江戸の櫛

春想亭 桜木春緒

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 宿で枕に頭を乗せながら、仁一郎は目を開けていた。夜である。天井は真っ暗だ。
 山吹屋の女主人は、背の高い痩せた侍が逃げていった、と言っていた。その姿は確かに高野孝輔と似通う。
(親の仇になるのか? いや、まさか信じられぬ)
 父が永遠に帰らぬ人となった。父を悼む暇もなく、仁一郎は仇討ちのために家を出てきた。
(孝輔どのは今ごろ、どうしているのだろう。静代さんは……?)
 あんなに仲睦まじい風情の夫婦だったというのに。
 どういういきさつか、静代は仁一郎の父と不義を働き、孝輔が父を殺した。信じられないが、今見えている図式としてはそういうことだ。
 その後、孝輔も静代も行方が知れない。藩のほうでもこの五日間は捜索をした。仁一郎が仇討ちに出ることになってから、人手を割くのをやめたと聞いている。
 そういえば孝輔の父親も亡くなった。不自由な身体で自害した。当主夫婦が行方不明の状況で、葬儀はどうなったのか。高野の隠居も知らぬ人ではないから、香華の一つも手向けたかった。
 仁一郎は孝輔を仇として討つよう命じられた。だが孝輔自身の口から父を殺したとでも聞かない限りは、そのことが信じられない。本当に殺した、と聞けば、彼を憎く思うだろうか。とにかく孝輔と静代に会って話をせねばなるまい。

 朝餉の給仕に来た女中の掌に、仁一郎はそっと一朱銀を載せた。三十路前後の女は手の中に金を握りこんでから仁一郎を見返した。
「何日か前、隣で騒ぎがあっただろう?」
 山吹屋の隣の旅籠も間口と奥行きは同じようである。商売敵でもあるだろう。
「奥のほうで何だか言い争うような声が聞こえましたねえ。それからがたがたして人が逃げていったみたいですよ。一人が逃げて、誰かが追っかけて行きました」
「追いかけた者が居たのか?」
 山吹屋のおこうは、逃げていった侍を見たと言った。二人とは言っていなかった。だが隣家の女中は逃げた者と追った者らしい二人の人影を見ている。
「役人にも見落としがあるのではないか? 確かめに行こう」
「お言葉ですが、捕り物の真似事などしている暇はありませんよ。これまでにもうお目付も町方も調べ尽くしているはずです。無駄な手間です。調べに異を唱えるのは失礼になる。二人居た? あちらも二百五十石の当主ゆえ、伴の者でも従っていたのでしょう。もういい。急ぎましょう」
 黒木が苛立って仁一郎を急かす。既に日も高くなった。早立ちの旅人なら二里は進んでいる。

 父の死から五日経つ。つまり仇であろう高野孝輔が姿を消してからも五日目である。
 殿様の出府や帰国の旅程が半月ほどだ。故郷の新堂から江戸まで十五日と考えると、その旅程の三分の一の日数が過ぎていることになる。江戸へ向かう行列なら五日目で会津若松を過ぎて白河に向かうところだ。
 仁一郎はとにかく江戸を目指そうと思った。孝輔は江戸に二年居た。土地勘もある。人が多く身を隠すにも良い。
 だが孝輔は路銀や道中手形を持っているだろうか。旅には宿代もかかるし関所も通らねばならない。用意がなければ、領外に出ても容易く江戸まではたどり着けまい。
「今年は豊作になりますかねえ」
 仁一郎に従う宗太が呑気なことを言う。彼にとっては雇い主であった半右衛門の仇を追っていることになるのだが、やはり他人は他人だ。
 街道脇の田に稲穂が揺れる。新堂から東に向かう辺りは見渡す限り水田が広がる。このあたりより下流域では、水害も珍しくない。堤を強化するなど藩でも必死の対処をしているが、天災に抗うには人の力など小さすぎる。領内の田が沈むたびに、藩の借金が増えていく。

 午過ぎに、街道沿いの茶屋に立ち寄った。腹が減った。
「この辺りは何という村だ?」
「へえ。横山村になりますよ。道の向こうは中山村ですがね」
 宗太に握り飯と茶の代金を払わせながら、仁一郎は店の主人らしい老爺に頷いた。
「宗太の生まれは荒川村だったか?」
「左様です。中山村より一里くらい北で。うちは名主で、五十年も前にお屋敷に奉公していた大叔母だってまだ健在です。仁一郎様のおうちの知行地の中でも、ご縁の深いほうだと思っておりますよ」
「そのとおりだ。何かあったら儂は真っ先に宗太の家を頼るよ」
 仁一郎は街道を外れて北に向かった。山を登る道になる。
「どこへ向かうおつもりで?」
「中山村だ。高野家の知行地の一つだったはずだ」
 江戸からの帰り道、周囲を眺めて豊作のようだと微笑んだ孝輔の顔を思い出す。
 一つの村はだいたい二十石くらいである。孝輔の家くらいの石高なら知行地は十数か村ほどになる。知行地の村人は、領主に当たる家に折々の野菜を届けたり、屋敷に奉公するなど、宗太の言うとおり縁が深くなる。城下に近い村の名主ならば行き来も頻繁になり、関わりも濃いものだ。
 また、名主になるような大百姓は金を持っている。仁一郎の言う、何かがあったら頼る、というのはそういう援助も含んでいる。孝輔もまた、困ったときには知行地の名主を頼るのではないだろうか。

