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ひどく後悔している様子の新兵衛を感じて、逸はむしろそのことが身体の痛みよりもずっと辛いことのように思えてならなくなった。
翌朝。
夜半のうちに、逸は体を清め、新兵衛にもたらされた出血の始末もした。寝間着も汚れた。普段の仕事を終えたら、その赤黒い染みを洗いなおそうと思っている。
かまどの火をおこし、湯を沸かして味噌汁を作る準備をする。米を炊くのはいねの仕事だ。
長屋のほうから、いねが、朝訪れる百姓から手に入れた根菜を携えてきていた。
今日の逸は、藍色の絣を着ている。色白の肌が、藍に映えた。
(うろたえては駄目)普段と変わらない言動を、と逸は心がける。ともすれば、ぐらりと座り込んでしまいそうな体の調子なのだが、それをいねや留吉、まして新兵衛には悟られたくない。
顔色を変えずに、新兵衛に朝食の給仕をできるだろうか。それが第一の心配であった。
「じゃ、逸。お願いしますよ」
と、何も知らないいねに言われ、逸は普段の通りに膳を提げて新兵衛の居間へと向かう。
ひどく長い道のりに感じた。耳の奥にとくとくと血の流れる音が聞こえる。まだ立ち居の中で、体に痛みが生じる。
居間の前に来て、深呼吸を三回繰り返した。
そしていつもどおり、挨拶をして、障子を開けた。
新兵衛は、文机の所に居る。彼も、逸の方を見ない。含羞を帯びて、逸に横顔だけを向けていた。
普段からの定位置に膳を据えるために、膝を付いた。その瞬間、逸は体の芯に痛みを覚え、息を詰めた。まさしく眼前の新兵衛に因って為された痛みだ。
逸が息を詰めた瞬間、ふと、新兵衛が振り向く。唇をかみ締めて、配膳をしている逸がいた。
(何と言葉を掛けようか)そのことに新兵衛は戸惑っている。だが何も思い浮かばぬまま、日常の習いの通り、食餌を摂る。味も感じずに咀嚼と嚥下をただ繰り返す。
逸も、新兵衛を見ない。
李のような唇を一文字に噛み締めて、そろそろと呼吸をしているだけだった。(何故、ご挨拶もできないの、私は)逸は、自らを叱咤するように考える。
それでもその頭の中の指示には、感情が従えなかった。叫びだしたいような心地だけがある。起床したときからずっと、うろたえまいと気を張っているのに、肝心のときに、逸は昨日の朝と同じ振る舞いをすることができなくなっていた。
あの暗闇の中の出来事など、何もなかったように、常と変わらない挨拶をすればよい。だが意に反して、逸は声を出すことができなかった。
声の変わりに、涙が出た。泣き声を立てるのでもなく、しゃくりあげるのでもなく、ただ逸の見開いた目から、とめどなく涙が流れている。頬にその水の流れを覚えた途端、逸は顔を伏せた。そのとき、ぱたりぱたりと、畳の上に涙が散った音がした。
その音で、ようやく新兵衛が逸の顔をまともに見た。
ただ黙って涙だけを零す逸が、可憐で痛々しい。その涙を喚起したのは新兵衛自身であろう。彼は逸にかける言葉を捜しあぐねた。
逸は俯いて、正座の膝を両手で掴みしめて、小刻みに震えながら、ただ目から涙を落としている。
主に対して、何一つ挨拶もせず口をきくこともせず、その場に居るのは失礼だろうと、逸は思う。何か言わなければと思うが、胸の辺りに重苦しい塊が痞えて声にならない。
いたたまれないが、その場を立ち去るという行動も不可能なほど、逸は身体がこわばっていることに気づいた。
その逸を見て、新兵衛は箸を膳に置き、逸に向けて膝を進めた。
「すまなかった…」
そっと、膝を握り締めている逸の手を握って、心底から彼は謝罪をした。
酷いことを為したという自覚が、胸中には悪酔いを誘う濃厚な酒精のように広がっている。
