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文箱
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しおりを挟む慌ただしい婚礼からひと月とすこし。
秋が深まり、峠には雪が来ているらしい。
未だ役についての沙汰のない新兵衛だが、昼間は外出している。
子供のころから通っている剣術の道場へ行く。
式台に手をつく新妻の逸に見送られて、出かける。逸の愛らしい微笑みを見て、外出を止めようかと思うことも、たまにある。
蟄居が解けた後、束修やそれなりの挨拶の品を携えて現れた新兵衛を、老境に差しかかった師匠も、兄弟子や弟弟子も、皆が歓迎してくれた。
ついでに妻を迎えたことも報告した。
やっぱり妻が在るのは良いでしょう、そんなことを新兵衛に言ったのは、かつて逸に興味を示して新兵衛に妬心を抱かせた弟弟子の三山正二郎である。彼は新兵衛が蟄居になっている間に結婚したそうだ。二軒ほど置いた並びの家の、幼馴染といっていい娘と一緒になり、今その腹には子が居ると頬を赤くして言った。
朝夕の空気が冷たくなった時季だけに、人の温もりがひとしお身にしみる。
逸は、新兵衛が外出した後は、お咲や喜八とともに掃除をする。
喜一やミツも手伝いたがるので、彼らにできそうなことを頼む。頼まれると、子供たちのあどけない顔に無邪気で誇らしげな表情が浮かぶのが、逸は堪らなく楽しかった。
豆のより分けや、隠元の筋とりなど、子供のする事だから最後に逸かお咲がやり直さねばならない用事も多かったが、それはそれで、良い手伝いになってくれている。
子供たちが廊下の雑巾がけなど、冷たい水を使うことさえいとわずにやってくれることが、逸にも、またお咲にもとても助かる事なのだ。
それでも、客間や、新兵衛の居室、自分が与えられている部屋などは、逸はなるべくその手で清掃するようにしていた。
二年前に下働きとして在った時にもそこは逸の持ち場であったから、勝手は解っている。
それでも少しは様子が変わったかと思える部分もある。
新兵衛の居間の違い棚に、似たような大きさの文箱が二つ、ひっそりと置いてある。それは逸が見た事のないものであった。
さして上等なものであるともいえないだろう。塗りの上に菖蒲の絵の描かれたものと、蜻蛉の絵のものであった。少し角の塗りが剥げているようで、昔の物だったのかもしれない。
露出した棚の上に置いてある物であるために、埃がたかる。
はたきで払うのも気が引けるので、逸はその箱達をそっと畳に下ろして固く絞った布で白く浮いた埃を静かに拭う。
新兵衛が在宅の時に、逸がそうしてその文箱を棚から下ろしている姿をみた彼が、
「これは、」
と言って逸の手から奪った事がある。
埃が付いているから、と逸が言うと、少し照れたような顔で新兵衛が彼女の手にその文箱を返してよこした。
新兵衛に、そういった蒔絵の箱などを愛でるような骨董の趣味があるとは、逸には心当たりがない。それにそれほど美しい品物でもない。
だとすれば、大切なのはその文箱の中身なのだろうか。
その時から、少し、その文箱が逸は気になっている。
それでも新兵衛の不在中にその中身を覗くことはしない。気になるからこそ、却ってその箱を開けてはならないと自分を戒めた。夫が見せようとしない物を強いて暴くような、行儀の悪い妻になるまいと逸は思っているのである。
夜が寒くなった。
夜毎、逸は新兵衛の体温に包まれて眠る。
もうひと月の間繰り返されて習慣になっているのに、それでも今でも彼の吐息を耳に感じると、涙が出そうになる。幸せも、胸が痛むのだと、そんなことを思う。
逸は水城家の主婦となった。
それゆえに、当然、夜の明けきらないうちに朝の支度を始めねばならない。夫より先に起床するのはたしなみであった。
その逸を、夜具の中の新兵衛は手放したがらない。
朝の支度が、と言っても聞いてくれない。困る。主婦である逸が朝の支度に遅れては、今は台所の世話など下働きの中心になっているお咲に、恥ずかしいと思う。
渾身の力を込めて、新兵衛の胸を突き離し、床を抜け出て身を起こす。
「聞き分けてくださいませ……」
裾と襟元の乱れを直しながら、寂しい顔をした新兵衛に逸は言う。
そんな顔をされたら、困る。逸は泣きそうな気持で立ちあがって、寝間を出た。
逸が強くなっていく、と新兵衛は苦笑いとともに、逸の温もりの名残を抱いて、少し目を閉じた。黒目がちの眼差しが潤んでいた。困らせたかな、と思う。そう思いつつも、逸の困惑した顔が、好きでもある。
来客もある。
水城家に連なる、新兵衛の叔父叔母と言った人々や、新兵衛の姉と弟妹などである。
