24 / 65
24
しおりを挟む
既に過去の物としていわれるようになった藤崎が、蟄居中に腹を切った。
自発的にそうしたものか、鳥越らが強要したものかは定かではない。だが誰もそれを探ろうとはしなかった。
今のところの体制としては、執政たる筆頭家老には榊大膳が就き、藤崎一族以外の家老職の物はそのまま留任となった。中老職も然り。
だが実際のところは、大目付である鳥越が既に執政であると言って良い働きを始めている。それは藩の誰の目にも明らかだった。
藤崎が擁立しようとしていた、側室腹の藩主の次男仙之介雅義はもともとの住いである二の丸の屋敷内に軟禁となっていた。これも春の参勤交代で藩主が帰国する前には然るべき処置が取られるだろうと専らの噂であった。
その噂は、決して同情的なものではない。
藤崎吉太郎とともに、仙之介の不行跡は、藩士領民からの憎しみを買っていた。
新兵衛が報国寺で傷を養っているときに、名乗らずに見舞いに訪れ、妻の恨みを、娘の恨みを、良くぞ晴らしてくださったと礼を述べて言った人々にとっては、仙之介も死んだ藤崎吉太郎と同罪なのである。
藩の実質上の頂点に居たこの二人の青年は、自らが藩の法の埒外にあるとでも勘違いしていたのだろう。そして藩の人々とって不幸なことに、この身分の高い二人は異様なまでに好色で強欲で、歯止めが利かぬほど強壮だった。
馬を駆けさせては、畑で働く百姓の妻に春情を起こしてそれをその場で強姦することなど日常茶飯事であった。ちょっと目に付くような藩士の娘など、待ち伏せて拉致し、屋敷で慰み尽くすこともまれなことではなかった。妻を汚された藩士も、両手の指に余るかもしれない。
それらの行状も、金と権力で被害に遭った者達を黙らせることを得てきた。
また、妻や娘が汚されたことを声高に言うような者も居なかったため、ますます彼らは増長したのだろう。
中老の笹生の元に、仙之介の侍女がまた一人死んだという知らせが来た。
これまでは藤崎がそういうことを裏で処理してきたのだろう。表沙汰になっては、次代藩主として仙之介を擁立することが適わなくなるからだ。
この事態になる前から、密かに噂されていた仙之介の性癖を、笹生は暗澹として思い浮かべている。
死んだ侍女の首には、強く絞められた指の跡があるという。これまでに亡くなったという侍女にも同じような痕跡があったらしい。
仙之介は交合の興奮が極まると、女の首を絞めるのだという。
その噂を恐れて、仙之介の元に侍女に上がりたがる女は居ない。
しかし好色で強壮な肉体を持つ仙之介は、女無しでは過ごせない。手の届く範囲に女が居なければ、外に出て、見かけた女を犯すのだ。
辻に立つ売女が首にそういう傷跡をつけてひっそりと死んでいるのが見つかった朝は、捕り方は黙ってそれを片付けるだけだった。事を荒立てて下手人を探せば、行き当たるのは若君の仙之介と藤崎吉太郎になるからだ。
役人達にとっても、触れてはならぬ禁域であった。
今は、吉太郎は死に、仙之介は軟禁されている。その手の事件が激減し、女達はもちろん捕り方の者達も安堵したのは言うまでも有るまい。
藤崎が居た頃は、彼の領地から何も知らぬ百姓娘などを侍女に仕立て上げて仙之介に献上していたらしい。だが、そのことを怖れて逃げ出す女も多かった。
藤崎の居ない今、その手当てをする者は居ない。
笹生にしても鳥越にしても、仙之介のために命を失うような女をこれ以上増やす気になれなかった。
侍女を、と仙之介に付けられている用人から再三の要請はあるのだが、誰もがそれを無視している。
いっそ、悶死してしまえばよい。とは、口に出さずとも鳥越も笹生も考えている。
仙之介の人物では、自ら切腹することなどありえまい。だからといって直接手を下すことが憚られる。どれほど愚劣な人物であっても、藩主の子なのである。
執政が交代し、もろもろの方策が変更されつつあるとはいうものの、未だ貧しい者のところに糧がいきわたるほどに改善はされていない。
逸の育った山村では、藤崎の縁者である下劣で欲深な者から、代官が別の者に変わった。
もう、貧しい下士たちの妻や娘を売り物にする者もいなくなった。
しかし、斡旋をされることが無くとも、他の方法で糧を得られるかといえばそうではない。相変わらず、貧しい家の女達は城下の出合茶屋近くの辻に立っている。世話料といったものを搾取されなくなっただけで、身体でも売らねば家族が飢えてしまうことは変わっていない。
それは逸たちの居た村だけの状況ではない。
他の寒村でも、同じようなものだった。
その夕、頭巾に顔を隠して、茶屋の裏手で客を待っていた加恵という者がある。十八歳になる娘である。
細面で、唇が小さく、目も一重で細い。抑揚の無い顔立ちであるが、造作は武家の娘らしく品良く整っている。
薄く藍を流したような夕闇に、編み笠の中年の武士に加恵は声をかけられた。
「……そなた、買っても良いか」
加恵は小さく頷いた。
