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月光と弾丸
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平日の昼間を一人家で過ごしていると、眠気が強くなる気がする。昼下がりのぽかぽかした空気に当てられて、気づけば夕方までまどろんでいることが、頻繁にあるのだ。そんなこと、こんな生活になるまで知らなかった。今日も十一時くらいに食べたお昼の直後だったからか、なんの気なしにベッドでスマホを眺めていたからなのか、気づけばうとうととしていて、特にすることもないから流れに身を任せた。いつも通りの昼下がり。
私はきっとこんな生活を明日もするのだろう。明後日も、明々後日も、繰り返すのだろう。
そんなことを考えていると、胸が苦しくなる。
堕ちるところまで堕ちた私生活の中で、ただ一つ幸せを感じられるのは、寝ているときだけだった。眠っていたら何も考えなくていい。もちろん、起きてるときにたいして建設的な事を考えているわけではないのだけれど、それでも目が覚めているときは、自然、漠然とした焦燥感と不安感とが脳裏をよぎり、どれだけ考えまいとしても、一向にスッキリとしない。堕落した生活でまず最初に起こる不都合は心が弱ること。それがこの二ヶ月で私が学んだことだった。
思ってしまうのだ。
山程インストールされたスマホゲームのうちの一つを惰性でプレイするとき、私の心の奥にはやはり件の焦燥があって、こんな生活は間違っていると訴える。けれど、だからといって現状を打開するだけの気概もない私は、櫛もいれていないみすぼらしい風体で親指を動かす。
ああ、眠りたい。目を閉じる。しかし、寝られない。
そんなときに心をよぎる、悪魔の囁き。
「何も考えないでいいのが唯一の幸せなら、その方法は……眠る以外にもあるじゃないか……たとえば……」
縦15センチ、横7センチ。iPhoneの画面の中で奔放に跳ね回る私のキャラクター。有名な絵師さんが手掛けた子で、すごく可愛い。性能も優秀で今の環境では一番強いから、対戦でマッチングすると大体かぶる。私はこの子が欲しくて何度もリセマラを繰り返した。他の子が出る度、違うあなたじゃない、とデータを消して。三百回くらいした、と思う。そんな苦闘の末、排出されたこの子は、画面の中で私に笑いかけながらポーズを決めた。嬉しかった。その裏には三百人の捨てられた子たちがいることに無自覚ではなかったけれど、私は気にしなかった。だってデータに残っていないんだもの。
最初からそんなものは、無かったんだもの……。
たとえば。ゲームの世界のように人生をやり直すことはできないだろうか。いや、そこまでは求めない。やり直してもどうせうまくいかないことはわかっている。だからせめて、消してしまうことくらいは許してほしいのだ。
みんなみたいに、学校に行くことができない。
みんなみたいに、溌剌とした笑顔が作れない。
みんなみたいに、人の目をまっすぐ見れない。
クラスの子たちみたいに、私はなれない。そのことを考えると、酷く惨めな気持ちになってしまうから、それなら最初からなかったことにしてしまいたい。
自分でも気づかないうちに嗚咽が漏れていた。溢れた涙は頬を伝って、枕にシミを作る。
スマホから伸びる充電コードを見るだけで、もう何もかもが嫌になった。全部を他人のせいにしてしまいたかった。気分が塞ぐのは、あの街路樹のせいだ。涙がこぼれるのは、このぬいぐるみのせいだ。こんなに苦しいのは、そこの推理小説のせいだ。学校に行けないのは、あの青空のせいだ。
窓の外に見える風景や家の中の小物をすべて恨んで目を腫らしているうちに、いつの間にか、疲れて眠ってしまった。