新兵衛の妹の、園子という女性が、このひと月の内に二度も訪れた。
この園子が、とにかくよくしゃべる人なのである。
新兵衛はそれほど口数が多い方ではないし、婚礼の席であった彼の姉の奈津江という人も、どちらかといえば新兵衛同様に物静かで穏やかだった。他家に養子に入った弟の浩二郎という人もそうだ。園子は、他の三人分の口数を全て担っているのだろうかと思うほどに賑やかな女性である。
新兵衛の留守に現れて帰って行った園子について、
「今日は、園子さまがおいででした」
と彼に報告すると、うるさかっただろうと言って笑みを浮かべた。
「楽しうございましたよ」
新兵衛の着替えを介添えしながら逸は言った。
「あれは売り込みに来ているんだよ」
「何をです?」
「子供」
「まあ人聞きの悪い」
「本当さ」
園子の家には子供が六人居る。そのうち四人が男子である。長男は家を継ぐが、それ以外の男子はどこか良い縁でもあって養子にでも行かなければ、家に厄介叔父として残ってしまう不安がある。
一方の新兵衛には、未だ後を継ぐ子が居ない。新兵衛の亡き妻の結が存命中にも、園子はその件でよく訪れてきていた。あの頃、結婚して五年経つのになかなか子を授からなかった結には、辛い訪問だっただろう。
とはいえ園子も、自らの子の将来のために必死なのである。一概に園子の態度が酷いとは新兵衛に言えることではない。
「確かにそろそろ、養子でも取らねばならないかもしれない」
「そんな」
逸が悲しげな表情を浮かべた。
まだ逸は、新兵衛に嫁いでひと月しか経っていない。それなのに、もう養子の話とは、考えたくない事だ。
「嫌か?」
「嫌とは申しませんけれど」
着替えを終えてくつろいだ姿になった新兵衛が、不意に、呼吸を忘れるような烈しさで、逸の唇を襲った。
逸の項を手で支え、腕を華奢な腰に絡め、長身を覆いかぶせるようにして、苦しげに喉を鳴らす逸の唇を貪る。
裾をたくしあげようとする新兵衛の手を、逸の手が抑えた。
「まだ、これから夕餉の支度が……」
陶然と唇を濡らしているのに、そんなことを言う。そんな生真面目さが逸の美点でもあるのは、前々からよく知っている。
額を額に付けて、わかった、と新兵衛は頷いた。
新兵衛の居室から退がりながら、逸は少し困惑の色を浮かべている。
この時代の武家の嫁の当然の希望として、逸は、男子を早く授かりたいと望んでいる。
だがまだ嫁いでひと月にしかならない。夜毎、身体を重ねているとはいえ、子が実際に生まれるのは早くても 十月後であろう。
それを待たずに、養子の話を切り出すような新兵衛と彼の妹の園子の気持ちが、少しだけ逸の額を暗い色にする。
しかし、冷静に考えれば、確かにそれは必要な話ではある。
夫が遥かに年上であるということは、そんな心配が早く訪れると言うことなのだ。悲しいと感じたが、それが現実であると受け止めざるを得ない。
逸はまだはたちにもならないのだが、夫となった新兵衛は正月を迎えれば三五歳になる。それから十年もすれば早い者ならば隠居をするような年齢となってしまう。これから十月後に逸が男子を産んだとしても、その子が元服の年齢に達する前に新兵衛は老境を迎えてしまう。
逸も、頭では納得できる。しかし心が暗くなるのは仕方のない事だろう。
(旦那様の御子を産みたい。後継ぎの男の子を、授かりたい)
思わず、沈みかけの夕陽に向けて手を合わせた。
そういう焦りもあるのだろうか、と逸はふと考える。
朝、新兵衛が逸を手放したがらないことも、先ほどのように不意に逸を求めようとすることも、そういう気持ちが彼にもあるからなのだろうか。だとしたら、その手を振り払うのは、妻として間違いか。
少し頬を上気させながら台所に行くと、既にお咲が居て、牛蒡を刻んでいた。
奥さま、とお咲は年若い逸にそう呼びかける。そう呼ぶ時の彼女の顔は、いつもとても嬉しそうだ。
用人の松尾の妻の和子や下婢のいねも、ひと月前から逸を奥さまと呼ぶ。彼女達にそう呼ばれることがひどく照れくさかったが、今は少し慣れてきた。
お咲は、逸が水城家で働いていた時のことを知らない。和子もいねも、逸が下働きとして雇われたとは言わず、一年間、逸を預かっていたとお咲に言っている。そのときに、とうに妻を亡くした新兵衛が逸を見染めたが、お咲も知る通りの事件があり、この事が叶わないかと思われた。
しかし思いがけず彼が赦免になって、ようやく二人が結ばれることができたのだ、と和子といねは、逸と新兵衛の婚礼以来、お咲に語っていたのである。
そんな物語の主人公のような人物として、お咲は少しの憧憬を籠めて逸を見ている。
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