「…もし、もうこの家には居たくないと思うのなら、親の元へ帰ってもよい。相応のことはしよう。逸がそう望むなら、お前に殺されても仕方がないくらいだろう。私にはそれ以上に罪がある…。」
新兵衛の声を聴きながら、いまだ顔を上げ得ない逸なのだが、その言葉に反応したかほんの少しだけ首を横に振った。ぱたり、とまた涙が散った。
「本当にそう思っている。だがいま少しの間だけは生き永らえることを、逸にも許して欲しい。そのためになら、逸が望むだけの事をする。…金などで、許されることではないのは承知しているが、親元に戻っても困らぬだけのものを持たせよう。時期が来たら、私に恨みを晴らせばいい」
「おやめください」
切れ切れのか細い声で、逸が言う。
「そのように、考えてなどおりません」
「逸、遠慮など無用だ」
「遠慮などしていません。なんにも望みなどございません。家には戻れません!もう、何もおっしゃらないでください!」
決然とした激しい語気で言い、逸は顔を上げた。
新兵衛は、ぎくり、と体を引いて逸の手を離した。
逸の濡れた目には怒りが宿っていた。
その怒りの正体を新兵衛は悟っている。彼の狡さを、その目は責めていた。
新兵衛は、昨夜のことを悔やむべき過ちとして早く消化して楽になろうとしている。逸に許しを求め、ことの解決を逸の心に投げつけ任せようとしている彼の狡さを、彼女はきっと気づいて責めているのだ。
逸は、謝罪をした新兵衛の態度に不快を覚えた。まして、逸を目の前から遠ざけて、まるで逸の存在などなかったことにしようとしているらしい言動も腹立たしかった。
何もいらない、逸はそう思っている。
一つには、いくばくかのものを受け取ったとしても、親元に帰れば元の木阿弥になり、近いうちに身売りにいかねばならないことが目に見えている。そのようなことになれば、それを知った新兵衛は逸を援助しようとするだろう。
このことを盾に新兵衛から施しを受けるような立場になりたくないと思う意気地もあった。
もう一つには、逸は、新兵衛を憎んでなどいない。
にくからず思うからこそ、昨夜の事に対し後悔を顕わにし、許しを請うようでいて、逸を見えぬところに放り去ろうとするかのような新兵衛のその大人びた狡さに、痛いような怒りを覚えたのだ。
逸は、失礼します、といって新兵衛の膳を提げて去った。
身のうちが少し震えている。怒りではなく、悔いがひどく心の中に押し寄せている。
(旦那様は、本当にお優しい方なのに……)
昨夜のことを、逸に心から謝っていた。それを逸は知りながら、不快な思いをぶつけてしまった。去り際に見た、新兵衛の色濃い憂いに、心が痛む。
逸の生まれ育った貧しい領地では、身を売る話も、また奉公に出た先で主人に陵辱される話も、幼かった当時から耳にすることはまれではなかった。
いくばくかのものを持たされて奉公先を出されるのはまだましな話で、ふしだらであるときめつけられて、まるで野良猫のように追い払われたという話のほうが多かった。
それにくらべれば、新兵衛は誠実で限りなく優しいではないか。わずかばかりの彼の狡知をあの場で許せなかったことを逸は少し悔いた。
新兵衛に身を任せたことは怖く苦痛なことではあったが、逸には、怒りも悲しみもない。
だからこそ、昨夜の事を苦い思い出として忘れたがっているような新兵衛の言動に、何よりもひどく傷ついていた。
波立つ胸の中を抑えるように体を動かし、まるで何事もなかったように、逸は普段どおりに、屋敷の中の清掃や洗濯、繕い物などに従事した。
ただし、ほとんど日課になっていた、新兵衛の鍛錬を見るのを止めた。
雑念を振り払うように木刀を振り下ろす新兵衛は、逸が来ないことに物足りなさを感じながら、それも自らの行動の当然の結果だと、奥歯をかみ締めるのだった。
それからひと月。
逸は、新兵衛の単物を繕っている。そういう季節になったのだ。
