が大きな目をさらに大きく丸く見開く。
  口は動いても声が出ない程驚いているらしい。
  確かに一回の食事としては多いかもしれない。まぁ、大食いメニューを実際に見たことがないから何とも言えないが。
  「こちらの品ですが、時間は気にせずお召し上がりください。残していただいても構いません。ただ、お客様お一人でお召し上がりいただきたいのですが………」
  「解りました」
  頷くと、「ではっ。どうぞっ!」とやけに力のこもった声で勧められた。
  食べるのは俺なのに、店員が張り切ってどうするんだ?まぁ、一生懸命取り組んでいる気合いが溢れたってことなのか。
  結香と二人、手を合わせてから食べ始める。
  添えてあるエビフライやハンバーグを避けながらカルボナーラを取るのはかなり取りにくいが、味は確かに旨い。前回は他にも数種類のパスタが並んでいたはずだ。後日結香ともう一度来たときには、あの時食べれなかったパスタを食べるとしよう。
  エビフライにフォークを刺しながらふと見ると、結香はサンドイッチに手をつけないまま俺を仰視していた。
  「食べないのか?」
  声をかけると、「すごい。あっという間に嵩が減ってる」と呟いていた結香が目を瞬く。
  「た、食べます」
  「毎日ちゃんと食べれてるか?少し窶れたんじゃないか?」
  サンドイッチを齧りながら結香が頬を膨らませた。
  「すぐお腹いっぱいになっちゃうだけで、窶れてないですよ。ダイエットは必要かな、とは思いますけど」
  「結香は元々少食なんだから、ダイエットなんかしたらすぐに倒れるぞ。それに、ダイエットなんか必要ないだろ」
  結香は困ったような表情で目を臥せる。
  「……だって……水着着るのに太ってたら恥ずかしいんですもん……」
  思わず苦笑すると、結香は少し怒った目で俺を見上げる。

