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余録
断章
しおりを挟む冬に近い日差しが、柔らかく斜めに注ぐ。
水城家の下働きのお咲が台所で作業をしていると、主の新兵衛が寝間着の上に羽織をひっかけただけの姿で、膳をひっそりと携えて現れた。
「まあ、お手ずから……」
置いておいてくだされば取りに参りましたのに、と驚いて言った。
新兵衛は百石を取る家の主である。罰を受ける前は二百石であったと聞いた。立派な上士だ。
それなのに、とお咲は思う。新兵衛の下の者への視線は、いつも温かい。気さくで優しい。
「奥さまのお加減はいかがでしょうか?」
「特に、熱もないようだ。粥も全部食べた」
「左様でございますか。それは良うございました」
お咲は笑顔になって新兵衛から椀の乗った膳を受け取る。確かに空のようで軽い。
「今日はお出かけでございますか?」
「いや」
「そうでございますか。畏まりました。時に、お召し替えは…」
手伝おうかと申し出たが、断られた。
(今日は奥様についていてさし上げるんだわ)
去って行く新兵衛の背の高い後ろ姿を見ながら、お咲は口元に笑みが浮かぶのを止められない。
逸は、新兵衛にとって二度目の妻である。そして彼よりはるかに若い。お咲よりもずっと若い。
まだ十八歳の逸が可愛くて仕方がないというような新兵衛の様子や、そんな新兵衛を慕ってやまない逸のひたむきな眼差しを見ていると、お咲はたまらなく胸がときめく。
新兵衛は、鴨居を超えそうなほど背が高い。剣術の稽古を欠かさずに体を鍛えていて逞しく、顔立ちにも鋭さがあって恐いようだが、常に穏やかで静かな眼差しをしている。その穏やかな気配を、お咲は好きである。新兵衛が大声を出して怒るところなど見たこともないし、想像もつかない。
そんな主人の新兵衛を、喜一やミツも彼を好きであろう。
新兵衛の妻である逸は、彼と並ぶと童女のように見える。小柄で華奢だった。そして逸の整った顔立ちの中の潤んだような黒目がちの瞳は、同じ女であるお咲の目から見てもとても愛らしい。
お咲の記憶では、逸の実家の畑野の家は百五十石で、父親は藩主のお側役である。逸はそんな家のお嬢様であったはずだ。
以前には、逸が下働きに奉公に出なければならないほど畑野家が困窮のどん底に有った事を、お咲は知らない。彼女の知る限りは良い家柄のお嬢様であるはずの逸の、その小柄で華奢な身を惜しまない働きぶりは、意外なことだった。
そしてその逸も新兵衛と同じように下の者に優しく、同じように気さくである。多少の疲労があろうとも笑みを絶やさない。
慌しかった婚礼から一月。
お咲の子供たちも、主人の新兵衛への気持ちと同じくらい、彼が迎えた奥方の逸のことも好きになっているだろう。
(奥様は、きっとお疲れになったのね)
それなら、今日は一日何もせずに休めばいいのだ、とお咲は思った。新兵衛にもそう進言すれば良かったなどと思う。
慌ただしい婚礼からひと月の間、まったく懈怠なく働いていた逸である。
(慣れないことなのに、あんなに何もかもきちんとなさろうとして、きっとお疲れなんだわね)
半分ほど感心を籠めて、お咲は小さな溜息をついた。
それにしても、あるじは良い伴侶を得たものだとお咲はつくづく思う。
さて、とお咲は新兵衛から受け取った膳を片付け、昼食と夕食の仕込みを始める。
「おっかさん」
「あれ、ミツ? 喜一も、今までどこ行ってたの?」
「お掃除」
小さな声でミツが言う。
ミツと喜一は、たまに廊下のぞうきんがけなどを手伝ってくれる事がある。その仕事をしていたと言うのだろうが、どこか様子が落ち着いていない。
「奥様、大丈夫なのかなぁって……」
「旦那様が、しぃ、って。」
「呆れた! お寝間をのぞいたのかい? お前たち、なんてご無礼をしたんだろう!」
こら、とお咲はミツと喜一の頭に拳骨を落とした。
「また旦那様たちのお部屋に近づいたら、もう今度は拳骨じゃ済まないからね! 井戸に吊るすよ!」
ベソをかき始めた二人をにらみながらお咲は怒鳴った。何と言って主人夫妻に謝罪をしようか、頭が痛くなる。
それにしても優しい主人でよかった。
申し訳なさで溜息をつきながら、同時に安堵する。
気性の荒い主人ならば、ミツと喜一のような下働きの家の子供の立場でそのような無礼をしたのなら、手討ちにされてしまったかもしれない。
のし、とミツがお咲の腿にすがりついた。ぐずぐずと鼻を鳴らしている。喜一もお咲の袂を握って同じように鼻を鳴らしている。
「もう、ホントにお前たちは……」
帯にはさんだ手拭いを出して、二人の鼻を拭ってやった。
