日照雨

春想亭 桜木春緒

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 ずるり、と新兵衛の背に回していた逸の腕が落ちた。
 乱れきった髪の中で、逸の半ば閉じた瞼の下からこめかみの方へ涙が汗と共に流れて落ちる。喘ぎが烈しく、唇を閉ざし得ないようである。
 呼吸の乱れは新兵衛も同じであった。薄紅色に染まった逸を眼下に見ながら、新兵衛も厚い胸を上下させている。首筋に汗が流れる気配がした。
 離れがたい心地であったが、逸の上からそっと退く。
 逸の肌に小刻みな震えが何度も疾ったのを見た。
 明るい外の光が僅かだが見える。
 逸は、また今朝も決まりの時刻にいねの処に行かれなかったことに気づき、落胆した。しかしすぐに動けそうもない。恨めしい眼差しだけを、新兵衛に向けた。
 肘をついてようやく身体を起こし、襟を開かれた肌着を寄せ、捲り上げられた腰巻を閉ざす。どちらの布地もどこか湿っている。そのことで逸は羞恥を感じた。
 まだ胸の鼓動が早い。反面、手足は思うように動かずに鈍い。
 その逸を、背中から新兵衛は胸に抱き寄せた。彼はまだ肌脱ぎのままだった。
「旦那さま、ひどい……」
 うなだれて逸は言う。このようなことが繰り返されれば、他の皆の信用をなくしてしまうと訴えた。
 そんな逸の生真面目さに新兵衛は胸が少し痛んだ。
 多分、逸は誰にも新兵衛に抱かれたことを知られていないと思っているのだろう。逸はまだそういう色めいた物事を恥じらい、穢れに感じるような年頃でもある。
「すまない」
 新兵衛は二重の意味で逸に謝る。既に用人の松尾には逸に手を付けたことを告げてしまっている。いねや留吉も、もう察しているだろう。
 もちろんそれは今後のことを考えての配慮であって、逸を貶めたわけではない。
 だが、今の事は、本当にすまないと思った。
 すっかり日が昇ってしまっている。目覚めたときはまだ暗かった。ずいぶんと長い時間をかけて逸に溺れていたのだと新兵衛は反省した。
 そんなつもりはなかったのに、結果的には逸の朝の仕事を懈怠させてしまった。
 それを逸は落胆して、悔いている。
「逸が悪いのではない……。そう嘆いてくれるな」
 萎れた逸の頭をそっと撫でながら新兵衛は言った。

 ふと、廊下に人の気配を感じた。
 逸はまだ気づいていない。
「少し待て」
 と言って、新兵衛は静かに逸を離し、肌を入れながら部屋の外へ出る。
 廊下に現れた新兵衛に、その場でいねは平伏した。しばし経ってあげた彼女の顔に咎めるものがある。
「逸は、悪くないのだ……」
 照れくさかったが、そこは言ってやらないと逸が可哀想だと新兵衛は思う。朝餉の支度に間に合わぬ、と逸はひどく抗っていたのに、引き寄せて離さなかったのは自分だ。詳しい説明は出来ないが、とにかく新兵衛のために逸が他の者から蔑まれるようなことだけは避けたい。
 朝食についても断った。新兵衛はいねに長屋へ下がるように命じ、急ぎ部屋に戻る。
 逸は部屋の隅にうずくまっていた。
「知れてしまったのですね…?」
 着物を抱えてうなだれている。消え入りそうなほどに恥らっていた。
 
 逸の後に、新兵衛は湯殿へ行き、冷たくなった残り湯で身体を流した。
 先になど、と遠慮する逸を諭して先に湯殿を使わせ、身体を清めて身形を整えた彼女が、お先に申し訳ありません、と言って新兵衛を呼びに来た。色めいた気配さえも洗い去ってしまった逸を、新兵衛は僅かに残念な気持ちで見た。
 手ぬぐいを被って、半端な長さの髪を避けていて、凛々しい。
 逸は、その時刻から始めるべき仕事から手を付ける。
 台所の水がめから古い水を捨て、新たな水を井戸から汲んでくる。重労働では有るが、必要なことだから仕方がない。それから掃除を始める。
 新兵衛の寝室に掃除のために入ったとき、些か気恥ずかしい気持ちになったが、まず襖も障子も開け放って、中に溜まった気を外へ出した。清々した心地になる。
 少し裾をたくし上げて、廊下の雑巾がけをする。汗が出た。
 いつもどおりに、と頭の中で言い聞かせるようにして働く。

 それから再び台所に行くと、近くの領地の百姓から届けられたらしい野菜が土間の筵の上に置かれている。いねが、それを種類ごとにより分けて笊に置いていた。
「井戸で洗ってまいります」
 と、逸は野菜の入った笊と、水場の脇に置いたたらいを取って、いねにそう言った。努めて笑顔を作る。
 いねの顔を見るのが恥ずかしくて辛い。消えてしまいたい気持ちであった。淫奔でふしだらな娘だと思われては居ないだろうかと不安になる。
 そんならお願いしようかね、といねは言った。いつもと変りのない態度だった。
 はい、と逸も普段と変わらない返事をすることが出来た。