  恥ずかしくても俺のために水着を着ようとする結香。
  いじらしくてその心が嬉しい。
  食事中でなければ思いきり撫でるのに。

  「試着室で見たけど、太ってないじゃないか」
  フォークを動かしながら言うと、小さく呻いて結香が一瞬固まった。
  「そ!それは!………わ、忘れてください………」
  「それは無理だな」
  正直に言うと結香は小さく唸りながらリスのように咀嚼している。
  その様子を微笑ましく見ながら改めて言う。
  「どちらかというと結香はだいぶ軽いと思う。ここ最近の暑さで溶けないか心配になるし、そのうち風が強くなったら飛ばされないか不安になるくらいだ」
  戸惑うような表情で見上げるが、俺が冗談で言っていないと解ったのだろう。結香は俺を真っ直ぐ見つめて聞いている。
  「綺麗になろうと頑張るのはいいけど、無理して倒れるのは嫌だ。食べる量が減ってるなら、尚更無理しないでほしい」
  はい、と頷いて結香はゆっくり食べ始める。
  それを確認すると、俺も残りの料理を食べきってグラスの水を飲んだ。
  「……あ……あっさり食べたぞ……」
  「素人だよな?プロじゃないよな?」
  「やっぱり茜さんの人脈怖ぇ………」
  「シィっ!お前、それ言うなよっ。万が一知られたら………」
  周りが少し煩いので他に客でも来たかと見渡せば、少し離れた所で店員が数人こちらを見ながら囁きあっている。
  俺が見ていることに気付いたらしい店員が輪を抜けてこちらにやって来た。
  「失礼します。いかがでしたでしょうか?」
  「そうですね………個人的に思ったことなのでお役にたつか解りませんが」
  俺が切り出すと、はい、と相手は笑顔で促す。
  後ろからこちらを見守る店員とは少し服が違うので、立場のある人なのかもしれない。
  「味はとても美味しいですが、パスタの上に他のモノが乗っていると食べづらいと思いました。あと、パスタ一種類だけだと途中で飽きる気がします」
  後ろの店員が少し顔色を変えるが、傍の店員はメモをとりながら頷いて「他にはございませんか?」と穏やかに聞いてきた。
  「全体的に味が濃いので、サラダがほしいですね」
  相手が気を悪くした様子がないので、少し安心して水を飲む。
  「―――お重」
  ぽつりと聞こえた一言に、俺と店員は揃って目を瞬かせて声の主を見る。
  突然見つめられた結香は驚いたのか、ピクッと肩を揺らして身を竦めた。
  「ご、ごめんなさい。いきなり」
  「いや。何か思い付いたのか?」
  躊躇っていた結香だが、店員にも促されておずおずと口を開く。
  「この間頂いたお重、大きなお重にいろんなおかずがたくさん詰めてあって。サンドイッチやお握りもいろんな味があったから、あれなら飽きずに食べれるかなって思ったんです」
  嵐の夜に持って行った重箱のことを思い出したようだ。
  店員に聞かれ、結香が思い出しながら重箱の中身を挙げる。
  「昔からバランスよく食べろと言われてたからな。同じ味が続くと飽きるのかもしれない」
  それが大食いの決まりと言われれば頷くしかないが、せっかくなら楽しく食べたい。
  「そういえば、小さい頃よくお子さまランチ食べましたよ。あれならいろいろあって、私も食べきれたんですよ」
  結香が笑顔で言って、「先輩も食べました?」と聞いてきた。
  「食べたことはあるが、少なくてな。外では食べなくなった」
  外では?と首を傾げる結香に、きちんと食べるよう勧めながら続ける。
  「お子さまランチの素晴らしさを知らないで大人になるなんて勿体無い!と母さんが嘆いてな。家で作ってくれたんだ。大量に」
  重箱の件である程度慣れたのだろう。結香は頷きながらまた一つサンドイッチを取った。
  「そんなにたくさん乗るプレートなんてあるんですか?」
  「ない。だから普通のプレートを何枚も買って、完食したら次のプレートが出されるようになった。飽きないように、品も少しずつ変わるんだ」
  今にして思えば、あれも母さんの趣味だったのかもしれない。
  その時の俺と母さんを想像したのか、椀子蕎麦みたい、と息をつく結香を余所に、店員たちは先程とは違う顔色で何やら話し込んでいる。
  首を傾げていると、傍らの店員はメモを仕舞って頭を下げた。
  「貴重なご意見、ありがとうございました」
  「いえ。思ったことを言っただけなので」
  役にたった気はしないのだが、店員は満足そうな笑みを浮かべて首を横に振った。
  「いえ、なかなか面白いことを聞かせていただきました。案を練り直して出直しますので、またご協力いただけると嬉しいのですが」
  首を傾げながら、はぁ、と返事をするとありがとうございますと深々と頭を下げられてしまった。
  「では、この後はごゆっくりお楽しみください」
  「はい。あ、後で追加注文してもいいですか?」
  勿論です、と頷いて店員は他の店員を促して奥へ戻っていった。
  「先輩、お疲れ様でした」
  結香が労ってくれるのに頷いてからその皿を見る。
  俺たちが話している間に少しは食べたようだが、まだ半分程残っていた。一つくれと言うと、少し目を丸くしたが笑って頷いた。
  「一つと言わず、いくらでもどうぞ」
  「俺に勧めてないで、結香も食べなきゃだめだろ」
  苦笑混じりに笑うと、結香は少し頬を膨らませた。
  「これでも今日は食べた方ですよ。家でも、お味噌汁は完食してるんですから」
  生理痛にいいらしいと俺が言ったのを聞いて、ハルさんが頻繁に味噌汁を出すようにしたらしい。
  「蜆のお味噌汁が多いんですけどね。お父さんの二日酔い対策にもなるから一石二鳥ねってお母さんは笑ってますけど」
  先程の茜さんを思い出して、つい笑ってしまった。
  「甘いもの頼むけど、結香はどうする?」
  メニューを広げながら聞くと、再び目を丸くする。
  「ま、まだ食べるんですか?」
  残りのサンドイッチをほぼ俺が食べたから驚いたらしい。
  「何かさっぱりしたものが欲しくてな」
  「―――あ、そうですね。私は………レモンゼリーにしようかな。先輩は?」
  デザートのページを一通り確認すると、俺は店員を呼んだ。
  「レモンゼリーとメロンパフェ。あと、コーヒーをホットでください」
  注文を終えて向き直ると、結香が目を見開いて仰視している?
  どうした?と聞くと大丈夫と首を横に振るが、「え?さっぱりしたものだよね?」と何故か困惑していた。
  注文した物が早く来たので、ゆっくり食べる。
  「この後どうする?行きたい所とかあるか?」
  あ。と声をあげるとスプーンを置いてスマホを取り出し、画面を俺に向ける。
  「………モンゴメリ展」
  モンゴメリって確か、赤毛のアンの作者だよな?萌がハマらないと女子向けのモノは流行っていてもウチでは話題に挙がらないから自信ないが。
  「あの、この近くでやってるって聞いたんですけど………ダメ、ですかね?」 
  俺の沈黙を誤解したのか、結香が俯く。
  「いや。行こう」
  「でも」
  不安そうに眉を寄せる結香が落ち着くように穏やかな声を意識する。
  「モンゴメリは読んだことなかったからちょっと記憶があやふやだっただけだ。大丈夫だから、行こう」
  言い方がスマートではなかったが、それでも結香は嬉しそうに満面の笑顔を見せる。
  綻ぶような笑顔を他の男に見せたくなくて、アイスを掬って口元に差し出す。
  戸惑い顔を紅くしながら口を開ける姿が可愛くて、ニヤけないように何度もスプーンで唇をつついた。


