日照雨

春想亭 桜木春緒

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 逸、いつと読む。
 日ごろは逸と呼ばれるその娘は、逸子というのが本当の名前だった。

 初雪のちらつく城下の街に逸がやってきたのは、さる侍の屋敷に下働きとして奉公するためだ。

 彼女を連れているのは、その侍の家で門番兼下男をしている留吉と言う老人で、老人は逸を気遣わしげにときどき振り返る。風に吹かれて、逸の頬に髪が掛かる。髪は、顎より短かった。髷が結える長さでは到底ない。
 髪は、父に切られて売られたのだと言う。
 逸の母の幸枝は病床について長い。父親の畑野辰之助も決して丈夫な体ではない。
 逸は、5番目の子であった。禄の低い軽輩の家でその状況はそれこそ娘を売りに出さねばならぬ貧しさだ。
 逸の前には四人の子と、下には二人の弟妹があった。上から女、女、男、男、そして逸、弟、妹という順である。一番上の娘は早世、二番めの娘は先年ほぼ同輩の家に強く望まれて嫁ぎ、次に生まれた長男と、一番下の妹は昨年の冬に病で亡くなった。
 逸の父は、山深い土地の代官屋敷に勤め十二俵をもらう軽輩である。だから逸もその山深い里で生まれて育った。藩の経済も苦しいらしく、扶持米も滞り、その上に借り上げられ、生活はかつかつであった。そしてこすからい代官がさらに年貢をくすねた財で下のものに高利で金を貸してさらに搾り取るようなまねをしている。
 その土地の事実上の支配者である代官は、現在の執政である老職の藤崎一族の者だった。そういう代官の行状をむしろ奨励しているような上層部の者どもには、逸の父親はとうの昔から絶望している。
 藩で奨励されている漆などの換金できる作物の買取の値段も年々下がり、藩士の家族達がつむぐ生糸や織り上げる紬の布なども、その引取値は謂われなく下落を続けている。
 それがおよそ20年続いている。
 実際にそれが商品として売られるときの差額がどのくらいになるのかは、それを扱う商人と、彼らと結託している者以外は、全く知らないことだ。
 寝る間を惜しんで働き続けても、貧者はますます飢え、凍えている。
 母の医薬の代価のために、逸の家でも借財がかさんでいる。
 逸の家と同輩の家では、借財のかさんだ家の妻や娘が代官の口利きで密かに城下へ出て体を売っており、その上がりを代官が利息として取っているという。そのことを逸も十四歳になるころには少女の身ながら聞き知っていた。
 いずれ自分も城下へ行かなければならないのだろうと覚悟をしているうちに、年月が過ぎた。

 晩秋の頃、その覚悟を他家へ嫁いだ姉に話し、そのことは父にも伝わったらしい。そして父は、利息の支払日が近くなったある日、逸の髪を切り落とし、それを持って城下のかもじ屋に売りに行った。ついでに知人を通じて逸の奉公先を決めたらしい。
 利息を受け取りに来た代官の使いが、その日に限り「逸はどう育ったか」と言い、彼女を見たがった。城下に出すために品定めをしようというのはありありとわかる。
 父は、顎より短く切り取られた大童の髪を嘆く逸を呼び、その哀れな姿を使いの者に見せた。
「髪を売りましたので、このように見苦しき姿と相成り申した」
 と、彼は軽蔑をこめた眼差しで使いの者を見、さらに言い放った。
「逸はこのたび二百石の御使番、水城新兵衛様のお屋敷に奉公することに相成りました。支度金も頂戴しており、そのほうでは懸念は少なくなり申したな」