逸の髪も伸びた。肩先よりも毛先が下になり、束ねた髪の先を手ぬぐいで包むようにしている。
その一月の間、どこか味気なくなった食事の給仕は、以前のままに逸が行っていたが、新兵衛は書物の整理に逸を呼ぶことはしなくなっていた。逸と彼の接点はただ食事のときのみになっていた。何くれと無く言葉を交わしていたことも忘れてしまったかのように、互いに口を開くこともなくなった。
そしてお互いに、その居心地の悪さには慣れてきていた。
そもそも下働きの小娘と二百石の主の距離感ならば、そういうものだろうと強いて考えるようになった。
夏めいてきたある日。
新兵衛の元に、昔の道場の先輩と後輩が連れ立って見舞いに訪れてきた。
座敷に上がることはなく、道場として改造してある奥の部屋の縁に、客の二人は腰をかけていた。
その二人に、徳利に入れて井戸で冷やしておいた麦湯を茶碗に汲み、逸が盆に載せて運んでいった。
「いかい、雑作をおかけする」
年配のほうの客が、逸をねぎらいながら、彼女に目を留める。
同じように会釈をしながら、年若い客も、少し違う色合いの眼差しで逸を見つめた。
髷の無い髪を奇異に見たのかと逸はすこし身を縮める。
「新兵衛、この娘ごは?」
「冬から雇っている者だが…?」
逸は、話題に上ることに恐縮しながら、盆を携えて後へさがり、正座してそっと頭を下げた。
「…可愛らしいな。青木殿が目を留めるも無理の無い」
「正二郎、そういう意味ではないぞ」
年配のほうは青木というらしい。彼は、若い正二郎という男の揶揄を、苦笑しながらとがめた。
「知人に似ているのだよ…。柴垣と、言わないか?そなた」
「恐れ入りますが、違います」
「ああ、ちがうな。あの人はなんと言う家に嫁いだか…。新兵衛は何故知らぬ?」
「雇い人については間に立ってくれた人に任せてあった…。逸、姓があるのか」
「申し訳…」
「咎めてはおらん」
「新兵衛殿のおっしゃりようがいささか厳しい。逸と申すか?若い娘には新兵衛殿の言葉は恐ろしかろうに、少し優しくおなりなさい」
正二郎という男は、愛嬌のある顔を新兵衛と交互に逸に向けて笑った。人を安心させる諧謔が、彼には備わっている。
逸もすこし安堵する思いで、小さく正二郎に向けて微笑んだ。
「畑野と申します。数ならぬ身分です」
ゆったりと微笑んだままの表情で、青木に向き直って、逸は姓を告げた。出身の土地の名をいい、それ以上は黙した。
青木は、膝を打って、そうであった、と言う。
「そうであった。…確か、二十年前の変事の際に連座して、そうであった。あの折は、幸枝殿も気の毒な、と内内で 話をしていたものだ。なに、家が近所であったのだよ。そなたに良く似た、綺麗な人だった」
逸は、陰影のある表情で微笑を作って、さようですか、と言った。青木が言った幸枝というのは、確かに逸の母親の名前である。
しかし、現在の境涯を青木は知らない。貧しさゆえに七人生んだ子供のうち三人を失い、生き残った子供達とともにようやく息をつくような暮らしを、その「昔は綺麗だった」という幸枝がしているとは思ってもいないだろう。
卑しからざる身なりで、いかにも鷹揚な風情をかもし出す青木の近所であったというからには、母もそれ相応の身の上だったのだろう。二十年前の変事、とは逸のまったく知らないことであったが、それが何であれ、両親にとっては思いもよらぬ転落であったのだろう。
現在の母の消息を、青木に尋ねられたくないと逸は思った。幸い、何かを察したらしい青木はその先を逸に問いかけようとはしなかった。
手紙でも送ることがあったら雇い主の家に青木三左衛門が来た、とでも書いてくれるといい、とだけ、彼は言った。
青木と逸が、逸の母親について話している間、正二郎の目が逸から離れなかったことが、新兵衛の心をひどく苛んだ。
