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番外編
飛び火する嵐
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『もしもしっ?夕弦くんっ?助けてっ』
冗談にしか聞こえないSOSに、は?と短く聞き返した。
電話をかけてきたのは茜さん。
この人が助けを求めるなんて珍しい。というよりも有り得ない。
無駄にヒトをからかうタイプではないことは解っているが、冗談ではないかと疑いたくなる。
声は切羽詰まっているが、ヒトを思い通りに動かす為なら芝居の一つや二つ、平気でこなすタイプだとも思う。
まぁ結局呼び出しには応じないといけないんだろうが。
俺の沈黙を何と捉えたか、茜さんは滑らかに話し出した。
『そりゃあね、夕弦くんがわざわざあたしを助ける義理はないし、結香に要らぬ誤解させたくないからスルーするってのは真っ当な選択よ。あたしがあなたでもそうするわっ』
「はぁ」
『可愛い彼女に会いに行く度にちょこまかチェックする小姑。それが断りもなしに自分をいいように利用するときた日にゃあ、助けてやるもんか、ざまぁみろって塩を投げつけたくなるってもんよね?』
「いや、そんなことはしませんが」
否定するが、茜さんには聞こえていないらしい。
『確かに無関係の夕弦くんに頼るのはどーなの?って自分でも思うわよ。でもね、元々はあたしも無関係っちゃ無関係だし、でもコレなんとかしないと優しい結香だって気にするし、何とか手を貸してほしいのよ』
「それで、俺はどこに行けばいいですか?」
やや強引に聞く。いつもなら茜さん相手にこんなことは出来ないが。
茜さんも気にすることなく、家に来て、と言う。
すぐに行くと伝え、電話を切ると着替えて階下に降りる。
「あら。帰ってきたばかりなのに、出かけるの?」
「うん。茜さんから呼び出しあったから行ってくる」
玄関で靴を履いていると、陽が見送りに出てきた。
「兄ちゃん、頑張れ」
そんなことを言うのは、陽も茜さんにやたら構われているからだろう。
頷いて手を振ると、足早に牧野家へ歩いた。
チャイムを押すと、だいぶ窶れた茜さんが出てきた。
「夕弦くん、ありがと~っ。上がって上がって」
拝む姿がとてつもなく必死だ。これは本当に困っているのかもしれない。
押され気味に居間に入ると、床に座り込んでいた結香が振り返って目を見開いて俺を見上げた。
「せんぱいっ?」
挨拶代わりに手を上げると、驚きを残して嬉しいような困ったような表情を浮かべる。
「だぁれ?」
「うん?」
結香の向こうから小さなお下げ髪がピョコンと覗いた。
誰なのか説明を求めて隣を見るも、茜さんは台所にでも行ったのかいつの間にかいなかった。
「先輩、どうしたんですか?」
結香に声をかけられたのでその隣に座り込む。
ちらりと見ると結香と向かい合わせに座っていた女の子は俺を興味津々で見上げている。
とりあえず怖がられてはいないので安心して口を開く。
「茜さんに呼ばれたんだ」
「それは………ごめんなさい」
首を横に振って軽く頭を撫でると、申し訳なさそうに俯いていた結香が微かに微笑んだ。
「ねぇねぇ、おにいちゃんだぁれ?ゆぃかおねぇちゃんのかれし?」
あどけない質問に結香がピクリと肩を揺らして少し身体を離す。
「ぅ、ぅん、そう………私のか、彼氏、の進藤ゆ、夕弦、さん、だよ」
子ども相手でも恥ずかしいものは恥ずかしいらしく、真っ赤になってつっかえつっかえ漸く言った。
「すごぉーいっ。ねぇねぇ、としはいくつ?ゆぃかおねぇちゃんとはいつからつきあってるの?」
「年は十八で結香とは二歳差だ。春になるちょっと前から付き合ってるから、もうすぐ半年になるかな」
真っ赤になった結香に構わず、女の子は矢継ぎ早に俺に質問を浴びせる。
職業は、大学はどこか、趣味は―――
萌とのやり取りで、こういう時適当に返事をすると後で困るので一応細かく答える。
途中女の子がおそらく知らない言葉や表現が入ることはあったが、女の子は自分なりに理解したのか聞き返すことなく頷きながらも俺の観察を続けた。
「ふぅん、せもたかくってかおもいけめんさんで、あたまもいーんだ………でもね、だいがくでてもしごとができるとはかぎりゃにゃいでしょ?どぉなの、そこ?」
片手を頬に当てて言う様は母親の真似かもしれないが、真っ直ぐ俺を見る目が本気で聞いていることを示している。
さて、何と答えるか―――と軽く咳払いしたところで、呆れ返った声で茜さんが割って入った。
「はい、そこまでにして。あんまりしつこく聞くと、結香に怒られるわよ」
見ると、結香が軽く手を握り締めて複雑そうな表情をしていた。
信夫さん(結香の親父さん)が初めて会った俺に色々聞いてきた時、体調が良くないのに結香は信夫さんを諫めていた。あの時のように言いたいのかもしれないが、相手が小さな女の子なので何と言えばいいのか悩んだのかもしれない。
頭を撫でると瞬きを一つして俺を見上げるが、すぐに申し訳なさそうに目を伏せた。
「先輩、ごめんなさい」
気にするなと頭を撫でていると、次第に結香の表情が柔らかくなった。
「はーいはい、お茶にするから来なさい」
茜さんの声に一気に赤面した結香を椅子に座らせて自分もその隣に座った。
「美紅ちゃん、初めて会った人に挨拶も自己紹介もしないで相手のことを根掘り葉掘り聞くのはどうかと思うわ」
ニーッコリと笑いながらも言った茜さんを少し怯えた様子で見てから、女の子は小さく頭を下げた。
「さと………じゃなくて、まきの、みく、です。ごめん、なさい」
「進藤夕弦です。初めまして」
ごめんなさいを言ったことで安心したのか、美紅ちゃんは大きく息をついてから出されたオレンジジュースを一気に飲んだ。
「従姉妹の娘なんだけどね。ちょっと最近ゴタゴタあってついあんな態度とったと思うんだけど。いきなり呼び出した上に、申し訳なかったわ」
頭を下げる茜さんに、構わない、と首を横に振ってその隣に座る美紅ちゃんを見る。
「俺を呼んだのは、この子の為ですか?」
そうなの、と茜さんは頷いて説明しだした。
美紅ちゃんの母親である結香の従姉妹は最近離婚した―――というより、婚家を追い出されたらしい。
嫁ぎ先は父親の知り合いの大層なお家柄だったらしく、元々姑の嫁いびりが酷かったらしい。さらに産まれた孫が男じゃなかったという理由で、嫁の生まれが悪いからだの役立たずだの、姑の言動はさらに激しくなった。夫や息子の前ではあくまで嫁への教育という体を通したので、虐められているという嫁の訴えが通る筈もなく、体調を崩しがちになった嫁をさらに姑は責めた。
さらに、嫁が使い物にならない以上孫娘は自分が教育すると言われ、耐えられなくなった嫁は娘の美紅ちゃんを抱えて逃げ出したのだった。
ただ語るのも不愉快なのか、終始眉間に青筋を浮かべながら茜さんは鼻息荒く言う。
「―――まったく、嫁ぎ先も嫁ぎ先だと思うけど。そぉゆー家に娘送り込む父親もどーなの?しかも、逃げ出した娘を自分のために怒鳴りつけて婚家に戻そうなんて、ヒトを何だと思ってんのよ!っていうやり取りをしたのが、この間のことだったわけ」
あの台風の日、親族で話さないといけないことがあると言っていたのはこのことだったらしい。
従姉妹同士の仲は至って良好だが、元々結香たち一家はこの叔父さんとやらを敬遠しているらしい。信夫さんの二回の結婚についても何かと煩く言ってきたのが主な理由らしい。
後妻とその娘は大人しくしてろ。牧野の姓を名乗れるだけ有り難いと思え。
そんな傲慢な言い分に真っ先に噛み付くのが茜さんだった。
茜さんの母親についても何かと言ってきたらしいが、その度に茜さんが手段を問わずやり負かしたので、最近はそこには触れなくなってきたらしい。
「しばらく会わない間に少しはマシになったかと思ったけど、ありゃダメだわ。大体、今どき何なの政略結婚って。ダッサ!」
「お、お姉ちゃん………」
結香の小さな制止に茜さんは瞬きを一つした。
「今回は他の親族も意見してくれて、従姉妹が美紅ちゃんの親権を取って離婚できるようにしようってことになったんだけどね。あのクソジジイ、手続きだの何だので忙しい内は親族全体で美紅ちゃんの面倒見ようって言い出して、最初の預け先をウチにしたのよ。まったく、政略結婚なんて時代遅れな上に陰険な発想だわ」
怒りが冷めやらぬのか、ため息混じりに言い捨てた。
ハルさんがパートに出て不在の時にいきなり美紅ちゃんを連れてこられて、結香と二人でワタワタしていたらしい。
「あかねおねぇちゃん、ごめんね」
申し訳なさそうに涙目になった美紅ちゃんの頭を、茜さんは優しい微笑みを浮かべて撫でた。
「美紅ちゃんが謝ることなんてなぁんにもないのよ。あたしが怒ってるのは、あの、ヒトの都合とか気持ちをまるっきり無視してくれやがる貪欲腹黒クソジジイに、なんだから」
言葉の端々に怒りが滲んでいる。
「―――で、小さい子の扱いなんてあたしも結香もお手上げだから、夕弦くんを呼んだってワケ」
事情は解ったが、茜さんならもっと相応しい助っ人のツテがあったんじゃないだろうか?