  モンゴメリ展と銘打ってはいるが、美術館やホールではなく、大きな公園にモデルハウスを運び込み、そこを展示会場としているらしい。モデルハウスは緑色の屋根の洋風の家で、赤毛のアンのイメージなのか細長い瓶やワンピースが所々に飾り付けられていた。
  遠くで別のカップルが廻っているらしく、小道具に纏わる赤毛のアンのエピソードを彼女が熱く語り、彼氏がたまに相槌を打つ声が聞こえた。
  「そっか。間違えてお酒を飲ませちゃったんだ」
  結香も彼らのやり取りを聞いてなるほどと頷いている。
  「結香も知らなかったのか?」
  聞くと、申し訳なさそうに苦笑した。
  「実は小さい頃ちょっと読んだだけなんです。意外に長くて途中で止めちゃって………だから、そんなに詳しくないんです。ごめんなさい」
  「気にするな。俺はモンゴメリがカナダ出身だと今知ったぐらいだから」
  顔を見合わせて笑い合っていると、少し離れた所からポニーテールの女性が首を傾げてこちらを見ていることに気付いた。
  Tシャツとジーンズというラフな格好だが、だいぶ年上の女性だ。俺たちが煩くて迷惑だ、という表情ではなく、何か考え込むような目で俺たちを見ている。
  俺が見ていることに気付いたのか、ゆっくりと俺たちに近付いてきた。女性にしては長身だった。ずいぶん前に会った気がする。
  「もしかして、咲の息子さんじゃない?えぇと、旧姓が橘咲なんだけど。今は………」
  「進藤です。俺は進藤夕弦です」
  悩んでいるのを遮って名乗ってしまうと、そうそう!と相手は破顔した。
  「咲とは名前で呼びあってたから、結婚後の名字なんて年賀状書く時くらいしか使わなくて覚えてないのよ。あ、デート邪魔しちゃって悪かったわ」
  視線で謝られた結香は首を横に振って不思議そうに俺を見上げる。
  「こちらは母さんの友人で―――」
  「柊美智よ。はじめまして」
  「ま、牧野結香です。はじめましてっ」
  勢いよく頭を下げた結香にニッと笑いかけてから、柊さんは俺を振り返る。
  「なんか見覚えある気がするなぁ、と思ってじっと見ちゃってたのよ。悪かったわね。咲、元気してる?」
  「はい、元気です。柊さん、仕事は?」
  聞くと、笑顔から一変して柊さんは項垂れた。
  「言わないで~~~っ。煮詰まってるから、息抜きに来たのに~~~っ」
  知らなかったとはいえ余計なことを言ってしまったとため息をついていると結香が、あの、と袖を引いてきた。
  「せっかくだから、そこのカフェでお茶しませんか?」
  モデルハウスの隣に、休憩スペースとして移動式のカフェが併設されている。展示を見終わったらそこで一休みするつもりだった。
  提案してくれた結香に微笑んでから柊さんを見ると、困ったように笑った。
  「いいの?声かけたのはあたしだけど、デートの邪魔じゃない?」
  正直邪魔ではあるが、ここで話し込むのも迷惑になるし、結香の提案だ。
  小さく首を振ると柊さんは苦笑した。
  「じゃ、ご一緒させてもらうわ」
  そして三人で展示会場を出た。