目を覚ましたとき、部屋はすっかり暗くなっていて、私は慌ててスマホをリビングに置きに行く。学校に行かなくなって以来、スマホは父さんが没収している。可哀想よと言って母さんは止めようとしたけれど、父さんの判断が正しかったと、私は思う。現に私は隠し場所を暴いて、一日中遊んでいる。慎重に元あった場所に戻して隠し直すと、玄関の鍵が開く音が聞こえた。母さんだ。私は素早く自分の部屋に逃げ戻り、扉を閉じると同時に心も閉じる。
これで大丈夫。昨日と同じように振る舞えば、酷く誹られる心配はない。父さんの苦言と母さんの憐れみの表情から目を逸らしたら、とりあえずの平穏は完成し、後はすることもないから寝るだけだ。八時には就寝。この早寝はもちろん、明日が楽しみだからじゃない。
ただ、今日が辛いからだ。
しかし、今日は調子が狂うことがあった。足音が聞こえた。二階に上がってくる足音が聞こえてきて、私は体を固くした。扉を背もたれに、フローリングの床に座ってぼんやりしていた私は慌てて起き上がり、椅子の上で体育座りをすると、膝に額を押し当てた。そのほうが不登校児っぽく見えるだろうと考えたからだ。ステレオタイプの殻に閉じこもり、母さんを待ち構えた。控えめなノックの音。返事はしない。しばらく間があって、母さんが部屋に入ってきた。
「あら。いろはちゃん、どうしたのそんな格好で」
体育座りの私を見て、母さんはヤに朗らかに話しかけてきて、それを聞いて私は、自分の名演技が通じたことを知った。
私は何も喋らない。以前はほとんど言わなかったくせにちゃん付けで呼ぶようになったり、こちらを窺うような口調で話すようになったり。母さんは馬鹿だ。それが逆効果だとなぜ気づかないのだろうか。ますます私が安心するということがなぜわからないのだろうか。厳格な父さんの諌めるような態度とは正反対の行動だ。母さんがそろそろと口を開いた。
「いろはちゃん、あの、今日はお父さん帰ってくるのが遅いからね、一緒にご飯食べようと思ってお母さん」
「要らない」
小さく、でも冷たく、そう呟いた。
「でも今日はお父さんもいないし、二人きりだから」
「要らない」
二度冷たく突き放すと、母さんは黙りこくった。母さんは途方に暮れたように私の部屋を見回した。そのさまはあまりに露骨で、膝に視界が塞がれていてもわかるくらいだったから、きっと母さんは自分が困り果てていることを見せつけたかったのだと思う。知るもんか。
不意に母さんの視線が止まった。気配から察するに私のベッドの方だった。
私は少し不安になった。なにかまずいものがあっただろうか。片付けもれているものがあったのだろうか。内心びくびく震えながら、それでも私は陰鬱な不登校児の女の子を演じてみせる。
永遠とも思えた数秒の間の後、母さんは、やはり明るく「ご飯二人分作ってるからね、あ、カーテンは閉めておいてね」と言って、部屋から出ていった。私はほっとため息をつく。どうやら日も落ちているのにカーテンを閉めていないことが目に止まっていたらしい。大したことではなくてよかった。
耳を澄まし、母さんが確かに一階に降りたのを確認して、私は椅子から飛び降りた。そしてカーテンを閉めようと手を伸ばしかけ、止めた。止めさせられた。
月が出ていた。
美麗な満月が東から登って、丁度私の窓に、その針のような月光を差し込ませていた。白銀色の球が夜空に一つ光る。その様はとても静謐で荘厳な雰囲気があって、私は思わず見惚れてしまった。なんて美しい月なの。
月明かりを見つめたのは初めてのことだった。それまで私にとって月というのは、絵本や童話に出てくるような、クリーム色がかった黄色の玉でしかなく、だから月明かりはもっと柔らかい暖色だと思っていた。
月光が目に染みる。
この十四年間、いったい私は何を見ていたのだろう。夜に視線を上げれば、そこに最初から答えはあったというのに。月明かりは厳しく、暴力的でもあって、それでいてやはり、優しさの翳りを持つ白銀。泰然とした姿。私は月が古来より信仰されてきた理由を、今、悟った。
くつくつと口の端から笑みが溢れた。
尖った月光に横っ面を張られた気分だった。この二か月の内省的な自己批判は、それさえも甘えなのだと、気付かされたから。