そう尋ねると、茜さんは軽く首を竦めた。
「ないワケじゃないんだけど、数時間ならともかく数日間付き合える人となると、なかなかね………いくら資格持ってても何人も入れ替り立ち替りで来られちゃ、美紅ちゃんだって疲れるじゃない?」
確かに、と頷いてお茶を飲んで、それで、と聞く。
「それで、具体的に俺は何をすればいいんですか?」
「時間のあるときにここに来て、結香と一緒に美紅ちゃんの相手をしてほしいのよ。年の離れた弟妹の世話をしてた夕弦くんなら、そんなに苦でもないでしょ?」
解ったと頷けば、窺うように俺を見ていた茜さんが安心したように破顔した。
「ありがとう。じゃあ、早速お願いできる?あたし、部屋とか布団とかまだ支度あるから」
「なら、天気もいいし、外に遊びに行くか?」
そう言って美紅ちゃんを見ると、うんっ、と嬉しそうに頷いた。
「今日は美紅ちゃん長いこと移動して疲れてるから、あまり遠くには行かないでね」
立ち上りながら言う茜さんに、この辺りをぶらつくだけだと言って、三人で牧野家を出た。
結香と手を繋いで歩いていた美紅ちゃんが時々俺を見上げるので、何だ?と聞いてみると、おずおずと聞かれた。
「て、つないでいい?」
返事の代わりに手を差し出すと、小さな手で人差指を握ってきた。
満足そうに笑う美紅ちゃんを見て、結香と微笑みを交わしていると、背後からすっとんきょうな声が聞こえてきた。
「なっ!?なななななななぁっ!!?」
「煩いな。近所迷惑だぞ」
振り返って言うと、スーパーの袋を片手に俺に人差指を突き付けて「な」を連発していた光司が、俺に足早に近付く。
「夕弦ぅっ!俺は哀しいぞ!俺ってお前の幼友達だろ、親友だろ?なんでこんな超重要案件黙ってるんだよ!?俺は哀しい!哀しいぞ!」
喚く光司の額に、とりあえず手刀を落とす。
額を押さえて踞る光司を放って隣を見下ろすと、少なくとも美紅ちゃんは怯えていないようなので安心する。
「さ………まきの、みくです。おにぃちゃんは、ゆじゅぅおにぃちゃんのおともだち?」
小首を傾げながら聞く美紅ちゃんをじっと見つめると、光司はその場に膝をついた。
「こんなっ………こんなかぁいい娘を認知してやらないなんて………なんて非道なヤツに成り下がったんだ………夕弦っ………」
「お前は何を勘違いしてるんだ」
大きなため息をつく俺の隣で美紅ちゃんは反対側に首を傾げ、さらにその隣で結香は真っ赤になって俯いた。
光司の勘違いの顛末を聞いた師匠は一頻り笑いに笑ってから、結香に頭を下げた。
「馬鹿な弟子で申し訳ない」
謝られた結香は紅い顔のまま首を横に振った。
「あ、あの、誤解も解けましたし………気にしないでください。アイスもご馳走になっちゃって………」
夏休み中の稽古と宿題を頑張ったご褒美だと子どもたちに振る舞うアイスを買い出しに来た帰りに、仲良く歩く俺たちを見かけたらしい。
そこでどうして美紅ちゃんが俺の隠し子になるんだ。色々おかしいだろう。時期が。
後できちんと話そう。
そう思って光司を見ると、何やら固まった笑顔でカクカクと動く。
「ゆ、夕弦くん?アイスいかがかな?」
「もう食った」
あっさり断ると、ヒクゥッ、と不明な音を喉から漏らした。
「そ、そんなこと仰らずっ。ほらっ、俺の分もぜひっ」
要らない、と首を振るとプルプル震えていた光司が音をたてて土下座した。
「悪かったよぉぉっ。お前らメッチャ仲睦まじいから、子どもとかいても全然おかしく感じなかったんだよぉぉっ」
「何故全然おかしくないなんて思う。明らかにおかしいだろう。年齢と時期が」
ジト目で言うと、光司は結香とアイスを食べていた美紅ちゃんによつん這いで近付く。
「えっと、美紅ちゃん?今何歳かな?」
「にさいよ?」
光司は目を丸くして俺の近くへ戻ってくる。
「え。二歳ってこんなきちんと喋るか?」
「個人差はあるだろうけど、こんなもんじゃないか?」
当時の萌よりは口調が大人びていると思うが、それは周りの大人に影響を受けたものだろう。
「あのね、ママとゆぃかおねぇちゃん、いとこなの。ママがりこ………りこ、すゅから、おまえはここいなしゃいって、おじーさんがいったの」
いつの間にかこちらに来ていた美紅ちゃんが光司の裾を引っ張って話しかけていた。
光司は親しみやすいキャラだし、大人のように話すとはいえ二歳児だ。俺たちがあえて言わなかったことまで話してしまった。
結香が声こそ上げないものの、慌てた様子で小さく身動ぎしている。
光司は美紅ちゃんの言葉を小さく反芻して頷いている。
「そっか、彼女ちゃんの従姉妹の子なのか。それじゃあ、親子みたいに見えてもおかしくないよな」
「どこに納得してるんだ、お前は」
思わず呆れた声を出すと、光司は肩を竦める。
「つまり、しばらく彼女ちゃんの家にいるのか。で、お前は子守り要員ってわけか」
頷くと、何だかなぁ、と光司が宙を仰ぐ。
「何だ?」
「いや、俺らは彼女ちゃんのことすっかりお前の嫁扱いしてただろ?同じように向こうはお前のこと娘婿扱いだなぁ、と思って」
ハルさんと信夫さんは物凄く好意的に迎えてくれるが、茜さんについては疑問だ。
「茜さんは解らんぞ。今回のこれも何かのテストかもしれん」
「可愛い妹の旦那を見極めてやろうなんて、今どき情の濃いヒトじゃないか。試練だったとしても、陰険さがなくていいじゃないか」
確かに、先程の話に出てきた姑よりはずっと健全だと思う。かといって緊張感が減るわけではないが。
師匠や子どもたちに手を振って、また三人でぶらぶら歩く。
「夏目先輩、驚かせちゃって申し訳ないことしましたかね?」
そう聞く結香に、大丈夫だろう、と首を横に振った。
「アイツが勝手に驚いただけだ。気にすることはない」
「あ、いえ。美紅ちゃんのことです。他所の家の問題なんて、いきなり聞かされたら戸惑うんじゃないかなって」
それについても首を横に振る。
「アイツの母親は弁護士だからな。アイツは適当そうに見えるけど、家庭内トラブルや訴訟案件は聞き齧ってるし、ベラベラ言いふらすことはないから、安心していい」
言いながらふと見ると、美紅ちゃんが黙ったまま眉を寄せていた。
「どうした、美紅ちゃん。疲れたか?」
聞くと勢いよく首を振って俺を見上げる。
「だいじょぶ。ゆじゅぅおにぃちゃん、どこいくの?」
「この先に公園があるんだ」
時間的に長くは遊べないかもしれないが、行っておくのもいいかもしれない。
美紅ちゃんが自分は元気だと主張するので、そのまま公園へ歩いた。
公園はたくさんの子どもたちで溢れかえっていた。
目を大きく見開いて驚いている美紅ちゃんを促して砂場の方へ行く。比較的美紅ちゃんくらいの年齢の子どもたちがいたからだ。
近付いてきた俺たちを興味深げに見つめる子どもたちと、その周りで談笑していた母親たちにこんにちはと声をかけると、一瞬戸惑ったものの笑顔で母親たちは口々に挨拶を返してきた。
「妹さん?」
一人の母親が首を傾げながら聞いてくる。
先程の光司のように俺の子どもと断定されなかったことに内心少し安堵した。
「いえ、彼女の親戚で預かっているんです」
そう説明すると、そうなの、と頷きながら俺の隣で頭を下げた結香に目を留める。
「あら、牧野さんとこの…結香ちゃん、よね?やだ、子連れだから若い夫婦だと思ったわよ」
顔見知りだったのか、結香も恥ずかしそうに挨拶している。
俺たちが挨拶している間に誘われたのか、美紅ちゃんは子どもたちに交じって砂いじりをしていた。
どうも母親たちは茜さんのブランドをよく利用しているらしい。それなりにお洒落な品を扱いながらも時々、三分で子どもに着せれた服全て千円で売るとか一分で袋に積めた分を五百円で売るとかのイベントをやっていて、それを利用しているらしい。
最近もイベントがあったらしく、口々に母親たちが語るのを結香は笑顔で聞いていた。
結香が会話に参加している間、俺は子どもたちを眺めていた。
最初は遠巻きに俺を横目で観察していた子どもたちも、美紅ちゃんに教えられたのか少しずつ近寄ってきた。
「おにぃちゃん、どうぞ」
「ありがとう。これなんだ?」
手に乗せられた土の塊はハンバーグらしい。いただきますと食べる真似をしてごちそうさまと言うと、女の子は笑顔で戻っていく。それを何回か繰り返していると、移動するのが面倒になったのか、皆俺の周りに座り込んで土を弄りながらお喋りしていた。
「おにぃちゃん、あのおねぇちゃんのこいびと?」
頷くと一斉にきゃあと叫ぶ。女の子はこんなに小さくてももうこういう話題が好きらしい。
「もうちゅーした?」
目をキラキラさせて聞かれる。
ノーコメントだと答えると、それでもきゃあと喜ぶ。萌の友だちはこんなに気安く喋りかけてこなかったのだが、年齢があまりにも離れてるのが良かったのだろうか。
「じゃあ、じゃあ、おねぇちゃんのどこがすき?」
「頑張り屋さんで可愛いところだな」
挙げればキリがないがこのくらいにしておく。
「けっこんしきいつー?あしたー?」
だいぶ色々飛んだ質問だと思うが、まぁいいか。
「二人ともまだ学生だからな。明日は無理だな」
「けっこんしないのー?」
「明日じゃないけどするぞ」
きゃあと騒ぐ声が先程より大きいので振り返る。
いつの間にやら俺と子どもたちのやり取りを聞かれていたらしく、手を組んできゃあきゃあ騒ぐ母親たちの中心で、結香一人が首元まで紅くなって俯いていた。
空はまだ明るいけど時間は夕方になるので、母親たちは駆けずり回っている大きい方の子どもを回収しに行き、俺と結香は美紅ちゃん含め子どもたちを水道まで連れていって手を洗わせることにした。結香のバッグにハンドタオルがあって助かった。
俺が一人ずつ手を洗わせ、結香が濡れた手を拭く。それを繰り返していると、背後で言い争う声が聞こえた。
「―――あやまってよ、おにぃちゃん!」
「煩いな!ホントのことじゃないか!」
結香にここで待つように言って騒ぎの中心に向かう。
小学生くらいの男の子に仁王立ちで怒っている女の子は、砂いじりをしながら頻りに美紅ちゃんに話しかけていた女の子だった。その後ろでは、美紅ちゃんが顔を強張らせ唇を噛み締めて立ち尽くしている。
「どうした?」
俺の問いに、三人も周りでオロオロしていた子どもたちも一斉にビクリと肩を竦めてこちらを見る。静かに聞いたつもりだが、却って怖がらせたようだ。
「~~~っ、おにぃちゃんっ、ごめんなさいっ」
最初に口を開いたのは怒鳴り声を上げていた女の子だった。仁王立ちを解いて勢いよく俺に頭を下げる。
「おにぃちゃんにみくちゃんのことはなしたの。そしたら、おにぃちゃん、みくちゃんのことすてごだって、おやにすてられたんだって」
「それに、すてられるんだからみくちゃんがヘンにきまってるっていったの!」
一緒に砂いじりをしていた子どもたちも走り寄って俺を真剣な目で見上げる。
男の子を見ると、気まずそうに目を反らす。言い返さないということは、言われたことがそれほど誇張されてはいないということか。自分でも悪いと思っているのだろうか。
とりあえず膝をついて興奮してる子どもたちの頭を撫でる。
「解った。教えてくれてありがとう」
子どもたちは次第に笑顔になるが、兄に向かって怒鳴っていた女の子は泣きべそを浮かべた。
「おに、おにぃちゃ、が、ひどいこといっ、て、ごめ、なさ」
途切れ途切れでも意味は解ったので女の子の頭をゆっくり撫でた。
「うん。でも酷いことを言ったのは君じゃないし、謝る相手も俺じゃないよ」
努めて穏やかな声で言うと、女の子は手でごしごしと目を擦って鼻を啜ると、振り返って未だ顔を強張らせたまま立ち尽くしている美紅ちゃんの正面に立った。
「みくちゃん、おにぃちゃんがひどいこといってごめんなさい」
美紅ちゃんは顔をゆっくり上げて女の子の顔をじっと見てから、何も言わずこくんと頷いた。
「おにぃちゃんがひどいこといっちゃったけど、わたし、みくちゃんとなかよしになりたい。また、あそんでくれる?」
美紅ちゃんは困ったように首を傾げた。
「―――うん。また、ここにつれてきてもらえたら、いいよ」
そう言うと、美紅ちゃんは真っ直ぐ俺のところへ来て手を引っ張る。
「おにぃちゃん、かえろう」
頷いて手を引いて歩き始めると、子どもたちが口々に「みくちゃん、またね」と声をかけてくる。美紅ちゃんは声をかけられる度に微かに振り返っては小さく手を振っていた。