  三人分の支払いは柊さんが出してくれた。
  「邪魔したお詫びだし、あたし年長者だしね~」
  二人で礼を言うとそう言ってカラカラと笑った。
  ケーキを小さく切って口に入れ、結香は「ん~~~っ」と幸せそうに咀嚼した。
  「あんな素敵なお家を歩いてからこのケーキ食べたら、本当にアンの気分ですよ」
  嬉しそうに食べる結香に微笑んで、自分のケーキを一口切って差し出す。
  「ほら、こっちのサクランボのも食べてみろ」
  気分が高揚していたためか、いつものように恥ずかしがることもなく笑顔で食べて堪能している。紅茶で一息ついてから一連の行動を思い出したのか、途端に真っ赤になって「すみません………」と縮こまった。
  「え、謝る必要ないわよ。元々あたしがお邪魔してるわけだし。寧ろ存分にやってちょうだい」
  その一言に俺は少し眉を寄せる。
  「まさか、俺たちまでネタにするつもりじゃ」
  小さく呟くと、柊さんは苦笑して手を振った。
  「しないわよ。あなたたちみたいな若いカップルを堂々と見れるなんて最近なかなかないから堪能してるだけ」
  軽く安堵のため息をつく俺の隣で、結香がん?と首を傾げた。
  「ネタ?漫画家さんですか?」
  「残念ながら絵は壊滅的に下手なのよ。しがない物書きよ」
  ふぁぁ、と結香が感嘆の声をあげた。
  「すごい!作家さんですか」
  尊敬で輝いた目を向けられて柊さんは苦笑混じりに肩を竦めた。
  「すごくもないわよ。書けてないんだから、作家なんてタイソーに名乗れないわ」
  気分転換とネタ探しにせめて日常とは違う雰囲気を感じようと来たんだけどね、と首を振りながらコーヒーを飲んだ。
  「さっきまでホームズ展にいたんだけど、結局ダメね。気ばかり焦ってるものだから、気分転換さえできなかったわ」
  柊さんがため息をつくと、ホームズ展?と結香が目を瞬かせた。
  「ど、どうでした?」
  前のめりに聞く目の色が興奮を帯びている。
  「そぉね………あたしが廻ってたときは熱狂的なファンがちらほらいたから、なんというか、雰囲気が物々しかったわ。造りもこっちほど凝ってないし」
  そうなんだ、と結香は残念そうに眉を下げた。
  「行きたかったのか?」
  「ちょっと気にはなったんですけど、場所が遠いからこっちにしたんです。小さい頃にドラマ見ただけで本を読んでるわけでもないし」
  照れたように言う結香に、今度は柊さんが身を乗り出した。
  「それって夕方やってたヤツ?あたしも見てたわ。懐かしいわねー」
  そうです!と結香が笑顔で頷き、二人で話に花を咲かせた。

  しばらく結香と話していた柊さんはスッキリした表情で先に帰った。
  「先輩、私ばかり話しちゃってごめんなさい」
  何故だか謝られ、俺は首を傾げる。
  「何故謝るんだ?話し相手になってくれて、俺は助かったぞ。柊さんも気分転換になったみたいだし、いいじゃないか」

  柊さんと思出話に花を咲かせる結香を見れて俺も楽しかったし。
  今は身体の大きな男性を苦手とする結香も、小さい頃は俳優に憧れたのかと思うと微笑ましいような気に入らないような複雑な気分だが。
  そういえば結香は芸能人の話題を振ることはしないが、単に俺に言わないだけなんだろうか?

  「結香は好きな芸能人とかいるのか?」
  「え?」
  結香は目を大きく開いて俺を見上げる。
  どうしたか聞くと、戸惑ったように首を傾げた。
  「いきなり聞かれたのでびっくりしちゃって」
  「ホームズ役の俳優にそんなに焦れ込んでたのが意外でな。で、いるのか?」
  重ねて聞くと、考え込むように眉を寄せる。
  少し経って挙げた名前は、俺でも知っている年輩の俳優だった。
  どこか安心しながらも一応若い俳優について聞いてみると、情けなさそうに肩を竦めた。
  「役が格好いいって思って名前をあとで調べようと思うんですけど、毎回調べる前に忘れちゃうんです」
  間抜けですよね、と笑う結香の頭を少し長めに撫でた。


  カフェを出て公園をぶらぶら歩く。
  ホームズ展に行かなくていいのかと聞くと、結香はにこりと笑って首を横に振った。
  「お花綺麗だし、せっかくだからもう少し赤毛のアンの雰囲気楽しみたいです」
  そう言って微笑む結香の頭を撫でて、手を繋いでゆっくり歩く。
  赤毛のアンをイメージしてか、道沿いにたくさんの花が植えられていた。
  隣を歩く結香は言葉通り楽しんでいるようで、足取りがいつもより軽い。
  しばらく歩くと、巨大な生垣が現れた。
  「ふぁぁ………大きいですねぇ………」
  見上げて感嘆の声をあげる結香の隣で、俺は立て掛けてあった案内板を一読する。
  「薔薇でできた迷路らしい。行ってみるか?」
  「はい!」
  満面の笑みで頷いた結香の手を引いて、俺は薔薇のアーチをくぐった。

