日照雨

春想亭 桜木春緒

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 新兵衛の襟を掴み、揺さぶって逸は泣く。
 
 その黒羽二重の紋付の下に、白装束を着ていたことを、それで逸も鳥越も初めて気づいた。
 石畳の上に新兵衛は仰向けに倒れた。その胸に逸が縋りついている。

 ほんの瞬く前。

 逸は、新兵衛の懐に向けて全力で走って、飛び込んだ。そこに刃があることも、触れれば肌を切るであろう事も、考えはしない。
 立ち腹を切ろうとしていた新兵衛は咄嗟に、懐に飛び込んできた逸を傷つけぬために自らの腹に擬した刀を頭上に上げた。そしてその逸を避けきれずに重なって倒れた。
 胸元にその逸がしがみつく。
「死んでは嫌!」
 逸はそう言っているのだが、新兵衛の耳にはただ逸がわあわあと泣き叫んでいるようにしか聞こえなかった。逸の号泣を初めて聞く。

 間もなく春が来る。その日差しが、空を向いた新兵衛の視界を真っ白に射た。
 いや、と逸が新兵衛の胸の上で身を揉んで泣いている。いや、と逸は言う。死んでは嫌だと、逸は新兵衛にすがって泣く。
 大樹の上から白々と陽光が降り注ぐ。雨が降り注ぐ。
 左右の掌で、新兵衛は頭を抱えるように目を覆った。
 日差しが目に痛かった。雨粒も目に入った。逸がひどく泣いている。

 多分、結を失ってから初めて、新兵衛は泣いた。
 陽光とそれに見合わぬ雨粒が新兵衛の顔に降り注いでいる。

 報国寺の貫主を連れて戻った畑野も、鳥越と同じく呆然と、新兵衛の胸に縋って泣き続ける逸を見た。
 身を起こした新兵衛の襟を、逸は掴んで離さない。その中に顔を埋めて幼い子供のようにしゃくりあげている。すこし途方にくれたような新兵衛がその逸の頭を撫でていた。
 疾うに刀から手を離し、彼の傍らにそれは置かれている。逸が誤って触れぬよう、少し離して置いている。
 畑野に連れられてきた貫主に付添ってきた僧達が、負傷者の手当てに掛かり、また一部は彼らを運ぶための戸板を取りに戻っていった。
「お騒がせして申し訳ありませぬ」
 鳥越は貫主の前に行って頭を下げた。
 藩主一族の菩提寺の貫主の日澄は、家老の榊大膳の弟で、現藩主のやはり叔父にあたる。
 その場に斃れている仙之介にとっては大叔父である。
「……仙之介どのが腹を切ったのかね」
 ある種の感慨を籠めて日澄は言った。
 城下に在る者として、それなりに仙之介の行状を聞いてはいたのだろう。それに日澄は藩主一族の法要などに現れる仙之介のこともよく見知っている。見知っていて、眉をひそめていたものだ。
「お見事でございました」
 日澄に答えたのは、鳥越ではなかった。
 加恵と共に仙之介の傍らに膝を付いていた杉原だった。
「潔く、莞爾とされて……。このようなお方だったのなら、もっと我々が……」
 身近な者が勘気を怖れずに正しい道を諭していたのならば、そのことを杉原は繰り返した。
「介錯は、……ああ、」
 日澄は目を新兵衛に向けて、頷いた。
 以前に報国寺で療養していたことがあるために、日澄も新兵衛を見知っている。新兵衛の妻のことまでを日澄が知っていたかどうかは定かではない。そのことには、触れない。
 新兵衛は逸の肩をそっと押して少し身体を離し、座りなおして日澄に向けて平伏した。彼も藩の貴人である。逸も泣き顔のままで新兵衛の傍らで、それにならって、高貴な僧衣を纏った日澄に向けて同じように頭を下げた。

 日澄の指示で、仙之介の亡骸は本堂へ運ばれた。杉原と加恵が仙之介に湯灌を施し、白装束を着せた。
 咽ぶほどに香を焚き、貫主の日澄が自ら経を上げた。
 日澄が去った後も、杉原と加恵は仙之介の側に、ただ沈黙のままで座している。

 庫裏には、新兵衛の襲撃によって負傷した者達の手当てが行われている。
 医師が呼ばれ、些か騒然としている。
 新兵衛はその喧騒から少し離された部屋に一人座している。
 脇差も大刀も、鳥越が預かっている。そうして腰のものを奪われると、罪人になったような気分ではある。
 否、罪人ではあるだろう。藩主の子息を襲撃した。それはいかなる事情が有ろうとも、罪であった。
 ぼんやりと、いまだ昼の光を残す障子に目をやりながら、生きているな、とだけ新兵衛は思った。