結香と合流して帰ろうとすると、後ろから母親の一人が追いかけてきた。
「ごめんなさい、今、子どもたちから話を聞いたの。あの子たちのお母さん、今ここにいないけど必ず今日のこと伝えておくから!」
解りましたと頷くと、心配そうな表情で美紅ちゃんを見てから目線を下げて手を振った。
「美紅ちゃん、またうちの子と遊んでね」
美紅ちゃんはじっとその目を見てから小さな声でもはっきりと「さよなら」と挨拶した。
帰り道、美紅ちゃんはずっと黙っている。
何があったのか大体聞いているのだろう。結香は心配そうな表情で美紅ちゃんを見ている。
重い空気の中歩いていると、小さな声で下から呼ばれた。
「うん?」
「ママにもぅあえない?」
こちらを見ずに美紅ちゃんは噛み締めた唇の間から小さく聞く。
「おばぁしゃまは、どぉしてママのわるくちばかりゆぅの?パパは、どぉしておはなしきいてくれないの?」
声に少しずつ涙声が混じる。
「パパは、ママやみくのこときらいなの?どぉしてこーじおにぃちゃんみたいにわかってくりぇにゃいの?」
人差指を握る力が強くなる。
「みくが、おべんきょぉしなかったからいけないの?ママにも、もぅあえないの?」
「ママは必ず迎えに来る」
少し強く言うと、美紅ちゃんの言葉と足が止まった。正面に回り込んでしゃがむ。
「俺は美紅ちゃんのお祖母さんとパパを知らないから、お祖母さんがどうしてママの悪口を言ったのか、パパがどういうつもりなのかは解らない。でも、ママは美紅ちゃんを必ず迎えに来る」
顔を上げないまま美紅ちゃんは声を絞り出す。
「ゆじゅぅおにぃちゃんは、ママのおともだち?」
「会ったことはない。でも、ママは必ず来る」
「どぉして?」
知り合いでないなら俺には解らないだろう―――美紅ちゃんの言いたいことは解るので、俺はゆっくり息を吐いた。
「ママを直接知らないけど、茜さんが認めて応援してる人だから、美紅ちゃんを迎えに来ると思うんだ」
叔父や嫁ぎ先の人々に対して憤りを顕にしていた茜さんだが、美紅ちゃんの母親である従姉妹本人に対して怒っている節はなかった。
何か思うことが全くないというわけではないかもしれない。でも、人として母親として間違ったことはしないと茜さんは践んでいるのではないだろうか。
茜さんは曲がったことが嫌いな人だ。その茜さんが何も言わないなら、美紅ちゃんの母親はきちんとした人なのだと思う。
「おじーさんも、ママをおこってたの。ほんとに、ママ、みくのとこくる?」
大丈夫だと言うと、美紅ちゃんは堰が切れたように泣き出した。通り過ぎる人々がこちらを見るが、構わず泣き止むまで美紅ちゃんの頭を撫でた。
大根を刻みながら、ふぅん、と茜さんは呟いた。
泣き疲れてそのまま眠ってしまった美紅ちゃんを抱えて牧野家へ戻ると、既にハルさんも帰宅していて、結香と二人で美紅ちゃんの相手をしている。
呼び出したお詫びというわけではないが是非一緒に夕食を、と勧められた俺は夕食作りの手伝いをしながら公園での出来事を茜さんに話した。
「まぁ大なり小なり何かしら言われることは想定内だけどね」
言いながら使う包丁の音が怖い。鯵の干物をひっくり返しながら俺はこっそり息を吐いた。
「あの場には母親がいなかったそうで、他のお母さんが必ず伝えると言ってくれたんですけど」
どんな人、と聞かれ大まかな説明をすると、あの人かな、と頷いた。
「あの人はしっかりした人だから、伝えると言ったならやってくれるでしょ。まぁ、なぁなぁにしたところで明日はあたしが公園へ付き添うから大丈夫よ。任せて」
「………妹の方は兄に代わって美紅ちゃんに謝ってましたし、友だちになりたいと言ってたんですけど」
やる気に満ちた目の色に思わず言うと、解ってるわよ?と笑顔を向けられる。
「お兄ちゃんの代りに謝る女の子にあたしが何かするワケないじゃない。でしょ?」
その満面の笑みに、はぁ、としか答えられなかった。
「ところで茜さん」
なに?と振り返った表情がいつもの顔で内心安堵のため息をついた。
「大根、味噌汁の実にするには多くないですか?」
「…………………………」
改めて自分の手元を見た茜さんは表情を失って沈黙する。
「適当に和えてサラダにでもしますか?」
「………………そぉね」
やたら素直に頷いた茜さんはボウルを取り出した。
美紅ちゃんと一緒に風呂を済ませたらしく、結香はTシャツとショートパンツというラフな服装に着替えていた。
台所から出てきた俺を見上げて、何か言いたそうにしながらも目を臥せる。
どうした?と聞くと、そろりと目を上げて口を開いた。
「先輩、お姉ちゃんと夕食作ってくれたんですか?」
「何もしないで待ってるのもどうかと思ってな。手伝いだけで作ったのは茜さんだぞ」
そうですか、と微笑む表情がいつもの柔らかい笑みではないのでもう少し聞いてみようとしたところで席につくよう促される。
全員で手を合わせて食事を始める。
厳しく躾られたのか、美紅ちゃんは箸の使い方が上手だった。ハルさんに見守られながらも干物と格闘している。
「美紅ちゃんがいるんだもの。しばらくは魚料理出した方がいいんじゃないかしら」
「切り身を買えばいいのに、毎回丸々一匹買って捌くのに失敗するんじゃない」
ため息をつく茜さんに、だってその方が安いんだもの、とハルさんは頬を膨らませる。
俺の母親も一度に大量に魚を買うが、発想はハルさんと同じなのかもしれない。
「でも、美紅ちゃんいるのよ?魚料理出してあげなきゃいけないじゃない」
駄々っ子のように言うハルさんに柳眉をひそめた茜さんはチラリと俺を見る。
「夕弦くん、お母さんにお願いできないかしら?もちろん材料費は払うから」
「大丈夫だと思いますよ」
あっさり頷く。大量に魚を買っては慌てて近所や師匠にお裾分けしに行く母だ。事情を話せばスキップで買い出しに行くに違いない。
ありがとう、と頭を下げる茜さんに、そういえば、と切り出す。
「家に萌の小さい頃の服が残ってると思うんですけど、持ってきてもいいですか?」
茜さんがファッションブランドのオーナーをしている以上、余計なことかもしれないと思ったので一応聞いてみると、あっさりお礼を言われた。
「助かるわ。荷物にあった服ね、余所行き用のものばかりなのよ。姑の方針だったのかもしれないけどね。じゃあ」
「だめなのよ!」
茜さんの言葉を遮って美紅ちゃんが大きな声をあげた。
「美紅ちゃん?美紅ちゃんの服を捨てるわけじゃないわよ?遊びやすい服を持ってきてもらうだけなのよ?」
茜さんが慌てて美紅ちゃんを覗き込んでも、「だめなのよ」と美紅ちゃんは首を振り続ける。
「何が駄目なんだ?」
聞くとピタリと止まって、キッと顔を上げる。
「ゆじゅぅおにぃちゃんはゆぃかおねぇちゃんのかれしでしょ。あかねおねぇちゃんとばかりおはなししちゃだめなのよ!パパとおんなじになっちゃうのよ!」
美紅ちゃんに言われて隣の結香を見る。
茶碗と箸を持ったまま俯いているのは、いつものように少ない量で満腹になったわけじゃないことは一目で解った。
結香に声をかけようとしたが、先に茜さんが慌てて口を開く。
「ちっ、違うのよっ?夕弦くんは一応ちゃんと結香を大切にしてるし、あたしは年は上だけど、美紅ちゃんのお祖母ちゃんよりは若いし!夕弦くんは未来の義理の弟になるかもだし、パパとお祖母ちゃんの関係じゃなくて………っ、そう!舎弟みたいなモノなのよ!」
最後には握り拳を作って自信満々に言い切った茜さんを、それぞれが物言いたげに見つめる。
「茜………何だかんだとお世話になってるからエラソーなこと言えないけど、舎弟扱いは酷いと思うわ。あ、あと、舎弟って言葉も良くないと思うわ」
「えっ?―――あっ!?違うわ、舎弟じゃなくて、みたいな、だから!みたいな!」
「舎弟を連発してる時点で、化けの皮剥がれると思うのよね」
慌てる茜さんを前に、ハルさんは頬に手を当てて深いため息をついた。
「あかねおねぇちゃん、しゃてーってなに?」
「へっ?えぇとね、弟じゃないんだけど弟みたいな人というか………あ、でも、あまり良くない言葉だからね。お友だちに使っちゃダメ!というか、言っちゃダメ!」
「よくないことばいっちゃ、だめでしょ」
「す、すみません………」
深く意味が解ってないなりに叱る美紅ちゃんの前に、茜さんは項垂れる。
「お姉ちゃん、先輩が優しいからっていいように使っちゃダメ」
「そっ、そんなパシリみたいなことさせてないわよっ?」
「でも、今日もいきなり呼び出したし、この間もメニューの開発に付き合わせたでしょ?」
「ご、ごめんなさい………」
静かに諭す結香の前に、茜さんは撃沈した。
「まったく、気を抜くとすぐ昔の口調に戻るんだから。夕弦くんに誤解されたら、結香にとんでもなく怒られるわよ?」
「茜さんの高校時代のことなら、父から聞きましたよ?」
知っていることを言っておいた方がいいかと思い、一応言う。
三人がピタリと止まる中、しばらく俺と美紅ちゃんの食事する音が響いた。
ピンポーンっ………
「あの、チャイム鳴りましたけど」
声をかけるが三人とも固まったままなので、勝手に俺が出ることにした。
時間的に信夫さんが帰宅したのかと思ったが、玄関の向こうに居たのは知らないスーツ姿の男だった。
相手も出てきたのが知らない男で驚いたのだろう。しばらく無言で見つめ合う。
先に「あの」と切り出したのは相手の男だった。
「あの、こちらは牧野さんのお宅ですよね」
はい、と頷くと男はまた、あの、と口を開く。
「あの、こちらに預かっている親戚の女の子がいますよね?」
明らかにこちらの内情を知っている言い方に不審を感じ、眉を寄せる。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
俺の声に男は慌てたように狼狽える。
「いや、俺は怪しい者じゃなくて。最近は来てないけどこの家の人と知り合いで―――」
「夕弦くんっ!違うの!話を聞いてっ?」
男の言葉を遮るように荒い足音が聞こえて来たかと思ったら、茜さんが俺の袖を掴んだ。そのまま玄関で狼狽えている男を見た途端、その表情が壮絶に恐ろしい冷笑に変わる。
「―――あぁら。こぉんな時間にこぉんな所でどうなさいましたの?」
今まで聞いたことがない言葉遣いに戦いていると、掴まれた袖を男がひきつった笑みで凝視する。
「ひ、久しぶり、茜。実は」
「あぁら、ごめんなさい?わたくし、貴方なんて存じませんの。今取り込んでおりますので、お帰り下さいな?」
思わず軽く目を擦って周りを見る。
見渡す限り、いつもの牧野家で安心した。バロック建築とかになってなくて良かった………
「茜、その男は―――」
「あぁら、存じ上げない方にわざわざ紹介なんて必要ありませんでしょ?わたくし、この方と大事なお話がありますの。お帰り下さる?」
冷笑が濃くなるにつれ、手の力が弱まったのでそっと腕を引き抜く。こめかみにしっかり浮かんだ青筋に戦きながら一歩ずつ後退していると、居間から結香が出てきた。
俺を見て少し表情を弛めるが、茜さんと対峙する男を見て目を丸くした。
「あの人………」
「知ってるのか?」
小さく頷くと、背伸びして俺の耳に囁いた。
「あの人、お姉ちゃんの元カレです」
茜さんとしては追い返すつもりだったのだろうが、結局居間から出てきたハルさんが気安く上げてしまった。
茜さんは珍しくかなり不機嫌だったが、それで良かったのかもしれない。というのも、元カレは単に茜さんに会いに来たというわけではなく、公園での騒ぎについて謝罪しに来たというのだ。
「―――つまり、そのクソガキがあなたの甥ってわけ。ふぅん、そーぉ………あなたたちって血にヒトをバカにしたくて堪らない成分でも入ってるんじゃない?」
「茜が怒る理由は解るんだ。でも、甥もその女の子を傷付けたくて言ったわけじゃないんだ。俺からも言い聞かせるから、許してくれないか」
「初対面の年下の女の子にお前は変だから棄てられるんだ、なんて悪意じゃなくて何なのよ。それに、あなたが言ったからって何の効果があるっての?」
襖の向こうから聞こえるやり取りに俺は静かにため息をついた。
寧ろ歓迎する勢いで元カレを家に上げたハルさんはさっさと美紅ちゃんを寝かしつけに二階へ上がってしまった。当然元カレの相手は嫌々ながらも茜さんがすることになる。二階へ上がる前にハルさんは俺に耳打ちをしてきた。