  薔薇の香りに包まれてゆっくり歩く。時々見上げる青空に浮かぶ赤が映えて、思わず幾度も立ち止まって空を見上げた。
  色が綺麗な花を見つけると、近付いて眺める。
  花には明るくないので大したことも言えなかったが、結香は薔薇の色を楽しんで目を輝かせて俺を見上げた。
  「綺麗だな」
  ありきたりな一言にも、笑顔で頷く。
  「アンに倣って友だちと来るのも楽しそうですね」
  首を傾げると、アンが花に囲まれて友情の誓いを立てる場面があるのだと説明してくれた。
  「お互いに腹心の友になることを誓うんですよ」
  結香が水瀬と向かい合って誓い合う光景を思い描く。それはそれで絵になる気がした。
  「先輩と夏目先輩も腹心の友ですよね?」
  「そうかもしれんが、男二人では来ないぞ」
  ややげんなり気味に軽く頭を振って光司の顔を打ち消した。

  少し開けたところに鐘が吊るされてあった。想い合う二人が一緒に鳴らすとその縁が一生続くらしい。
  こういう所はなんとも日本的だと思いつつも、やるか、と聞くや否や結香は真っ赤になって空いた手をわたわたと振り回した。
  「ふぇっ?ゃ、だって」
  物凄く動揺している。
  付き合って数ヶ月経つが、結香は未だに恋人や彼氏、彼女といった言葉に反応する。
  拒否ではないと解ってはいるが、繋ぐ手の力を強めて顔を覗き込む。
  「こういう願掛けは嫌いか?」
  「そ、そんなことないですョ?」
  彷徨う結香の視線をしっかり捉えてさらに覗き込む。
  「じゃあ、やろう」
  「で、でも」
  「それとも、結香は俺との縁が一生続くのは嫌か?」
  「それはっ、ないです!絶対!」
  音がなる勢いで首を横に振る結香に、思わず顔が弛む。ニヤけてないといいのだが。
  「じゃあ、やろう」
  再び誘うと、それでも結香は紅い顔で小さく唸っている。
  「……………だ、だって……………」
  「だって?」
  ようやく上げた目は少し潤んでいた。
  「か、かね………鳴らしたら、私たちこ、こ、恋人同士ですって宣言してるみたいで恥ずかしいです………」
  小さい声で言って俯く。
  結香の気持ちも解らんことはないが、やはり釘は指しておきたい。
  「恋人なんだから、いいだろ」
  そぅなんですけど、と口ごもる結香が可愛いがまだ放すつもりはない。
  「結香は俺と恋人同士なのが恥ずかしいか」
  囁くように聞いてみると、やはり勢いよく首を横に振る。
  解ってはいたけど、結香に意思表示してもらうのは嬉しい。わざわざこんなことを聞いてしまう自分が意地悪く思われてないか気にはなるが。
  「じゃあ、鐘が恥ずかしい?」
  今度は上下に首を動かす結香に、俺は笑みを溢した。
  「じゃあ、音を出さずに宣言しよう」
  ふぇ?と一瞬止まった結香の手を軽く引いて向き合うように立たせ、目を覗き込む。
  大きな目に否定的な感情がないことに安心しながら、俺は唇を結香のそれにそっと重ねた。


  会計を済ませて席に戻っても、結香は俺が先程座らせた体勢のまま固まっている。
  その顔を両手で包みしばらく頬を撫でてから、軽く摘まんだ。
  「―――はぅっ……………ん?………なぁぅっ?」
  覚醒した結香はぼんやり俺を見上げたかと思うと少し考え込み、猫のような声をあげて飛び上がった。
  額を合わせて目を覗き込んでいたから、驚いて距離をとろうとしたのかもしれない。実際には椅子が少しガタついただけだったが。
  「ほら、これ飲んで落ち着け」
  結香の手に紙コップを持たせると、その中身を見て結香が目を瞬かせる。
  「綺麗な色。これなんですか?」
  木苺ジュースだと教えると一口飲んで顔を綻ばせてから、周りを見渡した。
  「……あ、ここ……さっきのカフェ……?」
  驚いたように言うのに頷く。
  やはり、いきなりキスしたので驚いて固まっていたらしい。鐘のあった所から手を引かれた状態で自分で歩いてはいたのだが。
  ゆっくりジュースを飲みながら、ほんのり頬を紅く染めて黙っている。時折目が合うと、少し目を見開いて恥ずかしそうに俯く。
  「嫌、だったか?」
  俺に対する嫌悪感等は感じないものの、沈黙に居たたまれなくて短く問う。