月光はきっかけに過ぎない。私の心の中では、価値観の倒錯が凄まじいスピードで繰り広げられていく。自分でも怖ろしくなるくらいのスピードで、目から鱗が落ちていく。
あ。ああ。
平穏な不登校生活に甘えきったちょっぴりアンニュイな女の子は、もういない。月光が目に差し込んでから数秒の後、窓際に立っていたのは少し厳然とした面持ちの芯のある女の子だった。
私は何でもできる。そう思えた。例えば髪に櫛を入れ、ブレザーに袖を通し、学校に向かう。それさえ造作もないことだと感じられた。
そうしてキッと目力を強くし、背筋を伸ばし、カーテンを閉め、明るく振り返り、何気なく目線を移し、そして――私は凍りついた。目線は枕元で止まった。
スマホの充電器。
ひゅと喉が鳴った。目眩がした。体が震え、ガタガタと歯が揺れる。対照的に心は深く、深くへと沈み冷え切ってゆく。自己啓発本を読んだあとのような、月光による薄っぺらい高揚感は霧散していた。
なんという失態を私はしてしまったのだろうか……。
母さんの不審な間を反芻する。母さんは確かにベッドの方を見ていたじゃないか。なぜ気づけなかったのだろう。母さんが見ていたのは、ベッドの上にあるスマホの充電器。
一日中スマホゲームをしていると充電はなくなる。だから、枕元の壁のコンセントに充電器を繋いだままにしていた。その不精がたたった。
じっと充電器を睨んでいると、涙が出てきた。恥ずかしいという言葉では言い表せないほどの強い羞恥が私の顔をカッと火照らせ、いたたまれなくなってくる。私の名演技は、なんのことはないくだらない道化として母さんの目には写っていたのか。
ああ。
あぁ。
死んでしまいたい。
昔読んだ海外のミステリ。壁に向かってピストルで空砲を撃ったら、壁越しの部屋で人が死に、その死体には弾丸もないのに弾痕が残っている、という謎。くだらないトリックだった。岩塩の弾丸を使った陳腐なトリック。作者は密室殺人よりも、ロジカルなパズル的推理で定評があった人だったから、当然かも知れない。
私は憧れた。見えざる弾丸で殺された男に。きっと痛みはなかったのだろう。なぜなら、見えざる弾丸だから。本人も気づかぬうちにあっさりと死んでいったのではないだろうか。
私は窓の外を見る。
たとえば。
たとえば、あの銀色の満月が弾丸となって、私の心臓を撃ち抜いてはくれないだろうか。今は親指で隠れてしまうくらいの満月がぐんぐんと私の部屋の窓の方に接近してきて、そして私の命を奪っていってはくれないだろうか。この度し難い羞恥と、八方塞がりの毎日もろとも。
月光の弾丸が心臓を貫く妄想に、私は熱心にふけった。それは、以前までの漠然とした死への憧憬よりも、もっと切実な願いだった。幸い、といおうか、そんな酔狂にかけられる時間はたっぷりとあった。明日なんて来なければいい。そう願いながら、涙で滲む視界を閉じ、ベッドに倒れ込み、私は意識を失っていく……。
翌朝、月が沈み太陽が登った頃。
そのベッドの上には、心臓発作で絶命した私が冷たくなって横たわっていた。
――了
〈後書き〉
辻村深月先生の『かがみの孤城』を読んだのが小学四年生のときであり、雷に打たれたとまで錯覚した強烈な読書体験は、僕が、小説というエンターテイメントを意識するきっかけとなりました。
この作品は小学六年生のときに書いた習作です。拙い部分は多々ありますが、なるべく当時のままの形で発表したいと考え、修正せずに残しました。もちろん、どうしても修正しなければならない部分は、書き換えましたが。
小学校で二ヶ月、中学校で半年、不登校児やってたんですよ、僕。学校が嫌いすぎて。
そういうわけで本作は、限りなく私小説に近いフィクションになっています。
しかし、『かがみの孤城』の影響でしょうか、わかんないくせに背伸びして、中学生の、しかも異性を主人公に据えるというこのマセガキっぷり。恥ずかしすぎて悶えます。
