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病で伏せていた和子が、今日は多少調子が良いのか、逸の部屋に来ていた。
綺麗な晒を一反と、海老茶の縮緬の頭巾を持ってきている。それに、彼女の物らしい、しなやかな絹の紺の紬と、それに合う梔子色の帯、襟を替えてある襦袢、足袋まで携えている。
逸が現れると、和子はまず顔を洗ってくるように命じた。
「お城の方々も大勢詰めておられるはず。あまりな姿で参っては、水城家の恥ですよ」
「でも……、はい」そんな悠長なことをしていられないと逸は焦燥する。
動けないほどの傷を、新兵衛が負っていると聴いた。少しでも早く、彼に会いたい。命は取り留めたと聞いたがそれは本当だろうか。どんな傷を負ったのだろうか。どれほど痛かった事だろうか、それを思うと涙が湧いてくる。
逸が着物を替えている間に、和子は奥へ向かって、新兵衛の肌着や着替えの物を探して持ってきて、風呂敷の中に晒と共に包み込む。
「周りの方々にも粗相の無いように、お言いつけを良くお聞きになってね」
「はい」
「報国寺はわかりますか?」
「存じません。どの方角でしょうか? 道すがら、人に聞いて参ります」
「お城はわかりますね。その北の方角です」
話しながら、和子は逸に頭巾を被せた。
「泣いてはなりませんよ。旦那様をお願いしますね」
「畏まりました。行って参ります。和子様もご無理なさらずに」
諸々の物を詰めた風呂敷包みを抱えて、小走りに出て行く逸の後姿を門まで見送りながら、和子は逸の最後の一言を思い出している。
逸は、ひどく動転して、新兵衛の心配で泣き崩れんばかりの様子なのに、和子のことをも気遣った。なかなか出来ることではないだろう。
「しっかりね……」
口の中で呟き、屋敷の中に戻ろうと振り向いた途端、和子は立眩みでしゃがみこんだ。胸がひどくどきどきしている。逸には落ち着いた挙措を見せていた和子にとっても、それほどに主の新兵衛の負傷というのは衝撃なのであった。
ほんの三日四日前のことだった。
逸は息を切らして足を進めている。
ご無事のお戻りを、と逸は新兵衛を見送った。まさかこのようなことが起きるとは知らず、ただふと口にしただけの言葉だったのに。
色々なことを考えると、その場にくずおれて泣き濡れてしまいそうになる。(考えるな)と逸は自分を叱咤しながら、さらに足を速めた。
息切れがして、足を緩める。じわ、と脛が痺れるような感覚になる。
城が、左手に見えた。和子は報国寺は城の北側だと言っていたが、どこだろう。
通りがかりの坊主頭の少年に、
「卒爾ながらお尋ね申します。報国寺はどの方角でしょうか」
と訊いた。
「ただいま私もそこへ向かっております。付いていらっしゃい」
「ありがとうございます」
訊けば、その少年は報国寺に詰めている医師の弟子で、薬が足りなくなって取りに戻った帰りらしい。良く見ればそういう行李を携えていた。
良い者に出会ったと逸は思ったが、彼の足がさほど急いでいないことに、苛立ちを覚えた。
昨日のことを断片的に話しながら、医師の弟子の少年は何度も逸を振り返る。そんないとまがあるならもっと走れば良いのに、と逸が苛立っているのも知らぬげである。
少年は逸とあまり変わらないような年恰好であった。
覚えず、可愛らしい少女と道連れになったことに、彼は浮き立っている。
やがてたどり着いた報国寺は、騒々しかった。
大きな山門の下を、慌ただしく人が出入りしている。士分らしい人とすれ違うたびに、少年と共に逸も会釈をする。
「ときに、どなた様のお嬢様ですか?」
「諏訪町の水城家に奉公している者でございます。主は何処か、ご存知でしょうか」
「えっ? 奉公人?」
逸の品のある言葉つきや姿勢の正しい様子を見て、彼は勝手に上士の令嬢だと思い込んでいたらしい。