「後で、旦那様のところに謝りに行くからね。ごめんなさいって、ちゃあんと言うんだよ」
おとっつぁんの手伝いをしておいで、とお咲はミツと喜一を追い出した。
晩秋である。庭の木から葉が落ち続けている。掃いても掃いても追いつかない。
お咲の夫の喜八といねの夫の留吉老人が日々庭を掃除しているが、手は足りていない。
これから来る雪に備えて、余分な枝も落とさねばならない。
冬に備えてやる事は山積みである。
そうだそうだ、と呟きながら、お咲は干した野菜たちの事を思い出した。芋がらなどは、そろそろ取りこんで束ねておくべきだろう。
昨日あたり、逸とそんな話をした記憶がよみがえる。
お咲は、和子といねとともに、保存のために干していた芋がらの乾き具合の様子を見て、取り込む。
「ああ、そろそろ良い時間だね」
いねが言った。遠く、お城の太鼓が聞こえる。
昼食を出さねばなるまい。
子供たちの失礼を新兵衛と逸に謝らねば、と思いながら、お咲は屋敷の奥へ行く。
逸の具合はどうなのだろう。
また粥が良いのだろうか。それとも普通に食事ができるのだろうか。それも訊かねばならない。
廊下の感触が足の裏に冷たい。
曲がり角の隅に少し埃がたまっているのが見えた。喜一やミツではやはり行きとどかないものだ。それでも雑巾がけを手伝いたいと言う彼らの気持ちを、奥方の逸が尊重してくれている。ありがたいことだ。
子供たちのいい加減な仕事ぶりを謝った時、逸は、
「足りないことは、私たちがやれば良いのです。充分に、手伝いになりますよ」
そうでしょう?とお咲に笑いかけてくれた。
「働き者の良い子たちね」
それは、逸が嫁いできてすぐ後のことだったと、記憶にある。
お咲から見れば、まだまだ子供のように見える逸の笑顔が愛らしかった。穏やかな主人の新兵衛が選んだ年若い伴侶は、彼と同じように温かく優しい人なのだと思った。
新兵衛の蟄居への恩赦から婚礼までは、お咲も目が回るほどに慌ただしかった。正直、何をそんなに急ぐのかと呆れるようにも思った。
新兵衛は、蟄居が開けた翌日に、間に人も立てずに自ら畑野家に乗り込んで、畑野家の主にその娘である逸を妻に請い、許しを得た。逸の父は江戸詰めで藩主の側役であり、すぐに主君に帰れと厳命されていた。そのために婚礼は急がれたのである。
新兵衛が畑野家を訪れたその日の夕暮に、そのことを、興奮した様子の和子から聞いてお咲は驚いたものだ。
だが、新兵衛の妻となった逸を知って、その逸を逃すまいとした彼の電光石火の行動の意味が、お咲にも良くわかってきた。
愛らしく気立てもよい逸が、新兵衛をとても好きでいるのがありありと見える。新兵衛もまた、そんな逸をこよなく好きであるのがわかる。
(旦那様も、なかなか……)
袖口の中に、お咲は微笑みを埋めた。
ふと、廊下で足を止める。
気配があった。
衣擦れの音と、ひそやかな吐息と。
か細い声で、旦那様、と聞こえた。
(……あっ)
と思ってお咲は慌てて廊下を引き返した。
近づくときには普通に足音を立てていたくせに、立ち去るときに足を忍ばせても無駄なことだが、そんなことにも気付かない。
廊下の角を一つ曲がって、足を止めた。胸がどきどきする。帯の上からみぞおちを押さえて動悸を静める。
はあ、と溜息をついて昂りを治めた。頬が熱い。そのくせ唇が緩む。
(あらあら、まあ)
袂を顔に当てて、お咲はくすくすと笑いだした。笑いやまないのでしばらくそうして廊下に佇んでいた。
台所に戻ったお咲は、
「お食事は、お二人とも要らないようです……」
和子といねに、それだけを告げた。頬が赤くなっているのを問われたら、何と答えたものだろう。顔を背けながら言った。
誰も、主人夫婦の部屋に近寄ってくれるな、ということを密かに願う。
新兵衛は愛しくてやまない逸と、逸は想い慕ってやまない新兵衛と、今は何もかも忘れて睦み合っているのだと思う。
和子といねに聞いた話が本当なら、二人は互いに思いを寄せ合ってから一度は引き裂かれ、お咲も知る一連の事件にかかわる波乱を乗り越えて、ようやく結ばれたということだったはずだ。
ならば。
今日一日くらい、あまい蜜月を謳歌しても、きっと神様も仏様も許してくれるはず。
そんなことをお咲は思った。
台所から出て、ふと足元の影を見て、影の反対側の太陽を振り仰いだ。
「お天道様だって、きっとお許しくださいますよ」
一人、お咲は笑った。
日差しをあびた顔だけが、少し暖かい。
晩秋の日の事である。
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