ただ、そんな欠点を抑えて余りあるほど、この作品に僕は妙な迫力を感じるのです。それはやはり実体験が重なっていたからでしょう。存外、僕はこの作品を気に入っているのかもしれません。
ここまで見てくれた人、ありがとうございます。
ついでにハートも押してくれると、小学生の頃の僕がちょっぴり幸せになるのでぜひ。
私はきっとこんな生活を明日もするのだろう。明後日も、明々後日も、繰り返すのだろう。
そんなことを考えていると、胸が苦しくなる。
堕ちるところまで堕ちた私生活の中で、ただ一つ幸せを感じられるのは、寝ているときだけだった。眠っていたら何も考えなくていい。もちろん、起きてるときにたいして建設的な事を考えているわけではないのだけれど、それでも目が覚めているときは、自然、漠然とした焦燥感と不安感とが脳裏をよぎり、どれだけ考えまいとしても、一向にスッキリとしない。堕落した生活でまず最初に起こる不都合は心が弱ること。それがこの二ヶ月で私が学んだことだった。
思ってしまうのだ。
山程インストールされたスマホゲームのうちの一つを惰性でプレイするとき、私の心の奥にはやはり件の焦燥があって、こんな生活は間違っていると訴える。けれど、だからといって現状を打開するだけの気概もない私は、櫛もいれていないみすぼらしい風体で親指を動かす。
ああ、眠りたい。目を閉じる。しかし、寝られない。
そんなときに心をよぎる、悪魔の囁き。
「何も考えないでいいのが唯一の幸せなら、その方法は……眠る以外にもあるじゃないか……たとえば……」
縦15センチ、横7センチ。iPhoneの画面の中で奔放に跳ね回る私のキャラクター。有名な絵師さんが手掛けた子で、すごく可愛い。性能も優秀で今の環境では一番強いから、対戦でマッチングすると大体かぶる。私はこの子が欲しくて何度もリセマラを繰り返した。他の子が出る度、違うあなたじゃない、とデータを消して。三百回くらいした、と思う。そんな苦闘の末、排出されたこの子は、画面の中で私に笑いかけながらポーズを決めた。嬉しかった。その裏には三百人の捨てられた子たちがいることに無自覚ではなかったけれど、私は気にしなかった。だってデータに残っていないんだもの。
最初からそんなものは、無かったんだもの……。
たとえば。ゲームの世界のように人生をやり直すことはできないだろうか。いや、そこまでは求めない。やり直してもどうせうまくいかないことはわかっている。だからせめて、消してしまうことくらいは許してほしいのだ。
みんなみたいに、学校に行くことができない。
みんなみたいに、溌剌とした笑顔が作れない。
みんなみたいに、人の目をまっすぐ見れない。
クラスの子たちみたいに、私はなれない。そのことを考えると、酷く惨めな気持ちになってしまうから、それなら最初からなかったことにしてしまいたい。
自分でも気づかないうちに嗚咽が漏れていた。溢れた涙は頬を伝って、枕にシミを作る。
スマホから伸びる充電コードを見るだけで、もう何もかもが嫌になった。全部を他人のせいにしてしまいたかった。気分が塞ぐのは、あの街路樹のせいだ。涙がこぼれるのは、このぬいぐるみのせいだ。こんなに苦しいのは、そこの推理小説のせいだ。学校に行けないのは、あの青空のせいだ。
窓の外に見える風景や家の中の小物をすべて恨んで目を腫らしているうちに、いつの間にか、疲れて眠ってしまった。
目を覚ましたとき、部屋はすっかり暗くなっていて、私は慌ててスマホをリビングに置きに行く。学校に行かなくなって以来、スマホは父さんが没収している。可哀想よと言って母さんは止めようとしたけれど、父さんの判断が正しかったと、私は思う。現に私は隠し場所を暴いて、一日中遊んでいる。慎重に元あった場所に戻して隠し直すと、玄関の鍵が開く音が聞こえた。母さんだ。私は素早く自分の部屋に逃げ戻り、扉を閉じると同時に心も閉じる。
これで大丈夫。昨日と同じように振る舞えば、酷く誹られる心配はない。父さんの苦言と母さんの憐れみの表情から目を逸らしたら、とりあえずの平穏は完成し、後はすることもないから寝るだけだ。八時には就寝。この早寝はもちろん、明日が楽しみだからじゃない。