 いよいよ重い実りに頭を垂れた稲穂は葉を揺らす風にも揺るがない。陽が西に傾いていた。
 道で会う百姓達がきょとんとして仁一郎達に頭を下げていく。領地の中では城下に近いほうとはいえ、武家町ではないこの辺りで侍が歩き回る姿は珍しいようだ。
「この辺りの名主の家を訊いてこい」
 道端の鳥居の脇で立ち止まって宗太に言い付けた。宗太は武家奉公をしているが生まれも育ちも百姓である。地蔵に似た呑気らしい丸い顔の彼なら、村人も親しみを覚えて気楽に話をしてくれるだろう。
 小さな山の途中といったところの鳥居の奥には石段があり、左右に大きな木が生い茂っている。上にある社殿がちらりと見えた。風に揺れる葉擦れの音が耳に快い。
 こつ、と眼下で音がした。竹とんぼが落ちている。目を上げると、十かもう少し幼いくらいの男の子が二人居るのが見えた。一人は着衣に継ぎはぎもなく身形が良い。
「お前達のかね?」
 仁一郎は膝を折って子供と同じ目の高さにしゃがみ、竹とんぼを拾って差し出した。大きな目を優しく笑う形に細めた。
 身形が良いほうの子が竹とんぼを受け取って、ぴょこんと頭を下げて駆け去る。仁一郎達が居る鳥居の辺りは坂道の上である。鳥居の前から、左右に下り坂が延びていた。右に行く坂の下あたりで、また子供達は竹とんぼで遊び始めた。作りが悪いようで上手く飛ばない。今度は黒木の足元に落ちた。
「貸してみなさい」
 拾い上げた竹とんぼを持って、黒木が鳥居の下の石段に腰を下ろした。
 仁一郎は三十段ほどの石段を登り、社殿の前でかしわ手を打った。願うことは仇討ちの成就である。
 ただ仁一郎の思う仇は、討つように命じられた孝輔ではない。どうしても彼が仇だと思えないのだ。
 父の死は無念である。面白くもない父ではあったが情はある。もっと親孝行をしてやればよかった。二十四にもなって独り身のままで、孫も見せてやれなかった。目を閉じて掌を合わせると、どうしようもない悔いがこみ上げる。
 社は小高い丘の中腹にそっと建っている。建物の前にほんの少し平らな地面があった。豊作祈願などのときには、そこに主だった村人が筵でも敷いて座るのだろう。社殿は大きくはないが古い木の風情が良い。中は十畳くらいの広さだろうか。
  社殿を囲む木々はずいぶんと高い。生い茂る葉が風の音を立てた。袖の内に吹き込む風が涼しい。
 近くに他の建物はない。神主なども別の場所に住んでいるのだろう。人もあまり訪れないのか、社殿を囲む縁側に数日分の砂ぼこりが溜まっている。建物に上がる階段を見てから、仁一郎は自らの足元を見た。木々の影で日当たりが良くない。地面は湿り気を帯びていた。
 仁一郎は身を屈めて、階段に顔を近づける。子細に一段一段を確かめた。残った足跡が乾いている。足の大きさは仁一郎と同じくらいだ。

 仁一郎が石段を下ると、鳥居の傍らに腰を下ろした黒木が、手元の小柄を静かに動かしていた。左手に小柄を持ち、右に小さな穴が二つ空いた竹のへらのような物を持っている。男の子達がその手元をじっと眺めていた。宗太も戻ってきていて、子供らの後ろに立っていた。
 小さな違和感に仁一郎は気付いた。刃物を持つのが左手である。
(黒木は、左利きか)
 珍しいが、左利きの者も居ることは知っている。だが目の当たりにすると奇妙に器用に感じる。左利きでも、黒木は刀は左腰に差している。箸も筆も右で持つのが当たり前とされている。そういうものと決まった様式を武家は教え込むものだ。宿の食事のときも、黒木は右手で箸を使っていた。
「これでどうだろう?」
 傍らの男の子から串状の細い棒を受け取り、手元のへらと組み合わせる。
 男の子が掌から竹とんぼを飛ばす。先ほど外で見たときより綺麗に飛び、高く空に舞い上がった。歓声を上げながら追い、落ちたそれを拾い上げる。男の子は、竹とんぼの裏や表をひっくり返してつくづくと見つめてから、黒木に向かってにっこりと笑う。
「良かった」
 さっと小柄を拭いながら黒木も笑った。存外に優しい笑顔である。
 黒木が大刀の鞘に小柄を仕舞った。それを右手に持つ。害意がないということを示すために、鞘に収めた刀を右手に持つ。座敷では右に刀を置く。
 ふと仁一郎は嫌なことを考えた。
 黒木も他の侍と同じように常に左腰に刀を帯びている。その形であれば、刀を抜くときは左腰から右手で抜く。だがそもそも黒木は左利きらしい。器用に動く左手を今見たばかりだ。右に持った鞘から左手で刀を抜くことも、彼ならできるのではないだろうか。
「ちょっと待ってくれ」
 立ち去ろうとした二人の男の子に声をかけた。立ち止まった彼らが少し怯えた顔になる。仁一郎はできるだけ優しい顔つきを作る。
「神主の家は近くかな?」
「そこだよ。おいら連れてってやるよ」
 石段と鳥居を右手に見ながら、十歩ほど進んだ左手の生け垣で立ち止まって、竹とんぼを握った男の子が腕を伸ばして奥の建物を指さした。そこが神主の家のようだ。向かって右の奥に蔵があり、手前に大きな納屋がある。正面の母屋は納屋の倍くらいの規模だ。広い庭に鶏がうろうろと歩き回っていた。

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