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ほぼ一年を、逸は水城家で過ごした。
下働きとして雇われたとはいえ、主の新兵衛とも顔を合わせることはあっただろうし、話もしただろう。そうして一年も経てば情も湧いて当たり前だ。まして、新兵衛は妻の仇を討とうと思うような感情の持ち主だ。恐らく熱く優しい心を持つ男であろうとは、彼を見知らぬ幸枝にも容易に想像がつく。
それに、と幸枝は思った。
新兵衛の身に危難があると知って畑野と鳥越と共に昨日は逸は家を飛び出していった。
白刃の下に飛び込んで、新兵衛の自害を遮ったとも聞いた。
そして新兵衛にあるいは死かというほどの重い咎が負わされると聞き、逸は激し、そして呆然と絶望し、泣き崩れている。
逸は、新兵衛を慕っていたに違いないと幸枝は気づいた。
そんな想いは初めてだったのだろう。
実らぬものだとはいうが、それでもこんな形で初恋を失おうとしている逸が、幸枝は不憫でたまらなかった。
同じ日。
水城家に鳥越が現れ、用人の松尾に事の顛末を告げ、
「しばし、謹慎ということになる。だが、松尾殿」
鳥越は、陪臣の松尾にも丁寧な言葉を使う。
「大きな声ではいえぬ。私は水城殿を生かしたい。それゆえに、この家にある刀や槍などを全て預からせていただきたい。そして今後も、あなた方が気をつけて、包丁でも鉈でも剃刀でも、そういったものに決して水城殿が近づかないようにしていただきたい」
自害をさせてはならぬ、という申し出に、松尾はただ頭を下げるばかりだった。
それから鳥越と共に来た目付けの役人達や、喜八たちと共に、水城家の武器の一切を集め、彼等が引いてきた大八車に乗せた。
重代の家宝の刀なども含まれたが、松尾は躊躇せずにそれさえも差し出した。
「必ずお返しできる日が来ると、私は信じます」
青ざめた松尾に向かって、鳥越は彼らしい暖かい微笑と共に言った。
そうは言うものの、実のところ鳥越にも、新兵衛が命を保てるかどうか、その成算は半分も無かった。
全ては藩主の決断による。不肖の子とはいえ、自らの息子を狙ったという家臣を、主君が許すかどうかは定かではない。
小姓の頃から長く仕えてきた主であり、決して暗愚な殿様ではないことを信じてはいる。しかし、親としての情と、主君としての賢さは、必ずしも等しいわけではないだろう。あまりなことにならないようにと願うものの、その確信は鳥越にもない。
その日の夕刻、新兵衛は報国寺から諏訪町の自邸に駕籠で戻された。
未だ罪人というわけではないので、網をかけられたりすることは無く、普通の駕籠である。
無理からぬことだったが、松尾の目からは新兵衛が少し憔悴したように見えた。
それでも、鳥越に聞いたような、藩の若君を襲撃して従者に重い傷を負わせたというような危険な様子は微塵も無く、常と変わらない穏やかな新兵衛の表情であった。
「びっくりさせただろう。すまなかったね」
透き通るような笑顔で、出迎えた家人に新兵衛はそれだけを言った。
出掛けた時と同じ、黒羽二重の紋付に仙台平の袴である。袴の裾に、どす黒い染みがついている。その染みが血であると気づいたとき、禍々しい知らせが真実であると松尾は納得することが出来た。
新兵衛は居間の一室に閉じ込められ、その見張りには鳥越の家臣が付いた。
数日後、榊大膳なども含む藩主の一族の人々を集めて、仙之介の葬儀が行われた。非常にひそやかな物であったようだ。
そうであったらしい、ということを、松尾は新兵衛の見張りに来た鳥越の家臣に聞いた。
この年は、閏三月があった。
日々、春がたける。夜明けも早くなった。
その朝も、逸は暗いうちから密やかに家を出た。
お百度参りに行く。
祈るのは無論、新兵衛のことである。重い罪にならないように、死罪になどならないように、お殿様が許してくださるように。そのことを、ずっと心に念じる。
小走りの素足で小石や小枝を踏み抜いたり、転倒したりして手足に血がにじんでも構わず、本堂からお百度石までの往復を繰り返した。
帰ってからは、何も言わずに日常どおりに家事をする。