「大丈夫だとは思うんだけど。一応様子見ててくれない?手が出るまでは傍観でいいから」
斯くして俺は彼女の家の廊下でじっと聞き耳をたてることになった。隣には結香も正座している。
「先輩、ウチのことにばかりつき合わせてごめんなさい」
結香が静かに頭を下げるのに、首を横に振る。
「あのまま帰るわけにはいかなかったから、丁度いい」
結香は軽く首を傾げ、襖を見ると微かに微笑んだ。
「あの人、しばらく会ってなかったけど、乱暴な人じゃありませんから、心配しなくてもお姉ちゃん大丈夫ですよ」
何かを物凄く勘違いしている。
恐らくハルさんが危惧したのは、茜さんが元カレに手を上げないかということだ。今の口調からすると実際に暴力を振るう気配はないが、態度が和らぐことは絶対になさそうだ。
それに、俺が気にしたのは。
「俺が残ったのは、結香に謝ろうと思ったからだ」
そう言うと、え?と目を瞬いてこちらを見上げる。思うより近くに俺の顔があったことに驚いて、少し姿勢を崩した。
「美紅ちゃんが言ってたように、俺が茜さんとばかり話してたのが嫌だったんだろ?」
少し困ったように視線を彷徨わせていたが、やがて小さく頷いた。
「ヤキモチだって解ってるんですけど。お姉ちゃんと先輩が仲良くしてるとモヤモヤするんです」
「仲良く………してるわけじゃないぞ」
思わず否定した。茜さんといて気安い雰囲気など感じないのだから。
信じがたいのか結香は首を傾げた。
「え?会話弾んでましたよね?」
「テンポ良く話さないと茜さんが怒るからな」
「仲良く料理してましたよね?」
「手伝わなかったら後で怒られるかと思ってな」
混乱したのか両頬を手で覆って黙り込む結香の頭を撫でる。
「俺が茜さんと話すのは結香の為だ。話といっても報告の方が多いから話すのも気を遣うし、楽しんでいるわけじゃない。話題も結香のことだからな」
今日は美紅ちゃんのことだったが。
手の甲をなぞると頬から弛く離れたので握り込む。自然と向かい合って座る形になったので、額をそっと結香のそれに当てた。
「嫌な思いさせてごめん」
顔を紅く染めた結香は小さく首を横に振った。
肩に凭れかかってきたので、膝の上に乗せて軽く抱き締める。風呂を使った香りがまだ残っていた。
「美紅ちゃんのこと、お姉ちゃんとさっさと決めちゃうから、ヤキモチ妬きました」
ぽつりと言われ、ごめんと言いながら髪を撫でる。
「私も、先輩と料理したいです」
二人で台所に立つ姿を思い浮かべ、その幸せな想像に結香の小さな身体を抱き締めてその頭に顔を埋めた。
「そうか。じゃあ今度は二人で何か作ろう」
声を出すと腕の中で結香がピクリと動く。腕の力を強めて、あぁでも、と続けた。
「結香の手料理も食べたいな」
腕の中で結香が身動ぎする。俺の力には敵わないのでもぞもぞと動くだけだが。
「わ、私、は、お母さんほど料理上手じゃないです」
膝の上に乗せられていることが恥ずかしいのだろうか。声に若干の焦りが混じる。
腕の力を弱めないまま、いいよ、と言った。
「結香に作ってほしい」
うぅぅと唸る耳が紅くて、ひっそりと笑った。
しばらく身動ぎしていた結香が、あ!そうだ!と声をあげた。
「あのっ。先輩、どうしてお姉ちゃんのこと知ってるんですか?」
親父から聞いたと申告したことを忘れたのか、無理矢理な話題転換だが、一応答える。
「親父が先輩の警察官に聞いたらしい。それで俺に確認してきたんだ」
親父は高校時代の茜さんを直接は知らなかったが、七夕の時茜さんを見て名前を知り、以前聞いた話の女子高生ではないかと推測した。
「―――あの、お父さん、気にしてましたか?お姉ちゃんのこと」
結香が少し身体を強張らせる。
ふわふわした髪や背中を撫でながら首を横に振った。
「全く気にしてないぞ。伝説の女子高生と未だ噂される人と日常的に会えるなんて凄いな、と感心された」
茜さんに認められない限り嫁取り出来なそうだから、お前も苦労しそうだな。
そう笑われたことは黙っておこう。
「先輩は?」
「うん?」
驚きましたか?と小さく聞かれ、いいや、と首を横に振る。
「茜さん、初対面の時から色々他の女の人とは違ったしな。親父から聞いて納得した」
そうなんだ、と小さく息をついて身体を弛めた結香は、またもぞもぞと動き出した。
「あの、あのっ。ところでそろそろ降ろしてください」
腕の力を弱めずに、もう少しこのままで、と言うと動きが強まる。
「私っ、重いですからっ」
「軽すぎる。ちゃんと食べろ。さっきもあまり食べてなかったろ」
今度は悔しそうに唸る結香を撫でていると、背後で襖が開く音がした。
「いつの間にか仲直りしてくれて助かったわ」
呆れたような、それでも安堵したような表情で見下ろす茜さんに、お蔭様で、と答える。
「仲直りはいいんだけど、こんな廊下でしなくてもよくない?」
「ハルさんに二人の様子をみるように言われたので。話は終わりましたか?」
聞くと、一変して額に青筋が浮かぶ。
「終わるも何も。この人その男の子の母親の代理人でもなく勝手に来ただけだし。そんなもんと話なんてないっつの!―――というわけで、お帰り下さい?」
最後の一言を投げ掛けられた男は慌てたように膝立ちになった。
「確かに甥のことを理由に来たが、俺は」
「お・か・え・り・く・だ・さ・い?」
恐ろしいほど綺麗な笑顔で遮ると、何やら言いたげにしている男を追い立てて玄関の扉を閉めた。
「いい、二人とも?アレに話しかけられても答えちゃ駄目よ。無視しなさい。いいわね?」
コクコクと頷く俺たちを確認して、茜さんは満足そうに微笑んだ。
「一応聞いておきたいんだけど、あたしのこと知っても夕弦くんも進藤さんご夫妻も問題なしってことで、いいのかしら?」
そう聞く目が真剣にこちらを見定めていた。
頷いてみせると、その緊張が少し弛む。
「そう。じゃあ―――これからも結香のこと、お願いね?」
あと、しばらくの間は美紅ちゃんも、と言う茜さんに、はい、と頷いた。
「そういえばさっき言ってた服なんだけど」
「私っ!私がっ、取りに行くっ」
俺の腕の中から勢いよく手を挙げた結香を見て、茜さんは笑って、よろしくね、と言って居間へ戻って行った。
だいぶ長居してしまったので、俺も帰ると伝えると結香が玄関まで見送りについてきた。
「先輩。いつ頃お家へ伺えばいいですか?」
夕食の時とは全く違う笑顔に安心して、頭を軽く撫でる。
「そうだな。明後日来れるか?俺も予定ないから」
解りました、と結香は頷いた。
「美紅ちゃんも連れて行っていいですか?」
「そうだな。好みもあるだろうし」
いつも俺が迎えに来ることを申し訳ないと感じていたのか、結香は迎えを断ろうとしたが、俺は首を横に振る。美紅ちゃんを連れてここから俺の家まで歩くのは結構大変だと思ったからだ。
「んむー………私一人のときならいいですか?」
その質問にも首を横に振る俺に、結香は少し頬を膨らませる。
その顎を抑えて唇を合わせる。軽く舌で唇をなぞると、小さく結香が息を漏らして震えた。
「色々心配だから、駄目だ」
蕩けた目で俺を見上げる結香の頬を軽く摘まんで、おやすみ、と言って牧野家を後にした。
◆ その後の結香 ◆
部屋に戻って、ベッドに横になった途端恥ずかしさがこみ上げてきてベッドの上をゴロゴロ転がる。
うにゃぁぁぁぁっっっ!
また玄関でキスされたぁぁぁ………しかもっ!なんか唇舐められた気がするっ。
気のせい………じゃないよ!絶対舐められたよ!
なんで!??唇美味しいの???
先輩はダイエットなんか必要ない、寧ろ食べろって言うけど。
実はお肉ついてるんじゃないの?ほら、こことか………あと、こことか?
一生懸命身体を捻っていてノックの音に気づかなかった。
「結香、ちょっといい………それ、何かの体操?」
「へ?……う、うん……そんなとこ……?」
苦笑いしながら腰回りの肉を放して座り直すと、お姉ちゃんも隣に腰かけた。
「結香、今日はごめんね。あたし、美紅ちゃんのことでテンパってて夕弦くんを頼りにしてしまった。美紅ちゃんの言う通り、夕弦くんは結香の彼氏なのにね」
大丈夫と首を振るけど、お姉ちゃんはまだ顔を曇らせたままだ。
「夕弦くんは解ってると思うけど、夕弦くん何かとスペック高いでしょ?だからつい、スタッフと同じように話しちゃうのよね」
「先輩も、そう言ってた」
小さく呟くと、でしょう?と微かに微笑んだ。
「寧ろ頭の回転が早い分、スタッフというより取引相手とやり取りしてるカンジに近いのよね。油断してるとこちらの足下見られそうで。夕弦くんがどこまで対応できるか、つい試したくなっちゃうのよ」
「でも、お姉ちゃんの要求全部につきあわせちゃダメだよ」
小さく言うと、解ってる、ごめんね、ともう一度謝られた。
「それに。何か訓練されたわけじゃないと思うけど、夕弦くん目つきが刑事の目なんだもの。見透かされそうであたしもヒヤヒヤしてるのよ?話してるときはいつも」
まぁ、とっくにバレてたけどさ、とお姉ちゃんはそのまま後ろ向きに寝転がる。
名前を呼ばれたので、なに?と聞くと、天井を見つめたまま言った。
「もしも、あたしのことでどうこう言う人がいたら、結香の好きにしていいんだからね?」
言っていることが解らなくて黙っていると、続けて言う。
「夕弦くんや夕弦くんのご両親が気にしなくても。その周囲にはあたしを気に入らない人間がいるかもしれない。そして、あたしをネタに結香にケチをつける人間はどこにでもいる。そういうとき、あたしに遠慮なんか要らないからね」
「怒るよ」
静かに言うと、お姉ちゃんはゆっくりこちらを見た。
「先輩だってきっと怒るよ。そんな―――自分勝手なこと言ったら」
そうね、とお姉ちゃんは微笑んだ。
「ねぇ、久しぶりに夜更かししてお喋りしない?」
頷いてお互いに好きなところに座ったり寝たりする。
「結香は、今年の夏で変わったね」
そうかな、と首を傾げると、お姉ちゃんは笑って頷いた。
「夕弦くんにたくさん大切にされてるんだなぁって解るよ。学校で友だちにビックリされるかもね?」
それは大袈裟だと思うけど、知佳ちゃんにはからかわれると思う。春休み明けに毎日のように言われたから。
先輩と会えない日は必ず先輩のことを考えてしまう。今何してるのかな、とか。あの服先輩に似合いそうだな、とか。
それで勉強を疎かにしてるつもりはないけど、こんな私は重くないのかな。
考えていると、再来年先輩のキャンパスが変わることを思い出した。
どうしたの、と聞かれたから、顔に出てしまったのだと思う。
隠そうとしてもお姉ちゃんには隠せないことは解ってるので、キャンパスが変わることを話した。
「私、新学期が始まると先輩に会える回数が減ってダメダメになるでしょう?先輩が東京に引っ越ししちゃったら、寂しすぎてとことんダメになって、先輩に呆れられちゃったらどうしよう」
しっかりしなさい。
すぐにそう言われると思ったけど、お姉ちゃんはしばらく考えこんでいた。
しばらくして、結香、と呼ばれた。
「結香は、夕弦くんと一緒にいたい?」
小さく頷くと、解ったとお姉ちゃんは頷いた。
「お姉ちゃん?」
「結香、夕弦くんはあたしも認めてもいいかなって思える男の子よ。結香は、夕弦くんを信じてあげなさいね」
お姉ちゃんの優しく強く綺麗な目に見蕩れる。
悩み事を相談したとき、お姉ちゃんはきちんと答えてくれる。そのとき、必ずこの目をした。
最近は相談することもなくて、この目で見つめられることもなかった。
「お姉ちゃん?」
「うんと好きになった人だもの。信じてあげなさい。再来年のことなんてどうとでもなるから」
「お、お姉ちゃん?先輩に変なこと言わないでね?あっ、さっきのことも言わないで」
慌ててお願いすると、お姉ちゃんは悪戯っ子のように笑った。
「えぇ~、どぉしよっかなぁぁ~」
お願い、お願いと繰り返していると、じゃあ交換条件ね、と魅惑的に微笑んだ。
「最近、デートに行っても詳しく教えてくれないわよね?結香がお話してくれたらあたしも夕弦くんには結香の可愛い悩み、黙ってるわよ?」
えぇっ、と絶句する。
あのファーストキス以来、デートのときは必ず、ちょっと会うだけでも先輩はキスしてくるようになった。
嬉しいんだけど。たぶん私がパニクらないように軽く触れるくらいだけど………
キスのところを隠してお姉ちゃんに話せる自信が全っ然ないよ………!