ひどく、嫌な心地になっていた。
翌朝。
夜半のうちに、逸は体を清め、新兵衛にもたらされた出血の始末もした。寝間着も汚れた。普段の仕事を終えたら、その赤黒い染みを洗いなおそうと思っている。
かまどの火をおこし、湯を沸かして味噌汁を作る準備をする。米を炊くのはいねの仕事だ。
長屋のほうから、いねが、朝訪れる百姓から手に入れた根菜を携えてきていた。
今日の逸は、藍色の絣を着ている。色白の肌が、藍に映えた。
(うろたえては駄目)普段と変わらない言動を、と逸は心がける。ともすれば、ぐらりと座り込んでしまいそうな体の調子なのだが、それをいねや留吉、まして新兵衛には悟られたくない。
顔色を変えずに、新兵衛に朝食の給仕をできるだろうか。それが第一の心配であった。
「じゃ、逸。お願いしますよ」
と、何も知らないいねに言われ、逸は普段の通りに膳を提げて新兵衛の居間へと向かう。
ひどく長い道のりに感じた。耳の奥にとくとくと血の流れる音が聞こえる。まだ立ち居の中で、体に痛みが生じる。
居間の前に来て、深呼吸を三回繰り返した。
そしていつもどおり、挨拶をして、障子を開けた。
新兵衛は、文机の所に居る。彼も、逸の方を見ない。含羞を帯びて、逸に横顔だけを向けていた。
普段からの定位置に膳を据えるために、膝を付いた。その瞬間、逸は体の芯に痛みを覚え、息を詰めた。まさしく眼前の新兵衛に因って為された痛みだ。
逸が息を詰めた瞬間、ふと、新兵衛が振り向く。唇をかみ締めて、配膳をしている逸がいた。
(何と言葉を掛けようか)そのことに新兵衛は戸惑っている。だが何も思い浮かばぬまま、日常の習いの通り、食餌を摂る。味も感じずに咀嚼と嚥下をただ繰り返す。
逸も、新兵衛を見ない。
李のような唇を一文字に噛み締めて、そろそろと呼吸をしているだけだった。(何故、ご挨拶もできないの、私は)逸は、自らを叱咤するように考える。
それでもその頭の中の指示には、感情が従えなかった。叫びだしたいような心地だけがある。起床したときからずっと、うろたえまいと気を張っているのに、肝心のときに、逸は昨日の朝と同じ振る舞いをすることができなくなっていた。
あの暗闇の中の出来事など、何もなかったように、常と変わらない挨拶をすればよい。だが意に反して、逸は声を出すことができなかった。
声の変わりに、涙が出た。泣き声を立てるのでもなく、しゃくりあげるのでもなく、ただ逸の見開いた目から、とめどなく涙が流れている。頬にその水の流れを覚えた途端、逸は顔を伏せた。そのとき、ぱたりぱたりと、畳の上に涙が散った音がした。
その音で、ようやく新兵衛が逸の顔をまともに見た。
ただ黙って涙だけを零す逸が、可憐で痛々しい。その涙を喚起したのは新兵衛自身であろう。彼は逸にかける言葉を捜しあぐねた。
逸は俯いて、正座の膝を両手で掴みしめて、小刻みに震えながら、ただ目から涙を落としている。
主に対して、何一つ挨拶もせず口をきくこともせず、その場に居るのは失礼だろうと、逸は思う。何か言わなければと思うが、胸の辺りに重苦しい塊が痞えて声にならない。
いたたまれないが、その場を立ち去るという行動も不可能なほど、逸は身体がこわばっていることに気づいた。
その逸を見て、新兵衛は箸を膳に置き、逸に向けて膝を進めた。
「すまなかった…」
そっと、膝を握り締めている逸の手を握って、心底から彼は謝罪をした。
酷いことを為したという自覚が、胸中には悪酔いを誘う濃厚な酒精のように広がっている。
「…もし、もうこの家には居たくないと思うのなら、親の元へ帰ってもよい。相応のことはしよう。逸がそう望むなら、お前に殺されても仕方がないくらいだろう。私にはそれ以上に罪がある…。」