ただ、今日が辛いからだ。
しかし、今日は調子が狂うことがあった。足音が聞こえた。二階に上がってくる足音が聞こえてきて、私は体を固くした。扉を背もたれに、フローリングの床に座ってぼんやりしていた私は慌てて起き上がり、椅子の上で体育座りをすると、膝に額を押し当てた。そのほうが不登校児っぽく見えるだろうと考えたからだ。ステレオタイプの殻に閉じこもり、母さんを待ち構えた。控えめなノックの音。返事はしない。しばらく間があって、母さんが部屋に入ってきた。
「あら。いろはちゃん、どうしたのそんな格好で」
体育座りの私を見て、母さんはヤに朗らかに話しかけてきて、それを聞いて私は、自分の名演技が通じたことを知った。
私は何も喋らない。以前はほとんど言わなかったくせにちゃん付けで呼ぶようになったり、こちらを窺うような口調で話すようになったり。母さんは馬鹿だ。それが逆効果だとなぜ気づかないのだろうか。ますます私が安心するということがなぜわからないのだろうか。厳格な父さんの諌めるような態度とは正反対の行動だ。母さんがそろそろと口を開いた。
「いろはちゃん、あの、今日はお父さん帰ってくるのが遅いからね、一緒にご飯食べようと思ってお母さん」
「要らない」
小さく、でも冷たく、そう呟いた。
「でも今日はお父さんもいないし、二人きりだから」
「要らない」
二度冷たく突き放すと、母さんは黙りこくった。母さんは途方に暮れたように私の部屋を見回した。そのさまはあまりに露骨で、膝に視界が塞がれていてもわかるくらいだったから、きっと母さんは自分が困り果てていることを見せつけたかったのだと思う。知るもんか。
不意に母さんの視線が止まった。気配から察するに私のベッドの方だった。
私は少し不安になった。なにかまずいものがあっただろうか。片付けもれているものがあったのだろうか。内心びくびく震えながら、それでも私は陰鬱な不登校児の女の子を演じてみせる。
永遠とも思えた数秒の間の後、母さんは、やはり明るく「ご飯二人分作ってるからね、あ、カーテンは閉めておいてね」と言って、部屋から出ていった。私はほっとため息をつく。どうやら日も落ちているのにカーテンを閉めていないことが目に止まっていたらしい。大したことではなくてよかった。
耳を澄まし、母さんが確かに一階に降りたのを確認して、私は椅子から飛び降りた。そしてカーテンを閉めようと手を伸ばしかけ、止めた。止めさせられた。
月が出ていた。
美麗な満月が東から登って、丁度私の窓に、その針のような月光を差し込ませていた。白銀色の球が夜空に一つ光る。その様はとても静謐で荘厳な雰囲気があって、私は思わず見惚れてしまった。なんて美しい月なの。
月明かりを見つめたのは初めてのことだった。それまで私にとって月というのは、絵本や童話に出てくるような、クリーム色がかった黄色の玉でしかなく、だから月明かりはもっと柔らかい暖色だと思っていた。
月光が目に染みる。
この十四年間、いったい私は何を見ていたのだろう。夜に視線を上げれば、そこに最初から答えはあったというのに。月明かりは厳しく、暴力的でもあって、それでいてやはり、優しさの翳りを持つ白銀。泰然とした姿。私は月が古来より信仰されてきた理由を、今、悟った。
くつくつと口の端から笑みが溢れた。
尖った月光に横っ面を張られた気分だった。この二か月の内省的な自己批判は、それさえも甘えなのだと、気付かされたから。
月光はきっかけに過ぎない。私の心の中では、価値観の倒錯が凄まじいスピードで繰り広げられていく。自分でも怖ろしくなるくらいのスピードで、目から鱗が落ちていく。
あ。ああ。
平穏な不登校生活に甘えきったちょっぴりアンニュイな女の子は、もういない。月光が目に差し込んでから数秒の後、窓際に立っていたのは少し厳然とした面持ちの芯のある女の子だった。