 あの時。
 そんなことを新兵衛は思う。
 日澄に平伏したとき、乱れた襟元から、紙片がこぼれた。
 拾ういとまもなく強風にあおられて飛び去ってしまったのを覚えている。
 この先、結の戒名を懐にすることもあるまい。仇は、死んだ。
 しかしそれと同時に果てるはずだったのだが、生きている。
 生きているのだな、と思った。
 
 いつの間にか風が止み、雲も払われたのか、太陽が安定した光を地に落としている。

 逸も、まだ報国寺に居る。庫裏の一室を与えられ、水を張った桶を運んでもらい、与えられた晒を使って、顔や手足の泥を拭って清めた。足にひどい痣と擦過傷がいくつかできているのをそのとき初めて気づいた。
 着物もひどく泥だらけで、少し呆れる。
 まだ日は暮れていない。それでも、何と長い一日だろうかと逸は思った。
(旦那様……)
 思えば、胸が痛む。今拭ったばかりの頬に再び涙が伝う。

 どうして、知らなかったのか。
 半年ほど前まで、毎日同じ屋敷に暮らし、日々顔をあわせ何くれとなく話していた。身体を重ねたことさえあったというのに、逸は新兵衛の心のうちに秘められた悲しみも、苦しみも、絶望的な覚悟も怨念も、何一つ知らず、気づくことさえなかった。
 今日の一日で、逸は初めて新兵衛の蔵していた哀しみを知った。亡くなった結が、実は事故ではなく、粗暴な若者達に陵辱されて殺されたことを鳥越の口から聞き、結を殺した仙之介当人の口から、そのとき彼女が新兵衛の子を身ごもっていたことを聞いた。
 何もかも、逸は知らなかった。
 愚か過ぎて、自分が情けない。(旦那様が好き)そんなことを考えて胸を熱くし、彼が自分を好きで居てくれるのかと考えてわくわくしたり、亡くなった結に対し、ある種の優越感を持って、新兵衛を好きになったことを許してくださいなどと念じていたこともある。
 以前は奥様だったのかも知れないが、今、旦那様のそばにあるのは私だ、とそんなことを考えていた。
 馬鹿な子供だ。逸は自分のことをそう断じた。みっともない、恥ずかしい子供だ。

 仙之介を介錯した後、新兵衛は身体の底から沸き上がる様な声で咆哮し、その場で自害しようとさえした。
 ずっとその覚悟をしていたのだろう。
 どれほど恨み深い相手であろうと、仙之介は藩主の子である。手に掛ければ罪である。彼の命を奪ったときに、新兵衛も同時に死ぬつもりであったのだろう。
 そう決めたのは、恐らく結が亡くなったそのときからなのだろう。
 一年も、新兵衛を見つめていて逸はそれに気づかなかった。
 あの半分隠居のような暮らしぶりの中で、緩みのない挙措や、厳しい鍛錬は、全てこの日のためにあったのだ。全ての覚悟を決めていたからこそ、あのような安逸な暮らしの中でもたゆむことなく日々心身を鍛え続けることができた。
 何もかも、今思えば、ということだ。

 逸は膝の上に握り締めた拳に、こぼれた涙を感じた。
 自分を情けないと思うと同時に、新兵衛の亡き妻の結に対してひどく嫉妬を感じた。
 夫婦であったのは5年ほどだと聞いていたが、その間に、どれほどの絆を育んでいたのか。亡くなって三年が経とうというのに、それでも今しも新兵衛に死を覚悟させるほどに、結の存在というのは彼にとって重いものだったのだ。それを、つい先刻、逸は見せ付けられた。
 疾うに亡くなった人に対して嫉妬する醜さを、逸は嫌らしく感じた。
 手足を拭ったばかりの布に逸は顔を埋めた。

 自らを責める気持ちに落ち込む一方で、それでも、新兵衛に会えたことが、逸にはやはり嬉しいことだった。
 あのような事態ではあったが、それでも、新兵衛の姿を目の当たりにした。数えれば、この報国寺で不意に鳥越に家族の許に帰れと言われてからもう半年近い月日が経つ。
 半年前、負傷で真っ青になって床に横たわっていた新兵衛が、今は仙之介を襲撃できるほどに元気になった。それが、逸は嬉しい。
 明暗とりどりの感情が綯い交ぜになった中で、逸はただうずくまった。

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