だが、そういわれてみれば令嬢にしてはお付の伴も連れずに一人で居るのは奇妙だった。しかし使用人であるならば頷けることである。
あちらの奥に居られます、と少年は逸に本堂の右手にある庫裏を示して言った。
「誠にありがとうございました」
失礼致します、と逸は礼をした後、足早にそちらへと向かった。
知らせが来たのは朝四つ前だっただろう。もう正午が近いようだった。
庫裏の入口で再び新兵衛の居る場所を聞き、廊下を足早に進む。
その部屋と思しきところから、誰とも知らぬ武士の姿が一つ出てきた。端に寄って会釈をし、すれ違ってから直ぐに、障子に手を掛けた。
「失礼致します。逸でございます」
声を掛けたものの、中から返事はない。障子を引き、中に膝を滑らせた。
薄暗い部屋の真ん中に、床が延べられている。
新兵衛は眠っているようだった。髷が解かれて、髪が散っている。
ひどい顔色で、目の周りが紫色に落ち窪んで見えた。唇にも色というものが無く、白く乾いている。
逸は呼吸が止まりそうになった。この顔色で、命を取り留めたというのは本当なのだろうか。どうして医師が付いていてくれないのだろうか。
はあ、と数回の深呼吸をして、逸は新兵衛の枕辺に近寄る。寝息が僅かに耳に届く。
唇をぎゅっと引き結んで、涙を耐える。
頭から頭巾を取り、懐に締まっていた白い手拭を頭に被り、袂から出した紐でたすきをきりりと掛ける。
廊下を、行き来する人の足音がする。
大きなことが起こり、この報国寺がその拠点なのだということは逸にも理解が出来た。
恐らく新兵衛のほかにも負傷者があるのだろう。だから医師が居ないのだと考えた。ならば医師が現れるまでは騒ぎ立てずに待つしかないのだろう。
ふと、新兵衛が僅かに目を開いたように見えた。
「あ、……」
逸は、いざり寄って何かを言おうとした。だが、胸が詰まって声が出なかった。
ほんの一瞬の後には、また彼の目は閉ざされた。
綺麗な晒を一反と、海老茶の縮緬の頭巾を持ってきている。それに、彼女の物らしい、しなやかな絹の紺の紬と、それに合う梔子色の帯、襟を替えてある襦袢、足袋まで携えている。
逸が現れると、和子はまず顔を洗ってくるように命じた。
「お城の方々も大勢詰めておられるはず。あまりな姿で参っては、水城家の恥ですよ」
「でも……、はい」そんな悠長なことをしていられないと逸は焦燥する。
動けないほどの傷を、新兵衛が負っていると聴いた。少しでも早く、彼に会いたい。命は取り留めたと聞いたがそれは本当だろうか。どんな傷を負ったのだろうか。どれほど痛かった事だろうか、それを思うと涙が湧いてくる。
逸が着物を替えている間に、和子は奥へ向かって、新兵衛の肌着や着替えの物を探して持ってきて、風呂敷の中に晒と共に包み込む。
「周りの方々にも粗相の無いように、お言いつけを良くお聞きになってね」
「はい」
「報国寺はわかりますか?」
「存じません。どの方角でしょうか? 道すがら、人に聞いて参ります」
「お城はわかりますね。その北の方角です」
話しながら、和子は逸に頭巾を被せた。
「泣いてはなりませんよ。旦那様をお願いしますね」
「畏まりました。行って参ります。和子様もご無理なさらずに」
諸々の物を詰めた風呂敷包みを抱えて、小走りに出て行く逸の後姿を門まで見送りながら、和子は逸の最後の一言を思い出している。
逸は、ひどく動転して、新兵衛の心配で泣き崩れんばかりの様子なのに、和子のことをも気遣った。なかなか出来ることではないだろう。
「しっかりね……」
口の中で呟き、屋敷の中に戻ろうと振り向いた途端、和子は立眩みでしゃがみこんだ。胸がひどくどきどきしている。逸には落ち着いた挙措を見せていた和子にとっても、それほどに主の新兵衛の負傷というのは衝撃なのであった。
ほんの三日四日前のことだった。