幸枝も畑野もそんな逸に気づいていたが、何も言わなかった。好きなようにさせてやろうと、夫婦で頷きあった。
何もせずには居られない逸の心情を、尊重してやりたいと思うのだった。
畑野は、幸枝に指摘されて、逸が新兵衛を慕っていたのであろう、という朧に抱いていた疑いを、ようやくはっきりと認めた。
そのことを幸枝に言われて、一抹の寂しさと溜め息と共に、なるほどと思ったものだ。
子供も、いつまでも子供ではない。あの小さな逸が、そんな想いを抱くほどの大人になっていたのか。そんな感慨を持った。
あと一ヶ月をしないうちに、参勤交代で藩主が国許に戻ってくる。
それと入れ替わるように、畑野は江戸へ行くことになる。
月子と逸も、父に従って江戸に行く予定である。既に手形も申請してあった。
幸枝はこのところの逸の様子から、江戸へ行かせるのはどうだろうかと懸念を口にした。
「だが、ここに居て何になる?江戸に行ったほうが気も紛れるだろう。逸のためにも、強いて江戸に連れて行こうと思うよ」
畑野も譲らない。彼はそれが最も逸のためになると考えているからこそである。
月子も父と同意見だった。
「お母様。私がちゃんと逸を見ていますから」
そう言って、幸枝に月子は微笑む。
幸枝にしてみれば、そういう月子のことも不憫でたまらない。父と母が状況に抗う力を持たなかった頃、一番辛い思いをしてきたはずの月子である。それでも常に両親を心配し、弟妹達の力になろうとする。健気でこの上なく優しい娘だ。
何て良い子だろう。月子の笑顔を見るたびに、幸枝は涙ぐむほどにそう思うのだった。
息子達は、男であるから、自らの力で幸せを切り開くことが可能だ。しかし女である娘達は、この社会では一人の努力では如何ともしがたい。いずれ添う相手次第である。月子も、逸も、良い伴侶を得て、どうか幸せな生涯を送って欲しい。彼女達が生まれたときから幸枝はずっとそう願ってきたのに、どうも、うまくいかないものだ。
(思いやりのある良い娘たちなのに。どうして幸せは遠いのでしょう)
太陽に合掌しながら、幸枝はそんな恨み言を呟くことがある。
下働きとして雇われたとはいえ、主の新兵衛とも顔を合わせることはあっただろうし、話もしただろう。そうして一年も経てば情も湧いて当たり前だ。まして、新兵衛は妻の仇を討とうと思うような感情の持ち主だ。恐らく熱く優しい心を持つ男であろうとは、彼を見知らぬ幸枝にも容易に想像がつく。
それに、と幸枝は思った。
新兵衛の身に危難があると知って畑野と鳥越と共に昨日は逸は家を飛び出していった。
白刃の下に飛び込んで、新兵衛の自害を遮ったとも聞いた。
そして新兵衛にあるいは死かというほどの重い咎が負わされると聞き、逸は激し、そして呆然と絶望し、泣き崩れている。
逸は、新兵衛を慕っていたに違いないと幸枝は気づいた。
そんな想いは初めてだったのだろう。
実らぬものだとはいうが、それでもこんな形で初恋を失おうとしている逸が、幸枝は不憫でたまらなかった。
同じ日。
水城家に鳥越が現れ、用人の松尾に事の顛末を告げ、
「しばし、謹慎ということになる。だが、松尾殿」
鳥越は、陪臣の松尾にも丁寧な言葉を使う。
「大きな声ではいえぬ。私は水城殿を生かしたい。それゆえに、この家にある刀や槍などを全て預からせていただきたい。そして今後も、あなた方が気をつけて、包丁でも鉈でも剃刀でも、そういったものに決して水城殿が近づかないようにしていただきたい」
自害をさせてはならぬ、という申し出に、松尾はただ頭を下げるばかりだった。
それから鳥越と共に来た目付けの役人達や、喜八たちと共に、水城家の武器の一切を集め、彼等が引いてきた大八車に乗せた。
重代の家宝の刀なども含まれたが、松尾は躊躇せずにそれさえも差し出した。
「必ずお返しできる日が来ると、私は信じます」
青ざめた松尾に向かって、鳥越は彼らしい暖かい微笑と共に言った。
そうは言うものの、実のところ鳥越にも、新兵衛が命を保てるかどうか、その成算は半分も無かった。