新兵衛の声を聴きながら、いまだ顔を上げ得ない逸なのだが、その言葉に反応したかほんの少しだけ首を横に振った。ぱたり、とまた涙が散った。
「本当にそう思っている。だがいま少しの間だけは生き永らえることを、逸にも許して欲しい。そのためになら、逸が望むだけの事をする。…金などで、許されることではないのは承知しているが、親元に戻っても困らぬだけのものを持たせよう。時期が来たら、私に恨みを晴らせばいい」
「おやめください」
切れ切れのか細い声で、逸が言う。
「そのように、考えてなどおりません」
「逸、遠慮など無用だ」
「遠慮などしていません。なんにも望みなどございません。家には戻れません!もう、何もおっしゃらないでください!」
決然とした激しい語気で言い、逸は顔を上げた。
新兵衛は、ぎくり、と体を引いて逸の手を離した。
逸の濡れた目には怒りが宿っていた。
その怒りの正体を新兵衛は悟っている。彼の狡さを、その目は責めていた。
新兵衛は、昨夜のことを悔やむべき過ちとして早く消化して楽になろうとしている。逸に許しを求め、ことの解決を逸の心に投げつけ任せようとしている彼の狡さを、彼女はきっと気づいて責めているのだ。
逸は、謝罪をした新兵衛の態度に不快を覚えた。まして、逸を目の前から遠ざけて、まるで逸の存在などなかったことにしようとしているらしい言動も腹立たしかった。
何もいらない、逸はそう思っている。
一つには、いくばくかのものを受け取ったとしても、親元に帰れば元の木阿弥になり、近いうちに身売りにいかねばならないことが目に見えている。そのようなことになれば、それを知った新兵衛は逸を援助しようとするだろう。
このことを盾に新兵衛から施しを受けるような立場になりたくないと思う意気地もあった。
もう一つには、逸は、新兵衛を憎んでなどいない。
にくからず思うからこそ、昨夜の事に対し後悔を顕わにし、許しを請うようでいて、逸を見えぬところに放り去ろうとするかのような新兵衛のその大人びた狡さに、痛いような怒りを覚えたのだ。
逸は、失礼します、といって新兵衛の膳を提げて去った。
身のうちが少し震えている。怒りではなく、悔いがひどく心の中に押し寄せている。
(旦那様は、本当にお優しい方なのに……)
昨夜のことを、逸に心から謝っていた。それを逸は知りながら、不快な思いをぶつけてしまった。去り際に見た、新兵衛の色濃い憂いに、心が痛む。
逸の生まれ育った貧しい領地では、身を売る話も、また奉公に出た先で主人に陵辱される話も、幼かった当時から耳にすることはまれではなかった。
いくばくかのものを持たされて奉公先を出されるのはまだましな話で、ふしだらであるときめつけられて、まるで野良猫のように追い払われたという話のほうが多かった。
それにくらべれば、新兵衛は誠実で限りなく優しいではないか。わずかばかりの彼の狡知をあの場で許せなかったことを逸は少し悔いた。
新兵衛に身を任せたことは怖く苦痛なことではあったが、逸には、怒りも悲しみもない。
だからこそ、昨夜の事を苦い思い出として忘れたがっているような新兵衛の言動に、何よりもひどく傷ついていた。
波立つ胸の中を抑えるように体を動かし、まるで何事もなかったように、逸は普段どおりに、屋敷の中の清掃や洗濯、繕い物などに従事した。
ただし、ほとんど日課になっていた、新兵衛の鍛錬を見るのを止めた。
雑念を振り払うように木刀を振り下ろす新兵衛は、逸が来ないことに物足りなさを感じながら、それも自らの行動の当然の結果だと、奥歯をかみ締めるのだった。
それからひと月。
逸は、新兵衛の単物を繕っている。そういう季節になったのだ。
逸の髪も伸びた。肩先よりも毛先が下になり、束ねた髪の先を手ぬぐいで包むようにしている。