 水城新兵衛が逸を見て、その斬髪はやはり奇異だと感じた。彼の傍らで共に挨拶を受けている用人の松尾小四郎も同じ感想を持っただろう。
 今まで下働きとして働いていた下男の留吉の孫娘が嫁ぐことになったため、新兵衛の知人を通じて雇い入れることに決めたのが逸である。良く働いてくれるなら別に見た目を問うつもりは無かったが、それでも項にすら掛からぬ長さの髪は、新兵衛の眼には怪訝に映っていた。
「逸と申します」
 よろしくお使いください、という挨拶の声にも、表情にも、まもなく十六歳だと話に聞いていた年齢相応の弾みが無い。乾いていて、硬い。
 か細い顎や首、薄い肩など見ればその年齢よりも幼いようだが、強く引き結ばれた唇と、新兵衛に焦点を合わせて揺ぎ無い視線には聡明で大人びた静けさが漂う。
 やつれて顔色は悪いが、下働きの小娘としては、意外なほど端整な顔立ちであった。すこし悲しげな眉の線の下に切れ長の眼があり、睫毛が過分なほど生えていて、水を張ったような艶を帯びた黒目がちの眼差しを彩っている。水を含むようにふっくらした唇は小さく尖っているが、そのかわいらしさとは裏腹に、無駄に開かぬ意思をもって唇は硬く閉じられていた。
 あるいは武家の生まれか、と新兵衛は察した。下働きで雇われるような立場だとすれば、親は長く禄を離れた浪人か何かなのだろう。そのあたりは詮索しないほうが、先方のためでもある。問わないことにした。
 ただ、聡明であれば働きにも幅が出る。それは新兵衛や他にここで働く者達にとってもよいことではあるだろう。おおむね歓迎すべき使用人として、彼は逸を看た。
 それにしても身なりはひどい。髪が短いこともそうだが、着ている物もいったいいつ誰のために仕立てられたものなのか。かつては何かの色だったのかもしれないが、汚れ、洗いを繰り返しているうちに薄ぼんやりとした灰色のようなものになっていた。そして肩や袖には一向に色合いが合うとはいえないような褪せた柿色の継ぎが当たっている。とはいえ不潔ではない。ただ哀れみを憶えるようなみすぼらしさではあった。
 新兵衛は、過分に与えた三両という支度金を思い出している。
 どうやらその支度金は、逸の身支度のためではなく、彼女の家族のために使われてしまったらしい。
 だが、ほんの少しくらいは、街に出る娘のために使って、古着でも買ってやればよいのに、と見も知らぬ逸の親に対して小さな憤りを覚えた。

 藩の不況の折、二百石をもらう水城家も禄を借り上げられているが、懐はそれほど寂しくは無い。かといって豊かでもないが、金があった。
 亡くなった妻のおかげである。この春に三回忌を済ませた。
 妻は事故で亡くなった、と新兵衛は聞いている。藩主の次男が馬で撥ねたという。そのとき跡継ぎが同道していたという主席家老の藤崎からも見舞金が来た。それが合計で三百両。それゆえに金があった。
 異様に高額な見舞金は、何か裏があるように感じるが、それを詮索してはならぬという口止め料の意味もあるのだろう。
 新兵衛は妻の死後すぐより無役であるが、病ゆえの出仕の遠慮ということになっている。禄は、役料さえもそのままであった。そのように計らわれているらしい。
 役を退けられたことも、無役ながら収入がそのままのことも、家老が図っていることは読めている。
 新兵衛に、他人と立ち混じられたくない事情があるというわけだろう。
 貯えがあり、収入があり、そして仕事がないということは、勢い、新兵衛から外出の必要性を奪っていた。彼はまるで隠居か蟄居をしているようにほとんど家から出ない。
 水城新兵衛は三二歳になる。妻は、亡くなったとき二四歳だった。連れ添って五年目で、子供は無かった。
 親は新兵衛が妻を娶って三年のうちに相次いで亡くなっており、弟や姉妹は既に養子に出たり嫁いだりして同居していない。役もないために供周りを養う要もないということで、この生活になって直ぐに、不要の人員を屋敷から去らせた。
 今の水城家は、当主の新兵衛のほか、長屋に住む用人の松尾小四郎とその妻で病に伏せている和子、門番兼下男の留吉老人とその妻の老婢いね、そしてこのたび雇い入れた逸、だけが住んでいることになる。

 逸が働き出して二十日目。新兵衛は老婢のいねに金を渡し、逸の為に古着を購ってくるように命じた。
「旦那様からお渡しになればええのに。さぞ喜びましょうが」
 腰が曲がっていっそう小さくなったいねが、丈高い新兵衛を見上げて言う。
「逸は、ほんによう働く子じゃからな」
「いや、この間は本人に遣ったんだが、どうもそのまま親元へ届けてしまったらしい」
 新兵衛が困惑顔にそういうと、いねは深いため息をついていた。
「孝行なむすめじゃなぁ。ほんに」
 孫に爪の垢をせんじて遣らねばなるまいといねは軽口を叩いて笑いながら、新兵衛から金を受け取って請合った。
「天気がもっているうちに、行って来てくれ。ついでに温かな汁粉でも食べておいで」
「ははは。旦那様、汁粉ならわしがこさえたほうが旨いよう」
 陽気に言葉を返すいねを見送ってから、新兵衛は日課になっている薪割りをするために屋敷の裏に回った。
 薪割りは身体の鈍りがちな隠居生活にはもってこいの運動である。
 屋敷の裏の日陰には、先日うっすらと積もった雪がまだ残っていた。もう少し経てば地面が見えなくなるほどに雪がつもるだろう。
 新兵衛の薪割りも堂に入ったものだ。手際よく置いた薪を、ぱかりと一発で真っ二つに割ることが出来るようになった。白い息を吐きながら数本の薪を割るうちに、体から湯気を立てるほど、汗をかいていた。

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