全ては藩主の決断による。不肖の子とはいえ、自らの息子を狙ったという家臣を、主君が許すかどうかは定かではない。
小姓の頃から長く仕えてきた主であり、決して暗愚な殿様ではないことを信じてはいる。しかし、親としての情と、主君としての賢さは、必ずしも等しいわけではないだろう。あまりなことにならないようにと願うものの、その確信は鳥越にもない。
その日の夕刻、新兵衛は報国寺から諏訪町の自邸に駕籠で戻された。
未だ罪人というわけではないので、網をかけられたりすることは無く、普通の駕籠である。
無理からぬことだったが、松尾の目からは新兵衛が少し憔悴したように見えた。
それでも、鳥越に聞いたような、藩の若君を襲撃して従者に重い傷を負わせたというような危険な様子は微塵も無く、常と変わらない穏やかな新兵衛の表情であった。
「びっくりさせただろう。すまなかったね」
透き通るような笑顔で、出迎えた家人に新兵衛はそれだけを言った。
出掛けた時と同じ、黒羽二重の紋付に仙台平の袴である。袴の裾に、どす黒い染みがついている。その染みが血であると気づいたとき、禍々しい知らせが真実であると松尾は納得することが出来た。
新兵衛は居間の一室に閉じ込められ、その見張りには鳥越の家臣が付いた。
数日後、榊大膳なども含む藩主の一族の人々を集めて、仙之介の葬儀が行われた。非常にひそやかな物であったようだ。
そうであったらしい、ということを、松尾は新兵衛の見張りに来た鳥越の家臣に聞いた。
この年は、閏三月があった。
日々、春がたける。夜明けも早くなった。
その朝も、逸は暗いうちから密やかに家を出た。
お百度参りに行く。
祈るのは無論、新兵衛のことである。重い罪にならないように、死罪になどならないように、お殿様が許してくださるように。そのことを、ずっと心に念じる。
小走りの素足で小石や小枝を踏み抜いたり、転倒したりして手足に血がにじんでも構わず、本堂からお百度石までの往復を繰り返した。
帰ってからは、何も言わずに日常どおりに家事をする。
幸枝も畑野もそんな逸に気づいていたが、何も言わなかった。好きなようにさせてやろうと、夫婦で頷きあった。
何もせずには居られない逸の心情を、尊重してやりたいと思うのだった。
畑野は、幸枝に指摘されて、逸が新兵衛を慕っていたのであろう、という朧に抱いていた疑いを、ようやくはっきりと認めた。
そのことを幸枝に言われて、一抹の寂しさと溜め息と共に、なるほどと思ったものだ。
子供も、いつまでも子供ではない。あの小さな逸が、そんな想いを抱くほどの大人になっていたのか。そんな感慨を持った。
あと一ヶ月をしないうちに、参勤交代で藩主が国許に戻ってくる。
それと入れ替わるように、畑野は江戸へ行くことになる。
月子と逸も、父に従って江戸に行く予定である。既に手形も申請してあった。
幸枝はこのところの逸の様子から、江戸へ行かせるのはどうだろうかと懸念を口にした。
「だが、ここに居て何になる?江戸に行ったほうが気も紛れるだろう。逸のためにも、強いて江戸に連れて行こうと思うよ」
畑野も譲らない。彼はそれが最も逸のためになると考えているからこそである。
月子も父と同意見だった。
「お母様。私がちゃんと逸を見ていますから」
そう言って、幸枝に月子は微笑む。
幸枝にしてみれば、そういう月子のことも不憫でたまらない。父と母が状況に抗う力を持たなかった頃、一番辛い思いをしてきたはずの月子である。それでも常に両親を心配し、弟妹達の力になろうとする。健気でこの上なく優しい娘だ。
何て良い子だろう。月子の笑顔を見るたびに、幸枝は涙ぐむほどにそう思うのだった。
息子達は、男であるから、自らの力で幸せを切り開くことが可能だ。しかし女である娘達は、この社会では一人の努力では如何ともしがたい。いずれ添う相手次第である。月子も、逸も、良い伴侶を得て、どうか幸せな生涯を送って欲しい。彼女達が生まれたときから幸枝はずっとそう願ってきたのに、どうも、うまくいかないものだ。
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