どうしよう、最近いつの間にかキスされてるなんて言ったら、私ますますボンヤリした子と思われる!!???
「今日のことは夕弦くんから大体聞いたからぁ………とりあえず、あたしが結香を全身コーディネートした日のことをお話してもらおうかなっ」
「えぇぇぇぇっっっ」
笑顔で迫るお姉ちゃんに抗えるはずがなく。
次の日先輩に電話で謝ることになりました。
冗談にしか聞こえないSOSに、は?と短く聞き返した。
電話をかけてきたのは茜さん。
この人が助けを求めるなんて珍しい。というよりも有り得ない。
無駄にヒトをからかうタイプではないことは解っているが、冗談ではないかと疑いたくなる。
声は切羽詰まっているが、ヒトを思い通りに動かす為なら芝居の一つや二つ、平気でこなすタイプだとも思う。
まぁ結局呼び出しには応じないといけないんだろうが。
俺の沈黙を何と捉えたか、茜さんは滑らかに話し出した。
『そりゃあね、夕弦くんがわざわざあたしを助ける義理はないし、結香に要らぬ誤解させたくないからスルーするってのは真っ当な選択よ。あたしがあなたでもそうするわっ』
「はぁ」
『可愛い彼女に会いに行く度にちょこまかチェックする小姑。それが断りもなしに自分をいいように利用するときた日にゃあ、助けてやるもんか、ざまぁみろって塩を投げつけたくなるってもんよね?』
「いや、そんなことはしませんが」
否定するが、茜さんには聞こえていないらしい。
『確かに無関係の夕弦くんに頼るのはどーなの?って自分でも思うわよ。でもね、元々はあたしも無関係っちゃ無関係だし、でもコレなんとかしないと優しい結香だって気にするし、何とか手を貸してほしいのよ』
「それで、俺はどこに行けばいいですか?」
やや強引に聞く。いつもなら茜さん相手にこんなことは出来ないが。
茜さんも気にすることなく、家に来て、と言う。
すぐに行くと伝え、電話を切ると着替えて階下に降りる。
「あら。帰ってきたばかりなのに、出かけるの?」
「うん。茜さんから呼び出しあったから行ってくる」
玄関で靴を履いていると、陽が見送りに出てきた。
「兄ちゃん、頑張れ」
そんなことを言うのは、陽も茜さんにやたら構われているからだろう。
頷いて手を振ると、足早に牧野家へ歩いた。
チャイムを押すと、だいぶ窶れた茜さんが出てきた。
「夕弦くん、ありがと~っ。上がって上がって」
拝む姿がとてつもなく必死だ。これは本当に困っているのかもしれない。
押され気味に居間に入ると、床に座り込んでいた結香が振り返って目を見開いて俺を見上げた。
「せんぱいっ?」
挨拶代わりに手を上げると、驚きを残して嬉しいような困ったような表情を浮かべる。
「だぁれ?」
「うん?」
結香の向こうから小さなお下げ髪がピョコンと覗いた。
誰なのか説明を求めて隣を見るも、茜さんは台所にでも行ったのかいつの間にかいなかった。
「先輩、どうしたんですか?」
結香に声をかけられたのでその隣に座り込む。
ちらりと見ると結香と向かい合わせに座っていた女の子は俺を興味津々で見上げている。
とりあえず怖がられてはいないので安心して口を開く。
「茜さんに呼ばれたんだ」
「それは………ごめんなさい」
首を横に振って軽く頭を撫でると、申し訳なさそうに俯いていた結香が微かに微笑んだ。
「ねぇねぇ、おにいちゃんだぁれ?ゆぃかおねぇちゃんのかれし?」
あどけない質問に結香がピクリと肩を揺らして少し身体を離す。
「ぅ、ぅん、そう………私のか、彼氏、の進藤ゆ、夕弦、さん、だよ」
子ども相手でも恥ずかしいものは恥ずかしいらしく、真っ赤になってつっかえつっかえ漸く言った。
「すごぉーいっ。ねぇねぇ、としはいくつ?ゆぃかおねぇちゃんとはいつからつきあってるの?」
「年は十八で結香とは二歳差だ。春になるちょっと前から付き合ってるから、もうすぐ半年になるかな」
真っ赤になった結香に構わず、女の子は矢継ぎ早に俺に質問を浴びせる。
職業は、大学はどこか、趣味は―――
萌とのやり取りで、こういう時適当に返事をすると後で困るので一応細かく答える。
途中女の子がおそらく知らない言葉や表現が入ることはあったが、女の子は自分なりに理解したのか聞き返すことなく頷きながらも俺の観察を続けた。
「ふぅん、せもたかくってかおもいけめんさんで、あたまもいーんだ………でもね、だいがくでてもしごとができるとはかぎりゃにゃいでしょ?どぉなの、そこ?」
片手を頬に当てて言う様は母親の真似かもしれないが、真っ直ぐ俺を見る目が本気で聞いていることを示している。
さて、何と答えるか―――と軽く咳払いしたところで、呆れ返った声で茜さんが割って入った。
「はい、そこまでにして。あんまりしつこく聞くと、結香に怒られるわよ」
見ると、結香が軽く手を握り締めて複雑そうな表情をしていた。
信夫さん(結香の親父さん)が初めて会った俺に色々聞いてきた時、体調が良くないのに結香は信夫さんを諫めていた。あの時のように言いたいのかもしれないが、相手が小さな女の子なので何と言えばいいのか悩んだのかもしれない。
頭を撫でると瞬きを一つして俺を見上げるが、すぐに申し訳なさそうに目を伏せた。
「先輩、ごめんなさい」
気にするなと頭を撫でていると、次第に結香の表情が柔らかくなった。
「はーいはい、お茶にするから来なさい」
茜さんの声に一気に赤面した結香を椅子に座らせて自分もその隣に座った。
「美紅ちゃん、初めて会った人に挨拶も自己紹介もしないで相手のことを根掘り葉掘り聞くのはどうかと思うわ」
ニーッコリと笑いながらも言った茜さんを少し怯えた様子で見てから、女の子は小さく頭を下げた。
「さと………じゃなくて、まきの、みく、です。ごめん、なさい」
「進藤夕弦です。初めまして」
ごめんなさいを言ったことで安心したのか、美紅ちゃんは大きく息をついてから出されたオレンジジュースを一気に飲んだ。
「従姉妹の娘なんだけどね。ちょっと最近ゴタゴタあってついあんな態度とったと思うんだけど。いきなり呼び出した上に、申し訳なかったわ」
頭を下げる茜さんに、構わない、と首を横に振ってその隣に座る美紅ちゃんを見る。
「俺を呼んだのは、この子の為ですか?」
そうなの、と茜さんは頷いて説明しだした。
美紅ちゃんの母親である結香の従姉妹は最近離婚した―――というより、婚家を追い出されたらしい。
嫁ぎ先は父親の知り合いの大層なお家柄だったらしく、元々姑の嫁いびりが酷かったらしい。さらに産まれた孫が男じゃなかったという理由で、嫁の生まれが悪いからだの役立たずだの、姑の言動はさらに激しくなった。夫や息子の前ではあくまで嫁への教育という体を通したので、虐められているという嫁の訴えが通る筈もなく、体調を崩しがちになった嫁をさらに姑は責めた。
さらに、嫁が使い物にならない以上孫娘は自分が教育すると言われ、耐えられなくなった嫁は娘の美紅ちゃんを抱えて逃げ出したのだった。
ただ語るのも不愉快なのか、終始眉間に青筋を浮かべながら茜さんは鼻息荒く言う。
「―――まったく、嫁ぎ先も嫁ぎ先だと思うけど。そぉゆー家に娘送り込む父親もどーなの?しかも、逃げ出した娘を自分のために怒鳴りつけて婚家に戻そうなんて、ヒトを何だと思ってんのよ!っていうやり取りをしたのが、この間のことだったわけ」
あの台風の日、親族で話さないといけないことがあると言っていたのはこのことだったらしい。
従姉妹同士の仲は至って良好だが、元々結香たち一家はこの叔父さんとやらを敬遠しているらしい。信夫さんの二回の結婚についても何かと煩く言ってきたのが主な理由らしい。
後妻とその娘は大人しくしてろ。牧野の姓を名乗れるだけ有り難いと思え。
そんな傲慢な言い分に真っ先に噛み付くのが茜さんだった。
茜さんの母親についても何かと言ってきたらしいが、その度に茜さんが手段を問わずやり負かしたので、最近はそこには触れなくなってきたらしい。
「しばらく会わない間に少しはマシになったかと思ったけど、ありゃダメだわ。大体、今どき何なの政略結婚って。ダッサ!」
「お、お姉ちゃん………」
結香の小さな制止に茜さんは瞬きを一つした。
「今回は他の親族も意見してくれて、従姉妹が美紅ちゃんの親権を取って離婚できるようにしようってことになったんだけどね。あのクソジジイ、手続きだの何だので忙しい内は親族全体で美紅ちゃんの面倒見ようって言い出して、最初の預け先をウチにしたのよ。まったく、政略結婚なんて時代遅れな上に陰険な発想だわ」
怒りが冷めやらぬのか、ため息混じりに言い捨てた。
ハルさんがパートに出て不在の時にいきなり美紅ちゃんを連れてこられて、結香と二人でワタワタしていたらしい。
「あかねおねぇちゃん、ごめんね」
申し訳なさそうに涙目になった美紅ちゃんの頭を、茜さんは優しい微笑みを浮かべて撫でた。
「美紅ちゃんが謝ることなんてなぁんにもないのよ。あたしが怒ってるのは、あの、ヒトの都合とか気持ちをまるっきり無視してくれやがる貪欲腹黒クソジジイに、なんだから」
言葉の端々に怒りが滲んでいる。
「―――で、小さい子の扱いなんてあたしも結香もお手上げだから、夕弦くんを呼んだってワケ」
事情は解ったが、茜さんならもっと相応しい助っ人のツテがあったんじゃないだろうか?