その一月の間、どこか味気なくなった食事の給仕は、以前のままに逸が行っていたが、新兵衛は書物の整理に逸を呼ぶことはしなくなっていた。逸と彼の接点はただ食事のときのみになっていた。何くれと無く言葉を交わしていたことも忘れてしまったかのように、互いに口を開くこともなくなった。
そしてお互いに、その居心地の悪さには慣れてきていた。
そもそも下働きの小娘と二百石の主の距離感ならば、そういうものだろうと強いて考えるようになった。
夏めいてきたある日。
新兵衛の元に、昔の道場の先輩と後輩が連れ立って見舞いに訪れてきた。
座敷に上がることはなく、道場として改造してある奥の部屋の縁に、客の二人は腰をかけていた。
その二人に、徳利に入れて井戸で冷やしておいた麦湯を茶碗に汲み、逸が盆に載せて運んでいった。
「いかい、雑作をおかけする」
年配のほうの客が、逸をねぎらいながら、彼女に目を留める。
同じように会釈をしながら、年若い客も、少し違う色合いの眼差しで逸を見つめた。
髷の無い髪を奇異に見たのかと逸はすこし身を縮める。
「新兵衛、この娘ごは?」
「冬から雇っている者だが…?」
逸は、話題に上ることに恐縮しながら、盆を携えて後へさがり、正座してそっと頭を下げた。
「…可愛らしいな。青木殿が目を留めるも無理の無い」
「正二郎、そういう意味ではないぞ」
年配のほうは青木というらしい。彼は、若い正二郎という男の揶揄を、苦笑しながらとがめた。
「知人に似ているのだよ…。柴垣と、言わないか?そなた」
「恐れ入りますが、違います」
「ああ、ちがうな。あの人はなんと言う家に嫁いだか…。新兵衛は何故知らぬ?」
「雇い人については間に立ってくれた人に任せてあった…。逸、姓があるのか」
「申し訳…」
「咎めてはおらん」
「新兵衛殿のおっしゃりようがいささか厳しい。逸と申すか?若い娘には新兵衛殿の言葉は恐ろしかろうに、少し優しくおなりなさい」
正二郎という男は、愛嬌のある顔を新兵衛と交互に逸に向けて笑った。人を安心させる諧謔が、彼には備わっている。
逸もすこし安堵する思いで、小さく正二郎に向けて微笑んだ。
「畑野と申します。数ならぬ身分です」
ゆったりと微笑んだままの表情で、青木に向き直って、逸は姓を告げた。出身の土地の名をいい、それ以上は黙した。
青木は、膝を打って、そうであった、と言う。
「そうであった。…確か、二十年前の変事の際に連座して、そうであった。あの折は、幸枝殿も気の毒な、と内内で 話をしていたものだ。なに、家が近所であったのだよ。そなたに良く似た、綺麗な人だった」
逸は、陰影のある表情で微笑を作って、さようですか、と言った。青木が言った幸枝というのは、確かに逸の母親の名前である。
しかし、現在の境涯を青木は知らない。貧しさゆえに七人生んだ子供のうち三人を失い、生き残った子供達とともにようやく息をつくような暮らしを、その「昔は綺麗だった」という幸枝がしているとは思ってもいないだろう。
卑しからざる身なりで、いかにも鷹揚な風情をかもし出す青木の近所であったというからには、母もそれ相応の身の上だったのだろう。二十年前の変事、とは逸のまったく知らないことであったが、それが何であれ、両親にとっては思いもよらぬ転落であったのだろう。
現在の母の消息を、青木に尋ねられたくないと逸は思った。幸い、何かを察したらしい青木はその先を逸に問いかけようとはしなかった。
手紙でも送ることがあったら雇い主の家に青木三左衛門が来た、とでも書いてくれるといい、とだけ、彼は言った。
青木と逸が、逸の母親について話している間、正二郎の目が逸から離れなかったことが、新兵衛の心をひどく苛んだ。
ひどく、嫌な心地になっていた。
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