 逸が外の光の中に出て行く後姿を眼を細めながら見送って、ほんのすこしいねは溜め息を吐く。
 いねの孫娘が嫁ぐために、その代わりとして孫よりも若い逸が雇われた。
 逸は手も足も細く、年寄りのようにやつれ果てて顔色の悪い少女だった。肩に届かないほどの斬髪で、着ている物もひどくみすぼらしく、どんな辛苦の中に居たものか、整った顔立ちは微笑み一つも浮かべたことがないように沈んで無表情だった。
 そんな風に愛想はなかったのだが、物腰や言葉遣いは上品で、無駄口をたたくこともなく、仕事の覚えは良かった。何より骨身を惜しまずに働く。その上に、働いた代価は自分の為に使うこともなくほとんど親元へ送ってしまうような孝行者だった。だからいねはすぐに逸に好感をもったものだ。
 この屋敷に入り、贅沢ではないものの、生い立つには充分な食餌を得て、逸は幽鬼のような姿から少しずつ抜け出して、人並みの少女の形に変わって行った。頬が豊かになり、血の色が差して、美しい笑顔をも見せるようになった。その変化に、いねは安堵さえ覚えたものだ。
 変わったと言えば、主である新兵衛もそうだ。
 いねは、新兵衛が生まれる前から水城家に居る。今は見上げるばかりに大きくなったが、それでもいねにとっては可愛い若様である。
 新兵衛にとって不幸な事件があってから、もう三年が経つ。美しく朗らかだった奥方を不慮の事故で失い、そのあとは病という事にされて出仕を止められ、半分隠居のような蟄居のような暮らしぶりになった。その上、あろうことかそんな新兵衛を狙う曲者が立て続けに現れるようなこともあった。
 怒声を上げたり行状を荒ませたりすることはなかったものの、それ以来、沈んだ顔色を晴らすことは絶えてしまった。負の感情を表に見せない性質で、それだけにいねにはひどく痛々しく思ったのである。
 沈鬱で変り映えのない日々に全てが停滞していた頃、いねと共に下働きをしていた孫娘が嫁ぐことになった。その孫にも新兵衛は過分に祝いをくれた。
 少しは晴れやかな気分になっていてくれたのであれば良いのだが、といねは思う。
 その後、逸が現れた。
 初めて逸を見たときに、その哀れに痩せた肢体と身形のみすぼらしさに新兵衛は驚き、憐憫を覚えたようなことを口にしていた。それからずっと、逸を気に掛けていたのは、いねも良く知っている。
 逸は彼の視線の先で、羽化するように日々美しくなった。
 それと時を同じくして新兵衛の表情に少しずつ明るさが点っていった。
 こうなったのは、お互いのために良かったのかもしれない。いねは、戸惑いながらも主の新兵衛と若い逸が睦みあうことを内心では祝福している。
 城下の噂では、屋敷の主がうっかり手を付けた下女がそれを嵩に本来の勤めを怠けるような話も多いのだが、今の態度を見る限り、逸にはそういう心配はなさそうである。親の正しい躾が伺える。
 逸は良い娘だといねは思っている。新兵衛もそう思ったのだろう。
 そのうち逸をしかるべき家に養女とする手続きを取って、新兵衛の後添いになって、先の奥方との間に授からなかった水城家の跡継ぎになる子供を産んでくれれば良い。逸は若い。長い将来にわたって子供をたくさん産んでくれれば、屋敷も賑やかになることだろう。
 そんな希望をいねは持った。用人の松尾もきっと賛成するに違いない。
 そうすれば、三年前から新兵衛に取り憑いた、暗い影から彼は抜け出してくれるだろう。昔ながらの温厚で明るい若様に戻ってくれるに違いない。

 逸が台所でのいねの仕事の手伝いを終えて、再び新兵衛の居室に向かう。
 廊下を歩いていると、庭先に人影がある。見覚えのあるその姿は、月に二度ほど訪れる貸し本屋の男だった。門で留吉に案内されて入ってきたのだろう。
 良く日に焼けた顔の中の白い歯が際立って爽やかな、良い笑顔の男だ。
 逸は彼に好感を持っている。それは新兵衛も同様なのだろう。彼が来ると、縁側で長く話し込んでいることが良くあるのだ。年恰好は新兵衛と同じくらいか少し上だろうと思われる。そんな年頃の近さも、新兵衛の気に染むのかもしれない、と逸は思う。
 新兵衛が貸し本屋と会話を弾ませるなら、それはとても良い事のように逸には思えた。逸は、新兵衛が寂しげにしているのを見るのが嫌で、彼がいつも笑顔でいてくれればそれが最も嬉しい。
 逸は貸し本屋に軽く会釈をすると、踵を返した。彼に出す茶を用意しなければならない。

「先日お預けした分はまとまりましたか?」
 貸し本屋の男が、縁側に腰をかけながら言う。
「暇をもてあましているからな」
 自嘲するように新兵衛が答える。す、と立ち上がり、綺麗に綴じられた書物を持って戻る。
 一瞥して、貸し本屋は「見事ですね。そのまま売りに出せそうだ」とにやりと笑った。
「手遊びには丁度よかった」
「……江戸のお方はもう峠を越えておられるはず」
「ほう、早いな」
「焦眉のことゆえ」
 本を間に、その内容に着いて語り合っているようでありながら、新兵衛は眉に緊張を走らせていた。

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