そう尋ねると、茜さんは軽く首を竦めた。
「ないワケじゃないんだけど、数時間ならともかく数日間付き合える人となると、なかなかね………いくら資格持ってても何人も入れ替り立ち替りで来られちゃ、美紅ちゃんだって疲れるじゃない?」
確かに、と頷いてお茶を飲んで、それで、と聞く。
「それで、具体的に俺は何をすればいいんですか?」
「時間のあるときにここに来て、結香と一緒に美紅ちゃんの相手をしてほしいのよ。年の離れた弟妹の世話をしてた夕弦くんなら、そんなに苦でもないでしょ?」
解ったと頷けば、窺うように俺を見ていた茜さんが安心したように破顔した。
「ありがとう。じゃあ、早速お願いできる?あたし、部屋とか布団とかまだ支度あるから」
「なら、天気もいいし、外に遊びに行くか?」
そう言って美紅ちゃんを見ると、うんっ、と嬉しそうに頷いた。
「今日は美紅ちゃん長いこと移動して疲れてるから、あまり遠くには行かないでね」
立ち上りながら言う茜さんに、この辺りをぶらつくだけだと言って、三人で牧野家を出た。
結香と手を繋いで歩いていた美紅ちゃんが時々俺を見上げるので、何だ?と聞いてみると、おずおずと聞かれた。
「て、つないでいい?」
返事の代わりに手を差し出すと、小さな手で人差指を握ってきた。
満足そうに笑う美紅ちゃんを見て、結香と微笑みを交わしていると、背後からすっとんきょうな声が聞こえてきた。
「なっ!?なななななななぁっ!!?」
「煩いな。近所迷惑だぞ」
振り返って言うと、スーパーの袋を片手に俺に人差指を突き付けて「な」を連発していた光司が、俺に足早に近付く。
「夕弦ぅっ!俺は哀しいぞ!俺ってお前の幼友達だろ、親友だろ?なんでこんな超重要案件黙ってるんだよ!?俺は哀しい!哀しいぞ!」
喚く光司の額に、とりあえず手刀を落とす。
額を押さえて踞る光司を放って隣を見下ろすと、少なくとも美紅ちゃんは怯えていないようなので安心する。
「さ………まきの、みくです。おにぃちゃんは、ゆじゅぅおにぃちゃんのおともだち?」
小首を傾げながら聞く美紅ちゃんをじっと見つめると、光司はその場に膝をついた。
「こんなっ………こんなかぁいい娘を認知してやらないなんて………なんて非道なヤツに成り下がったんだ………夕弦っ………」
「お前は何を勘違いしてるんだ」
大きなため息をつく俺の隣で美紅ちゃんは反対側に首を傾げ、さらにその隣で結香は真っ赤になって俯いた。
光司の勘違いの顛末を聞いた師匠は一頻り笑いに笑ってから、結香に頭を下げた。
「馬鹿な弟子で申し訳ない」
謝られた結香は紅い顔のまま首を横に振った。
「あ、あの、誤解も解けましたし………気にしないでください。アイスもご馳走になっちゃって………」
夏休み中の稽古と宿題を頑張ったご褒美だと子どもたちに振る舞うアイスを買い出しに来た帰りに、仲良く歩く俺たちを見かけたらしい。
そこでどうして美紅ちゃんが俺の隠し子になるんだ。色々おかしいだろう。時期が。
後できちんと話そう。
そう思って光司を見ると、何やら固まった笑顔でカクカクと動く。
「ゆ、夕弦くん?アイスいかがかな?」
「もう食った」
あっさり断ると、ヒクゥッ、と不明な音を喉から漏らした。
「そ、そんなこと仰らずっ。ほらっ、俺の分もぜひっ」
要らない、と首を振るとプルプル震えていた光司が音をたてて土下座した。
「悪かったよぉぉっ。お前らメッチャ仲睦まじいから、子どもとかいても全然おかしく感じなかったんだよぉぉっ」
「何故全然おかしくないなんて思う。明らかにおかしいだろう。年齢と時期が」
ジト目で言うと、光司は結香とアイスを食べていた美紅ちゃんによつん這いで近付く。
「えっと、美紅ちゃん?今何歳かな?」
「にさいよ?」
光司は目を丸くして俺の近くへ戻ってくる。
「え。二歳ってこんなきちんと喋るか?」
「個人差はあるだろうけど、こんなもんじゃないか?」
当時の萌よりは口調が大人びていると思うが、それは周りの大人に影響を受けたものだろう。
「あのね、ママとゆぃかおねぇちゃん、いとこなの。ママがりこ………りこ、すゅから、おまえはここいなしゃいって、おじーさんがいったの」
いつの間にかこちらに来ていた美紅ちゃんが光司の裾を引っ張って話しかけていた。
光司は親しみやすいキャラだし、大人のように話すとはいえ二歳児だ。俺たちがあえて言わなかったことまで話してしまった。
結香が声こそ上げないものの、慌てた様子で小さく身動ぎしている。
光司は美紅ちゃんの言葉を小さく反芻して頷いている。
「そっか、彼女ちゃんの従姉妹の子なのか。それじゃあ、親子みたいに見えてもおかしくないよな」
「どこに納得してるんだ、お前は」
思わず呆れた声を出すと、光司は肩を竦める。
「つまり、しばらく彼女ちゃんの家にいるのか。で、お前は子守り要員ってわけか」
頷くと、何だかなぁ、と光司が宙を仰ぐ。
「何だ?」
「いや、俺らは彼女ちゃんのことすっかりお前の嫁扱いしてただろ?同じように向こうはお前のこと娘婿扱いだなぁ、と思って」
ハルさんと信夫さんは物凄く好意的に迎えてくれるが、茜さんについては疑問だ。
「茜さんは解らんぞ。今回のこれも何かのテストかもしれん」
「可愛い妹の旦那を見極めてやろうなんて、今どき情の濃いヒトじゃないか。試練だったとしても、陰険さがなくていいじゃないか」
確かに、先程の話に出てきた姑よりはずっと健全だと思う。かといって緊張感が減るわけではないが。
師匠や子どもたちに手を振って、また三人でぶらぶら歩く。
「夏目先輩、驚かせちゃって申し訳ないことしましたかね?」
そう聞く結香に、大丈夫だろう、と首を横に振った。
「アイツが勝手に驚いただけだ。気にすることはない」
「あ、いえ。美紅ちゃんのことです。他所の家の問題なんて、いきなり聞かされたら戸惑うんじゃないかなって」
それについても首を横に振る。
「アイツの母親は弁護士だからな。アイツは適当そうに見えるけど、家庭内トラブルや訴訟案件は聞き齧ってるし、ベラベラ言いふらすことはないから、安心していい」
言いながらふと見ると、美紅ちゃんが黙ったまま眉を寄せていた。
「どうした、美紅ちゃん。疲れたか?」
聞くと勢いよく首を振って俺を見上げる。
「だいじょぶ。ゆじゅぅおにぃちゃん、どこいくの?」
「この先に公園があるんだ」
時間的に長くは遊べないかもしれないが、行っておくのもいいかもしれない。
美紅ちゃんが自分は元気だと主張するので、そのまま公園へ歩いた。
公園はたくさんの子どもたちで溢れかえっていた。
目を大きく見開いて驚いている美紅ちゃんを促して砂場の方へ行く。比較的美紅ちゃんくらいの年齢の子どもたちがいたからだ。
近付いてきた俺たちを興味深げに見つめる子どもたちと、その周りで談笑していた母親たちにこんにちはと声をかけると、一瞬戸惑ったものの笑顔で母親たちは口々に挨拶を返してきた。
「妹さん?」
一人の母親が首を傾げながら聞いてくる。
先程の光司のように俺の子どもと断定されなかったことに内心少し安堵した。
「いえ、彼女の親戚で預かっているんです」
そう説明すると、そうなの、と頷きながら俺の隣で頭を下げた結香に目を留める。
「あら、牧野さんとこの…結香ちゃん、よね?やだ、子連れだから若い夫婦だと思ったわよ」
顔見知りだったのか、結香も恥ずかしそうに挨拶している。
俺たちが挨拶している間に誘われたのか、美紅ちゃんは子どもたちに交じって砂いじりをしていた。
どうも母親たちは茜さんのブランドをよく利用しているらしい。それなりにお洒落な品を扱いながらも時々、三分で子どもに着せれた服全て千円で売るとか一分で袋に積めた分を五百円で売るとかのイベントをやっていて、それを利用しているらしい。
最近もイベントがあったらしく、口々に母親たちが語るのを結香は笑顔で聞いていた。
結香が会話に参加している間、俺は子どもたちを眺めていた。
最初は遠巻きに俺を横目で観察していた子どもたちも、美紅ちゃんに教えられたのか少しずつ近寄ってきた。
「おにぃちゃん、どうぞ」
「ありがとう。これなんだ?」
手に乗せられた土の塊はハンバーグらしい。いただきますと食べる真似をしてごちそうさまと言うと、女の子は笑顔で戻っていく。それを何回か繰り返していると、移動するのが面倒になったのか、皆俺の周りに座り込んで土を弄りながらお喋りしていた。
「おにぃちゃん、あのおねぇちゃんのこいびと?」
頷くと一斉にきゃあと叫ぶ。女の子はこんなに小さくてももうこういう話題が好きらしい。
「もうちゅーした?」
目をキラキラさせて聞かれる。
ノーコメントだと答えると、それでもきゃあと喜ぶ。萌の友だちはこんなに気安く喋りかけてこなかったのだが、年齢があまりにも離れてるのが良かったのだろうか。
「じゃあ、じゃあ、おねぇちゃんのどこがすき?」
「頑張り屋さんで可愛いところだな」
挙げればキリがないがこのくらいにしておく。
「けっこんしきいつー?あしたー?」
だいぶ色々飛んだ質問だと思うが、まぁいいか。
「二人ともまだ学生だからな。明日は無理だな」
「けっこんしないのー?」
「明日じゃないけどするぞ」
きゃあと騒ぐ声が先程より大きいので振り返る。
いつの間にやら俺と子どもたちのやり取りを聞かれていたらしく、手を組んできゃあきゃあ騒ぐ母親たちの中心で、結香一人が首元まで紅くなって俯いていた。
空はまだ明るいけど時間は夕方になるので、母親たちは駆けずり回っている大きい方の子どもを回収しに行き、俺と結香は美紅ちゃん含め子どもたちを水道まで連れていって手を洗わせることにした。結香のバッグにハンドタオルがあって助かった。
俺が一人ずつ手を洗わせ、結香が濡れた手を拭く。それを繰り返していると、背後で言い争う声が聞こえた。
「―――あやまってよ、おにぃちゃん!」
「煩いな!ホントのことじゃないか!」
結香にここで待つように言って騒ぎの中心に向かう。
小学生くらいの男の子に仁王立ちで怒っている女の子は、砂いじりをしながら頻りに美紅ちゃんに話しかけていた女の子だった。その後ろでは、美紅ちゃんが顔を強張らせ唇を噛み締めて立ち尽くしている。
「どうした?」
俺の問いに、三人も周りでオロオロしていた子どもたちも一斉にビクリと肩を竦めてこちらを見る。静かに聞いたつもりだが、却って怖がらせたようだ。
「~~~っ、おにぃちゃんっ、ごめんなさいっ」
最初に口を開いたのは怒鳴り声を上げていた女の子だった。仁王立ちを解いて勢いよく俺に頭を下げる。
「おにぃちゃんにみくちゃんのことはなしたの。そしたら、おにぃちゃん、みくちゃんのことすてごだって、おやにすてられたんだって」
「それに、すてられるんだからみくちゃんがヘンにきまってるっていったの!」
一緒に砂いじりをしていた子どもたちも走り寄って俺を真剣な目で見上げる。
男の子を見ると、気まずそうに目を反らす。言い返さないということは、言われたことがそれほど誇張されてはいないということか。自分でも悪いと思っているのだろうか。
とりあえず膝をついて興奮してる子どもたちの頭を撫でる。
「解った。教えてくれてありがとう」
子どもたちは次第に笑顔になるが、兄に向かって怒鳴っていた女の子は泣きべそを浮かべた。
「おに、おにぃちゃ、が、ひどいこといっ、て、ごめ、なさ」
途切れ途切れでも意味は解ったので女の子の頭をゆっくり撫でた。
「うん。でも酷いことを言ったのは君じゃないし、謝る相手も俺じゃないよ」
努めて穏やかな声で言うと、女の子は手でごしごしと目を擦って鼻を啜ると、振り返って未だ顔を強張らせたまま立ち尽くしている美紅ちゃんの正面に立った。
「みくちゃん、おにぃちゃんがひどいこといってごめんなさい」
美紅ちゃんは顔をゆっくり上げて女の子の顔をじっと見てから、何も言わずこくんと頷いた。
「おにぃちゃんがひどいこといっちゃったけど、わたし、みくちゃんとなかよしになりたい。また、あそんでくれる?」
美紅ちゃんは困ったように首を傾げた。
「―――うん。また、ここにつれてきてもらえたら、いいよ」