  俺は勿論、おそらく結香にとっても初めてのキスだった。
  俺は場所に拘りはないが、結香はどうだろう。
  萌や光司は事ある毎に雰囲気を大事にしろと言ってくる。
  結香にも、理想のファーストキスがあったのだろうか。それを全て叶えるのは出来ないかもしれないが、理想があるなら聞いておくべきだった。
  薔薇に囲まれた雰囲気を楽しんでいたから雰囲気を蔑ろにしたつもりはないのだが。

  「―――ぃ、ぃゃ、では、ないです、よ?」
  俯いたまま小さな声で囁かれ、軽く安堵の息をついた。
  「び、びっくりしたけど、ぜったい、ぃゃ、じゃなかった、です」
  「そうか」
  自分の声に思った以上の嬉しさが滲んでいて、片手で口元を覆う。
  ようやく俺に向けられた結香の目は少し潤みながらも真っ直ぐに俺を見ていた。
  「―――あ、あの」
  「ん?」
  結香は一瞬視線を彷徨わせてからまた真っ直ぐに俺を見上げてか細い声で問う。
  「わ、私………びっくりして、さっきまでボーッとしちゃってたみたいなんですけど、ヘ、ヘンじゃなかったですか?」
  ほんのり紅い顔で手を引かれるまま静かに歩く結香はただ可愛かった。
  首を横に振ると、結香はほーっと長く息をついた。
  「~~~よ、よかったぁぁ………いきなりで、あっという間で、びっくりしてワケ解らなくなったから、妙なことして先輩に恥ずかしい思いさせてないかヒヤヒヤしたんです。本当に私、ヘンなことしてません?」
  再度首を横に振ると、あぁ~よかったぁぁと椅子に凭れかかるが、俺は僅かに片眉を上げる。
  「………あっという間、か。じゃあ今度はもう少し長くしよう」
  「はい!―――ぇ。えぇっ?」
  元気よく返事してから首を傾げ狼狽える結香に、俺はニヤけない程度に笑ってみせた。


  これ以上公園にいると結香が動揺するばかりなので、公園を出て周りの店を覗きながら手を繋いでぶらぶら歩く。
  この辺りは飲食店ばかりではなく小物や雑貨を扱う店が多く並んでいるので、次第に落ち着いた結香が目で興味を示した店を次々廻った。
  俺一人では基本的に入らない店ばかりなので、店の中を眺めるだけでも結構楽しい。
  ふと、視界の隅にあるものを見つけ、目を凝らして品物に見入っている結香に声をかけた。
  「ちょっと買い物してくるけど、それ、買うなら一緒に持っていくか?」
  「だ、ダメです!」
  勢いよく答えた結香が俺を見上げて一瞬顔を強張らせる。
  「ご、ごめんなさい。嫌とかじゃなくて、これは私が買わないといけないんです。だからっ」
  「解った。じゃあ先に会計してくるな」
  何やら必死に首を振る結香の頭を撫でると、ホッとしたような笑顔で見上げられる。
  会計を済ませて振り返ると買い物を見られたくないのか結香が後ろ手に横歩きしているので、視線を外して入り口で待つ。
  小走りに戻ってきた結香は少し不安そうな表情をしていたが、俺が全く怒っていないことが解ったのだろう、すぐににこりと笑顔に戻った。
  また手を繋いで歩いていると、あ、と結香が声をあげる。
  「どうした?」
  「お話が楽しくて、柊さんのペンネーム聞くの忘れちゃいました………先輩、知ってます?」
  思わず目を反らした俺に結香がしがみつく。
  「知ってますよね?教えてください~っ。今度お会いしたときに感想とか言いたいです!」
  「いや、そういうのはいいんじゃないか」
  ため息をつきながら言うと、途端に結香は項垂れる。
  「………そうですよね。素人の感想なんてプロに失礼ですよね………」
  「いや、そうじゃなくて」
  あまりの落胆ぶりに仕方なく説明する。
  「あの柊さんのデビュー作は、ウチの両親の馴初めがネタになってるんだ。最近は柊さんの仕事が忙しいけど双子が産まれる前はよく遊びに来てて、母さんが話した俺の話もネタにされることもあって………だから、あまり読んでほしくないというか………」
  説明するにつれ結香の目が輝きを帯びる。
  「先輩が話のモデル………すごい!読みたいです!」
  「そんな大層なものじゃないから………」
  諦めきれない、という表情で結香は俺の胸元にしがみつく。
  しばらくすると、あ、と一変して明るい声をあげた。
  「じゃあ、先輩のアルバム見たいです!小さい頃の!」
  自分が子供の頃に写真を撮られた記憶があまりないのでアルバムがあるかどうか解らないと言うと、またガッカリした様子を見せる。
  「一応、聞いてみる」
  本当ですか?と喜ぶ結香の頭を撫でて、その目を覗き込んだ。
  「結香のアルバムも今度見せてくれ」
  え。と絶句する結香の頭をしばらく撫でて、また手を繋いで歩いた。