逸は息を切らして足を進めている。
ご無事のお戻りを、と逸は新兵衛を見送った。まさかこのようなことが起きるとは知らず、ただふと口にしただけの言葉だったのに。
色々なことを考えると、その場にくずおれて泣き濡れてしまいそうになる。(考えるな)と逸は自分を叱咤しながら、さらに足を速めた。
息切れがして、足を緩める。じわ、と脛が痺れるような感覚になる。
城が、左手に見えた。和子は報国寺は城の北側だと言っていたが、どこだろう。
通りがかりの坊主頭の少年に、
「卒爾ながらお尋ね申します。報国寺はどの方角でしょうか」
と訊いた。
「ただいま私もそこへ向かっております。付いていらっしゃい」
「ありがとうございます」
訊けば、その少年は報国寺に詰めている医師の弟子で、薬が足りなくなって取りに戻った帰りらしい。良く見ればそういう行李を携えていた。
良い者に出会ったと逸は思ったが、彼の足がさほど急いでいないことに、苛立ちを覚えた。
昨日のことを断片的に話しながら、医師の弟子の少年は何度も逸を振り返る。そんないとまがあるならもっと走れば良いのに、と逸が苛立っているのも知らぬげである。
少年は逸とあまり変わらないような年恰好であった。
覚えず、可愛らしい少女と道連れになったことに、彼は浮き立っている。
やがてたどり着いた報国寺は、騒々しかった。
大きな山門の下を、慌ただしく人が出入りしている。士分らしい人とすれ違うたびに、少年と共に逸も会釈をする。
「ときに、どなた様のお嬢様ですか?」
「諏訪町の水城家に奉公している者でございます。主は何処か、ご存知でしょうか」
「えっ? 奉公人?」
逸の品のある言葉つきや姿勢の正しい様子を見て、彼は勝手に上士の令嬢だと思い込んでいたらしい。
だが、そういわれてみれば令嬢にしてはお付の伴も連れずに一人で居るのは奇妙だった。しかし使用人であるならば頷けることである。
あちらの奥に居られます、と少年は逸に本堂の右手にある庫裏を示して言った。
「誠にありがとうございました」
失礼致します、と逸は礼をした後、足早にそちらへと向かった。
知らせが来たのは朝四つ前だっただろう。もう正午が近いようだった。
庫裏の入口で再び新兵衛の居る場所を聞き、廊下を足早に進む。
その部屋と思しきところから、誰とも知らぬ武士の姿が一つ出てきた。端に寄って会釈をし、すれ違ってから直ぐに、障子に手を掛けた。
「失礼致します。逸でございます」
声を掛けたものの、中から返事はない。障子を引き、中に膝を滑らせた。
薄暗い部屋の真ん中に、床が延べられている。
新兵衛は眠っているようだった。髷が解かれて、髪が散っている。
ひどい顔色で、目の周りが紫色に落ち窪んで見えた。唇にも色というものが無く、白く乾いている。
逸は呼吸が止まりそうになった。この顔色で、命を取り留めたというのは本当なのだろうか。どうして医師が付いていてくれないのだろうか。
はあ、と数回の深呼吸をして、逸は新兵衛の枕辺に近寄る。寝息が僅かに耳に届く。
唇をぎゅっと引き結んで、涙を耐える。
頭から頭巾を取り、懐に締まっていた白い手拭を頭に被り、袂から出した紐でたすきをきりりと掛ける。
廊下を、行き来する人の足音がする。
大きなことが起こり、この報国寺がその拠点なのだということは逸にも理解が出来た。
恐らく新兵衛のほかにも負傷者があるのだろう。だから医師が居ないのだと考えた。ならば医師が現れるまでは騒ぎ立てずに待つしかないのだろう。
ふと、新兵衛が僅かに目を開いたように見えた。
「あ、……」
逸は、いざり寄って何かを言おうとした。だが、胸が詰まって声が出なかった。
ほんの一瞬の後には、また彼の目は閉ざされた。
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