そう言うと、美紅ちゃんは真っ直ぐ俺のところへ来て手を引っ張る。
「おにぃちゃん、かえろう」
頷いて手を引いて歩き始めると、子どもたちが口々に「みくちゃん、またね」と声をかけてくる。美紅ちゃんは声をかけられる度に微かに振り返っては小さく手を振っていた。
結香と合流して帰ろうとすると、後ろから母親の一人が追いかけてきた。
「ごめんなさい、今、子どもたちから話を聞いたの。あの子たちのお母さん、今ここにいないけど必ず今日のこと伝えておくから!」
解りましたと頷くと、心配そうな表情で美紅ちゃんを見てから目線を下げて手を振った。
「美紅ちゃん、またうちの子と遊んでね」
美紅ちゃんはじっとその目を見てから小さな声でもはっきりと「さよなら」と挨拶した。
帰り道、美紅ちゃんはずっと黙っている。
何があったのか大体聞いているのだろう。結香は心配そうな表情で美紅ちゃんを見ている。
重い空気の中歩いていると、小さな声で下から呼ばれた。
「うん?」
「ママにもぅあえない?」
こちらを見ずに美紅ちゃんは噛み締めた唇の間から小さく聞く。
「おばぁしゃまは、どぉしてママのわるくちばかりゆぅの?パパは、どぉしておはなしきいてくれないの?」
声に少しずつ涙声が混じる。
「パパは、ママやみくのこときらいなの?どぉしてこーじおにぃちゃんみたいにわかってくりぇにゃいの?」
人差指を握る力が強くなる。
「みくが、おべんきょぉしなかったからいけないの?ママにも、もぅあえないの?」
「ママは必ず迎えに来る」
少し強く言うと、美紅ちゃんの言葉と足が止まった。正面に回り込んでしゃがむ。
「俺は美紅ちゃんのお祖母さんとパパを知らないから、お祖母さんがどうしてママの悪口を言ったのか、パパがどういうつもりなのかは解らない。でも、ママは美紅ちゃんを必ず迎えに来る」
顔を上げないまま美紅ちゃんは声を絞り出す。
「ゆじゅぅおにぃちゃんは、ママのおともだち?」
「会ったことはない。でも、ママは必ず来る」
「どぉして?」
知り合いでないなら俺には解らないだろう―――美紅ちゃんの言いたいことは解るので、俺はゆっくり息を吐いた。
「ママを直接知らないけど、茜さんが認めて応援してる人だから、美紅ちゃんを迎えに来ると思うんだ」
叔父や嫁ぎ先の人々に対して憤りを顕にしていた茜さんだが、美紅ちゃんの母親である従姉妹本人に対して怒っている節はなかった。
何か思うことが全くないというわけではないかもしれない。でも、人として母親として間違ったことはしないと茜さんは践んでいるのではないだろうか。
茜さんは曲がったことが嫌いな人だ。その茜さんが何も言わないなら、美紅ちゃんの母親はきちんとした人なのだと思う。
「おじーさんも、ママをおこってたの。ほんとに、ママ、みくのとこくる?」
大丈夫だと言うと、美紅ちゃんは堰が切れたように泣き出した。通り過ぎる人々がこちらを見るが、構わず泣き止むまで美紅ちゃんの頭を撫でた。
大根を刻みながら、ふぅん、と茜さんは呟いた。
泣き疲れてそのまま眠ってしまった美紅ちゃんを抱えて牧野家へ戻ると、既にハルさんも帰宅していて、結香と二人で美紅ちゃんの相手をしている。
呼び出したお詫びというわけではないが是非一緒に夕食を、と勧められた俺は夕食作りの手伝いをしながら公園での出来事を茜さんに話した。
「まぁ大なり小なり何かしら言われることは想定内だけどね」
言いながら使う包丁の音が怖い。鯵の干物をひっくり返しながら俺はこっそり息を吐いた。
「あの場には母親がいなかったそうで、他のお母さんが必ず伝えると言ってくれたんですけど」
どんな人、と聞かれ大まかな説明をすると、あの人かな、と頷いた。
「あの人はしっかりした人だから、伝えると言ったならやってくれるでしょ。まぁ、なぁなぁにしたところで明日はあたしが公園へ付き添うから大丈夫よ。任せて」
「………妹の方は兄に代わって美紅ちゃんに謝ってましたし、友だちになりたいと言ってたんですけど」
やる気に満ちた目の色に思わず言うと、解ってるわよ?と笑顔を向けられる。
「お兄ちゃんの代りに謝る女の子にあたしが何かするワケないじゃない。でしょ?」
その満面の笑みに、はぁ、としか答えられなかった。
「ところで茜さん」
なに?と振り返った表情がいつもの顔で内心安堵のため息をついた。
「大根、味噌汁の実にするには多くないですか?」
「…………………………」
改めて自分の手元を見た茜さんは表情を失って沈黙する。
「適当に和えてサラダにでもしますか?」
「………………そぉね」
やたら素直に頷いた茜さんはボウルを取り出した。
美紅ちゃんと一緒に風呂を済ませたらしく、結香はTシャツとショートパンツというラフな服装に着替えていた。
台所から出てきた俺を見上げて、何か言いたそうにしながらも目を臥せる。
どうした?と聞くと、そろりと目を上げて口を開いた。
「先輩、お姉ちゃんと夕食作ってくれたんですか?」
「何もしないで待ってるのもどうかと思ってな。手伝いだけで作ったのは茜さんだぞ」
そうですか、と微笑む表情がいつもの柔らかい笑みではないのでもう少し聞いてみようとしたところで席につくよう促される。
全員で手を合わせて食事を始める。
厳しく躾られたのか、美紅ちゃんは箸の使い方が上手だった。ハルさんに見守られながらも干物と格闘している。
「美紅ちゃんがいるんだもの。しばらくは魚料理出した方がいいんじゃないかしら」
「切り身を買えばいいのに、毎回丸々一匹買って捌くのに失敗するんじゃない」
ため息をつく茜さんに、だってその方が安いんだもの、とハルさんは頬を膨らませる。
俺の母親も一度に大量に魚を買うが、発想はハルさんと同じなのかもしれない。
「でも、美紅ちゃんいるのよ?魚料理出してあげなきゃいけないじゃない」
駄々っ子のように言うハルさんに柳眉をひそめた茜さんはチラリと俺を見る。
「夕弦くん、お母さんにお願いできないかしら?もちろん材料費は払うから」
「大丈夫だと思いますよ」
あっさり頷く。大量に魚を買っては慌てて近所や師匠にお裾分けしに行く母だ。事情を話せばスキップで買い出しに行くに違いない。
ありがとう、と頭を下げる茜さんに、そういえば、と切り出す。
「家に萌の小さい頃の服が残ってると思うんですけど、持ってきてもいいですか?」
茜さんがファッションブランドのオーナーをしている以上、余計なことかもしれないと思ったので一応聞いてみると、あっさりお礼を言われた。
「助かるわ。荷物にあった服ね、余所行き用のものばかりなのよ。姑の方針だったのかもしれないけどね。じゃあ」
「だめなのよ!」
茜さんの言葉を遮って美紅ちゃんが大きな声をあげた。
「美紅ちゃん?美紅ちゃんの服を捨てるわけじゃないわよ?遊びやすい服を持ってきてもらうだけなのよ?」
茜さんが慌てて美紅ちゃんを覗き込んでも、「だめなのよ」と美紅ちゃんは首を振り続ける。
「何が駄目なんだ?」
聞くとピタリと止まって、キッと顔を上げる。
「ゆじゅぅおにぃちゃんはゆぃかおねぇちゃんのかれしでしょ。あかねおねぇちゃんとばかりおはなししちゃだめなのよ!パパとおんなじになっちゃうのよ!」
美紅ちゃんに言われて隣の結香を見る。
茶碗と箸を持ったまま俯いているのは、いつものように少ない量で満腹になったわけじゃないことは一目で解った。
結香に声をかけようとしたが、先に茜さんが慌てて口を開く。
「ちっ、違うのよっ?夕弦くんは一応ちゃんと結香を大切にしてるし、あたしは年は上だけど、美紅ちゃんのお祖母ちゃんよりは若いし!夕弦くんは未来の義理の弟になるかもだし、パパとお祖母ちゃんの関係じゃなくて………っ、そう!舎弟みたいなモノなのよ!」
最後には握り拳を作って自信満々に言い切った茜さんを、それぞれが物言いたげに見つめる。
「茜………何だかんだとお世話になってるからエラソーなこと言えないけど、舎弟扱いは酷いと思うわ。あ、あと、舎弟って言葉も良くないと思うわ」
「えっ?―――あっ!?違うわ、舎弟じゃなくて、みたいな、だから!みたいな!」
「舎弟を連発してる時点で、化けの皮剥がれると思うのよね」
慌てる茜さんを前に、ハルさんは頬に手を当てて深いため息をついた。
「あかねおねぇちゃん、しゃてーってなに?」
「へっ?えぇとね、弟じゃないんだけど弟みたいな人というか………あ、でも、あまり良くない言葉だからね。お友だちに使っちゃダメ!というか、言っちゃダメ!」
「よくないことばいっちゃ、だめでしょ」
「す、すみません………」
深く意味が解ってないなりに叱る美紅ちゃんの前に、茜さんは項垂れる。
「お姉ちゃん、先輩が優しいからっていいように使っちゃダメ」
「そっ、そんなパシリみたいなことさせてないわよっ?」
「でも、今日もいきなり呼び出したし、この間もメニューの開発に付き合わせたでしょ?」
「ご、ごめんなさい………」
静かに諭す結香の前に、茜さんは撃沈した。
「まったく、気を抜くとすぐ昔の口調に戻るんだから。夕弦くんに誤解されたら、結香にとんでもなく怒られるわよ?」
「茜さんの高校時代のことなら、父から聞きましたよ?」
知っていることを言っておいた方がいいかと思い、一応言う。
三人がピタリと止まる中、しばらく俺と美紅ちゃんの食事する音が響いた。
ピンポーンっ………
「あの、チャイム鳴りましたけど」
声をかけるが三人とも固まったままなので、勝手に俺が出ることにした。
時間的に信夫さんが帰宅したのかと思ったが、玄関の向こうに居たのは知らないスーツ姿の男だった。
相手も出てきたのが知らない男で驚いたのだろう。しばらく無言で見つめ合う。
先に「あの」と切り出したのは相手の男だった。
「あの、こちらは牧野さんのお宅ですよね」
はい、と頷くと男はまた、あの、と口を開く。
「あの、こちらに預かっている親戚の女の子がいますよね?」
明らかにこちらの内情を知っている言い方に不審を感じ、眉を寄せる。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
俺の声に男は慌てたように狼狽える。
「いや、俺は怪しい者じゃなくて。最近は来てないけどこの家の人と知り合いで―――」
「夕弦くんっ!違うの!話を聞いてっ?」
男の言葉を遮るように荒い足音が聞こえて来たかと思ったら、茜さんが俺の袖を掴んだ。そのまま玄関で狼狽えている男を見た途端、その表情が壮絶に恐ろしい冷笑に変わる。
「―――あぁら。こぉんな時間にこぉんな所でどうなさいましたの?」
今まで聞いたことがない言葉遣いに戦いていると、掴まれた袖を男がひきつった笑みで凝視する。
「ひ、久しぶり、茜。実は」
「あぁら、ごめんなさい?わたくし、貴方なんて存じませんの。今取り込んでおりますので、お帰り下さいな?」
思わず軽く目を擦って周りを見る。
見渡す限り、いつもの牧野家で安心した。バロック建築とかになってなくて良かった………
「茜、その男は―――」
「あぁら、存じ上げない方にわざわざ紹介なんて必要ありませんでしょ?わたくし、この方と大事なお話がありますの。お帰り下さる?」
冷笑が濃くなるにつれ、手の力が弱まったのでそっと腕を引き抜く。こめかみにしっかり浮かんだ青筋に戦きながら一歩ずつ後退していると、居間から結香が出てきた。
俺を見て少し表情を弛めるが、茜さんと対峙する男を見て目を丸くした。
「あの人………」
「知ってるのか?」
小さく頷くと、背伸びして俺の耳に囁いた。
「あの人、お姉ちゃんの元カレです」
茜さんとしては追い返すつもりだったのだろうが、結局居間から出てきたハルさんが気安く上げてしまった。
茜さんは珍しくかなり不機嫌だったが、それで良かったのかもしれない。というのも、元カレは単に茜さんに会いに来たというわけではなく、公園での騒ぎについて謝罪しに来たというのだ。
「―――つまり、そのクソガキがあなたの甥ってわけ。ふぅん、そーぉ………あなたたちって血にヒトをバカにしたくて堪らない成分でも入ってるんじゃない?」