  しばらく無言で周りを見ながら歩く。
  そういえば今日はずいぶん歩き回っているが、体調は大丈夫だろうか?茜さんは遅くなってもいいと言っていたが、酷く疲れる前に送った方がいいかもしれない。
  「そろそろ帰るか?」
  聞いて隣を見ると、結香は大きな目を見開いてきょとんと俺を見ていた。
  「え?」
  「え?」
  さも意外だという表情で聞かれ、鸚鵡返しに聞き返す。
  「先輩、なにか用事があるんですか?」
  心配そうに問われるので首を横に振ると、ホッとしたように表情を弛めた。
  「じゃあ、もう少し一緒にいたいです」
  真っ直ぐ目を見て微笑まれるので、思わず息を飲んだ。
  「うん」
  結香の真っ直ぐな目と想いに感動しても上手く言葉に出来なくて、ただ短く呻くと少し強く手を握ってまた歩く。道すがらに公園を見つけて入った。
  先程までフリマをやっていたらしく、まだ賑わっているがそれほど混雑はしていない。
  ベンチを見つけると、結香は近くの自動販売機に走って行った。
  「はい、先輩」
  「ありがとう」
  二人並んで座ってペットボトルを開ける。
  一息つくと、胸ポケットに閉まった物を思い出した。
  「結香、ちょっといいか?」
  「はい?」
  首を傾げながらも言う通りに後ろを向いた結香の首に、取り出した物を着けた。
  「―――――ペンダント?」
  先程雑貨店で買ったものだ。ペンダントトップの薔薇の飾りがだいぶ女々しく思われるかもしれないが、どうしても結香に今日のことを忘れないでいてほしかった。
  「学校が始まればずっと着けてるわけにはいかないだろうが、使ってくれると嬉しい」
  首を掻きながら言うと、しばらく飾りを手で持って眺めてから振り返る。
  「大切にします―――ありがとうございます、先輩!」
  その笑顔がひどく眩しくて、俺はまた、うん、としか言えなかった。
  俺の不甲斐なさに構わず結香はバッグの中から包みを取り出す。
  「御返し―――じゃないんですけど、私からも渡したいものがありまして」
  「うん?」
  包みを開けると、ジャーン!と俺の目の前に品物を掲げた。
  「定期入れ、か?」
  はい!と赤と緑の定期入れを持った結香はにこりと微笑んだ。
  「これ、ただ色違いってだけじゃなくて―――ほら」
  定期入れを裏返すと柄を合わせる。四つ葉のクローバーが浮かび上がった。
  「お姉ちゃんばかりじゃなくて、私からもお礼がしたくて。これなら先輩も恥ずかしくなく使えってもらえるかなって思ったんですけど………ダメですか?」
  次第に声に勢いが無くなる結香の手から緑色の定期入れを取る。
  「ありがとう、結香」
  そう言った俺の顔をじっと見上げてから、結香は頬を少し染めて微笑んだ。

  湖を一周する遊覧船に乗ろうか、と話す。
  乗船時間から考えると、今日のデートの最後には調度いい乗り物に思える。
  「でも先輩。お腹空いてないんですか?」
  見事に言い当てられて気恥ずかしさに首を掻く。
  飲食店を目で追わないようにしていたつもりだが、見抜かれていたようだ。
  「あー………結香はどうだ?」
  食事をとったのが昼前だった。
  今日はずいぶん歩き回ったし俺は正直空腹ではあるが、結香はどうだろう?
  元から食べない上に最近食が細いのだから、空腹でなかったら俺の食事に付き合うのはキツいかもしれない。
  「空いてますよ?」
  「本当か?」
  嘘吐きとは思わないがつい確認すると、結香は少し頬を膨らませた。
  「たくさん歩いたから、お腹空きました」
  「そうか。何食べたい?」
  安堵に笑みを溢して聞くと、ちょっと待ってくださいね、とこめかみを手で抑えて小さく唸る。
  「結香?」
  「いま。いま考えるのでちょっと待ってくださいね………ん~っと………」
  ん~っ、ん~っ、と唸る。
  可愛らしいが今頭を撫でたら邪魔してしまうかな、と考えていると、ぱぁぁっと明るい顔で見上げた。
  「うどん!うどんが食べたいです!」
  そうか、と言って頭を撫でる。
  はい!と結香はどこか誇らしげに微笑んだ。
  「いつも先輩に決めてもらうのも良くないですから、最近特訓してるんです!―――あ、でも」
  何故かいきなり気落ちする。
  「先輩、お昼も麺類でしたよね?」
  「国とか味が違うから、大丈夫だ」
  そう言うと結香は安心したように破顔した。