いかにも遊び女であるような姿をしていない。加恵のような女達は、すすけた着物ではあるが、普通の武家娘の姿をして辻にいる。
「屋敷に来てもらおう」
「相判りました」
そういう客も、多い。
男に従って通りに出ると、駕籠に乗せられた。それも良くあることであった。
加恵が駕籠を出ると、見たことも無いほど立派な屋敷の裏口に来ていた。
「客は、儂ではない」
それも良くあることだった。この中年男の主なのであろう。屋敷から出ずに女を買おうとは、隠居している老人であろうか。
どこの屋敷かは、わからなかったが、加恵は訊こうとも考えない。同じ家中でありながら、どうしてこのように差があるものかと少しだけ思う。片や買う者であり、自分は悲しくも身を売る者である。
勝手口で、男から老女に加恵は手渡された。
その老女に従って屋敷の奥へ進む。
まず湯殿に通された。身体を清めよというのだろう。言われるままに加恵は着衣を脱ぎ、湯に入り、渡されたぬか袋で肌をこすった。湯が温かく心地よい。悪い待遇ではないと少し嬉しくなる。
湯を出ると、老女が浴衣で加恵の身体を覆った。その浴衣で水気をとった後、触れたことの無いようなしなやかな綸子の白い寝間着を着せられ、その後に髷を解かれ、良いにおいのする髪油で髪を梳かされた。
加恵は姫君になったような夢心地になる。このようなことは初めてだった。
しずしずと歩く老女に従って、縁の廊下を奥へと進む。僅かな月明かりに見える庭も、見事な造作であるようだった。どれほどの身分なのだろう。
廊下から障子を開けて中に入り、その先の襖の前で老女が加恵に平伏せよと命じた。
「連れてまいりました」
「置いて、下がれ」
命令どおりに老女は去った。
「入れ」
と命じる声は、加恵の予想に反して若かった。
自発的にそうしたものか、鳥越らが強要したものかは定かではない。だが誰もそれを探ろうとはしなかった。
今のところの体制としては、執政たる筆頭家老には榊大膳が就き、藤崎一族以外の家老職の物はそのまま留任となった。中老職も然り。
だが実際のところは、大目付である鳥越が既に執政であると言って良い働きを始めている。それは藩の誰の目にも明らかだった。
藤崎が擁立しようとしていた、側室腹の藩主の次男仙之介雅義はもともとの住いである二の丸の屋敷内に軟禁となっていた。これも春の参勤交代で藩主が帰国する前には然るべき処置が取られるだろうと専らの噂であった。
その噂は、決して同情的なものではない。
藤崎吉太郎とともに、仙之介の不行跡は、藩士領民からの憎しみを買っていた。
新兵衛が報国寺で傷を養っているときに、名乗らずに見舞いに訪れ、妻の恨みを、娘の恨みを、良くぞ晴らしてくださったと礼を述べて言った人々にとっては、仙之介も死んだ藤崎吉太郎と同罪なのである。
藩の実質上の頂点に居たこの二人の青年は、自らが藩の法の埒外にあるとでも勘違いしていたのだろう。そして藩の人々とって不幸なことに、この身分の高い二人は異様なまでに好色で強欲で、歯止めが利かぬほど強壮だった。
馬を駆けさせては、畑で働く百姓の妻に春情を起こしてそれをその場で強姦することなど日常茶飯事であった。ちょっと目に付くような藩士の娘など、待ち伏せて拉致し、屋敷で慰み尽くすこともまれなことではなかった。妻を汚された藩士も、両手の指に余るかもしれない。
それらの行状も、金と権力で被害に遭った者達を黙らせることを得てきた。
また、妻や娘が汚されたことを声高に言うような者も居なかったため、ますます彼らは増長したのだろう。
中老の笹生の元に、仙之介の侍女がまた一人死んだという知らせが来た。
これまでは藤崎がそういうことを裏で処理してきたのだろう。表沙汰になっては、次代藩主として仙之介を擁立することが適わなくなるからだ。
この事態になる前から、密かに噂されていた仙之介の性癖を、笹生は暗澹として思い浮かべている。
死んだ侍女の首には、強く絞められた指の跡があるという。これまでに亡くなったという侍女にも同じような痕跡があったらしい。
仙之介は交合の興奮が極まると、女の首を絞めるのだという。
その噂を恐れて、仙之介の元に侍女に上がりたがる女は居ない。
しかし好色で強壮な肉体を持つ仙之介は、女無しでは過ごせない。手の届く範囲に女が居なければ、外に出て、見かけた女を犯すのだ。
辻に立つ売女が首にそういう傷跡をつけてひっそりと死んでいるのが見つかった朝は、捕り方は黙ってそれを片付けるだけだった。事を荒立てて下手人を探せば、行き当たるのは若君の仙之介と藤崎吉太郎になるからだ。
役人達にとっても、触れてはならぬ禁域であった。
今は、吉太郎は死に、仙之介は軟禁されている。その手の事件が激減し、女達はもちろん捕り方の者達も安堵したのは言うまでも有るまい。
藤崎が居た頃は、彼の領地から何も知らぬ百姓娘などを侍女に仕立て上げて仙之介に献上していたらしい。だが、そのことを怖れて逃げ出す女も多かった。
藤崎の居ない今、その手当てをする者は居ない。