「茜が怒る理由は解るんだ。でも、甥もその女の子を傷付けたくて言ったわけじゃないんだ。俺からも言い聞かせるから、許してくれないか」
「初対面の年下の女の子にお前は変だから棄てられるんだ、なんて悪意じゃなくて何なのよ。それに、あなたが言ったからって何の効果があるっての?」
襖の向こうから聞こえるやり取りに俺は静かにため息をついた。
寧ろ歓迎する勢いで元カレを家に上げたハルさんはさっさと美紅ちゃんを寝かしつけに二階へ上がってしまった。当然元カレの相手は嫌々ながらも茜さんがすることになる。二階へ上がる前にハルさんは俺に耳打ちをしてきた。
「大丈夫だとは思うんだけど。一応様子見ててくれない?手が出るまでは傍観でいいから」
斯くして俺は彼女の家の廊下でじっと聞き耳をたてることになった。隣には結香も正座している。
「先輩、ウチのことにばかりつき合わせてごめんなさい」
結香が静かに頭を下げるのに、首を横に振る。
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結香は軽く首を傾げ、襖を見ると微かに微笑んだ。
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それに、俺が気にしたのは。
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そう言うと、え?と目を瞬いてこちらを見上げる。思うより近くに俺の顔があったことに驚いて、少し姿勢を崩した。
「美紅ちゃんが言ってたように、俺が茜さんとばかり話してたのが嫌だったんだろ?」
少し困ったように視線を彷徨わせていたが、やがて小さく頷いた。
「ヤキモチだって解ってるんですけど。お姉ちゃんと先輩が仲良くしてるとモヤモヤするんです」
「仲良く………してるわけじゃないぞ」
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信じがたいのか結香は首を傾げた。
「え?会話弾んでましたよね?」
「テンポ良く話さないと茜さんが怒るからな」
「仲良く料理してましたよね?」
「手伝わなかったら後で怒られるかと思ってな」
混乱したのか両頬を手で覆って黙り込む結香の頭を撫でる。
「俺が茜さんと話すのは結香の為だ。話といっても報告の方が多いから話すのも気を遣うし、楽しんでいるわけじゃない。話題も結香のことだからな」
今日は美紅ちゃんのことだったが。
手の甲をなぞると頬から弛く離れたので握り込む。自然と向かい合って座る形になったので、額をそっと結香のそれに当てた。
「嫌な思いさせてごめん」
顔を紅く染めた結香は小さく首を横に振った。
肩に凭れかかってきたので、膝の上に乗せて軽く抱き締める。風呂を使った香りがまだ残っていた。
「美紅ちゃんのこと、お姉ちゃんとさっさと決めちゃうから、ヤキモチ妬きました」
ぽつりと言われ、ごめんと言いながら髪を撫でる。
「私も、先輩と料理したいです」
二人で台所に立つ姿を思い浮かべ、その幸せな想像に結香の小さな身体を抱き締めてその頭に顔を埋めた。
「そうか。じゃあ今度は二人で何か作ろう」
声を出すと腕の中で結香がピクリと動く。腕の力を強めて、あぁでも、と続けた。
「結香の手料理も食べたいな」
腕の中で結香が身動ぎする。俺の力には敵わないのでもぞもぞと動くだけだが。
「わ、私、は、お母さんほど料理上手じゃないです」
膝の上に乗せられていることが恥ずかしいのだろうか。声に若干の焦りが混じる。
腕の力を弱めないまま、いいよ、と言った。
「結香に作ってほしい」
うぅぅと唸る耳が紅くて、ひっそりと笑った。
しばらく身動ぎしていた結香が、あ!そうだ!と声をあげた。
「あのっ。先輩、どうしてお姉ちゃんのこと知ってるんですか?」
親父から聞いたと申告したことを忘れたのか、無理矢理な話題転換だが、一応答える。
「親父が先輩の警察官に聞いたらしい。それで俺に確認してきたんだ」
親父は高校時代の茜さんを直接は知らなかったが、七夕の時茜さんを見て名前を知り、以前聞いた話の女子高生ではないかと推測した。
「―――あの、お父さん、気にしてましたか?お姉ちゃんのこと」
結香が少し身体を強張らせる。
ふわふわした髪や背中を撫でながら首を横に振った。
「全く気にしてないぞ。伝説の女子高生と未だ噂される人と日常的に会えるなんて凄いな、と感心された」
茜さんに認められない限り嫁取り出来なそうだから、お前も苦労しそうだな。
そう笑われたことは黙っておこう。
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驚きましたか?と小さく聞かれ、いいや、と首を横に振る。
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腕の力を弱めずに、もう少しこのままで、と言うと動きが強まる。
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「いつの間にか仲直りしてくれて助かったわ」
呆れたような、それでも安堵したような表情で見下ろす茜さんに、お蔭様で、と答える。
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「そうだな。明後日来れるか?俺も予定ないから」
解りました、と結香は頷いた。
「美紅ちゃんも連れて行っていいですか?」
「そうだな。好みもあるだろうし」
いつも俺が迎えに来ることを申し訳ないと感じていたのか、結香は迎えを断ろうとしたが、俺は首を横に振る。美紅ちゃんを連れてここから俺の家まで歩くのは結構大変だと思ったからだ。
「んむー………私一人のときならいいですか?」
その質問にも首を横に振る俺に、結香は少し頬を膨らませる。
その顎を抑えて唇を合わせる。軽く舌で唇をなぞると、小さく結香が息を漏らして震えた。
「色々心配だから、駄目だ」
蕩けた目で俺を見上げる結香の頬を軽く摘まんで、おやすみ、と言って牧野家を後にした。
◆ その後の結香 ◆
部屋に戻って、ベッドに横になった途端恥ずかしさがこみ上げてきてベッドの上をゴロゴロ転がる。
うにゃぁぁぁぁっっっ!
また玄関でキスされたぁぁぁ………しかもっ!なんか唇舐められた気がするっ。
気のせい………じゃないよ!絶対舐められたよ!
なんで!??唇美味しいの???
先輩はダイエットなんか必要ない、寧ろ食べろって言うけど。
実はお肉ついてるんじゃないの?ほら、こことか………あと、こことか?
一生懸命身体を捻っていてノックの音に気づかなかった。
「結香、ちょっといい………それ、何かの体操?」
「へ?……う、うん……そんなとこ……?」
苦笑いしながら腰回りの肉を放して座り直すと、お姉ちゃんも隣に腰かけた。
「結香、今日はごめんね。あたし、美紅ちゃんのことでテンパってて夕弦くんを頼りにしてしまった。美紅ちゃんの言う通り、夕弦くんは結香の彼氏なのにね」
大丈夫と首を振るけど、お姉ちゃんはまだ顔を曇らせたままだ。
「夕弦くんは解ってると思うけど、夕弦くん何かとスペック高いでしょ?だからつい、スタッフと同じように話しちゃうのよね」
「先輩も、そう言ってた」
小さく呟くと、でしょう?と微かに微笑んだ。
「寧ろ頭の回転が早い分、スタッフというより取引相手とやり取りしてるカンジに近いのよね。油断してるとこちらの足下見られそうで。夕弦くんがどこまで対応できるか、つい試したくなっちゃうのよ」
「でも、お姉ちゃんの要求全部につきあわせちゃダメだよ」
小さく言うと、解ってる、ごめんね、ともう一度謝られた。
「それに。何か訓練されたわけじゃないと思うけど、夕弦くん目つきが刑事の目なんだもの。見透かされそうであたしもヒヤヒヤしてるのよ?話してるときはいつも」
まぁ、とっくにバレてたけどさ、とお姉ちゃんはそのまま後ろ向きに寝転がる。
名前を呼ばれたので、なに?と聞くと、天井を見つめたまま言った。
「もしも、あたしのことでどうこう言う人がいたら、結香の好きにしていいんだからね?」
言っていることが解らなくて黙っていると、続けて言う。
「夕弦くんや夕弦くんのご両親が気にしなくても。その周囲にはあたしを気に入らない人間がいるかもしれない。そして、あたしをネタに結香にケチをつける人間はどこにでもいる。そういうとき、あたしに遠慮なんか要らないからね」
「怒るよ」
静かに言うと、お姉ちゃんはゆっくりこちらを見た。
「先輩だってきっと怒るよ。そんな―――自分勝手なこと言ったら」
そうね、とお姉ちゃんは微笑んだ。
「ねぇ、久しぶりに夜更かししてお喋りしない?」
頷いてお互いに好きなところに座ったり寝たりする。
「結香は、今年の夏で変わったね」
そうかな、と首を傾げると、お姉ちゃんは笑って頷いた。
「夕弦くんにたくさん大切にされてるんだなぁって解るよ。学校で友だちにビックリされるかもね?」
それは大袈裟だと思うけど、知佳ちゃんにはからかわれると思う。春休み明けに毎日のように言われたから。
先輩と会えない日は必ず先輩のことを考えてしまう。今何してるのかな、とか。あの服先輩に似合いそうだな、とか。
それで勉強を疎かにしてるつもりはないけど、こんな私は重くないのかな。
考えていると、再来年先輩のキャンパスが変わることを思い出した。
どうしたの、と聞かれたから、顔に出てしまったのだと思う。
隠そうとしてもお姉ちゃんには隠せないことは解ってるので、キャンパスが変わることを話した。
「私、新学期が始まると先輩に会える回数が減ってダメダメになるでしょう?先輩が東京に引っ越ししちゃったら、寂しすぎてとことんダメになって、先輩に呆れられちゃったらどうしよう」
しっかりしなさい。
すぐにそう言われると思ったけど、お姉ちゃんはしばらく考えこんでいた。
しばらくして、結香、と呼ばれた。
「結香は、夕弦くんと一緒にいたい?」
小さく頷くと、解ったとお姉ちゃんは頷いた。
「お姉ちゃん?」
「結香、夕弦くんはあたしも認めてもいいかなって思える男の子よ。結香は、夕弦くんを信じてあげなさいね」
お姉ちゃんの優しく強く綺麗な目に見蕩れる。
悩み事を相談したとき、お姉ちゃんはきちんと答えてくれる。そのとき、必ずこの目をした。
最近は相談することもなくて、この目で見つめられることもなかった。
「お姉ちゃん?」
「うんと好きになった人だもの。信じてあげなさい。再来年のことなんてどうとでもなるから」
「お、お姉ちゃん?先輩に変なこと言わないでね?あっ、さっきのことも言わないで」
慌ててお願いすると、お姉ちゃんは悪戯っ子のように笑った。
「えぇ~、どぉしよっかなぁぁ~」
お願い、お願いと繰り返していると、じゃあ交換条件ね、と魅惑的に微笑んだ。
「最近、デートに行っても詳しく教えてくれないわよね?結香がお話してくれたらあたしも夕弦くんには結香の可愛い悩み、黙ってるわよ?」
えぇっ、と絶句する。
あのファーストキス以来、デートのときは必ず、ちょっと会うだけでも先輩はキスしてくるようになった。
嬉しいんだけど。たぶん私がパニクらないように軽く触れるくらいだけど………
キスのところを隠してお姉ちゃんに話せる自信が全っ然ないよ………!
どうしよう、最近いつの間にかキスされてるなんて言ったら、私ますますボンヤリした子と思われる!!???
「今日のことは夕弦くんから大体聞いたからぁ………とりあえず、あたしが結香を全身コーディネートした日のことをお話してもらおうかなっ」
「えぇぇぇぇっっっ」
笑顔で迫るお姉ちゃんに抗えるはずがなく。
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「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
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