私は何でもできる。そう思えた。例えば髪に櫛を入れ、ブレザーに袖を通し、学校に向かう。それさえ造作もないことだと感じられた。
そうしてキッと目力を強くし、背筋を伸ばし、カーテンを閉め、明るく振り返り、何気なく目線を移し、そして――私は凍りついた。目線は枕元で止まった。
スマホの充電器。
ひゅと喉が鳴った。目眩がした。体が震え、ガタガタと歯が揺れる。対照的に心は深く、深くへと沈み冷え切ってゆく。自己啓発本を読んだあとのような、月光による薄っぺらい高揚感は霧散していた。
なんという失態を私はしてしまったのだろうか……。
母さんの不審な間を反芻する。母さんは確かにベッドの方を見ていたじゃないか。なぜ気づけなかったのだろう。母さんが見ていたのは、ベッドの上にあるスマホの充電器。
一日中スマホゲームをしていると充電はなくなる。だから、枕元の壁のコンセントに充電器を繋いだままにしていた。その不精がたたった。
じっと充電器を睨んでいると、涙が出てきた。恥ずかしいという言葉では言い表せないほどの強い羞恥が私の顔をカッと火照らせ、いたたまれなくなってくる。私の名演技は、なんのことはないくだらない道化として母さんの目には写っていたのか。
ああ。
あぁ。
死んでしまいたい。
昔読んだ海外のミステリ。壁に向かってピストルで空砲を撃ったら、壁越しの部屋で人が死に、その死体には弾丸もないのに弾痕が残っている、という謎。くだらないトリックだった。岩塩の弾丸を使った陳腐なトリック。作者は密室殺人よりも、ロジカルなパズル的推理で定評があった人だったから、当然かも知れない。
私は憧れた。見えざる弾丸で殺された男に。きっと痛みはなかったのだろう。なぜなら、見えざる弾丸だから。本人も気づかぬうちにあっさりと死んでいったのではないだろうか。
私は窓の外を見る。
たとえば。
たとえば、あの銀色の満月が弾丸となって、私の心臓を撃ち抜いてはくれないだろうか。今は親指で隠れてしまうくらいの満月がぐんぐんと私の部屋の窓の方に接近してきて、そして私の命を奪っていってはくれないだろうか。この度し難い羞恥と、八方塞がりの毎日もろとも。
月光の弾丸が心臓を貫く妄想に、私は熱心にふけった。それは、以前までの漠然とした死への憧憬よりも、もっと切実な願いだった。幸い、といおうか、そんな酔狂にかけられる時間はたっぷりとあった。明日なんて来なければいい。そう願いながら、涙で滲む視界を閉じ、ベッドに倒れ込み、私は意識を失っていく……。
翌朝、月が沈み太陽が登った頃。
そのベッドの上には、心臓発作で絶命した私が冷たくなって横たわっていた。
――了
〈後書き〉
辻村深月先生の『かがみの孤城』を読んだのが小学四年生のときであり、雷に打たれたとまで錯覚した強烈な読書体験は、僕が、小説というエンターテイメントを意識するきっかけとなりました。
この作品は小学六年生のときに書いた習作です。拙い部分は多々ありますが、なるべく当時のままの形で発表したいと考え、修正せずに残しました。もちろん、どうしても修正しなければならない部分は、書き換えましたが。
小学校で二ヶ月、中学校で半年、不登校児やってたんですよ、僕。学校が嫌いすぎて。
そういうわけで本作は、限りなく私小説に近いフィクションになっています。
しかし、『かがみの孤城』の影響でしょうか、わかんないくせに背伸びして、中学生の、しかも異性を主人公に据えるというこのマセガキっぷり。恥ずかしすぎて悶えます。
ただ、そんな欠点を抑えて余りあるほど、この作品に僕は妙な迫力を感じるのです。それはやはり実体験が重なっていたからでしょう。存外、僕はこの作品を気に入っているのかもしれません。
ここまで見てくれた人、ありがとうございます。
ついでにハートも押してくれると、小学生の頃の僕がちょっぴり幸せになるのでぜひ。
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