日照雨

春想亭 桜木春緒

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 法華町の畑野家に戻ると、母と弟の睦郎が迎えてくれた。
 母の幸枝は、逸の記憶より少し肥って、顔色も今までになくつやつやとして見えた。それが逸にはとても嬉しいことだった。

 逸から手紙が来たと、帰宅した畑野に、明るい声で月子が言った。
 九月下旬のことである。
 江戸藩邸にも出入りしている高井屋の手代が届けに来たそうだ。
「それからお楽しみになさっていた合巻の続きも来ました。お机の上に置いてございますわ」
「月は読んだのかね?」
「申し訳ありませんが、お先に……」
 月子は畑野の着替えを手伝っている。
 妻が居ればそれは妻の仕事であるが、幸枝は国許に居る。
 帯を締めるのを手伝おうとする月子に遠慮し、自らの手で帯をしながら、傍らで袴を畳む月子の横顔を見る。
 少し笑っている。
 逸と良く似た顔立ちだが、月子の方が少し顎の線と目の形が鋭い。
 江戸に来て一年半。
 そんな月子の眼差しに柔らかさが灯ってきたのは、いつのことだっただろう。
 着替えを終え、夕餉の支度に月子が出て行った後、文机の前に座る。
 日が暮れかけていて、行灯の光でも読むのは難しいかもしれない。それでも今日は早く帰宅したほうだといえる。
 貸し本屋が置いていった合巻本を見て、指先でぱらりと捲りながら、頬杖をついて畑野は溜め息をついた。

 畑野は別にその本の続きを楽しみにはしていない。家に一日居る月子や、学者の塾に通う志郎が、それをどうやらそういった本を読むことを楽しみにしているらしいことは知っている。
 貸し本屋が来ると、月子の様子が明るくなる。だから彼を呼ぶ口実にしてやっているだけのつもりだった。
 その井川源治という男を、畑野はずいぶん以前から知っている。月子もだ。
 貸し本屋を装い、代官所に書物を持ってくる振りをしながら、鳥越と笹生、そして畑野の間を結んでいたのが井川である。
 十年ほど前に、彼がその役に付いた。横目、という藩士を監視する役目であり、ために多分の隠密性を帯びた家の男だった。そもそも家老の鳥越家が密かに井川家をそういう役目として抱えていたようなものであったために、その縁で、彼は好むと好まざるとに関わらずその役に就いた。
 貸し本屋を営む傍ら、彼は実にうまく立ち回ってくれたものだ。
 隠密性のある役目にも拘らず、江戸育ちらしい軽快な態度と、陰りのない笑顔が、他に疑いを持たせなかったものか。
 畑野には、その役目を井川が楽しげに感じているように見えたものだ。
 向いていた、といえるかもしれない。
 その一方で、江戸の店舗に置いていた、町の出身の妻に逃げられたというような話も聞いた。
 それはそうだろう。貸し本屋として在るならば江戸にずっと居たほうが実入りは良いはずだ。それを、ひと月ごとには戸沢領へ行ってしまう。その理由も妻には告げ得ないものであった。町の生まれ育ちの女が耐えられるはずもあるまい。
 一年ほど前に、井川は藩の籍を退いたと言った。
 それでも引き続き、藩邸に書物を貸しに来ている。だから事情を知らぬ他の藩士には、井川は以前より何も変わらないただの貸し本屋の「まる井」であるだろう。
 軽妙な話し振りと、爽やかな笑顔で、藩士の長屋の軒先や、藩邸の台所の隅などで、最近の話題の本を勧める。余計な気苦労のないぶん、今の商いが非常に楽しいのだと、問われて畑野に答えたことがある。
 
 畑野が居ない留守に訪れる井川と、月子は何の話をするのだろうか。
 志郎が在宅のときは、彼も共に井川と月子と、話をするらしい。諸方を歩いているだけに、井川は市中のことに詳しく、面白おかしい話を良く知っているようだ。
 貧しかった頃の畑野の家に井川が初めて現れたのは、月子が十二歳かそこらの頃だっただろう。江戸の風を纏った垢抜けた青年の井川を、畑野でさえ少し眩しく感じた。小娘だった月子も、そのように見たのかもしれない。その後も井川が現れると、月子はいつもそれとなく側に来ていたような記憶がある。
 小娘の頃の憧憬は、悲しい体験を経て、辛い結婚と離別を知った月子にも、いまだ鮮やかなものなのだろうか。

 頬杖の先に、巻いてある手紙がある。
 そういえば月子は逸から手紙が来たと言っていた。
 物思いを中断して、畑野は逸の手紙を開いた。無事に帰国したということであった。

 次の日。
 日の暮れる前に畑野は急ぎ帰宅をした。
「国に帰る」
 慌ただしく、月子にそう言った。
 明日、手形を貰うから、あさっての払暁に出かける、と畑野は言った。あまりの忙しなさに月子は二の句が告げないで居る。

 その日の昼のことだった。
 笹生が畑野の居る御側役の御用部屋に現れた。少し昂ぶっているような、赤らんだ顔をしていた。
 そして二人揃って、急ぎ藩主戸沢大和守に目通りを求めた。
「それがしに、使いをお命じ下さい」
「畑野が?それほどの大事でもあるまいに……。これは目付衆の役ではあるまいか。お前が行けば国許の者達は何事かと驚くぞ」
「枉げて」
 大和守は、畑野が側に居ないと困ると言った。しかし畑野も譲らない。
「どうかお願いでございます」
 ただそれのみを言う。
 根負けした大和守が、速やかに江戸に戻ることを条件に、それを許した。
 莞爾と笑う畑野を、笹生は少し呆れた顔で見ている。

 逸は帰郷した翌日から、またお百度参りに行っている。
 幸枝はそれを知ってただ溜め息をつく。逸はなんと頑固で一途で健気な娘なのだろう。
 もし叶うならば、本当にその祈りが天に届く日があればよい。幸枝もそう願わずには居られない。

 畑野の健脚を、道連れの目付衆の一瀬正左衛門が褒めた。褒めたというよりは呆れているような口ぶりであった。彼は畑野より五歳かそれ以上若いはずだ。
 宿で、按摩を呼んで二人並んで足を揉ませている。費用は、一瀬が持つといっていた。頼むから按摩を呼ばせてくれと彼は懇願したのだった。
「何も畑野殿がお出でになるほどのお使いでは有りますまいに」
「まあ、そうだな。私自身、どうしてと思うよ。これは嬉しい使いなのか、そうでもないことなのかもしれないというのに…」
「おかしなことをおっしゃる……」
 不可思議なことを言いながら、どことなく微笑を帯びているような畑野を一瀬は奇妙な物を見る目で見ている。
 一年半前に江戸の屋敷に現れてから、かつては藩主の学友で小姓であったと言う畑野は、歯に衣着せぬ物言いで周囲に畏怖を抱かせ、その彼が連れてきた二人の娘達の、父親の鋭さを裏切る愛らしさで、一時は江戸詰めの者達の話題をさらった。
 その娘達の縁談に一つの承諾も与えないことでも関心を持たれていた。それとなく、上の娘は実は過去に結婚に失敗したものと知れ、縁談を受け付けないのはそのせいかと思われるようになった。下の娘はしばらくして奥勤めに上がり、なるほど狙いは若殿であったかと思われながら、入梅の頃に奥勤めを退き、彼女は帰郷してしまった。噂では、若殿に側室にと望まれながら断ったらしいとのである。
 自分が畑野の立場ならば、いかようにも説得して娘を側室に差し出しただろうに、と一瀬は思う。それは、娘にとってそれ以上の栄華もなかろうと思うからである。
 変わり者なのだな、と一瀬は畑野の人物をそう断じた。

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