  早目の夕食を済ませて戻り、乗船するとデッキに上がる。
  後ろから手すりを握って結香を囲むと、俺に凭れかかって満面の笑みで見上げてくる。
  着岸するまでの間、心地好い風と結香の笑顔を楽しんだ。





  ◆ 数日後の進藤家 ◆

  「美智!いらっしゃい、久しぶりね!」
  どぉも。と片手を上げた柊美智は久しぶりに訪れた友人宅を見渡す。
  「さすがにいろいろ変わったわね」
  場所は変われど二十年近く代わり映えのしない自分の部屋とは違い、この家は住民の成長を伝えてくれる。解らないのはこの家の主だが、美智は興味がないのでそこはどうでもよかった。
  「美智は変わらないね。ずっと若々しく仕事してイキイキしてる」
  お茶の仕度をしている友人に肩を竦めてみせた。
  「それなりに年重ねてる割には相応のお洒落が出来ないだけだけど?」
  実際今は少しくたびれたTシャツにちょっとだけ穴が空いたジーンズ。それに下駄を突っ掛けて電車に一時間揺られてここへ来たのだ。
  女を棄ててる、と指差されても文句は言えないと自分でも思う。まぁ、乗車拒否されない分セーフでしょ、と開き直るだけだが。
  「仕事中だった?」
  さすが親友。長年会ってなくても美智の服装に煩く言わないのはありがたい。
  「んーん。さっき原稿出したとこ。面倒だからその足でそのまま来ちゃった」
  だからお菓子の手土産なんて持ってくることすら思いつかなかったのだが、親友は気にせず茶を淹れる。
  手作りと思われる焼き菓子を摘まみながら、あーそうだ、と美智は鞄の中を適当に漁った。
  「コレ、夕弦くんに渡しといてよ」
  なぁに?と美智の手元を覗いた親友は目を丸くする。
  「どうしたの、これ?」
  「この間夕弦くんがデートしてるところに行き合っちゃってさ。まぁ邪魔したお詫びっつーか話し相手になってくれたお礼っつーか」
  ここの家、コレ見れる?と聞かれるのに頷きつつも親友は受け取るのに躊躇う。
  「いいの?貴女すごく大事にしてたのに」
  恥じることなく大きく欠伸をしながら美智は手を振った。
  「いーよ。たぶん観る暇ないしさ―――ゆっくり観る暇できる頃には今よりババァになってるんだから、金にモノいわせて聖地巡礼するぅー」
  だいぶ疲れているのかだらしなく座りながらお菓子を咀嚼する美智に、優しい笑みを向けた。
  「ありがとう。結香ちゃん、喜ぶわ」
  「その言い方、まるであの子ここのお嫁さんみたいね」
  親友はふふっと笑い崩れた。
  「そうね。もうそんなカンジかも」
  「嫌ぁね。親子揃って嫁確定早いんだから」
  まぁ、と美智はさらに欠伸を噛み殺す。
  「夕弦くんの方が、正面から正々堂々可愛がってます!てカンジで可愛かったわ」
  息子の恋バナにも親友はころころ笑う。
  そんな親友を寝ぼけ眼で眺め呟いた。
  「未だ納得は出来ないけどさ―――本人が幸せってんなら口出すなんて野暮だよね」
  「なぁに?」
  ううん、と首を横に振ると欠伸で誤魔化す。
  「さぁて。顔見たし、そろそろ帰ろうかなぁ」
  「何言ってるの、来たばかりじゃない。仕事明けで辛いんじゃない?お布団出すから、少し眠りなさい。貴女の好きな鯖の味噌煮作るから」
  「主の留守中に勝手にいいの?」
  魅力的な申し出にニンマリ笑うのを堪えて聞くと、大丈夫よとあっさり言われる。
  「白和えも食べたいな」
  言ってみると、はいはいと返される。
  ほんの少し上機嫌で美智は客用の布団に寝転んだのであった。
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