笹生にしても鳥越にしても、仙之介のために命を失うような女をこれ以上増やす気になれなかった。
侍女を、と仙之介に付けられている用人から再三の要請はあるのだが、誰もがそれを無視している。
いっそ、悶死してしまえばよい。とは、口に出さずとも鳥越も笹生も考えている。
仙之介の人物では、自ら切腹することなどありえまい。だからといって直接手を下すことが憚られる。どれほど愚劣な人物であっても、藩主の子なのである。
執政が交代し、もろもろの方策が変更されつつあるとはいうものの、未だ貧しい者のところに糧がいきわたるほどに改善はされていない。
逸の育った山村では、藤崎の縁者である下劣で欲深な者から、代官が別の者に変わった。
もう、貧しい下士たちの妻や娘を売り物にする者もいなくなった。
しかし、斡旋をされることが無くとも、他の方法で糧を得られるかといえばそうではない。相変わらず、貧しい家の女達は城下の出合茶屋近くの辻に立っている。世話料といったものを搾取されなくなっただけで、身体でも売らねば家族が飢えてしまうことは変わっていない。
それは逸たちの居た村だけの状況ではない。
他の寒村でも、同じようなものだった。
その夕、頭巾に顔を隠して、茶屋の裏手で客を待っていた加恵という者がある。十八歳になる娘である。
細面で、唇が小さく、目も一重で細い。抑揚の無い顔立ちであるが、造作は武家の娘らしく品良く整っている。
薄く藍を流したような夕闇に、編み笠の中年の武士に加恵は声をかけられた。
「……そなた、買っても良いか」
加恵は小さく頷いた。
いかにも遊び女であるような姿をしていない。加恵のような女達は、すすけた着物ではあるが、普通の武家娘の姿をして辻にいる。
「屋敷に来てもらおう」
「相判りました」
そういう客も、多い。
男に従って通りに出ると、駕籠に乗せられた。それも良くあることであった。
加恵が駕籠を出ると、見たことも無いほど立派な屋敷の裏口に来ていた。
「客は、儂ではない」
それも良くあることだった。この中年男の主なのであろう。屋敷から出ずに女を買おうとは、隠居している老人であろうか。
どこの屋敷かは、わからなかったが、加恵は訊こうとも考えない。同じ家中でありながら、どうしてこのように差があるものかと少しだけ思う。片や買う者であり、自分は悲しくも身を売る者である。
勝手口で、男から老女に加恵は手渡された。
その老女に従って屋敷の奥へ進む。
まず湯殿に通された。身体を清めよというのだろう。言われるままに加恵は着衣を脱ぎ、湯に入り、渡されたぬか袋で肌をこすった。湯が温かく心地よい。悪い待遇ではないと少し嬉しくなる。
湯を出ると、老女が浴衣で加恵の身体を覆った。その浴衣で水気をとった後、触れたことの無いようなしなやかな綸子の白い寝間着を着せられ、その後に髷を解かれ、良いにおいのする髪油で髪を梳かされた。
加恵は姫君になったような夢心地になる。このようなことは初めてだった。
しずしずと歩く老女に従って、縁の廊下を奥へと進む。僅かな月明かりに見える庭も、見事な造作であるようだった。どれほどの身分なのだろう。
廊下から障子を開けて中に入り、その先の襖の前で老女が加恵に平伏せよと命じた。
「連れてまいりました」
「置いて、下がれ」
命令どおりに老女は去った。
「入れ」
と命じる声は、加恵の予想に反して若かった。
0
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説
蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻
初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。
1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。
霧深き北海で戦艦や空母が激突する!
「寒いのは苦手だよ」
「小説家になろう」と同時公開。
第四巻全23話
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。
一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
旅路ー元特攻隊員の願いと希望ー
ぽんた
歴史・時代
舞台は1940年代の日本。
軍人になる為に、学校に入学した
主人公の田中昴。
厳しい訓練、激しい戦闘、苦しい戦時中の暮らしの中で、色んな人々と出会い、別れ、彼は成長します。
そんな彼の人生を、年表を辿るように物語りにしました。
※この作品は、残酷な描写があります。
※直接的な表現は避けていますが、性的な表現があります。
※「小説家になろう」「ノベルデイズ」でも連載しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる