日照雨

春想亭 桜木春緒

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 ははあ、と笹生も畑野も、千賀子夫人の話し振りを聞いて、欣之介本人が夫人に話をしたのだと気づいた。
 そもそも逸は欣之介の侍女ではなく千賀子夫人の侍女である。その逸を捕えて監禁するからには、その事情を逸の直接の主である夫人に通す必要があるからだ。
「畑野え」
 不意に声を掛けられて、少しものを考えていた彼ははっとして頭を下げた。
「逸には許婚が居るのか?」
「いえ居りませぬ」
「左様か。しかし固く想う者があるのであろう。……父親には言わぬか」
 ほほ、と千賀子夫人は袖口を唇に当てて小さく笑った。
 畑野は、恐れ入りまする、と頭を下げた。彼の半歩前に座す笹生もそんな畑野を肩越しに振り返っていた。
「女同士ならでは、解る事もある。逸は賢しいことを申したようだが、結局はそのことゆえに欣之介どのは振られたのであろうよ。見抜けなんだは欣之介の精進不足。何にせよ、欣之介はまだ正室を迎えてふた月足らず、ここで側室なぞ設けては、あちらの家との折り合いの事もある。ここは逸の申し分を通すのが正解と、わたくしは考えます」
「して奥方様、このこと殿には……」
 笹生の問いかけに、
「全て奥向きのこと。殿のお耳に入れる必要などない」
 さらりと夫人は答えた。
 恐れ入りました、と、畏まりました、と畑野と笹生は同時に頭を下げた。

 夕暮れ時に降り始めた雨は本降りになっていた。
 外気は少し冷えてきている。蔵の中の逸はもっと寒いだろう。
 笹生と畑野は再び逸の居る蔵へ向かっている。笹生が観るところ、この事件のことを聞いてから、初めて畑野の表情が曇ったようだった。
 蔵の前で見張りをする侍女と番士に、ご苦労である、と声をかけ、先程のように小窓を少し開けた。
「逸、どうしている?」
「先程、厠に連れて行っていただきました。それに夜着を差し入れていただきましたので温かです」
 中の暗闇から聞こえてきた朗らかな声に、笹生は思わず破顔した。監禁を命じたものの、欣之介は結局のところ逸が可愛く、気に掛かってならないのだろう。
(奥方様はああおっしゃったが……)
 と笹生は考える。今すぐにとは行かないようだが、ほとぼりが冷めてからでも逸が欣之介の側室になることを、笹生は賛成である。彼が逸に奥勤めを勧めたのには、そうなれば良いという底意があった。

「もう、ここは……」
 と畑野が笹生に言う。
「左様……。では若君様のお話を聞きに参る。その後、帰るとしよう。では明朝」
 笹生は立礼する畑野に答えてから去った。

 しばらく沈黙のまま、畑野は番士の焚いている篝火を見ていた。

「逸、話をして良いかな」
 そんな言葉が畑野の喉から出る。少し疲れたような声だ。
「何でございましょうか、父上」
 逸の返事はその様子を悟ってか、心配そうだ。
「そなたが若君にお話したという、空腹の話な。あれは儂にはこたえたな。そなたには辛い思いをさせたものだ。本当にすまないことをした…」
しみじみと、畑野は逸に言った。
「お父様のせいではありません」
「儂の失敗のせいだ。だが儂は、二十年そんな思いをしてきたが故に、今の自分があると誇りに思ってさえ居る。経験せねばわからぬことは多い。特に苦労という奴はな。この先の糧になるとずっと思ってはいた」
 あの頃でさえそう思っていた、と畑野は一旦言葉を切り、大きな溜め息をついた。
「だが、そなた達には本当に辛い思いをさせてきた。誇りに思うなどと、父として本当に恥ずかしいことだな。独りよがりのとんだ馬鹿者だ」
「そんなことをおっしゃっては、私も辛うございます。私は、あのようにした中でも父上が私達を慈しんでくださっていたことを知っています。たくさんのことを教えてくださったことを本当に有り難く存じています。だからそんな風にお考えにはならないで下さいませ。……お恥ずかしいことでございます。卑しくも武家の人間が、腹が満たされぬことなどを偉そうに申した事を、今は恥じます」
「恥に思うことは無い。それは人が生きる上での根幹を成すことだ。大切なことだよ。若君もそれを解って頂きたいと思うところだ。上に立つ者は、国のみなを飢えさせぬように努力せねばならぬ。それは若君もよく知らねばならない大事なことだった。そこは、そなたよく申したよ」
「お褒めくださるのですか?」
 くす、と逸が笑った。笑い声だが、潤んでいる。少し泣いたのかもしれない。
 
 翌朝。

 昼前に、畑野は欣之介に会った。
「ご寛恕かたじけなく存じます」
 と、逸が手討ちにされなかったことについて礼を述べた。
「然りながら逸が若君にご無礼を申し上げた事実は事実でございます。お屋敷からは下がらせることに致します。それがけじめでございます」
 堅い声で畑野はひといきに言い、絶句した欣之介を置き去りに、それでは、と退出した。

 我が娘の幸福を、畑野は父親として真に切望している。
 逸にとっての幸せとは、それは本当にどこにあるのだろう。
 苦労をかけた分、子供たちには本当に幸せになって欲しい。
 年頃も身分も釣合う男のところに当たり前に嫁に行き、当たり前に子を産んで育て、いずれ夫婦二人で孫の手を引いて陽だまりを散歩するのだ。そんなふうに伴侶と共に末永く暖かな人生を歩んで欲しい。

 だが、と畑野は思う。
 逸はその心に既に刻んでしまったのだ。
 一年経っても、華やかな江戸に在っても、まして藩の若殿に求愛されてさえも忘れえぬほどの想いを、逸の心は瑞々しく蔵している。
 ただ僅かな期間、傍にあっただけの関わりとしか見えないその間柄を、未だに逸は宝物のように胸に抱いているのだ。
 
 逸は蔵から出され、そして千賀子夫人に暇を告げて藩の上屋敷から去った。

「国に帰るか……?」
「帰りとうございます」
 父に訊かれて、逸は逡巡なくそう答えた。
 逸が屋敷を出た日、畑野は娘のための手形を申請している。

 出発はまだ先である。
 梅雨のさなか、真夏のさなかの旅は厳しい。
 秋の声を聞く頃に、逸は旅の支度を始めた。
 
 逸に一人旅をさせるわけにもいかないので、畑野は伝手をたどって国元に向かう他の同行者を探した。
 隣の藩邸の出入りの商人の隠居夫婦が、戸沢家の領地を越えた向こう側の方の霊峰へ参詣に行くという話を聞きこんで、それに同行させてもらえるように依頼した。手代や女中をも連れた旅とのことだから、安心である。 
 逸は父親に命じられて、その商人の店に挨拶に出向いた。月子も同行し、用事のあと、国元の母や弟や、他の親しい人々への土産を選んでいる。

 残暑の中で汗を拭っている頃、新兵衛はその逸の手紙を見た。
 勤めをしくじった、と書いてあった。
 そして逸は、秋に帰郷すると言っている。

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